00400,アイユーブ朝,アイユーブチョウ,Ayy<印7CF3>b,1169〜1250,エジプト・シリアを中心に、ジャジーラからイエメンを支配した#スンナ派#のイスラム王朝。首都は#カイロ#。1169年#ファーティマ朝#の宰相となってエジプトに主権を確立した#サラーフ・アッディーン#は、#イスマーイール派#に代えてスンナ派の支配体制を復活し、またイスラム世界統一のために#アッバース朝#カリフの宗主権を認めて自らは王(マリク)と称した。73年には兄のトゥーラーンシャーをイエメンに派遣して、東西貿易の独占を図る一方、翌年ザンギー朝のヌール・アッディーンが没すると、これを機にシリアからジャジーラへと支配権を伸ばし、十字軍包囲の体制を固めた。サラーフ・アッディーンの死後、王国は一族の間で分割され、ダマスクス、アレッポ、ディヤール・バクルでは、それぞれ半独立の政権が樹立された。第5代のカーミルはこれらの地方君主を抑え、かろうじて王国の統一を保ったが、第7代のサーリフが購入した#マムルーク#軍のクーデタによって1250年に王朝は滅びた。
 軍隊の主力は#クルド#人とトルコ人マムルークによって構成され、これらの軍人には建国当初から#イクター#が授与された。軍人たちは水利機構の管理・維持にも意を用いたから農業生産は安定し、東西貿易を担うカーリミー商人の活躍と相まって、経済は大いに繁栄した。文化的にもスンナ派擁護の政策に基づいてエジプト・シリアに多くの#マドラサ#が建設され、また#スーフィー#のための修道場の建造も盛んであった。,(佐藤次高) 00500,アイン・ジャールートの戦,アイン・ジャールートノタタカイ,<印78FE>Ayn J<印78E6>l<印7CF3>t,,1260年9月3日、パレスティナの小村アイン・ジャールートで行われた#マムルーク朝#軍と#モンゴル#軍との戦い。バグダードに続いてシリアを攻略したフラグは、さらに南下してエジプトをうかがったが、マムルーク朝のスルタン、クトゥズは全軍を率いてこれを迎え撃ち、#バイバルス#の活躍によってモンゴル軍は敗走、将軍キトブガーも戦死した。この勝利は西方イスラム世界へのモンゴルの侵入を断ち切るとともに、マムルーク朝の国際的な地位の向上をもたらした。,(佐藤次高) 00600,アーガー・ハーン,アーガー・ハーン,<印78E6>gh<印78E6> kh<印78E6>n,,1818年以降#ニザール派#イマーム#によって用いられている称号。元来はイランの#カージャール朝#宮廷の名誉称号。1817年ニザール派イマームの地位を父シャー・ハリール・アッラーより継承したハサン・アリー・シャーが、18年カージャール朝のファトフ・アリー・シャーの娘をめとり、マハラートとコムの知事に任命された際に贈られたのが最初である。普通彼をアーガー・ハーン1世と呼ぶ。38年ムハンマド・シャー治下のケルマーンでの反乱に失敗したハサンは、アフガニスタンを経て、40年シンドに避難した。イギリスのシンドおよびアフガニスタン政策遂行に貢献した後、48年ボンベイに移り住み、インドのニザール派信徒#ホジャ#派内の彼の地位をめぐる紛争を、66年裁判に勝って乗り切り、ホジャ派の精神的首長としての地位を確立した。81年没し、その子アリー・シャー(1885没)がアーガー・ハーン2世として跡を継いだ。,(加藤和秀) 00700,アーガー・ハーン〔3世〕,アーガー・ハーン,<印78EA>gh<印78E6> Kh<印78E6>n,1877〜1957,インド、パキスタンに多いイスラムの#ニザール派#内#ホジャ#派の長で、#アーガー・ハーン#1世の孫。西欧的教育を受け、若くして西欧諸国を歴訪し、著名な政治指導者たちと会見。政治への関心が強く、1906年の#全インド・ムスリム連盟#創設に関与し、07〜14年その議長であった。終始親英的姿勢を鮮明に出し、早くからインドの将来は「自治領の地位」にあると述べている。31〜32年の英印円卓会議にインド人代表の一人として出席。国際連盟の英領インド代表団長を4度務め、37年にはインド人として初の国際連盟議長に選出されている。著書に《過渡期のインド》(1918)、《回想録》(1954)などがある。,(内藤雅雄) 01000,アグス・サリム,アグス・サリム,Agus Salim,1884〜1954,インドネシアのイスラム改革主義の代表的な政治家、思想家。西スマトラの#ミナンカバウ#出身。バタビア(現、ジャカルタ)のウィレム3世ギムナジウムで西洋式高等教育を受けたが、1906〜11年の在ジュッダ・オランダ領事館通訳時代に、高名な#ウラマー#の叔父アフマド・ハティブを通してイスラム改革主義にふれ、イスラムに回帰した。15年以後、大衆運動組織#イスラム同盟#に身を投じ、その指導者として、イスラム改革主義を民族独立運動の一翼を担う政治勢力として定着させることに努めた。独立後は、外務次官、外務大臣、外務省顧問を歴任し、没後の61年、〈民族独立英雄〉の称号を贈られた。,(間苧谷榮) 01200,アサッシン,アサッシン,Assassin,,#イスマーイール派#の一派#ニザール派#に対して、おもにヨーロッパ人が用いた異称。同派に対して他のイスラム教徒があてがった、アラビア語による侮蔑の一般的表現ハシーシーン(大麻野郎)に由来すると考えられ、12〜13世紀にシリアのニザール派と接触した#十字軍#将士を介してヨーロッパに伝えられた。この名はやがて同派の長老への狂信的献身や特異な暗殺戦術と相まって、マルコ・ポーロらの報告における、大麻と「山の老人」の楽園と暗殺者とを主題とする、いわゆる「アサッシン伝説」を生み出し、ヨーロッパの文学に大きな刺激を与えた。14世紀以降、この語はヨーロッパ諸語における「暗殺者」を意味する普通名詞として用いられるようになり、現在に至る。,(加藤和秀) 01300,アーザード,アーザード,Abul Kalam <印78EA>z<印78E6>d,1888〜1958,インド・ムスリムの代表的思想家、政治家。メッカ生れで、のちカルカッタへ移住。厳格な宗教的教育を受けたが、#サイイド・アフマド・ハーン#の著作に触発され、思想的遍歴をたどり、コーランは科学と矛盾しないとの信念を堅持した。しかしムスリムの近代化を掲げる#アリーガル運動#に背を向け、伝統派の#デーオバンド派#に接近した。1912年ウルドゥー語週刊誌《ヒラール》(新月)を発刊、その政治的・宗教的急進性によってムスリム青年層を引きつけた。#ヒラーファト運動#で理論家として主導的役割を果たした後、20年以降ガンディー指導下の国民会議派に参加し、23年(臨時大会)と40年に会議派大会議長を務めた。第2次世界大戦後の対英交渉では、会議派内の代表的ムスリム指導者として活躍したが、ネルーら会議派の他の指導者との間に対立もあった。独立インドの初代文相で、自伝的著書に《インドの独立》(1959)がある。,(内藤雅雄) 01400,アサビーヤ,アサビーヤ,<印78FE>a<印7CE3>ab<印77F5>ya,,「集団における連帯意識」を意味するアラビア語。もとは部族や氏族の血縁による連帯意識を意味し、ムハンマドに関する伝承によると、彼はこのアサビーヤをイスラムによる精神的きずなに対立するものとして非難したという。しかしこの語が有名になったのは、14世紀後半の歴史家#イブン・ハルドゥーン#によってである。彼はその著《歴史序説》の中で、アサビーヤを人間の社会的結合の最も基本的なきずなであり、歴史を動かす動因であるとした。すなわち砂漠の遊牧民のように、きわめて厳しい生活環境に住む人間は、自己の保存と目標追求のために、互いに協力しあおうとする連帯意識によって強力な結束力をもつ社会集団を形成しやすく、するとそうした連帯集団の中から指導権が生まれ、それは集団構成員に拘束力と強制力を発揮できる王権という支配権の獲得を目指すようになり、やがて文明の進んだ都市に根拠を置く支配国家を征服、新しい国家を建設すると説いた。,(森本公誠) 01600,アシュアリー,アシュアリー,al-Ash<印78FE>ar<印77F5>,873〜935,イスラム神学者。#マートゥリーディー#派とともに#スンナ派#神学を代表する#アシュアリー派#の祖。その生涯についてはあまり知られていない。バスラに生まれ、そこで活躍し、バグダードで没した。後に異端とされる合理主義神学を代表する#ムータジラ派#の重鎮、ジュッバーイーの有力な弟子の一人であったが、40歳の時に回心して同派を離れ、#イブン・ハンバル#の伝統主義的立場に転向した。その契機となったのは預言者ムハンマドの夢によるお告げである、とする伝承については疑問視するむきもあるが、アシュアリーの神学的立場を象徴的によく示している。すなわち、彼は単にイブン・ハンバルに代表される伝統的信条に転じただけではなく、ムータジラ派の用いた弁証(#カラーム#)の方法を用いて異端を批判し、伝統的信条を弁護しようと努めたのである。,(中村廣治郎) 01700,アシュアリー派,アシュアリーハ,Ash<印78FE>ar<印77F5>,,#アシュアリー#を祖とする#イスラム神学#の一派。#マートゥリーディー#派と並んで#スンナ派#神学を代表する。その特徴は、理性的思弁(カラーム)によって正統的信条を弁証することにある。もっぱらコーランや#ハディース#の引用に依拠して思弁を排する保守的な#ハンバル派#と、合理主義的立場からそれと異なる信条を採る#ムータジラ派#との中間に位置する。それだけに双方から攻撃を受けた。とくにシリアやバグダードなどでは、ハンバル派の影響が強く、また時には親ムータジラ派的、ないしはそれに接近する#シーア派#政権によって迫害されたりして、スンナ派神学として現実に受け入れられるまでには長い時間を要した。この派の歴史についてはまだ不明な点が多いが、バーキッラーニー、バグダーディー、#イマーム・アルハラマイン#、#ガザーリー#、ラージー、イージーなどの学者が有名である。→イスラム神学,(中村廣治郎) 01800,アーシューラー,アーシューラー,<印78FE><印78E6>sh<印7CF3>r<印78E6>',,この語の意味は#スンナ派#と#シーア派#とで非常に異なっている。預言者ムハンマドは#ヒジュラ#の後、#ヒジュラ暦#1月(ムハッラム月)の第10日目を#断食#潔斎の日と定めたとされ、この日をアーシューラーと呼ぶ。これは#ユダヤ教#のヨーム・キップール(贖罪の日)の断食を模倣したものであった。イスラム教団がユダヤ教徒と決別して後は、この戒律は信徒に強制力をもたないものとされた。しかし敬虔なスンナ派イスラム教徒は、アーシューラーの断食潔斎を自発的に行っている。
 シーア派では、3代目イマーム、#フサイン#がこの日に#カルバラー#でウマイヤ朝軍によって虐殺されたのを記念して、盛大な哀悼祭を行う。シーア派の人々はフサインの戦死を殉教とみなし、この哀悼祭の日に彼の殉教の物語を演劇にして再現したり、街頭パレードを行ったりする。シーア派の人々がアーシューラーの日に行うこれら一連の行事は、タージヤと呼ばれている。タージヤにおいては、フサインの棺の模造品やフサインの切断された手の模刻がかつぎ出されたり、参列者が鎖で自分の身体を打ったりする。これらの行事は非イスラム的要素に由来するとみられている。しかし、アーシューラーのタージヤにおいて、シーア派イスラム教徒の宗教感情は最高潮に達し、その宗教的活力が再生させられているのは事実である。アーシューラーの諸行事が、今日シーア派諸国にみられるように盛大に行われるようになったのは、18世紀以後のようである。それ以前のことについては詳しく知られていない。,(松本耿郎) 02000,アズラク派,アズラクハ,Azraq,,最初の指導者ナーフィー・ブン・アルアズラク(686没)の名によって名づけられた#ハワーリジュ派#の一派で、最も過激な行動で知られた。#イブン・アッズバイル#とバスラの支配権を争って追われたが、フージスターンに拠ってゲリラ活動を続け、ナーフィーの戦死後も新しい指導者のもとにバスラを脅かし続けた。第2次内乱の平定(692)後、イラク総督#ハッジャージュ・ブン・ユースフ#の派遣した軍隊の討伐を受け、フージスターンからファールス、キルマーン、最後はタバリスターンの山中に逃げ込み、699年この地で全滅した。彼らはコーランに#ハッド#と定められた罪を犯した者を#カーフィル#とみなし、また自分たちと意見を同じくしない者を「地獄の民」と呼び、このような者を殺すのは神意にかなうとして、同じイスラム教徒を無差別に殺し、婦人や子供であろうと容赦しなかった。,(嶋田襄平) 02300,アーダ,アーダ,<印78FE><印78E6>da,,イスラム社会の慣行および慣習法を意味するアラビア語。ウルフともいう。アーダの範囲はきわめて広く、イスラム以前からの慣習を指すこともあれば、政令によって新たに慣行化された事柄を指す場合もあった。たとえば農民の水利権や、水路を開削・整備するための力役の徴発は、古くからの慣行によって定められ、これを維持するのは伝統的に村長(#シャイフ#)の責任であった。都市の#ハーラ#(街区)においても、婚礼や葬式あるいは#聖者#の生誕祭(#マウリド#)などの行事は、共同体のアーダとして住民の参加が義務づけられていた。また旅先での生活と安全を保障する隣人保護(ジワール)の制度も、古いアラブの習慣として生き続け、イスラムの学問の発展に大きな役割を演じた。これらの慣行が#シャリーア#の法源(#ウスール#)として認められることはなかったが、実際の判決においては、シャリーアの規定に違反しないかぎり、各地方に固有なアーダはそのまま承認された。