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政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 人民民主主義独裁について 中国共産党二十八周年を記念して

[場所] 
[年月日] 1949年6月30日
[出典] 毛沢東選集,外文出版社,539-560頁
[備考] 
[全文]

 一九四九年の七月一日という日は、中国共産党がすでに二十八年の年月をあゆんできたことをしめしている。人間とおなじように、党にも幼年期、青年期、壮年期、老年期がある。中国共産党はもはや子供ではなく、また十何歳の若者でもなく、おとなである。人間は年寄りになればやがて死ぬが、党もこれとおなじことである。階級が消滅すれば、階級闘争の道具であるすべてのもの、政党や国家機構は、その機能をうしない、必要がなくなるので、しだいにおとろえ、自己の歴史的使命を終える。そして、より高級な人類社会へとすすんでいく。われわれはブルジョア政党とは逆である。かれらは階級の消滅、国家権力の消滅、党の消滅を口にすることをおそれる。ところが、われわれは、まさにこれらのものの消滅をうながすために、条件をつくりだし、奮闘努力するものであることを公然と声明する。共産党の指導と人民独裁の国家権力こそが、そうした条件である。この真理をみとめないものは、共産主義者ではない。マルクス・レーニン主義を勉強したことのない、入党したばかりの若い同志たちは、まだこの真理を理解していないかもしれない。かれらはこの真理を理解しなければならず、そうしてこそ正しい世界観をもつことができるのである。全人類はみな、階級を消滅させ、国家権力を消滅させ、党を消滅させるという道をあゆむのであって、それはただ時間と条件の問題だということを、かれらは理解しなければならない。全世界の共産主義者はブルジョア階級よりも聡明{そうめいとルビ}で、事物の存在と発展についての法則を理解し、弁証法を理解しており、遠い先ざきまで見通すことができる。ブルジョア階級がこの真理を歓迎しないのは、かれらがくつがえされることを望まないからである。くつがえされるということ、たとえば、いま国民党反動派がわれわれによってくつがえされ、かつて日本帝国主義がわれわれと各国人民によってくつがえされたようなこと、これはくつがえされるものにとっては、苦痛であり、考えるだけでもたまらないことである。ところが、労働者階級、勤労人民、共産党にとっては、くつがえされるなどという問題ではなくて、階級や国家権力や政党がきわめて自然に死滅し、人類が大同の世界にはいれるように、活動にはげみ、条件をつくりだすということである。これからのべようとする問題をはっきり説明するため、ついでにここで、この人類進歩の未来図の問題にふれたわけである。

 われわれの党は二十八年の年月をあゆんできたが、周知のように、平穏な道をあゆんできたのではなくて、困難な環境のなかをあゆんできたのであり、われわれは、国の内外、党の内外の敵とたたかわなければならなかったのである。ありがたいことに、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンがわれわれに武器をあたえてくれた。その武器は機関銃ではなくて、マルクス・レーニン主義である。

 レーニンは一九二〇年に『共産主義内の「左翼主義」小児病』のなかで、ロシア人が革命理論をさがしもとめたいきさつについてのべている[1]。ロシア人は数十年にわたって困難辛苦をなめつくし、やっとマルクス主義をさがしあてた。中国には、十月革命前のロシアとおなじか、または似かよったことがらがたくさんある。封建主義の抑圧、これはおなじである。経済と文化のたちおくれ、これは似かよっている。両国ともたちおくれていたが、中国はいっそうたちおくれている。先進的な人びとが、国を復興させるために、困難にめげず奮闘し、革命の真理をさがしもとめたこと、これはおなじである。

