データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 第15回ILOアジア太平洋地域会議 野田内閣総理大臣 特別演説

[場所] 京都
[年月日] 2011年12月4日
[出典] 首相官邸
[備考] 
[全文]

1.歓迎の挨拶

 日本国の内閣総理大臣、野田佳彦です。晩秋に彩られた古都・京都の地で、歴史あるILOアジア太平洋地域会議が開催されるのは、大変に意義深く、そして喜ばしいことです。世界各国からお越しいただいた皆様を心から歓迎いたします。

 御承知のとおり、日本は今、世界中からの温かい励ましに支えられながら、本年三月に発生した東日本大震災からの復興を力強く進めています。この間、各国政府、労使関係者からいただいたご支援に改めて感謝申し上げます。大震災の影響でいったんは延期となっていた国際会議が、季節は変わっても、当初の計画通り我が国で開催されることは、復興の道を歩む確かな証の一つとして、我が国の国民を大いに勇気づけてくれるものです。ご尽力をいただいたソマビア事務局長、山本アジア太平洋地域総局長、アルナシフ・アラブ地域総局長をはじめとする関係者の方々に改めて感謝を申し上げます。

 さらに、今回の会議の日本開催は、我が国の労使の皆様の並々ならぬ御協力によって、実現することができました。このことは、我が国が政労使の社会対話を重視することの証となるものであります。御列席されている古賀日本労働組合総連合会会長、西田日本経済団体連合会副会長を初め、労使の皆様方に厚く御礼申し上げます。

 アジア太平洋において、いかにして将来に持続可能な形で「働きがいのある人間らしい仕事」を広げていけるのかという点が、今回の会議のテーマだと伺っています。グローバルに繋がった経済が我々に次々と難問を投げかける現代において、「働く」ということの意義をどう捉え直すべきなのか。これは、各国の政労使が真摯に向き合わなければならない、シンプルではありますが、本質的な命題です。

 その解を導く作業は、決して単純ではありません。刻々と変わる経済の諸条件を変数としながら、社会正義と経済合理性の問題が交錯する、極めて複雑な方程式を解いていかなければならないからです。そして、私が日本国内でこれから取り組もうとする「分厚い中間層の復活」という課題とも極めて密接な関係を持っています。

 本日は、私の問題意識の一端と我が国のこれまでの取組について言及しながら、これから四日間にわたる皆さんの議論の端緒を切らせていただきたいと思います。

2.社会的包摂を伴った均衡ある経済成長を実現するために

(1)「分厚い中間層」が支えた高度成長

 我が国でILOアジア太平洋地域会議が開催されるのは、1968年以来、実に四十三年ぶりになります。半世紀前の日本は、戦後の荒廃から立ち直り、人類の歴史においても類例のない高度経済成長の道をひた走っている最中でした。

 高度成長期には、我が国の経済全体のパイが大きくなるとともに、国民一人当たりの所得も着実に伸びていき、日本国民は「額に汗して働けば、今日よりも明日は必ず良くなる」という確かな自信に溢れていました。そして勤労の対価として、テレビ、冷蔵庫、洗濯機といった新しい家電製品を手にし、5年、10年の間に、目に見える形で生活が便利になっていったのです。国民経済の向上と一体となった豊かさを一人ひとりが実感できる、そうした希望に溢れた時代でした。

 その最大の原動力となったのは、確かな社会保障制度に支えられた「分厚い中間層」の存在です。高い経済成長の果実は、決して一部の富裕層に偏在することなく、国民の大多数を占める中間層に均霑されました。中間層が豊かになり、その購買力が高まることによって更なる経済成長が呼び込まれる好循環が作られていたのです。

(2)各地で顕在化する「中間層の危機」

 私が敢えて「中間層の厚み」を強調するのは、今、世界の至るところで「中間層の危機」とでも呼ぶべき事態が同時進行しており、世界各国が共通して抱える課題ではないかと感じているからです。実際、様々な統計資料では、先進国も含め、多くの国々の内部で貧富の差が拡大し、「社会の二極化」が拡大している傾向が見て取れます。

