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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 平成の出発は「ふるさと創生」から(竹下内閣総理大臣)

[場所] 大分市
[年月日] 1989年4月9日
[出典] 竹下内閣総理大臣演説集,490−505頁.
[備考] 
[全文]

 竹下登でございます。今日、このように多数の皆さん方にお会いできたことは、私自身としても大変感激でございます。今日お集まりをいただきましたこと、またこの実施のために種々ご苦労をいただきましたご主催の皆様方に対し、心からお礼を申し上げる次第であります。

 私は、一昨年の十一月六日、内閣総理大臣に任命いただきました。我が国の置かれておる立場からいたしまして、その後実に二か月以上外国訪問をすることになりました。その都度、我が国の置かれている国際的立場というものを強く痛感をいたしておる次第であります。

 まず、最初に申し上げなければならないことは、昭和天皇の御崩御、そして元号を平成として、また御大喪の礼に関しまして国民の皆様方の心からなるご協力により、滞りなくこの御大喪を執り行うことができました。世界各国から日本という国がこれだけ整然とした御大喪を執行したことについて、多大の評価をいただいておるということに対し、まず大喪の礼執行委員長を務めました私として、心から国民の皆様方にお礼を申し上げる次第であります。

 さて、今次の政局は、いってみれば政治不信という渦巻きすら感じるような状態であります。私の内閣総理大臣時代に出てまいりましたりクルート問題であります。私は、行政府の最高責任者として、また皆様方によって選ばれた自由民主党の総裁として、この責任を避けて通る訳にはまいりません。私自身、まず自らの自助努力というものに精を出し、そして、こうした国民の政治不信を起こすような問題が起きないように、直ちに国民の皆様方にはいささか遠い感じがいたしましょうとも、公職選挙法の改正とか、政治資金制度の問題とか、どうしても政治改革そのものを緒につける責任を私自身としてはとらなければなりません。いかに環境が厳しくとも、逃げてはならないこの責任を、自らの手によって国民の政治不信の渦巻く中から、再び政治に対する信頼を取り戻す努力を積んでいくことを、まず皆様方にかたくお誓いを申し上げる次第であります。

 新税への懸念をなくす努力

 さて、その環境の中で成立いたしましたのは、いわゆる新税制改革であります。この税制改革につきましては、実は昭和五十三年の暮れに政府の税制調査会というところで、いわゆる一般消費税というものを昭和五十五年から緒につけなければならないではないか、こういう方針をいただいたところから始まる訳であります。

 それこそ、占領中にコロンビア大学のシャウプ博士がお見えになりました。当時私はちょうど田舎の新制中学で先生をやっておりました。その当時の教科書を読んでみますと、日本に新しい税制を行うために、アメリカのコロンビア大学から若いシャウプ博士がおみえになりましたと社会科の教科書に書いてありました。なるほどなと思い出しながら、先日もシャウプ先生にお会いいたしましたが、既に八十歳を過ぎた老名誉教授になっておられました。それから今日に至るまで、シャウプ税制を中心とした我が国の所得税中心の税制体制というものが今日まで継続してきたのであります。

 一方、諸外国をみてまいりますと、そもそも直接税と間接税というものが、これは長所も欠点もございます。累進税率をもつ所得税ということになれば、ある意味において真に再配分という機能をもっております。一方、間接税というのは、いってみれば比例的な公平性というものが存在をしております。すわわち、国民には選択の権利があります。と同時に、お値段の高いものには同じ三パーセントでも税額も高いし、お値段の低いものは三パーセントでも税額は低いという比例的公平性がありました。

 しかし、一方欠点としてよくいわれるように、松下幸之助先生がハイライトをお吸いになっても、浮浪者がハイライトを吸っても、同じ税を納めるではないかという、いわば逆進性という議論もある訳でございます。

 日本を除く先進国においては、この間接税、なかんずく国民の消費の多い少ないによって、共通の経費を調達すべきであるという方向で税制が構築されてきた訳でございます。日本の場合は、確かに所得税中心主義であります。