 一八四〇年のアヘン戦争に敗れたときから、中国の先進的な人びとは、ひじょうな苦労をかさねて、西方諸国に真理をもとめた。洪秀全{ホンシユウチヨワンとルビ}、康有為{カンユウエイとルビ}[2]、厳復{イエンフーとルビ}[3]、孫中山{スンチヨンシヤンとルビ}は、中国共産党がうまれるまえに西方に真理をもとめた人びとを代表している。そのころ、進歩をもとめる中国人は、西方の新しい学問にかんするものならどんな書物でも読んだ。日本、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツに派遣された留学生の多いことは驚くばかりであった。国内では、科挙を廃止し、雨後のたけのこのように学校をおこして[4]、西方に学ぶことに力をそそいだ。わたし自身が青年時代に学んだのも、やはりこうしたものであった。それは西方のブルジョア民主主義の文化、つまりいわゆる新学で、それにはそのころの社会学説と自然科学がふくまれており、中国の封建的文化、つまりいわゆる旧学と対立するものであった。そうした新学を学んだ人たちは、長い年月のあいだに、それらのものでけっこう中国は救われるという信念をもつようになった。旧学派は別として、新学派のなかでそれに疑いをもつものは少なかった。国を救うには維持をおこなうほかなく、維新をおこなうには外国に学ぶほかない、というわけである。そのころの外国では西方資本主義諸国だけが進歩的だった。それらの国はブルジョア近代国家の建設に成功していたのである。日本人は西方から学んで効果をおさめていたので、中国人も日本人から学ぼうと考えた。そのころの中国人からみればロシアはおくれた国であり、ロシアに学ぼうと考えるものはいたって少なかった。これが、一九世紀の四十年代から二〇世紀の初期にかけて、中国人が外国に学んだ状況である。

 帝国主義の侵略は、西方に学ぼうとする中国人の迷夢をうちやぶった。ふしぎなことだ、なぜ先生はいつも生徒を侵略するのか。中国人は西方からたくさんのものを学んだが、それは通用しなかったし、理想はいつも実現できなかった。辛亥{シンハイとルビ}革命のような全国的な規模の運動もふくめて、たびかさなる奮闘は、ことごとく失敗に終わった。国の状態は日に日に悪化し、人びとは生きていけない環境におかれた。疑問がうまれ、増大し、発展していった。第一次世界大戦が全世界を震撼{しんかんとルビ}させた。ロシア人が十月革命をやって、世界最初の社会主義の国家をうちたてた。それまでは地下にうずもれていて外国人の目につかなかった偉大なロシアのプロレタリア階級と勤労人民の革命的エネルギーが、レーニン、スターリンの指導のもとに、突然、火山のように爆発し、中国人が、そして全人類が、ロシア人を見なおすようになった。このとき、ほかならぬこのとき、中国人には、思想から生活にいたるまで、まったく新しい時代がはじめてあらわれた。中国人はマルクス・レーニン主義という世界のどこにも適用できる普遍的な真理をさがしあて、それによって中国の姿は変わりはじめたのである。

 中国人がマルクス主義をさがしあてたのは、ロシア人を介してであった。十月革命前には、中国人はレーニン、スターリンを知らなかったばかりでなく、マルクス、エンゲルスも知らなかった。十月革命の砲声がとどろいて、われわれにマルクス・レーニン主義がおくりとどけられた。十月革命のおかげで、全世界の、そしてまた中国の先進的な人びとは、プロレタリア階級の世界観を国家の運命を観察する手段として、あらためて自分の問題を考えなおすようになった。ロシア人の道をあゆこと‐‐これが結論であった。一九一九年には、中国に五・四運動がおこった。一九二一年には、中国共産党が成立した。孫中山は絶望のなかで、十月革命と中国共産党にめぐりあった。孫中山は十月革命を歓迎し、中国人にたいするロシア人の援助を歓迎し、中国共産党の協力を歓迎した。孫中山が死んで、蔣介石{チアンチエシーとルビ}がでてきた。二十二年という長い年月のあいだに、蔣介石は中国を絶望的な状態におとしいれた。この時期に、ソ連を主力軍とする反ファシズム第二次世界大戦によって三つの帝国主義大国がうちたおされ、二つの帝国主義大国が戦争のなかで弱まって、世界で損害をうけずにすんだ帝国主義大国はただ一つ、アメリカだけであった。しかし、アメリカ国内の危機はきわめて深刻である。アメリカは全世界を奴隷化しようとしており、蔣介石に兵器をあたえて、何百万もの中国人を殺害させた。中国人民は、中国共産党の指導のもとに、日本帝国主義を追いはらったのち、三年間の人民解放戦争をたたかって、基本的な勝利をおさめた。