 「富を独占する1%とその他99%」を区分して、「ウォールストリートの占拠」を訴えたニューヨークに集った米国の若者たちの行動は、その象徴的な出来事だと言えるのかもしれません。かつては「一億総中流」といわれた我が国においても、この数年来、「格差社会」が論じられて久しくなっています。途上国の多くでは、そもそも中間層と呼ぶべき階層が育っておらず、多くの人々が日々の生活にも困窮する貧困の問題に直面しています。

 こうした二極化の進展は、社会正義の観点から、それ自体が大きな問題を孕んでいることは論を待ちません。格差が世代を超えて固定化してしまうような事態となれば、社会システム全体への信頼が失われ、社会の安定さえ揺るがしかねません。しかし一方で、分配の公平性を重んじるあまり、競争とその結果を完全に否定してしまっては、社会の活力は失われてしまいます。

 社会の活力を維持しながら、いかにして社会的なセーフティネットを構築していくのか。経済成長と雇用創出に向けた明確な戦略づくりと具体的な制度設計に各国は知恵を絞ることを求められているのです。

(3)グローバル化の光と影を冷静に見つめる

 各国の中で格差が拡大した原因を「グローバル化」それ自体に求める向きがあります。グローバルにつながった世界経済のもとでは、ヒト、モノ、カネ、サービス、情報などあらゆる事象が国境を越えて移動し、かつてないほどの規模とスピードで経済活動が進行しており、世界大での競争が激化している側面があることは間違いありません。

 しかし忘れてはならないのは、このグローバル化は、何よりもアジア太平洋地域の経済面での著しい台頭をもたらし、誰よりも、この地域に住む人々にとって、大きなチャンスを新たに提供しているということです。新興諸国で急速に育ちつつある新たな中間層は、大きな市場を生み出す原動力となり、かつて日本が経験したような高度成長をもたらし、世界全体の経済を牽引していくことが期待されています。

 こうした大きな「チャンス」を生み出すグローバル化は、格差を拡大しやすくする効果があるかもしれません。また、これまでは十分な経済成長に見合う十分な雇用創出がなされてこなかったとの指摘もあります。しかし、だからと言って、時計の針を強引に戻し、繋がってしまった世界を遮断することはできません。

 私たちは、グローバル化から逃げず、その便益を最大限に追求しながら、賢明な政策対応によって、グローバル化のもたらす社会的な課題に対処し、負の影響を適切にコントロールしていくべきです。今問われているのは、グローバル化とうまく付き合っていく工夫であり、各国がどれだけ意識的、戦略的な対応を取れるかということなのです。

3.グローバル経済のもとで「分厚い中間層」を復活するために

(1)グローバル経済のリスクとセーフティネット

 前回会合以後の五年間に、世界経済は百年に一度とも言われる世界経済危機の激動を経験しました。我が国もその影響を大きく受け、多くの若者や非正規労働者が仕事や住まいを失い、生活の基盤をなくし、大きな社会問題となりました。

 そして、現在も、欧州発の債務危機は不気味な広がりを見せており、頻発する自然災害、一次産品の価格の高騰など、世界経済が抱えるリスク要因は枚挙に暇がありません。

 グローバルに繋がった世界では、様々な形態の「危機」も容易に国境を越えて伝播し、一国の問題は金融やサプライチェーンを通じて他国にも悪影響を及ぼします。ひとたび危機が顕在化すれば、その悪影響は「雇用」を通じて労働者の生活を直撃し、最も立場の弱い人々に甚大な影響を及ぼすのです。

 地域におけるディーセント・ワークの実現のためには、何よりも、こうしたリスクに備えた社会的なセーフティネットを幅広く張っておくことが欠かせません。重要なことは、一時的に失業しても、それを新たな職業能力や技術を身につけるチャンスに変えられるようにすることです。我が国では、そうした考えに沿って、去る10月から、職業訓練、生活支援、就業支援を一貫して行う新しい制度を始めたところです。

 高度成長期の日本の「分厚い中間層」を支えてきたものの一つは、その時期に確立した社会保障制度だと先ほど申し上げました。我が国は、戦後、労働法や社会保障制度などのセーフティネットを少しずつ充実させ、今も絶えざる「カイゼン」を続けています。我が国としては、こうした自らの経験を生かし、ILOと協力しながら、域内におけるセーフティネットの構築に尽力していきたいと考えます。

