1.FORT


 その伝承の真偽はともかく、10世紀中葉にヒンドゥー勢力によって造営されたと推定されるこの大城砦は、奴隷王朝のイレートゥミシュの治世にムスリム勢力の拠るところとなったが、14世紀末葉から16世紀初頭の間に再びヒンドゥー勢力のトーマルTomar 勢力の拠点となり、さらにムガルのムスリム勢力によって奪い返されたが、1754年にはマラータ勢力の奪取するところとなった。この大城砦が持つその戦略的位置関係からみて、諸勢力が占拠の目標としたのは当然のことというべく、また中世史を通じて南北インドの交渉上の要衝としての歴史的使命を担ってきた。今日までその一部を残している城砦内の建造物の多くは、ムガル時代のヒンドゥーの軍将マーン・スィングMan Singh によって造られた。

 この大城砦への主な登り口は北東側であるが、城砦の頂上に至る間や城砦そのものにはいくつかのポル Pol(ダルワーザ、門)が設けられており、またその長大な城壁は、しばしばカーテン・ウオールなどと呼ばれれいるが、とくに入口から城砦に登る間のそれは、この大城砦の威容をアマストコロナク示していて堂々としている。門には、グワリオル、アーラムギーリーAlamgiri 、ヒンドラー Hindola 、ハティー Hathi 、バイラーオン Bhairaon 、ガネーシャGanesha 、ラクシュマーナ Lakshumana など多彩な名が付けられている。それぞれがその造営の時代に応じた造りと文様装飾などを備えており、この城砦の長期にわたるヒンドゥー、ムスリム時代の歴史と技術とを示す格好な遺産となっっている。この城砦はまた、19世紀のいわゆる大反乱に際しても、イギリス勢力とスィンディア Scindia 家との抗争の場となったことでも知られている。(荒松雄)



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