イスラーム地域研究5班
研究会報告

a グループ第2回「中東の都市空間と建築文化」研究会報告

日時:  1999年10月16日(土)13:30〜18:00
場所:  東京大学東洋文化研究所・3階大会議室
出席者: 23名

研究報告:「建築とパトロン」

  • 柏木 裕之(早稲田大学): 「ラメセス2世の建築」
  • 林 佳世子(東京外国語大学): 「メフメト2世の建設活動」
  • 内田 慶造(建築家): 「オスマンの建築書にみるパトロン像」
    研究会総評:
     「建築とパトロン」のテーマの下に、柏木氏による古代エジプトの建設活動、林氏による15世紀後半のオスマン朝の首都計画、内田氏による17世紀初頭のオスマン朝の建築書の、総計3本の発表が行われた。それぞれが魅力的かつ興味深いテーマだけに、おのおの発表の後に多くの質問が飛び交い、最終的な討論に費やす時間がなくなってしまった。かつ、「建築とパトロン」というテーマがあまりに漠然としていたためか、発表者や出席者の中での位置付けがさまざまで、個別議論から総論へとの橋渡しができなかったことは反省点として挙げられる。
     柏木氏の発表においては、建築のパトロンたるラメセス2世が、王家の血の表明のために復古様式を採用した事実が指摘された。建築様式の継承と変質は、建築史上の大きなテーマであるだけに、当時のパトロンが過去をどのように捉えていたのかを知る手立てを例示した点で、重要な指摘であった。また、建築様式の芸術的ピークが領土を拡大した強い王権下にはなく、平和な安定した治世下にあらわれるという指摘も、ほかの建築文化にも通じる特色のひとつで、今後の分析が待たれる。建築好きのラメセス2世によって、各地に建築が築かれ、まとまった力が注がれることによって都市基盤が整備されたという点は、建設活動がインフラストラクチャーの整備を含んでおり、ある経済力の投入がその後長い間の建設活動に影響するという点で、他の建築文化を考える上でも考慮せねばならない。
     林氏の発表は歴史学者の立場からなされ、提示部においては地図や写真、図面を多用したヴィジュアルで魅力的なものであった。続いてメフメト2世の建設活動自体の特色について、(1)計画的配置、(2)ルネサンス様式からの影響、(3)ワクフ制度の利用にあると説かれた。特に(1)と(2)に関しては、どのような文脈でオスマン建築の特徴となっていったのかを解き明かすことが建築史学者に提示された課題となった。最後に、首都造営における理想の遂行が、周囲の勢力とのさまざまな拮抗関係をはらんだ上でなされたとの指摘があった。従来の建築史学者は建設されたものについての探求はなしえても、そのプロジェクトが周囲の人間集団にどのような影響を与えたかという点にまでは考察が及んでいない。帝都計画の成り行きや成否を知る手がかりとなる新たな視点が呈示されたといえよう。
     内田氏の発表に関してはイスラーム世界にはめずらしい建築書を取り扱ったためか、会場から様々な質問が発せられた。特にメフメト・アー自身の経歴についての質問を中心として、オスマン朝宮廷建築家組織について議論が伯仲した。建築史学者の分析に、歴史学者の持つ知識が加わることによって、両者が融合して得られる結論の重要さが再認識された。カーバ神殿とスルタン・アフメト・モスクに関しては、建築実態との照合をおこないながら、メフメト・アーの関与の足跡が指摘されたが、盛りだくさんの発表で時間不足の感が残った。なお、今回の分析の対象外ながら、寸法体系、建築と音楽の関連や、細かな建築用語がアラビア語、ペルシア語、トルコ語で記述されている点も指摘され、今後の研究の発展が期待される。

    (文責:深見 奈緒子)