 このようにして、西方のブルジョア文明、ブルジョア民主主義、ブルジョア共和国構想は、中国人民の心のなかでいっせいに破産してしまった。ブルジョア民主主義が労働者階級の指導する人民民主主義に席をゆずり、ブルジョア共和国が人民共和国に席をゆずった。このようにして、人民共和国をへて社会主義と共産主義に到達し、階級の消滅と世界の大同に到達する可能性がうまれた。康有為は『大同書』を書いたが、大同にたっする道はみつけだせなかったし、またみつけだせるはずもなかった。ブルジョア共和国は外国にはあったが、中国にはありえない。というのは、中国は帝国主義の抑圧をうけている国だからである。唯一の道は、労働者階級の指導する人民共和国をとおることである。

 その他のすべてのことが試みられたが、いずれも失敗に終わった。その他のことに未練をもっていた人びとのうち、あるものはたおれ、あるものはめざめ、あるものはいま頭をきりかえつつある。事態の発展があまりにもはやいので、多くの人びとが唐突な感じをうけており、あらためて勉強しなおさなければならないという気になっている。人びとのこうした気持ちはよくわかる。われわれは、あらためて勉強しなおそうという善良な態度を歓迎するものである。

 中国プロレタリア階級の前衛は、十月革命ののち、マルクス・レーニン主義を学んで、中国共産党をつくった。そしてすぐ政治闘争にはいり、まがりくねった道をたどり二十八年の年月をあゆんで、ようやく基本的な勝利をおさめた。孫中山が臨終の遺言のなかで「四十年の経験を積んで」といったのとおなじように、われわれも、二十八年の経験を積んで、おなじ結論にたっした。つまり、勝利に到達しようとのぞむなら、「民衆をよびさまし、そして、世界でわれらを平等に遇する民族と連合し、ともに奮闘しなければならぬ」ということをふかく知ったのである。孫中山とわれわれは、それぞれ異なった世界観をもち、異なった階級的立場から出発して問題を観察し処理してきた。しかしかれは、二〇世紀の二十年代にあって、どのように帝国主義とたたかうかという問題では、このようにわれわれと基本的に一致した結論にたっしたのであった。

 孫中山が世を去ってから二十四年になるが、中国革命の理論と実践はいずれも、中国共産党の指導をうけて大きな発展をとげ、中国の姿を根本から変えてしまった。現在までのところ、中国人民がおさめた主要なそして基本的な経験は、つぎの二つである。(一)国内では、民衆をよびさますこと。つまり、労働者階級、農民階級、都市小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級を結集し、労働者階級の指導のもとに、国内の統一戦線を結成し、そこから、労働者階級の指導する、労農同盟を基礎とした人民民主主義独裁の国家の樹立にまで発展させることである。(二)対外的には、世界でわれらを平等に遇する民族および諸国人民と連合し、ともに奮闘すること。つまり、ソ連と連合し、人民民主主義諸国と連合し、その他の諸国のプロレタリア階級および広範な人民と連合して、国際的な統一戦線を結成することである。

 「きみたちは一辺倒だ」。まったくそのとおりである。一辺倒、これは孫中山の四十年の経験と共産党の二十八年の経験がわれわれに教えるところであり、勝利に到達し勝利をかためようとすれば、どうしても一辺倒でなければならないことをふかく知ったのである。四十年間と二十八年間の経験からして、中国人は、帝国主義一辺倒か社会主義一辺倒かのどちらかであり、ぜったいに例外はないのである。二股膏薬{ふたまたごうやくとルビ}は通用せず、第三の道はない。われわれは帝国主義一辺倒の蔣介石反動派に反対するし、第三の道についての幻想にも反対する。

 「きみたちは刺激しすぎる」。われわれが問題にしているのは、ほかのだれに対処することでもなく、国の内外の反動派、すなわち帝国主義者とその手先どもにどう対処するかということである。こうした連中にたいしては、刺激する、しないの問題はおこらない。刺激しても刺激しなくてもおなじである。なぜなら、かれらは反動派だからである。反動派と革命派のけじめをはっきりつけ、反動派の陰謀、計略をあばき、革命派の内部の警戒心と注意をよびおこし、味方の士気をたかめ、敵の威勢をくじいてこそ、反動派を孤立させ、これにうち勝ち、あるいはこれにとって代わることができるのである。野獣のまえでは、ほんのわずかなひるみも見せてはならない。われわれは景陽岡の武松[五]に学ばなければならない。武松からみれば、景陽岡の虎は、刺激しても刺激しなくてもおなじで、要するに人間をとって食おうとすることに変わりはない。虎をうち殺すか、虎に食われるか、二つに一つである。

