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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 伊藤淸國特派大使に對する外務卿訓令(伊藤清国特派大使に対する外務卿訓令)

[場所] 
[年月日] 1885年2月25日
[出典] 日本外交年表竝主要文書上巻,外務省,102‐103頁.
[備考] 
[全文]

二月二十五日付

去年十二月六日朝鮮國漢城ノ變ニ於ケル日淸交涉ノ件ニ付我天皇陛下ハ特ニ貴官ヲ選命シ淸國政府ト平和ヲ保全スル爲ニ此事ヲ辨理シ及ヒ善後ノ事宜ヲ商議スルノ全權ヲ以テ之ヲ委任セラレタリ余ハ聖旨ヲ奉シ更ニ左ノ訓令ヲ以テ貴官ニ交付ス

漢城ノ事變ニ於テ我公使ハ朝鮮國王ノ倚賴ニ由リ友國ノ好誼ヲ重ンシ入テ王ノ躬ヲ護レリ考信ノ璽書現ニ存シテ案ニ在リ而シテ公使ハ不意ニ外兵ノ侵ス所トナリ不得已シテ防守ノ地ニ立ツヲ致セリ此ノ事、實ニ平和ノ交際ヲ犯スノ所爲トス

朝鮮變亂ノ事實ハ載セテ別冊漢城事變始末書及ヒ査明事實書ニ在リ其他一切ノ案件文書ヲ以テ之ヲ貴官ニ付ス

思フニ前日兵隊不意ノ變ハ淸國政府ノ豫期スル所ニ非サリシナルヘキモ淸國派出ノ武辨ハ一時倉卒ノ事情ニ迫ラレ此意外ノ侵暴ヲ爲セシナルヘシ而シテ淸國政府ハ其派スル所ノ官辨ノ所爲ニ對シ其責ニ任セサル事ヲ得サルハ當然ノ通義ナリトス

其他我商民ノ漢城ニ於テ亂殺サレタルハ其中難ヲ逃レテ生還セシ者ノ口供スル所ニ據ルニ其幾名ハ淸國兵ノ爲ニ殺サレタリ又公使ノ王宮ニ在リ淸國兵ノ侵擊ヲ被ルノ際ニ我公使館留守ノ僚員ハ淸國兵ノ朝鮮亂民ノ中ニ混シ前來シ、公使館ノ墻圍ニ向ヒ發槍スルヲ目擊シタリ

此等意外ノ侵犯ニ向テ、我國ノ虧損ヲ回復スル爲ニ充分ナル要求ヲナスノ權利アリトス但シ我政府ハ兩國ノ和好ヲ重ンシ殊ニ此事變ハ彼國政府ノ造意ニ出ルモノニ非サル事ヲ洞知スルカ故ニ徒ニ議論ヲ增長シテ以テ事端ヲ滋ス事ヲ好マス寧ロ推讓ノ區域ニ於テ滿足ヲ求ムルニ止メ及ヒ將來ノ爲ニ善後ノ事宜ヲ商辨スルノ方向ヲ取リ以テ兩國人民ノ爲ニ平和ノ幸福ヲ得セシメントス

故ニ我國ノ淸國ニ向テ要求スル所ハ左ノ二點ニ止ムヘシ

 一 十二月六日ノ變ニ兵隊ヲ指揮シタル將官ヲ責罰スル事

 一 漢城駐在ノ兵ヲ撤スル事

第一項ノ理由ハ旣ニ前文ニ備ハル其處分ノ輕重ノ如キハ彼レノ國法ニ任セサル事ヲ得スト雖トモ少クトモ其現職ヲ罷免シ及ヒ其處分ヲシテ照會文書ノ中ニ言明セシムルハ我カ要求ニ於テ必要トスル所ナリ

第二項ハ則チ專ラ朝鮮ニ於ケル兩國交涉善後ノ事宜ヲ圖ル者トス蓋兩營相對ス、勢伏火ノ如シ、嗣後、兩國政府ハ縱令何等ノ注意ヲ取ルモ恐クハ其無事ヲ保ツ事能ハサルヘシ國柄ヲ握ル者ヲシテ稍遠慮スル所アラシメハ朝鮮善後ノ事宜ニ於テ多言ヲ俟タスシテ必已ニ默會スル所アラン

淸國政府ニシテ若シ我カ提出スル所ヲ聽納スル事ヲ吝マサルナラハ我政府ハ均シク好意ヲ表スル爲ニ淸國カ其兵ヲ撤スルト同時ニ於テ我公館ノ護衛ヲ併セテ撤去スル事ヲ爲シ得ヘシ

若シ此レニ反シテ淸國政府ハ遠大ノ良計ヲ顧ミスシテ我カ提案ヲ聽納スル事ヲ爲サヽレハ我國モ亦已ムヲ得スシテ國各々自衛ルノ義ニ據リ韓地駐留ノ兵ヲ以テ充分ニ其力ヲ備ヘサル事ヲ得ス此場合ニ於テハ假令一時目前ノ平和ヲ保タントスルモ歲月ヲ出スシテ漢城ノ變再三ニ發シ兩國政府ハ其預計スル所ノ外ニ於テ遂ニ看ス々々大局ヲ破ルノ不幸ニ陷ルヲ免レサラントス而シテ事ヲ滋シ釁ヲ啓クノ責ハ卽チ淸國ノ自ラ任スル所トナラントス

但シ淸國政府ニ於テ縱令我カ提案ニ同意シタリトモ或ハ迅速ニ撤回スル事能ハサル事情アルモ知ル可ラス又迂延シテ歲月ノ久キニ亙ル事アルモ計ル可ラス此場合ヲ避クル爲ニ遲クトモ成約ノ後三個月マテニ全部ヲ撤回スルヲ以テ期ト爲サシムヘシ

前陳ノ辨法ハ貴官カ總理衛門ノ各大臣ニ向ヒ反復商論シ兩項共ニ滿足ナル答復ヲ得テ妥結成約ニ至ラン事我政府ノ信シテ疑ハサル所ナリ

 明治十八年二月二十五日

  外務卿伯爵

   井上 馨