データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 第16回国際交流会議「アジアの未来」 鳩山内閣総理大臣スピーチ

[場所] 東京
[年月日] 2010年5月20日
[出典] 首相官邸
[備考] 
[全文]

【はじめに】

 ご出席の皆さん、アジア各国から政治、経済、学問の分野で活躍しておられるリーダーをお迎えして、アジアの将来について議論する場でお話をする機会をいただき、大変嬉しく、光栄に思っています。

 昨年の11月、APEC首脳会合が開催されましたシンガポールで、私は「東アジア共同体構想」、すなわち、「開かれた地域協力」の原則に基づく、EPAの拡大、環境問題の克服と持続的成長、防災・医療、あるいは海賊対策や海難救助といった分野での協力を提案いたしました。本日は、それらに共通する人的な協力と文化の面での協力に焦点を当ててお話をさせていただきたいと思います。

【自分のアジアとの交流の原点】

 私にとって、初めての外国人の親友は、高校時代の、インドネシア出身のアグス・ソレワ君でした。外交官のお父様とともに来日したアグス君とは、この会場から大体5kmほどにある小石川高校で同級生でした。花形サッカープレイヤーで、全校的な人気者でした。高校卒業後に母国に戻ったアグス君は、通信関係の事業を興してインドネシアを中心に活躍されていますが、彼との友情は、今でも変わりません。

 2004年12月のスマトラ沖での巨大地震から間もないある日、アグス君から一本の電話がありました。「ユキオ、この地震が、どれだけの被害をもたらしたか、この天災の大きさを自分の目で確かめてくれ」。

 当時、私は影の外務大臣として、親友の依頼に早速インドネシアに飛びました。彼の案内で訪れたバンダ・アチェは、ほとんど人気のない死の町と化していました。惨状にショックを受けた私は、帰国後、様々な救済策を政府に要望し、そのいくつかは実施をされました。

 もちろん、災害復旧や救援に関する協力が、個人的な友情のみに依存するものであってはなりません。しかし同時に、やはりこういった危機的状況にあっては、個人的なつながり、海をまたいだ長年の交友のような人的信頼こそが、危機や苦難に立ち向かう協力の礎になる。私はアグス君との強い絆を通じてこのことを痛感したのです。

 スマトラ沖地震を遡ること約10年、阪神・淡路大震災は、6400名を超える方々が犠牲となる大惨事でした。神戸は私の妻の故郷でもあり、多くの友人・親戚も住むこの地域が受けた打撃は、個人的にもとても辛いものでした。しかし、この災害が、救援・復旧活動を通じて日本人の連帯感を強め、日本に数多くのNPOを生み育てる大きな契機になったことも事実です。同時に、世界中から、なかんずく、アジアの近隣諸国から多くの支援や現地における救援への応援をいただいたことを、日本は、そして私は、決して忘れることはありません。

 東アジアの多くの国々と地域は、地震の群発帯を抱えるほか、台風など災害の多い地域です。また、アジアの多くの国々は、いまだ十分な保健衛生体制を構築できていませんし、新型の感染症の危険は、国境を越えた共通の脅威です。こうした問題への対処一つをとっても、近隣諸国間の協力関係は不可欠です。

 日本の諺に「遠くの親戚よりも近くの他人」というものがありますが、近隣に親友がいればこれほど心強いものはありません。大規模災害や新型感染症など、命に関わる脅威に関して、私たちは、文字通り、同じ船に乗っているのです。われわれ東アジア人にとって、今こそ、目先の利害や打算を超えた真の友情を取り結ぶべき時が来たのではないでしょうか。

 アグス君と私のように、多感な青春時代に、肩書なしに同じ学生という立場で共に学び、活動した友人を思い浮かべることができる国については、その国全体のとらえ方も全く変わります。それが隣の国、更にその向こうの国へと連なっていくことで、人々の信頼や共感の輪が広がり、地域共同体の基礎が築かれるのではないでしょうか。これが、私が提案する東アジア共同体構想の原点です。人と人との血の通った交流があってこそ、「いのちの共同体」が育まれるのです。

【東アジアは文化を礎にした共同体】

 東アジアは、欧州とは様相を異にし、多様な宗教や文化が存在し、経済的発展段階もまちまちです。多くの地域が海で隔てられているため移動も容易ではない、そういったことを理由に、東アジア共同体構想など実現不可能だとする意見もあるようです。