 したがって、税法学者で有名な、これは十九世紀の方でありますが、カナールさんの言によると、新税はことごとく悪税である。ただ、国民の暮らしの中にそれが習慣として足着したならば、これまた良税と化していくことになるであろうと、このようにいわれております。したがって、学歴の上でも、識学率の上でも、世界のどの国よりも高い水準の日本国民であるといたしましても、やはり新税というのはこれが習慣になるまでは懸念もあり、不安もあり、煩雑さもあるということは否定し難いのでございます。だから、準備期間を長くすればいいという議論もございますが、幾ら準備期間を長くいたしましても、それが執行に移されてはじめて習慣の中に取り込まれていく訳であります。

 幸い、昨年の十二月二十四日、衆参両院を通過成立した法律でございます。私は、これを四月一日執行に移されるまで、いろいろな不安懸念について、むしろ私の方から申し上げながら、これを解明し、通達等を通じて国民の皆様方に訴え続けて今日に至りました。幸い、いま客観的にみましても、順調にこれが進みつつあります。今後とも、一層この税が国民の暮らしの中に定着することに対するご協力を、この機会に引き続きお願いする次第であります。

 私が申しておりました、最初の六つの懸念ということを申し上げます。

 すなわち、さきほど申しましたように、逆進性があるではないかというたばこの例をとりました。

 次の懸念は、若い人は所得税を少ししか払っていないから、少々減税になっても消費税によって一括して増税になるではないか。中堅層の人は、いまちょうど育ち盛りで学校へ行く年齢の子供等を抱えながら、また住宅ローン等を抱えながら、結果として出費の多い時期であるから増税になるではないかというような懸念であります。

 これらの三つの懸念につきましては、消費税だけでなく、全体の税制の中で解決しなければならないと一つは申し上げて、そのように今日実施に移しておるところであります。すなわち、所得税との均衡の問題でございます。所得税の課税最低限を上げることによって、いわば若い方々の所得税減税と、消費税による増税との中和をすることにいたしました。

 そして、次はいわゆる中堅所得者の皆様方の問題でございます。私ども、いままで税の議論をいたしますと、よく教育減税、教育減税という、これほど耳障りのいい言葉はございません。しかし、一方この問題につきましては、せっかく自分は義務教育だけ、あるいは高校を卒業して、すぐ働いて、幾ばくかでも国に対して所得税を納めておるんだ。国民の義務たる納税の義務を所得税という形によって納めておる。しかし、自分よりももっと出来の悪かった、あの友人のお父さんの税の中から教育減税が行われるということについては、幾ばくか社会の平等性を疑うという、そうした議論が、特に古い方の中には存在することになる。

 しかし、いや、教育減税、結果としてそうなるであろうが、中堅者の皆様方が最も減税の恩恵に浴すように、ここで何とかこの問題については、十六歳から二十二歳までの扶養控除というものを特別控除の形で控除額を引き上げることによって、実質減税を大きくするということに決着をみたのであります。だから、たまたま学齢期の子供さんでございます。そしてまた、育ち盛りでもございます。ある人が、なかなかよい知恵を考え、育ち盛り減税、大飯食らい減税だなどという言葉を使っておった諸君もありました。そのような減税の間で中和したものが、いまでもございます。

 ところが、所得税というものは既にこの一月一日から減税になっておりますが、日本はまた世界でどの国も完全には実施しない、源泉徴収制度というものに慣れておりますから、実際問題、給料部分の中から幾ら比較して減税になったかということを、なかなか実感としてみる習慣がございません。だから、それを比較してみたときに、今次の税制というものが、なるほどなと理解していただけると思います。要は、税というものは所得の段階でそれに応じて義務を果たすべきものなのだ。所得したものの中から消費の段階でその義務を果たすものだ。それのバランスをどこにとるかというのが、すなわち新しい税制の基本的な考えの中に存在することでございます。

 さて、しかしそれならば、いわば全体の税体系の中で物品税も下がる、所得減税もある。それはそれなりに理解しても、では税を納めていないものはどうか、こういう議論が出てくるのは当然であります。よくいわれる逆進性の問題ということではないか。

 そこで、それを中和する考え方といたしまして、いわゆる生活の最後のとりでというのが生活保護費であります。この生活保護基準を上げることによって、いわば生存権の最低限の保証がこれで確保されることによって、税の世界ではなく歳出の世界でこれを中和いたすことにいたしました。こういう議論をしておりますと、今度は生活保護ではない、しかし課税最低限以下ではある。この間の人はどうだという議論になってまいります。これが、先生方のいろいろなご好意によりまして、寝たきり老人の方を抱えていらっしゃる方、あるいは老齢福祉年金とか、在宅福祉とか、そういうものを既に成立しました六十三年度補正予算というものでことごとく整理をすることによって、その間の方々の実態に照らした増税というものがない形で今日に至っておる訳であります。

