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第21回東文研・ASNET共催セミナー「立達学園と開明書店―民国期知識人グループの一例として―」 NEW!!

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【報告】第21回東文研・ASNET共催セミナー
「立達学園と開明書店―民国期知識人グループの一例として―」

第21回東文研・ASNET共催セミナーが2010年12月9日(木)に開催されました。
以下、報告させていただきます。

日時:2010年12月9日(木)午後5時~6時
場所:東京大学東洋文化研究所 大会議室
テーマ:「立達学園と開明書店―民国期知識人グループの一例として―」
報告者:大野公賀(東京大学東洋文化研究所、特任准教授)
プロフィール
2001年4月-2003年3月 東京大学 人文社会系研究科(中国語中国文学)修士課程  
2003年4月-2006年3月 東京大学 人文社会系研究科(中国語中国文学)博士課程 
2006年4月-2009年3月 東京大学 人文社会系研究科(中国語中国文学)事務補佐
2009年4月-2010年9月 東京大学 人文社会系研究科(中国語中国文学)助教
2010年10月-現在 東京大学 東洋文化研究所 特任准教授
関連論文
・『中華民国期の豊子愷――新たなる市民倫理としての「生活の芸術」論』東京大学大学院人文社会系研究科博士論文ライブラリー、 BookPark、2009年8月。
・ 「1920年代および30年代上海における立達学園と開明書店」『津田塾大学紀要』No.42、2010年3月、307-335頁。


講演要旨
 1980年代半ば以降、中国では文芸史の見直しとともに、それまで毛沢東中心の中共史観により否定されてきた作家や作品、思潮も再評価されるようになった。そうした流れを受けて、1920年代から30年代にかけて中国各地の青少年や教育界に大きな影響を及ぼしながら、これまであまり論じられることのなかった立達学会の活動にも、近年ようやく光があてられるようになった。立達学会とは五四新文化運動の啓蒙思想の影響を受け、旧来の封建的な教育体制に反対し、新しい思想や文化の導入を意図して結成された同人組織である。本報告では、立達学会結成当時の二大活動基盤であった立達学園と開明書店に焦点をあて、従来は同一組織と認識されがちであった両者の相違について論じた。
 さて、立達学園はその名の示すとおり中等教育機関で、開明書店は出版社兼書店である。この業種の異なる二つの組織が立達学会を後援組織とした背景には、当時の教育界や出版業界の状況、また女性解放運動など、複雑な要素が存在する。両者の結成までの経緯を簡単に述べると、1920年代半ばに浙江省上虞の春暉中学の教員らが、理想教育の実現を目指して上海江湾に創立したのが立達学園であり、当時中国最大の老舗書店、商務印書館で『東方雑誌』や『婦女雑誌』などの編集に従事していた章錫琛が、女性解放運動に関する方針の違いから同社を退職し、同じく商務印書館に勤めていた弟と創設したのが開明書店である。
 立達学園は初め立達中学として、春暉中学を離れた匡互生、朱光潜、豊子愷の三名によって1925年2月に創設され、後に陶載良、練為章、夏丏尊、劉薫宇、沈仲九、銭夢渭が加わった。尚、春暉中学とは、浙江省の著名な教育家で、それまで浙江省立第一師範学校で校長を務めていた経亨頤が政治権力に介入されない、自由な教育を目指して設立した私立学校である。同校は優秀な教員を集め、新式の教育方針を採用したことで知られており、その名声は天津の名門校、南開中学と並んで、「北に南開、南に春暉」と称される程であった。同校は自由かつ民主的な校風の下、学生の自主性を重視することでも知られていた。また蔡元培や黄炎培、何香凝ら著名人による講演会がしばしば開催され、春暉中学は正に当時の最新思潮の揺籃とも言うべき存在であった。しかし、国民党の干渉は避けがたく、革新派教員と保守・国民党派教員の対立も次第に激化し、終には学生への処分をめぐる形で、匡互生ら上述の教員が退職するに至った。
