データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] アキノ・フィリピン大統領の来日関連文書、総理大臣夫妻主催午餐会における中曽根内閣総理大臣スピーチ

[場所] 
[年月日] 1986年11月11日
[出典] 外交青書31号,379−380頁.
[備考] 
[全文]

アキノ大統領閣下、並びに御列席の皆様、

このたびアキノ大統領閣下を我が国にお迎えし、ここに午餐を共にする機会を得ましたことは、私にとって大きな喜びであります。日本政府及び国民を代表して、御一行を心から歓迎いたします。

大統領閣下、

昨夕、閣下との間で、日本・フィリピン両国の現状と将来、及び両国の友好協力関係の在るべき姿につき隔意ない懇談を行いましたが、私は、アキノ大統領誕生の劇的な経緯を振り返って、フィリピンが生んだ二人の偉大な人物について想起せざるをえませんでした。

その一人は、貴国民のすべてに、「独立の父」と敬慕されていホセ・リサール博士であります。1896年、フィリピン革命の勃発とともに、外国亡命中の博士は、帰国すれば危険が身に及ぶとの友人の助言にも拘らずマニラに戻り、革命煽動者として逮捕されました。博士はついに処刑されましたが、その志はフィリピン国民に受け継がれ、その後間もなく貴国は、400年近くにわたるスペインの支配から自らを解き放って、独立を達成したのであります。

もう一人は、言うまでもなく、故ベニグノ・アキノ上院議員であります。我々日本人もまた、故アキノ氏の生涯がフィリピンの自由と民主主義のために捧げられ、今なお、その人柄はフィリピン国民より広く敬愛されていることをよく承知しておりますが、とりわけその最期が、あまりにもリサール博士のそれと酷似していることに強く胸をうたれます。

大統領閣下、

閣下は、この二人の偉大な人物が象徴するフィリピン人の魂を体現し、フィリピン国民の意志により、また、その大きな期待を一身に背負って大統領に就任されました。政権の交替がどう行われるかが世界注視の的となりましたが、それが流血の惨事を伴わずに遂行されたことは、大統領閣下はじめフィリピン全国民の英知と勇気を示すものであります。

海を隔てた隣国、日本において固唾をのんで事の成り行きを見守っていた我が国民も、平和と愛を最も尊いものとされる大統領閣下の姿勢が貫かれたことに、挙げて賞賛の拍手を送ったのであります。

フィリピンはいま、大統領閣下を希望の星として、新憲法の制定、治安の確立、経済再建など、新しい国造りを進めています。もとより前途には、多くの困難、厳しい障害が横たわっているでありましょう。しかし、貴国民の英知と勇気、そして、どんな苦しい時でも誇りを失わず、常に希望と明るさを保つ貴国民の国民性をもってすれば、いかなる艱難も、これを克服することができると信じます。私は、貴大統領と5、000万フィリピン国民に心からの励ましの言葉を送りたいと思います。

大統領閣下、

貴国と我が国は、約400年前から緊密な交流を行ってまいりました。貴国のいくつかの土地には日本人町が栄え、17世紀のマニラには、今日の在留邦人とほぼ同じ3、000人にものぼる日本人が在留していたと言います。その中には、我が国でキリシタン大名と言われる高山右近もおり、その像は、パコに立っております。また同じ頃、大名伊達政宗が派遣した初の訪欧使節団は、帰途マニラに立ち寄りました。

一方、フランシスコ・ザビエル等、東洋への布教を目指したイエズス会の宣教師たちの中には、フィリピンに達してから日本を目指したものも少なくありません。こうして貴国は当時、我が国と西欧文化との中継点でありました。両国のお付合いは浅からざるものがあったのであります。

そして、いまや、我が国と貴国は、アジア・太平洋地域において重要な役割を果たすべき国となりました。とくに、貴国は、近年、その国際的地位を高めてきたASEANの有力な一国として、また、その地政的地位の重要性からして、その安定と繁栄に、近隣諸国の等しく願うところであります。我が国としては、かかる目的のために、貴国が、種々の困難な問題に対し現実的な政策を一つずつ着実に実行していかれることを期待する次第です。

私は、このような貴国に対し、その新たな国造りのため、我が国としても支援を惜しまぬことを、ここに御約束したいと思います。

御列席の皆様、

それでは最後に、アキノ大統領閣下の御健康、また貴国と我が国の友好協力関係の一層の発展を祈念して、ここに杯を挙げたいと思います。

乾杯。