イスラーム地域研究5班
回顧 <Beyond the Border>

Session 2-1: Human Mobility in History, Part One

澤井一彰


 「イスラーム地域研究」のひとつの節目となる国際会議が、1999年10月8日から10日にかけて京都国際会館で行われた。Human Mobility in History, Part Oneと題され、会議2日目の午前中に行われたセッション2−1においては、森本一夫(東京大学東洋文化研究所)、Yaacov Lev(Bar Ilan University, Israel), Taef Kemal el-Azhari(University of Helwan, Egypt)の各氏がそれぞれオリジナリティにあふれた発表を行い、参加者との間で活発な議論が展開された。以下においては、各氏の発表の内容を順を追って紹介するとともに、報告者による若干の感想を付したい。
 森本氏は、Diffusion of the Naqibship of the Talibids, A Study on the Early Dispersal of Sayyidsというタイトルからあきらかなように、イスラーム世界の歴史を理解する上で非常に重要な鍵であるにもかかわらず、これまでほとんど研究されてこなかった「ナキーブ(Naqib)制」の普及過程と、その担い手であるサイイド(Sayyid)あるいはシャリーフ(Sharif)などとよばれる人々の離散についての発表を行った。森本氏はまず、これまでの研究を「オリエンタリスト」による研究と「ムスリム研究者」による研究とに大別し、これらの研究視点について言及した。その上で、これまでの研究には見られなかった体系的な手法によって「ターリブ(Talib)家」を中心としたナキーブ職の普及と定着の実態をあきらかにした。ここで取り上げられたサイイドやシャリーフの離散とその結果は、まさにこのセッションのタイトルである「人的移動の影響」を考察した研究であったといえよう。
 今回の森本氏の発表は、その内容もさることながら、日本人研究者としてのイスラーム研究のひとつのあり方を提示したといえる。つまり、わたしたちは一部の欧米の研究者に見られるようなオリエンタリズムから比較的自由であるとともに、ムスリム研究者が陥りやすい「反オリエンタリズム」からも一定の距離を置くことができるということである。これはすなわち、より客観的な立場からイスラーム世界の歴史にアプローチすることができるということを意味する。そしてこれこそが、日本人研究者が今後、世界的に研究活動を行う際の大きな利点となるのではなかろうか。さらに、些細なことではあろうが、聴衆へのアピールや時間配分など、国際会議における発表の技術という点についても森本氏からは学ぶべきことが数多くあったのではないかという感想を持った。
 次のYaacov Lev氏は世界的にも数少ないファーティマ朝研究者であり、その著書State and Society in Fatimid Egypt, Leiden, 1991(書評:菟原卓『オリエント』36/1, 1993)はエジプトにおけるファーティマ朝の状況を理解するための貴重な一冊であるといえる。Turks in the Political and Military Life of Eleventh Century Egypt and Syriaと題された今回の発表において、Lev氏はAnushtakinというファーティマ朝に仕えたトルコ系マムルークの生涯に焦点をあてながら、現在もなお不明な点の多い11世紀のエジプトとシリア(いわゆる「歴史的シリア」:以下、単にシリアとする)、とりわけ後者におけるファーティマ朝の統治行政の実態をあきらかにした。それによると、わたし個人が持っていたイメージとはうらはらに、当時のシリアはファーティマ朝による支配が貫徹されておらず、さまざまな勢力が入り乱れる争奪の場であったという。とりわけ、いわゆる「ベドウィン」とよばれる人々がかなり組織的に行動し、ときとしてファーティマ朝やそれに仕えるAnushtakinをはじめとするトルコ系軍人の軍団を打ち破り、かなり広い地域に支配を確立していたことには驚かされる。また、現在のシリアの名産である石鹸が当時も主要な産業であったことや、11世紀においてはメッカへの巡礼路が(おそらくジッダ(Judda)を起点として)紅海からアイラ(Ayla:現在のアカバ)、ラムラ(Ramla)、ダマスクスを経てバグダードへ伸びていたことなどは商業史、交通史の観点から見ても、興味深い情報であろう。