マグリブではベルベル人のこのような法慣行をアマルといい、インドネシアではアダットと呼ぶ。また持分資本(キラード)や協業などの商業形態に関する規定にみられるように、シャリーアそのものが旧来の慣行を容認し、これを合法化する性格を備えていた。ただし、法学派によって容認の程度は異なっている。法慣行として機能するアーダが成文化されることはなかったが、シャリーアを補う行政法として、アラブのシヤーサ、ペルシアのウルフ、トルコの#カーヌーン#は、政権を担う君主によって成文の形で発布された。とくに#オスマン朝#のカーヌーンは征服諸地域のアーダに基づいて規定され、帝国行政に重要な役割を果たした。,(佐藤次高) 02400,アダブ,アダブ,adab,,アラビア語で「礼儀作法」「優雅さ」などを意味するとともに、文学を表すのに用いられる。#ジャーヒリーヤ#時代にはadbは「宴会への招待」という意味であったが、これとよく似たadabは徳性を表すのに用いられた。#ウマイヤ朝#ではadabは徳性に加えて詩と散文、およびこれに関する解説、故事、系図などの学問を表すにいたった。ムアッディブと呼ばれる者が上層階級の子弟にこのアダブを教えた。ウマイヤ朝後期から#アッバース朝#初期にかけてアラビア語の文法学や辞書学が発達してくると、これらもアダブに含まれるようになった。このようにして、アダブは「アラブの言語文化」全体を表すものとなった。イブン・サッラームの《詩人列伝》、#ジャーヒズ#の《明義明証論》、ムバッラドの《全集》、イブン・クタイバの《詩と詩人》、《故事の泉》、《書記のアダブ》などは以上のような意味でのアダブ文学を代表する作品である。#イブン・アルムカッファー#の《大アダブ》と《小アダブ》の2著は、徳性・倫理を主題にしたものである。アッバース朝初期を経るころ、アダブが表す意味領域はいっそう拡大した。今まで含んでいなかった哲学や宗教諸学はもちろんのこと、君主への奉仕法、政治、狩、すごろくのやり方、剣術、馬術などまでがアダブの中に入った。ジャーヒズは《書簡集》の中で、数学、幾何学、化学、医学、音楽などもアダブに含めている。このようにしてアダブはアラブのすべての教養を表す意味をもつにいたった。現代になると、この語の表す意味領域は、ウマイヤ朝までの狭義のもの、すなわち、「徳性」および「詩と散文」の創作や研究、一般にいう文学を表すようになった。,(池田修) 02500,アター・ベク,アター・ベク,at<印78E6> bek,,#セルジューク朝#時代に君主の子息の養育にあたった者の称号。主としてトルコ人の#マムルーク#出身の#アミール#がその任に就いた。父親に代わって子息に対して全権をゆだねられ、子息に与えられた#イクター#を管理したり、父親の死後は、その子の母親と結婚することもあった。セルジューク朝の衰退後、ファールス、アゼルバイジャンなどではアター・ベクが実権を握り、アター・ベク諸王朝を開いた。,(清水宏祐) 02700,アチェ戦争,アチェセンソウ,Aceh,,スマトラ島北端のアチェ族によるオランダの侵略に対する抵抗戦争(1873〜1912)。19世紀後半のオランダのスマトラ東海岸進出以降、その脅威にさらされた#アチェ王国#は、トルコ、アメリカ、イタリアと秘密に外交的接触をもった。これら列強の介入を恐れたオランダは、1873年3月にアチェ王国に宣戦布告、侵略を開始した。アチェ王国の領主(ウレーバラン)層はスルタンを奉じて勇戦、4月にはこれを撃退した。しかし同年12月に始まる再侵略においては、戦闘が長引くにつれてアチェ軍の統一が失われ、78年までに王国中心部の大アチェ地方をほぼ制圧されてしまった。オランダの宗主権を承認することで旧権力を保証された領主層も、イスラムに基づく#スルタン#支配体制の護持を叫ぶ、ごく一部を除いて抵抗を放棄した。しかし、80年代にいたりテウンク・ディ・ティロ(本名シエク・サマン)を中心とする#ウラマー#層が#ジハード#を唱道し、多くの農民をゲリラ隊に組織して大反攻に転じた。また戦闘に追われ流民化した農民を組織し、降伏派領主の権力奪取を図るテウク・ウマルら新興領主層のゲリラ部隊もこれに加わった。こうしてアチェ軍ゲリラ諸部隊は防衛に徹するオランダ軍を約10年間圧倒し続けた。しかし#ヒュルフローニエ#らの現地調査に基づき、96年以降積極的攻勢に出たオランダ軍によりアチェ軍は漸次制圧され、1903年にはスルタンが降伏し、抵抗派領主もこれに続いた。それでもなお12年までウラマー層に指導された散発的抵抗が各地にみられた。
 この戦争は、とくに1880年代以降、ウラマー層がジハード遂行を訴える中で、神の教えに忠実なイスラム共同体の理想像を提示したことにより、アチェ族にとって反侵略戦争と同時に宗教・社会改革運動の性格をも併せもつことになった。しかし、それはオランダに敗れたため十分な展開をみる前に終息を余儀なくされた。,(鈴木恒之) 02800,アッタール,アッタール,Far<印77F5>d al-D<印77F5>n<印78FE>A<印73F3><印73F3><印78E6>r,ca.1136〜ca.1230,ペルシア系神秘主義詩人。ニーシャープールに生まれ、その地で没す。一説にモンゴル軍侵入時に、モンゴル兵の手により虐殺されたと伝えられている。神への愛、神との合一、神秘主義修行の諸相を、寓意や比喩を交えた叙事詩体の詩で巧みにうたう。ペルシアにおける神秘主義的叙事詩の伝統の創始者である。晩年に、当時少年の#ルーミー#に会い、その才能を見抜いて自作の書《神秘の物語》を与えたといわれる。主著は《鳥の言葉》、《聖者列伝》。,(松本耿郎) 02900,アッバース朝,アッバースチョウ,<印78FE>Abb<印78E6>s,750〜1258,イラクを中心に、西はマグリブから東はマー・ワラー・アンナフルまでを支配したイスラム王朝。首都は#バグダード#(836〜892年は#サーマッラー#)。ただし、アッバース家のカリフが宗教と政治のいずれの面においても主権者として君臨しえたのは、#ブワイフ朝#がバグダードに入城する946年までで、それ以降はごく短期間を除いて政治上の実権を失い、宗教上の権威のみを保持したにすぎない。したがって実質的な国家としてのアッバース朝を取り上げる場合には、同朝の前半約200年間が問題とされる。
 アッバース朝は「アッバース朝革命」と呼ばれている大規模な組織運動の結果成立したものである。#ウマイヤ朝#時代、幾度かの内乱や反乱が起こったが、そうしたウマイヤ家の支配に反抗する者たちの間から、イスラム教団国家の最高責任者として、イスラム法を執行できる唯一の資格者は「ムハンマド家」出身者でなければならないという思想がしだいに広がってくると、その一員であるアッバース家はこの思想を利用してウマイヤ朝打倒の地下運動を起こした。この革命運動はイランのホラーサーンで成功を収め、747年宣伝者(#ダーイー#)の#アブー・ムスリム#が在地のアラブや改宗イラン人を率いてメルブ近郊で武装蜂起し、やがてイラクに攻め込んで、749年にはアッバース家当主の#サッファーフ#がクーファでカリフたることを宣言、翌年にはウマイヤ朝最後のカリフが殺され、アッバース朝が正式に成立した。しかし、ムハンマド家の範囲は広く、アッバース家がカリフ位につくべき積極的な理由もなかったことから、同じく一員に属する#アリー#家、すなわち#シーア派#の不満を残し、以後たび重なるシーア派反乱の遠因となった。アッバース朝はウマイヤ朝と違って、その国家と社会にイスラムの原理が確立した時代であるため、「イスラム帝国」と呼ばれる。ウマイヤ朝体制の本質は少数の支配者アラブによる異民族統治にあって、非アラブ人は改宗してもアラブと同等の権利を得ることができず、不満分子の地位に甘んじなければならなかったが、アッバース朝下では、年金の受給や免税のようなアラブの特権的地位は失われ、代りに多くの非アラブ人改宗者(#マワーリー#)が国家の枢要な地位に登用され、同時に官僚、#商人#、地主らと並んで、神学者や法学者などイスラムの聖職者層が支配階級の座についた。
 このアッバース朝体制を事実上樹立したのは第2代カリフ、#マンスール#で、彼は新都バグダードを建設し、イスラムのもつ統一性の原理に従って、中央集権的統一体制の確立に努めた。第5代カリフ、#ハールーン・アッラシード#の治世はこの王朝の全盛期であったが、その子のアミーンと#マームーン#との間でカリフ位をめぐる内乱が起こると、#バーバクの乱#をはじめとして各地の政情不安が顕在化した。さらに第8代カリフ、ムータシムが王朝の軍団にトルコ人奴隷兵を採用して、彼ら軍閥によるカリフのかいらい化を招くと、辺境諸州の半独立化、イラクにおける黒人農業奴隷#ザンジュの乱#や#カルマト派#の反乱が相次ぎ、やがて来るイスラム世界の軍事支配体制化の契機をつくった。ただ第15代カリフ、ムータミドの弟ムワッファクが精力的に治安回復に努めた結果、イスラム帝国は経済的・文化的発展の時代を迎え、政治的には官僚層が再び実権を握った。しかし、#宮廷#の奢侈や官僚機構の膨張、軍事費の増大から、国家財政は慢性的赤字となり、10世紀半ば近くになるとまったく破綻してしまった。これに不満をもつ軍人階級が936年に政権を掌握し、カリフは政治的実権をほとんど失ったが、さらに946年(945年の説もある)にはブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝国家は崩壊した。ブワイフ朝はシーア派に属していたが、アッバース家のカリフ位を廃絶しなかったので、ここに行政や軍事を担当する軍事政権と宗教や法の施行、教育などを担当するカリフ当局との並存が始まり、社会的には軍事#イクター#制の時代に入った。ブワイフ朝の後、政治権力を掌握した#セルジューク朝#が13世紀初めに分裂してイラクに権力の空白状態が生じると、政教両権を兼備したカリフ体制を復活させようとするナーシルのようなカリフも現れたが、1258年にバグダードは異教徒の#モンゴル#軍に蹂躙され、ここにカリフ制は完全に崩壊した。
 アッバース朝は中央集権化によって#ディーワーン#をはじめ行政機構がきわめて発達した時代で、中央政府の業務の複雑多岐化と国家権力の地方末端への浸透により租税制度が発達し、農民は苛酷な納税を強いられ、時には暴動を起こすこともあった。しかし全般的には経済的にも繁栄した時代で、国家は灌漑事業と農業開発を積極的に行い、一方新たな支配階級となった官僚、地主、商人らも、この農業開発事業を投機の対象にし、各地で彼らや高級軍人の所有する私領地(ダイア)が増大した。また手工業も盛んになり、とくに繊維産業が発達し、衣服用の織物や室内装飾用の#じゅうたん#や段通が各地で生産され、製品は世界に輸出された。一方バグダードを中心に、世界各地から多種多様な産物が輸入され、東西通商は隆盛をきわめた。いったいにこの時代は非アラブ原住民のイスラム化がいっそう進行した時で、異民族間であっても同じイスラム教徒としての共通意識が生まれ、たとえ政治的には不統一であっても、イベリア半島から中央アジアのフェルガーナまでのイスラム世界内部の交流に、それはなんら障害となるものではなかった。,(森本公誠) 03000,アッバース・マフムード・アルアッカード,アッバース・マフム,<印78FE>Abb<印78E6>s Ma<印7EE5>m<印7CF3>d al-<印78FE>Aqq<印78E6>d,1889〜1964,アスワーンの貧しい家に生まれ、小学校卒業後は働きながら独学し、もって生まれた知性をみごとに開花させた。1916年詩集を発表し、その後#ルーミー#に関する多くの著作を書いた。預言者ムハンマド、#ウマル1世#、#ウスマーン#らの歴代のカリフの伝記を書き、さらにマージニーとともに形骸化した詩を批判し、小説としては《サーラ》がある。哲学者、詩人、歴史家、批評家として第一級であり、延べ90冊の著書を残している反骨の大知識人である。,(奴田原睦明) 03100,アッラー,アッラー,All<印78E6>h,,イスラムにおける唯一なる神の呼称。語源的には、アラビア語で神を意味するイラーフに、定冠詞アルが付加されたアルイラーフが同化してアッラーフ(アッラー)になったといわれる。イスラムの教義では、この神は天地創造以前の永遠の昔から、永遠の未来にわたって存在するものであるが、歴史的にみれば、すでにイスラム以前のアラブの間に知られていたことが、碑文や人名やコーランの記述などから知られる。とくにアッラーはメッカの人々の間では至上神として信仰されていた(コーラン106章)。ちなみにムハンマドの父の名はアブド・アッラー(アッラーのしもべ)であった。アッラーに次いでよく用いられる呼称にラッブ(主)があり、そのほかに、神の性質を表す名として「慈悲深きお方」、「慈愛あまねきお方」などのような呼称もある。神学者はアッラーを神の本質を示す本質名とそれ以外の属性を表す属性名とを区別する。これらの属性名は、後に99の神の美名としてまとめられ、#数珠#とともに#ジクル#で用いられる。