 「われわれは商売をしたい」。まったくそのとおりで、商売はどのみちやらなければならない。われわれは、商売するのを妨害している内外の反動派に反対するだけで、それ以外には、どんな人にも反対しない。われわれが外国と商売するのを妨害したり、さらにはわれわれが外国と外交関係をうちたてるのを妨害したりしているのは、ほかでもなく、帝国主義者とその手先蔣介石反動派であることを知るべきである。国の内外のあらゆる勢力を結集して内外の反動派をうちやぶれば、われわれは商売ができるようになり、平等、互恵、領土・主権の相互尊重を基礎にすべての国と外交関係をうちたてることができるようになる。

 「国際的な援助がなくても勝利することができる」。これはあやまった考えである。帝国主義の存在する時代には、どんな国でも、真の人民革命は、国際的な革命勢力のさまざまな形での援助がなければ、勝利をかちとることはできない。勝利したとしても、それをうちかためることはできない。偉大な十月革命が勝利し、うちかためられたのも、やはりそうであって、レーニンとスターリンがはやくからこのことをわれわれに教えている。第二次世界大戦で、三つの帝国主義国がうちたおされ、また人民民主主義諸国がうちたてられたのもそうであった。人民中国の現在と将来もまだ同様である。考えてもみたまえ。もしもソ連の存在がなかったとすれば、もしも反ファシズム第二次世界大戦の勝利がなかったとすれば、もしも日本帝国主義を打倒していなかったとすれば、もしも人民民主主義諸国が出現していなかったとすれば、もしも東方の被抑圧諸民族が現に闘争に立ちあがっていなかったとすれば、もしもアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本などの資本主義国内の、人民大衆とかれらを支配している反動派とのあいだの闘争がなかったとすれば、もしもこれらすべてを総合したものがなかったとすれば、われわれの頭の上にのしかかっている国際反動勢力は、いまより何倍も大きくなっていたにちがいない。そのようなばあいにも、われわれ勝利することができるだろうか。できないことはあきらかである。勝利したとしても、それをうちかためることはできない。それについては、中国人民はありあまるほどの経験をもっている。国際革命勢力と連合しなければならないという孫中山の臨終のことばは、とっくにこうした経験を反映しているのである。

 「われわれには英米政府の援助が必要である」。こんにちでは、これも幼稚な考えである。いまの英米の支配者はやはり帝国主義者である。そのかれらが人民の国家に援助をあたえるようなことがあるだろうか。われわれとこれらの国が商売をし、そしてかりに将来これらの国が互恵の条件のもとでわれわれに金を貸してくれたとしても、それはなんのためか。それは、これらの国の資本家が金をもうけ、銀行家が利息もうけて、かれら自身の危機を救うためで、けっして中国人民にたいする援助などというものではない。これらの国の共産党や進歩的な各党派は、自国の政府に、われわれの商売をさせ、さらには外交関係を結ばせるようはたらきかけているが、これは善意のものであり、これが援助というものであって、これとこれらの国のブルジョア階級の行為とを同日に論ずることはできない。孫中山は、一生のうちに数えきれないほどたびたび資本主義諸国に援助をよびかけたが、ついに何もえられず、かえって無慈悲な打撃をうけた。孫中山は一生のうちに一度だけ国際的な援助をうけたことがあるが、それはソ連の援助であった。読者諸君、孫中山先生の遺言を見ていただきたい。先生がそこでじゅんじゅんとさとしているのは、帝国主義諸国の援助に目をむけよということではなくて、「世界でわれらを平等に遇する民族と連合」せよということである。孫先生は、ひどい目にあったり、ペテンにかかったりして経験をえていたのである。われわれは先生のことばを心にとめ、二度とペテンにかかってはならない。われわれは、国際的にはソ連を先頭とする反帝国主義戦線の側に属しており、真の、友好的な援助は、この側にもとめることができるだけであって、帝国主義戦線の側にもとめることはできないのである。

 「きみたちは独裁だ」。愛すべき先生がたよ、おことばどおりで、わらわれはまったくそのとおりである。中国人民が数十年のあいだに積んだいっさいの経験が、われわれに人民民主主義独裁を実行させるのである。それは人民民主主義専制ともいうが、要するにおなじことで、つまり、反動派の発言権をうばい、人民にだけ発言権をあたえるのである。

