竺沙雅章監修・間野英二編
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刊行後一年以上も経った本であるから、今頃読んで書いていると失笑されてもしかた
がない。小前亮氏による新刊紹介(『史学雑誌』108-8)なども出ているのだからな
おさらである。しかし、文献短評に『西アジア』を掲載したいま、『中央アジア』を
ぜひ載せたいのである。
本書は、先史時代から現代にいたる中央アジア(同シリーズには別に『北アジア』も ある)の歴史を説いた概説書である。間野英二、梅村担、小谷仲男、片山章雄、加藤 和秀、久保一之、桑山正進、小松久男、濱田正美、堀川徹、吉田豊という執筆者陣は 「豪華」と言えよう。 さて、上述の小前氏は新刊紹介でこの本を評して「一般向けの概説書として推奨する のには、ためらいを感じざるをえない」と述べ、その理由として表記の統一の不徹底 や出版社による編集作業の杜撰さを挙げている。ところで私はこの本を読んでいた間 、小前氏の新刊紹介のことはすっかり失念していたので、小前氏と自分の感想を比較 することができた。 誤植などは、小前氏ほど強く憤るわけではないが、確かに気になることがあった。表 記の統一云々に関してもなるほど事実は確かにそうである。しかしこちらについては 、私にはそれはそれでよいのではないかとも思われた。要はこの本を「中央アジア史 」の展開を一貫して講じた一個の作品としてみるか、中央アジアの歴史に関する諸論 考が、有機的な相互関係を保っているとはいえ、個別に集められた論文集とみるかに かかっている。私はこの本は結果としては後者になっているという印象を持ったわけ だ。 この私の印象が正しいならば、少々残念なのは各論考に一貫する、「遊ぶまい」「ひ ねるまい」という抑制の利いた筆致である。本全体としては各論考の面白さにかける 形になっているように思うが(それが企画の意図であったかは別問題)、それに反し て執筆者の申し合わせはあまり個性を出さないようにすることだったのだろうか?し たがって、小前氏とちがって私は、「この本は何冊か概説書を読もうとする人にとっ ては必ずリストに加えねばならない一冊であるが、適当な読み物を探している人には あまりおすすめでない」と述べておきたい。 なお、3500円という価格設定に関する小前氏の義憤(なにしろ彼は新刊紹介執筆 のため一部もらっている)にも「法外」とまでは言わないにしても賛意を表しておく 。(森本一夫) | |
ロバート・アーウィン著/西尾哲夫訳
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誰もが子供のころにアラジンの魔法のランプに憧れ、「開けゴマ」というアリババのセリフをこっそり暗誦したのではないだろうか。しかし、実際のアラビアン・ナイトを紐解いた人はそれほど多くないのかもしれない。本書はそうした人々をもう一度アラビアン・ナイトの世界へと誘うのものであるとともに、アラビアン・ナイト研究者の(原題も示すように)必携書でもある。著者のロバート・アーウィンは英国のアラブ中世史家だが、作家としても著名で、その文体は格式ばっておらず読みやすい。訳者の西尾氏もそれを意識したのか、ざっくばらんな語り調に和訳している。
本書のはじめの部分では、翻訳の問題や物語の起源と発展に関する研究の概観が網羅され、第四章以降「語りの技巧」「大道の芸人たち」「庶民の暮らし」と題する各章では、数多くの文学作品や旅行記などをちりばめて、今まであまりスポットをあてられたことのない中世の中東庶民文化を明るみに出している。また、アラビアン・ナイトのフェミニズム解釈からアラブ好色文学史までを扱った第七章「セクシュアル・フィクション」、魔術やジンなど「不思議の世界」に関する第八章など、少し危険な香りのする世界への扉も用意されている。最後は、構造主義者によるアラビアン・ナイト研究と、アラビアン・ナイトの翻訳の西洋文学への影響が各一章にまとめられている。 本書は人生に疲れ、心の旅に出たいという欲求に駆られがちな現代人にお勧めの一冊である。本書に導かれて中世のバグダード、カイロそしてダマスカスの町の路地裏を歩いていると、うさんくさい蛇使い師や小瓶に入ったジンが、あなたの悩みなどなんでもない、と耳元でささやいてくれるだろう。(東京大学地域文化研究修士課程 後藤絵美) | |
アモス・エロン著 村田靖子訳
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本書は、エルサレム在住のジャーナリストによる、歴史、宗教、考古学、文学、伝
説、地理など、エルサレムに関わる様々な分野を横断しつつ描かれた味わい深いエッ
セイである。「記憶の戦場」という副題が示すように、エルサレムがいくつもの宗教
・宗派の聖地としてたどったある種倒錯した複雑な様相が、著者の深い学識、故郷へ
の深い愛情や悲哀とともに、生き生きと描写されている点が、本書の魅力であろう。
