イラン出張レポート
「現代イスラーム世界の動態的研究」研究班5b・研究グループW

イランの歴史的建造物、宗教的建造物の保存状況に関する調査


深見奈緒子
日程:1998年8月27日から9月28日

今回の調査には3つの課題があった。
 

  1. イスファハーンにあるイスラーム宗教建築遺構悉皆調査の補充、
  2. カーシャーンにおける伝統的住宅の調査、
  3. アゼルバイジャン地方および西イランの踏査。


なお1.については1994、5年の夏におこなったイスファハーンの現存モスク、マドラサ、廟の調査の継続調査である。また、1.と2.に関しては東京都立大学工学部大学院建築学専攻の修士課程に在学するソレマニエ貴実也さんと協力した調査であった。

イスファハーンにおいては、文化財保存事務所(ミラーセ・ファルハンギー)で事務所長のカーミヤビー氏と面会し、サファヴィー朝建築の修理を専門とするラヒミヤーン氏、およびパルディス大学で保存修復学科に在籍する学生イラワニー氏の案内で市内の文化財局所有および保存工事中の住宅建築をまわることができた。また、文化財保存事務所の紹介でジョルファにあるパルディス大学の保存修復学科のペドラーム教授に面会し、大学校舎となっている保存住宅を案内していただいた。文化財保存の直接の担当者ということもあってこまかな建築用語や文化財保存の実情を聞き取ることができた。本来はイスラーム宗教建築物の落ち穂拾いが調査の目的であったが、文化財保存事務所の管理下にある住宅建築の調査が充実し、思わぬ方向へと展開した。
以下、今回初めて調査した建築について前回までイスファハーンにおいて調査対象としていたザヤンデ・ルード北岸と、今回初めて調査対象としたザヤンデ・ルード南岸にわけ、写真をまじえながらて紹介する。
 

A.ザヤンデ・ルード北岸:建物種別順、建設年代順に記す。

A−1.モスクの調査



マスジデ・ゴトービエ(前回の調査では内部に入ること不可、再調査):中庭まわりにはサファヴィー朝期の遺構がのこるが、南辺にある礼拝室は19世紀に改修を受け、北辺のシャベスターンの付加もその頃のものと観察された。サファヴィー朝期の新市街に建設された中規模のモスクである。なお1543年創建のインスクリプションの残るタイル製入口はチェヘル・ソトゥーンに移築され、現在は新たな入口が作られている。
 


マスジデ・マクスード・ベイク(再調査):王の広場近くにある1602年創建の小規模モスク。タイル製のムカルナス入口をはいると小さな長方形中庭にでる。中庭廻りには近年の改装が見られた。その南辺に浅いドームの載る礼拝室があり、17世紀のモザイクタイルのミヒラーブが残る。中庭の西辺室内に、書道家ミール・イマードの墓石がある。


トウヒード・ハーネ(現在パルディス大学所有)モスクではなく本来はサファヴィー朝宮殿区域内にたつ神秘主義教団の建物であったが、カージャール朝期に監獄として使われ、現在はパルディス大学の図書館棟の大教室に改装されている。建物が矩形の中庭を取り囲み、その中央の基壇上にたつ。平面は12角形の建築で、内部はドームをいただく大空間となる。現在は残響防止のために上部に幕が張られ固定椅子がすえつけられている。サファヴィー朝期の集中式の建築は珍しい存在である。
ほかにモスクでは、マスジデ・ノウ、マスジデ・ハキームを再訪し、不足写真をとった。
 

A−2.マドラサの調査



マドラセ・イスマイリーエ・ガスル・ムンシー(マドラサとして使用25人程度のアフガン人学生を収容):王の広場から南東に位置するバールート・コウブハー通りに面するサファヴィー朝期のマドラサ。中庭は一辺10m程の正方形である。建物の東辺中央に入口があり、その両脇に2階への階段がある。中庭の西辺には大教室があり、その半地下はシャベスターンとなる。中庭の北辺と南辺は2層の居室群で、居室数は20室程度。
 


マドラセ・ミルザ・ホセイン(前回の調査では内部に入ること不可、再調査):1688年創建のマドラサで居室数は26個である。居室は位置によって多少の差異はあるものの、一般的には居室幅は3m程度で、各々中庭に向って開く前室(奥行1.5m)、天井の高い中室(奥行4m)、ロフトのある後室(奥行1.5m)の3室構成であった。後室には暖炉があり、ホルーサキとよばれる鶏の形をした火力調節器がのこっていた。前室と柱室および中室と後室の間には木製扉があり、象牙色のペンキで上塗りされていた。ペンキの下から矩形の格子細工のなかに古い色付きガラスがのぞいていた。
 


