SASARAM 


 

 15世紀後半のデリーを支配したローディー朝(1451―1526年)の分家であるアフガン族出自のスール家は、ナルナウル一帯を統治した初代イブラヒーム・ハーン・スールにはじまり、その後の、2代ハサン・ハーン・スール、3代シェル・シャー・スール(1540―45年在位)、4代サリーム・シャー・スール(1545―1554年在位)の3人はガンジス川中流域のサーサラームに特異な墓建築を築いた。ハサン・ハーン・スールの墓建築は町の中にあり、その西郊外に湖に浮かぶシェール・シャーの墓建築、2キロほど北西にサリーム・シャーの未完の墓建築がある。(深見奈緒子)

 
→町の風景

 

 

1.SHER SHAH SUR (1545)

2.HASAN KHAN SUR (1535)

3.SALIM SHAH (16世紀半ば未完)

4.その他の墓建築


1.SHER SHAH SUR

[写真212]北東面全景 ムガル二代皇帝フマユーンを一時期デリーの王座から駆逐したスール朝のシェール・シャー(在位1540-45)の墓は、スール一族の墓所の多いサーサラームに残っている。「王墓とはどうあるべきかを示した」「インド全域のなかでも最も讃えられるべき遺蹟のひとつ」とまで評されるこの一六世紀中葉造営の墓建築は、ほぼ正方形の人口の湖の中央に造られており、北側の湖畔に造られたドームを頂き四方に入口を開く四角平面の入口の門と湖をよぎる長い通路でつながれている。P.ブラウンはこの墓建築造営の環境をトゥグルカーバード大城砦の城外に造られたムハンマド・ビン・トゥグルクの墓と比べているが、この湖上の墓建築そのものに至る長い通路も、雨季には水の上に浮かぶかたちとなるトゥグルク朝創始者の墓とよく似ている。(荒松雄)

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2.HASAN KHAN SUR

拡大してみる シェール・シャー・スールの父ハサン・ハーンは、バハロール・シャー・ローディー時代にビハールで活躍したイブラーヒーム・ハーンの子で、シカンダル・ローディーの治下のジョゥンプルでアフガン人としての勢力を拡げ、サーサラーム・パルガナーの地を与えられた。カリンジャルKalinjarの戦いで殺された彼の四周に囲壁を巡らす墓は、他のスール建築と同じく1550年代以前にパンジャーブ人アリワール・ハーンAliwarKhanの設計によるもので、この卓越した建築家の初期、おそらくは1535年頃の造営と推定されている。その構造と様式において、他のスール朝期造営の建造物と同じく、サイイド、ローディー朝時代に首都デリーで造営された墓建築その他と共通するところが多い。P.ブラウンはのちのスール朝時代の建造物とくらべてこの墓建築自体の未熟さに触れている。(荒松雄)

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3.SALIM SHAH

拡大してみる この墓建築は今では廃墟となっているが、父のシェール・シャーの壮大な墓と同じく湖水の上に浮かぶかたちで構想されたものである。低い基壇の上に造られたこの墓建築の規模はかなりのものがあったと推定されるが、おそらくは造営の途中で放棄されたものと考えられている。今では入口のアーチを形成する部分とわずかな壁体が現存する。このアーチがかもしだすある種の儚さに、デリーの覇権を失いアフガン勢力没落の歴史の主人公となったこのスール朝第三代の君主の生涯がいかにも象徴されているように感じたのは、はたして私だけの感傷であろうか。(荒松雄)

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4.その他の墓建築

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