データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] ニューヨーク日本協会における鈴木内閣総理大臣の演説,日米関係の回顧と展望

[場所] ニューヨーク
[年月日] 1981年5月5日
[出典] 鈴木演説集,99−105頁.
[備考] 
[全文]

 ロックフェラー名誉会長,インガソル会長並びに御列席の皆様

 日本協会の七十五周年,誠におめでとうございます。日本協会が,日米親善友好のため積極的に活動してこられましたことは,われわれ日本国民にとって常に大きな励ましでありました。ただ今のロックフェラー名誉会長のお話によって,私はあらためて日本協会の長い歴史に思いをいたし,感銘を新たにいたしております。日米関係の前進のため尽力してこられた皆様に,深い敬意と感謝の意を表します。

 お話に先立って,私は,日本の国民が先日のスペース・シャトルの打上げと帰還の成功を,心から称えていることをお伝えしたいと思います。この偉業は,米国民の勇気と決断と能力を示すとともに,米国の科学技術がすぐれて高い水準にあることを物語るものであります。

 シャトルの帰還は,日本では午前三時すぎでしたが,数百万の日本国民は眠気も忘れて,テレビにかじりつき,「コロンビア号」があのすばらしい歴史的ミッションを終える瞬間を見守りました。着地が成功すると,ひとびとはわがことのように喜んで,米国民の勝利に拍手を送ったのであります。私もその一人でありました。

 これは,日本国民が米国民に強い親愛の情を抱いている証左であります。日本国民の米国民に対するこの親愛感,これは決して偶然の産物ではありません。

 私は,本日,日本協会の七十五周年という貴重な機会に,この親愛感のよって来たる所以を歴史的にふり返りつつ,日頃私が日本と日米関係について抱いてきた所感の一端を述べさせていただきたいと思います。

 幕末から今日までの間に,わが国は二度にわたる「出発」を経験いたしました。第一の「出発」は,いうまでもなく,ペリー提督がミシシッピー号以下の艦隊を率いて来航し,わが国の門戸をたたいた時のことであります。これが,わが国が近代化への歩みを始める契機となりました。

 ペリー提督の艦隊をみた日本人は,米国民に劣らぬ進取の気性を発揮して,直ちに蒸気船の操縦・航海術の習得に取り組みました。そして,わずか数年後の一八六〇年,日米修好通商条約批准書交換のため,わが国の使節が米国船に乗船してワシントンに赴いた際,その使節に随行するため,日本人のみが乗組んだ三百トンの汽船,咸臨丸が太平洋を無寄港・横断したのであります。それは,当時の日本人にとっては,「コロンビア号」の宇宙への旅にも匹敵する壮挙でありました。

 日本人が学んだのは航海術ばかりではありません。たとえば,咸臨丸に乗込んでサン・フランシスコを訪れた福沢諭吉は,進んだ米国の近代文明に驚嘆するとともに,とくに米国民の自由,平等,独立を愛する心に打たれ,米国独立宣言を全訳して,日本人に紹介しました。彼はのちに教育事業に献身し,また精力的に多くの啓蒙書を著わして,わが国の近代化に大きく寄与しましたが,この福沢の熱意が米国における見聞に支えられていたことは疑いを容れません。

 明治維新が成るや,わが国の国民は,近代化をめざして勤勉な活動をはじめました。植民地主義の波の中で,その独立を守りぬくため,急速に国力をつけなければならなかったのであります。米国は,この日本の立場に十分な理解を示し,寛容と善意をもって,わが国の発展を支援してくれました。一例を挙げれば米国は,当時わが国にとって緊要であった北海道の開拓を指導するため,優れた農務長官として名声を博したホレース・ケプロン以下,四十六人の専門家を日本に送りました。その中には今日の国立北海道大学の前身である北海道農学校に派遣されたマサチューセッツ州立農科大学学長ウィリアム・クラーク博士が含まれていました。クラーク博士が北海道を去るにあたって学生に述べた「ボーイズ・ビー・アンビシャス」という言葉は,わが国で,今日なおあまりにも有名であります。明治以後のわが国の発展の基礎は,これらの米国人の努力に負うものが少なくありません。

 こうしてわが国は,米国をはじめとする先進国に学びつつ,急速に近代化を推し進めましたが,この歩みは,不幸にも,戦争によって挫折のやむなきに至りました。

 戦争直後の日本は,見るも無残な有様でした。国土は焼け,ひとびとは路頭にさまよいました。産業は崩壊し,例えば石炭の生産能力は戦前の八分の一,銑鉄の場合は二〇分の一に落ちていました。貿易は止まり,必要最少限の食糧の確保も困難でした。インフレを抑えつつ,どう生産を回復するか,それは殆んど不可能な難事業と思われました。加うるに,多くの国民は戦争の目的は正しいと教えられ,大きな犠牲を払って戦争に協力しただけに,うけた精神的打撃も大きなものでした。