 Lev氏の発表は、それぞれ活発な議論が行われた今回の三発表の中でも、最も多くの質問や意見が出されたことからもわかるように、非常に聞きごたえのあるものであった。ただし、この発表の内容と本サブセッションのタイトルであるHuman Mobilityとの関連性はうすいといわざるを得ない。またLev氏も述べているように、本発表の結論で述べられたファーティマ朝によるシリア支配の失敗の要因の検討は今後の課題として残された。Lev氏がこの問題を解決し、今回あまり言及されなかったこの時代の「人の移動」を含めたファーティマ朝のシリアの実態をさらにあきらかにされることを望みたい。
 セッション2−1の最後の発表は、Taef Kamel El-Azhari氏による、Human Mobility during the crusades, as seen in the writings of Ibn al-Athir 555-630 AH/1160-1233ADであった。タイトルは「Ibn al-Athirの記述にみる十字軍期の人的移動」であるが、その内容はIbn al-Athirの記述にとどまらず、ヨーロッパ人のものを含めた数多くの年代記や記録からの引用を含んだ重層的なものである。El-Azhari氏はまず、Ibn al-Athirの生涯やその著作であるAl-Kamil fi al-Tarikhの重要性について言及し、その後「トゥルクメンのレヴァント地域への移動」と「マグリビー(Maghribi)のレヴァント地域への移動」の両面から十字軍期の「人の移動」についての考察を行った。
 以降、El-Azhari氏は「トゥルクメン」と題された節において、十字軍国家に対するセルジューク朝の4次にわたる波状的な遠征について詳しく述べるのであるが、その内容はあくまでセルジューク朝の軍事遠征にとどまるものであった。たしかに、セルジューク朝による対十字軍遠征もレヴァントへの「移動」であることは否定できないが、わたし自身はHuman Mobilityという言葉は、単に軍事遠征のみならず、商人、巡礼者、ウラマー、ときには「民族」それ自体の移動といった、より多層的な「人の移動」を意味すると考えているため、El-Azhari氏が軍事遠征のみの記述をもってHuman Mobilityを論じることにはやや抵抗を感じた。続いて、El-Azhari氏はマグリビーのレヴァントへの移動について述べるのであるが、ここで例としてあげられる人物の多くは、たとえばアルメリアのAbu al-Hakam b. al-MuzaffarやコルドバのAbu Hamid、セヴィリアのIbn Arabi、ヴァレンシアのIbn Jubairなどアンダルス出身者であり、かれらをマグリビーとしてとりあげることが果たして可能であるかどうかについては、なお検討の余地があるのではなかろうか。
 また、発表の内容とは直接関連しないものの、El-Azhari氏の原稿には合計100以上にのぼる誤字や英文規則(たとえば、固有名詞の頭文字は大文字にすること、文頭は大文字にすることなど)の無視などがみられた。また、発表における時間制限の遵守なども発表内容以前の問題であろう。これらは事前の準備を行うことによってほぼ防止できるものであると思われる。より慎重かつ十分な準備が求められよう。
 サブセッションの最後に行われた討論では司会の私市正年氏から森本、Lev、El-Azhari各氏に対して、それぞれが専門とする世紀における「Human Mobilityのもつ意味」について質問が出され、時間が不足していたにもかかわらず、各氏とも今回の発表にひきつけた自身の意見を開陳した。最後の質問に代表されるようなサブセッション全体を通して出された質問や意見は、サブセッションを活性化し、多くの議論を呼んだ。この意味において、このサブセッションは非常に有意義なものであったといえよう。なぜなら、この会議全体の標語であったBeyond the Borderの言葉どおり、少なくともこのサブセッションにおいては、日本人研究者と外国人研究者との垣根は乗り越えられたと感じたからである。
 近年、歴史研究全体でこれまでの政治史、事件史一辺倒の研究姿勢が見直されつつある。この一連の動きの中で最も注目を浴び始めた分野のひとつがこのサブセッションの主題であるHuman Mobilityの研究であろう。今回このサブセッションで行われた発表は、そのすべてがHuman Mobilityそのものを対象とした研究であったとは言いがたい。しかしながら、ここで行われた数々の議論は今後のHuman Mobility研究、ひいては歴史研究全体の多様化に大きく寄与することは間違いなかろう。


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