イスラーム地域研究5班
回顧 <Beyond the Border>

2-3: Human Mobility and Information

長野芳彦


 Session 2:The Influence of Human Mobilityの中にあって、またシンポジウム全体を通しても、Session 2-3はより包括的なテーマを掲げていると言える。そのため、本サブセッションの4発表は、以下のように多岐にわたっている。

 このことから、本報告ではサブセッションを全体として扱うというよりは、それぞれの発表について、報告者なりの見解を述べてみることにする。

 パルヴェヴァ氏の発表は、17-18世紀オスマン朝治下のバルカン地方における人の移動による情報伝達諸形態のうち、「巡礼」と「商業活動」を取り上げ、具体的な史料の記述を挙げながら、それらの過程におけるいくつかの様式やメカニズムについて概観する。この意味で、4発表の中では比較的本サブセッションのテーマに沿っていると言える。
 「巡礼」による情報伝達形態に関して、氏は以下のように整理する。

I:「口述による情報伝達」
I-1:巡礼の途上で巡礼者達が行う集まりや会話での情報交換
I-2:巡礼者達が地元へ帰ってきた際の地元の人々との情報交換
II:「書かれた情報の広がりの諸形態」
II-1:著者自身が巡礼者で、書かれた出来事に自ら加わった書物の場合
II-1-A:本の余白に書かれたpripiski- notesを介して
II-1-B:family chronicleを介して
II-1-C:聖地に実際赴いていない著者によって書かれた年代記や日記に見られる、巡礼者についての情報を介して(この形態がII-1に含まれることについては、疑問の余地があるが)
II-1-D:巡礼の旅行記を介して
II-1-E:学識のある巡礼者の手による聖地へのガイドブックを介して
II-2:情報を広める人々が、著者自身ではない場合(例えば、巡礼者が、聖地で参加した文学活動において「聖地に関する記述、手引き」を書写したり、訳したりすることや、巡礼者が聖地あるいはその途上で書物を買い求めることなど)
 以上を踏まえた上で、このようなバルカンから聖地への巡礼者の流れは、様々な情報の伝達にとっての主要な経路であった、とする。
 次に氏は、「商業活動」について、とりわけ氈F「法廷機関(judicial institutions)」と:「書物の取引」とを取り上げる。氓ナは、オスマン朝下のユダヤ教徒社会におけるラビ(rabbi、ユダヤ教指導者)の法廷機能に関して、その法廷記録やラビに関する書物から、情報の流れや交換のメカニズムの再構成を試みる。具体的には、ユダヤ教徒の死亡認定の「法廷会議(the court meeting)」と、ユダヤ教徒間の争いの調停とを見ていく。では、オスマン朝下では文化的機構を補助するメカニズムが無い中、書物の流通による情報の広がりのための主要経路は、書物商人の活動に多くをよっていた、ということを示す。
 バルカン地方のみならず、「巡礼」は、イスラーム世界やキリスト教世界において広く見られる。「商業活動」に関しては、より世界的で普遍的な人間の活動と言える。そうであるならば、他の地域、他の時代にもこれらの情報伝達形態は存在したのか、存在しなかったのか、あるいはその存在は歴史的に再構成されうるのか否か。存在したとすれば、どのような形態であったのか、上で見た以外の形態は存在したのか。氏によって提示された情報伝達形態のモデルを用いて、世界的に整理することが可能であろう。
 さらに、当然ながらこれらの情報伝達経路には、様々な情報が乗っている。体系的に把握された伝達経路上のこれらの情報を用いることによって、例えば「巡礼」あるいは「商業活動」についての研究は、より進展するのではなかろうか。