 われわれにとって幸運であったのは,占領のためにやってきた米国人が,いささか性急なきらいはありましたが,明るく楽天的で,理想主義と使命感にあふれ,善意に満ちていたことであります。このような米国人の熱意が,日本の国民に,復興の大事業と取組む勇気を与えたのであります。

 日本国民は,一世紀前の開国の場合と同様,米国に助けられ,再び将来に希望を託し,新たな決意で国際社会に生きる道を歩みはじめたのであります。

 これが,わが国の二度目の「出発」でありました。

 米国は,戦後の世界で,歴史上類のない寛大な復興計画,マーシャル・プランを実施したのをはじめ,これまでに千数百億ドルという巨額の対外援助を供与してきました。これに示される米国のリーダーシップと,その国民が払った犠牲によって,今日の世界の発展の基礎が築かれましたが,わが国の第二の出発も大きくこれに支えられました。

 しかし,実際には,これに続く道程は決して容易ではありませんでした。壊滅的な打撃を受けたわが国の産業は,財政負担と援助に依存して,不健全な経営を続け,インフレは日毎に悪化して国民生活を圧迫していました。一九四九年,米国から来日したドッジ公使は,厳しい均衡予算を実施して,インフレの終息をはかることを勧告し,この結果,わが国はようやくその経済を,国内的にも対外的にも活力ある自由経済の軌道に乗せることができたのであります。

 私は,すでに一九四七年に,政界に出馬し,国会に籍を置いておりましたので,この財政・経済運営の実際をつぶさにみることができましたが,このドッジ・ラインは,わが国民にとって,資金不足によって企業の倒産が相次ぐなど,まことに厳しい試練でありました。しかしながら,これは,わが国が経済の自立を勝ち取り,一層の繁栄を目指すためには,どうしても耐えて通らなければならない過程だったのであります。

 私は,当時,国造りの基本を学ぶために,米国を訪れる機会を得て,その広大な国土,圧倒的な生産力,陽気で進取の気性に富むひとびとに触れました。そして,わが国の現状と引き比べて,あまりの相違に目のくらむ思いがすると同時に,はるかな目標ではありますが,わが国の国造りの見本をみたような気がしたのであります。私は,米国の繁栄によって最もよく実証されている,自由と民主主義の理念を,国造りの確固たる基盤としていかなければならないと痛感いたしたのであります。

 一九五一年,講和条約の折衝のため来日したジョン・フォスター・ダレス大統領特使は,当時の吉田総理大臣に対して,「われわれは勝者の敗者に対する平和条約を作ろうとしているのではない。友邦としての条約を考えている」と述べるとともに,関係各国に対しても,わが国と「和解と信頼の平和」を結ぶよう呼びかけました。このようにして,国際社会に復帰したわが国は,それ以来一貫して,平和主義を国是とし,米国との関係を外交政策の基軸としながら,平和のための国際協調に徹してきたのであります。

 第一の出発後のわが国のテーマが「富国強兵」であったとするなら,第二の出発後のテーマは「平和の維持と経済の発展」でありました。国民の勤勉と多くの幸運に恵まれて復興したわが国の経済は,一九六〇年代以降,産業構造,貿易構造の高度化を通じて,飛躍的発展を遂げ,今日に至っております。これを可能とした原動力は,何よりも,わが国社会の民主化によって,活力を導き出されたわが国民の創意とエネルギーであります。その結果,わが国は,米国に次ぐ広大な国内市場を形成し,技術を錬磨し,品質を改善し,生産性を高めることができました。わが国製品の競争力の確固たる基礎も,ここにあったのであります。それと同時に,世界の自由主義経済体制と,特にそれを支えてきた米国の巨大な自由主義経済がなかったら,わが国の経済のこのような発展は望むべくもなかったに違いありません。

 こうして,わが国は,一九八〇年代を迎えるにあたり,世界のGNPの約一割を生産する国となり,産業も国民の生活も,先進諸国と肩を並べるに至りました。わが国は,第二の「出発」時にめざした「平和の維持と経済の発展」という目標を,今日ほぼ達成したのであります。

