イスラーム地域研究5班
研究会報告

aグループ第8回「中東の都市空間と建築文化」研究会報告

日時:2001年5月19日(土)13:30〜18:00
場所:東京大学東洋文化研究所・3階大会議室

 今回の研究会では、北アフリカをテーマに3つの発表が行われた。30名近くの出席者を数え、興味深い発表に活発な質疑応答がなされた。以下にそれぞれの発表の要旨と当日の議論を抄録する。

 

「カイロに現存するサビール・クッターブについて」

東京都立大学 山田 幸正

 「サビール・クッターブ」とは、通行人など公共用に飲料水を供給する「サビール」を1階におき、その上階に子供たちにコーランを教える学校「クッターブ」を配した複合的な小建築で、都市景観のなかにたつ歴史的造形として、興味深い対象である。その最初期の例はマルムーク朝期の14世紀後半まで遡るとされ、中世後半から近世にかけて、カイロでは盛んに建設された。それらの現存状況を把握する目的で1995年9月に予備的な調査を、さらに2000年9月にはその建築的実態を知るために一部の実測を含めた調査を実施した。
 調査の結果、現存するサビール・クターブは87例であった。時代別にみると、マムルーク朝17例、オスマン朝61例、近代のムハンマド・アリー朝9例である。オスマン時代でも16世紀に属するものは3例しか現存していない。また17〜18世紀には1630年代、1670年代、1760−70年代など集中した時期があり、幾つか建設の波がある。所在地別にみると、ファーティマ朝創建のカーヒラ内に37例あるが、その南方の地区に44例と比較的多く現存し、オスマン朝時代にはすでに建て込んでいたカーヒラに代わって、南の地区が開発されていたことがうかがえる。同時期に発展したとされる西方地区は、かつてのハリージュ(運河)沿いに現在6例のみで、近代以降の開発・発展のなかで、その多くが失われた。
 1階のサビールには荷受けのアーチの下に縦長矩形の鋳鉄製格子窓を設け、その上階に載るクッターブは円柱に支持された尖頭形アーチを連ねたロッジア風の開放的なものとするのが基本的な形態といえる。現在は失われているものが多いが、通常、その頂部には木製の大きな軒が備わる。ひとつの入口と格子窓の周辺の壁面に組み紐状装飾帯などが施され、一部に彩釉タイルもみられる。1・2階ともに平面は普通、ひと部屋構成で極めて単純ながら、そのファサードは街路に一面だけでなく、街角や交差点などに立地して2〜3面あらわす例もあり、その立面構成は極めて印象的である。
 この建築にかかわるほぼすべての建築的要素はすでにマムルーク朝時代の形成されており、それらがオスマン朝時代に継承されている。しかし、マムルーク朝時代では、その規模は大きく、モスクなどの宗教建築と複合されるものが多いのに対して、オスマン朝時代になると、単独で立つ例が多く、またワカーラやラブァ、住宅など世俗的な建築との複合が目立つようになる。さらに18世紀後半になって、半円や櫛形のアーチを用いた円形・多角形平面の例がみられ、オスマン朝からの直接的影響がうかがえる。



