データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 内外調整調査会第十八回全国年次大会における三木内閣総理大臣の講演

[場所] 
[年月日] 1975年9月8日
[出典] 三木内閣総理大臣演説集,388−394頁.
[備考] 
[全文]

 一、日米首脳会談

 私は八月上旬、アメリカを訪問して日米首脳会談を行った。たまたま二国間に取立てていうべき懸案がない時期だったので、首脳会談らしい会談を行った。

 予め両国の事務当局の間で決められた「お膳立て」に乗って適当にやるのでなく、ほんとうに両国首脳が胸襟を開いて、お互いに話し合いたいことを話し合った。

 フォード大統領と私との間には、ほんとうに気心が通じ合い、いつでも、なんでも、ざっくばらんに話合える人間関係、相互信頼関係が打ち立てられた。

 これが何よりの収穫であった。日米関係は、こうした真の相互信頼と相互期待の上に立った成熟した関係に発展して来た。

 従って過去をふりかえって、いわゆる「韓国条項」がどうの、「ニクソン・ショック」がどうのというような後向きの話は、全く出ていない。

 今後、日米両国は、前向きで、より深い、より広い、そして、より創造的な協力をしようという共通の決意を固めたわけだ。

 その決意というのは、具体的には、(1)自由と民主主義擁護のための協力。(2)アジア、太平洋地域の安定のための積極的協刀。(3)互いにイエスとノーをはっきりさせて、ゴマカシのない付き合いをする「永遠の友人」としての日米関係樹立のための協力。(4)立場、考え方、制度の差を越えて、世界人類の格差をなくして平和と繁栄の基礎づくりをするための日米のグローバルな協力。ということである。

 二、アメリカの対日関心と期待の高まり

 八月初旬は、アメリカで夏休みの真最中である。そういう悪い時期の訪米だったから、ワシントンでの会談にのみ集中して、ほかの行事はできるだけお断りした。

 にも拘らず、ワシントンでのプレス・クラブの昼食会も超満員で二階に補助椅子を出す仕末。ニューヨークの由緒あるジャパン・ソサイテーは是非とも歓迎晩餐会をやりたいと早くからいって来た。但し四百人位しか集まらないから悪しからずということであった。ところが、出席希望者が六百人となり、八百人となり、会場を変更しなければならなくなった。実際に晩餐会が催された時には千百人になってしまった。

 またニューヨーク市は、盛大な歓迎会を開き、その席上、戦後総理級ではイギリスのチャーチル首相しか贈らなかった名誉市民の称号を私に贈った。

 なぜ、そんなに関心が湧いたのか。

 青年期にアメリカに留学した三木が、そして、アメリカで身につけた自由と民主主義を信奉して、三十八年間の議員生活を通じて信念を貫き通した三木が、アメリカに来て何をいうかという個人に対する関心もあったであろう。

 然し、より重要なことは、個人に対するよりも、今日の日本と日本人に対する期待の高まりにあったと思う。

 それには特に三つの理由があると思う。それは、

(1)戦後、三十年。敗戦の荒廃から立ち上り、遂に、アメリカにつぐ自由世界第二の経済大国を築いた日本人の勤勉と創造的能力に対する高い評価と敬意。

(2)ベトナム情勢の急転以後、アジアにおける民主主義の同志として、又、実力の保持者として「頻りになるのは日本だ」という対日再評価。

(3)現在先進民主主義工業諸国が当面している諸問題−スタグフレーション、エネルギー、通貨、第三世界問題等々、いづれをとっても、一国だけで解決不可能の問題である。それは国際協力によって解決する外はないが、その場合、日本は欠くことの出来ない協力相手であるという認識。が原因であると思う。

 三、日本の国際的責任の増大

 国際的な対日関心の高まりということは、とりも直さず、日本の国際的責任の増大ということである。

 日本は経済面では、かなり国際責任を自覚もし、その責任も果たして来たが、これからは政治面での責任分担が、課題となる、軍事面では、日本は何等の積極的貢献の出来ないことは、国際的にも理解されつつあるが、国際政治の面で、日本の意見も積極的に述べて、国際協力に参加すべき時代となった。日本としてのこの認識が必要となって来た。

 四、三木政治の現状

 外国からは異常といわれた超高度経済成長を支えた内外の条件はすべて崩壊した。これからは、世界の資源を日本ばかりが使わずに世界と共に適正に経済発展を期する正常安定路線に切りかえなくてはならぬ。その間の摩擦を出来るだけ少くしなくてはならぬ。そのためにあと二年をかける必要がある。その試練をのり越えれば、勤勉な国民によって支えられた日本経済は必ず安定と発展をとりもどして明るいものとなることを信じて疑わない。