 しかし、果たしてそうでしょうか。国境を越えた共同体の根幹は、人と人との交流、若者と若者の、掛け値なしの交流にあると信ずることは夢想にすぎないのでしょうか。

 今年、奈良に首都平城京が置かれてちょうど1300年になります。奈良とアジアの連なりという意味での「NARASIA(ならじあ)」という造語をキャッチフレーズにした記念事業が年間を通じて大規模に営まれます。平城京は、シルクロードの終点として、中国・インドからギリシアやオリエント地域までの文化が伝えられた「文明の博物館」でした。中国から伝わった漢字に基づいて万葉仮名が創案されたのも、この時代です。ユーラシア大陸の各地から伝来した文物を基礎としながら、我々は独自の日本文化を創造してきました。その後も、例えば鎌倉時代には南宋の文明を受容し、また、近代以降は和魂洋才という言葉のとおり、西洋の文化も取り込んで我が国独自の文化が育まれました。日本の文化は独特であり、誇るべきものでありますが、元を辿れば、海を渡って伝わってきた世界中の叡智、とりわけアジア各国の文化にそのルーツを見出すことができるのです。

 1300年前、あるいはそれ以前から、朝鮮半島、中国、東南アジア、更には南洋ポリネシアから、この小さな島国を目指して、多くの若者が夢を求め、希望を持って、時に荒れ狂うアジアの海を、手こぎの船や小さな帆船で、文字通り命がけで渡ってきました。彼らは、よちよち歩きだった日本国の、新しい国作りに参加をし、我々の文化の基礎を築いてくれました。

 私は、東アジアの海を争いの海にしてしまった、この百年の不幸な歴史は、二度と繰り返してはならないと堅く信じています。歴史を更に数百年、千年の単位で遡れば、この海は知恵や技術を伝え、また、人材の交流をとりもって、東アジアに豊かな文化を発展させてきた実りの海でもあったことがわかります。海は、言語の違いや宗教の対立を生み出すのではなく、こうした差異を融合させて相互に発展する礎でもありました。そうでなければ、この地域に暮らす多くの人々が「アジア人」としての自覚を有することも、このフォーラムが継続的にこれほど盛大に開催されることもなかったでしょう。アジアの東端の日本の歴史から見ても、また他の東アジア諸国から見ても、東アジアは文化融合体なのです。

【文化の共同体を育む】

 アジア人の特長の一つは、西洋的な二元論とは異なり、自分と他者、人間と自然との違いを対立的に認識するのではなく、それらの同一性に重きを置く点にあると、私は考えています。こうした特長をさらに増進し、相手の文化をお互いが積極的に評価し、学びあう姿勢を、未来の東アジアを担う若者たちが身につけていくためには、私が高校で経験をし、実感したように、共通の教育の場が必要となり、それが「文化の共同体」の出発点ともなるはずであります。

 そのためには、我が国自らが克服すべき課題も多くあります。私が米国留学から戻り、東京工業大学で助手を始めたとき、同じ研究室の唯一の留学生でカンボジア人の学生がいました。ポルポト派に両親を殺害され、身一つで来日し、博士号を取得して母国に貢献する夢を持っていました。私も彼の希望に少しでも貢献できればと研究の手伝いをしましたが、彼の前には語学と経済の壁が立ちはだかっており、彼は苦難の中で研究を続行していました。その後、私も研究室を離れたため、残念ながら彼が所期の目的を達することができたかどうか、よく分かりません。

 いずれの国でも研究生活は厳しいものですが、日本という国が十分な日本語教育のサポートをしていたなら、そしてしっかりとした奨学金制度を有していたならば、彼のような潜在能力のある学生を、この国の中で第一線の研究者として育て上げることができたのではないか。そのことは、30有余年を経た今日も、私の心の中に、ひとつのわだかまりとなって残っています。

 私は、今年1月の国会における施政方針演説の中で、我が国として、今後5年間で、アジア各国を中心に10万人を超える青少年を日本に招くプロジェクトを表明いたしました。その背景には、崇高な夢を抱いて、有為なアジアの学生が日本に研鑽の場を求めるならば、経済や語学の壁で、その意欲を断念させたくない、二度と自分が助手時代に経験した、無力感や悔しさを繰り返したくないという気持ちがあることは確かです。

 しかし、それは、決して個人的な感情ではなく、日本が、国としてのありようとして、偏狭なナショナリズムに堕することなく、国を開き、世界から、殊にアジアの国々から多くの人材を受け入れ、そして、そうしたアジアの同胞に、できる限りの、友情と思いやりを持って接したい、そして互いに、学び合い、切磋琢磨しながら、活力ある未来の日本を、そしてアジアをつくっていきたいという思いからの政策です。

