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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 屋良琉球政府行政主席談話

[場所] 
[年月日] 1971年6月17日
[出典] 外交青書16号,502−504頁.
[備考] 
[全文]

 私は,沖縄返還協定の調印式を県民の皆さんとともにテレビを通し厳粛な気持で見守りました。私は苦難にみちた戦後20数年の歩みを省み,さらに郷土沖縄の歴史に思いをはせ,まことに感深いものがあります。終戦以来祖国に帰る日のあることを固く信じ,あらゆる困難をのりこえてひたすらに祖国復帰を要求し続けてきた100万県民の悲願並びに1億国民の民族的宿願が遂に達成されるのであります。復帰までにはなお日米双方における国会の審議,さらに批准の手続などが残つていますが,国内的措置は別として,返還の内容はこの協定でほとんど決つたわけであります。私は返還交渉は相手のあることでもあり,県民並びにわが国の要求がかならずしも全部満たされるものではないことを理解し,また佐藤総理大臣,愛知外務大臣をはじめ関係者の皆さんの御苦心と御努力についてもこれを多とし,敬意を表するものであります。しかしながら,県民の立場からみた場合,私は協定の内容には満足するものではありません。平和条約第3条に基づき施政権が米国に委ねられたことにより,沖縄には米国の恣意のままに膨大,かつ,特殊な軍事基地が建設され,県民はたえずその不安にさらされてきました。私は沖縄が復帰するに当つては,この基地にまつわる不安が解消されることを念願し,直ちにそれが全面的にはかなえられないにしても,基地の態ようが変つて県民の不安を大幅に軽減することを強く求めて参りました。ところがこの協定は「沖縄にある米軍が重要な役割を果していることを認めた」1969年11月21日の日米共同声明を基礎に返還を実施することをうたつております。「本土並み」といつても,那覇航空基地,与儀ガソリン貯蔵地,フィールエリア,モトブ飛行場,その他一部が帰されるだけで,嘉手納空軍基地,海兵隊基地,ズケラン陸軍施設第二兵站部,那覇軍港,宜野湾・読谷飛行場等をはじめ主要基地はほとんどそのまま残り,さらにSR71や第7心理作戦部隊等本土にはない特殊部隊も撤去されず,暫定とはいえVOAも存在するなど県民の切実な要望が反映されておりません。私は基地の形式的な本土並みには不満を表明せざるを得ません。私は今後とも県民世論を背景にして基地の整理縮小を要求し続けます。核抜きについてはかなり明らかにはなつたものの間接的表現に止まり明確な保障はなく,不安を残しております。対米請求権についても,復元補償につき米国が恩恵的支払いをする等の他はあらかた放棄されてしまいました。これについては国が責任をもつて補償する旨明確にすることを要請します。資産引継ぎも有償となり,それらはもともと県民に帰属すべきもので無償であるべきものとする県民の要求には沿つておりません。復帰の日が未確定のまま残されたことも県民の心を不安定にし準備に支障をきたすものであり,早急に確定するよう要望します。以上申し上げましたように協定の内容に県民の切なる要望には程遠い面のあることは遺憾であります。しかし,いずれにしましても返還協定は調印されたのであります。正に歴史的瞬間であります。私は去る大戦において祖国の勝利を信じつつ散華された幾多の英霊に対しこのことをつつしんで御報告申し上げ,ここに至るまでの100万県民の御労苦を謝し,佐藤総理大臣,愛知外務大臣をはじめ関係者の皆さんの御努力に敬意を表し,更にこれまで沖縄についてたえず関心を寄せ,御支援・御配慮をたまわりました1億同胞の御厚情を深く感謝し今後共沖縄のためにお力をかしていただくようお願い申し上げる次第であります。いよいよ念願の復帰が目前に近づいたのであります。しかしながら,反面なお幾多の困難な問題もあり,県民には不安もあり心配もあります。これは新生沖縄の陣痛とも申すべきものであり,私は県民各位が決意を新たにし,苦難にも耐えて,必らずやそれを乗り切つていかれるものと確信しております。この歴史的大転換期にあたり私達はお互い,並びに子々孫々の歴史と運命を開拓してゆく決意を固め,思想・心情又は立場の相異を超越して,100万県民の英智と総力を結集し,真に平和で豊かな新生沖縄の建設に努力することを誓うものであります。