研究報告:「建築とパトロン」
(文責:深見 奈緒子)
異端の王、アケナテン(B.C.1350-1334年)による革命と混乱の時代が収束し、エジプトは再興の道を歩み始めた。これを強力に推し進めた人物が、王家の血をひかず将軍から王に登りつめたホルエムヘブであり、それは彼の指名によって王となったラメセス1世へと引き継がれた。すなわちラメセス1世に続くラメセス王朝もまた王家の正当な血統ではなかったことがわかる。ラメセス1世の息子セティ1世(B.C.1291-1278年)、さらに続くラメセス2世(B.C.1279-1212年)の時代には歴代の王名表が作成され、そこに自身の名が付加されるなど、王としての正当性を主張するかのような現象が認められる。建造物にもそれは復古的な様式の採用という形で表れ、好例としてがギザのカフラー王(B.C.2558-2532年)の葬祭殿を強く意識して建てられたセティ1世によるアビュドスのオシレイオンが挙げられる。彼らが範とした時代は必ずしも明瞭ではないが、ラメセス2世の建造物の中にアメンヘテプ3世(B.C.1386-1349年)の影響を強く受けている物があるという指摘は注目されよう。こうした復古主義的な活動に、王の命を受けて歴史研究を行い、古建造物の修復まで手がけたとされるカエムワセト王子が大きな役割を演じたと想像されるが、詳細は不明である。
もう一つラメセス2世の建築として、エジプト全土に展開した王に関わる建造物の数の膨大さと彫像の巨大性を挙げることができる。数の達成と引き替えに作業の効率化が図られ、それが建造物の質の低下を招いたと考えられている。しかし、それが王に直接関わる建築活動であったために、技術の広がりや標準化が容易に成し遂げられたというもう一つの面を見落としてはならない。王の建築活動を通して周辺の道路網や交易が整備され、合理的な施工方法が高度に確立していったに違いなく、それは国家の標準化と底上げが図られたことを意味するからである。
ラメセス2世の治世は67年程度と考えられ、これは第6王朝(古王国時代)のペピ2世の約94年(B.C.2278-2184年)に次ぐ長さである。どちらもその後、衰退の道を辿っていくわけであるが、ペピ2世の場合、衰退というよりは古王国時代の終焉を招いたとよぶ方が適切で、一気に群雄割拠の混乱期へと突き進んだ。一方、ラメセス2世時代以後は、衰退の歩みは緩く、王墓も継続して造営された。また今日メディーナト・ハブとして知られるラメセス3世葬祭殿のような大規模な建造物も築かれ、ペピ2世後のエジプトとは状況がやや異なる。これはラメセス2世時代の活発な建築活動によって都市が整備され、以後はこれを維持していけばよいという程度にまで成熟したためと推測される。その意味でラメセス2世は国家の安定と基盤を確立し、底上げを図った大王であり、その視点でこの時代の研究が深化することが望まれる。
報告では、オスマン朝の15世紀後半のスルタン、メフメト2世がイスタンブルで行った建設活動がとりあげられた。まず、城壁・宮殿の整備、旧教会施設の利用、商業施設・新モスク施設群の建造、というイスタンブル再建時にメフメト2世が行った建設活動の概要が年代順に俯瞰されたのち、その特徴として次の3点が指摘された。
●『リサーレ』:概要
資料:オスマン語文献をもとに英訳したハワード・クレーンの書の和訳を通じて研究を行う。
分類:大別すれば(メフメト・アーの)伝記的記録として位置付けられるが、他に単位体系、用語集の内容も付け加えられている。
形式:2つ折のトルコ紙であり、内容に応じて黒と赤のインクにより記述されている。
著者:著者のジャフェル・エフェンディはメフメト・アーと主従関係にもあったことがあり、建築についての知識はかなり詳しい。
内容:序文と本文15章からなり、伝記・単位体系・用語集がほぼ同程度の分量で記述されている。
記述:各章の冒頭に概要があり、その後本文が続く。随時本文中に詩が挿入されている。
●『リサーレ』:メフメト・アーの生涯
イエニチェリ新兵として徴集されてから主任建築家になるまで、宮廷組織から軍事組織を通じて出世していく経緯が詳細に記述されている。
●『リサーレ』:カーバ神殿の修復
年表:カーバ神殿ができてからメフメト・アーが修復を行う過程までの歴史が記述されている。
寸法:本文の記述内容と実際の建物寸法との比較により、肘尺が70〜75cmであることが推測できた。
その他の情報:カーバ神殿に関わる名称などの情報が得られる。
●『リサーレ』:スルタン・アフメト・モスクの建設
本文より読み取れる史実:設計理念、主任建築家であるメフメト・アーの活動内容などを読み取ることができる。
建築観:建築と数との対比が指摘でき、特に音楽の施法との深いつながりが目立つ。
●メフメト・アーとオスマン朝の組織
デウシルメ:当時の徴用制度より、アーのおおよその出生年と、制度内部での流れを窺うことができる。
インティサーブ:献上品による出世、軍事組織における特定のパトロン=クライアント関係を見い出すことができる。
役職:本文より名称の一覧を作成したが、その職務内容および名称と職務内容との関係については不明な部分が多い。
宮廷組織:主にイエニチェリを通じて軍事組織と関わっている。基本的にはアーはここに属しているものと思われる。
司法組織:アーの職歴において、ほとんど関係は見られない。
軍事組織:フスレブ・パシャとのパトロン=クライアント関係が続いている間軍事組織に関わっているが、その詳細な内容は不明。
●建築組織の概要
建築家と職人:オスマン朝後期のこの時期においては、建築家(デザイン)と職人(施工)の役割は分担されていた。
ハス・ミマール・システム:スルタンに所属する宮廷建築家組織は、街の建築家、職人と関連しながら19世紀初頭まで存続する。
職人:村びと・ギルドにより技術・組織が支えられ、職種により地方や家系が異なる。
●デザイン手法と組織
図面:肘尺グリッドを用いて図面が作成され、S=1/48が標準。物件により模型もあわせて用いられた。
建築理論と数学:算術の概念が基礎にあるが、アラブ・ビザンチンより代数・幾何の概念も合わさって用いられている。
監理:現場、組織、経営の管理は、それぞれ別の人が担当していた。
教育:宮廷建築組織と職人、軍事組織では異なる教育が施されていたが、宮廷建築組織では本を使う講議が一般的であった。