 人民とはなにか。中国では、そして現段階では、労働者階級、農民階級、都市小ブルジョア階級および民族ブルジョア階級である。これらの階級が労働者階級と共産党の指導のもとに、団結し自分たちの国家をつくり、自分たちの政府をえらび、帝国主義の手先すなわち地主階級と官僚ブルジョア階級およびこれらの階級を代表する国民党反動派とその共犯者たちにたいして独裁をおこない、専制をおこない、これらの連中を抑圧して、かれらには神妙にすることだけを許し、勝手な言動にでることをゆるさないのである。勝手な言動にでれば、ただちにとりしまり、制裁をくわえる。しかし、人民の内部では、民主制度を実施し、人民は言論、集会、結社などの自由の権利をもつ。選挙権は人民にだけあたえ、反動派にはあたえない。この二つの面、すなわち、人民内部における民主主義の面と反動派にたいする独裁の面の結びついたものが人民民主主義独裁である。

 どんな理由でそうするのか。それは、だれでもはっきり知っている。そうしなければ、革命は失敗し、人民は災いをこうむり、国家はほろびるからである。

 「きみたちは国家権力を消滅させるというのではないか」。そのとおりだ。しかし、いまはまだそうしない。またそうするわけにはいかない。なぜか。帝国主義がまだ存在し、国内の反動派がまだ存在し、国内の階級がまだ存在しているからである。われわれの現在の任務は、人民の国家機構を強化することである。それは主として人民の軍隊、人民の警察、人民の法廷を強化することであるが、それによって国防をかため、人民の利益をまもるのである。これを条件として、中国は、労働者階級と共産党の指導のもとに、着実に農業国から工業国へすすみ、新民主主義社会から社会主義社会へ共産主義社会へとすすみ、階級を消滅させ、大同を実現することができるようになる。軍隊、警察、法廷などの国家機構は、階級が階級を抑圧する道具である。敵対階級にたいしては、それは抑圧の道具であり、暴力であって、けっして「いつくしみ」などというものではない。「きみたちにはいつくしみがない」。まったくそのとおりである。反動派、反動階級の反動的な行為にたいしては、われわれはけっして仁政をほどこしはしない。われわれは人民の内部に仁政をしくだけで、人民の外部の反動派、反動階級の反動的な行為にたいして仁政をほどこすものではない。

 人民の国家は、人民を保護するものである。人民の国家があってはじめて、人民は、全国的な範囲で、また全体的な規模で、民主的な方法によって、自己を教育し自己を改造することができる。それによって、内外反動派の影響(この影響は現在まだひじょうに大きいし、また、これからも長期にわたって存在し、早急にとりのぞくことはできない)からぬけだし、旧社会で身につけた自己のわるい習慣やわるい思想をあらためて、反動派の誘いいれるあやまった道にふみこまずに、ひきつづき前進し、社会主義社会、共産主義社会にむかって前進することができるのでである。

 われわれがこの面でもちいる方法は、民主的な方法つまり説得の方法であって、強制の方法ではない。人民が法をおかせば、やはり処罰され、牢屋にいれられるし、死刑になることもあるが、これは個々のばあいであって、一つの階級としての反動階級にたいしておこなう独裁とは、原則的に異なっている。

 反動階級や反動派のものたいしては、かれらの政権がくつがえされたのち、かれらが謀反{むほんとルビ}をおこしたり、破壊行為にでたり、攪乱{かくらんとルビ}行為にでたりしないかぎり、やはり土地をあたえ、仕事をあたえて、生きていけるようにし、労働のなかで自己を改造させ、新しい人間にうまれ変わらせる。かれらが労働したがらなければ、人民の国家は強制的に労働させる。それとともに、かれらにたいし、われわれが捕虜の将校にたいしてやったのとおなじように、宣伝教育をおこない、しかも、念をいれて、じゅうぶんにやっていく。これも、「仁政をほどこす」ものといえるかもしれないが、しかし、これは、もともと敵対階級だったものにたいしてわれわれが強制的におこなうものであって、革命的人民の内部にたいしてわれわれのおこなう自己教育とは同日に論ずることはできない。

