イスラーム地域研究5班
回顧 <Beyond the Border>

Session 1-1: Dar al-Islam as an Ideology

森山央朗


 Session 1-1: Dar al-Islam as an Ideologyは、10月8日から10日にかけて3日間にわたって開催されたこの京都国際会議の最初のセッション、The Concept of Territory in Islamic Law and Thoughtの第一サブセッションとして、開会式に引き続いて8日の午前10時から12時までほぼ定刻どおりに行われた。このサブセッションにおいては、会場をほぼ満席にする聴衆を集めて、TAKESHITA Masataka(The University of Tokyo)氏の司会の下、Brannon WHEELER(University of Washington)、Michael LECKER(The Hebrew University)、Haideh GHOMI(The University of Tokyo)の3氏が発表を行った。
 最初の発表者であったWHEELER氏は、The Islamic Utopia: From Dar al-Hijra to Dar al-Islamという題目で、まずDar al-Hijraとして表される領域概念と関連した預言者の「残したもの(remains)」(品物だけでなくスンナやハディースも含む)の拡散と収集について述べ、つぎにメッカの聖域(Haram)とハッジの成立との関連において契約の箱(Ark of Covenant)に納められたモーセとアロンの「遺品(relics)」(物質的なものだけを指す)に関するムスリムの聖典解釈的理解に焦点をあて、この2点からムスリムの理念上の領域分割の様式に対する新しい視点を示すことを目指した。
 ムアーウィアが所持していた預言者ムハンマドの爪とシャツに関するタバリーの記述の紹介から始まるこの発表は、そうした預言者の「遺品」(毛髪、爪、衣服、杖等々)や足跡、預言者の「先例(example)」(スンナ)や「伝承(Tradition)」(ハディース)が、ムスリムの拡散につれて各地に伝達されつつ分散し、同時にそれらの預言者の「残したもの」がイスラームの拠点である諸ミスル(Amsar)に集められることで、それぞれのミスルが預言者の「残したもの」の「倉庫(depot)」として機能するようになっていったことを指摘する。そして、爪や衣服といった物質的な「遺品」はマスジドやマドラサなどのイスラーム的な施設の基礎となり、ハディースやスンナの拡散はハディース学やイスラーム法学などの諸学問の発展を促したと述べる。つまり、こうした、様々な預言者の「残したもの」が伝達され、それらが機能している領域を、ムスリムは文明(civilization)(或いは都市)と啓示による法(the law of the revelation)の領域・Dar al-Hijraとして想定していたと言うのである。それと同時に、こうした預言者の「残したもの」の伝達・拡散と収集という運動が、預言者の物理的/肉体的な不在と預言者との空間的/時間的隔絶を想起させ、またそれに支えられたものであって、それ故に、各ミスルとそこに暮らすムスリムは、それらの伝達の鎖を通してイスラーム的世界観の中心たるメッカ・メディナと預言者と結びつけられているということも示唆した。
 以上のように、文明と啓示された法が支配する領域として想起されるDar al-Hijraにおいて、各ミスルに伝達・集積された預言者ムハンマドの「残したもの」が、その文明と法を伝達し機能させることによってDar al-Hijraの理念的境界と理念上の性格を確定し、中心と結びつけることでその統一を保っていると考えられていることを明確にした後で、論述の焦点はモーセとアロンの契約の箱と聖域に関するコーラン中の旧約的モチーフのムスリムによる聖典解釈へとさかのぼっていく。最初に指摘されることは、契約の箱に納められた杖や布といった人工物は文明や啓示による法を表し、それらはムハンマドの「残したもの」の場合と同様に、預言者から預言者へと継承されてきたものであり、最初の預言者であり人であるアダムにまでさかのぼると解釈されていたことである。ここに至って、イスラーム的人類史の出発点、アダムの楽園追放にまでたどり着いたことになるが、ムスリムの解釈によれば、食料獲得のための営為(狩猟や農耕)、道具の製作、冶金、生殖行為といった文明的(或いは人間の生存のために必要)と考えられる諸行為は、楽園の中では行う必要のない、行い得ない行為であり、楽園追放の後、アダムが神の啓示によって始めるようになった行為であるとされていたことが、様々な事例とともに示される。つまり、契約の箱に収められた品々を通して、アダムからモーセ、アロンといった諸預言者へと伝えられ、さらに最後の預言者ムハンマドから彼の「残したもの」の拡散を通してDar al-Hijraを作り上げた文明と法は、そもそもアダムの失楽園に始まり、それによって規定される領域とは、楽園追放後の世界、神・楽園と人・現世の間に断絶がある世界に他ならないということである。