 「生」と「死」に関する態度というテーマは、先進技術の近年の発達と相まって、イスラーム世界において議論の的となっているという。この問題は、同様に世界的にも重要な課題であり、日本においても例外ではない。ラビーディー氏は、本発表においてエジプトとチュニジアにおけるこの問題に関する議論の展開について、詳細に示していく。その内容は、少なくとも近現代のイスラーム世界における医療分野について詳らかではない報告者にとって刺激的なものであったが、具体的かつ細部にまでわたっているためかえって体系的に把握しづらく、論が明解でないことは残念である。
 この問題に関する議論は、国家、市民社会、職業集団(医師達)、宗教組織(ウラマー、ムフティーなど)を巻き込んでいる。したがって逆に、この議論の展開をあとづけていくことによって、これら世論形成に寄与する人々の多種多様性が浮かび上がる、と氏は述べる。
 アッバース朝期に制度的に発展したアラブ医学によって養成された医師達は、その後19世紀にいたるまで医療の現場において困難に直面することになる。その困難の具体例として、「死体解剖(autopsy)」、「流行病(epidemics)」、「臓器移植(organ transplants)」と「『死』の定義」がここでは挙げられる。これらの問題は、近代医学の学校の創設など、エジプトやチュニジアにおいて19世紀から20世紀にかけての近代化を経ていく過程で、再浮上し、また変容していくこととなった、という。
 それらの中でも、とりわけ「臓器移植」と「臨床死の定義」の問題が重要であるが、この問題は、1980年代に入って浮上してくる。当時エジプトでは、主に環境的要因のために腎臓移植の需要が高まったが、このことは臓器の不法市場形成につながり、これを阻止するため、Prof. Ghoneimは、死体からの臓器摘出を提案することになる。
 ここで、「臓器摘出」に関連して、「心臓移植」が問題となる。つまり、移植のための心臓は、心拍が停止する前に摘出されなければならず、「脳死」による死の定義ということが問題化してくるのである。エジプトでは、Dr. Midhet Khaffagiが、死刑囚からの臓器摘出を提案、またこれらの問題に対する宗教的観点からの批判は不適切であると主張した。またチュニジア政府は、「脳死」を「死」と定義し、死者からの臓器摘出を認めた。これに対してSafouat Hassan Lotfiは、Khaffagiへの批判において、死刑囚は宗教的に定められた規則に従って刑が執行されなければならないとし、したがって「脳死」概念は宗教法に反すると主張した。これにより、エジプトにおける「脳死」の議論は停滞することになる、という。
 氏は、以上のような「生」と「死」に関わる議論の展開を概観することを通して、次のような問題を考えていこうとする。すなわち、「死体解剖」や「流行病」に対する一般的態度が、Muhammad Ali治下の近代医学分野の構築にともなって変容されたのはなぜか。ギリシア起源の科学技術とイスラームとは、共存しうるのか。科学技術が、経済措置のように手段として考えられ得ないのはなぜか。社会は、倫理的態度を捨てずに「臓器摘出」を行うために、どのように対処していくべきなのか。
 さらに、近年見られる新しい状況について言及する。すなわち、これらの議論において倫理的側面を保持する立場として、宗教的権威に加えて、「倫理委員会」、「市民社会の組織」、「メディア」などが台頭してきたことを指摘する。また、当該地域における科学の発達について、西洋の発達の歴史との、また知的・経済的エリートの断絶に対する流行病の効果との関連の中で考えられるべきである、という見方も出てきているという。
 例えば先に挙げた「脳死」概念に関して、欧米では、「死の判定は、医師というプロフェッションの臨床上の問題」であり、また「医師というプロフェッションの独立と自治の原則」という立場から、行政や法律、あるいは宗教は、「死」の判定の問題には介入すべきではない、という共通認識が得られているという(立花隆『脳死』中公文庫1988年80-83頁)。このことは、イスラームがこの問題に関して重要な位置を占めるエジプト社会とは、対照的である。このように、人類にとってのこの遠大な課題に対して、各々の歴史的文化的基盤を持つ様々な社会における諸議論の比較という観点から取り組んでいく上で、イスラーム世界におけるこれらの議論を扱う本研究は、意義があると言えよう。

 古くから、ブハラは工芸で有名であり、重要な交易センターであったが、19世紀にいたり宝石貴金属工芸の中心地となっていた。ニヤゾヴァ氏は、このようなブハラにおける、カスピ海西岸・ダゲスタン地方の村落「クバチ(Kubachi)」出身の銀細工師の位置づけについて取り扱う。発表では、スライドを用いて、実際の装飾品の様式や形態、具体的な装飾技術についても紹介がなされた。
 19世紀の初頭、コーカサスのダゲスタン地方は、様々な種類の工芸とその中心地として知られていたが、「クバチ」はそのうちの一つであった。9-12世紀のアラビア語の歴史書にはその名前は見え、14世紀には、ティムールに当地からくさりかたびらが献呈されたという。「クバチ」における銀細工師の工芸は、19世紀から20世紀初めにかけて隆盛を極め、その芸術様式は一躍全世界に知られることとなった。
 ブハラにおける「クバチ」出身の職人は、「カプハゾ(kaphazo)」あるいは「ラズギホ(lyazgiho)」と呼ばれた。彼らは長くブハラで仕事をしていたので、自分の工房を持っていて、専門的技術を当地の弟子に伝授していて、またブハラの一街区Shohi Ahsiに居住していたという。彼らは、若くしてブハラへやって来て、年老いてから故郷に戻るという。
 そもそも「クバチ」の職人がブハラへ移住してきたことの要因として、氏は次の3点を挙げている。すなわち、@彼らは職人であり、また商人でもあったので、民俗芸術の最高傑作を集めるため、頻繁に世界中を旅していたこと。Aアラブ・ムスリムの科学的伝統がダゲスタンに広まったことによって、イスラーム世界の聖地などの文化的中心地を訪れる伝統の実行がさらに強まったこと。B19世紀後半から20世紀にかけてと1940年代は、「クバチ」では銀細工師の工芸の発展にとって苦難の時期であったため、芸術家はロシアや中央アジアの大都市に仕事を求めていったこと。
 氏は度々ブハラの交易的・文化的中心性を強調する。そして、「クバチ」の職人がブハラを選ぶ理由を主にこのことに求めるが、例えば19世紀から20世紀にかけては、イスラーム世界において経済的にも、装飾品の分野においても重要な都市は他にいくつもあったはずである。この点について質問が出ていたが、氏は、経済的な要因についてはわからないとしながら、文化的側面で、@ダゲスタンにおいては、ナクシュバンディー教団が一般的であったこと、Aブハラにはハイクオリティーな職人が集まっていたこと、を挙げていた。ナクシュバンディー教団を通してのつながりということは、大変興味深い問題である。また当時のブハラが、他の諸都市と比べて相対的にどのくらい交易的にも文化的にも重要な位置を占めていたのか、ということを見ていくことによって、「クバチ」とブハラとの関係性がより一層明らかになってこよう。

