MAHMUD GAWAN MADRASA

 

現存しているこのマドラサは、西方の多くの諸例と同様に中庭を持つ建造物で、今日ではその南東の部分が崩落してしまっている。本来はその東面ファサードの両端にミーナールを備えていたが、北端のものだけが残っている。広い中庭の軸線の上に四つのイーワーンが造られていて、それぞれ大きなアーチ形の開口部となっている。このイーワーン左右に配された居室群が西方のマドラサによくある二層ではなく三層となっている点が特徴とされている。これら三層の各階にはそれぞれアーチ形の開口部が設けられているが、これらの部屋がマドラサ付きの聖職者や教師たちや学生によって教育に使われていたものと思われる。その上層部には立派なアラビア文字の『コーラン』の聖句のタイル細工が帯状に連ねられているのも美しい。コーニスやミーナールの表面にタイルが多く用いられているのも、いかにもイラン的な建造物の雰囲気を伝えている。ミーナールの基部に残っているタイルの目地も貴重な遺産である。また、それぞれのイーワーンや大きめの部屋に残る透かし彫りの彫刻の窓や、五重のアーチ形を造っているスクインチなどの点に、他の建造物に類例を見ないさまざまな特徴が見出される。
 残存しているクロノグラムの詩文の内容をアブジャッドの方式から判定してみると、このマドラサの造営の年次は八七七AH年すなわち一四七二−七三年であることがわかるのである。フェリシタによれば、マフムード・ガーワーンは偉大な学者であり、とくに数学に秀でた人物だったという。この南アジアに残る貴重なマドラサの形態や構造が、ホラーサーンその他のムスリム諸国に残っている同種の施設に似ているのも、こうした彼の身辺をめぐる環境に関わりを持つものであったことは重視しておく必要があろう。
 一一〇七AH年(一六九五−九六)にこのマドラサは雷によって大きな損傷を被り、その前部と南翼の部分が喪失してしまったらしく、今日保存されている建造物は近代における考古局の補修と保存の努力の結果であるといわれている。とくに、マドラサ全体の北端に造られたミーナールとそれに連なる南側の部分は最もよく補修や保存の措置を講じられている。その残存しているミーナールは、八角の基部を持ち三層をなしている塔で、第一層と第二層とはそれぞれ簡単な形態のバルコニーを張り出している。周囲の壁面は、それぞれ大小広狭のアーチ形の窓や入口、長方形の空間を備えている。この東側ファサードの最上部には、白、青、黄色のタイルを含むそれぞれ特異な縁取りの装飾が施されており、とくに最下層のアーチ内部は入口をのぞいて透かし彫りの格子で処理されている。これについては、J・マーシャルやP・ブラウンの批判もあるが、華麗なミーナールの間にあってそれなりの役割を果たしていると私は評価したい。 
 さきに触れた上部の広い帯状のスルス体で記された聖句はヤーズダニー氏も賛辞とともに紹介しているが、その終わりの部分にはこの聖句をはじめ壁面の装飾を監督したとされる「アリー・アッ・スーフィー 'Ali al-Sufi」 なる人物の名も記されている。このマドラサの更なる細部についてはが、ヤーズダニー氏の著書にはかなり詳しく紹介、解説されている。(荒松雄)

 

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