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第17回東文研・ASNET共催セミナー「法・正義概念の再審理にむけて:イスラーム言説の利用にかかる女性の日常実践を事例に」

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【報告】第17回東文研・ASNET共催セミナー
「法・正義概念の再審理にむけて:イスラーム言説の利用にかかる女性の日常実践を事例に」

第17回東文研・ASNET共催セミナーが2010年10月28日(木)に開催されました。
以下、報告させていただきます。

日時:2010年10月28日(木)午後5時~6時
場所:東京大学東洋文化研究所 大会議室
テーマ:「法・正義概念の再審理にむけて:イスラーム言説の利用にかかる女性の日常実践を事例に」
報告者:嶺崎寛子(日本学術振興会特別研究員PD,東京大学東洋文化研究所)
専門:文化人類学、ジェンダー論、中東地域研究


講演要旨
 本報告では、イスラーム法の「生きられかた」をジェンダーの視座から読み解くことを通じて、我々の正義概念、法概念を逆照射し、その再審理を図ることを目指した。
 成文化された教義の体系であるシャリーアと、ムスリム個々人との関係性を考えるとき重要なのは、「生きられている宗教としてのイスラームは、交渉されるものとしてある」という事実である。シャリーアの規範と現実、法規定とその運用…それら、一見二項対立的に見えるものの交わるところで、イスラームは国家、ウラマー(イスラーム法学者)、宗教言説の担い手や受け手によって交渉され、書き直され、取捨選択され、再構築される。その過程にはジェンダーや国家、グローバル化といった、時代的・地域的文脈が刻印されている。
 発表者はそのような動態的な交渉が行われるミクロな場として、ファトワー(ウラマーが質問に答えて出す法的見解。法的効力は有しない)が出される現場や、女性説教師たちの勉強会に注目した。これらの具体例を読み解き、彼女らにとっての法や正義とはどういうものかを明らかにすることで、我々のジェンダー、正義、法概念の問い直しを試みるのが本報告の趣旨であった。
 しかし実際の報告では、法・正義概念の再審理よりも、ファトワーを出すNPO組織と、女性説教師の勉強会というフィールド調査で得た具体例の紹介に時間を割き、質問もまたそこに集中した。カイロに事務所を置き、電話でファトワーを出すエジプト初のNPO組織「イスラーム電話」に寄せられた1319本の電話、のべ2050件の質問を調査・分類した結果、質問者の72%が女性であり、ファトワーは女性により好まれる傾向があることを指摘した。全体として多い相談は、結婚生活、金銭問題、家族関係、恋愛などであった。男性の質問者の比率が高いのは、生命保険や破約の償い(夫婦喧嘩で、妻に対し離婚宣言をしたのち、それを取り消すことに伴う償い)などであった。その他、男女を問わず、質問者たちは何度も質問を繰り返す、手を変え品を変え質問するなどして、望み通りのファトワーを得るために様々な工夫を凝らしていたこと、それらの質問者の意図に、ウラマーが自覚的であったことを指摘した。
 「イスラーム電話」には、女性スタッフのみからなるクオリティ・コントロール部門がある。ここは音飛びや回答の数確認(3つの質問のうち2つにしか答えていないなど)など、技術的なチェックを目的に設置されたが、次第に彼女たちクオリティ・コントロール部門のスタッフは、ウラマーたちが女性蔑視や偏見に満ちたファトワーを出した場合に、それをウラマーに差し戻し、再回答を乞うようになっていった。イスラーム電話には女性のリピーターが多い。その一つの理由として、この質問者に知らされていないクオリティ・コントロール部門の存在がある可能性も指摘した。
質問者による積極的な交渉と、質問者とウラマーの双方向の交渉の結果が、ファトワーとして結実する様を、この事例から描き出した(注1)
 もう一つの事例、女性説教師の勉強会からは、女性たちがイスラーム言説を自分たちに合うようカスタマイズし、再/脱構築していたこと、彼女たちのイスラームにかかる法識字のレベルと、イスラーム言説を使いこなす程度は、学歴や衛星電話、ネットへのアクセスなど、彼女たちの持つ社会資本と比例していることを指摘した。都市の高学歴・上流階級出身の女性説教師および彼女の勉強会参加者は、女性たちの意見を反映したイスラーム言説そのものを構築しようとしていたことに比して、カイロ近郊農村の女性説教師とその参加者たちは、今そこにある女性に対する抑圧的な規範や価値観を、イスラーム言説を用いていかにはねのけるかという実践に特化していたことなど、利用における差についても紹介した(注2)
 公私二元論の枠組みを前提とする近代法は、私的領域における、ジェンダーにかかる紛争を問題化しにくい。日本において、私的領域における犯罪を法的に問題化できるようになったのは最近である。一方、イスラーム法は、近代法に比べて法のカヴァーする領域が非常に広く、家族間・男女間の権利義務を規定し、道徳律としても機能する。従ってムスリムの私的領域はイスラーム法に拘束される。イスラーム法は私的関係を規定する法として機能し、私的領域における犯罪や、ジェンダーにかかる紛争を問題化できるという特性を備えている。この特性が、女性たちがファトワーをはじめとするイスラーム言説を積極的に用いる背景にある。交渉の際、ファトワーは女性たちに合法性を与え、それによって女性たちを精神的・心理的にエンパワーメントし、彼女達の行動をシャリーアの権威によって裏書きする(注3)。宗教的であることと女性であることを、彼女たちは日々の交渉の中で肯定的に結び付けようとしている。
 イスラームに基づく、彼女たちにとっての「正義」や「平等」は我々のそれとは異なっている。正義を担保するために必要なものは、ローカルな文脈によって変わる。彼女たちが求める、普遍的人権論とは違うレベルの正義と平等を鏡として、我々の正義概念や平等概念を再審理すること。その道程の途中に、この発表はある。質疑応答でいただいた質問を生かし、今後も研究を進めていきたい。

(注1):「イスラーム電話」の詳細については拙稿「生活の中のイスラーム言説とジェンダー エジプト「イスラーム電話」にみるファトワーの社会的機能」『アジア・アフリカ言語文化研究』no.78、pp.5-41
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/56437/1/jaas078001_ful.pdf
および宗教情報センターのコラム「試験としての人生:ムスリムの生活とイスラーム」
http://www.circam.jp/circam/columns/backnum/001.html
を参照されたい。
(注2):女性説教師については以下の拙稿を参照されたい。「イスラーム言説に見るジェンダー戦略と権威―現代エジプトの女性説教師を事例にして―」、『ジェンダー研究』、お茶の水女子大学ジェンダー研究センター、12号、pp.77-91、2009年。
(注3):シャリーアをめぐる法と正義について、ここでは十分に触れられなかった。詳細は拙稿を参照されたい。「イスラーム法と女性――現代エジプトを事例として」竹村和子、義江明子編著『ジェンダー史叢書3 思想と文化』、2010年、明石書店。

追記
参加者の方々から、質疑応答時間にも、また会終了後にも多くの質問をいただきました。ファトワーの代金、彼女たちのジェンダー概念、正義概念のとらえどころのなさについて等々。研究上有益な刺激と視座をいただけました。このような機会を授けてくださったことに感謝します。特にASNETの池本幸生教授、安田佳代特任助教には大変お世話になりました。ありがとうございました。
[嶺崎寛子]