イスラーム地域研究5班
研究会案内

c グループ「比較史の可能性」
第3回研究会「市場経済と資本主義」のお知らせ(詳報)

 先日もお伝え致しましたが、第3回比較史研究会は「市場経済と資本主義」をテーマに、以下の要領で開催致します。
 今年度の最後の研究会になりますので、「所有」「契約」と積み重ねて来た論点を組み込んで、総括討論を行いたいと考えております。第1・2回にご参加頂いた方はもちろん、ご都合のつかなかった方を含め、皆様のご参加をお待ちしております。参加のお申込を頂いた方には、報告要旨(参考文献付)を事前にお送り致しますので、どうか12月10日(金)までに、5班事務局5jimu@ioc.u-tokyo.ac.jpまでご連絡下さい。なお、第1・2回の報告要旨、討論要旨は、第5班のホームページ-「活動報告」- 「研究会報告」欄に掲載しております。

日時 : 12月23日(木)祝日  12:30-18:00
場所 : 東京大学東洋文化研究所 3階大会議室
プログラム :  
12:30-14:00 石川 登(京都大学、東南アジア文化人類学)
 「国際ゴム協定(1934年)と密貿易:
 ボルネオ西部国境地帯のゴム市場と焼畑農民」
14:15-15:45 加藤 博(一橋大学、中東社会経済史)
 「再考「『市場社会』としてのイスラム社会」」
16:00-17:30 古田 和子(慶応義塾大学、中国経済史)
 「中国における市場、仲介、情報」
17:30-18:00 総合討論

  ※討論の具合によっては終了時刻を延長することもありますので、ご了承下さい。会の終了後、簡単な懇親会を予定しております。



<市場経済と資本主義研究会の趣旨> 関本照夫(東京大学、文化人類学)

 (以下には、自分の考えをまとめて述べると言うより、前提となる課題や設問を羅列してあります。)

 現在「市場経済」という言葉は、しばしば「資本主義」と同義に使われる。また「資本主義」は近代の現象とみなされ、前近代はいわゆる自給経済が卓越する社会とみなされる。こうした常識的見方によれば、非西欧のローカルな諸社会は、世界大のグローバルな市場経済という能動的な主体から、影響を受け変容を被り規定される受動的な存在としてのみ描き出されることになる。こうした枠組みを、中国、東南アジア、中東の諸社会の実例によって再検討し批判する事ができるのではないだろうか。
 そこでは、西欧近代に発して世界に広がったいわゆる産業資本主義だけが「ほんとうの」資本主義だという見方を、批判的に再検討することも必要だろう。また、ローカルな諸社会が市場や資本主義と接合する時になにが起こっているのか、平板な社会進化論とは異なった詳細な検討をすることも可能だろう。
 予備的前提としては、「資本主義」という概念について、一致した一つの定義にたどり着くのではなくとも、若干の検討を加えてみたい。ブローデル(『物質文明・経済・資本主義 15ー18世紀』みすず書房)がいう物質生活、市場経済、資本主義の三層構造、また資本主義を特殊近代の現象としない広い見方を、我々もとるべきだろうか。かれの15ー18世紀のヨーロッパに立脚した論の、中国、東南アジア、中東への応用はどんな結果を生むのだろうか。歴史家として時期を限定して論を進める彼が明瞭 には述べていない近代工業化以後の資本主義は、やはりそれ以前からの決定的な飛躍だったのだろうか。マルクスやウェーバーの勤勉=インダストリー=工業に焦点をおいた見方があり、またブローデルや岩井克人流に、あらゆる種類の差異、ヒエラルキー、独占、権力を動員して貨幣価値の増殖を目指す活動とする見方もある。どちらの見方をとるかはどの地域について論ずるかに左右される問題かもしれない。中国、東南アジア、中東いずれをとっても、リジョナルに発達した大規模な市場経済の中心 地を論ずる時には、西欧に対し独自性をもつ大きな経済のダイナミックスが語られがちであるし、辺境のより自給的だった経済を取り上げれば、近代の資本主義と植民地主義がもたらした変化が語られがちだろう。だがいずれにしても、既存の著名な経済・歴史理論との関係で概念をどう使うかについては、意識的で明瞭でありたい。
 「市場経済」という概念にも考えておくべき問題がある。この言葉は、社会主義ブロックの崩壊以降、グローバル資本主義というのと同じ意味で使われる傾向があるが、もちろんこの言葉から我々が思い描くものは多様である。内部においてかなりに自給的な地域コミュニティー間で余剰物や特化産品が交換される狭い地域的市場、権力が介在し独占的で特殊なルールに支配される遠隔地交易、近代の世界大の市場経済というのが、ふつうに考えられる類型だろう。この三類型論は十分に満足すべきものだろうか。上記の資本主義論との関係で、そこで何か見落としているもの、視野から落ちてしまうものはあるだろうか。また、とりあえずこの三類型論を受け入れるとして、この三者間の関係はいかなるものだろう。地域的市場と遠隔地交易という前近代の組み合わせが、近代において資本主義的市場経済に浸食されていくという一般的な理解に、修正や批判は必要だろうか。
 以上を前提として次にローカルな経済とそれを越えた大きなシステムとの関係を考えてみたい。冒頭でふれた非西欧の諸ローカル社会は外部からの影響に振り回されるだけの受動的客体なのかという問題である。春日直樹は「(地域社会の)資本主義への接合は・・・、現地の生産様式や資本主義自体の差異によって質的に異なるものになり・・・」と言う(「経済T−世界システムの中の文化」米山俊直編『現代人類学を学ぶ人のために』世界思想社、1995,p.104)。同じく人類学者のサーリンズは「世 界システムのハワイ文化への『効果』とは、このポリネシア・システムが資本主義体験をいかに自己の文化にそぐように仲介したのか、をみることによってはじめて理解できるのである」と言う (M. Sahlins, "The political economy of grandeur in Hawaii from 1810 to 1830," in E. Ohnuki-Tierney (ed.), Culture through Time. Stanford University Press, 1990)。市場経済との接触によってどうローカルな社会が変容するかではなく、ローカルな主体がどう資本主義や大きな市場経済と折り合いをつけるか、取り込み消化するか、またそこにどのようなもつれ合いが生じるかを考えてみたい。
 こういう言い方は誤解を招くものかもしれない。ローカルな諸社会と外部の大きなシステムが独立した二つの主体のようにだけ描かれてしまい、ローカルな独自性を探求するか、大きなシステムの普遍的力を語るかという二者択一に追い込まれてしまうからである。実際は両者はかなりに表裏一体のものであり、互いが互いを作り出しあうような関係にある。資本主義は無秩序と不安定を固有の本質とするものであり、すべてを統括する全能の管理者ではない。一方、ローカルな生活様式の総体や伝統は時 を越えて一貫した主体ではなく、外部との関係においてたえず自らを変えながら、まさに外部との関係においてのみ、不変で一貫したものであるかのような自己像を内部に生み出す。ただそこでは、意識化・言語化された公式の文化の自画像 のさらに底部に、言説化されぬまま身体性や民俗知識とからみあったプレ文化・プレ伝統があって、ローカルな生活の慣習や制度の基礎になっている。こうしたものが社会生活を基部で支えていることが前提になって初めて、資本主義の無政府的なダイナミズムも発 現可能となるのである。ローカルな生活を孤立して描くのでなく、ウォーラーステイン流にシステムの側のみから語るのでもなく、ローカルと大システムの相互作用を描くことがどのように可能か検討してみたい。


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