 コーランの中で繰返し強調されていることは「汝らの神は唯一なる神」(22章34節)という一神教の原理である。全知全能なるアッラー以外に、天地万物の創造者・支配者はいないということであり、アッラー以外のすべてのものは神の被造物である。このように神の力は普遍であり、この世に存在し生起するもので一つとして神の意志と力によらないものはない。神が一つであるということは、万物の主たることにおいてそれだけで十分であり、伴侶も助力者も必要としない「並ぶものなき神」(42章11節)ということである。神の無比性ということは、神の超越性を意味する。神が超越者であるということは、空間的・時間的な意味においてではない。神はその本質において被造物からの類推をいっさい拒否する存在だということである。このようにコーランでは神と被造物との隔絶性が強調される一方、神は「各人の頸の血管よりも近く」(50章16節)にあり、人間の言葉で人間のように自己を語り、また人間のように見たり聞いたり、喜んだり怒ったり、思い直したりもする人間的な神として描かれている。このような神の超越性と人間(人格)性という相矛盾するような両側面をいかに調和的に解釈するかで、さまざまな神学上の相違を生んだ。この神はまた、悪人を罰し、信仰し行い正しい者にはよい報いを与える義の神である。しかし、同時に「悔い改めて帰ってくる人々は、すべてを快く赦し給う」(17章25節)慈悲深き神でもある。かと思えば、「(神は)御心のままにある者を迷いの道に陥れ、また御心のままにある者を正しい道に導き給う」(14章4節)、「天と地の主権は神に属す。誰を赦し、誰を罰するかもすべては御心次第である」(48章14節)とも言っている。これは神の恣意性を示すものではなく、むしろ神の絶対的自由、究極の点では神は人間理性の尺度を超えた存在であることを表現したものにほかならない。しかし、それだけに神の正義と悪の問題、神の絶対的力と人間の自由意志、道徳的責任の問題をどのように調和させるかが後に神学上の大きな問題となる。→イスラム神学,(中村廣治郎) 03300,アドル,アドル,<印78FE>adl,,名詞・形容詞として、「正義」「正しい」「まっすぐ」を意味するアラビア語で、とくに神学・法学の用語として用いられる。神学では#ムータジラ派#が神のアドルを強調したが、それは神は正義と善以外を行うことなく、したがって悪は人間自らの責任であるとする自由意志論の根拠となった。法学では#カリフ#、#カーディー#、#シャーヒド#の資格要件とされ、この場合アドルの反対はファーシク(原義は「恥知らず」)で、アドルとファーシクは法的であると同時に道徳的・宗教的な概念であった。アドルの法学上の定義については諸説あるが、たとえばシャーフィイー派の法学者ナワウィーはこれを、「重罪を犯したことがなく、かつ軽微な罪を常習としないこと」として定義している。アドルという文字、またはその省略形としてのアイン記号は、しばしば貨幣に刻印され、それが正しい重量をもち、したがって法定であることを示す。現代においては、アドルおよびアダーラは社会関係における公正・正義、ことに富の分配に関する社会的公正の意味で強調されるようになっており、#イスラム社会主義#をめぐる議論はそこに基礎を見いだしている。,(嶋田襄平・柳橋博之) 03600,アーヒラ,アーヒラ,<印78E6>khira,,現世に対する来世のこと。イスラムでは、この世は神の創造によって始まり、終末によって終わる。終末は、ある時、天使の吹くラッパとともに突如として訪れる天変地異となって現れる。しかし伝承によれば、その前に偽メシアが現れ、それがやがてイエスの再臨によって殺されるという。次いで人間は一人残らず墓からあばき出され、死ぬ前と同じ姿に戻される。これが復活である。この後、人間はすべて1ヵ所に集められ、神の前に引き出されて審判を受ける。各人の生前の信仰や行為がすべて記録されている「帳簿」が手渡され、目の前であけられ、善行と悪行が秤で計られる。そこで「秤が重く下がった者」は#天国#に、「秤が軽くはね上がった者」は#地獄#におとされ、それぞれの報いを受ける。伝承によれば、各人は地獄の業火の上にかけられた、剣の刃よりも狭い橋を渡らせられ、無信仰者は足をすべらせて転落するという。大罪を犯した者でも信仰があれば、ムハンマドのとりなしで赦されるとも、あるいは一定期間地獄で罰を受けた後、やがて天国に入れられるともいわれる。こうして天国と地獄での生活は永久に続くのである。,(中村廣治郎) 04100,アブド・アッラティーフ・アルバグダーディー,アブド・アッラ,<印78FE>Abd al-La<印73F3><印77F5>f al-Baghd<印78E6>d<印77F5>,1162〜1231,多才な教養人で、神学・哲学・医学などの諸学に通じた。バグダードに生まれ、イラク、シリア、エジプトの各地で活躍した。イブン・アッラッバード(フェルト職人の子)とあだ名される。#アイユーブ朝#の#サラーフ・アッディーン#の宮廷に仕えた時代に見聞したエジプトの民俗地誌に関する報告書《エジプト事情》は、中世エジプト史に関する貴重な史料である。著名なユダヤ人哲学者マイモニデスとも交遊があった。,(松本耿郎) 04500,アブド・アルカーディル・アルジーラーニー,アブド・アルカー,<印78FE>Abd al-Q<印78E6>dir al-J<印77F5>l<印78E6>n<印77F5>,1077〜1166,イスラム世界における最初の神秘主義教団(#タリーカ#)である#カーディリー教団#創立者。イランのギーラーンに生まれ、バグダードに出て、#ハンバル派#の法学者となった。晩年に説教師として市民の人気が出て、彼のために#リバート#がつくられた。後年、彼はイスラム世界における最も有名な#聖者#の一人とみなされるようになり、聖者崇拝の対象となった。,(古林清一) 04700,アブドゥル・ラーマン,アブドゥル・ラーマン,Abdul Ra<印7EE5>man,1903〜90,マレーシアの政治家。マレー半島中部ケダの王家に生まれ、父はケダの#スルタン#だった。1919年イギリスに留学、ケンブリッジ大学に学び、同時にマレー人学生協会の指導者となった。帰国後サハバット・ペナ(ペン・フレンド)という民族主義団体のケダ支部長となった。第2次世界大戦後再びイギリスに留学して弁護士の資格を取り、51年には連合マレー人国民組織(UMNO)総裁となり、マレーシア民族運動の指導者となった。彼の政治路線はイギリスとの協調を通じた話合いに基づく独立の獲得であった。55年7月の第1回マラヤ総選挙の結果、首席大臣となり、イギリスと交渉を進め、57年にマラヤ連邦が完全独立した。この後、首相としてマレーシア連邦の結成(1963)、同連邦からのシンガポールの脱退(1965)などを終始指導し、70年9月に首相職を辞したが、建国の父としての尊敬を集める一方、サウディ・アラビアのジュッダに本部をもつ#イスラム諸国会議#常設書記局長にも就任した。晩年は言論活動を通じての啓発活動にも熱心であった。,(生田滋) 05000,アフマディー教団,アフマディーキョウダン,A<印7EE5>mad<印77F5>,,#アフマド・アルバダウィー#を創立者とするイスラム神秘主義教団(#タリーカ#)。バダウィー教団と呼ばれることもある。13世紀に下エジプトのタンターの町で活動し、この教団の基礎がつくられたといわれている。教団として有力になってくるのは15世紀の中ごろ以降のことである。#オスマン帝国#の支配時代にも発展し、エジプトで最も有力な教団に成長した。タンターの町にあるアフマド・アルバダウィーの墓廟を中心にして教団の組織がつくられ、この聖者の命日を祝うマウリドと呼ばれる祝祭には、エジプトの各地から参詣者が集まった。この教団の活動には古代エジプト以来のエジプト土着の宗教伝統との結びつきが強いのが特徴であり、マウリドもエジプト土着の暦であるコプト暦によって行われる。,(古林清一) 05100,アフマド・アミーン,アフマド・アミーン,A<印7EE5>mad Am<印77F5>n,1887〜1954,エジプトの思想家。カイロに生まれ、#アズハル#大学、イスラム法学院で学び、カイロ大学教授、言語アカデミー会員を務めた。イスラム改革思想家#ムハンマド・アブドゥフ#の門下生の一人で、師の思想をリベラルな近代主義の傾向において継承したグループの一員。1920年代にファラオ主義を発展させ、イスラム史におけるエジプトの重要性を論じた思想家の一人。《リサーラ》《サカーファ》両誌を中心に多くの文芸評論を書き、また《エジプトの習慣因習表現辞典》《イスラムの夜明け》など多数の著作を残した。,(藤田進) 05200,アフマド・オラービー,アフマド・オラービー,A<印7EE5>mad <印78FE>Ur<印78E6>b<印77F5>,1841〜1911,エジプトの軍人。オラービー・パシャとも呼ばれる。下エジプト地方シャルキーヤ県ハッリーヤ・ラズナ村の有力者の息子として生まれ、1854年入隊、58年将校となった。79年大佐に昇進、その間エジプト人将校からなる秘密軍人グループを組織し、同年エジプトの独立と立憲制とを目指すワタン党の結成に協力、後に彼の名を冠して#オラービー運動#とも呼ばれる民族運動を指導、81年陸軍大臣となった。イギリスの軍事干渉に抵抗したが、82年タッル・アルカビールの戦に敗れた。軍事裁判でいったんは死刑を宣告されたが、1901年帰国を許されるまでセイロン島に流された。,(加藤博) 05300,アフマド・アルバダウィー,アフマド・アルバダウィー,A<印7EE5>mad al-Badaw<印77F5>,ca.1200〜76,エジプトにおける最も有力な神秘主義教団(#タリーカ#)である#アフマディー教団#の創立者。ムハンマドの血統を引く一族の出といわれている。モロッコのフェスで生まれ、幼少時にメッカに巡礼した。以後、イラク滞在を経て、エジプトのデルタ地帯の町タンターに移った。この地で#スーフィー#としての活動を送り、1276年に没した。彼の後継者たちによって、アフマディー教団がつくられ、彼の命日を祝うマウリドと呼ばれる祝祭がタンターの町にある彼の墓廟で行われるようになった。後世、フランスのルイ9世の十字軍を撃退してエジプトを救うなどさまざまな英雄的功業をなした#聖者#として信じられるようになり、聖者崇拝の対象となった。エジプトの民衆の間では最も人気のある聖者であり、さまざまの願い事をこの聖者に祈願したり、子供の#割礼#の日をこの聖者の祝祭の日に定めることもある。,(古林清一) 05400,アブー・ムスリム,アブー・ムスリム,Ab<印7CF3> Muslim,?〜755,ホラーサーンにおける#アッバース朝#革命の指導者。アッバース家のイブラーヒームによって秘密の宣伝者(#ダーイー#)として派遣され、#ウマイヤ朝#打倒運動を指導、747年メルブで武装蜂起し、革命軍を西進させてウマイヤ朝軍を粉砕した。その功によりホラーサーン総督となったが、その在任中の751年、中央アジアのタラスで唐の大軍を破り、いっそう名声をあげた。しかし彼の勢力伸張を恐れた第2代カリフ、#マンスール#によって暗殺された。,(森本公誠) 05500,アフメト・ウェフィク・パシャ,アフメト・ウェフィク・パシャ,Ahmet Vefik Pa<印7DE3>a,1823〜91,#オスマン帝国#の政治家、文人。外交官の子で、自らも外交官として活躍した後、初代の下院議長、総理大臣等を歴任した。しかし、モリエールからの多数の翻訳・翻案、およびフェヌロンの《テレマックの冒険》の翻訳等により、文人としての名がより高い。また、《オスマン語辞典》では、オスマン語を初めてトルコ系諸語の中に位置づけ、トルコ・ナショナリズムの生成に大きな役割を果たした。,(新井政美) 05600,アブー・ユースフ,アブー・ユースフ,Ab<印7CF3> Y<印7CF3>suf,731〜798,アラブのイスラム法学者。クーファの人で#アブー・ハニーファ#と#マーリク・ブン・アナス#に法学を学び、#ハナフィー派#の創始者のひとり。バグダードの#カーディー#となり、#アッバース朝#カリフ、#ハールーン・アッラシード#により初代の大カーディーに任ぜられ、同時にその政治顧問となった。著書《ハラージュの書》《先例の書》《アブー・ハニーファとイブン・アビー・ライラーの意見の相違の書》が現存する。,(嶋田襄平) 05700,アブラハム,アブラハム,Abraham,,コーランではアーザルの息子イブラーヒームと呼ばれ、モーセに次いで2番目に多くその名の記された旧約聖書の#預言者#。コーランはアブラハムについて、およそ次のように記す。彼は一神教の信仰がきわめてあつく、息子(名を挙げず)を犠牲として神に捧げようとして神にあがなわれ、父親を含む同胞の#偶像#崇拝を厳しく非難して対立し、息子のイサクとヤコブ(旧約聖書では孫)とを連れて父のもとを去ったとして、彼が#メッカ#を訪れたことを示唆する。アブラハムはメッカにおいて、息子#イシュマエル#とともに#カーバ#を建設して#アッラー#に献上し、彼の子孫の一人を使徒として遣わすことを祈念した。その証拠に、カーバにはアブラハムの立ち所をはじめ明白なしるしがあるとコーランは述べるが、このアブラハムの立ち所は現在もカーバのかたわらにある。アブラハムが信仰したのは、#ユダヤ教#でもキリスト教でもない純粋の一神教、アブラハムの宗教で、彼はユダヤ教徒でもキリスト教徒でもない純粋の一神教徒#ハニーフ#であり、絶対的に神に服従する者ムスリムである。このようにしてコーランは、ムハンマドの説いたイスラムはユダヤ教やキリスト教の模倣ではなく、#イエス#やモーセよりはるかに古い純粋の一神教徒アブラハムの宗教の復活であることを力説する。アブラハムはコーランにおいて、真実を語る者、神の友とも呼ばれている。
