MOSQUE & TOMB OF RANI RUPMATI

 

 それほど多くない文様で飾られたミフラーブやミンバルをのぞくと、礼拝室の内部は他のほぼ同形のモスクの中と同じく、ヒンドゥーかジャイナ教の神殿に入ったような感さえ抱かせられる。文様彫刻としては東側正面の南北両端のそれが際立って目立ち、グジャラート地方のモスクの文様彫刻の複雑な造りと雰囲気とをあまねく示している。
 モスクの東北の傍に造られているラーニー・ルーパウァティーのものとされる墓建築は、中央の12本柱に支えられた部分が高く立ち上がっており、その周辺に一段低い回廊部を備えており、廻廊部の屋根の四隅には小さなドームが四つ設けられている。庇が目立つ四角平面の建造物で、ラジャン氏はその上下の部分の対比がよく、その「デザイン」は同じ構成ながら柱間に透かし窓を挿入したラーニー・スィープリーの墓建築よりもすぐれていると記している。
 このモスクと墓建築の遺跡はアフマダーバード市壁内の北中央部、デリー・ダルワーザから南下し、クトゥブ・シャーのモスクから内城バドルへと通じる通りに残っており、ラーニー・スィープリーと並んで知られる後宮の女性名故に著名なものとされてきた。ラーニー・ルーパウァティーの生涯はよくはわからないが、おそらくはアフマド・シャー王朝の妃の一人で、この墓も「クイーンのモスクと墓」の俗称でも呼ばれている。
 ラジャン氏は、ムザッファル・シャーI世(1396-1403)の時代の創建と推定しているが、これはもちろん八代スルターンのムザッファル・シャー II世(1515-1526)の誤りである。(荒松雄)

 

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