 これに対して、地上において一時的な楽園の再現として想定された領域が聖域である。この聖域は、楽園を追われてインドに降り立ったアダムが、神の啓示によって最初のハッジを行った際に作られたものであるが、そこでは上に挙げたような「文明的」な行為は禁止される。頭髪や爪を切ること、香水の使用、イフラーム以外の衣服の着用や性交、屠殺の禁止というハッジを行う人々に適用される規範やハッジ期間中の社会的階層の意味喪失といったことは、地上において楽園の生活を一時的に体験させるためのものであり、聖域を楽園が再現される空間として機能させるためのものであるというのである。つまり、聖域ではそれ以外の文明の領域・Dar al-Hijraで行わなければならないことが禁じられるということであり、規範の逆転によって特別な領域として成立しているということである。
 このように、そこに適用される規範の相違によって領域を分けるということが、例えば、Dar al-IslamとDar al-Harbを分けるのは、前者では禁止されている戦闘と略奪という行為が、後者では許され、むしろ推奨されることによるというように、ムスリムの理念的領域分割の様式の一つのあり方であり、Dar al-Hijraと聖域、Dar al-IslamとDar al-Harbといった理念的領域の境界線を確定し、それぞれの領域を成立させているのである。
 ここまでが、当日の発表で語られたことであるが、ペーパーの中の結論としては別のことが語られている。それは、上記のような諸領域のうちで文明と啓示による法の領域として想起されるDar al-Hijraに暮らすムスリム達にとって、預言者の「残したもの」によって各地に媒介されたとされる文明と法に則って生きることは、楽園追放後の世界を生きていることや預言者の不在を想起させることであり、同時にそうした「(預言者の)残したもの」を通してこそ、預言者に従う者達は再び預言者の下に集い、再び楽園にはいることが出来ると認識することであるということである。
 以上が、最初の発表者・WHEELER氏の発表の要旨である。この発表に対して、いくつかの質問・コメントが出された。その詳細はここでは省くが、本報告執筆者にとっては、預言者の爪や衣服の断片といったいわゆる「聖遺物」とスンナやハディースを、預言者の「残したもの」として同列に扱っていることが新鮮であった。物質的な「遺品」が主に社会/文化人類学的な研究の対象になってきたのに対して、スンナやハディースは専ら思想や法学の面から研究され、これらを、ともに預言者に発し時間と空間を越えて伝達されてきたと考えられているものとして一括して扱った研究は、少なくとも管見の限りでは、類をみないと思われるからである。確かに、この発表でWHEELER氏が扱っている預言者の「遺品」は、過去に関する文献資料上に現れるものであって、現在実際に見ることの出来るものではなく、その意味ではあくまで文献研究の域を出るものではない。しかし、それでもスンナ・ハディースの伝達と預言者の物質的「遺品」のそれがムスリムにとって基本的に同じ意味を持ち、それらを通して、文明と法の領域としてのDar al-Hijraが形成され、そこに住む人々を預言者に結びつけているという議論は、充分に注目に値するものであり、今後の展開が楽しみなものであると思われる。
 次にこの発表の問題点、というより戸惑う点としては、Dar al-Hijraと聖域という領域概念が専ら問題とされる一方で、肝心のDar al-Islamにほとんど言及されていない点であろう。議論の流れからすれば、Dar al-HijraとDar al-Islamをほぼ同義と扱っていると取ることが妥当かとも思えるが、Dar al-Islamという言葉が、上述のように、ムスリムの理念的空間分割法の一例としてDar al-Harbとの対比で語られていることや、Dar al-Hijraと並置されて言及されていることなどから、そのように理解するべきと確信を持つことが出来ない。何より、表題においてFrom Dar al-Hijra to Dar al-Islamとされていることから、この2つを別個の概念として扱っているようにもとれる。さらに、The Islamic Utopia: From Dar al-Hijra to Dar al-Islamという表題と後半部の議論を考え合わせると、恐らく曲解であろうが、楽園後の世界であるDar al-Hijraから神に対する絶対的な帰依の領域、すなわちDar al-Islam=The Islamic Utopiaへと預言者の「残したもの」や契約の箱の内容物を通してつながる世界観について述べた発表であったと解釈したくもなる。何れにしても、The Islamic Utopia、Dar al-Hijra、Dar al-Islamの3者の関係が、結局最後まで明確にされなかったことは、様々な興味深い指摘を含んでいただけに、残念であったと思われる。