 ところが、その三つの懸念はわかった訳ですが、しかし、やるとしても便乗になるんじゃないか。この四番目の懸念でございます。この四番目の懸念というのは、世の中下がるものもあれば上がるものもある。いずれにしても、総じて一回限りで一・二パーセントだということでおよその説明をしてまいりました。便乗値上げの問題等、いろいろ議論をやってきております。これらに対応することによりまして、これが一次的な、およそ予測される一・二パーセントの消費者物価上昇率の中に吸収されていくようになるように、引き続き努力を申し上げなければならないと思っておるところであります。

 さて、その次に、最初は三パーセントでスタートしても、そのうちにこれでも足りなくなるんじゃないかという、こういう五番目の懸念というものがあります。しかし、この懸念につきましては、確かにヨーロッパの先例等を見ますと、絶えず所得税の方を減税しながら、一方消費税の税率を上げていったという歴史も確かにございます。そこには、おのずから節度というものが必要ではないか。私は、国会というものの中で、これはなかなか難しいと申しておりましたが、竹下内閣の続く限り三パーセントを上げも下げもいたさない。このようなことを申し上げておるところでございます。

 ただ、未来永劫にと私か申し上げませんのは、やはり何十年か後の国民の皆様方がどちらを選択するかという、その点まで奪ってしまうことは、現在の政治家として為すべきではないという考え方からであります。

 そうしたことまでは分かったが、そうなれば次には事業者の側からみると面倒ではないか、こういう懸念が出てくる訳であります。なるほど、いままでの売上税というもの、あるいはかつて考えました一般消費税ではインボイス方式と申しますが、税段階控除方式というものがありました。それは、中小企業の方からいえば、これはとても煩雑で、あるいは人にまたお手伝いを願わなきゃならないようになりまして、結果としてそのことが物価の上昇にもつながるであろう。

 そこで、いわゆる免税点というものを設けました。と同時に簡易納税方式というものを設けたところでございます。この間題がまた新しい懸念を生んだ一つの問題でございますが、それによって事業者が消費者の皆さん方に、いわば物価値上げの形でその手続きの煩雑なものまで期間を組むようなことがないように、工夫をその時点でいたした訳であります。

 そうしましたら、今度は事業者の方から、転嫁が出来るか、こういう懸念がでてまいりました。これも、また当然の懸念でございます。そこで、これにつきましては、難しい話は申しませんが、独禁法等の例外規程を設けるなどして、いわば外国の皆さんに転嫁が出来るかという質問に対して私か困っておるという話をしますと、その人たちは、だって消費税というのは転嫁するのがあたり前の法律でしょう。確かに、慣れてしまえばそういう意識になられるでございましょう。しかし我が国の場合、転嫁の問題が下請いじめにつながりはしないか、あるいは便乗値上げにつながりはしないか。こういう懸念がございますから、これに対しては両方の面から、便乗値上げとか、下請いじめ、そうした面からこれに対して適切な指導、相談、助言を行おうというので今日に至っておる訳であります。

 さらには、地方自治体の懸念が一つでございます。せっかくいままであった税をやめたのに、地方の財源不足につながらないのか。この問題につきましては非常に説明がしやすくて、交付税の算定基礎の中に入れますとか、消費税の譲与税を受けましたということで、これは説明をつけることが出来る。

 さて、そこでまた新たな懸念としてでてきましたのが、いってみれば簡易納税、あるいは免税点があるがゆえの懸念に対する問題の逆の懸念からきております。そうしたものがあるならば、例えば全体で三パーセントといたしまして、小売段階が二〇パーセント未満までにあるとすれば全体〇・六パーセントでありますが、その〇・六パーセントは一般消費者が国庫に入ると思って負担したもので、結果として納税義務者でないところへ入ったならば、それが宙に浮いて国庫へ入らない金になりがちではないか。わずか〇・六パーセントであってもという議論がまた出てまいります。しかし、これは私ども、我が国になじみの少ない税制といたしまして、それによって煩雑さからくる物価値上げがあるというような事態と、どちらを選ぶかという政策の選択上の問題として、私どもは免税点ないし簡易課税方式というものの方を選択をいたしたところであります。

