データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] フォード米大統領歓迎午餐会における田中内閣総理大臣のスピーチ

[場所] 
[年月日] 1974年11月19日
[出典] 田中内閣総理大臣演説集,572−574頁.
[備考] 
[全文]

 フォード大統領閣下,並びに御列席の皆様

 本日ここに,フォード大統領,並びにキッシンジャー国務長官ほか,御一行の歓迎の宴を開くことが出来ましたことは,私の最も欣快とするところであります。

 アメリカ合衆国が,その源である欧州に目をむけがちであることは,容易に理解できるところであります。しかしながら,今日の大を築きあげ,世界の政治経済に決定的な影響力を持つに至った貴国が,太平洋の側からも平和を志向するのでなければ,世界の平和を有効に維持することはできないのであります。大西洋の彼方に対する郷愁と,太平洋の彼方に対する意欲とが相まってこそ,世界の繁栄へむけての米国の貢献が全うされると思います。

 そのようなとき,貴大統領が,就任後最初の公式訪問国として,アジア太平洋の平和の礎たらんとしているわが国を訪れられたことは,まことに時宜を得た決定であります。また,貴大統領が日米関係の重要性を身をもって実証されたものとして,日本国民を代表して敬意を表する次第であります。

 ただ一つだけ残念なことは,私が妻と共に,貴大統領御夫妻をお迎えすることを楽しみにしておりましたところ,夫人が思いがけない御病気のため,訪日を断念されたことであります。この試錬を勇気をもって克服された夫人が,あらためて訪日の機会を持たれることを心からお祈りいたします。

 私は,今朝のうちとけた会談において,日米修好史のひとつの挿話を想い起こしました。万延元年に日米修好通商条約の批准書交換のため,幕府より米国に派遣された使節団は,米国議会を訪れた際,江戸城内の荘重な評定と全く対照的に活発な審議ぶりに,驚愕したと伝えられています。一行の副使村垣淡路守は,その様子を「わが日本橋の魚市のさまによく似たり」と日記に記しております。

 その後百十余年の変遷を経て,かつて魚市場にたとえられた議会制度は,わが国の土壌にだんだんと根を下ろすに至りました。青年期より四半世紀以上にわたり議会政治の実際に携って来た貴大統領と私は,今日,日米両国が自由と民主主義の共通の理念によりしっかり結びつけられていることを確認し合っているのであります。

 貴大統領の出身地グランド・ラピッズは,一八七六年にフィラデルフィアで開かれた,アメリカ合衆国建国百年祭において,「米国の家具の都」として広く全米に名をはせるに至りました。二年後のアメリカ合衆国建国二百年祭のときは,グランド・ラピッズと,それが輩出した偉大な政治家フォード氏とが,広く世界に確たる名声を築かれているものと,私は確信しております。

 今日,世界に占める日米両国の国民総生産の大きさ,日米間の貿易の規模をみるまでもなく,日米両国の結びつきは,国民生活のすみずみにまで浸透しており,海をこえた二国間の関係では歴史上例をみないほどの広がりと深みを有しております。両国の間に横たわる太平洋は,もはや制御することのできない荒海ではなく,両国間の人と物と知識のよどみなき流れを保つ堅固な回廊であり,ゆるぎない信頼と友情の架け橋なのであります。私は,日米の緊密なつながりを,それぞれ外交政策の主要な柱とする両国の努力を通じて,この回廊と架け橋を広く他の環太平洋諸国にまで延長し,太平洋をその名の通り永続的な平和と安定の大海原とすることを念願してやみません。

 世界は,一方では物価の高騰,他方では景気の後退,さらにエネルギー,食糧等と解決の極めて困難な問題に直面しております。日米両国は,国際社会において占める重大な責任を認識しつつ,貴大統領がフットボールの名選手として体得されたチームプレーの精神に立ち,これらの難問解決のため協力対処して行かなければなりません。

 今回の貴大統領との会談は大変みのり多いものであります。私は,貴大統領の訪日が日米修交史に輝かしい足跡を残し,日米友好関係に新たな一ページを加えるものとして満足にたえません。

 最後に,フォード大統領の御健康とアメリカ合衆国国民の繁栄を祈って皆様と共に乾杯致したいと存じます。