TOMB & MOSQUE OF AHMAD KHATTU GANJ BAKHSH

 

 地方的には「ガンジ・バフシュ Ganj Bakhsh」の呼称で知られているこのスーフィー聖者の墓とモスクとは、四代スルターンのムハンマド・シャーII世(1442-51)の治世に創建され、次のクトゥブッディーン・アフマド・シャー II世 Qutb al-Din Ahmad Shah II (1451-58)の治世に完工された。その後、この聖者の徳にあやかって多くの墓建築や庭園その他の建造物がこの地に建てられていった。爾来、この聖者のダルガーを中心とする遺跡群は「サルヘージの遺跡群 Sarkhej Monuments」の名でも知られてきたという。ここに掲載した写真からもわかるように、これらの遺跡群は広大な人造湖畔に造られており、西から東へ向けてモスク、ビービー・ラージバーイー Bibi Rajbai の墓、スルターン・マフムード・ベガラー Mahumud Begara の墓が湖の北畔に接するかたちとなっている。シェイフ・アフマド・ハットゥーの墓廟はこの湖とは少し離れてこられの遺跡群の北東に残っている。
 サルヘージのモスクはアフマダーバードのジャーマ・マスジドや他のアーチ壁を有するグジャラート・スタイルのモスクとは異なり、正面に厚い壁を建立しそこにアーチ形の入口を開くことはぜず、中央アーチを区切るミーナールをも備えていない。吹き抜け部分を持たない平坦な屋根の上には、の間口5間、奥行2間に応じて、合計十個ののいずれもやや平たいドームが設けられており、その周辺に合わせて40個の小ドームが並んでいる。広い中庭に面した礼拝室の東正面にはアーチ形の入口に代わって細い列柱が露呈していて、その柱の数は全部で120本を数える。したがって、この東正面からみても、また礼拝室の内部に入ってみても、もし西側のミフラーブがなければモスクではなくヒンドゥー神殿にいるという感じさえ抱かせられるほどである。これらの列柱がヒンドゥー乃至はジャイナ教の神殿のそれににているからでもある。この南アジアの一般の形態からはやや特異なこのモスクをみて、私はサルタナット初期のデリーのクトゥブ・モスクの創建当初、アーチ壁を付加される前の形を連想したものである。なお、この礼拝室の北西隅には同じくヒンドゥー的な柱に支えられた二層のザナーナが設けられていた。
 このモスクの東側に拡がる広場に、シェイフ・アフマド・ハットゥーの墓廟が立っているが、その南入口の南方に、階段状の基壇の上に造られた間口と奥行がそれぞれ三間で九個の小ドームを載せる小さな亭様の建造物が造られていて、聖者の本廟の露払いといった感じであった。
 シェイフ・アフマドのダルガー本廟は、高いフィニアルを頂く堂々たる中央ドームが墓室中央の五間の上を飾っていて、その周辺の間を数えると総計で間口、奥行ともに13間を作りだしている。すなわち、五間四方のドームを四重の廻廊が取り囲む壮大な墓建築である。その四辺は、それぞれの柱間を四角い入口や窓がかこむというかたちをとっているが、正面入口となっている南側のみは、中央部をのぞいて広狭のアーチ形の入口を開いている。それぞれの入口の上部にはいずれもジャーリー・スクリーンが設けられているが、この透かし窓は他の面をも飾っており、よくみるとその一々の文様がいずれも異なって掘られており、私自身見ていて驚かされたことを記憶している。
 この聖者の本廟の南側には、湖に降りるテラスと階段を挟んで湖に接して西側にビービー・ラージバーイーの墓、東側に七代スルターンのマフムード・ベガラーの墓が造られている。ビービー・ラージバーイーは八代スルターン・ムザッファル・シャー Muzaffar ShahII世の妃で、別名バーイー・スルターニー Bai Sultani としても知られている。その墓は中央の12本柱のドームを小ドームが囲む形の建造物だが、湖に面した側の上部にははヒンドゥー様式の張出し窓が造られている。
 彼女の義理の父にあたるスルターン・マフムード・ベガラーの墓の方は、三つの墓石を置く中央の12本柱の間を三周の回廊が囲むかたちのドームを頂く墓建築だが、湖水に面するその西面の一部はその上部を敷こうなジャーリー・スクリーンで飾られている。
 このサルヘージの建造物群への入口の正門は東側に造られているが、ここでもそいの小さい建造物の上方に造られたアーチ形の窓には、精巧な透かし彫りの彫刻が施されており、グジャラート建築の装飾美の特徴の一面を示している。(荒松雄)

 

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