マドラセ・バーゲリーエ(前回の調査では廟だけを対象、今回マドラサ部分再調査):中庭に鬱蒼とチェナールが繁り、短辺をナハレ・ビードアーバードが貫流する。長辺にあるイーワーンの背後の先生の部屋には、トング・ボリーとよばれる壷型の壁面装飾がのこっていた。また、リザ・ゴロンベクのカタログにあがる1479年建立とされる廟は修理工時が済み新たなドームが架けられ地下玄室にいたるまですべて白塗りされていた。
 

マドラセ・ミルザ・マフディー(6、7年前に道路拡大のため破却):18世紀後期の創建。現在非現存で、位置を確認した。鉄筋にて建設工事中。

ほかにマドラサでは、マドラセ・モッラー・アブドッラーとマドラセ・ジャッデ・ボゾルグを再調査し、不足する写真を撮影した。

A−3.廟の調査



シャー・シャハン廟(前回廟の内部に入れなかったため再調査):1446年建立という廟の修理は完成し、一部スタッコの壁画は残されているものの、腰壁には新たなタイルが張られ、壁面は白塗りされ稜線は青い線がひかれていた。工事担当者より、古いタイルは傷みがひどくほとんど使えず新たなタイルへと変更した旨を聞いた。
廟では、そのほかにイマームザーデ・イスマイール、イマームザーデ・アーマッド、ハルン・ヴィラヤ廟、ダルベ・イマームを再訪し、写真撮影を行った。

A−4.住宅などの調査



サファヴィー朝の宮殿(現在ウーレイー家居住):本来はおおきな庭園の南辺に建てられた建築で中央のイーワーンに関して対称な平面をもっていたらしい。現在イーワーンが通路となり、東半分はウーレーイー氏が所有し、西半分は倉庫となっている。中央イーワーンにはサファヴィー朝期特有のムカルナスが残り、そこに続く部屋の天井にも彩色がのこっている。トクチー門の西側に当る部分で1924年のサイイド・レザー・ハーンの地図には庭園の記しが書き込まれている。

タラーリ・アシュラーフ(現在は装飾美術館):本来はサファヴィー朝期の宮殿建築であったが現状では中庭廻りが美術館に改装されている。写真撮影は不可で、オリジナルな部分が残るシャー・ネシーンにいれてもらう事はできなかった。文化財保存事務所の管轄。
 


イマーム・ジョメー邸(現在文化財保存事務所所有):工事は休止状態で、荒涼としている。文化財保存事務所の技術者の話によれば、イラン革命の直後ここにバハイー教徒の首領格の人物が幽閉されていた時に周囲の住民による打ち壊しがあり、さらにイラン・イラク戦争の爆撃の余波がこの建物を襲い、単なる老朽化ではなく人為的にこの建物は壊滅状態へとみちびかれたという。3つの中庭が接合し、南東のもの(写真)はサファヴィー朝期に属する。
 


シェイフ・バハイー邸(現在ジャラーリー家居住):ジャラーリー氏は4年前に傷んだこの家を購入し、瀟洒に修理改装し居住している。複雑な歴史を持つ住宅らしく、東辺はサファヴィー朝期(写真)、北辺はカージャール朝期、南辺はカージャール朝期の部屋があり西辺は壁でふさがれている。なお、北辺地下室からはセルジューク朝期の遺構が発掘されている。本来は南側の家とつながっていたという。
 


ハギーギー邸(現在パルディス大学の施設)ザンド朝期の建物といわれる。修理工事は完成し、部屋には不釣り合いな学生用の机や椅子が備えられている。西、東辺の平天井の中央室、北辺の曲面天井(写真)の3つの部屋はステンドグラスの入った木製揚げ戸を持ち、壁面は花鳥紋様で華やかに彩色される。
 


シェイフル・イスラーム邸(現在文化財事務所にて修理工事中)カージャール朝期の建築といわれる。かなり広い中庭(20×30m)の南辺に大きなターラールのある住宅で本来はこの部屋の背後にも部屋が続いていたらしい。中庭の北辺にもオロシー(揚げ戸)の入った部屋がある。現在はターラールのムカルナス剥落防止工事中。
 


シャー・シャハン邸(現在居住用)小規模な中庭(10×7.5m)の北辺と東辺に立派な部屋が取り付く。各室がそれぞれ嗜好を凝らした内装となり、金張りの間(写真)、ヨーロッパ絵画の間、伝統的花鳥紋様の間、鏡の間とでも呼びたくなるように変化に富んでいる。現在シャー・シャハン氏老夫婦が居住。

ガズヴィニーハー邸(現在文化財保存事務所に改装)シャー・シャハン廟前の小広場(サヘ)に面する住宅でイスファハーンの旧市街地内のほかの住宅に比べるとかなり中庭面が低い。中庭は3個ありいずれもカージャール朝期の建築。
タラーリ・アシュラーフの北隣(現在は現代美術博物館)カージャール朝期の宮殿を改装したもの。
 

B.