中東和平の背後にこうした様々に相克する人々の思いがあることを改めて実感させら
れる。
本書は厳密な歴史的手法をとるものではないが、著者は「語りの歴史家」としても 評価されており、猟捕する文献の膨大さも本書の透徹した文体を支えている。2000年 にちなみ、世界的にエルサレムへの注目が高まっている今、イスラーム研究者にとっ ても一読の価値のある良書だろう。(学振特別研究員(IAS所属) 下山伴子) | |
勉誠出版、1999 年
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本号の特集は,「序言」にもあるように,1999 年 3 月に東京大学で開催された宋代史シンポジウム「宋代史研究者から見た中国研究の課題―士大夫,読書人,文人,あるいはエリート」に基づいているという.ここには,4名の宋代史研究者による基調報告と,コメンテーターとして参加した明・清代中国史,イスラーム史,日本史,西ヨーロッパ史の研究者の手になる論考とが収録されている.このような構成には,宋代知識人のありかたを,中国史の枠内にとどまらず,知識人をめぐる歴史研究全体の中で把握しようとするシンポジウムの企図が明確に反映されている.それはまた,地域・時代を問わず、現在の知識人研究の成果と問題点とを一望できる点で,後学にとってもきわめて有用なものになっているといえよう.
かりに科挙に代表される「国家」的な任官システムが存在しない地域・時代を扱う場合でも,ここでの成果はきわめて示唆に富んでいる.知識人が地域エリートでもあるという歴史的事実は,そうしたシステムを前提としながらも,むしろ人的結合関係を軸とした稀少な書物や知識の共有の可能性という点から説明されており,こうした中で自他ともにエリートであることが認容されるような公の領域が,地域レヴェルでも生み出されてきていることに光があてられている.こうした議論は,イスラーム史におけるウラマーのありかたを考える上でもみすごすことはできない. おそらく「国家」と地域レヴェルでの公の領域が齟齬をきたさない,あるいは前者に後者を取り込んでゆく懐の深さがあった点に,宋代中国の独自性をみることができるかもしれない.ただ個人的には,体制を徹底的に利用しながら,自らの利害を満足させようとする知識人の政治的戦略がより鮮明に描写されていれば,さらに興味深かったようにも思われる.むろんこの点は,本特集の価値をいささかも損なうものではない.(足立 孝:学術振興会 PD :西洋中世史) | |
坂本勉
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本書はイスラーム世界の巡礼に関する最初の包括的邦文研究書である(と思う)。
主にメッカ巡礼(著者はあえて「イスラーム巡礼」という語を使用しているが、理由については序章参照)について論じており、これまでの学術研究の成果を網羅している。 著者は本書において、イスラームの宗教儀式としての「巡礼」イメージを、イスラーム世界統合の機能を果たすネットワークとしての「巡礼」イメージへと大胆に作りかえる。その作業過程において、巡礼の持つ宗教的、商業的、思想的側面における役割が明らかにされる。そして最後に、著者の近年の研究テーマであった「パン・イスラーム主義と巡礼」の関係性を述べることにより、巡礼の持つ今日性、政治性を明らかにする。 本書の多くの美点は、読まれた方にはおのずから明らかになると思われるのであえて触れないが、個人的に特筆したいのは、著者が巡礼の持つ社会性を力説しつつ、それとは対照的な、巡礼の持つ「精神的な救済」という個人的要因にも触れており、巡礼の持つ多面性に言及している点である。(太田啓子) | |
同朋舎、2000 年
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本書は、古代文明の発祥から 20 世紀にいたるまでの、西アジアの通史の概説書である。対象地域が西アジアに設定されている背景には、「アジアの歴史と文化」シリーズ中の他地域との兼ね合いの面、そしてこれまでの歴史学上の伝統的な地域区分も念頭におかれている面があるものと思われる。しかし、歴史的なファクターや連環を適切に理解するために、必要に応じて中央アジアの動静などにも多分に配慮がなされている。それは、本書が「トルコ・モンゴル時代」の再評価を主眼としていることとも
無関係ではない。
