イスラーム地域研究5班
研究会案内

cグループ「比較史の可能性」第6回研究会
「公正:秩序の考えかた」

 「イスラーム地域研究」5班「比較史の可能性」研究会の第6回研究会を、下記の 日程で行います。会のねらいについては、末尾の趣意書をご覧ください。
 これまで東京を会場にしてきましたが、今回は、岡山に巡業いたします。2年目の 最後の研究会ですので、ご都合のつく方とは前日から泊まりがけでゆっくりと議論を 楽しみたいと考えております。また、新たに京阪神、中国地方の研究者の方々のご参 加を期待しております。(比較史研究会幹事代表 三浦 徹)

<テーマ 「公正:秩序の考えかた」>

日時 : 2000年12月23日(土)10:00-16:30
場所 : 岡山大学法学部会議室(岡山市津島中3-1-1)
地図 (岡山大学交通案内  岡山大学キャンパス図  法学部会議室
JR岡山駅東口より岡電バス17番「岡大・妙善寺」 方面バスで15分、「岡大西門」下車。タクシーは西口から1000円弱

<プログラム(予定)>

10:00
受付開始
10:15
趣旨説明
10:20-11:50
春日 直樹(大阪大学人間科学部、文化人類学/オセアニア)
「フィジー社会における良き経済秩序」
11:50-12:50
昼食(参加者には弁当を手配いたします、有料)
12:50-14:20
林 文孝(山口大学人文学部、中国近世思想)
「明清期中国の史論における公正」
14:30-16:00
長谷部 史彦(慶応義塾大学文学部、中東社会史)
「アドルと『神の価格』:マムルーク朝期カイロの市場社会と王 権」
16:00-16:30
総括討論

※いずれも、報告は1時間以内、そのあと30分の質疑を行います。

<宿泊について>

 下記の宿所を仮予約してあります。前夜の22日(金)にここで懇親会を開催しま す。

   湯迫(ゆば)温泉白雲閣 岡山市を一望できる高台にある旅館。駅から車で15 分。
 宿泊費は1泊2食付きで15000円程度(税込み)

 なお、会場となる岡山大学から徒歩3分のところにある岡山県青年館も便利です (岡山市津島東1-4-1、電話086-254-7722、 http://www.seinenkan.com、宿泊費和室 一人当3800-4300円税別食事なし)。こちらは直接の申し込みもできますが、人数が まとまる方が割安になるそうです。
 上記の2個所に宿泊を希望される方は、5班事務局にお申し込みください。なお、 白雲閣に宿泊の場合は、人数に限りがありますので、早めにご連絡ください。

<旅費について>
 イスラーム地域研究の研究分担者・研究協力者の方は、ご所属の班にご相談くださ い。比較史研究会の方は、5班事務局に早めにご相談ください。

<参加申し込みについて>

 参加される方は、宿舎および当日の弁当の手配の関係がありますので、12月7日 (木)までに、Eメールまたはファクスで5班事務局にご連絡ください(宿泊の希望 もお書きください)。事前のお申し込みをいただいた方には、宿舎や研究室会場など の詳しい情報をお送りいたします。
 なお、当日の飛び入り参加も歓迎いたしますが、弁当の手配ができませんのでご了 承ください。


