イスラーム・ジェンダー学の構築のための
基礎的総合的研究

全体集会・公開シンポジウム「共生とマイノリティ」

2018年度 全体集会・公開シンポジウム 「共生とマイノリティ」

日時:2018年6月23日(土) 13:00-17:45

場所:東京大学 東洋文化研究所 3階 大会議室

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 2016年度に始まったIG科研は今年で三年目を迎えます。三回目となる全体集会では、共生と、そこで浮上するマイノリティの問題という切り口から、イスラーム・ジェンダーを考えていきます。
 共生とマイノリティをめぐる多様なあり方を、諸社会の具体的な事例から明らかにする第一部と、日本の教育現場が直面する課題やそれを乗り越えるための取り組みについて議論する第二部を通じて、私たちが目指す未来のあり方とは何かを皆で考えてみたいと思います。多くの方のご参加をお待ちしています。

趣旨文

 人と一緒に生きるのがますます難しい時代になった。
 子どもの頃から仲良しだった友だちが、何々人だとか、何々派だとかいうことで互いに口もきかなくなる。突然、戦争が天から降って来て、皆がバラバラになって憎しみ合い、故郷を追われて難民となる。
 こうした地域の悲劇を対岸の火事と思っている日本社会も同じ時代の波の中にある。野太い声や金切り声のヘイトスピーチに身を縮める人たちもいれば、無神経な言葉や無遠慮な視線に身をすくめ、唇を噛みしめる人たちがいる。「生きづらさ」あるいは「生き苦しさ」を感じる人の数が増えている。もちろん、この「辛さ」や「苦しみ」の中身は人によって違う。しかし、それらがある特定の人たちに集中していることは確かである。
 その一方で、このような時代であるからこそ、深刻な問題から目をそらさず、フェイクニュースや欺瞞に騙されず、卑劣な脅しにひるまないで、新しいつながりを築こうという人たちがいる。そのことを私たちは信じたい。
 昨年度の「イスラモフォビアの時代とジェンダー」に続いて、今年度のIG科研全体集会・公開シンポジウムは「共生とマイノリティ」をタイトルに選んだ。昨年度のキーワードは「差別」であったが、今回はイスラームとジェンダーの視点からさらにこの問題を掘り下げて考えてみたい。とくに、人と人とのつながりのあり方を模索する具体的な事例の報告を通じ、今後の展望を考える機会としたい。

科研代表 長沢栄治

フライヤー

両面印刷すると趣旨文も入ったフライヤーになります。広報にご協力いただければ幸いです。


プログラム

13:00はじめの言葉・趣旨説明
13:10第一部: 諸社会の状況を知る
  • モハメド・オマル・アブディンさん(学習院大学法学部政治学科)
    1. 「スーダン障碍者教育の現状から共生と排他性を考える:視覚障碍者教育を中心に」
  • 細谷幸子さん(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)
    1. 「イランで病をもって生きる」
  • 田中好子さん(パレスチナ子どものキャンペーン)
    1. 「パレスチナで生きる障がい者たち」
14:40休憩(20分)
15:00第二部: 日本の教育現場を考える
  • 智野豊彦さん(横浜商業高校)
    1. 「公立学校におけるムスリムの受入れ」
  • 岸田由美さん(金沢大学理工学域留学生教育研究室)
    1. 「ムスリム留学生が急増した地方大学とその周辺地域の経験」
  • 松田雄二さん(東京大学大学院工学研究科建築学専攻)
    1. 「バリアフリーとユニバーサルデザイン」
16:30休憩(20分)
16:50コメント・全体討論
17:40おわりの言葉
17:45閉会

開催報告(五十音順)

イスラーム・ジェンダー学シンポジウムに参加して

 東京大学東洋文化研究所で開催されたイスラーム・ジェンダー学シンポジウムでは、「マイノリティ」として生きるということは何を意味するのかを出発地点として、日本を含める国際社会における共生社会のあり方について、大変有意義な情報共有と意見交換をすることができました。

 このシンポジウムの発表者は、それぞれの立場から、個人及び公共の空間での多文化共生について具体的な事例を紹介しながら、これまで直面した問題や困難に対する取り組みについて共有し、私達は、これらの個人の経験談を通して、諸社会の多文化共生の現状を知ることができました。これらの事例は、イスラム教徒の児童が共に学ぶ日本の小学校の例、祖国スーダンのために障害者教育支援の会を立ち上げ視覚障がい者の当事者として精力的に活動を進める例、また、イランにおけるサラセミア患者に対する認識についての社会的取り組みやパレスチナにおける子供達への支援活動の現状、そして、日本の大学において多様化する留学生のニーズへ応えるキャンパスづくり、更には、多様なニーズに対応できる社会実現のために工学デザインはどのように貢献できるかなどと多岐にわたりました。