本書は総論と三章からなる本論とによって構成される。古代オリエント時代、ヘレニズム時代、イスラーム時代、近現代という西アジア史の時代区分が総論において提示されるが、そのうちのイスラーム時代が割り当てられる第二章の記述が本書の大半を占める。とくに 11 世紀以降のイスラーム時代はトルコ・モンゴル時代と銘打たれ、トルコ・モンゴル系の遊牧民ないし軍人が創始した王朝の支配期において、遊牧系集団の軍事力が政治上大きな意義をもったことや、都市、ワクフ、イクター制、タリー カなどがそれぞれの発展をみせたことが、具体的な事例によって丁寧に説明される。ただ惜しむらくは、とくに 17・18 世紀以降、このトルコ・モンゴル時代がどのように展開あるいは変質していくのかが示されていない点であろうか。このことは、第二章と第三章との間に一種の断絶を感じさせるひとつの原因かもしれない。 もっとも、所与の紙幅からしても、すべての時代と地域を網羅することや、17 人の執筆者の記述を有機的に結びつけることはきわめて困難である。その意味で、論点が「トルコ・モンゴル時代」にしぼられ、その見直しが実証的に試みられている点は積極的な意義をもつであろう。この批判的試みに「アラブ・イスラーム史」の立場などからどのような返答がなされるかは、注視されるところではないか。(木村暁) | |
trans. George A. Bournoutian |
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Armenian Studies Seriesの第一弾として上梓された本書は、18 世前半期のクレタのアブラハム(Abraham of Crete)によるアルメニヤ語年代記の英訳である。
この作品では主に 1735−36 年のコーカサス地方における状況及び、そこでのナーデル・シャー(即位以前はタフマースプ・コリー・ハーン)の活動が中心として記されている。時代背景としては、当時、ナーデルがイランの中心部を制圧していたアフガン族を追討したのち、旧サファヴィー朝領内に進出していたオスマン朝と交戦していたということがある。その際、コーカサス地方もナーデルとオスマン朝、両者の対峙の場所となっていた。 この中で、コーカサスのアルメニヤ人コミュニティがどのような対応を迫られたか、その長となったクレタのアブラハムの目から見た切実な事情が記されている。 それと、この作品の注目すべき点はナーデルのモガーン平原に於ける即位式の式典の内容が細かく記されていることである。ここから得られる情報はペルシヤ語年代記の情報を補いうるし、実に興味深いものがある。 しかし、注意すべき点として、クレタのアブラハムが一貫して、ナーデルに好意的な態度をとっていることがあり、それによって、負の部分が明らかに隠蔽されていることがある。例えば、ナーデルの即位に対して批判的な意見を持っていたモッラー・バーシーが処刑されたことなどには触れていない、などの点が指摘できよう。このことはナーデルがコーカサスのアルメニヤ人コミュニティに対して寛容な政策を採ったことに由来するのであろう。 この著作は 19 世紀後半に、フランスの Brosset による仏訳がなされて以来、一部がペルシヤ語訳されたこともあったが、英訳がなされたのは本書が始めてである。18 世紀のナーデル時代、イランとオスマン朝の関係を考える上でも重要な史料であるこのアルメニヤ語の作品に我々が接しやすくなったのは大変有り難いことである。 しかし、アルメニヤ語の素養のない評者にとって、この翻訳が果たして正確なのか否かは残念ながら判断できないが、やはり、飽くまで翻訳であることを注意する必要はあるだろう。せめて、Brosset の仏訳と対照させることは重要だろうと思われる。 また、訳者の Bournoutian 氏は、脚注に於いていくつかの間違いを犯して居られることから、その点も注意すべきであろう。 さらに、本書の末に付されている Commentary もいまいち物足りない。当時の代表的なペルシヤ語年代記と比べて、どこに価値があるかを簡潔に述べているのだが、せっかくなのだから、もう少し力を入れてほしいと思われた。 多少の問題点が指摘できるにせよ、本書が上梓された意義は小さいものではないであろう。ここで痛感するのが、我が国の中東研究に於ける、主要言語であるアラビヤ語、ペルシヤ語、トルコ語以外の史料に対する研究蓄積の薄さである。この作品を記したアルメニヤ語という言語に関しても、文法書、辞書、教育機関などが非常に乏しい。このような中東のある意味「マイナーな」言語に関しても、今後の課題として、取り組むべきことが求められるのではなかろうか。 最後に、付け加えておくと、訳者 Bournoutian 氏は本書の他にも Armenian Studies Series,3 として、Abraham of Erevan, History of the Wars という同じく 18 世紀のナーデル・シャー時代のコーカサスのアルメニヤ語史料を英訳している。(阿部尚史 東京大学・院・人文社会系)
参考文献 | |
R.グハ、G.C.スピヴァックほか |