 後世の伝承はアブラハムに関する多くの物語を発展させたが、その中心は彼のカーバ建設と#巡礼#の儀礼、ならびにコーラン2章258節に「彼と論争した例の男」と記されたニムルードとの戦いについてである。もちろん、アブラハムとニムルードとの戦いは旧約聖書にみえずイスラム教徒の創作であるが、後世のユダヤ教徒のラビ文献にも取り入れられた。,(嶋田襄平) 05900,アミール,アミール,am<印77F5>r,,「司令官」「総督」の意。転じて支配者や王族の称号としても使われたアラビア語。初めはムスリム集団の長に対して使われた。#ウマル1世#以降の#カリフ#がアミール・アルムーミニーン(信徒たちのアミール)と呼ばれたのも、その一例である。しかし、一般には#正統カリフ時代#から、軍隊の長、遠征軍の長の意味で使われた。また彼らが征服した地で総督となった場合にも、そのままアミールと呼ばれ、カリフに代わって集団礼拝の指導、#モスク#の建設、#カーディー#の任命、治安の維持、銀貨の鋳造などの任についた。またアミールは徴税に関する権限ももち、同一人物が#アーミル#(徴税官)と称されることもあり、史料もアミールとアーミルの語を、混同して使っている場合がある。
 #アッバース朝#時代には、アラブに代わってイラン人の官僚やトルコ人がアミールに任命されるようになった。これらの中には、#トゥールーン朝#、#サーマーン朝#のように地方で独立するものも現れ、さらに#ガズナ朝#のように征服した地方で後にアミールに任命されることによって、その支配を正当化させるものも出た。さらに10世紀の前半には、下イラクの総督イブン・ラーイクがアッバース朝カリフよりアミール・アルウマラー(大アミール)の称号を得、カリフから世俗的な権限のすべてを奪い、以後イラクの支配権は、#ブワイフ朝#時代をも含めて、大アミールの手に握られることになる。大アミールの下には行政をつかさどる#ワジール#と、軍務を管轄する#ハージブ#があり、#マムルーク#を中心とする軍隊をもち、#フトバ#ではカリフとともに自分の名を唱えさせ、金貨の鋳造も行った。
 #セルジューク朝#時代には、#スルタン#の下で軍隊の指揮にあたる多くのものがアミールと呼ばれ、その地位は相対的に低下した。しかし、#アター・ベク#や大規模な#イクター#の保有者となって、王朝の衰退期には地方で独立政権をつくったものもある。#マムルーク朝#では、アミールの中に百人長から十人長までの位の分化がみられ、その総計も900人前後に達した。マムルーク朝以前においても、アミールの中には、マムルーク出身者が多かった。一方、#イル・ハーン国#時代には部族組織が同時に軍隊組織でもあったため、モンゴル人の族長がアミールとなっていた。支配者としてのアミールの称号は、中央アジアにおいても近代まで使われていた。,(清水宏祐) 06000,アーミル,アーミル,<印78FE><印78E6>mil,,「代行者」を意味するアラビア語。公私いずれにおいても用いられるが、行政上では「官吏」「役人」とくに「徴税官」を指す。ムハンマドはイスラム教徒からの救貧税(#ザカート#)や非イスラム教徒からの貢納を徴収するために、アーミルを派遣したという。#正統カリフ時代#では、徴税官ばかりでなく、征服した州の総督を指すこともあった。#ウマイヤ朝#では、#アミール#と並んで、州の総督の意味で用いられたが、末期近くなって中央集権化が図られ、地方政治を軍事権と財政権とに分離するようになると、軍事を担当する総督のアミールに対し、財政を担当する者をアーミル、すなわち税務長官として派遣した。これは次の#アッバース朝#でも踏襲された。またアーミルは、このように#カリフ#任命の高官についてばかりでなく、総督もしくは税務長官によって派遣される県レベルの徴税官やさらに下級の税務吏をも指し、とくに後者については複数形のウンマールがよく史料で用いられている。,(森本公誠) 06100,アミール・アリー,アミール・アリー,Sayyid Am<印77F5>r <印78FE>Al<印77F5>,1849〜1928,近代インド・ムスリムの法律家、思想家。カルカッタ大学卒業後イギリスで弁護士資格を獲得した。1877年民族ムスリム協会を設立し、ヨーロッパ人にイスラムの優秀性を説き、かつ西欧近代思想を援用しつつ、ムスリム・インテリ層に西欧に対する自信を植えつけるべく努力した。90年カルカッタ高裁判事となったが、1904年からイギリスに定住し、ヒンドゥーに対するムスリムの利害を代弁した。,(内藤雅雄) 06400,アーヤトッラー,アーヤトッラー,<印78E6>yatull<印78E6>h, <印78E6>ya All<印78E6>h,,#十二イマーム派#の宗教法学者のうち、優れた上級宗教指導者の称号であるが、比較的新しく、19世紀末ごろから現れた。「アッラーの徴」の意。#ムジュタヒド#のように厳密な資格を指すものではない。このうち、とくに権威ある数名が「大アーヤトッラー」と呼ばれる。これより下位の階層の法学者の称号としては、フッジャトル・イスラームがある。,(加賀谷寛) 06800,アラク,アラク,<印78FE>araq, <印78FE>araq<印77F5>,,アラクは#ナツメヤシ#の実またはブドウを原料としてつくられる強度の#酒#で、水を加えるとミルク状に白濁する。原料の種類や産地および醸造前後における手入れの仕方によって、アルコール度、味、色、香りが異なる。アラクは古来イラクとシリアが産地としてよく知られ、エジプト、スーダンおよび北アフリカ諸国でも原始的な方法で小規模ながら製造されていた。現代になって、商品として大量に製造されるようになったが、中でもナツメヤシの主産地イラクがその中心をなしている。インドやマレーシアなどでは、原料に米、ココヤシ、ヤシの樹液などを用い、ブルボン家ではサトウキビを原料にした。日本では江戸時代にオランダから渡来し、阿剌吉、阿剌基などと呼ばれ、蛮語とみなされていた。スペインではarac,erraca、ポルトガルではaraca,araque,orraca,racなどとして知られている。,(池田修) 06900,アラビア科学,アラビアカガク,,,アラビア科学とは必ずしもアラブ人の科学ということを意味するのではなく、これにはイラン人やユダヤ人、トルコ人なども大きな貢献をしている。またアラビア科学を築きあげたのは必ずしもイスラム教徒だけではなく、#ネストリウス派#のキリスト教徒や#サービア教徒#その他も大いに活躍した。それゆえアラビア科学に共通していえることは、それが等しく#アラビア語#で表現されているということである。つまりそれはイスラムによって征服された地域(東は中央アジアから西はイベリア半島南部まで)において、8世紀から15世紀にかけて、アラビア語により文化活動した人々の科学の意味である。もっともこのようなイスラムの統一のもとで、言語・風俗・習慣をともにすることにより、そこに思想文化の一種の共通の場がつくられ、それがアラビア科学を一つにまとめあげていることは確かであり、その共通性の中核にイスラムがあることは否定できない。
 このアラビア科学は、750年に始まる#アッバース朝#下において、ギリシア科学の精華をほとんどすべて消化吸収することにより始められた。それは#マンスール#以下のこの王朝初期の歴代カリフの啓蒙主義と、その政治的要職を占めたペルシア出身のバルマク家の知的推進力、および彼らの要望にこたえてジュンディーシャープールからバグダードに移ったブフティーシュー家の学問的貢献、この三つの要素が結合することにより開花し、#マームーン#の時に活躍した#フナイン・ブン・イスハーク#やサービト・ブン・クッラはこのギリシア科学の消化吸収に中心的役割を果たした。この「アラビア・ルネサンス」のもとに、8世紀から9世紀にかけて医学・薬学・数学・天文学・化学(錬金術)などを中心とするアラビア科学の基礎が定められた。さらに10世紀から11世紀にかけては、東のアッバース朝、西の#後ウマイヤ朝#、南の#ファーティマ朝#の三つが鼎立し、バグダードのみならず、コルドバ、カイロなどを中心としてアラビア科学の黄金時代が現出し、#イブン・シーナー#、#ビールーニー#、#イブン・アルハイサム#らの第一級の科学者を生み出した。12世紀以降は西欧世界がこのアラビア科学を移入消化し、しだいにこれに取って代わる時代であるが、15世紀にいたるまでイスラム世界も、#アンダルス#、北アフリカ、中央アジアなどで発展を続け、#イブン・ルシュド#、#ナシール・アッディーン・トゥーシー#、#イブン・ハルドゥーン#らの優れた学者を輩出する。
 これらのアラビア科学に通ずる特徴は、まずこの科学の中心にやはりイスラムの思想があるということであろう。アラビア科学は#ムータジラ派#の合理主義的神学と結びついて出発したが、これもイスラムを否定するのではなく、その信仰と調和させようとしたのである。とくに#シーア派#的な科学の伝統においては、自然を知ることは神を知ることであるというグノーシス思想との結びつきが強く、これが#錬金術#や占星術のような秘教科学を発展させた。第2に非常に実践的現実的であって、理論的抽象的なものを、実践的具体的なものから分離しない。したがって科学と技術が遊離せず、両者を分け隔てたギリシアの理論偏重の科学とはこの点が異なっている。第3に自然の統一とその全体的調和を求め、科学が細かく専門分化しない。アラビアの科学者は多くは全体的知識人であり、断片的な専門人となることを価値ありとはしなかった。第4に理性と信仰の分離がなく、したがって世俗的科学と神的叡知という二重真理はイスラム世界にはなく、科学は叡知に従属する。この点、知識の世俗化が進行していった西欧科学とは異なる。,(伊東俊太郎) 07000,アラビア語,アラビアゴ,al-<印78FE>Arab<印77F5>ya,,#アラブ#が用いてきた言語。セム系言語の一つで、従来エチオピア語とともに南セム語群に属するといわれてきた。近年動詞組織などの比較研究の成果をふまえて、北西セム語群に近いとする学説も有力になっている。アラブが北アラブと南アラブに大別されるように、アラビア語も南アラビア語と北アラビア語に分けられる。南アラビア語はすでに死語となっているが、古代において、アラビア半島南部のサバ、ミナ、ヒムヤルなどの王国の言語であった。多くの碑文がヒムヤルペンで書かれた粘土板(ムスナド文書)として残されているが、大部分は祈願文で紀元前から6世紀ころのものである。これらの文書は南アラビアが古くから高度の文化をもち、経済的にも栄え、インドなどとの通商をしていたことをうかがわせる。その文字文化は紀元前1500年代には完全に発達し、文法学者が現れ、また歴史記録さえ行われていたようである。しかし7世紀のイスラムの出現と、これに伴う北アラビア語の拡大によって姿を消してしまった。
 今日一般にアラビア語といわれるものは、古典北アラビア語である。北アラブ地域はイエメンからシリアにわたって広がり、そこでは古くから商業が栄え、都市文明が発達していた。中でもヒジャーズのメッカは特別の地位を占めてきた。ヒジャーズ北部のヤスリブ(後のメディナ)は南アラブ系部族の移住で文化水準が高められた。またイラクのアラブはイラン文明の影響を受けていた。しかし大多数のアラブはテント生活を営む遊牧民(#ベドウィン#)で、彼らこそ外部の影響を受けない純粋のアラビア語を話す者であると認められてきた。北アラビア語の最も古い碑文は4世紀にさかのぼる。6世紀のものとみられるシリア語・ギリシア語・アラビア語文書(アレッポ南東部ザバド出土、512年または513年)、ヒーラのヒンド教会文書(560年)、ギリシア語・アラビア語文書(ダマスクス南部ハッラーン出土、568年)などは、いずれもキリスト教徒の教会生活に関するものであり、それらは#アラビア文字#が、おそらくイラクのキリスト教宣教師によってナバタイ文字を参考にして考案されたものであることをうかがわせる。それまでアラブ各部族にはそれぞれの方言が発達したようであるが、文字が考案され、伝播するにつれて、部族を超えた統一的文学語形成への道が開かれたと推定される。#ジャーヒリーヤ#のアラブ古詩には、口語的な方言とは明白に異なる文学語が用いられているが、おそらくその発生源はナジュド地方であったであろう。コーランがこの文学語で書かれたことにより、アラビア語はその後、イスラム世界の行政・宗教・学術語としての地位を担うことになった。コーランのアラビア語は8世紀後半から文法学者により徹底的に純化され、規範化された。7世紀前半以来、イスラムの広がりとともに北アラビア語の使用範囲は大幅に拡大された。前述のように南アラビア語は消滅し、今日わずかに古サバ語の系統を保つソコトラ島の方言が生き延びているにすぎない。北に向かったアラビア語はシリア語をほとんど死語に近いものと化し、シリア語はわずかに残る方言のほかは、シリア正教(#ヤコブ派#)の教会語として生き延び、昔日の面影を失った。またエジプトでは、コプト語は#コプト#教会の教会語として余命を保つ状態に追いやられた。#ウマイヤ朝#から#アッバース朝#にかけて、アラビア語はササン朝ペルシアの宮廷文学や古代ギリシア諸学の翻訳導入を経て、語彙をいっそう豊かにし、散文を発達させた結果、イスラム世界の文学・学術語としての地位を不動のものとした。13世紀から19世紀にかけての政治的変遷の中で、イスラム地域内では#ペルシア語#や#トルコ語#の地位が高まり、アラビア語の地位は相対的に低められたものの、現代になってアラビア語は再び勢いを盛り返し、アラブ近・現代文学を開花させている。
