データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 故椎名悦三郎氏に対する自由民主党葬における大平内閣総理大臣の弔辞

[場所] 
[年月日] 1979年10月30日
[出典] 大平内閣総理大臣演説集,451−453頁.
[備考] 
[全文]

 本日ここに、故椎名悦三郎先生の自由民主党葬が執り行われるに当たり、謹んでご霊前にお別れのご挨拶を申し上げます。

 第三十五回総選挙の終盤近く、九月三十日早朝、私は、遊説先の福岡で、先生の訃報に接しました。かねてから入院加療中とは聞いていたが、煩をさけてのご静養のように信じていた私は、その瞬間、われとわが耳を疑ったことでありました。しかし、いよいよそれが動かし難い事実となってくるにつれて、私の心は大きい空虚を感じざるを得ませんでした。さきにわれわれは、保利、船田両先生を失い、いままた椎名先生までも失ったことの重さを思い、救い難い虚脱感におそわれ、暗然として為す術を知らない状況でありました。落日秋山を蔽い、萬象悉く呼吸を止めた思いでありました。

 椎名先生

 思えば、貴方は、われわれにとって、文字通りかけがえのない人生の導師であり、政治の指南役であられました。貴方は、日常多くを語られなかったが、物事の核心をついた鋭い警句、大らかで屈托のないユーモアでわれわれを魅了されておりました。しかし、ひとたび大事に臨んでは、よく大局を見通して、山を移すにも似た大きな決断を下し、いくたびか錯綜した事態を打開し、政局の危機を救われました。それは、貴方の鋭い洞察力、公人としての責任感のいたすところであり、無私の人のみが示し得る大勇であり、俗流のよく窺知することのできない非凡な大器でなければよくなし得ない至芸ともいうべきものでありました。寒梅のような清さと威厳に満ちていた貴方は、事に処するに極めて淡々とされていたが、人を遇するに情誼に篤く、行き届いた親切な人でありました。わが政界の一角に高く光彩を放つ巨星として、広く畏敬され、敬慕されておられました。

 現下内外の情勢は極めてきびしく、われわれが最も貴方を必要とするときに、非情にも天は貴方をわれわれの手から奪い去りました。われわれの痛恨の念、哀惜の情は、そのやり場をもっていないのであります。

 椎名先生

 貴方は明治三十一年、岩手県水沢市に生まれました。貴方は、江戸末期の著名な蘭学者、高野長英の血を承け、明治、大正を通ずる政界の巨星・後藤新平を叔父に持っておられました。大正十二年、東京大学法学部を卒業後、旧農商務省に入り、農林、商工両省に分割後は、一貫して商工行政を担当し、戦前、戦中の激動期に、わが国産業政策の立案と遂行に大きい役割を果たされました。また、昭和八年から約六年間は、満洲国の経営に当たられ、いまは見果てぬ夢とはなりましたが、広漠たる満洲の野に壮大な経綸をふるわれたのであります。

 かくして、磨き抜かれた貴方の稀有の才幹は、昭和三十年の政界進出とともに見事に開花し、結実するに至りました。岸、池田、佐藤、田中、三木の五代の内閣にわたり、内閣官房長官、通産大臣、外務大臣、自由民主党政調会長、総務会長、副総裁など政府、与党の要職を歴任されました。その間、貴方は「不如省事」の哲学に徹し、小事にこだわらず、つねに大局を把握して数々の偉功を残されたのであります。

 岸内閣の官房長官として、六〇年安保騒動の乗り切りに示された才腕、池田内閣、佐藤内閣の外相として、日韓国交の樹立に示された業績、党の改革に燃やされた情熱といくたの提言等は、なお、われわれの記憶に新たなものがあります。

 とりわけ忘れ得ないのは、昭和四十九年末、田中内閣退陣後の事態収拾に際し、副総裁として示された「椎名裁定」であります。その政治手法は枯れて、いぶし銀にも似た光沢を放ち、まさに完壁な芸術品を見る思いがいたしました。

 椎名先生

 かくして貴方は、八十一年に及ぶ生涯を見事に完結させ、いま永遠の眠りにつこうとされております。幸いにして、貴方が残された政治的遺志は、令息素夫君が引き継ぐことになり、郷土の同志の支持を得て、見事なスタートをきられております。われわれもまた、貴方の遺志を体し、省事を中核とする政治倫理の確立に努め、貴方の期待に応える決意をしております。

 ここに在りし日の先生の俤を偲び遺徳を追慕しつつ、お別れの言葉といたします。

 椎名先生、安らかにお眠り下さい。