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以下に記すこの短評は、およそ批評と呼べるようなものではないかもしれない。というのも、評者にとって本書との出会いはひとつの「衝撃」であり、その衝撃の強さを語るにとどまったのではないかと思うからである。評者自身はエジプト近代史専攻で、インド近代史研究とは直接の関わりは無いが、中東史研究という範囲で考えても、本書を紹介する意味は大きいと思われるので、「批判精神が無い」という非難を覚悟の上で、この短評を行っていきたい。(サバルタン研究に対する詳細な批判を知り
たいという方は、本書の「訳者あとがき」や最後にあげてある粟屋氏による論文などをご参照ください)
本書は、インド近代史研究の一潮流であり、1982 年に第一巻( Subaltern Studies:Writings on South Asian History and Society,New Delhi ) を上梓して以来、今日まで 10 巻に及ぶ論集を編集・出版し、最近ではインド近代史の枠組みを超えた広範な影響を与えているサバルタン研究グループによる論考の初の邦訳である。彼らについては、80 年代の後半からすでに日本に紹介されているが、それらによればサバルタン研究はその研究上の志向性から大きく前期と後期に分かれるとされており、本書はその傾向から前期サバルタン研究に属するとされる、1〜4 巻に所収された論文の中から選ばれた 5 つの論文によって構成されている。 まず、サバルタン研究自体の説明から始めると、グループ名ともなっている「サバルタン」とは、従属諸階級を示す用語で、前期サバルタン研究において中心的な役割を担った R.Guha の定義によれば、「階級・カースト・年齢・性別・職業、あるいはその他どのような言葉で表現されるにせよ、民衆が従属している状況を指す一般的な言葉」であるという。彼らは、この「サバルタン」概念を鍵として、これまでインド近代史研究において行われてきた歴史叙述を「エリート主義的」として批判し、声なき「サバルタン」たちの声を聞き取ろうと提唱する。そして、(多くがエリートによって記されたものである)歴史資料に内在する、エリートが一方的に民衆を「語る」という構造を指摘(この点で彼らには E.W.Said のオリエンタリズム批判と共通する問題意識がある)し、しかしサバルタン自身による資料がほとんどないという制約の中で、そうした権力性を帯びた資料を扱わざるをえないサバルタン研究の困難さを認識することを研究の出発点としている。 しかし、こうしたサバルタン研究の姿勢は、これまで歴史叙述の周縁に追いやられ、客体としてのみ描かれてきたサバルタン(民衆)を叙述の中心に置くことで、これまで中心を占めてきたエリートやその支配といったものを周縁や客体に貶めようとするものではない。彼らはそうした従来の歴史叙述における構造自体を批判しているのであり、むしろ両者のあいだの関係性を重視しつつ、叙述を行おうとしている。つまり、エリートや権力の側から民衆に対するモノローグとして歴史を描くのではなく、両者の「対話」(もちろん両者の間にある「支配」‐「従属」という関係をふまえつつ)として歴史を描こうというのが、彼らの(少なくとも本書における)基本姿勢である。 そして、こうした前期サバルタン研究の傾向を考えるとき、本書の構成は前期サバルタン研究の傾向を理解する上でも非常にバランスの取れたものといえよう。順を追って簡単に紹介すると以下のとおりである。 まず、サバルタン研究が拠って立つ立場を明確に表明した R.Guha による第一論文「植民地インドについての歴史記述」。また、先に述べた資料(テクスト)上の問題点を扱い、そこに内在するインド民衆に対する植民地政府のエリートや「エリート主義的」歴史観に立つ歴史家の諸言説を検討し、テクストの権力性を明らかにすることによって、サバルタン研究の方法論的基礎を示した、同じく R.Guha による第二論文「反乱鎮圧の文章」。 続いて、20 世紀初頭のインドの一地方における農民反乱を例にとり、当時の民衆運動の自律的性格を明らかにすると共に、インド民族主義運動において「指導的立場」にあった国民会議派とそのイデオロギーであるガンディー主義が内包していた、自律的な民衆運動を抑圧しようとする側面を指摘した、G.Pandeyによる実証研究である第三論文「インド・ナショナリズムと農民反乱―アワド農民運動、1919‐1922 年」。 さらに、第三論文でも考察されたイデオロギーとしてのガンディーの思想を別の視点から取り上げた、P.Chatterjee による第四論文「ガンディーと市民社会批判」がある。Chatterjee は、市民社会「包括的に」批判したガンディー主義を批判的に再検討し、それがインド民族主義運動においていかに支配的なイデオロギーとなりえたのかを考察している。この Pandey と Chatterjee の二つの論文を通して読めば、時として「民衆」史研究に向けられる、「エリートの役割を軽視している」という批判(実際、サバルタン研究にも向けられているようだが)が必ずしも当たらないことが分かるだろう。 