 今日のアラビア語圏はアラビア半島全体、シリア・パレスティナ、イラク、タウルス山地とクルディスターンの一部、エジプト、スーダン、北アフリカを包含する。アラビア語はコーランの言語であるために文法を固定し、歴史を通じてその変化は許されないという運命をたどってきた。しかもアラビア語はこれを母語とするアラブの言語という地位にのみとどまるものではない。コーランがアラビア語で書かれており、イスラムの信者はアラビア語で#礼拝#するよう義務づけられている。したがってアラビア語は全世界のムスリムの宗教語であり、イスラム世界の学術語としての地位を占めた。イスラム文化がアラビア語文化だとさえいわれるのは、非アラブのムスリム学者もその研究成果をアラビア語で発表してきたからである。アラビア語は、全ムスリムに対し、精神的一体感を植えつける機能をもった。19世紀以来の#アラブ民族主義#の高揚は、複雑な要素から成り立つアラブの自己確認の柱にアラビア語を据えるようになった。宗教・学術の面のみならず、商業用語としても、アラビア語は歴史的に多大の影響を他の諸言語に与えてきた。ペルシア語、トルコ語、インド諸言語、インドネシア語、#スワヒリ#語等、アジア・アフリカの言語にはあまたのアラビア語の語彙が含まれており、またヨーロッパの諸言語にも多数のアラビア語起源の借用語があることが知られている。
 アラビア語にはコーランの言語としての共通語のほかに多くの方言がある。イラク、サウディ・アラビア、シリア・レバノン・パレスティナ、エジプト、マグリブなどの方言が主要なものであるが、このほか、ラテン文字で書かれ、イタリア語の借用が多いマルタ方言もその一つに数えられている。しかし、アラブの主知主義や民族主義は共通語の保存を目的としており、古典北アラビア語(フスハー)の地位は圧倒的に方言(アーンミーヤ)のそれをしのいでいる。→アダブ、アラビア文字,(池田修) 07200,アラビア文字,アラビアモジ,,,アラビア文字はラテン文字と共通の祖先をもっている。両者とも歴史的には紀元前1000年ころ用いられていた古フェニキア文字につながる。アラビア文字は4世紀に古北西セム語に属するアラム方言のナバタイ文字から生まれたものと推定されている。これで書かれた最古の文書は512(または513)年のものである。古北西セム語は22の子音文字をもっていたが、アラビア文字ではth、dh、<印77F6>、<印7BE2>、kh、ghの6子音を表す文字が加えられ、合計28文字(ハムザを独立して数えると29文字)となり、すべて子音文字である。母音符号は8世紀初めにシリア語から取り入れたものと推定される。アラビア文字は右から左に書かれ、1語を単位として文字間をひげ線で連続するのが原則であるため、語内の文字の位置によって同一文字が形を変える。この文字は#トルコ語#、#ペルシア語#、ウルドゥー語、#スワヒリ#語、マレー語などの諸語の表記にも取り入れられた。
 アラビア文字の書体には次のようなものがある。
 (1)クーフィー体 最も古い書体で、古文書、貨幣、建造物の刻文などに用いられる。角張った書体で、#アッバース朝#になって装飾書体になった。
 (2)ナスヒー体 10世紀に能書家ムハンマド・ブン・ムクラにより、クーフィー体から考案された。丸味を帯びた書体で、著作・印刷用書体として広く用いられる。
 (3)スルシー体 ナスヒー体を多少装飾化した書体で、本の表題、記事の見出しなどに用いられる。
 (4)ライハーニー体 ナスヒー体とスルシー体の中間に位置づけられ、記事の見出しなどに用いられる。
 (5)ルクア体 #オスマン帝国#時代に考案された書体で、今日アラブ世界の筆記書体の主流を占めている。
 (6)ディーワーニー体 単純なものから極度に複雑なものまであるが、オスマン帝国のスルタン布告などの公文書に用いられた。
 (7)ファーリシー体 イラン以東で用いられる筆記書体で、アラブ世界のルクア体とは対照的に流線的な形状を有する。
 (8)マグリビー体 アンダルスや北アフリカで用いられたもので、クーフィー体に近い。,(池田修) 07300,オラービー運動,オラービーウンドウ,<印78FE>Ur<印78E6>b<印77F5>,,1879年に結成されたワタン(祖国)党を中心勢力とし、#アフマド・オラービー#大佐を指導者とするエジプトの民族運動。直接的には、1876年以降のエジプト財政の国際管理とそこで急速に強化されたヨーロッパ人支配(いわゆる「ヨーロッパ内閣」の成立)に対する批判と抵抗であった。#オスマン帝国#の宗主権、西欧列強のエジプト内政への干渉、トルコ人、チェルケス人等からなる支配階層など、当時の複雑な支配体制を反映して、その主張は反西欧、反オスマン帝国、#反ヘディーウ#など、さまざまな側面をもっていたが、その基調は、立憲制の確立と議会の開設による外国支配の排除とヘディーウ権限の制限であった。この運動は、すでにイスマーイール・パシャの治世下に萌芽がみられた立憲運動の延長線上にあり、それゆえ支持者として、エジプト人将校、#改革派ウラマー#、村落有力者、商人、さらにはトルコ系大地主階層の一部をも含む幅広い運動となり、ついには一時的に1881年憲法とワタン党の権力とをつくり出したが、議会による予算管理を要求するこの運動は、外国人債権者および列強の強硬な反対と干渉とに直面し、切り崩され、鎮圧されることとなった。運動は、81年におけるアフマド・オラービー大佐の武力蜂起に始まり、翌年のイギリス軍出兵をもって失敗に終わるが、以後エジプトはフランスを出し抜いたイギリスによってその単独軍事占領下に置かれることとなった。「エジプト人のエジプト」という運動のスローガンは、農民出身の軍人オラービー大佐という指導者によって体現されただけでなく、その後のエジプト民族主義運動の原点となった。→ムハンマド・アブドゥフ,(加藤博) 07700,アリーガル運動,アリーガルウンドウ,Aligarh,,19世紀後半、北インドのアリーガル大学およびその卒業生を中心として起こったムスリムの文化教育運動。その始まりは、1875年の#サイイド・アフマド・ハーン#によるムハマダン・アングロ・オリエンタル・カレッジ(1920年にアリーガル・ムスリム大学に昇格)の設立である。初期には学生はおもにムスリム上流出身者で占められていたが、しだいに北インドのムスリム中間層の子弟も入学するようになり、20世紀にはインド人ムスリムを指導する多くの知識人や政治家が輩出している。1905年のベンガル分割令反対運動では、アリーガル大学が中心となって独自の政党結成を試み、また第1次世界大戦後の#ヒラーファト運動#の際にもアリーガル大学は指導的立場をとった。アリーガル運動は初期には英語教育を主とした上層ムスリム中心であったが、他の階層にまで運動が浸透するにつれ、北インドのウルドゥー語地域にも運動が広まり、その中から近代ウルドゥー文学が成長した。,(小名康之) 07800,アリー・クシチュ,アリー・クシチュ,Ali Ku<印7DE3><印75F6>u,?〜1474,トルコの数学者、天文学者。#ティムール朝#ウルグ・ベクの鷹匠(クシチュ)であったが、学識を買われてサマルカンドの天文台長を務め、ウルグ・ベクが死ぬとアクコユンル朝のウズン・ハサンに仕えた。さらに、使節としてイスタンブルに赴き、そこで#メフメト2世#の懇望をうけてオスマン朝に仕官した。学校を創設して、数学、天文学、論理学を教え、また多数の著述をした。その弟子から優れた学者、技術家、提督が輩出した。,(小山皓一郎) 08100,アルダビール,アルダビール,Ardab<印77F5>l,,イラン北西部アゼルバイジャン州の町。イスラム征服時代は州都であった。#サファヴィー朝#の王家の祖先シャイフ・サフィー・アッディーンがここに神秘主義教団を設立し、サファヴィー朝の基を築いた。市中には、シャイフ・サフィー・アッディーンとサファヴィー朝の創始者#イスマーイール1世#の廟があり、これらの廟は#十二イマーム派#の信者の#巡礼#地になっている。,(松本耿郎) 08500,アレクサンドリア,アレクサンドリア,al-Iskandar<印77F5>ya,,アレクサンドロス大王とその後継者により帝国内に多数建設された都市の一つ。アラビア語ではイスカンダリーヤ。ナイル・デルタの北西端に位置し、カイロに次ぐエジプト第2の商業都市。建設は紀元前331年。プトレマイオス朝の首都として繁栄をきわめたが、ローマの支配を経て641年にアラブ軍に征服され、その後しばらくの間経済的にはふるわなかったが、キリスト教徒や#ユダヤ教#徒によるギリシア科学の翻訳が盛んに行われた。10世紀末以降、イスラム文化の中心がバグダードからカイロへ移るにつれて、アレクサンドリアも地中海貿易の拠点として再び活況を取り戻し、13〜15世紀にはベネツィアをはじめとするイタリア商人やマグリブからのムスリム商人が多数来住、人口も約6万5000にまで増大した。#オスマン帝国#支配下ではヨーロッパ人による新航路発見の影響を受けて衰え、再び隆盛期を迎えるのは1869年のスエズ運河開通以後のことである。,(佐藤次高) 08600,アレッポ,アレッポ,<印7CE9>alab,,シリア北部の都市。アラビア語ではハラブ。紀元前20世紀ころから歴史に登場、東西交通の要地にあって、ヒッタイトやエジプト、アッシリアなどオリエント諸国の争奪の地となり、ローマ、ビザンティンの支配を経て、636年イスラム世界の一部に組み込まれた。#ウマイヤ朝#と#アッバース朝#時代は政治的にそれほど重要性をもたなかったが、10世紀半ばにハムダーン朝がここを首都に定めてから宮廷文化の華が開いた。その後、政治的な混乱期を経てザンギー朝と#アイユーブ朝#時代に経済的な繁栄期が到来、市街地も拡大したが、1260年にモンゴル軍によって破壊され、完全な立直りをみないうちに、ペストの流行とティムールの略奪が相次いで衰えた。しかし16〜18世紀にはヨーロッパ・ペルシア貿易の中継都市として再び活況を取り戻し、特産品の織物や石けんを販売して最盛期を迎え、オスマン帝国第3の都市に数えられた。1918年に#オスマン帝国#の支配を脱し、44年にシリア共和国が成立してからも、ダマスクスに次ぐシリア第2の都市として発展を続けている。,(佐藤次高) 08700,アンカラの戦,アンカラノタタカイ,Ankara,,1402年7月28日、トルコのアンカラ近郊で戦われたティムール軍とオスマン・トルコ軍の会戦。1402年3月、冬営地カラ・バーグを出発したティムールは、オスマン軍との対決を目指して小アジアに進み、エルジンジャン、シヴァス、カイセリ、クルシェヒルを経てアンカラに到着、北東郊外のチュブク・オヴァスに陣を張った。これに対してスルタン、バヤジド1世に率いられたオスマン軍は、トカトから急ぎアンカラに引き返したが、わずか1日の戦いで完敗を喫し、バヤジド1世はティムールの捕虜となり、オスマン朝は一時的に滅亡した。バヤジド1世を伴ったティムール軍と別動隊は、ブルサ、イズニク、イズミルをも攻略し、やがて帰途についたが、その途上の03年3月9日、バヤジド1世はアクシェヒルで病没した。このオスマン皇帝の虜囚生活と死はヨーロッパの文学者たちの関心をひき、16世紀イギリスの劇作家Ch.マーローによる戯曲〈タンバレイン大帝〉などの作品を生んだ。,(間野英二) 09100,イエス,イエス,Jesus,,コーランはイエスをマルヤム(マリア)の息子イーサーと呼び、およそ次のように述べる。神は処女マルヤムに精霊を吹き込んで懐妊させ、イエスが生まれた。彼は神から啓典を授けられて民を導き、#奇跡#を行い、後にムハンマドの遣わされることを預言した。#ユダヤ教#徒はイエスを十字架にかけて殺したと主張するが、実は彼によく似た者をはりつけにしただけで、神はイエスをかたわらに引き上げた。コーランはイエスを神の#預言者#、使徒、メシア、神のしもべ、神の言葉(ロゴス)などと呼ぶが、キリスト教徒がイエスを神の子と呼ぶことに鋭く反対し、神が子供を生むことはないとする。後世の伝承(#ハディース#)および#イスラム神秘主義#関係の文献では、キリスト教徒の修道士を下敷きにしたのであろうが、イエスの清貧さが強調され、羊毛の粗衣を着て隠遁生活を送る禁欲主義者の典型として描かれることが多い。,(嶋田襄平) 09400,イクター,イクター,iq<印73F3><印78E6><印78FE>,,#カリフ#や#スルタン#から授与された分与地あるいはそこからの徴税権を意味するアラビア語。その保有者をムクターという。法学者の分類によれば、イクターは「私有のイクター」と「用益のイクター」とに分かれる。前者の授与はすでにムハンマド時代から行われ、歴史史料はこれを同じ分与地の意味でカティーアと呼ぶ。軍人に限らず、官僚や部族民に対して小規模の荒蕪地や耕地が与えられ、より大規模な私有地であるダイアとともに大土地所有形成の基礎となった。ムクターは国家に対する#ウシュル#納入の義務を負っていたが、実際にこれが納入されることはまれであったから、9世紀以降の国家財政はしだいに困窮の度を加えていった。しかも#マムルーク#軍人の台頭に伴うカリフ権力の衰退や官僚機構の弛緩、あるいは軍人に対する俸給支払額の増大などが重なったために、10世紀半ばごろまでには#アッバース朝#の国家財政は完全に破綻していた。ここに、#ブワイフ朝#のイラク征服(946)を契機として、軍人にイクターを授与し、直接土地の管理と徴税権とをゆだねる新しい体制が始まった。これがいわゆる軍事イクター制であり、法学者のいう「用益のイクター」に相当する。