 それでは,今後,わが国は何をなさねばならないか,また,日米関係はどうあらねばならないかについて申上げたいと思います。

 今日の世界は,日々益々相互依存の度合いを強めつつあり,世界の平和を直接脅やかす問題は勿論のこと,エネルギー・資源問題,環境問題,第三世界の経済・社会開発の推進,世界経済の安定的成長など,問題は,どれをとっても,一国で対処できるものはありません。世界各国の協力が必要であり,両国合せて世界総生産の三分の一以上を占めている,日米両国の責任と役割,その協力は,とりわけ重要の度を増してきております。

 そして,私は,かかる世界の協力の中において,米国が,引続き強力な,リーダーシップを発揮していくことを強く期待いたします。この点,レーガン大統領閣下がその就任演説で,「米国は,世界における自由の模範,希望の光として,より力強い存在となることを目指し,自由の理念をわかち合う国々との歴史的つながりを強化する」と述べておられ,また,大きな政治的勇気をもって,これを具体化してゆくため努力しておられることを,私はまことに心強く思っております。もとより,わが国も,米国との緊密な協力のもとに,その力と地位にふさわしい役割を,わが国に適したやり方で果たしていかなければなりません。世界の平和と安定に大きく依存しつつ,今日を築いてきたわが国にとって,その維持・発展に貢献していくことは,当然の責務であります。われわれは,困難さの深まる国際社会において,これまでの受け身の態度を一転し,世界の平和の強化と発展のため,自ら進んで国際的責務を果たす国をつくることを目指しております。国際社会における受動的享受者から能動的創造者へ。−これは,いわばわが国の「第三の出発」であります。私は,このわが国の「第三の出発」が,レーガン大統領のいわれる米国の「新たな出発」と相まって,地球上に新たな平和と秩序を生みだして行くことを強く期待いたしております。

 戦後三十五年間,日米両国は,広大な太平洋の両端にありながら,共通の価値観に基づき,共通の利益を求めて,広く深く親しい関係をきずきあげてきました。人種,言語,歴史,伝統,文化などを全く異にした二つの国家が,これほど大きい,これほど深い関係を結んだことは,歴史上,おそらく類例をみないものであります。

 もちろん,双方の生存のための基本的条件,国際的地位,さらには国内経済情勢の違いなどから,両国間に問題の生ずることを完全になくすわけには行かないでありましょう。しかしながら,緊密な対話によって,相互理解を増進し,お互いに主張すべきものは主張し,譲るべきは譲って,利害を調整するよう努力するならば,必ずや問題は解決されるにちがいありません。また,そのような双方のたゆみない努力こそ,相互の信頼を培い,われわれの友好協力関係を一層揺るぎないものとする最大の鍵であると信じます。

 私は,以上のような,日本と日米関係についての考え方を携えて,明六日ワシントンへ赴き,レーガン大統領はじめ,米政界の指導的地位にある方々と会談いたすつもりであります。

 ここで特に一言しておきたいのは,日米間の文化の交流であります。戦後の日本には,思想や科学技術のみならず,小説,映画,テレビ番組,音楽,スポーツ,食べものなど,およそ米国の文化という文化がとうとうと流入し続けています。日本の国民生活の中には,広範にかなりな程度,米国的生活様式が根づき,それが日本人の米国理解を助けています。このような米国文化の日本への流入に較べて,日本文化の米国流入の規模は,決して十分ではありません。わが国の国際交流基金を通じる活動や,米国側の日本協会をはじめとする様々な友好団体の地道な努力もあって,日本文化に対する米国民の理解は高まりつつありますが,文化交流面での均衡が達成されて,はじめて,相互理解が十全のものとなると思います。

 私は,このような中で,日本協会が日米間の各種の交流事業の推進に積極的に努力しておられることに,あらためて敬意を表し,わが国としても,この事業の目的にいささかなりとも寄与するため,日本政府が日本協会に対し五十万ドル相当の協力を行うものであることを発表したいと思います。

 最後に,私は,故ジョン・ディー・ロックフェラー三世の御努力に言及したいと思います。ロックフェラー三世は,日米友好協力関係の緊密化に尽されるとともに,人類が当面する人口問題,食糧問題など,困難な問題に忍耐強く取組まれました。人類は二十一世紀の初頭に六十五億人の人口を擁することとなると見通されており,われわれは,その時に備えて,遅滞なく準備を進めなければなりません。われわれは,狭小な利己主義のために相争う余裕はなく,われわれに今必要とされているのは,まさにロックフェラー三世の視野と精神であると考えます。

 日本協会の一層の御発展を願い,関係の皆様の御健康を祈って,本日のお話を終えたいと存じます。

 御静聴ありがとうございました。