AURANGABAD

 オーランガバードは1610年にアビシニア人奴隷のマリク・アンバルによって建設された。彼は、アフマドナガルに拠ったニザーム・シャー朝最後の君主に仕え、その墓はフルダーバードに残っている。オーランガバードには、ジャーマ・マスジドほか、マリク・アンバルが建立したモスクが2棟残る。オーラングゼーブの妻、ラビア・ドゥラニを葬ったビビ・カ・マクバラは町の北東2キロほどに位置する。(深見奈緒子)
 

<代表史跡>
1.BIBI KA MAGBARAH
2.DARGAH OF SHAIKH BURHAN AL-DIN GHARIB


1.BIBI KA MAGBARAH

 オーランガバードの北郊に残る「妻の墓」の俗称で知られてきたこの墓建築は、オーラングゼーブの妃のラビーァ・ダウラーニRabi'a Daulaniの墓で、その子のアァザム・ハーン 'Azam Khan によって造営された壮大な墓廟だが、世上ではタージ・マハルを模した形態、構造の故に話題となっている感がある。
 広大な庭園の中に造られたこの墓建築は、実際に壮大な門といい、墓廟本体との間の水溝、墓建築の基部、四周にミナールを建てているドーム建築の墓建築そのものの造りといい、素材が大理石に代わる煉瓦と漆喰造りである事実をのぞけば、すべての点で明らかにタージ・マハルを意識して設計、構築されている。しかし、1661年の創建という時代が示すように、シャー・ジャハーン時代の華麗な建造物に比べてきわめて貧弱に見えるが、その点がかえってムガル最盛期と衰退期を象徴するものとして、歴史的見地からはかえって興味を抱かされる。いずれにせよ、ムガル後期の話題の建造物である。(荒松雄)
→写真一覧へ



2.DARGAH OF SHAIKH BURHAN AL-DIN GHARIB

 デリーのスーフィー聖者として著名なシェイフ・ニザームッディーン・アゥリヤーのハリーファ(後継者)の一人で、その師によってデカンに追放された。そのサマーの儀式や踊りで有名となった。
 このチシュティー派スーフィーの墓は、デカン地方における初期の建造物の一つでトゥグルク様式の影響がみられ、彼を葬る墓建築は1340年代に建てられたといわれている。ブルハーンプルと名付けられた町は、この聖者の名にちなんで造られたという。

 このダルガーの境内の一隅に造られた大理石造りの囲壁に込まれてオーラングゼーブの墓が残っている。強大な権力を行使したムガル六代皇帝を葬る奥津城としては、墓石自体は大理石造りながらも、アフガニスタンに残る初代バーブルの墓をのぞくそれ以前の歴代皇帝の壮大乃至は華麗な墓所に比べて、まったく意外な感にうたれる。もっとも、このことはアウラングゼーブ自身が残した遺言によるものでもあり、彼が尊敬していたスーフィー聖者のダルガーの境内に葬られたのも、この皇帝にとっては満足だったと思われる。
→写真一覧へ

 


目次へ戻る

トップへ戻る