ASNET -東京大学 日本・アジアに関する教育研究ネットワーク--

主催イベント

アジアを知るーエジプト映画『678』から

  • シンポジウム

ASNETは中東映画研究会と共同で以下のシンポジウムを開催しました。
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【Report】

2016年1月26日(火)、情報学環福武ホールにて、ASNET・中東映画研究会主催、東洋文化研究所およびセンターセミナー共催のシンポジウム「アジアを知る― エジプト映画『678』から/Knowing Asia: Through Egyptian Film 678」が開催された。今回のシンポジウムでは、ASNETの副ネットワーク長の池本幸生氏(東洋文化研究所・教授)が開会の言葉を述べた後、ムハンマド・ディヤーブ監督の『678』(2010年、エジプト)を上映、その後、中東人類学、英米文学、クィア・スタディーズを専門とする三人のコメンテーターのコメントおよび質疑応答を行った。

本作の主人公は三人の女性である。タイトルの「678」とは、カイロ市内の公営バスの番号であり、この路線バスで通勤する公務員のファイザは、車内での痴漢行為に日々悩まされ続けてきた。工芸作家のセバは、夫と訪れたサッカー場で男たちに囲まれ、性的暴行を受けて以来、女性のための自己啓発セミナーを主催するようになった。コールセンターで働くネッリーは、受話器から聞こえる言葉の嫌がらせに苛立ちを募らせていた。ある日、路上で痴漢被害に遭い、性的危害をめぐる訴訟を起こした。

本作の物語は、エジプトで実際に起こった出来事をもとにつくられたものだという。2008年、27歳のエジプト人女性が路上での性的危害についてエジプト最初の裁判を起こした。犯人は懲役三年の実刑判決を受け、その後エジプト刑法には、公共空間での性的危害を取り締まるための条項が盛り込まれた[Sareh el-Shaarawi 2013]。ムハンマド・ディヤーブ監督へのインタビュー記事によると、この裁判を傍聴した監督は、性的危害・被害に対する男女の意識の違いや、その経験が語られないことに問題意識を抱いたという。本作において監督は、加害者・被害者双方の視点を捉えるとともに、その経験を描き、性的危害・被害の背後にある社会構造を浮き彫りにした[Murphy 2011]。

最初のコメンテーターである中東のジェンダー人類学を専門とする鳥山純子氏(日本学術振興会・特別研究員)は、結婚、恋愛、性の一致(ロマンチックラブ・トライアングル)という西洋近代的男女関係のモデルとの比較から、現代カイロにおける男女関係について、以下の点を指摘した。第一に、そこにおいては、男女関係の中での情緒的つながりとしての恋愛が、結婚や性に比べて軽視されがちであること、第二に、情緒的つながりの発現としての性行為が重要視されていること、第三に、女性身体の隠蔽をはじめとする社会的な性の隠蔽が、現代カイロにおける過度な性の重視と捉えうるということである。これら三点を踏まえた上で鳥山は、『678』が、セクシュアル・ハラスメントという性の問題を中心にストーリーを展開させたことで、カイロ社会における性に寄せられる過剰な関心の存在と、それを支える社会的背景(経済的事情による結婚の難しさ、階級によって異なる性の隠し方など)を描き出していることを評価した。

英語圏文学およびフェミニズム理論を専門とする松永典子氏(帝京大学・講師)は、『678』がフェミニズムにとって歴史的かつ同時代的な視点の敷衍におもに三つの点で成功していると述べた。第一に、異なる階級の女たち(セバ、ファイザ、ネッリー)の出会いの契機となったディスカッショングループは、伝統的にはフェミニズムにおける重要な運動であり、とくに1960年代、70年代の英語圏で大きなムーブメントとなった意識高揚運動の系譜が読みとれる。第二に、本作が描く移動の(不)自由(セバのジョギング、ファイザの通勤)もまた伝統的にフェミニズム作品において女の解放を描く際に用いられるテーマである。

三点目として興味深いのは、本作が、そうした一見すると定型とも思えるテーマを、物理的自由に留めず、暴力の意味を敷衍させながら発展させている点である。本作において、セクシュアル・ハラスメントとは、性の暴力のみならず、経済的暴力であり、女の声を「聞かない」という言語的暴力であることを描いている。つまり、セクシュアル・ハラスメントとは社会に重層的な問題と絡み合うものである。本作で繰り返し描かれる交差点の場面は、女たちへの暴力の現場であると同時に、その暴力の意味を転換させうる価値転覆的なクリティカルな瞬間となり得ることを示唆している。松永氏によると、以上のような意味において、『678』は、フェミニズムの文法に則っているだけでなく、フェミニズムの現代的問題に対する問いを投げかける優れたフェミニズム映画であるという。

