データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 「アジアの明日を創る知的対話」における小渕内閣総理大臣演説

[場所] 東京
[年月日] 1998年12月2日
[出典] 小渕内閣総理大臣演説集(下),684−687頁.
[備考] 
[全文]

 ご列席の皆様、お早うございます。

 本日は、多数のアジアの知的指導者の方々をお迎えしてのこの「アジアの明日を創る知的対話」にお招き頂き誠に有り難うございます。この会議の開催の労をとられた山本正理事長以下日本国際交流センターの方々、チア・シオ・ユエ所長以下シンガポール東南アジア研究所の方々、そしてお忙しい中遠路はるばる東京にお集まり頂いたスリン・タイ王国外務大臣を始めご列席の皆様に対し、心から御礼申し上げます。

 去る五月に、私は、外務大臣として、シンガポールにおいて日本と東アジアの将来に関する政策演説を行いました。その中で、来る二十一世紀を「平和と繁栄の世紀」とするためには、「知的相互協力」が必要であることを訴え、そのための端緒として、この「アジアの明日を創る知的対話」の開催を提唱しました。数ヶ月の間に経済危機が急激に東アジアの諸国に拡がったという事実は、現在の国際社会、とりわけアジア地域の相互依存関係の深まりを如実に示しました。私は、アジア地域の平和と繁栄のためには、関係諸国の多様な知的な蓄積や才知を結集することが必要であることを改めて痛感し、このような知的対話のための会議の開催を提案した次第です。

 私はこのシンガポール演説で、アジア経済危機を乗り越えるためには、「五つのC」、即ち、勇気(courage)、創意(creativity)、思いやり(compassion)、協力(cooperation)、未来に対する確信(confidence)が必要であると呼びかけましたが、それは「人間中心の対応」が重要であるとの考えに基づいております。最近ノーベル経済学賞の受賞が決まったインドのアマルティア・セン教授も、「発展の過程とは、財及びサービスの供給拡大の過程ではなく、人間の能力(capability)の向上の過程である」と述べておられます。 

 近年のアジアの目覚ましい経済発展は、同時に様々な社会的ひずみを生み出しました。経済危機によりこのようなひずみは一層顕在化し、人間の生活を脅かしています。私は、このような事態に鑑み、「ヒューマン・セキュリティ(Human Security)」即ち「人間の安全保障」の観点に立って、社会的弱者に配慮しつつ、この危機に対処することが必要であるとともに、この地域の長期的発展のためには、「人間の安全保障」を重視した新しい経済発展の戦略を考えていかなければならないと信じています。スリン外相は、本年七月のASEAN拡大外相会議で「ソーシャル・セーフティー・ネット(Social Safety Net)のための専門家会合」の設置を提唱されましたが、基本的な考え方において通じるものがあると考えます。

 今回の知的対話のテーマは、「人間の安全保障」でありますが、緊急の課題となっているこの分野について、創造的な知的交流が行われ、アジア危機の解決のための知的リーダーシップが発揮されることを強く願っています。

 ご列席の皆様、

 この機会に、「人間の安全保障」について私の考え方を一言述べさせていただきたいと思います。

 現在、我々人類は様々な脅威にさらされております。地球温暖化問題を始めとする環境問題は、我々のみならず将来の世代にとっても重大な問題であり、薬物、人身売買等の国境を越えた広がりを持つ犯罪も増加しています。貧困、難民、人権侵害、エイズ等感染症、テロ、対人地雷といった問題も我々にとって深刻な脅威になっております。さらに、紛争下の児童の問題も見過ごすことのできない問題です。

 私は、人間は生存を脅かされたり尊厳を冒されることなく創造的な生活を営むべき存在であると信じています。「人間の安全保障」とは、比較的新しい言葉ですが、私はこれを、人間の生存、生活、尊厳を脅かすあらゆる種類の脅威を包括的に捉え、これらに対する取り組みを強化するという考え方であると理解しております。

 「人間の安全保障」の問題の多くは、国境を越えて国際的な広がりを持つことから、一国のみでの解決は困難であり、国際社会の一致した対処が不可欠です。また、これらの問題は、人間一人一人の生活に密接に関わることから、NGOを始めとする市民社会における活動が最も効果的に力を発揮できる分野であり、各国政府及び国際機関は、市民社会との連携・協力を強化しつつ対応していくことが重要です。

 アジア経済危機に関しても、我が国は、これまでに世界最大規模の支援策を表明し、また、着実に実施してきておりますが、このような支援に際しても、「人間の安全保障」の観点から、経済危機から最も深刻な影響を受けている貧困層、高齢者、障害者、女性や子供など社会的弱者対策を重要な柱の一つとして取り組んでいます。

 ご列席の皆様、

 私は、二十一世紀は、人間中心の社会の世紀としていく必要があると考えております。私は、これまでこの考え方を念頭に一連の外交活動に取り組んできました。このような明日を創るためには、国境を越えて英知が集い、その中から生み出される展望に基づいて、未来に対する確信(confidence)を共有していくことが何よりも重要です。

 私は、アジアは、豊富な人材を抱え、大きな可能性を秘めた地域であり、現在の困難を乗り越えて更なる発展を遂げていく能力を十分に備えていると信じています。そして、現下の危機の克服の過程でアジアが生み出す展望は、国際社会の未来への優れた提案になることでしょう。

 本日、アジアの明日に向けて新たな知的相互協力の場が生まれたことは、大変意義深いことであり、私は、このような努力が続けられることを期待します。日本政府としても、そのために可能な限りの支援を続けていきたいと考えております。

 今回の知的対話での議論が、明日のアジアヘの出発点としてふさわしい、実り多きものとなることを祈念して私の御挨拶とさせていただきます。

 ご清聴有り難うございました。