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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 北淸事變出兵に關する閣議決定(北清事変出兵に関する閣議決定)

[場所] 
[年月日] 1900年7月6日
[出典] 日本外交年表竝主要文書上巻,外務省,193‐194頁.
[備考] 
[全文]

 明治三十三年七月六日

過日北淸ノ事變ニ對シ閣議決スル所ノ要旨ハ我邦ノ責任頗ル重大ナルト財源豐ナラス軍資乏キヲ以テ先ツ英國其ノ他各國ニ照會シ然ル後方針ヲ決定セントスルニ在リシモ爾後形勢日ニ愈々危急ヲ報シ又猶豫スヘカラサルモノアリ因テ更ニ熟考スルニ列國ノ援軍未タ遽ニ到ラス北淸ノ形勢益々危急ヲ吿ケ列國共同ノ命運殆ト我ノ決意如何ニ係ル時ニ際シテ我國ハ宜ク速ニ方針ヲ定メ列國ヲ助ケテ長驅北京ヲ突クカ又ハ天津連合軍ノ急ヲ救ヒ其ノ覆亡ヲ脫レシムルニ止ルカ二者其ノ孰レカヲ擇マサルヘカラス今淸兵北京及蘆臺方面ヨリ天津ヲ合擊セントシ其ノ相距ル旣ニ甚タ遠カラス而シテ天津ニ在ル列國連合軍ハ無慮二萬ニ超エス孤軍ヲ以テ客地ニ據リ加フルニ壘壁堅カラス糧食豐ナラサルヲ以テ勢久ク防禦ニ堪フル能ハサルヘシ英ハ印度ヨリ佛ハ安南東京ヨリ各々兵ヲ派シテ之ヲ救ハント欲スト雖モ其ノ大沽ニ達スルハ蓋シ本月下旬ヨリ八月上旬ヨリ前ナルヲ得ス獨ノ遣兵ノ如キニ至テハ早キモ九月初旬ナラサルヘカラス夫レ斯ノ如ク荏苒久ニ彌リ外ハ救援ノ臻ルナク內ハ大沽天津ノ道ヲ絕タレ糧秣彈藥漸ク盡クルニ至ラハ天津ハ遂ニ陷落ヲ免レサルヘシ若シ天津ニシテ陷落セハ大沽亦遂ニ守ル能ハス或ハ不幸全軍覆沒ヲ見ルニ至ルモ亦未タ知ルヘカラサルナリ若シ不幸ニシテ此ノ敗ヲ看ルニ至ランカ四方ノ亂徒相競フテ起リ延ヒテ南西地方ニ及ハハ勢各地總督ノ力之ヲ制スル能ハス全淸國ヲ擧ケテ無政府ノ境域ト化シ去ルヘシ此ノ時ニ當テハ列國大兵アリト雖モ復タ容易ニ之ヲ鎭壓スル能ハサルナリ此ヲ以テ軍略上之ヲ云ヘハ我邦ハ宜ク先ツ二箇乃至三箇師團ノ兵ヲ發シテ天津ヲ救ヒ列國諸軍ト與ニ道ヲ分テ北京ヲ突キ淸國政府ヲ膺懲シテ反正ノ實ヲ擧ケシムヘシ若シ曠日彌久結永ノ期漸ク近クニ迨テ初メテ兵ヲ出サハ北京ノ攻略得テ望ムヘカラス而シテ禍亂漸ク大ニ征服愈々困ラン

又飜テ政略上ヨリ之ヲ觀レハ英佛獨ハ皆遠ク師ヲ出スヲ以テ到底多數ノ兵ヲ遣ル能ハス露ハ其ノ境ヲ接スト雖モ西伯利亞ヲ隔テ急ニ大兵ヲ送ル能ハス北淸地方ニ大軍ヲ行ルノ便アル者ハ獨リ我邦アルノミ今ヤ各國公使ハ北京ニ在テ危急ニ迫リ孤軍僅ニ天津ヲ守テ赴キ援クル能ハス況ヤ敵軍優勢ヲ以テ之ニ臨ミ人心洶々日ニ救援ヲ望ムノ時ニ方テ我邦ハ地理ノ便ヲ有シ數十萬ノ陸兵ヲ擁シ各國或ハ之ヲ促スモ僅ニ數千ヲ發スルニ止リ敢テ遽ニ赴キ援ケスハ內ハ國民ノ輿望ニ對シテ政府當然ノ職責ヲ怠ルノ議ヲ免レ難ク外ハ列國遂ニ我ヲ異圖アリト疑ヒ又ハ前年ノ仇ニ報フト爲シ猜忌永ク解ケス怨ヲ後來ニ構フニ至ランコトヲ恐ル今ヤ列國ノ援兵未タ到ラス天津大沽ノ軍敵ニ苦ムノ時ニ方テ急ニ大兵ヲ以テ之ニ赴カハ以テ彼ノ地ノ重圍ヲ解キ進テ北京ノ亂ヲ平クルコトヲ得へク撥亂ノ功概ネ我ニ歸シ而シテ各國ハ永ク我ヲ德トセン且北淸ノ禍亂ニシテ久ク治ラス南淸亦其ノ禍ヲ被ルニ至ラハ我國民經濟ハ過半敗亡ニ歸シ財政亦遂ニ其ノ累ヲ免ルルコトヲ得ス之ヲ要スルニ軍略上ニ於ケルモ又政略上ニ於ケルモ我邦ハ急ニ師ヲ出スヲ以テ利アリトスヘク此ノ際旣ニ動員ヲ命シタル一師團ノ兵ハ先ツ急ニ之ヲ發遣スルノ必要ヲ認ム

 明治三十三年七月六日閣議

  (總理大臣 花押)