 浅見氏の発表(既述の三人の共同研究であるが、発表は浅見氏が行った)は、他の発表とはアプローチが異なり、きわめて「理系」的なものである。対象として挙げたアナトリアの諸都市について、OHP上で、結論として「○」(イスラーム的である)、「×」(イスラーム的ではない)、「?」(判断保留)と表現した際には、会場はどよめいた。また、ペーパーに見られる様々な数式や指標は、残念ながら報告者の能力を超えている。
 彼らの研究ではまず、トルコ・イスラーム的街路ネットワーク(Turkish-Islamic street networks)が、他の文化的背景を持つ諸都市と見分けられるある特徴を持つ、と述べられる。その典型的特徴として、多くの袋小路、曲がりくねった狭い道、メインストリートの欠如からなる「有機的」ネットワークを挙げる。そして、イスラーム的街路ネットワークにとっての「真」の特徴とは何なのかという問題意識のもと、街路ネットワークに現れるイスラーム的特徴を最もよく測定する諸指標の有効な識別関数(efficient discriminant functions)を検討していくことが目指される。
 まず、イスラーム的特徴を持つとされるアナトリアの諸都市、アナトリアにありながらイスラーム的特徴を持たないとされる諸都市、その他世界各地の諸都市が挙げられる。そして、これらの諸都市に、グラフ理論概念(graph-theoretical notion)、イメージ(図像)分析(image analysis)、「空間構成」概念(the concept of "space syntax")などの諸指標があてはめられ、理論計量的にこれらの都市がイスラーム的か否かということが判断される。その一方、上記の過程を通して、イスラーム的な特徴を最も識別する指標を判断し、その後それを、イスラーム文化を継承していて街路ネットワークに部分的にイスラーム的なパターンが見られるイスタンブルのいくつかの地域にあてはめる。この指標は、イスタンブルのこれらの地域が、概して非イスラーム的な傾向を帯びているということを導き出した。そして、その理由として、当地の歴史的背景を援用している。
 ここで注意しておくべきことは、この研究において、実は大前提として、ある自明かつ確固なものとしての「イスラーム的」なものが既に規定されているということである。ある「イスラーム的」というものが了解され共有されている中で、「イスラーム」都市が諸指標によって「イスラーム的」であると判断されるのは、当たり前である。ここで探られる「識別する指標」は、何が「イスラーム的」であるかを判断する指標なのではなくて、「よりイスラーム的」なものは何かを「識別」する指標である、と認識しなければならない。本研究の成果は、認識を誤ればトートロジーに陥りかねないが、ある前提をあらかじめ規定した上で「イスラーム性」の「度合い」を見ていくという点では新しい視点であり、評価できよう。
 ただやはり、「イスラーム的」なものとははたして何なのか、ということは考えられなければならない課題であろう。この点に関しては、発表後質問が出ていた。少なくとも本発表においては、その出発点であるところのこの前提についての何らかの説明が必要と考えられるが、一般的なこと(例えば袋小路が多い、など)しか触れられていない。

 以上見てきたように、これら4発表のテーマは、多種多様である。本サブセッションのテーマ自体、様々な諸問題をカバーしうる広範なものであったことにも、その一因があると言える。このため、サブセッション全体に関しての議論もやや散漫になったことは、否めない。しかしながら逆に、それぞれの発表は、それ単独でも個々に重要な問題であるとも言えよう。したがって、それぞれの研究分野が進展していく出発点と考えれば、このサブセッションを意義あるものとして位置づけうるのではなかろうか。


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