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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 京城事變處理に關する井上外務卿訓令(一)(二)(京城事変処理に関する井上外務卿訓令)

[場所] 
[年月日] 1882年8月20日
[出典] 日本外交年表竝主要文書上巻,88‐90頁.
[備考] 
[全文]

本官儀本月十四日馬關出發去ル十八日歸京即日參內馬關ニ於テ貴官ト面晤ノ情節詳細御面奏ニ及ヒ尙後來淸使ニ應スルノ方略等左ニ開載候

今回淸國政府出兵ノ目的ハ之ヲ忖度スルニ左ノ二途ニ在ルヘシ

第一 朝鮮國ハ淸國ノ屬邦ナリトノ辭柄ヲ以テ名義トシ一面ニ於テハ朝鮮政府ヲ保護シテ內訌ヲ平定セシメ他ノ一面ニ向ツテハ朝鮮政府ヲシテ我要求ヲ滿足セシメ速ニ平和ノ局ヲ結ヒ我兵ヲシテ朝鮮ノ地ヲ退去セシメントノ目的ヲ以テ好意ノ媒介者タラント欲スルニ在ルヘシ

第二 前條ニ反シ日淸間嚮キニ臺灣ノ擧アリ後ニ琉球ノ事アルヲ以テ此際ニ乘シ保韓ノ名ヲ藉リ我ニ向ツテ開戰ヲ挑ミ一ハ以テ屬邦ヲ保護スルノ實ヲ擧ケ一ハ以テ積憤ヲ霽サントスルニ在ルヘシ

彼若シ第一策ノ平和主義ニ出テ日朝ノ間ニ居リ調停媒介ヲ爲サント謀ルトキハ我ニ於テハ其隣交ノ情誼懇篤ナル事ヲ鳴謝シ且ツ吿ルニ我ハ朝鮮政府ト我政府訓令ノ趣旨ニ照ラシ直接ニ協議スヘク此際他邦ノ媒介ヲ煩ハササルヘシ乍去朝鮮政府ヲシテ我要求ヲ容レシムルノ手段ヲ朝鮮政府ニ勸誘スルノ議ヲ提出スル事アルトキハ日淸兩國間ノ情誼ヲ重ンスルノ意ヲ鳴謝セサルヲ得ス併シナカラ朝鮮政府ニ要求スル事件ニ付テハ貴官淸使ト直接ニ談判ヲ遂クル能ハサル旨ヲ以テ之ニ答へ若シ淸使强テ直接ニ兩國ノ間ニ立チ媒介者ノ任ヲ負擔セント言フカ又ハ朝鮮政府ニ代リ談判セントノ論ヲ主張スルニ於テハ我レハ我カ政府ノ訓令ニ依ラサルヲ得ス且ツ我レハ他ノ媒介ナシニ七ケ年前ニ締フ所ノ條約ニ依ルノ外他ノ方法ナキヲ以テ言ヲ立テ之ヲ辭シ淸國ニ於テ若シ好意ノ處分ヲ望ムトキハ先ツ朝鮮政府ヲ勸諭スル事專一ナル旨ヲ暗ニ誘導スルヲ可トス而シテ淸政府ハ平和ノ主義ヲ以テ朝鮮政府ヲ誘導シ直接ニ我ニ向テ媒介ヲ爲サス陰ニ朝鮮政府ヲシテ此紛議ヲ速ニ絡局ニ至ラシムル如キ手段ニ出ル時ハ我ヨリハ之ニ喙ヲ容ルルニ及ハス其意ニ任スヘシ若シ又淸使ヨリ屬邦ノ論ヲ提出シ來ルトキハ此點ニ關シテハ訓令外ノ事件ニ有之且ツ朝鮮政府ニ要求スル事柄ノ外他點ニ涉ルノ問題ハ此事件ノ濟ミタル上他日淸日兩政府直接ニ論決スヘキ事ニシテ貴官ト拙者トノ間ニ談決スル能ハサル事ナリトノ旨趣ニ基キ論破スヘシ而シテ淸政府ハ朝鮮政府ニ向テ此事件ノ結局ヲ平和ニ誘導スル事ヲ妨ケサルノ意ヲ論諭スヘシ

或ハ淸朝連合シテ我ニ向テ屬邦ナリトノ論ヲ主張スルモ測ル可カラス果シテ然ラハ我ヨリハ力メテ其論ニ干涉セス元來屬不屬ノ論ハ今日朝鮮政府ノ難事ヲ和解セシメントスルトキニ方リ提議論定スヘキ事ニ非ラス其故ハ日朝ノ條約ハ元來他國ノ媒助ニ依ツテ以テ締結セシモノニ非ラス即チ朝鮮政府自ラ斷行スル所ナリ若シ强テ此論旨ヲ主張セント欲セハ須ラク此紛議ヲ終了シタル後ニ於テ徐々淸日政府直接ニ萬國公法ニ照ラシ其條理ノ在ル所ヲ推究シ之ヲ斷決スルモ晩キニ非ラサルヘシトノ論ヲ以テ飽マテ直接ニ朝鮮政府ト談判ヲ遂ケラルヘシ