 日本の若者がアジアに渡り、友情を育むチャンスを与えることも必要です。そこで、多種多様のアジアの言語を学べる機会を抜本的に増やす支援も講じていきます。近く、東京大学、ソウル大学、北京大学で単位交換の取組が始まりますし、その後も続々と同様の連携が続く予定です。こうした人材交流の取組を広げていくことで、アジアの多様性を強みに変えることができると信じています。優れた人材を共有し、地域の競争力強化につなげるだけではなく、同じアジアに暮らす人間としての連帯意識、共同体意識を創造していこうではありませんか。

 文化の共同体の舞台は教育の場だけに限りません。我が国では、戦後まもなくより都道府県が回り持ちで全国単位のスポーツ大会や芸術の祭典を主催してきました。開催県でのスポーツ・文化施設の整備など、地域振興を図る目的もありましたが、何よりも大きな成果は、毎年全国の選手やアーティスト、観客が開催地の自然や文化に触れ、多様な国土と風土を体感し、また、ともに競技し、活動することで一体感を得る機会になったことです。この経験を東アジアでも展開できないでしょうか。

 例えば、毎年、持ち回りでアジアの芸術都市を定め、そこで様々な文化活動・芸術活動を催し、東アジアの多くの方の参加を仰ぐ、そんなプロジェクトを展開できないかと、ここに、提案いたします。芸術創造都市で多様性の発揮と融合を積み重ねることで、文化の共同体の基礎を創ることができると思うのです。最初の「東アジア芸術創造都市」が近いうちに誕生するよう、我が国は先頭に立って支援をするつもりです。

【国を開いて共同体を創る】

 私は、現在の政権が内外の課題に取り組む際のキーワードとして「開く」という言葉を、常に掲げてまいりました。

 「官を開く」すなわち、官僚が独占してきた意思決定の過程をオープン化する、あるいは各種の規制を民間の目で抜本的に見直す、中央政府が握ってきた権限や財源を地方に移すといった活動を推進していきます。

 同時に、第三の開国、もう一度、「日本を開く」ということの重要性を訴えています。アジア全域から活発な対日投資が行われ、国境を越えた事業活動の拠点をこの国に誘致していくために、税制のあり方はいかにあるべきか、港湾や空港といった施設の機能をどう向上させるべきか、国の経済を開くための議論を活発化させ、行動に移していかなければならないのです。そうした観点から、韓国や中国、インド、そして歴史的に自由貿易協定や経済連携協定に積極的に取り組んでこられたASEAN諸国を中心とする東アジア諸国との間で、思い切った貿易の自由化と経済連携を進めて行くことを決意いたしました。

 その際、企業活動も含め、才能豊かな人材に日本で活動していただく上では、何より生活環境を魅力あるものにしなければなりません。住み慣れた母国から別の国に移るとき、まず心配になるのは、病気や事故が生じたときに安心して言葉が通じる医療機関があるかです。各地域言語の医療通訳を増やすことが必要です。外国人の看護師の受け入れを拡充するとともに、こうした方々に、外国から日本に来られる方に対しても、母国語を話す看護師としてサポートいただけるように配慮する。外国人の家族の方々が安心して教育を受けられるよう、国内での教育施設の整備、日本語教育機関の充実を加速するとともに、依然不十分な交通標識や案内板の配慮も必要でしょう。いのちに関わる国内環境の整備、そして生活面や各種社会制度面でさらに「国を開く」ための制度改革は、貿易の自由化などの経済的な施策と同様に、いや、場合によっては、それ以上に重要なのです。

【地球環境などグローバルな課題を解決するために必要な共同体の発想】

 世界のGDPの2割を生み出す規模にまで発展した東アジア地域は、自らの持続的発展のためにも、また、その経済的規模にふさわしい地球環境への貢献という意味でも、地球環境の保全と持続的成長の両立の新たなモデルを世界に向けて提示することが必要です。同じアジア太平洋地域内に、温室効果ガスの排出がこのまま増加すれば水没のおそれさえある地域が存在していることを謙虚に受け止め、まずは日中韓が中核となって環境やエネルギー分野でのイノベーション創出に向けての取組を強化するとともに、環境問題についての東アジアイニシアティブを世界に向けて発信すべきときだと考えています。

 台風や地震、津波などの自然災害は、広い地域にわたって発生する可能性があり、各国が入手する情報を統合して共有することが何よりも大事です。そこで私は、各国共同の衛星観測システムの構築を提言いたします。災害状況の把握を飛躍的に向上させ、支援活動に役立てることに加えて、取得した情報を解析して、農産物の収量予測や自然環境の監視を行い、食糧問題や地球規模の環境破壊といった共通課題を解消することにも役立てることができます。海でつながってきた東アジアを、先端的な技術を活用し、宙(そら)、すなわち宇宙からつなぐのです。