 反動階級にたいするこのような改造の仕事は、共産党の指導する人民民主主義独裁の国家だけがやれることである。この仕事をやりとげたなら、中国のおもな搾取階級‐‐地主階級と官僚ブルジョア階級つまり独占ブルジョア階級は最終的に消滅されることになる。のこるのは民族ブルジョア階級だが、かれらのうちの多くの人たちにたいしては、いまの段階からでも、いろいろと適切な教育をほどこすことができる。将来、社会主義を実行するばあい、すなわち、私営企業の国有化を実行するばあいには、かれらにたいし、さらにすすんだ教育と改造の仕事をやっていく。人民の手には強大な国家機構があるので、民族ブルジョア階級の謀反をおそれることはない。

 重大な問題は農民を教育することである。農民の経済は分散しており、ソ連の経験によっても、農業の社会化にはひじょうに長い時間と最新の活動が必要である。農業の社会化なしには、全面的な強固な社会主義はありえない。農業の社会化の段どりは、国有企業を主体とする強大な工業の発展に対応させなければなならい[六]。人民民主主義独裁の国家は、段どりをおって国の工業化の問題を解決しなければならない。この論文では、経済問題はあまりとりあげられないつもりなので、ここではくわしくのべないことにする。

 一九二四年、孫中山がみずから指導し、共産党員も参加した国民党第一回全国代表大会で、有名な宣言が採択された。その宣言にはこうのべられている。「近世各国のいわゆる民権制度は、往々にしてブルジョア階級に専有され、まさしく平民を抑圧する道具になっている。国民党の民権主権についていえば、一般平民の共有するものであって、少数のものが私{わたくしとルビ}しうるものではない。」だれがだれを指導するかという問題をのぞいて、一般的な政治綱領としては、ここにいわれている民権主権は、われわれのいう人民民主主義または新民主主義に合致するものである。一般平民の共有することだけを許し、ブルジョア階級の私有することを許さない国家制度、これに労働者階級の指導がくわわれば、それが人民民主主義独裁の国家制度である。

 蔣介石は、孫中山をうらぎり、官僚ブルジョア階級と地主階級の独裁をうちたてて、中国の平民を抑圧するための道具とした。この反革命的独裁は、二十二年間にわたって実行され、こんにちようやく、われわれの指導する中国の平民によってくつがえされた。

 「独裁」または「全体主義」を実行しているといって、われわれをののしる外国の反動派こそ、独裁または全体主義を実行している連中である。かれらは、プロレタリア階級とその他の人民にたいする、ブルジョア階級という一つの階級の独裁制度、一つの階級の全体主義を実行しているのである。孫中山のいう、平民を抑圧する近世各国のブルジョア階級とは、ほかでもなく、こうした連中のことである。蔣介石の反革命的独裁こそ、これらの反動どもから学んだものである

 宋代の哲学者朱熹{しゅきとルビ}はいろいろな書物を書き、いろいろなことを説いたが、みんなから忘れられている。しかし、まだ忘れられていないかれのことばに、「すなわちその人の道をもって、かえってその人の身を治む」[七]というのがある。われわれがやっているのは、まさにこれである。すなわち帝国主義とその手先蔣介石反動派の道をもって、かえって帝国主義とその手先蔣介石反動派の身を治めるのである。それだけのことで、それ以外のことではない。

 革命的独裁と反革命独裁とは、性質は正反対だが、前者は後者から学んだものである。この学習はひじょうにたいせつである。革命的な人民が、反革命階級にたいするこうした支配のしかたを学びとらなかったならば、かれらは政権を維持することができず、その政権は内外の反動派によってくつがえされ、内外の反動派が中国でふたたび支配者の座につき、革命的な人民は災いをこうむることになる。

 人民民主主義独裁の基礎は、労働者階級、農民階級および都市小ブルジョア階級の同盟であり、主として労働者と農民の同盟である。なぜなら、この二つの階級は中国の人口の八〇パーセントから九〇パーセントをしめているからである。帝国主義と国民党反動派をくつがえすのは、主としてこの二つの階級の力である。新民主主義から社会主義へ移行するにも、主としてこの二つの階級の同盟に依頼しなければならない。