 以上のような考え方から、今日出発したばかりでございますが、政府といたしましても、今後とも積極的な広報、親切な相談、適切な指導、この三つをモットーといたしまして、国民の皆様方のいろいろな懸念に対して応えていくつもりでございます。この税制が国民の暮らしの中に定着しましたならば、先進諸国すべてがそうであるように、努力と報酬の一致する所得の大幅減税と一緒に、税制改革をやってよかったなといわれる時代がくることを、私は確信する次第でございます。

 ”一村一品”の姉妹都市

 さて、内政、外政に分けて申し上げてみたいと思います。まず、最初に申しましたように、私は政権担当してから今日まで二か月以上外国に行ったことになります。日本に対する国際社会からの期待感は大変高まっておるということを痛感いたしております。私は、日米首相会談というものを、過去総理大臣になりましてから三回行いました。いつも思いますのは、私について私を助けてくれる外務省と大蔵省の高級官僚の方に聞いてみると、「私はガリオア・エロアの留学生です」「私はフルブライトの留学生です」ということをおっしゃいます。年がそう私と違う訳ではありません。なるほど、戦争が終わって、あのときそうした留学生を出すことによって、近代民主主義社会のあり方というものを身をもって体験し、それを国政の中へ移し、今日に至った大きな基礎になったと私は思う訳であります。

 したがって、いま、世界最大の債権国、あるいは一人あたり所得がアメリカを超したといわれるような今日、そういうことを想起いたしますと、アジアを中心とする留学生対策等に力を入れてまいらなければなりません。本県におきましても、留学生問題というのにチャレンジしていただいております。

 もっとも、大分県ということになりますと、まさに一村一品運動。昨年の八月末に中国にまいりましたときに、向こうから平松さんが書かれた一村一品運動の書物を贈呈されました。中国語で書いてありますので、私には読めませんでしたが、既に書物が出版されておりました。

 そして、今年の二月、ブッシュ新大統領と首脳会談を行いました帰りにロサンゼルスへ行ってまいりました。それは、前大統領であるレーガンさんにお会いするためでありますが、そのときにもロサンゼルスの市長さんが私のところへ訪ねてまいりまして、大分と一村一品の姉妹都市関係になりたいと、市長さんは申しておられました。国際社会の中で文化交流、人的交流などの協力をしていかなければならない日本の責任は、留学生問題のみならず、ここにもある訳であります。

 もう一つは、経済協力でございます。これも、私自身大蔵大臣時代に調べてみましたら、昭和二十一年から昭和二十六年までの間、いわゆるガリオア・エロア基金というものがございました。これは、アメリ力からの日本経済再建のための援助の金であり、援助の物資であります。それが、約二十億ドルでございます。

 日本の国民は立派だったと思います。それをただで使うことなく、幾ばくかのお金をとって、その品物を売って、それを基に我が国の基幹産業を興していこうという産業投資特別会計というような資金を作っている訳です。それが、我が国の重厚長大の出発点になったと思われる訳であります。

 そしてまた、ガリオア・エロアそのもののいわば精神につながる粉ミルクの問題がございます。私、先般そういうことが好きでございましたので、五百十二名の衆議院の先生方を年齢ごとにずっと調べてみましたら、明治生まれの先生が二十四名になりまして、戦後生まれの人が二十四名になっております。そして、戦後生まれの方を一人一人みてみますと、皆私よりもはるかに身長、体重も大きくて、はてさてこの人たちはもしあのガリオア・エロアの粉ミルクがなかったら、一体どうなっているんだろうな。こういうことを思うにつけ、当時敗戦国として援助を受けた往時をしのぶべきであると思います。

 その二十億ドルという金は、いまで計算してみますと、当時のGNPの四パーセントになりますから、いまでいえば毎年十四、五兆円ぐらい援助してもらったというようなことになっております。これは大変なことです。

 そこで、やはり文化交流、文化協力のほかに経済協力というものを行って、世界全体の所得水準が上がることによって、初めて我が国で生産されたものも売れるし、そこから生産したものを買うこともできるという国際協調の構造調整に変えながら、経済政策を進めていくべきだと考える、いま一つの発想であります。