 核の脅威もアジアが抱える大きな課題です。先月、ワシントンで開催された「核セキュリティサミット」において、私は、東アジアから核の脅威を取り除くための人材育成や訓練を実施する総合支援センターの設置を提案いたしました。核の悲惨さを心に刻み、これを抑止する決意を広げていきたい。唯一の戦争被爆国としての切実な願いです。

【21世紀の共同体モデルを東アジアから提案する】

 ここまで申し上げてまいりましたように、これから進める東アジア共同体構想は、従来の各種の地域共同体とはひと味も、ふた味も異なる、新しい、夢のある特徴をもつべきものだと考えます。

 現在の欧州連合の起点は、1952年に6か国で設立された欧州石炭鉄鋼共同体に求めることができます。20世紀は、大規模な破壊を伴う大きな戦争に襲われ、そこからの復興に当たっては物の豊かさの実現が欠かせませんでした。石炭や鉄といった資源・材料の共有を目的に設置された共同体が、通貨や外交政策まで共有する連合に発展し、これが20世紀の地域共同体のモデルになりました。

 欧州の経験には、大いに勇気づけられる点があります。彼の地でも、最初から欧州連合を創ろうという合意が成り立っていたのではありません。60年前の石炭鉄鋼共同体の設置に始まり、経済やエネルギー、政治に関する同盟関係が参加国の一部を重複させながら併行して設立され、これらの取組を統合する形で欧州連合が設立されていきました。ですから、東アジアでも、具体的な課題ごとに、お互いのアイデアを積み重ねていけば、共同体を築くことは可能だと思っています。

 では、私たちは、どこから歩みを始めるべきでしょうか。

 私は、いま、日本に新しい政治をもたらすスローガンの一つとして「コンクリートから人へ」と訴えています。前の世紀がモノの豊かさを追求する時代であったならば、21世紀は人材、文化、知恵が、豊かさの基盤としてますます求められることになるでしょう。

 アジアにおける地域共同体の柱も、石炭や鉄から始まるモノの取引の自由化の拡大に加えて、サービスの自由化や制度の調和、さらには文化や芸術、科学や思想哲学などをめぐるヒトの交流に、その重点を移す時代が来ているのではないでしょうか。東アジアにおいてFTA、EPAを積極的に推進することはもちろん、映画や音楽、演劇や美術、ファッションなど幅広い文化や芸術、さらには科学や思想哲学の交流から始まる新時代の共同体をアジアにつくり、それを更に世界に広げていきたい、そのように私は考えています。

【むすび】

 今こそ、諍いの海を導いた過去を乗り越え、豊穣の海、友愛の海に共存する繁栄の歴史を紡ぐ航海へと旅立とうではありませんか。かつて、大きな希望と勇気を持って、海を渡り、我が国の国作りに力を貸してくださった若者たち、その若者たちの希望に、私たちも、思いを馳せてみませんか。目の前には、大きな海、未知の水平線が広がっています。様々な困難があるでしょう。荒波に洗われることもあるやもしれません。しかし、私たちは、この海に乗り出していかなければならないのです。

 そして、まさに3月26日に発生した韓国の哨戒艦の沈没について、北朝鮮の魚雷によるものであるとの調査結果が、本日の午前、韓国において発表されました。北朝鮮の行動は許し難いものであり、国際社会とともに強く非難をいたします。日本は韓国を支持し、米国はもとより、関係各国の国々と連携をとって国際社会全体としてこの問題に対処していきたいと考えています。こうした困難と荒波があろうとも、私たちは、それを乗り越えて、この海を漕ぎ行かねばなりません。そうした航海に当たって、確固たる日米同盟が基礎をなさねばならないことは言うまでもないことであります。

 シルクロードの終点に位置して、恵みの海の恩恵を最も享受して栄えた我が国が、東アジアにおけるこの新たな取組の門出に尽力をすることは、この地域への千年分以上の感謝の気持ちを込めて取り組むべき御恩返しでもございます。私は、日本国内閣総理大臣として、東アジア共同体に向けての筋道を、一歩一歩、確実なものにしていくことを、ここにお約束したいと思います。

 そのためにも、この会議が大きな成果を上げましたことをお祝い申し上げ、そのことを改めてお祈りを申し上げます。ご清聴、誠にありがとうございました。