 人民民主主義独裁には、労働者階級の指導が必要である。なぜなら、労働者階級だけがもっとも遠くを見通すことができ、大公無私であり、もっとも革命の徹底性をもっているからである。革命の全歴史が証明しているように、労働者階級の指導がなければ革命は失敗し、労働者階級の指導があれば革命は勝利する。帝国主義の時代にあっては、どの国においても、ほかのどの階級も、いかなる真の革命を指導してそれを勝利にみちびくことはできない。中国の小ブルジョア階級と民族ブルジョア階級は何度も革命を指導したが、いつも失敗した。これがそのあきらかな証拠である。

 民族ブルジョア階級は、現段階では、大きな重要性をもっている。われわれのそばにはまだ帝国主義が立っており、この敵はひじょうに凶悪である。中国の近代工業が国民経済全体のなかでしめる比重は、まだひじょうに小さい。いまはまだ確実な数字はないが、ある種の資料から推して、抗日戦争まえ、近代工業の生産額は国民経済の総生産額のわずか一〇パーセント前後をしめるにすぎになかった。帝国主義の抑圧に対処するため、おくれた経済的地位を一歩たかめるために、中国は、国の経済と人民の生活に害がなくて有利な、すべての都市、農村の資本主義的要素を利用しなければならないし、民族ブルジョア階級と団結してともにたたかわなければならない。われわれの現在の方針は、資本主義を制限することであって、資本主義を消滅することではない。だが、民族ブルジョア階級は、革命の指導者にはなれないし、国家権力のなかで主要な地位をしめるべきでもない。民族ブルジョア階級が革命の指導者になることができず、また、国家権力のなかで主要な地位をしめるべきでないというのは、民族ブルジョア階級の社会的経済的地位がかれらの軟弱性を決定づけており、かれらは遠い見通しに欠け、じゅうぶんな勇気をもたず、そのうえ、民衆をおそれるものが少なくないからである。

 孫中山は、「民衆をよびさます」こと、あるいはまた「農民、労働者を援助する」ことを主張した。だれが「よびさまし」、また「援助する」のか。孫中山の考えでは、それは小ブルジョア階級と民族ブルジョア階級であった。しかし、これは実際にはできないことである。孫中山の四十年にわたる革命は失敗したが、それはどんな原因によるのだろうか。帝国主義の時代にあっては、小ブルジョア階級や民族ブルジョア階級は、いかなる真の革命を指導してそれを勝利にみちびくことはできない。原因はここにあったのである。

 われわれの二十八年は、これと大いに異なっている。われわれはたくさんのとうとい経験を積んでいる。規律のある、マルクス・レーニン主義の理論で武装した、自己批判の方法をとる、人民大衆と結びついた党。このような党に指導される軍隊。このような党に指導される革命的諸階級、革命的諸党派の統一戦線。この三つは、われわれが敵にうち勝つ主要な武器である。これらはいずれも、われわれが前人と異なる点である。この三つに依拠して、われわれは基本的な勝利をおさめたのである。われわれはまがりくねった道をたどってきた。われわれは、かつて、党内の日和見主義的偏向、右と「左」の日和見主義的偏向とたたかった。この三つのことで重大なあやまりをおかしたときには、いつも革命は挫折{ざせつとルビ}した。あやまりや挫折から教訓をくみとって、われわれはまえより賢くなり、仕事もすこしはうまくやれるようになった。どんな政党にとっても、どんな個人にとっても、あやまりは避けがたいもので、われわれに必要なことは、あやまりを少なくすることである。あやまりをおかしたならば、あらためる必要があり、あらためるのは、はやければはやいほどよいし、徹底的であればあるほどよい。

 われわれの経験をしめくくって一つにまとめると、労働者階級の(共産党をつうじて)指導する、労農同盟を基礎とした人民民主主義独裁ということになる。この独裁は、国際革命勢力と一致団結しなければならない。これがわれわれの公式であり、これがわれわれの主要な経験であり、これがわれわれの主要な綱領である。

 党の二十八年は長い期間ではあったが、われわれとしては、革命戦争の基本的勝利をかちとるという、ただ一つのことをしただけである。これはよろこばしいことである。というのは、これは人民の勝利だからであり、中国のような大きな国での勝利だからである。しかし、われわれのやるべきことはまだたくさんあって、旅路にたとえていえば、これまでの仕事は、万里の長征の第一歩をふみだしたにすぎない。のこっている敵を、われわれはこれから掃討しなければならない。経済建設という重大な任務がわれわれの目の前に横たわっている。われわれが習熟していることの一部はまもなくいらなくなるし、われわれが習熟していないことをやらなければならなくなってきている。これが困難というものである。帝国主義者は、われわれが経済をうまく処理できないものときめこんでいる。かれらはそばに立って見物しながら、われわれが失敗するのを待っている。