 平和に対する協力「三つの柱」

 いま一つは、平和に対する協力という問題でございます。国際連合というものは、本当は世界の平和を守るためにできた機関でございます。したがって、我が国の日米安保体制というものも、その当時の経過を調べてみますと、国際連合軍が十分に機能をするようになって、それが世界の平和と安定に十分な力を持つまでの間、日本独自で守る力ないから、アメリカと安全保障条約を締結しているという歴史が存在しているということでございます。

 その国際連合が、資金の問題がありました。したがって、いろいろなルールがあって、なかなか国際連合の機能が果たせなかったのが、最近特に平和問題を中心にしまして、安保理事会というものが事務総長を中心にしてアフガニスタンからのソ連軍の撤兵、あるいはイラン・イラク戦争の停戦の問題であるとか、中東和平であるとか、そういうところに力を示すようになってまいりました。

 そこで、これらに対する協力ということになりますと、日本の場合はぺルシャ湾を例にとってみましても、ほかのところは敷設されておる機雷を配備する掃海艇を出しますが、日本の国としては海外派兵につながるではないかという議論等もあり、それをやらない。だから、世界の国から見れば、ペルシャ湾を通過して最も多く油を運んで自分の国へ持っていく日本が、掃海艇一隻出さないということに対して不可思議な気持ちでみている。しかし、これはできないから、私どもは航行安全施設等のお金を分担することによりまして、その責任を果たしてきた訳であります。

 しかし、我が国の憲法、自衛隊の今日までの経過からいたしまして、方針として、ミリタリー、軍事的な面に参画する訳にはまいらない。そこで、和平交渉が行われる際、軍人を派遣することによって監視を行うとか、なかんずく日本が一番やってきた戦後復興に対してどのような力と経験を発揮するかというようなことで、今日アフガニスタン問題についても若い人を派遣いたしました。そして、イラン・イラクの問題点についても、人を派遣するというところまで日本は平和に対する協力の積極的な役割を果たさなければならないという立場を貫いてきた訳であります。

 平和に対する協力、文化、人の交流に対する協力、そして経済復興に対する協力、これを三つの柱として、日本の外交問題を進めてまいりましたが、そういう立場に立ちますと、いままでのように日本の国のことだけを考えていればよかったということにはまいりません。そこで、貿易の問題点について数字が世界一の国なんだというようなことで、いまは貿易のアンバランスの問題がある。そして、牛肉・かんきつ問題に国際的な視野から応じなければならなかった。さればそこは政治でありますから、その国内対策だけは万遺漏なき対応ができるようにというのが、これまた先般成立した補正予算の中身であり、平成元年度予算にもそれが継続をされているわけでございます。

 「ふるさと創生」の起爆剤

 農村問題につきましては、世の中の変化に対して、いまその国内対策というよりも、先行きに対するいろいろな懸念というようなものが政治不信を産み出すいま一つの大きな要因になっていることも事実であります。

 今日も農村の奥さん方とお話をしましたが、多種多様なご努力の中に自信をもって農業を進めていく数々の方とお会いすることができました。いずれにせよ、そうした方々がかくあってほしいと自ら努力して考えていらっしゃることに対して、責任をもって取り組んでいくのが政府、自由民主党であるということを、私は重ねて強く力説したいと思うのであります。

 さて、こうした状況の中に、国内問題は将来いかにあるべきかということであります。そこで今日は、ふるさと創生論を話させていただきます。自らを振り返ってみますと、戦後、都会が焼け跡やヤミ市となり、我々を含め、多くの二、三男がそれぞれのふるさとに帰ってまいりました。そうして、おれたちの町をどうすべきか、おれたちの町はどうあるべきか。当時、私は青年団運動に没頭いたしておりました。

 そして、その後日本は、先輩方の努力によって今日の地位を築き上げることができました。しかし、いまや世界一という感じであります。平均寿命も世界一になって、男性が七十六歳近く、女性の方は遂に八十二歳になった。私はいつもよく申します。平均寿命を順番にいえば、日本、アイスランド、スウェーデン、ノルワェー、オランダ、イスラエル、ビルマ、スイス、ギリシャ、カナダ。