 昭和四十八年の石油危機が産んだ、「狂乱物価」を沈静さすために、取らざるを得なかった総需要抑制政策と社会公正政策とは、一方に景気の落ち込みをもたらした。又、他方現状維持派の抵抗も呼んだ。そこにもってきて、金脈政治から来た国民の政治不信と痛烈な批判とが重なって来た。そうした情況下で産まれたのが三木政権であった。

 物価沈静、金脈不信の解消、社会公正と政治粛正の実現、経済の正常路線への転換、こうした重い十字架を背負って出発したのが三木政権である。私は、その責任を果たすために全力を傾倒して来たが、今後も全力を傾倒する。然しこの重い十字架は、私の上にのみかかっているものではない。自民党がみんなで背負わねばならぬ十字架である。

 然し私は、日本が当面している情勢の深刻さを正当に認識して貰えるならば、自民党は無論のこと、野党の心ある人々も、一時的に「政治休戦」をしても、とにもかくにも、当面の難局だけは、切り抜けなければ、国民生活に致命的な打撃を与えることを十分承知しているので、協力して貰えるものと信じている。

 五、臨時国会

 財政・経済の難局を迎えた責任追求論も当然にある。

 原因は遠く且深いけれども、去年の十二月から責任を引きついだ三木内閣といえども責任回避は許されぬことは私は十分知っている。

 然し、今その責任追求だけでは、税収不足三兆円は埋まらない。思い切った景気対策費もつくり出せないのである。

 未曾有の赤字公債の発行で−−即ち、国民から前借りで、というより、国民総がかりで−−この経済難局を切り抜けなければ正直なところどうにもならないのである。

 国民からの前借りは、負担を後に残すことになるのだから、出来るだけ歯止めをつくって、安易に流れないようにしなければならぬのは当然である。それには細心の注意を払う。

 然し、当面の経済難局突破のためには、赤字公債を発行して、一時的に思い切った対策が必要である。その点、国民の皆さんに理解してもらいたい。

 とにかく来るべき臨時国会は三木内閣にとって重要な国会であることは、いうまでもないが、同時に国会にとっても、この難局に際し、国会が法案審議に如何なる態度をとるかは日本の議会制民主主義の将来にも関連なしとはいえない。

 六、物価と不況

 物価上昇と不況が併存するいわゆるスタグフレーションの時代には常に両面の二重対策が必要である。一方的政策にかたより過ぎては谷間に落ちる。不況と物価の深い谷間の狭い線の上をどちらにも落ちこまないよう注意深く歩かねばならぬ。世界各国ともこの点を一番苦心している。

 石油危機以来、世界的な規模で激しいインフレが起り、国民生活を脅かした。無論、わが国もその例外ではない。政府がインフレ克服、物価の安定を最優先課題として強力な総需要抑制をとって来たことは当然であった。その結果として、最近にいたり、物価も鎮静傾向にあり、政府が今年度末までに消費者物価の対前年同月上昇率を、一ケタ台にするという目標は、年度末をまたず今秋のうちに達成されそうな情勢である。

 しかし、一方に戦後はじめて経済の実質成長率がマイナスとなるという深刻な事態を経験し、生産はおおむね昭和四十七年頃の水準に停滞し、失業の脅威や企業倒産の増加をみるにいたった。

 最近景気はようやく回復の過程に入り、生産は上昇しはじめたとはいえ、その足取りは緩やかであり、雇用の問題や、企業経営の悪化は依然として深刻なものとなった。インフレ克服の過程で広まった深刻な不況は、わが国のみならず世界各国の情勢であるが、わが国として捨ておける問題ではない。

政府は目下補正予算の編成中であるが、その中には災害復旧費、義務的経費の不足額の補填、公務員給与改善費等は勿論のこと、公共事業を中心とする景気浮揚政策を十分織りこみ、景気浮揚を図ることにしている。然し政府は引き続き物価の動向には、絶えず深い注意を払い、総需要を適切に管理してゆく考えである。

 七、天皇御訪米

 天皇・皇后両陛下が、昨年十一月のフォード大統領の公式訪日の答礼訪問として、近く米国を公式御訪問される。勿論、それは政治を離れた御訪米である。

 政治を離れ、純粋に「日本国民の統合の象徴」としての御訪米である。それだけに人間対人間、国民対国民の親善の意義は大きいと思う。

 日米両国民間の不幸なる過去を完全に精算して、永遠の和解・理解・信頼・尊敬・友好の新時代を再確認するという重要な意味がある。

 私の願いは、新しい世代の人々を含めての国民の皆さんに対し、政治を離れて陛下のつつがなき御訪米を祈って、祝福を以ってお送り申し上げたいということである。

{(1)は原文ではマル1}