 こうした経緯の下に設立された立達学園では学生の主体性を最も重視し、教員と学生は互いに一個の独立した人間として平等な関係にあるとされた。また立達学園では「人格修養、社会改善、文化促進、互助的生活の実行」を趣旨としていたが、これは創設者のほとんどが五四新文化運動の影響を受けた新時代の青年であったことと無縁ではない。尚、「立達」とは、『論語』の「巻第三 雍也第六―三〇」に由来する。近代西洋思想の影響を強く受けていた筈の彼らが、敢えて『論語』を典拠とした要因としては、当時中国に進出していた欧米列強や日本に対する批判、また西洋の文化や思想に対抗しうるものとしての中国伝統文化に対する再評価などが指摘されよう。
 尚、立達学会は立達中学とほぼ同時期の1925年3月に結成された支援組織である。「人格修養、学術研究、教育発展、社会改造」を設立の趣旨としており、立達学園のそれとの類似が認められる。会員互選の七名の常務委員(三年任期、再選可)と、委員会選出の主席一名(一年任期、再選可)がおり、1926年9月には機関誌『一般』を創刊した。同会の特徴としては、会員の専門領域や思想の多様性が指摘できる。専門領域は文学、芸術、哲学、理数系など、また思想は国民党員、共産党員、無政府主義者、エスペランティストなど、多岐にわたる。
 次に、開明書店について述べたい。上述のように、創設者の章錫琛は1912年から商務印書館で雑誌の編集に従事し、1921年からは『婦女雑誌』の編集主幹を務めていた。章は『婦女雑誌』のそれまでの保守的傾向を改め、女性解放を提唱する記事を多く掲載した。ところが、同誌の記事をめぐり、北京大学教授の陳百年との間に論争が生じると、章錫琛らの思想を以前から危険視していた商務印書館の上層部は同誌の事前検閲を決定した。章錫琛はこの処置に不満を覚え、辞表を提出したが受理されず、国文部への移籍となった。章はやむなく商務印書館に在籍したまま、同じく商務印書館に勤めていた鄭振鐸らと共同で1926年に雑誌『新女性』を創刊した。これはやがて商務印書館の知る所となり、章錫琛は解雇された。そこで、章は退職金を元手に婦女問題研究会の名義で同叢書の発行を始め、1926年に正式に開明書店を設立した。
 開明書店と立達学会の関係について言えば、まず章錫琛はじめ開明書店の設立関係者の多くは立達学会の会員であった。当初、開明書店は他にも婦女問題研究会、文学研究会などを後援組織としており、それぞれの機関誌である『一般』や『新女性』、『文学週報』、またそれぞれの叢書なども編集、出版していた。開明書店では、立達学園の教師が自ら学園で使用し、またそれを一般に向けて販売することで、その経済状況を改善する目的で教科書の作成、販売も行っていた。それが功を奏して、業績は順調に伸び、1929年には株式会社化し、また数年おきに増資をするまでに成長した。こうした変化にともない、それまでの同人出版的要素は次第に影を潜め、開明書店はより商業的組織へと転換した。その影響を受け、発行雑誌にも変化が生じた。例えば、女性解放に対する社会的関心が弱まったことから、『新女性』は廃刊となり、また読者対象の曖昧であった『一般』は青少年を対象とした『中学生』へと変わった。株式会社化と前後して、教科書の作成、販売においても、より商業性が追求されるようになった。1922年の「新学制」公布以降、出版社にとって教科書は非常に魅力的な市場となっていた。開明書店は『開明活葉文選』と林語堂編集『開明英文読本』により、教科書市場への参入に成功し、また国民党による教科書販売の認可を受けたことで、全国規模の大書店の仲間入りを果たした。これは国民党による教科書検定制度の容認と見なすことも可能であるが、開明書店が営利企業である以上、当然と言えば当然のことかもしれない。しかし一方、開明書店の経営に当初から深く関与していた葉聖陶の次の言葉が示すように、そこには開明書店としての抵抗精神が存在していた。