本書の最後を飾るのは、「E.W.Said と並び称されるポスト・コロニアリズムの批評家」とされる G.C.Spivak が行ったサバルタン研究に対する批判的論考である第五論文「サバルタン研究―歴史記述を脱構築する」。これは、その後のサバルタン研究の方向性に決定的な影響を与えたとされる論文である。難解な点も多いが、いわゆる「現代思想」に関心のある方にもおすすめである。 本書に収録された論文だけでは、安易な批判はできないし、そもそも評者にとっては共感する点があまりに多く、それを伝えたいがために短評を書いたともいえる。ただ、確認しておかなければならないのは、実は評者が前でサバルタン研究グループの特徴として指摘したものと類似の研究姿勢は、評者の専攻であるエジプト近代史に限っても(知りえた限り、数は多くないが)存在しており、その点では彼らのみがこうした「革新的な」歴史叙述を展開しているわけではない。そもそも、近代ヨーロッパ史における革命や民衆運動に関する諸研究から彼らが影響を受けたことは明らかであるし、日本近代史研究におけるいわゆる民衆史研究にもサバルタン研究と共鳴する志向性があったことも事実である。 しかし、近代においてイギリスをはじめとするヨーロッパ諸列強によって植民地化された歴史を持つ中東地域を研究対象とするひとびとにとって、同様の歴史を持つインドという地から(サバルタン研究に参画している研究者すべてが、いわゆる「現地」の研究者というわけではないが)彼らサバルタン研究が投げかけた問いかけは、非常に大きな意味を持つように思われるのである。 最後に、インド近代史を専攻されている方や、彼らの問題関心にすこしでも共感を持った方からの本書、あるいはサバルタン研究全体に対する新たな批判的見解を聞いてみたいという「身勝手な」希望を述べて、この短評を終えることにしたい。 (勝沼聡 慶應義塾大学大学院修士課程)
【参考文献】
・後期(あるいは現在の)サバルタン研究について | |
前嶋信次著/杉田英明編 |
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『アラビアン・ナイト』(東洋文庫)の訳者として、また、日本におけるアラブ史料を用いた歴史研究の草分けとして、前嶋氏の名を知らない人はいないだろう。氏の著作は、なによりも、知ること・学ぶことの楽しみが溢れ、ファンが多い。このたび、氏の著作のなかから、既刊の単行書に収録されていない論文やエッセイを集めた著作選(全 4 巻)の刊行が始まった。第 1 巻は、千夜一夜物語をめぐる論考 9 編とその背景となる中東文化に関する作品 11 編が収録されている。
編者の杉田氏は、そのようなファンの一人なのであろう。膨大な著作から主題別に作品を選りすぐり、それを校閲して再録するという骨の折れる作業を行っている。再録にあたっては、原文を尊重し、あえて用字や用語の統一を行わず、最小限の誤りの訂正の止める、という方針をとっている。おかげで、古めかしいカナ表記もふくめて、発表当時の香りを味わうことができる。 巻末には、杉田氏の筆による「前嶋信次氏の人と業績」が付され、戦前、戦中、戦後の動乱のなかで著者や西アジア史研究のおかれた環境、そこでの著者の幅広い交友が、秘話もまじえながら綴られている。はるかに不自由な状況にありながら、そのときどきの機会を生かして研究を広げていった著者の姿をみるとき、現在の私たちの方が、かえって研究領域や交際範囲をみずから狭めているような気がする。 蛇足だが、私も某出版社に勤務していた時代に、杉並の前嶋氏のお宅にお邪魔したことがある。駆け出しの書生の質問にも丁寧にお答えくださった。また『イスラム事典』をお送りしたときには、「日本語で書かれた事典には、また格別の味わいがあります」との直筆のお手紙をいただいた。簡潔な感想にも、その人柄がしのばれるようで、今でも大切にしまってある。(三浦 徹) | |
Toru Miura & John Edward Philips |
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実は評者はこの本をまだ見ていない。したがってこれは短評ではなくて刊行の速報である。しかし、この本は我が IAS (イスラーム地域研究)の英語シリーズの記念すべき最初の一冊であるから、これくらいの逸脱は許されよう。この本の表紙の写真や購入方法などについては、IAS総括班の案内 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/IAS/Japanese/IASseries.html を御覧いただきたい。なお、当該のページの表紙写真をクリックすると、えもいわれぬ写真が出現する。必見である。それにしても、なんという趣味だろうか。嗚呼。この一文、この写真を紹介したいがためのものと誤解なさらないように。(森本一夫)
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