 成立当初の軍事イクター制は、イラクのサワード地帯を対象にして行われた。ブワイフ朝の#大アミール#は、(1)カリフや有力者が所有していたダイアからの徴税権と、(2)民間の小規模なダイアからの政府の取り分とをイクターとして分与したが、(2)も授与の対象とされたところに軍事イクター制の新しさがあったといえよう。軍人たちは俸給の代りにイクター収入を主要な財源とするにいたったが、ムクターの中には、マムルークやダイラム人以外に、大アミールに服属した遊牧民の首長や反乱の指導者も含まれていた。イクター制がやがてイラクからイランやシリア、あるいはエジプトへと広まっていったのは、このようにイクターの授与が国家秩序の形成にも重要な役割を果たしたからにほかならない。次の#セルジューク朝#も、建国当初からブワイフ朝のイクター制をほぼそのままの形で踏襲した。#ニザーム・アルムルク#は、イクター保有権と行政権とが結びついた#アミール#の大イクターについても、軍事奉仕の義務を明確に定めて国家の統制を強化したが、12世紀以後になるとこれらのアミールは自らのイクターを世襲化し、独立化の傾向を強めていった。セルジューク朝の分裂後、イラン・イラクを支配した#イル・ハーン国#は、国庫の欠乏を補うためにモンゴル軍人に対し王室領や遊牧地をイクターとして分与した。14世紀以降のイランでは不入権のあるソユールガールの授与が一般化し、#サファヴィー朝#時代になると、これに加えて一時的な徴税権であるトゥユールも授与されるようになった。しかし、これらはいずれも軍事奉仕の見返りとして国家から授与される土地であって、イクターと本質的に異なるところはなかったといえよう。セルジューク朝の系譜を引くザンギー朝のイクター制は、#サラーフ・アッディーン#によってエジプトに導入された。エジプトではイクターが世襲されることはほとんどなかったが、ザンギー朝の伝統が残るシリアでは逆に世襲が一般的であった。次の#マムルーク朝#でもイクター制は国家と社会を規定する基本制度として機能し続け、軍隊制度の整備に伴ってイクター授与の体系化が著しく進んだ。#オスマン朝#では規模の大小に応じてハース、ゼアーメト、ティマールの3種の土地分与が行われたが、イクターと同じ性格の土地はシパーヒー(騎士)が保持する比較的小規模のティマールであった。しかしトルコのティマール制は、市場経済の変動と地方反乱を経て、16世紀中ごろには早くも解体への兆しを見せ始め、またエジプト・シリアでも、17世紀半ばにはティマール制からイルティザーム(徴税請負)制への全面的な切替えを余儀なくされるにいたった。
 イクター保有権はマンシュールと呼ばれる授与文書によって保証されたが、その授与は、君主に対する服従を条件として、直接軍人に手渡されるのが原則であった。ムクターはイクター収入を用いて配下の騎士を養い、戦時にはこれらの従者を率いて参戦することを義務づけられていた。しかしイクターの規模に応じて従者の数が明確に定められるようになったのは、イラン・イラクではセルジューク朝中期以後、エジプト・シリアではマムルーク朝時代以降のことである。アミールには都市とその周辺や村落がイクターとして与えられ、下位の軍人には村落の一部か、あるいは商品税や通行税などの雑税(マクス)収入が授与された。ムクターの多くは都市に居を構え、収穫期になると、自らの奴隷兵や書記(#カーティブ#)を#ワキール#として農村に派遣した。彼らは租税徴収の権限をもつと同時に水利機構を管理・維持する責任を負っていたが、ブワイフ朝のように政府の統制が弱い場合には、農民の実情を無視した収奪が行われ、農村は荒廃した。また理念のうえでは、イクター保有権は徴税権に限られていたが、実際にはムクターの支配と保護のもとに置かれることによって、軍人への農民の隷属化がしだいに進行した。しかもイクター保有による農村からの富を都市に集中したムクターは、やがて都市の経済をもその勢力下に置くようになった。マムルーク朝時代のエジプトにみられるように、イクターの改廃はスルタンによって自由に行われたにもかかわらず、大ムクターであるアミールは、その権利をかなり私的に行使することが可能だったのである。,(佐藤次高) 09500,イクバール,イクバール,Mu<印7EE5>ammad Iqb<印78E6>l,1877〜1938,現代インド・ムスリムの偉大な詩人、思想家。パンジャーブ生れ。ラホールで大学教育を受け、教職に携わった後、1905年渡英し、ヘーゲル、ニーチェなど西欧近代思想を学び、同時に弁護士の資格を獲得した。このころウルドゥー語、ペルシア語の詩作を始め、イスラムの思想を詩にうたい、また#パン・イスラム主義#思想にも関心をもった。《自我の秘密》(1915)をはじめとする幾つかの詩集は、インド・ムスリムの学生やインテリ層に多大な影響を及ぼした。20年代半ばから政治活動に関係し、ムスリム世論の組織化に努めた。30年の#ムスリム連盟#アラーハーバード大会の議長を務め、その演説でムスリム多住地域を合併して単一の国家を成立させるという構想を打ち出した。当時これは重大な問題として取り上げられなかったが、40年代以降の重要な争点となるパキスタン構想の直接の先駆である。独立後のパキスタンでも国家的詩人として敬われた。,(内藤雅雄) 09700,イジュマー,イジュマー,ijm<印78E6><印78FE>,,スンナ派イスラム法の第3の法源(#ウスール#)の「合意」を意味するアラビア語。「ある特定の時代のウラマーがある新しい事案に対して与える法的判断の一致」として定義される。それは言葉、行為、合意とみなされる沈黙のいずれかによって表明され、理論的にはイスラム教徒全体の合意であるが、実際にはそれぞれの時代の#ムジュタヒド#、10世紀以降は代表的#ウラマー#の合意であり、その意味で#スンナ派#という概念はこのような合意を根拠として成立したといえる。#シーア派#、#ハワーリジュ派#はイジュマーそのものを認めず、#ザーヒル派#、#ハンバル派#、近代の#ワッハーブ派#は、#サハーバ#(ムハンマドの教友)のイジュマーだけしか認めない。ムハンマドに帰せられた「わが#ウンマ#は誤りにおいて合意することなし」という#ハディース#の示すように、イジュマーはウンマの不可謬性への確信となった。現代においても、イジュマーは改革思想の理論的根拠となり、現代的イジュマー理論構成の道が、今なお模索されている。→イスラム法学,(嶋田襄平・柳橋博之) 09800,イシュマエル,イシュマエル,Ishmael,,コーランでは#アブラハム#(イブラーヒーム)の息子イスマーイールとされる旧約聖書の#預言者#。ただし、コーランのメッカ時代の啓示では、イシュマエルがアブラハムの息子であることは述べられず、メディナ時代の啓示において、彼が父アブラハムとともに#カーバ#を建設したとされる。
 後のイスラム教徒の伝承では、アブラハムは妻ハガル、息子イシュマエルとともにメッカに来た。のどが渇いたイシュマエルが泣き叫ぶのを不憫に思ったハガルは、水を求めてサファーとマルワの間を駆足で往復し、これが#巡礼#の儀礼におけるサーイの起源とされる。神はこれを憐れみ、イシュマエルが砂を掘った所に#ザムザム#を湧き出させた。イシュマエルは長じてジュルフム部族の女をめとってメッカに住みつき、後のアラブの系譜におけるムスターリバ、すなわち北アラブの遠祖とされる。,(嶋田襄平) 10700,イスラム神学,イスラムシンガク,<印78FE>ilm al-kal<印78E6>m,,単に#カラーム#とも、あるいは(神の)唯一性の学(イルム・アッタウヒード)、宗教の諸原理(ウスール・アッディーン)ともいい、神学者のことをムタカッリムという。イスラムにおける思弁神学一般を指す。
 イスラムの中でカラームの占める位置は、元来、他宗教における神学や教学ほど本質的に重要なものではなかった。コーランや#スンナ#をとくに重視する保守的なムスリムや一般大衆の間には、新しい用語や概念を用いての神学的思弁は、たとえ正統的信条を弁護するためであっても、もともとなかった「新奇なもの」、すなわちビドア(異端)であるとして反発する根強い傾向があり、カラームがイスラムの中で認知されるまでには長い時間を要した。このような保守的な学者は、自己の伝統的な神学的議論を表すのに、カラームの語がもつ思弁性のゆえに、ウスール・アッディーンの語を好んで用いるようであるが、厳密な区分ではない。
 イスラムにおける最初の主要な関心は何を信ずべきかではなく、何をなすべきかにあった。それはイスラムの場合、信ずべきことが比較的単純であることにもよるが、何よりもムスリムの主たる関心が実践にあったからである。このためカラームの内容は教義の説明・体系化であるよりも、異端・異説に対する護教の学としての性格が強い。
 厳密な意味でのカラームは#ムータジラ派#の登場とともに始まるが、それを生み出した要因は幾つかある。まず、#ハワーリジュ派#がその過激な分派的反体制運動によって提起した信仰と罪の関係、救済と行為の関係、さらにこれと関連して現体制の是非、というきわめて現実的な問題があった。ハワーリジュ派は「信仰=行為」という前提から、罪によって信仰は消滅するとして、「罪を犯した」現体制を否認した。これに対して#ムルジア派#は、信仰と行為を切り離し、罪によって信仰はなんら消滅しないとして現体制を是認する立場をとっていた。第2に、自由意志と予定の問題がある。コーランにはこの両方の主張が並列的に述べられているが、アラブに伝統的な運命観とイスラムにおける神の力の絶大性とが結合して、初期ムスリムの間に著しい予定説的傾向がみられた。この傾向を極端な形で代表するのがジャブル派である。これに対して#カダル派#は、人間の倫理的責任と自由意志を強調していた。第3が聖典解釈の問題であった。コーランや#ハディース#は一種の詩であって神学書ではない。そこには相矛盾するような箇所があり、擬人的表現や具体的感覚的表現が多い。これを神の唯一性(#タウヒード#)にふさわしいようにいかに解釈するかの問題である。まずハシュウィー派は聖典の表現を文字どおりに解して、神を人間と同様に理解した。これに対してジャフム派はそのような表現をすべて比喩とみて、比喩的解釈(ターウィール)を認めて対立していた。第4が異教徒とくにキリスト教徒や#マニ教#徒との論争であり、ヘレニズムとくにギリシア哲学の翻訳の影響である。
 こうして他の宗教・文化との接触や影響によってもたらされた新しい概念や思弁を用いて、共同体内に提起されたさまざまな問題を、一貫した体系の中で解決していこうとして出てきたのがカラームであり、その最初の試みがムータジラ派によってなされた。#ハンバル派#に代表される伝統主義的保守派が、理性と啓示の「矛盾」に際しては理性的判断を中止して、啓示をそのまま「様態のいかんを問わず(ビラー・カイファ)」受け入れたのに対して、ムータジラ派はこれを理性によってあくまで説明しようとしたのである。こうしてムータジラ派は神の唯一性の問題については、ジャフム派の流れを受け継ぎながら、ひたすら神と被造物との隔絶性を強調し、神の本質におけるいっさいの多性を否定する絶対的唯一性の立場から属性の存在を否定し、それを神の本質がもつ諸側面に還元した。他方、神の正義については、カダル派の流れを受けつつ理性の立場からこの問題をとらえ、人間の不正・罪・悪は神とは無関係であり、人間自身の自由意志の結果であるとして、人間の倫理的責任を強調した。ムータジラ派のこの合理主義的立場に対する反動として、同じ神学的思弁を用いつつも、伝統主義者たちの伝統的信条を弁護したのが#アシュアリー派#であり、#マートゥリーディー#派である。彼らは神の唯一性の問題については、神の本質とは「同じではないが、また別のものでもない」ものとして、本質に内在する属性の存在を証明し、神の人格性と超越性とを調和させようとする。神の正義の問題については、ムータジラ派が人間は啓示によらなくても理性によって一般的には行為の善悪を判断できるという倫理的客観主義の立場をとるのに対して、これら両派は善悪の判断基準は啓示によって初めて明らかにされるとして有神論的主観主義の立場をとる。こうして人間の理性を超越した神の絶対性を強調する予定説の立場から、これを人間の倫理的責任の問題と調和させようとする。元来、これら両派に代表されるカラームは、哲学(ファルサファ)とは別であったが、11世紀にアシュアリー派の#ガザーリー#が哲学を批判的に吸収して以来、徐々にその思弁の度を深め、ますます哲学に接近するようになる。→イスラム神秘主義、イスラム哲学,(中村廣治郎) 10800,イスラム神秘主義,イスラムシンピシュギ,ta<印7CE3>awwuf,,欧米では一般にスーフィズムの名で呼ばれているが、この語は#スーフィー#にイズムを付してつくられたものである。#タサウウフ#もスーフィーを語根としてつくられた第5型動詞の名詞形で、元来は「スーフィーとして生きること」を意味した。スーフィーとはアラビア語で神秘家を意味するが、この語の語源については諸説がある。しかし、今日では、アラビア語の羊毛を意味するスーフから派生したものと一般に認められている。スーフィーとは、元来「羊毛の粗衣を着用した者」のことであった。世間の虚飾を離れ、懺悔の表徴として羊毛の粗衣を身にまとい、清貧の中に生きようとするムスリムを意味したのである。