 確かに世界一がたくさんあります。文盲率の低さ。これは、単独世界一であります。高等学校の進学率、これも単独世界一であります。しかし、高校進学率は二番と接戦で韓国がだんだん日本に近づいてきております。しかし、そうしたいわば教育制度の問題についても、世界一といわれる数々のことがございます。

 そしてまた、一人当たり所得も、私はよく覚えておりますが、一番上がアラブ首長国連邦、人口は百三十五万人、二番がクエートで四十万、三番目がブルネイで二十四万、四番がスイスで人口六百万というふうに覚えておりましたが、これは油のでる国ということもありましたが、いまやスイス、日本、西ドイツ、アメリ力、このようなところが肩を並べて、為替レートの変化に若干の相違はございますが、世界一の国ということになっております。

 しかし、だれしもそうだと思いますが、本当に世界一になったかという実感はそれほどありません。私は、世界銀行の総会の議長を大蔵大臣時代にいたしましたが、その総会ぐらいスムーズに運んだことはないといわれました。そんなに議事さばきがよかったのかなと、自らいくばくか快く思っておりました。しかし、そんなに議事さばきがいいはずがございません。ちょうど大正十一年生まれから大正十二年生まれ辺りが、一番英語から離れたときの学生でございます。

 ですから、私は最後に共同コミュニケ、共同宣言を書きますときには、これも先般日本へ来日されたイギリスのハウ外相、これは、サー・ジェフレといわれますが、あそこは卿とか、そういう位があるところでございます。それでサー・ジェフレ・ハウというんですが、ハウさんが一村一品運動というものを見にきたわけです。いまは外務大臣でございますが、前は大蔵大臣でございました。

 それで、いつも共同宣言を書くときには、イエス・アグリー、はい、結構です、光栄ですというのをハウさんがいった後やれば、大体英語は英国人が一番詳しいんだから、イエス・アグリーといえばいいなと思っておりました。その程度の英語で先生をしておりましたが、本当に子供たちに、いまになって申し訳ないと思っております。あのころのことでございますから、それこそDDTとPTAの区別さえつけばいいというような時代であったことは事実でございました。しかし、この間コロンビア大学で話をしましたら、その話がいまのように笑いが起こりませんでした。何でかと思ったら、DDTが分からなかった訳でございます。それはそのとおりです。今日ではトラホームということが分からないという方がいっぱいいますから。

 話が横道にそれましたが、世界銀行の総会の議長をして、何故そんなことをいったかといったら、各国の大蔵大臣が、それは簡単だよ、君のところはいま最大の債権国だから敬意を表すけれども、いま一つはかつて君のところは債務国であった。したがって日本を見習わなきゃいかぬと思ったから君のいうことに協力したんだよと、こういうことでございます。

 確かに、皆さんかつての東海道新幹線、東名、名神等の高速道路、あるいは発電所、ダム、そうしたものは世界銀行からお金を借りて今日に至っておる訳であります。

 池田勇人先生、この方が大蔵大臣であられました。蔵相としての連続記録は私よりも十九日池田先生の方が多うございます。私は、十六日まで大蔵大臣をやりましたけれども、連続ではございませんから、法律が通るまでの間やりました。その池田勇人先生のときに宮沢先生が秘書として、この人は大蔵省出身でございますから、世界銀行などを歩いていらっしゃった。なかなか融資話をする相手に会えないという悩みもあったということです。いまでは、僅か八千五百万ドルほどの借金でございます。

 私は数年前に繰上償還しようかと申しました。何分三百六十円で借りましたものを百三十円で返せばいい訳でございますから、返すのが大変楽でございます。ところが、世界銀行の総裁が返さないでくれ。日本に金を貸しておるということが世界銀行の偉大なる誇りであるから、少しゆっくり返してくれと、冗談でそんな話をされましたが、そういうことを考えるにつけても国際社会全体に果さなければならない役割というものを痛感いたしました。

 それは、やはりヨーロッパを追い越せ、アメリカに追いつけ、そして対GNP比とか、そういう物の水準にのみ頼ってきておったのではないか。ここで、いま一度心の豊かさというものに焦点を当てなければならぬのではないか。そして、もう一度自分の身近なところから見直していくべきではないか。すなわち、ふるさとというものをもう一遍見直すということで考えましたのが、私がかねてから申しております「ふるさと創生」ということにほかならないのでございます。