    報告内容:
    「ラメセス2世の建築」 柏木裕之

     異端の王、アケナテン(B.C.1350-1334年)による革命と混乱の時代が収束し、エジプトは再興の道を歩み始めた。これを強力に推し進めた人物が、王家の血をひかず将軍から王に登りつめたホルエムヘブであり、それは彼の指名によって王となったラメセス1世へと引き継がれた。すなわちラメセス1世に続くラメセス王朝もまた王家の正当な血統ではなかったことがわかる。ラメセス1世の息子セティ1世(B.C.1291-1278年)、さらに続くラメセス2世(B.C.1279-1212年)の時代には歴代の王名表が作成され、そこに自身の名が付加されるなど、王としての正当性を主張するかのような現象が認められる。建造物にもそれは復古的な様式の採用という形で表れ、好例としてがギザのカフラー王(B.C.2558-2532年)の葬祭殿を強く意識して建てられたセティ1世によるアビュドスのオシレイオンが挙げられる。彼らが範とした時代は必ずしも明瞭ではないが、ラメセス2世の建造物の中にアメンヘテプ3世(B.C.1386-1349年)の影響を強く受けている物があるという指摘は注目されよう。こうした復古主義的な活動に、王の命を受けて歴史研究を行い、古建造物の修復まで手がけたとされるカエムワセト王子が大きな役割を演じたと想像されるが、詳細は不明である。
     もう一つラメセス2世の建築として、エジプト全土に展開した王に関わる建造物の数の膨大さと彫像の巨大性を挙げることができる。数の達成と引き替えに作業の効率化が図られ、それが建造物の質の低下を招いたと考えられている。しかし、それが王に直接関わる建築活動であったために、技術の広がりや標準化が容易に成し遂げられたというもう一つの面を見落としてはならない。王の建築活動を通して周辺の道路網や交易が整備され、合理的な施工方法が高度に確立していったに違いなく、それは国家の標準化と底上げが図られたことを意味するからである。
     ラメセス2世の治世は67年程度と考えられ、これは第6王朝(古王国時代)のペピ2世の約94年(B.C.2278-2184年)に次ぐ長さである。どちらもその後、衰退の道を辿っていくわけであるが、ペピ2世の場合、衰退というよりは古王国時代の終焉を招いたとよぶ方が適切で、一気に群雄割拠の混乱期へと突き進んだ。一方、ラメセス2世時代以後は、衰退の歩みは緩く、王墓も継続して造営された。また今日メディーナト・ハブとして知られるラメセス3世葬祭殿のような大規模な建造物も築かれ、ペピ2世後のエジプトとは状況がやや異なる。これはラメセス2世時代の活発な建築活動によって都市が整備され、以後はこれを維持していけばよいという程度にまで成熟したためと推測される。その意味でラメセス2世は国家の安定と基盤を確立し、底上げを図った大王であり、その視点でこの時代の研究が深化することが望まれる。

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    「メフメト2世の建設活動」 林佳世子

     報告では、オスマン朝の15世紀後半のスルタン、メフメト2世がイスタンブルで行った建設活動がとりあげられた。まず、城壁・宮殿の整備、旧教会施設の利用、商業施設・新モスク施設群の建造、というイスタンブル再建時にメフメト2世が行った建設活動の概要が年代順に俯瞰されたのち、その特徴として次の3点が指摘された。

    1. 都市における施設の空間的配置には一定の計画性がみられる。原則は地形を上手に 利用し、権威の象徴となる建物が都市のどこからでも見えるように配慮すること。さらに、家臣団による建造物とあわせ、都市全体に支配者層の手になる建造物が階層的に配置されている。
    2. 個々の建造物のもつシンメトリックなプランが特徴的。広い庭園のなかに建つ公共建造物のシンメトリックなプランには、ルネサンス建築との関係を指摘することも可能である。
    3. これらすべての建設活動は、イスラム的宗教寄進制度であるワクフ制度の枠組みを利用して、「スルタン個人の善行」の形をとりつつ、国家的プロジェクトとして実施された。
     以上の特徴をもつメフメト2世の建設活動は、イスタンブルという「定住的」な拠点に君臨する中央集権的なスルタンの権威を具現化する目的で遂行されたものでもあった。
     しかし、こうしたスルタンの絶対君主化や、イスタンブルの帝都化の進行に反対する勢力、すなわち、トルコ系の騎士やデルヴィーシュたちの間に残る反中央集権主義的メンタリティは、様々な機会をとらえて表面化していった。そのひとつが、15世紀後半に成立した『コンスタンティノープル伝承』や『アヤソフィア伝承』と呼ばれる一群の説話である。そこでは、イスタンブルの「不吉さ」が強調され、スルタンの建設活動が批判されている。こうした声は15世紀末により強まったと推測され、その圧力は、メフメト2世のワクフ文書を再編纂させるほどに達していた。歴史的にみれば、メフメト2世の時代は、中央集権的オスマン体制の起点となった時代と評価されるが、当時においては反対勢力の影響力は無視できるものではなく、イスタンブルの帝都化計画自体も、両勢力の拮抗のなかで進んでいたと指摘することができる。