「チュニジア・モロッコの都市と住宅――チュニス、カイラワーン、スース、スファックス、フェズを事例とする調査研究」

日本学術振興会特別研究員 新井勇治

 発表者は、シリアをはじめとする地中海周域の伝統的都市における都市、住宅の構成、特に住まい、暮らしを中心とした建築学を専門とする。今回は北アフリカという地域性、チュニジアの諸都市とモロッコの同一性と差異を地図、図面、写真を用いて解明した。
 チュニスのメディナの都市構成には、ローマ時代の直交グリッドが基本となり、東の港に通じるバハル門から西の城砦(カスバ)への東西街路が主要軸線となる。紡錘形の市壁中央の主要街路に大モスクと市場(スーク)が集中し、その周囲に中庭住宅が高密に分布する住宅地となる。住宅においては中庭に面して柱廊(ブルタール)を持つことが特色で、大きな家では中庭の4面に柱廊を回す場合も見られ、住宅の格式の差異が大きい。
 内陸のカイラワーンは、やはり紡錘形の市壁をもち、大モスクは北隅に置かれ、市場(スーク)は市域の中央部を占める。ただし、隊商宿(フンドク)は南西の市壁外に集中して、市場とは離れて構築される。住宅地においては、街路に天井をかけたサーバートはチュニスより少ないものの、通り抜け街路に囲まれた区域が広いために袋小路が多くより閉鎖感が強い。住宅では、チュニスと同様にブルタールは用いるものの、上下階を2世帯で使い分けるなどの例も見られた。
 スースは海岸に面する斜面都市で南北に長い台形の市壁に囲まれる。市壁北東の隅に8世紀建立の大モスクと7世紀末建立の修道院(リバート)が設けられるが、元来は両建築と海岸線に面していたらしい。東の海岸線に近い部分が市場となり、西の高台が住宅地となる構成である。中央部で十字に交わる街路が主要幹線なる。
 スファックスは、ほぼ矩形の市壁の中にグリッド状の街路が設けられ、ローマ時代の条里制が基盤となったことがうかがえる。南東に港があるが、市場はむしろ北西の陸側に発達した。港が漁港であり,むしろ内陸の郊外農園経営に力点が置かれたためと考えられる。大モスクは中央の直交街路の交点に置かれる。
 モロッコのフェズは川を挟んで右岸と左岸に町が発展した。チュニジアに比べると、住宅の中庭がよりアトリウム的になり、居室化する傾向が見て取れる。扉の開き方を見ると、モロッコでは中庭側に扉が開き、居室部分が主たる空間と考えられることに対し、チュニジアでは居室側に扉が開き、中庭部分が主たる部分と考えられることの違いに注目できる。
 それぞれの都市の立地、歴史などの違いから都市毎の様々な差異が生ずる。北アフリカとしてモロッコ、チュニジア、エジプトにおける住宅と庭との関係を比較すると、チュニジアとモロッコには細かな差異はあるものの同一性が目立ち、むしろエジプトの異質性が指摘できる。なかでも、バイトと呼ばれるT字形の部屋、ブルタールと呼ばれる柱廊などの要素に着目し、その起源や変質を考えていくことはこれからの課題である。



イスラーム都市と現代都市計画−フェスを事例に−

慶應義塾大学大学院 松原康介

 発表者は都市計画を専門とし、研究テーマの大枠は、第一に老朽化・人口増加といった都市問題を多く抱える現代都市としてのイスラーム都市に都市計画を実施すること、第二にイスラームの歴史的都市がなぜ面白いのかを解明し、都市計画の中にその原理を参照し、取りこむことである。現状では、第一の視点を解明するために、モロッコにおけるフランス植民都市計画、及び世界遺産都市たる旧市街の保全再生計画の検討を行なっている。地域研究における学際的交流は重要なことであり、この発表では都市計画学会論文「モロッコ・フェスにおける植民都市と旧市街の複合過程」(2000)を軸に、都市計画の基礎的な問題意識に沿った平易な発表を心がけた。
 フェスは20世紀はじめに、総督リヨテと都市計画家のH.プロストによって考案された新旧市街の明確な分離と、それによる旧市街の凍結的「保存」政策が施された。しかしながら、社会的激変によって修正を余儀なくされ、新市街にモロッコ人が入居し市域が拡大し、旧市街に地方住民の流入によって城壁まで住宅が建てつまり、60年代には旧市街の中心を流れるフェス川が暗渠化される。81年の世界遺産都市指定を機に、旧市街内部の再開発計画が実施され、旧市街と新市街の結節点としての「アイン・アズリトゥン地区」が再開発され、都市計画の理念は「凍結保存」から「保存・再生」へと移行した。今日では街路拡幅と暗渠化を中心とする再開発事業が実施されるに至っている。
 60年代に実施された暗渠化は、旧市街における街路網の変質を招いた。伝統的街路網は「公私分離」の原則に基づくものであるのに対し、暗渠化された道路は公的空間であるにもかかわらず、そこに面する公的施設は近代的施設である点、連続商店街の形成が見られない点、私的空間である袋小路が余儀なく開通された点等を見ると、矛盾点を含んでいる。自動車が旧市街へ入ってくることによって、伝統的街路網はその構造と空間を変化させていることを顧慮しつつ、旧市街の近代化が不可避的であるとしても、伝統的街路網の望ましい保全の方策の検討・提案が急務である。
植民都市計画の理念と実態に関する質疑の他、都市計画研究の意義、発表者における歴史研究の位置づけ、等を巡って活発な討論があった。

 3人の発表の後、時間は迫ってはいたものの、それぞれの興味深い研究に北アフリカの建築、空間特性に関して、また歴史的建造物および都市の研究をどのようにして現代の都市とつなげていくかという点で議論が深まった。

(文責:深見 奈緒子)


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