「公正:秩序の考えかた」研究会趣意書

 2年目は、「所有、契約、市場」の接点となるテーマを採り上げ、「原理的」比較 を掘り下げることを目標に掲げた。6月の第4回研究会は、「市場の関係論的秩序」 と名づけて、「相互に交渉するアクターの行動を観察し、解読するなかから、市場の 秩序を生成的に」理解することを試みた。これは、生身の人間の行動や交渉の側か ら、規範意識や社会制度の形成を捉える試みである。第4回研究会では、主に社会制 度をとりあげる形になったが、今回は、この規範意識を主題にしたい。これは、第4 回の原洋之介報告における、「経済秩序は、文化信念というファクターなしには成立 しない」という問題提起を受け継ぐものと考えている。
 人が物を所有し、人と契約し、交換・取引する。これらの行為が、あるときは正当 な所有として保護され、別な場合には、盗みや略奪として排斥される基準はなんなの だろうか。現代国家では、合法であるか否かが基準となるが、それとともに、自然と 人間、人間と人間の間であるべき関係(秩序)が想定されているように思う。このよ うな基準を、公正とよんでみた。
 イスラム世界では、アドルという概念がこれに相当する。アドルは、神が命じた正 義であり、とくに政治や行政に携わる人間の倫理であり、その反対概念であるズルム と対になって用いられた。アドルはまた、アダーラ(公平、衡平)を含意しており、 社会的公正や公益を意味した。これは、単にイスラーム法の公準というだけでなく、 行政法や慣習(アーダ)を含めた根本理念(コモンセンス)ともなっていた。
 アドルについて、なにがアドルでなにがズルムであるのかという、具体的な基準・ 尺度は存在しなかった。むしろ、現実の政策に対して、とくに、君主の政策や統治が それに外れたときに、ズルムとして批判したり、あるいは、アドルの回復を祈願する という形で示された。食糧暴動のおいて、退蔵などの価格操作を批判する「神の価 格」という言辞は、神のもとで正しい秩序を想定しているのだろう。
 同様の例は、明代の民変にみることができる。人々の念頭には、「万人の養生送死 安老慈幼を実現するといった全体社会の普遍的利害」があり、「『公』を体現する全 民衆が、善を体現する個人を支持崇拝し、あるいは悪を体現する個人を排撃するとい うスタイル」をとる。昨年の西尾寛治報告(第2回)にある「アディルなラジャは崇 拝されるが、ザリムなラジャは敵対されるラジャ」という言辞やジャワの「正義王思 想ラト・アディル」にも、ある理想的な秩序観が想定されている。
 このような規範意識や秩序観を議論する際に、つぎの点に注目したい。第一は、神 や天のような超越的存在のもとでの正しき秩序が想定されている。とすれば、神意は どのように推し量ることができるか。理想状態は、現実には誰が、どうやって実現す るのか、その担い手や手段が問題となる。天変地異は、天や神からの統治者への警告 とうけとられたことは、中国の天譴論や黒死病の際のスルタンの対応にもみてとるこ とができる。しかし、そこで神意を受け取り実現するのが、君主か、儒者か、聖者 か、民衆の世論か、それによって、まったく違った政治プロセスがありうるのであ り、そのようなせめぎ合いを問題としていきたい。第二は、規範は、抽象的な理念と して語られることはあっても、その具体的な中味は規定されない。だからこそ、超歴 史的に、あるいは社会階層や対立をこえて、受容され適用されうる可能性がある(こ の点では、現代世界の「自由」や「民主主義」という公準?も同様である)。しかし ここでは、暴動や反乱といった集団行動や個々の訴訟や裁判、徴税といった対立の局 面において示される秩序観をとりあげることで、どのような行為や政策が公正・不正 とされたのかを問題としていきたい。第三に、公正が表象されるチャンネルや具体的 な中味に、地域的歴史的な違いがあるとすれば、そこには、社会モデルの違いが写し 出されていないだろうか。
 このような規範意識は、政治論として扱われることはあったが、本研究会のテーマ との継続性からいえば、所有、契約、市場取引といった局面での「公正」意識が議論 されることを期待したい。しかし、あらかじめ議論をある枠内に収めることは本旨で はなく、この趣意書の見落としている論点も含めて、自由な報告と議論を期待してい る。(三浦 徹)

<参考文献>

加藤博「イスラム社会の秩序システム」同『文明としてのイスラム』東京大学出版会、1995、pp.137-146。
長谷部史彦「都市の心性:前近代カイロの食糧騒動研究の視座から」『文明としてのイスラーム』栄光教育研究所、1994。
同「王権とイスラーム都市」『岩波講座世界歴史10』岩波書店、1999。
三浦徹「人びとの秩序」同『イスラームの都市世界』山川出版社、1997、pp.77-88。
岸本美緒「明末清初の地方社会と世論」「五人像の成立」同『明清交代と地方社会』東京大学出版会、1999。
関本照夫「ジャワの正義王思想」『世界史への問い6民衆文化』岩波書店、1990。


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