 WHEELER氏に続いて発表を行ったLECKER氏は、On the burial of martyrsと題して、ヒジュラの1世紀の間に発展した殉教の概念について論じた。それ以前の前イスラーム時代に比べて戦闘の規模が飛躍的に拡大し外征や内乱で多くの戦死者を出したこの時代、最も困難であったのが、ムスリム同士の内乱での戦死者をどのように正当化し慰めるかということであったことをまず指摘する。それに対するムスリムの回答の一例として、シッフィーンの戦いに関して、シッフィーンの戦場はすでに「イスラエルの子ら(Banu Isra'il)」が9回戦った場所であるというユダヤ教徒の伝承を用いて、その戦いを人智を越えた神の計画の現れとして正当化し、そこでの戦死者を異教徒との戦いにおける殉教者よりも高い位の殉教者とすることが行われたことを紹介する。
 次に、異教徒に対するジハードの推進という点から、敵地において戦死し埋葬されることがムスリムの領域内で死んで埋葬されることに優越すると考えられていたことが述べられる。さらに、そうした異教徒に対する遠征での戦死者の墓が、ムスリム軍の最進出地点を示すある種のランドマークとして機能したことを、対ビザンツ遠征に関する豊富な事例を基に語り、また、ホラーサーンにおいては、ある地域で死去した教友は復活の日にその地域の人々の指導者となるというハディースを基に、戦死ではなくてもその地で死去した教友を殉教者とすることがあったことについて述べた。その他にも、敵地における緑の草原が殉教者にとっての好ましい埋葬地とされていたことと、埋葬され得なかった殉教者は鳥や獣の腹から復活するという言説が存在したことについても言及した。
 上記の諸点について、豊富な事例を示しつつ議論を展開した後で、結論として、殉教者に関する概念はイスラームの最初の1世紀に出現したと述べる。そうした殉教に関する概念は、ユダヤ教的なテーマをも利用し、著名な信仰戦士の周りに織り上げられた教訓物語の中に埋め込まれたとする。そして、こうした殉教にまつわる物語が成立した背景として、この時代にこうした物語を作り上げた学者達が、一方では大規模な内乱に直面し、もう一方で、兵士達に戦場で死んだり傷ついたりすることや、まともな墓さえないかもしれないことを覚悟させていたことを挙げた。つまり、こうした殉教にまつわる様々な言説は、為政者と学者の連携と大征服の軍事的成功がその背後にあったということである。
 この発表に対しては、AZHARI氏やYANAGIHASHI氏、MUSTAFA氏などから史料収集・操作に関する質問や殉教者(Shahid)の概念に関するコメントなどが出されたが、本報告執筆者は史料に関する問題に興味を引かれた。というのも、同時代史料が非常に乏しいイスラームの最初の1世紀を扱う上では、後代の様々な地域で成立した史料に書かれていることが、この時代のことをどこまで正確に伝え、どの程度書かれた時代の状況の影響を受けているのかということが重要な問題になると考えるからである。特にここで扱われた殉教者に関しては、時々の政治・社会状況に合わせて様々に再解釈され、そのつど新たな言説が創造されるということが起こりやすいテーマと思われる。本発表は、多くの事例を提示し聴衆を飽きさせなかったが、その事例の典拠を示していないなど、この点に関する考慮が充分に示されていなかったのではないかという疑いを禁じ得なかった。また、ここでもWHEELER氏と同様に、というよりそれ以上に、このサブセッションのテーマであるDar al-Islamについての言及が見られなかったことも挙げておかねばならないであろう。