 このことは、スーフィズムと禁欲主義が無関係でないことを示している。しかし、スーフィズムにおいて修行とは、禁欲主義におけるようにそれ自体が目的なのではなく、人間が神に接近するための準備なのである。それはまず、自己の行為を形式的倫理的に神の命令・意志に一致させるだけではなく、内面的にも自己と神とを隔てるいっさいのものを取り除くことにある。そのためにスーフィーは、通常のムスリム以上に神の法(#シャリーア#)と使徒の#スンナ#を厳しく守るだけではなく、さまざまな禁欲的修行によって、現世、すなわち神以外のいっさいのものへの執着を断ち切り、ひたすら神を求めるよう努力する。さらに不断のコーラン読誦、#礼拝#、祈り(#ドゥアー#)、瞑想、#ジクル#などによって常に神を思念し、神とともに生きるように努める。この修行の道程については後に理論的反省が加えられ、修行者のたどるべき道としての神秘階梯(マカーマート)がまとめられる。第1が懺悔・回心、第2が律法遵守、第3が隠遁と独居、第4が清貧と禁欲、第5が心との戦い、第6が神への絶対的信頼である。修行者は導師(ムルシド、#ピール#)の指導を受けながら、これらの階梯を一つ一つ昇ってゆく。こうして倫理的な面での準備ができると、いっさいの雑行や雑念を去り、ひたすら神の名を唱えて思念を神に集中するジクルの段階に進む。こうして波一つ立たない水面のように心を無にして、神の恩寵をひたすら待つのである。やがてジクルの対象、ジクルの主体、ジクルの行為という区分が消滅し、ジクルの対象である神が主体の心を完全に圧倒し包摂し尽くして、自己をまったく意識しない忘我の状態に入る。これがスーフィーの間でファナー(消滅)と呼ばれる神秘的合一体験である。それは、神そのものとの一種の触合いの体験である。この状態は長くは続かないが、無上の歓喜として、またまったく新しい世界の開示として、スーフィーの心に強力な作用を及ぼす。いまや彼は「愛するもの」(神)への愛と苦悩にとりつかれ、再会を熱望する。こうしてファナーの繰返しによって神への愛が深められ、神との「親しさ」が増す。いまやスーフィーは何を考え何をしても、自己と神との間で意志のうえでの不一致はなくなる。これがスーフィーの#聖者#である。
 歴史的にはスーフィズムは、キリスト教、ヘレニズム(新プラトン派の思想)、インド思想などの影響のもとに生成・発展したことは否定しえないが、本質的にはイスラム内部に生じた問題に対する一つの対応であった。初期の禁欲主義がムスリム全般の富裕化に対する一つの反動であったように、それはシャリーアの形式主義化と神学的思弁による神の非人格化に対する反動とみることができよう。スーフィーは#ウラマー#の形式主義に対する批判として、行為の動機を重視した。しかし、内面性を強調するあまり、時としてシャリーアを無視する者さえ出て、ウラマーの批判を招き、両者の関係は緊張していた。このような状況の中で#ガザーリー#らスーフィーの理論家たちは、神秘主義が決してシャリーアに反するものでないことを弁護した。このような護教家の努力と聖者の#奇跡#の威力によって、スーフィズムは徐々に一般に認められてきた。
 思想史的には、初期のスーフィーの理論家たちの関心は、おもに修行論と結びついたスーフィーの内面の心理分析であったが、やがて#ハッラージュ#やイブン・アルファーリドのように、スーフィーが垣間見た高い境地である一元的世界を詩によって表現するようになる。これはとくに#ルーミー#において頂点に達するペルシア詩の世界に引き継がれていく。他方では、#イブン・アルアラビー#のように、それを形而上学的思弁によって表現しようとする者も出てきた。すべてを存在において一つとみるワフダ・アルウジュード(存在一元論)、個我の意識を去って神の意志に完全に同化した「完全人間」(インサーン・アルカーミル)、その典型としての預言者ムハンマド、およびムハンマドの先在的ロゴスの理論などがその帰結である。→イスラム神学、イスラム哲学,(中村廣治郎) 10900,イスラム哲学,イスラムテツガク,,,イスラム哲学とは、イスラム教徒の哲学的業績全体を指して、近代のイスラム研究者がつけた名称である。イスラム世界にはファルサファ(哲学)という学問分野が存在するのみである。これはギリシア語のphilosophiaがアラビア語化したものである。ただし、近年イスラム世界に西欧哲学やその他非イスラム文化圏の思想が紹介されてから、これらと区別するために、イスラム教徒自身がイスラムの伝統的哲学をイスラム哲学と呼ぶこともある。この哲学の伝統は、7世紀にイスラム教徒により征服された中東諸国に存在していたヘレニズム哲学の遺産をイスラム文化が継承し、新興イスラム帝国治下でその研究が大いに奨励されたことに由来する。イスラム教徒による哲学研究の開始当初は、とくにギリシアの思想家の著書のアラビア語への翻訳に重点が置かれた。#アッバース朝#カリフ、#マームーン#はバグダードに#バイト・アルヒクマ#を建てて、この翻訳活動を推進した。これらの翻訳活動のうちで、とくにアリストテレスに関しては、その著作の大部分がアラビア語に訳されて研究されるようになった。しかし、こうしてアラビア語訳されたアリストテレスの作品は、テミスティオスのような新プラトン主義者の解釈を根拠に紹介されたので、イスラム世界におけるアリストテレスの哲学は、新プラトン哲学の色彩を濃く漂わせたものになった。このようなかたちでアラビア語に紹介されたアリストテレスの研究が、イスラム世界での哲学研究の主流になった。
 初期イスラム哲学界において顕著な活躍をした人は#キンディー#である。彼はアッバース朝の保護下にギリシア哲学の翻訳研究を指導した。後世のイスラム思想に絶大な影響を与えた偽書《アリストテレスの神学》の翻訳出版も彼の指導のもとに行われた。キンディーは#ムータジラ派#神学とも深い関係をもっていた。彼は新プラトン哲学的世界観を有しつつ、宗教と哲学の調和を説く。そして宗教的真理と哲学的真理の同一を説き、しかも宗教的真理を哲学的真理より上位とみなした。イスラム哲学は、コーランを真理の唯一の根拠となす#イスラム神学#・#法学#と緊張関係をもちつつ発展していく。キンディーに次いで#ファーラービー#が現れた。彼はイスラム哲学における存在論の開拓者である。彼も新プラトン派的世界観の中にアリストテレスの形而上学を組み込もうとする。ファーラービーは#シーア派#イスラムと深い関係をもっていた。彼はその世界観を骨子に理想国家像を提示してみせるが、それはシーア派の#カリスマ#的宗教国家観の形成に寄与している。
 10世紀になると、イスラム世界に#スンナ派#イデオロギーとシーア派イデオロギーがおのおの明確な姿をとって定着するようになった。コーランと#スンナ#を最高価値とみなし、これを社会秩序の根拠として絶対視するスンナ派は、コーランとスンナを宇宙論の根拠とみて、それらから哲学的意味を導出しようとするシーア派と対立した。そこで世界観の確立を欲する哲学者の多くは、シーア派の保護を受けるようになる。このためスンナ派の神学者は、哲学に対し激しく攻撃を加えるようになる。ファーラービーに次いで現れた#イブン・シーナー#は、アリストテレスの哲学的研究から出発して独自の存在論を確立し、後世のイスラム哲学に絶大な影響を与えた。彼の著作の大部分はラテン語訳され、中世ヨーロッパのスコラ哲学に深い影響を与えている。トマス・アクイナスの存在の形而上学や超越概念論は、イブン・シーナーの説を継承発展させたものである。イブン・シーナーの存在論・宇宙論は、やがて#十二イマーム派#の神学に摂取される。スンナ派の神学者#ガザーリー#は、《哲学者の矛盾》を著してイブン・シーナーらの哲学者の説の主要部分を分析批判し、あわせてシーア派神学の根拠を論破しようとしている。ガザーリーの哲学批判以後スンナ派世界では、イベリア半島のイスラム教国における#イブン・ルシュド#のアリストテレス研究を除いて、あまりみるべき業績がなくなった。イブン・シーナーによってイスラム哲学における存在論の独自性が確立されたといえる。彼が存在をアプリオリな認識対象としたことにより、イスラム哲学では存在論と認識論が統一的次元で論じられるようになる。そして存在論と認識論が統一的にとらえられることから、やがてイスラム哲学は神認識を目指す神秘思想に接近してくる。この点、西欧の哲学が近世になって存在論と認識論の分裂を引き起こしているのと対照的である。
 イスラム哲学における存在論・認識論・神智学の統合は、#イブン・アルアラビー#の思想において確立される。このような哲学的営みは、シーア派の世界で保存され、とくに十二イマーム派の神学が#スフラワルディー#の照明哲学やイブン・アルアラビーの神智学を摂取し、単なる護教論としての神学からアカデミックな哲学へと発展を遂げていく。このような十二イマーム派哲学の形成に寄与した人は、ミール・ダーマードである。さらに#モッラー・サドラー#は、ミール・ダーマードの業績を引き継ぎ、これを完成の域に到達させたのである。十二イマーム派の教学の中の一部として生命を維持し続けたイスラム哲学の伝統は、近世のサブザワーリーによりさらに洗練・深化され、現代のアーシュティヤーニーに受け継がれている。→イスラム神学、イスラム神秘主義,(松本耿郎) 11000,イスラム同盟,イスラムドウメイ,Sarekat Islam,,インドネシアで最初の大衆的民族解放運動団体。サレカト・イスラムと呼ばれる。1911年中部ジャワのスラカルタに始まり、急速にインドネシア各地に地方組織が形成された。当初は相互扶助団体の性格が強かったが、間もなく人民の不平不満の解決や協同組合設立の促進など、広く人民の社会経済的利益を代表するようになり、16年ころからは活発な政治活動も行うようになった。中央指導部や一部の地方組織は#チョクロアミノト#など貴族出自で洋式教育を受けた在野の知識人に指導されたが、全体としてはさまざまな性格の地方組織の寄合世帯で、西洋近代的進歩、土着的相互扶助、イスラムの三つの価値観が並立していた。18〜20年の民族運動の高揚において中心的役割を担い、独立や社会主義を掲げるにいたった。最盛期の19年には、二百数十の地方組織に200万以上のメンバーを擁したといわれるが、同年生起した西部ジャワのタシクマラヤ地方の指導者たちが反乱謀議を疑われたB支部事件をきっかけに、オランダ政庁による弾圧と組織の崩壊が始まり、20年代に入ると急速に衰退した。21〜23年にイデオロギー的にはイスラム近代主義を前面に立て、同盟内の共産党員を追放し、ムハンマディーヤと密接に協力するようになり、組織名をイスラム同盟党(PSI)と改めた。しかしこの間に大衆運動の指導権は共産党に移った。26年ムハンマディーヤと袂を分かち、29年インドネシア・イスラム同盟党(PSII)と改名した。20年代以後植民地時代を通じて、政庁に対する非協力路線を貫徹した唯一の政党である。独立後もイスラム近代派の政党として小勢力にとどまり、55年総選挙では得票率3%であった。スハルト体制下ではイスラム系野党の開発統一党に統合されたが、99年独自政党になった。,(深見純生) 12000,犬,イヌ,,,犬はイスラム法において、不浄な動物とみなされている。このため犬を意味するアラビア語カルブは、他人をののしるのに用いられる。犬の肉は食べてはならない。#ハディース#によると犬がなめた食べ物は不浄とみなされ、犬が口をつけた水は沐浴に供してはならない。犬がなめた器類は何回も洗い、さらに砂で浄化する必要がある。犬が入った部屋は全体が不浄で、犬がいる家には#天使#は訪れない。#礼拝#所に犬が入ると礼拝は無効となる。とくに黒犬は悪魔とみなされ、危険視され、殺害すべきものと考えられている。ただし、狩猟、牧羊、見張りなどの目的で犬を飼うことは許される。他方、アラブは犬の優れた性質、人間への忠誠さに注目してきた。ムハンマド自身、渇きに苦しむ犬に水を与えた婦人に対し、神のほうびを約束したといわれる。カズウィーニーは犬を「きわめて賢く、有用な動物である」と述べており、#ジャーヒズ#は《動物の書》の中で、犬の有用性に多くのページをさいている。,(池田修) 12100,イバーダート,イバーダート,<印78FE>ib<印78E6>d<印78E6>t,,「崇拝」「服従」を意味するアラビア語イバーダの複数形。信仰を具体的に表明する信者の行為のうち、神への奉仕にかかわるものを指す。イスラムの法学書はつねにイバーダートの章から始まるが、そこで扱われているのはタハーラ(礼拝の前の浄め)、#礼拝#、#断食#、#ザカート#、#巡礼#、#ジハード#で、タハーラを#シャハーダ#に替えてジハードを除いたのが五柱(#六信五行#)である。,(嶋田襄平) 12200,イバード派,イバードハ,Ib<印78E6><印77F6>,,最初の指導者アブド・アッラーフ・ブン・イバードの名によって名づけられた#ハワーリジュ派#の穏健な一派。彼らは#イブン・アッズバイル#の支配を受け入れてバスラにとどまり、第2次内乱の平定(692)後は#ウマイヤ朝#の支配を甘受した。また#タキーヤ#を認め、コーランに#ハッド#と定められた罪を犯した者はムーミン(信者)ではないが、ムワッヒド(一神教徒)であるとして、同じイスラム教徒としての共通性を重視した。このことから、彼らはイスラム思想史上初めて人間の罪の問題を取り上げ、のち#カダル派#がこれを受け継いだ。イバード派は8世紀の初め北アフリカに伝えられ、#ルスタム朝#を建国した。他のハワーリジュ諸派は現在すべて消滅したが、イバード派だけはリビア西部のトリポリタニア、南部アルジェリア、オマーン、オマーンから17世紀に伝えられたザンジバルに少数の信者が存在する。,(嶋田襄平) 12600,イフワーン・アッサファー,イフワーン・アッサファー,Ikhw<印78E6>n al-<印7EF8>af<印78E6>',,「純粋な兄弟たち」を意味し、#イスマーイール派#の宗教的政治秘密結社。その成立年代は明らかではないが、10世紀にイラクのバスラを本拠として活躍した。イスマーイール派運動に理論的根拠を与えるために同派に属した哲学者・思想家がこの組織を結成し、10世紀後半に共同執筆によって《ラサーイル・イフワーン・アッサファー》という膨大な百科全書的教書をアラビア語で著した。この教書は4部52編からなり、第1部は序論・数学・論理学、第2部は霊魂論・自然哲学、第3部は形而上学、第4部は神秘学・占星術などを扱っている。新プラトン派の強い影響を受け、イスマーイール派教義とギリシア哲学との融合を意図して執筆されたこの書は、イスラム世界の思想家たちに非常な影響を及ぼし、11世紀初めにはスペインにまで及んだ。