 そして、全体での議論では、ジェンダー、障がい、国籍、紛争、言語、人種、民族、宗教、LGBT、また、その他の社会的に構築されたアイデンティティ・カテゴリーが交差する観点に立ち、多様な視点を取り入れたインクルーシブな社会構築、また、多様性を尊重した共生社会のありかた、そして「マジョリティ」であることの特権について考えることはなぜ「マイノリティ」の経験から学ぶことと同様に重要なのかなどについて、建設的な議論が繰り広げられました。今後も多様化する日本社会において、私達一人一人がこの現状をどう受け止め、共生していけるのかを皆で総合的に考え、なぜ今の時期にこれらの問題に向き合うことが必要なのか再認識できた貴重な機会でした。

東京福祉大学 特任准教授
越野 香子

 

[IG科研全体集会2018・共生とマイノリティ]に参加して

 通常、研究者の発表が殆ど総てを占めるIG科研シンポジウムだが、今回は、NPO事務局長田中さん、高校の社会科教師智野さんからの報告が入ったため、また視覚障害当事者でアフリカ出身の研究者でもあるアブディンさんからは当事者ならでは、アフリカならではの視点から、貴重な意見が寄せられるなど報告内容が極めて実践的・具体的になった。つまり日常的でリアルな視点や、そこで生き暮らす人々からのリアクションに如何に対応してゆくか? 初期の目標をどう実現してゆくか? についての極めてセンシティブで真っ当な、ヒントと知恵が提起されていたように思われる。

 殊に教育現場に於いては、文科省からの指示や指導要領、PTAや教育委員会などの意向を忖度して動いている校長ら幹部と現場教師の間には、認識・判断の異なる場合があり、現場教師は、学校幹部対策を強いられると同時に聖職という社会的イメージからくる心的圧力が空気のように纏わり付く日本社会の現状では、日本人生徒の親の「不安」を梃に鵺のように作用するプレッシャーに耐えねばなるまい。

 他方生徒たちの中には、欧米中心の価値観やメディアなどの影響を受けて、何となくイスラムを怖いと考える者もいる。正確なことを知らないからふらつく。ムスリムに対する風当たりは欧米に膾炙したイスラムフォビアを始め、我が日本でも彼らの日常生活を捨象し、騒乱やスーサイドボンビング、戦闘シーンなど「絵になる」シーンばかり放映したがるメディアの影響もあって誤解や短絡的な見方を助長しているのが実情だ。これらの映像が容易く日本庶民のイスラムなどマイノリティに対するイメージを作り上げてしまうのは、映像の持つインパクトと共に、実際のムスリムの生活の多様性や、歴史的背景や習慣に対する無知、人的交流を持たぬこと等による無理解がある。空爆やミサイル攻撃シーンなど派手な映像は、紛争地・戦地に生きる人々が、それでも生き生活することを余儀なくされている事実を忘れさせてしまいがちだ。然し第2次大戦中我ら日本人も戦下で生きぬいた者が居たのであり、そこには飲み食いも、家族を思い、他人を思いやる心も、そして仲間を失った苦しみも、平時を生きる人々同様有ったのだ。

 人々の認識ギャップを埋め、人間関係を改善する為には、実際に日本に住んで居るマイノリティと付き合い相互理解に努める姿勢こそ肝になる。気を付けたいのは人間関係を作る時に、我々一人一人が互いに、理性的且つ友好的に互いの人間関係を助長したいという思いを実践することだ。

 良く分からない外国に来て住むことになったムスリムなどのマイノリティたち、生徒は無論のこと、言語、風俗、習慣、制度、宗教感、価値観など多くのことが異なる国で子供を学校に通わせている親は、猶更大きな不安を抱えているから、マイノリティーの親に対するケアも非常に大切になる。中心に据えるべきは、互いに人間だと深く知り、赤心で付き合おうとする態度だ。

 今IG科研に参加している人々の共通認識には、このようにバイアスを排し赤心を以て他者と繋がろうという根本的な欲求があるものと信じる。その証拠に、いち早くから子連れ参加できるよう、託児用の予算を計上し実践していることが挙げられよう。こういったジェンダー弱者に対する配慮こそ、他者と交わる際の根本的な態度というべきだろう。

 寛容は不寛容を受け入れることが出来るか? というような問いに対しても、寛容が無限であれば、少なくとも受け入れられないという答えは簡単には出てこない。

 IG科研を始めるに当たって長沢さんが述べたナカグロの意味する所に共鳴して各研究者、一般の方々が、その可能性を様々に而も具体性に於いて追及して来た成果が表れた総会であった。