 今般の会議において、自然災害時における雇用対策をテーマとした特別セッションを主催するのも、東日本大震災での経験で得た教訓と知見を、全世界の自然災害の40パーセントが集中するアジア太平洋地域と率先して共有したいと思うからです。有意義な議論が行われることを期待します。

 また、アジア太平洋地域の多くの国々でも、あと10年もすれば、日本と同じような超高齢化社会が到来します。その先駆けとなる我が国は、少子高齢化のもとでも持続可能な社会保障制度を確立させ、この地域全体のモデルとしていきたいと考えています。

(2)雇用の創出に向けた戦略的な対応

 個々人の就労支援を中心としたセーフティネットは重要ですが、それだけでは、雇用の場が生み出されるわけではありません。ディーセント・ワークを確保するためには、雇用を生み出す企業とも協調し、その積極的な投資を促す環境整備が欠かせません。

 2000年代に入って以降、我が国は、ややもすると市場の機能を重視し過ぎるあまり、「雇用」への影響に重きを置かずに経済政策を展開しがちでした。厳しい雇用情勢への対処が求められる中で2009年に誕生した民主党を中心とする政権は、そうした過去の経済政策の反省に立ち政策哲学の再構築に取り組みました。

 その成果が、2010年6月にまとめた「新成長戦略」です。その中で、「雇用の創出」を中心的な課題に位置付け、雇用の確保を通じて国民の将来不安を払拭し、経済成長を推進するとの立場に立つことを明確にしたのです。

 「新成長戦略」の示したもう一つの新たな政策哲学は、地球環境問題や少子高齢化などの「社会的課題」の解決に資するような技術やサービスによって新たな需要を生み出し、それを雇用に結び付ける、というものです。いわゆるグリーン・ジョブの推進や、医療や介護分野では、規制改革や人材育成策を組み合わせて、新たな雇用創出につなげていこうとしています。

 そうしたディーセント・ワークに繋がる新たな「雇用の場」づくりにも、ILOなどの国際機関とも協力しつつ、様々な知見を提供し、我が国として積極的に貢献していきたいと考えています。

4.終わりに

 我が国では、古くから、働くことは単に賃金を得るためだけではなく、何かを成し遂げる達成感、あるいは社会に役立つことの喜びをもたらすものと考えられてきました。

 これは「ディーセント・ワーク」の考え方と底流で通じるものがあると考えます。働きがいのある人間らしい仕事に自分の居場所を見いだし、活躍の出番に誇りを持つ。これは皆様の母国でも同じように求められていることだと思います。

 雇用には、人々の生活を支え、豊かにするという経済的な側面と共に、働くことを通じて人々に「居場所」と「誇り」を提供するという社会的な意義があります。「分厚い中間層」を復活させることは、一人ひとりがその能力を発揮できる場を作るという意味合いを含んでいます。

 グローバル経済の下で、「中間層」は様々な試練に直面しています。しかし、その厚みを増していく経済社会を構想し、その実現を図ることは決して不可能ではありません。その実現のためには、雇用の質を守り、セーフティネットを拡げ、人への投資を大切にすること、すなわちディーセント・ワークを基盤とすることが欠かせません。そして、成長によるパイの拡大を目指しながらも、それを自己目的化せず、格差を固定化せず、貧困を生まない社会を目指し、社会参加の機会と経済成長の果実がすべての人にいきわたる社会を実現させることにあります。

 日本は、国内の「分厚い中間層」の復活を端緒として、世界へと広げるための貢献を続けていきます。将来の世代へも持続可能な未来へ向けて、すべての人が希望と誇りを抱くことのできるアジア太平洋の地域づくりに共に取り組んでいこうではありませんか。

 本来ならば、この後、古賀連合会長のご挨拶、あるいは西田日本経団連副会長のご挨拶もお聞きをしてから帰ろうと思っておりましたが、スピーチが終わったら、中座をさせていただくことをお許しをいただきたいというふうに思います。

 最後になりますが、今回の会議で有意義な議論が積み重ねられること、そして御参加の皆様の更なるご発展とご健勝をお祈りして、私の発言を締めくくらせていただきます。

 御清聴ありがとうございました。