 開明は私営の書店であり、当然のことながら利益を上げねばならない。これは現在で言うところの経済的効果・利益の重視である。利益を上げずに赤字を出しては、書店はやっていけず閉店となり、これでは何の発展もありはしない。しかし開明書店はただ営利を追及するためだけではない。我々には為す所もあれば、為さざる所もある。為す所とは、書籍や雑誌の出版に際して、どうすれば読者に有益となるか、必ず考慮することである。為さざる所とは、読者にとって良い点がないことが明らかな場合や、更には有害な図書は絶対に出版しないことである。このようにすることは、現在で言うところの社会的効果・利益の考慮である。我々は経済的効果や利益を追求するために、社会的効果や利益を考慮しないということは、決してありえない。我々は決して読者の期待に背くようなことはしない。(1986年「開明60周年記念会」上での葉聖陶の発言。引用は、王知伊「葉聖陶先生編輯思想紀実」王知伊編著、前掲書『開明書店記事』16頁による)

 教科書市場への参入は、ある意味では開明書店が「立達精神」を保持するための手段であり、決断であったとも言えよう。開明書店は立達学会の趣旨「人格修養、学術研究、教育発展、社会改造」に忠実に、良心的な書籍や雑誌を出版し続けた。それは抗戦期に活動の中心を内地に移した時も変らず、同書店が1953年に青年出版社と合併して中国青年出版社となるまで続いた。
 ところで、開明書店で最もよく売れた本は林語堂編集『開明英文読本』である。大手の世界書局が同書を模倣、剽窃した教科書を出版したことから、林語堂と開明書店は世界書局を相手に訴訟を起こし、また上海の新聞各紙に抗議文を掲載するなど、法律とメディアを駆使して対抗し、勝訴にもちこんだ。この訴訟事件は新聞を通じて広く報じられ、それと平行して開明書店の名前も広く社会に浸透していった。『開明英文読本』のもたらした、思わぬ宣伝効果であった。
 また同書に次いで、よく売れたのがデ・アミーチス(De Amicis, Edomondo)著、夏丏尊訳『愛の教育』(原題“Cuore”)である。夏丏尊は当初、翻訳を商務印書館の『東方雑誌』に連載し、同社から文学研究会叢書として出版した後、1927年に版権を開明書店に移した。原著『クオーレ』は1866年にイタリアで出版されると、イタリア国内だけで四十版を重ね、十数ヶ国語に翻訳されて世界各国で好調な売れ行きを示した、当時の大ベストセラーである。しかし同書は「イタリア文学史のなかではその価値はほとんど評価されて」おらず、「イタリア王国の樹立において中心的な役割をはたした北イタリアのプチ・ブル的価値観を押しつけるものであるとか、過剰な愛国心に満ちている、という批判をはやくからうけて」いた。作者のデ・アミーチスは職業軍人として第三次イタリア独立戦争にも参加しており、同書は「パトスに訴えるさまざまなエピソードを羅列し、子供たちのクオーレ(こころ)をうごかすことで、リソルジメント(イタリア統一・独立:大野注)運動の価値観を次の世代をになう子供たちに伝えよう」という意図の下、執筆された。そのため『クオーレ』には「国民形成のさまざまなキー・ワード――愛国心・犠牲的精神・奉仕・友愛など――」が散りばめられていたが、それはこれら「新しい価値観の創造は、十九世紀イタリアの国民形成における至上課題であった」からである。(藤澤房俊『「クオーレ」の時代 近代イタリアの子供と国家』筑摩書房、1993年、1-5頁)
 しかし『クオーレ』に込められた、国民形成のための新しい価値観の創造という課題は、決してイタリアだけの問題ではなかった。列強が互いに鎬を削る中、各国は言語や教育による国民国家の形成と発展を目指していたのである。その際に利用されたのが、国家装置としての学校や軍隊であり、メディアである。また『クオーレ』には捨て子や児童労働、移民など、当時イタリアが抱えていた様々な社会問題も描かれているが、これらの問題やその要因とも言うべき経済的・社会的格差も世界各国に共通するものであった。このような時代背景があったからこそ『クオーレ』は世界的に流行したのであり、それは日本や中国においても例外ではなかった。夏丏尊は翻訳の理由として、同書を通じて、教師と学生あるいは学生同士が互いに信頼と愛情をもち、互いに助け合うような教育の実現を望んだと記しているが、そこにはまた国民国家建設への熱い願いもこめられていた。
 ここまで、立達学園と開明書店の設立経緯と活動について簡単に述べてきた。次に、それぞれの構成メンバーについて考察しておきたい。両者の母体とも言うべき立達学会の構成メンバーは、匡互生を中心とする教育関係者と、章錫琛を中心とする出版関係者という二つのグループに大別される。出版関係者の中には葉聖陶や胡愈之のように一時的に教職に就いた者もいたが、この二つのグループには一見、接点がないように見える。それを繋いだのは、各地の学校で教職に就く傍ら、文学研究会や婦女問題研究会などの活動を通じて、鄭振鐸や葉聖陶ら商務印書館の関係者とも交流のあった夏丏尊や豊子愷ではないかと思われる。事実、彼らは立達学園の教学や運営に携わりながらも、開明書店の編集業務でも重要な役割を果たしている。その他に彼らを結びつけた要因としては、出身地の共通性が指摘できる。会員を出身地別に分類すると、大部分が浙江省と江蘇省の出身者であることがわかる。同郷あるいは近隣の出身であることは、出身校や職場の一致にも繋がる。また立達学会員の多くは留学経験者であるが、その留学先は日本、特に東京高等師範学校への留学者が多い。その他の特徴としては、美術専攻者の多さが指摘できる。留学先や専攻の共通性が彼らを結び付け、また同時に同地での経験が彼らの思想を共通の方向に導いたと考えることも出来よう。また出身地や学校、職場などの共通性に加えて、彼らを強く結び付けたのは「人格修養、学術研究、教育発展、社会改造」という立達学会の趣旨であった。それを可能にしたのは、「それぞれの独特の嗜好」を活かして目的実現に協力する一方、互いにその「特性を発揮するように、互いに助け合う」という、立達学会の自由平等の精神であったとも言えよう。(「附録 立達学会及其事業」『一般』誕生号(1926年9月5日)154-155頁) 立達学園と開明書店は、こうした目的を実現するための活動基盤だったのである。
 以上、1930年代前半までの立達学園と開明書店について概略を述べた。立達学園と開明書店はその設立経緯や構成員などから、従来は立達学会を背景に持つ同一の組織として認識されることが多かった。しかし実際には1920年代後半以降、両者の性質は次第に変化し、その関係性も弱まっていった。
 最後に開明書店について少し補足したい。開明書店は1926年の創設以来、一貫して読者を啓蒙する姿勢を保持し、また読者の支持を得た書店である。抗戦期には開明同人のうち、夏丏尊ら一部が孤島上海に残った以外は、同人の多くが内陸部に避難した。このような分散状態にありながらも、開明書店は読者の要望に応える形で知識青年向けの雑誌の刊行を続けた。開明書店の存在と活動は我々に、当時、国民の多くが亡国の危機感を覚える中、啓蒙の重要性を意識し、啓蒙による国民の創生と国家の創出を希求した知識人グループとそこに救いを求めた知識青年が確実に、そして少なからず存在していたこと示しているのである。
[大野公賀]