今般ノ談判ハ馬關ニ於テモ旣ニ面陳セシ如ク渾テ迅速ニ結了スル事ヲ喫緊トス故ニ京城ニ直入シ且城內ニ屯營ヲ定メ速カニ日ヲ期シ國王ニ謁見ヲ乞ヒ成ル可ク而シテ大院君ト直接ノ談判ニ涉ラサルヘキ旨御談話申置候得共國王自ラ同君ハ守舊鎖國說ヲ開國說ニ一轉シタリトノ命アラハ直ニ同君ニ面會スルモ妨ナカルヘシ而シテ大院君ト會晤スルノ一段ハ最モ注意スヘキ事トス然レトモ大院君旣ニ開國說ヲ唱へ舊政府ト同主義ヲ操ルトノ旨ヲ國王明言セハ此場合ニ於テハ開談ノ初ニ當リ大院君曾テ攘和ノ碑ヲ八道ニ建設シ又暴動前ノ檄文幷ニ兵士トノ密約書即チ金玉均徐洪範朴義之ト內約セシ所ノモノニシテ此等ノ文案ヲ得ルヲ必要トス云々ノ如キ其證左ヲ示シテ之ヲ推問シ果シテ舊說ヲ一變セシニ相違ナキヲ明言セシムヘシ而シテ彼ニ問フニ我政府要求スル點ヲ處分シ得ルヤヲ以テシ彼之ヲ承諾セハ乃チ內訓ノ條々ノ大意ヲ以テ我政府ヲ滿足セシムルノ處分ヲナスヘキ旨ヲ書契ニ載シ其席ニ於テ認メシメ且翌日ヨリ其ケ條ニ付談判ヲ始ムルヲ約シ談判ニ取掛ルヘシ是則違約躊躇ノ患ヲ確然防範スルナリ然ル後ニ時日ヲ移サス速ニ面談ヲ爲スヲ可トス

右申進候也

 明治十五年八月二十日

  外務卿 井上馨

 辨理公使 花房義質殿

  (二)

朝鮮政府ハ事ヲ左右ニ寄セ時日ヲ遷延スルノ計ニ出ルモ難計此場合ニ於テハ我レハ最後ノ書函ヲ用ヒ以テ其決答ヲ强迫スルノ一方アリトス

大意左ノ如シ

 兇徒我使館ヲ破毀シ國旗ヲ凌辱シ官吏ヲ刄殺シタル不可忍ノ暴擧ニ對シ我政府ハ仍ホ平和ノ手段ヲ用ヒテ以テ相當ノ謝罪賠償及將來ノ保證ヲ得テ兩國ノ和好ヲ保續センコトヲ期望スト雖トモ貴國ハ反テ左右遷移シテ明白ノ答辭ヲ爲サス我使臣ヲシテ幾ント使事ヲ終ルノ望ヲ夫ハシメタリ今五日(又ハ七日十日)ヲ期シ約ヲ爲ス貴國若シ飜然圖ヲ改メ我カ要求ヲ是認シ以テ前日ノ缼ヲ補ヒ兩國ノ大局ヲ全クセン事ヲ思ハハ須約期內ニ於テ國王殿下ノ委任ノ證憑アル使臣ヲ・・・・・ノ所ニ送リ(又ハ書面ヲ送リ)以テ承諾ノ誠意ヲ表明シ更ニ何日ニ於テ訂約完結ス可キノ期ヲ言明シ其言二三ナキヲ證徵ス可シ若シ期日(即何月何日)ヲ過キテ使臣(又ハ書面)ノ來ルナキニ至ラハ是レ乃チ貴國已ニ自ラ敝國ニ絕チ斷乎トシテ和好ノ意無キナリ敝國只タ公理ニ憑リ力ノ有ル所ヲ盡シテ以テ兇暴ヲ懲創シ我カ國旗ノ辱ヲ洗フノ一方アル事ヲ得ルノミ兩國ノ大事方ニ此極ニ迫レリ惟貴・・・・・・之ヲ再思セヨ萬遷延スルコト能ハサルナリ

右ハ其御許ニテ場合ニ應シ可然御起草且御施行可有之事ニ候へ共大意耳申遣候

右最後書簡實行セントスルノ場合ニ至候ハハ我軍機ヲ誤ラサル爲ニ豫メ特ニ郵船ヲ發シ急報ヲナス事必要ナリ

又各國駐在ノ使臣又軍艦ニ對シテハ相當ノ報知ヲ爲シ以テ局外國ト交際ノ禮ヲ全クスル事ヲ怠ラサル可シ

 明治十五年八月二十日

  外務卿 井上馨

花房辨理公使殿