 われわれは困難を克服しなければならないし、自分にわからないことを学びとらなければならない。われわれは、すべてのその道の人(どんな人であろうと)から経済の仕事を学ばなければならない。かれらを先生として、うやうやしく学び、まじめに学ばなければならない。わからないことはわからないのであって、わかったふりをしてはならない。役人風を吹かしてはならない。深くうちこんでやっていけば、数ヶ月、一年二年、四年五年とたつうちには、きっと身につけることができる。ソ連共産党員にも、はじめのうちは、やはり経済の仕事が得意でないものがいたし、帝国主義者はやはりかれらが失敗するのを待ちうけていた。しかし、ソ連共産党は勝利した。レーニンとスターリンの指導のもとに、かれらは革命をやれるだけでなく、建設もやれるようになった。かれらはすでに偉大な輝かしい社会主義国家をうちたてている。ソ連共産党こそわれわれのもっともりっぱな先生で、われわれはソ連共産党に学ばなければならない。国際情勢も国内情勢もすべてわれわれに有利であり、われわれは、人民民主主義独裁という武器にたより、反動派をのぞく全国のすべての人びとと団結して、たしかな足どりで目的地にたっすることが完全にできるのである。

[注]

[一]『共産主義内の「左翼主義」小児病』第二章にみられる。レーニンはここでつぎのようにのべている。「前世紀の四十年代から九十年代までの約半世紀のあいだ、ロシアの先進的な思想は、かつてなかったほど野蛮で反動的なツァー制度の抑圧のもので、正しい革命理論をむさぼるようにさがしもとめ、この分野での欧米のありとあらゆる『最新の成果』を、おどろくほど熱心に注意ぶかく見まもった。ロシアは、未曽有の苦難と犠牲、比類ない革命的英雄主義、信じられないほどの精力とひたむきな探求、学習、実践による試練、失望、点検、ヨーロッパの経験との比較というこの半世紀の歴史をへて、唯一の正しい革命理論であるマルクス主義を、真に苦しみぬいてたたかいとったのである。」

[二]康有為(一八五八〜一九二七年)、広東省南海県の人。一八九四年、中国は日本帝国主義にうちやぶられた。康有為は一八九五年、北京で科挙の試験をうけた千三百人の挙人を指導し、連名で「万言書」を光緒皇帝にさしだし、「変法維新」を要求し、専制君主制を立憲君主制にあらためることを要求した。一八九八年、光緒皇帝は康有為、譚嗣同、梁啓超らを登用して政務にあずからせ、変法をはかった。だが、のちに頑迷派の代表西太后がふたたび政権をにぎるにおよんで、ついに維新運動は失敗に帰した。康有為、梁啓超は海外にのがれ、保皇党をつくって、孫中山の代表するブルジョア階級、小ブルジョア階級の革命派と対立し、反動政治家の一派となった。康有為の著作には、『新学偽経考』『孔子改制考』『大同書』などがある。

[三]厳復(一八五三〜一九二一年)、福建省閩侯県の人。かつてイギリスの海軍学校に留学した。一八九四年の中日戦争ののち、立憲君主制、変法維新を主張した。ハックスリの『進化と倫理』、アダム・スミスの『国富論』、ミルの『論理学体系』、モンテスキューの『法の精神』などを訳して、ヨーロッパのブルジョア思想をひろめた。

[四]本選集第二巻の『新民主主義論』注[一七]を参照。

[五]武松は中国の有名な小説『水滸伝』のなかの英雄で、景陽岡の虎退治の物語は、ひろく民間につたえられている。

[六]農業の社会化と国の工業化との関係については、一九五五年七月三十一日に、毛沢東同志が中国共産党の省委員会、市委員会、自治区委員会の書記の会議でおこなった報告『農業協同化の問題について』の第七の部分と第八の部分を参照。この報告のなかで、毛沢東同志は、ソ連の経験とわが国の実践にもとづいて、農業の社会化の段どりは社会主義工業化の段どりに対応させられなければならないという命題を大きく発展させた。

[七]これは朱熹が『中庸』第十三章の注でのべていることばである。