 私は建設大臣を昭和五十一年に、ちょうどこの地区からでていらっしゃる仮谷先生がお亡くなりになりまして、その補充人事として就任しました。建設大臣になったとき、私は、何か建設行政にロマンが必要だ。ハードな中にも心が必要だというようなことを申しました。

 田中内閣時代の「日本列島改造論」、これは交通・通信施設等を整備して、いわば過疎過密を解消し、均衡ある国土を作っていくという計画ですが、今でも私は厳然として正しいと思います。しかし、ちょうど石油ショック等の環境の中にありましたので、残念な結果となりました。

 だから、何かハードな面とソフトな面、心の面を入れる工夫がないかという感じを絶えずもっておりました。大平内閣のときに私は大蔵大臣になりましたが、大平先生が「田園都市構想」ということを唱えていらっしゃった。「田園都市構想」ということで、覚えていらっしゃる方もあるかもしれませんが、大きなポスターが選挙のときには張られておりました。その真ん中に、大平元総理の顔がそれこそでんと座っておりまして、あれはまさに田園そのものの顔であると、こういう感じをもちましたけれども、えもいわれぬある種の情熱というものを感じたということをいまでも覚えております。そうしたものから、自然にそれが進んできまして、ここに「ふるさと創生」というものが、物の豊かさのみでなく心の豊かさの中からお互いの暮らしに潤いとかゆとりとかを与えていくという計画が生まれました。

 今日もお話いたしましたが、一億円というのは政府がばらまいたものではございません。いわば自然増収の中でできました地方団体固有の財源である地方交付税の中で、小さな村も、大きな町も、これを新しい百年に向かって、市町村制も百年になりますから、一つの「ふるさと創生」の起爆剤に使ってみてください。皆で考えて、皆で実行する「ふるさと創生」であります。政府がいろいるな命令をだして、それを皆がこれをやろう、かくあろうということでなくて、自分たちで考えた「ふるさと創生」の青写真というものを、政府がどのようにしてお手伝いしていくかというように発想そのものを変えていく、その起爆剤が小さな村、大きな町共通の一億円ということでございます。

 多少の戸惑いがあることも知っております。今日も、いろいろな発言がございましたが、余り愉快でないちゃかしたような行動も見受けられます。しかし、どうしようかと、その考えること自身に、また戸惑いつつ考えること自身に「ふるさと創生」というものが歩み始める大きな契機となることを私は信じます。その青写真を実行に移すよう、かく調整しながら国がお手伝いをしようというところに、それこそ各省庁が一緒になった協議会を作ってお手伝いをいたしましょう。あるいは、本当に産業そのものが振興するためのふるさと財団を作って、民間金融等に対して交付税措置等もろもろ行うことによって、いろいろな措置を実施しましょう。いろいろな措置を合同して行うことによって、この実を上げなければならないと考えているのであります。

 ちょうど時間もまいりました。ご清聴いただいたことを心から感謝を申し上げながら、私は皆さん方に心からお願いをいたします。まず、十年かかってやりました税制改革が後世の方々に、所得税の大減税と相呼応して、やってよかったといわれる日が必ずくるように。そしてまた、新しいこれからの時代というものを、もう一度身近なところから見直してみようではないか。すなわち、これだけ国際化し、地域交流のある今日、生まれ育ったところで死ぬまでおるというようなことは考えられることではございません。しかし、どこにおっても、そこで生まれ育った子供さんや、お孫さんたちが、本当に日本に生まれ育ってよかったなあという、ほのぼのとした幸せを感じるような、ふるさとというものを感じるようなことを皆んなで描きたい。後世において平成の出発というのは内政ではまさに「ふるさと創生」というものであったということを評価していただけるような時代を信じながら、ご協力を賜りたいのであります。

 すべからく自重して、ひたすら皆さん方が、実に今日まで日本が発展してきたという、その政策の継続性、その中でいろいろなことがありましたけれども、日本の歴史や伝統というものが消滅してはなりません。先輩の皆さん方が、その都度厳しく自己開拓をしながら耐え忍びつつ今日に至った、その伝統を打ち壊してはなりません。皆様の心からなるご支援をお願い申し上げ、竹下登の挨拶を終わります。ありがとうございました。