クィア・スタディーズを専門とする森山至貴氏(東京大学・助教)は、『678』にはフェミニズムが長く解決を模索してきた重要な問い、すなわち「多様な女性たちがどのように連帯することが可能か」、に対する解答が示されていると指摘した。森山によれば、それは、映画全体を通じて描かれる、女性らしさの諸要素が3人の女性の間で動き続ける、「アイデンティティの転移」の表現によって可能になっている。例えばセバの作るアクセサリー、男性を刺す行為、髪型や服装の変化にそれを見ることができ、特定のモノを身に着ける人物や特定の行為を行う主体はストーリーの中で一人の女性から次の女性へと次々と移り変わっていく。他者の変容は私の他者理解を結果として裏切るゆえ、「アイデンティティの転移」は、3人の女性たちの相互理解を難しくし、終盤近くまで3人の女性の間の距離を拡げ続ける。他方、「アイデンティティの転移」は、他の女性を過去や未来の自分の中に見出す想像力の契機ともなる。それゆえ、ファイザがセバの髪型について「今も素敵だけれど前もよかった」と褒める映画のラストシーンは、その想像力の行使ゆえの連帯が達成されたシーンとして、説得力をもって観客の胸を打つのである。

森山氏は、一貫せず、変化するものとしてのアイデンティティを肯定的に評価する本作が、アイデンティティ・ポリティクスの両義性を扱ってきたクィア・スタディーズの発想とも通底すると指摘した。最後に、女性たちの連帯が男性との関係性に依存せず(「頼る」ことと「切り捨てる」ことのどちらかのみを正解とするのではない仕方で)描かれる点も評価した。

以上のコメントの後、参加者からの質疑とコメンテーター三氏による応答が行われた。最後に閉会の辞として、中東映画研究会の顧問でもある長澤榮治氏(東洋文化研究所・教授)が本作を「地域研究にとって資料的な栄養価の高い秀作」と評するとともに、こうした映画をそのまま「資料」にするのではなく、映画の背後にあるものについて考えを深めることの重要性に言及した。(モデレーター及び報告文責:後藤絵美)

参考:

Mekodo Murphy, “Interview: Mohamed Diab” (Mar. 2011) http://www.nytimes.com/video/movies/100000000753112/mohamed-diab.html

Sareh el-Shaarawi, “Egyptian director Mohamed Diab talks about his film on sexual harassment,” (Oct. 2013) http://africasacountry.com/2013/10/egyptian-director-mohamed-diab-talks-about-his-film-on-sexual-harassment/

  

 

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【日 時】
2016年1月26日(火) 17:00-20:30

【会 場】
東京大学 情報学環 福武ホール

【題 名】
アジアを知る:エジプト映画『678』から

【テーマ】「解放」
 タイトルの「678」は、カイロ市内の公営バスの路線番号。このバスで通勤する公務員のファイザは、車内での痴漢行為に日々悩まされてきた。工芸作家のセバは、夫と訪れたサッカー場で男たちに囲まれ暴行を受ける。コールセンターで働くネッリーは、受話器から聞こえる言葉の嫌がらせにうんざりしていた。ある日、路上で痴漢被害に遭い、彼女の怒りは頂点に達する。
 2011年革命に向かうエジプトを舞台に、女性たちの日常生活を描いた本作品を通して、本シンポジウムでは人々にとっての「解放」とは何であるのかを考えてみたい。

【プログラム】
17:00 開会の言葉 池本幸生(東京大[ASNET副ネットワーク長])
17:10 第1部
    映画『678』上映
    監督 ムハンマド・ディヤーブ
    アラビア語(日本語字幕: 後藤絵美) 90分, エジプト, 2011年
18:50 休憩(コーヒーブレイク)
19:20 第2部
    司会:後藤絵美(東京大学)
    コメント
    松永典子氏(帝京大学)
    森山至貴氏(東京大学)
    鳥山純子氏(日本学術振興会)
19:50 質疑応答
20:20 閉会の言葉
    長沢栄治氏(東京大学[中東映画研究会顧問])

【使用言語】
日本語

【参加費】
無料

【定 員】
120名

【コメンテーター紹介】

鳥山純子氏(日本学術振興会/桜美林大学 特別研究員)文化人類学、中東、ジェンダー研究
松永典子氏(帝京大学 理工学部 講師)英語圏文学、フェミニズム
森山至貴氏(東京大学大学院総合文化研究科 助教)社会学、クィア・スタディーズ

【主 催】
東京大学日本・アジアに関する教育研究ネットワーク(ASNET)
中東映画研究会

【共 催】
東京大学・東洋学研究情報センター・セミナー