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    「オスマンの建築書にみるパトロン像」 内田慶造

    ●『リサーレ』:概要
     資料:オスマン語文献をもとに英訳したハワード・クレーンの書の和訳を通じて研究を行う。
     分類:大別すれば(メフメト・アーの)伝記的記録として位置付けられるが、他に単位体系、用語集の内容も付け加えられている。
     形式:2つ折のトルコ紙であり、内容に応じて黒と赤のインクにより記述されている。
     著者:著者のジャフェル・エフェンディはメフメト・アーと主従関係にもあったことがあり、建築についての知識はかなり詳しい。
     内容:序文と本文15章からなり、伝記・単位体系・用語集がほぼ同程度の分量で記述されている。
     記述:各章の冒頭に概要があり、その後本文が続く。随時本文中に詩が挿入されている。

    ●『リサーレ』:メフメト・アーの生涯
     イエニチェリ新兵として徴集されてから主任建築家になるまで、宮廷組織から軍事組織を通じて出世していく経緯が詳細に記述されている。

    ●『リサーレ』:カーバ神殿の修復
     年表:カーバ神殿ができてからメフメト・アーが修復を行う過程までの歴史が記述されている。
     寸法:本文の記述内容と実際の建物寸法との比較により、肘尺が70〜75cmであることが推測できた。
     その他の情報:カーバ神殿に関わる名称などの情報が得られる。

    ●『リサーレ』:スルタン・アフメト・モスクの建設
     本文より読み取れる史実:設計理念、主任建築家であるメフメト・アーの活動内容などを読み取ることができる。
     建築観:建築と数との対比が指摘でき、特に音楽の施法との深いつながりが目立つ。

    ●メフメト・アーとオスマン朝の組織
     デウシルメ:当時の徴用制度より、アーのおおよその出生年と、制度内部での流れを窺うことができる。
     インティサーブ:献上品による出世、軍事組織における特定のパトロン=クライアント関係を見い出すことができる。
     役職:本文より名称の一覧を作成したが、その職務内容および名称と職務内容との関係については不明な部分が多い。
     宮廷組織:主にイエニチェリを通じて軍事組織と関わっている。基本的にはアーはここに属しているものと思われる。
     司法組織:アーの職歴において、ほとんど関係は見られない。
     軍事組織:フスレブ・パシャとのパトロン=クライアント関係が続いている間軍事組織に関わっているが、その詳細な内容は不明。

    ●建築組織の概要
     建築家と職人:オスマン朝後期のこの時期においては、建築家(デザイン)と職人(施工)の役割は分担されていた。
     ハス・ミマール・システム:スルタンに所属する宮廷建築家組織は、街の建築家、職人と関連しながら19世紀初頭まで存続する。
     職人:村びと・ギルドにより技術・組織が支えられ、職種により地方や家系が異なる。

    ●デザイン手法と組織
     図面:肘尺グリッドを用いて図面が作成され、S=1/48が標準。物件により模型もあわせて用いられた。
     建築理論と数学:算術の概念が基礎にあるが、アラブ・ビザンチンより代数・幾何の概念も合わさって用いられている。
     監理:現場、組織、経営の管理は、それぞれ別の人が担当していた。
     教育:宮廷建築組織と職人、軍事組織では異なる教育が施されていたが、宮廷建築組織では本を使う講議が一般的であった。

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