 続いてこのサブセッション最後の発表者として登壇したGHOMI氏は、The Concept of Dar-al-Islam in Sufism: Special Reference Molana Jalal ed-Din Rumiという題目で、ルーミーの『マスナヴィー』の神秘主義的な詩句の分析を通して、スーフィズムにおけるDar al-Islamと様々な領域概念のあり方について論じた。ここで最も強調されたことは、ルーミーの領域概念が地理的なものであったり、地政学的なものであるのではなく、そこにいる人々の種類によって規定される属人的なものであるということであった。そうした領域設定のあり方として、ルーミーの『マスナヴィー』の中で言及されている3つの領域概念のあり方、モスクなどのイスラーム的なシンボルによって表象されるムスリムの占有領域としての「ムスリムの家」、教会等によって表される様々な宗教の信徒達の領域である「信者達の家」、そして、神に焦がれる者達、すなわちスーフィーの領域としての「(神を)愛する者達の家」を紹介した。なかでも特に「愛する者達の家」という概念が、地理的、地政学的な境界に制約されないこと、そこに属し、それを作り上げたスーフィーもまたそうした物質的な条件に意味を与えなかったということを、一連のルーミーの詩句を朗唱して提示したことは非常に効果的な説明であった。その後で、ルーミーがこうした物質的要素に束縛されない領域概念を強調した背景として、彼が地理的、地政学的な境界分割は人々に平安をもたらすことが出来ないと考えていたからであり、そのために、Dar al-IslamとDar al-Harbという人工的な領域概念ではなく、すべての人々の真の目的地である「愛される者(神)の領域」と対をなすものとして、「(神を)愛する者達の領域」という概念を導入したのではないかと述べて、GHOMI氏はその発表を締めくくった。
 以上の発表に対して、HANEDA氏や司会のTAKESHITA氏などから、ルーミーのマスナヴィーから抽出される領域概念がスーフィー全般に対してどこまで一般化できるのかということや、Dar al-Islam、Dar al-Harbという概念が常に具体的な地理的、地政学的なものであるというわけではなく、スーフィズムの中においても、抽象的観念としての意味を持つことも多いということが指摘された。しかし、本報告執筆者にとって最も気になったのは、スーフィズムにおけるDar al-Islamの概念というものが、先行する2つよりは言及は多かったと思われるものの、やはり不明瞭であったことである。

 以上が、このサブセッションで行われた3つの発表の要旨であるが、これに引き続いて総括討論が行われた。そこでは、YANAGIHASHI氏、OHTA氏、KURITA氏などが質問・コメントに立ち、内乱戦死者の持つ政治性や殉教者の墓が後のイスラム化の進展に果たした役割、Shahidの概念のユダヤ教・キリスト教との関連などについて発表者との間で定刻を迎えるまで議論が交わされ、このサブセッションは終了した。
 サブセッション全体を振り返ってみて、本報告執筆者が最も強く抱いた印象は、各報告に関するところでも繰り返し述べてきたが、結局、ムスリムの思想上の抽象的観念形態(ideology)としてのDar al-Islamというものにいかなるあり方があるのかということが明確にならなかったことであった。むろん、これには報告執筆者のこうした問題に対する素養の不足や英語力の欠如が大きかったことは否定しないが、3つの発表のどれをとっても、Dar al-Islam以外の概念が主要な問題となり、さらにそれがDar al-Islamといわれるものとどのような関係にあるのかということが充分に説明されていないとの観を払拭することが出来ない。つまり、3氏とも、このサブセッションのメインテーマとして設定されていた「観念形態としてのDar al-Islam(Dar al-Islam as an Ideology)」というものをメインテーマとして扱っていなかったということであり、このことは、Beyond the Borderという総合テーマを持つ国際会議の最初のサブセッションで、イスラーム的な境域設定の最大のものとしてのDar al-Islamを扱うことにしたのだろうという予想の下、Dar al-Islamという概念を正面から扱った様々な議論が聞けるものと期待していた報告執筆者にとっては、いささか意外であったし、最後まで戸惑い続けることになってしまった。
 とはいえ、そうした発表を聞くことで、かえって普段は何か自明のもとして扱われがちなDar al-Islamという概念が、実はいかに捉えがたいものであるかということが浮き彫りになったことは確かであり、その点からすれば、ムスリム諸社会のダイナミズムを理解するための新しい枠組みを巡って3日間にわたって開催されたこの国際会議の冒頭を飾るにふさわしいサブセッションであったと言うことは出来るだろう。  


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