Tobunken-GJS Workshop “Tokyo School Workshop : Tokyo School in Sociology”

Date and time: September 26, 2020 (Sat.), 10:00AM-3:30PM

Venue:Online via Zoom
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Speaker: SONODA Shigeto (University of Tokyo)
      NAKASUJI Naoya (Hosei University)
      YANO Yoshiro (Chuo University)
      YONEMURA Chiyo (Chiba University)

Comment: DEGUCHI Takeshi (University of Tokyo)
       SATO Kenji (University of Tokyo)

Language: Japanese

Program:

午前の部(司会:園田茂人(東京大学))
10:00~  趣旨説明(園田茂人)
10:20~  第1報告(中筋直哉(法政大学))
11:00~  第2報告(矢野善郎(中央大学))
11:40~  コメント(出口剛司(東京大学))

午後の部(司会:中筋直哉)
13:00~  第3報告(米村千代(千葉大学))
13:40~  第4報告(園田茂人)
14:20~  コメント(佐藤健二(東京大学))
14:40~  質疑応答・総括討論
15:25~  総括・挨拶(園田茂人)

Abstract:

1) 福武直の選択
 中筋直哉(法政大学)

 富永健一『戦後日本の社会学』(2004,東大出版会)における福武直批判を「福武直の選択」として読み解く。なぜ彼は学者人生の時々において富永が批判するような選択をしたのか、その結果、戦後日本の社会学にどのような経路あるいは隘路が開かれたのかを考えてみたい。具体的には5つの選択を検討したい。すなわち1.戸田社会学からの離反、2.ウェーバー学問論への固執、3.日本民俗学への冷淡、4.マルクス主義への浅慮、5.政策科学への未練、である。

 結論の見通しとしては、富永の批判にもかかわらず、私たち現代の(東大出の)社会学者も依然として「福武直の選択」を繰り返し生きてしまっていることを指摘したい。すなわち彼の選択の本質は、富永が批判するようなマルクス主義への積極的関与、迎合にあるのではなく、目の前の社会、言論状況への積極的関与、迎合にあり、それこそは体制内エリート養成所たる東大における学問の現在に至る特長であり、欠陥でもあるからだ。逆に言えば東京学派への歴史社会学的批判とは、マルクス自身がそうであろうとしたように、常に自分が埋め込まれた環境全体に抗い続けるような、批判的な知の主体を生産する学問運動、インダストリーとなり得ているかどうかを問うことにあるのではないか。

2) 「聖典」なき正統?「預言者」なき学派?―東京大学の社会学におけるヴェーバー(の希薄さ)
 矢野善郎(中央大学)

 戦後日本の社会科学の展開において,マックス・ヴェーバーがもった特異な意義は,しばしば強調されてきた。しかしこと東京大学の社会学では,ヴェーバーの著作が「聖典」とされた時期があったわけでもなく,ヴェーバーを旗頭にかかげる指導者が「学派」の核になったこともない。とりわけ象徴的なのは,1964年に本郷で行われたヴェーバー生誕百周年記念シンポジウムであろう。経済学の大塚久雄を筆頭として,他学部からはいわば「スター」が登壇したのに対し,東大社会学の教授陣は司会にとどまり,当時は若手であった富永健一や折原浩が報告している。確かにこの両名はその後も対照的な形でヴェーバーと格闘し続け,東大の社会学者でヴェーバーを論じたといえばこの二人ということになろう。かたや反マルクスの流れをうけつぎ,なかばパーソンズと一体化されたヴェーバーを論じた富永(本郷)と,近代批判者としてのヴェーバーをテキストに沈潜することで明らかにしようとする折原(駒場)。ただし対照的であり競争的であるとは言え,これは正統と異端をめぐる党争には展開しなかった。こうした流れは,戦後の東大社会学の「学派」としての特徴の一つを物語る――ヴェーバーも,デュルケムも,マルクスでさえも,結局,旗頭になることはなかった。

3) 家族研究における戦前/戦後の諸潮流―家族変動論の一つの困難―
 米村千代(千葉大学)

 日本の家族変動を100年程度のスパンで考えようとすると、戦前/戦後という区切りをどのように捉えるかという問題にぶつかる。その間に太い線を引く研究もあれば、線を引き直す研究、断絶ではなく連続性で捉える研究もあり、これまでに多くの議論があった。本報告では、「封建遺制」批判や、家族の民主化・近代化への情熱、「家」と「村」へのまなざしの変容を振り返り、家族研究が何を中心課題として、何を周辺化していったのかを探りたい。何をもって東京学派と呼ぶか、本考察から直ちに答えを導き出すことはおそらく出来ないが、いくつかのキーワードから家族社会学における潮流がどのように変容していったのか、その一端を示すことを目指したい。

 家と村の構造を解明することは、日本の農村社会学の大きな課題であった。そのなかで同族概念は、農村構造を明らかにする一つの中心概念であった。しかしながら、ある時期から同族や村落の研究は家族研究において周辺化され問われなくなる。変わって注目を集めるのが都市家族であり、アメリカ社会学である。本報告では、日本における家族社会学の展開過程において農村と家がどのように位置付けられてきたか、「封建遺制」に関する議論に焦点を当てて整理する。そこには、家や村を語ることの困難が、困惑や沈黙として現れている。さらに、戦前からの小家族論の系譜もふまえつつ、その後の家族研究の展開にも触れることとする。

4) 東京学派の中の「社会学アジア・コネクション」:その歴史的回顧と教訓
 園田茂人(東京大学)

 洋学の一領域として輸入された社会学は、陽明学に通じた建部遯吾による「普通社会学」の提唱を経て、1920年代以降、戸田貞三らによってローカル化の道に舵を切る。欧米の研究群の圧倒的な影響を受けつつも、実証研究として社会学を発展させることで、日本の社会学は実質、日本研究の一領域として成長・発展を遂げることになった。

 戦後の東京大学における社会学研究室を支えた尾高邦雄と福武直は、それぞれ海南島、華中農村をフィールドに実証研究を志すようになるといった稀有な経験を持つが、その後、冷戦体制の中にあって、アジア地域との結びつきは細いままだった。これが中国の改革・開放によって変化を見せるようになり、2000年代以降のグローバル化の進展とアジアの発展を背景に、東京大学の社会学も(自国以外の)アジア研究との接点を多く持つようになる。

 本報告では、東京学派の社会学に焦点を当て、そのアジアとの結びつきを回顧することで、社会学に見られる東京学派の特徴を概観するとともに、その功罪を論じてみることにしたい。

Organizer: JSPS Research Project "The Tokyo School"

Co-organizer: Global Japan Studies Network (GJS), Institute for Advanced Studeis on Asia (IASA)

Contact: gjs[at]ioc.u-tokyo.ac.jp