ザヤンデ・ルード南岸においては、ジョルファ、タフティプーラッド、ギャブラバードヘ赴いた。ギャブラバードには太い自動車道路が貫通し中層のアパートがたち、昔日の面影を探すことはできなかった。ギャブラバードの東端ではイスファハーン改造計画の一環として立体交差の巨大な橋を建設中であった。タフティ・プーラッドは、現在も墓地として使用され、新たな住宅は造られているが高い建物は建設されておらず、墓参りの人に多くであった。ババ・ルクニ・アッディン廟、ナジャフィー廟、アガ・ホセイン・ホンサリー廟(写真)、タキエ・ハジ・ハーヌム・アミン、タキエ・ミール・ムハンマド・イスマイル・ハートゥーン・アーバーディー、マスジディ・ルクニウルムルクの写真撮影を行った。いくつかの廟では奇蹟を信じて善男善女が祈りに余念がないようすであった。タフティ・プーラッドの西側のサアーダットアーバードでは大規模なモスク複合体を建設中であった。
ジョルファでは、サファヴィー朝期のアルメニア人の住宅であるダヴィデ邸(昔はバールソフ家所有、現在大学校舎)とスークヤース邸(写真)を見学した。ダヴィデ邸は南北に長い中庭の北側に三部構成の部屋があり、西南隅のナレンジェスターンと呼ばれる小中庭にはサファヴィー朝期のものとされるオロシーがのこっている。スークヤース邸は南北に長い中庭の南辺に建築がたち、さらに南側に裏庭をもつという2面の庭に向って開く形式で、クシュク形式と呼ばれていた。

カーシャーンでは文化財保存事務所長のアミニヤーン氏と面会し、文化財事務所および市の保存の仕事を請け負うファラハニー氏の案内によってカーシャーン市内のカージャール朝期建立の住宅20棟を調査した。カーシャーンの伝統的住宅はソレイマニエ貴実也さんの研究テーマで、筆者は実測等の手伝いをした。住宅および都市施設の報告は彼女の研究に待つこととして、それ以外に気づいた点を記す。
文化財保存事務所には古いタイルやテラコッタがおいてあり、近郊のヌーシュ・アーバードのジャーミからでてきたという三角形のテラコッタ(おそらく11世紀のもの、写真)、市内のイマームザーデ・ゴルチェガーネから出土したというラスター彩の八点星タイル(おそらく14世紀初頭のもの)などを写真撮影することができた。

カールガーへ・アーバームでは錦織、ビロード、ギリム、絹布を熟練工が織っている。この伝統工芸展示場はカージャール朝期創建で15年ほど前まで営業していたというシャルバヒーの工場を買い上げ改装したものである。伝統的建造物保存の一環として文化財保存事務所のてこ入れで5ヶ月前に修理が完成したとのことであった。

イマームザーデ・チェヘル・ドフタレン(写真)、タージ・アッディン廟、イマームザーデ・ミールネシャーンなどは従来の文献にドーム装飾に関する報告は見られない。しかしこれらの建物の内部はイル・ハン朝からティムール朝期に属する重要な遺構である事が推察された。この事についてはアミニヤーン氏に伺う機会を得なかったのがおしまれる。
なお、カーシャーンの文化財事務所長のアミニヤーン氏の口添えによって、イスファハーン州においてグルペイガン、サラヴァール、ヴァネシャーン、ガムサール、マーラク、アビアネ、ナタンズ、アルディスタン、ザワレ、ナイーン、ムハンマディエにある歴史的建造物を円滑に訪問し、写真撮影することができた。

最後に、アゼルバイジャンおよび西イランでは、イスラーム時代以前の遺跡もまじえ浅く広く駆け足の調査旅行であった。訪問都市および遺跡は以下の通りである。ガズヴィン、サミラン、アルダービル、タブリーズ、マーランド、マクー、ウルミエ、ハサン・ルー、タフティ・ソレイマン、ターキ・ブスタン、カンガヴァール、ヌーシージャン、スサ、ハフト・テペ、チョガ・ザンビル。
なお、テヘラン考古学博物館はイスラーム時代の新館を増築し、イスラーム時代の展示品については広い館内に時代順、技法別の展示し、工夫の跡が伺われた。ただ元来あった場所が分かる展示品については、特にタイルやミヒラーブあるいは建築部品などについては古い写真や平面図など交えてもう少し建築的な展示を心がけていただければと思った。建築の部品を美術品として博物館に収蔵することは、現地に放置しそのまま朽ち果ててしまう危機から救う意味では有用な手段であるが、建築という土地と離れることができない芸術との関わりへの配慮が必要となるであろう。