 (一方、曖昧が曖昧なまま、その可能性の大きさを含めて残っており寄木細工の作品形成過程を思わせる。今後この模糊としたイメージを尖鋭化すると同時に、その可能性を最大にする為の方法として、(素人のトンデモナイ発想であることは承知のつもりだが、素人だからこそできるトンデモ発言として))ゾミアの研究者との対話なども有効かもしれないと考える。)

 長谷川 明

 

 今回のシンポジウムは、さまざまな意味で「熱量」を感じる機会となった。ひとつは、さまざまな現場で、教育者、市民活動家、あるいは研究者として共生という課題に取り組むパネリストの方々の「熱量」。そして、当日は会場である東文研の大会議室がほぼ満席となる盛況ぶりであったが、パネリストと(高校生の参加者も含む!)聴衆が、それぞれの立場から活発に意見交換し、議論を発展させてゆく「熱量」にも圧倒された。

 興味深い論点が次々に出されるなかで、とりわけ印象的だったのは、マイノリティとして承認されることがはらむ両義性という問題である。マイノリティとしてカテゴリ化されることによって、適切な対応を受けられるかもしれない。だが、この問題にはこう対応すればよいという現場の知恵やスキームの蓄積は、ときとして「ムスリムとは」「障害者とは」といった固定的なイメージをつくりだし、別の息苦しさを生んでしまうことがある。同じ属性をもつとされる人々の集団を誰が代弁するのか、という代表性の問題がそこにはともなう。

  当日の議論には同時に、そうした難題にとりくむためのヒントもたくさんつまっていると感じた。たとえば、ムスリムの生徒を迎えるために保護者と話し合いを重ねてきた智野氏の「楽観的に考えることが大切」という言葉からは、誰かの不自由に対応したという実績の蓄積が、「実は私も」と声をあげやすい環境づくりにつながるかもしれないという希望をもった。IG科研では、「学問のための学問にしない」が合言葉になっている。研究者として、またひとりの生活者として、この場で共有した「熱量」をどう生かしていけるだろうか。雨上がりの外気を吸いながら、そんなことを思いめぐらせつつ、熱気に満ちた会場を後にした。

アジア経済研究所
村上薫

 

2018年6月23日 イスラーム・ジェンダー学科研シンポジウム「共生とマイノリティ」

  このシンポジウムでは、第1部でムスリムが多数派である社会におけるマイノリティ(障がいや遺伝病を抱える人々)、第2部で日本におけるマイノリティであるムスリムのための公教育、留学生の家族への対応、日本におけるマイノリティをも含めた公的な設計を手掛けるためのユニバーサル・デザインの専門家を招いて話を聴き、ディスカッションを行った。趣旨説明では、沖縄県が制定している「慰霊の日」にあたって、多数派の主張や利害のために犠牲にされかねない諸問題を考察する必要性がこのシンポジウムの主旨の底流にあるとの説明があった。

  いずれのパネリストも、実践の場からの報告を中心としていて、陳腐な差別論に足をすくわれない点で良かったと思う。とかくジェンダー論は、一方の極でむやみと難解な議論、他方の極で強すぎるルサンチマンに巻き込まれがちなので、隣接分野の具体的な現場報告を共有して新たな局面を開こうとする野心的な企画だったといえるだろう。

  第1部の報告は、どれもムスリム多数派の社会における新たな試みの報告として興味深かった。が、そこにイスラームやジェンダーがどう関わってくるのか、これらの事例の共通点や相違点について、参加者はどのように、あるいはどういう視点から自らの研究にその識見を取り込むことができるのか、もう少しヒントとなるものがほしかったと思う。

  第2部の報告も、現在進行中の“共存”のための日々の努力とその成果が示すもので、こういう熱意ある現場の人々と研究者との協力関係を築くことも今後の課題であると痛感された。とはいえ、必要なのは、研究成果など狭義の“理解”よりも個々の案件に関わる人々の間の信頼やシンパシーなのではないか、現場ではハラーム食材忌避はアレルギーを持っている生徒と同じ扱いにできれば当面の“問題”は解消されるわけで、ユニバーサル・デザインも含めて、問題回避のテクニックやノウハウが蓄積されればよいということなのだろうか、などと考えた。また、比較的成功をおさめている事例の紹介だったので、うまくゆかない例やその理由もあわせて例示できればさらに議論が深められたと想像する。

  今後のイスラーム理解への熱い想いを語ってくれた高校生、福祉や異文化交流への関心から来てくれた参加者もいて、社会貢献として意義深いシンポジウムでもあったといえるだろう。

 山岸智子