#アッバース朝#カリフは異端の書として焚書を命じたが、作品は生き残った。,(黒柳恒男) 12800,イブン・アルアシール,イブン・アルアシール,Ibn al-Ath<印77F5>r,1160〜1233,アラブの歴史家。ザンギー朝の高官の家に生まれ、大半をモースルで過ごす。#メッカ#巡礼#途上、また#カリフ#ヘの使節としてしばしばバグダードを訪れ見聞を広めた。#サラーフ・アッディーン#の軍隊に同行して、#十字軍#との戦闘に参加したこともある。父と彼自身の知見をもとにザンギー朝史を著した。また大著《完史》は、1230/1年までのイスラム世界の通史で、現在では散逸した史料に基づいているところもあって貴重である。,(清水宏祐) 12900,イブン・アルアラビー,イブン・アルアラビー,Ibn al-<印78FE>Arab<印77F5>,1165〜1240,イスラム神秘思想家。南スペインのムルシアに生まれ、北アフリカ、西アジアに宗教的遍歴生活を続けたのちダマスクスで没した。その存在論的認識哲学を骨格とした宇宙論的神智学は、彼以後のイスラム世界の精神的地貌を決定したといわれるほどに後世に深い影響を与えている。彼にとって、自然現象・啓示・精神現象の諸相は、すべて超越的唯一者「神」の自己開示の手段としての象徴として見据えられる。これらの象徴の認識と解釈の段階的深化を通じて、諸現象の存在の相は、あたかも光源を覆うベールが取り去られるように、より真相に近い姿を現してくる。それと同時に、認識もより高次のものへと上昇する。この方法による存在認識の徹底の極に、神との合一が達成される。しかしこの合一境は、個の消失を意味するのではなく、神的存在と個別的存在との根源的存在次元における連続性の、認識論的回復である。あらゆる認識次元を超越したこの存在認識から、宇宙生成の存在論的解釈が提起される。これがイブン・アルアラビーのワフダ・アルウジュード(存在一性論)と呼ばれているものである。主著は《メッカ啓示》、《叡智の台座》、《天球の創造》。,(松本耿郎) 13000,イブン・アルハイサム,イブン・アルハイサム,Ibn al-Haytham,ca.965〜1039,ラテン名アルハーゼン。数学と観察実験に秀でた物理学者。バスラに生まれ、ナイル川の水位を調節しうると称して、#ファーティマ朝#のカリフ、#ハーキム#に招かれたが、その不可能なことを知り、狂人を装って科学研究に専念した。カイロで没。物理学・数学・天文学・医学・哲学についてきわめて多くの著作をものした。中でも《視覚論》では、眼の解剖学的記述を行い、また反射光学や屈折光学の複雑な問題を解いた。この書物はラテン語訳されて西欧世界に伝えられ、R.ベーコン、ウィテロ、J.ケプラーなどに大きな影響を与えた。,(伊東俊太郎) 13100,イブン・アルファーリド,イブン・アルファーリド,Ibn al-F<印78E6>ri<印77F6>,1181〜1235,#イスラム神秘主義#詩人。カイロに生まれ、同市に没す。イスラム神秘主義文学の代表的詩人の多くはペルシア系の作家によって占められているが、イブン・アルファーリドはこの分野におけるアラブ系作家として稀有の存在である。極度に洗練された技巧を駆使して、「神への愛」「神の美」を主題にした頌詩をうたっている。彼の詩は「真実在」「聖美」にいたる道程を示しながら、1句1行が美と真理の光輝を発している。主著は《イブン・アルファーリド詩集》。,(松本耿郎) 13500,イブン・シーナー,イブン・シーナー,Ibn S<印77F5>n<印78E6>,980〜1037,ラテン名はアヴィケンナ。イスラム哲学者、医学者。ブハーラー近郊に生まれ、ハマダーンで没した。幼少のころから天才を発揮し、18歳の時には形而上学以外の全学問分野に精通し、医師としても名声が高まった。やがてアリストテレスの形而上学研究に手を染め、ついに独自の存在の形而上学を完成した。彼の父が#イスマーイール派#の同調者であったため、彼自身もこの運動に共感をもっていた。多くの諸侯の知遇を得たが、若年の天才に対する世間の嫉妬やイスマーイール派との関係のため、時に王侯の宮廷で高位を得ることもあったが、絶えず身の危険を感じながら放浪の生涯を送った。著作は多岐にわたるが、とりわけ哲学者として存在論の発展に寄与した。彼は外界も自己の肉体もなんら知覚しえない状態で空中に漂う「空中人間」の比喩により、自我の存在がアプリオリに把握されるとする。他方、存在を本質との関係でみると、存在は本質にとり偶有であると主張する。このため、ものの本質はその現存以前にそれとは別な状態で存在すると結論し、この状態の本質を本性と呼ぶ。存在可能者の本性が現存者になるには、その存在を必然化する原因が要求され、この原因により現存する存在者は、当然、必然的性質を有することになる。こうして、現存するものはすべて必然的であるという結論が導入されたのである。しかし、真に必然的な存在は神のみであるから、現存者の存在が必然性を帯びてみえるのは思惟の領域にとどまる。外在における存在者はあくまで偶存であり、偶存であることが本質であるとされる。存在の真相についての彼の思索は、やがて彼を神秘的直知による把握へと導いていく。しかしながら、彼が晩年に目指した神秘主義哲学に関する著作は、散逸し全貌を知ることができない。彼の存在の研究は、弟子のバフマンヤール・ブン・アルマルズバーンらに継承され、やがて#モッラー・サドラー#らの後期イスラム思想家たちにおいて開花する。また形而上学、医学の著書は、中世、西欧にラテン語訳され、トマス・アクイナスの存在論・超越論に大きな影響を与えた。その医学書《医学典範》は17世紀ころまで西欧の医科大学の教科書に使用されていた。哲学上の主著は《治癒の書》。→イスラム哲学,(松本耿郎) 13600,イブン・ジャマーア,イブン・ジャマーア,Ibn Jam<印78E6><印78FE>a,1241〜1333,#シャーフィイー派#の法学者。#マムルーク朝#時代のカイロとダマスクスの大カーディーを務めた。再度のモンゴル軍の西アジア侵略により、イスラム世界の崩壊の危機を感じた彼は、イスラム法を中心に置いた強力な独裁君主国家の建設を夢見た。「権威は無政府状態に勝る」として暴君の存在を容認し、さらに軍事的指導者が自ら宗教的指導者である#イマーム#の職をも兼任する状態を理想とした国家論を展開した。主著は《イスラム教徒の国家運営論》。,(松本耿郎) 13800,イブン・タイミーヤ,イブン・タイミーヤ,Ibn <印75E7>aym<印77F5>ya,1263〜1328,#ハンバル派#の法学者、神学者。ハッラーンで生まれ、ダマスクスで没した。彼の一生は、その厳しい思想のために、#ウラマー#や#スーフィー#たちとの論争や、権力者による投獄などの迫害との闘争の連続であった。彼は神と人間の絶対的不同性を強調し、神秘的な神との合一を否定した。人間の最高の目的をイバーダ、すなわち神への奉仕にあるとして、その基礎を#シャリーア#(イスラム法)の絶対性とその完全な遂行に置いた。このような立場から、スーフィー的な汎神論や世俗的権力に追従するウラマーの堕落を鋭く攻撃して両者の反感を買った。コーランと#スンナ#こそ信仰の基本であり、シャリーアの源だとしてその原点に戻ることを強調する彼の思想は、18世紀の#ワッハーブ派#を生み出し、近・現代のムスリム改革主義者の出発点となっている。,(湯川武) 13900,イブン・トゥファイル,イブン・トゥファイル,Ibn <印75E7>ufayl,ca.1105〜85,西方イスラム世界の哲学者、医師。ラテン名はアブバケル。グラナダ近郊に生まれマラケシュで没。長く#ムワッヒド朝#のカリフ、アブー・ヤークーブ・ユースフに宮廷医師として仕え、1182年その職を#イブン・ルシュド#に譲って引退した。若干の医学書を残しているが、とくに哲学小説《ヤクザーンの子ハイ》(覚めた者の息子、生きた者の意)の著者として有名。それは絶海の孤島で独力の思想的営為の末、哲学的英知を達成した老人と、無知な群衆が伝統的で因習的な宗教に満足しているのを嫌って、別の島から脱出してきた若者とが意気投合し、無知な群衆に真理を説き聞かせるため若者の島を訪れたが、そこでは2人の教えをめぐって不和と争いが起こり、2人は絶望して孤島に帰っていくというものである。キリスト教徒への#ジハード#と、#ザーヒル派#の法学とに圧殺されていた当時のムワッヒド朝下の哲学者の苦悩が、小説という形で吐露されたアラブ文学の傑作である。,(松本耿郎) 14200,イブン・バーッジャ,イブン・バーッジャ,Ibn B<印78E6>jja,?〜1139,哲学者であると同時に、#ムラービト朝#の#ワジール#としても活躍した。ラテン名はアヴェンパーケ。スペインのサラゴサに生まれた。ムラービト朝のワジールであった時、敵対者たちの手により、モロッコのフェスで若くして暗殺されたと伝えられている。《孤独者の嚮導》《人間の目標》等の哲学論文は未完のままで残されている。
 イスラム哲学史においては、#イブン・ルシュド#に先駆け、「知性唯一説」を唱えた人として注目される。彼は哲学から感情的要素を極力排除し、理性の厳密な行使によって、人間は「能動理性」との一致境という最高の幸福を達成しうると主張した。神秘思想家の説く感情的陶酔境を嫌い、純理性的澄明平静境を好み、孤立を尊ぶ。孤立して生きることが哲学的生の完成の第一歩であると考えている。彼はアンダルスの主知主義的哲学の伝統の創始者とみなされている。,(松本耿郎) 14400,イブン・ハルドゥーン,イブン・ハルドゥーン,Ibn Khald<印7CF3>n,1332〜1406,イスラム世界を代表するアラブの歴史家。チュニス生れ。祖先は南アラブ系でセビリャの支配貴族であったが、13世紀半ばにチュニスに亡命した。幼くして諸学を修めた後、北アフリカ、イベリア半島の諸スルタンに仕え、波乱万丈の政治生活を送ったが、その悲哀を感じて隠退するとともに、膨大な《歴史序説》と世界史に当たる《イバルの書》を著した。1382年、#マムルーク朝#下のカイロに移住し、学院の教授になったり、#マーリク派#の大カーディーとして裁判行政に尽くしたりしたが、その間、ティムールの西アジア遠征に対する防衛軍に加わり、ダマスクス郊外でティムールと会見したことがある。彼を有名にしたのは、《歴史序説》に書かれた社会理論のためで、彼は人間社会を文明の進んだ都会とそうでない田舎としての砂漠に分け、そこに住む人間は生活環境の違いから、後者のほうが前者よりもより強力な結束力をもつ社会集団を形成しやすく、そこに内在する連帯意識(#アサビーヤ#)が歴史を動かす動因となる。遊牧生活を送っている連帯集団は支配権への志向をもっていて、やがて発展し#都市#に根拠を置く支配国家を征服、新しい国家を建設する。しかし都会に生活の場を置いたこの集団は、文明の発展とともに連帯意識を喪失、やがて新たな連帯集団に征服される。彼は以上のような理論を展開するとともに、政治・社会・経済の諸要因の鋭い分析を行っている。彼のこのような思想は、後世の学者たちに少なからず影響を与えたようで、彼の講義を直接聴聞したマムルーク朝時代の学者たちの中でも、歴史家#マクリージー#に最も強く認めることができる。しかしマムルーク朝の滅亡とともに、イブン・ハルドゥーンの存在もアラブ世界では忘れられた。彼の思想や歴史観が再評価され出すのは16世紀末以降の#オスマン朝#下で、19世紀にいたるまで、学者や政治家たちがなんらかの影響を受けた。もっとも彼の社会理論を凌駕するような思想をもつ真の意味の後継者は現れなかった。,(森本公誠) 15000,イブン・ルシュド,イブン・ルシュド,Ibn Rushd,1126〜98,西方イスラム世界の代表的な哲学者、医学者。ラテン名はアヴェロエス。コルドバに生まれ、マラケシュで没。#マーリク派#法学者の家に生まれて法学・哲学・医学の研究を重ね、1182年#ムワッヒド朝#のカリフ、アブー・ヤークーブ・ユースフの宮廷医師およびコルドバの大カーディーとなり、指導的な学者として権勢を誇った。しかし、その息子ヤークーブ・アルマンスールがカリフになると、#ザーヒル派#法学者が力を得て、イブン・ルシュドはしだいに宮廷内で力を失い、一時コルドバ郊外に隠棲したが、晩年に再度君主の寵を回復し、マラケシュの宮廷に仕えた。その著作は、医学・哲学・法学等の多岐にわたる。彼の哲学書の多くは、13世紀にラテン語訳され、西欧中世思想に絶大な影響を与えた。哲学者としてイスラム世界に伝えられたアリストテレス思想の原像の再現に努力し、#ガザーリー#に批判されたアリストテレス哲学の復権を企図した。彼の思想は、アリストテレス哲学に忠実であろうとしつつも、新プラトン派の影響をぬぐいきれない。それゆえ、世界の生成について発出説をとる。すなわち、神の第一知性から順次発出が繰り返され、それは最後に質料的知性となり人間に現れる。この質料的知性は知的努力と成長に応じて、能動理性の地位にまで到達しうるとする。肉体が滅びると発達の極に達したこの知性は、能動理性と合体し、永遠の存在となりうると主張している。彼は能動理性の域に達した人間として、優れた哲学者や#預言者#を考える。しかし、彼は哲学者が純粋観念として把握する真理を、預言者は象徴的表象で表現するという。これが西欧中世思想における二重真理説の源となった。彼は生涯を通じ哲学と宗教の調和に腐心し、人間の主体的な知的活動の価値を肯定しようとした。しかし、彼の思想の後継者はイスラム世界に現れず、かえって西欧ルネサンスの思想に寄与した。彼はアリストテレスの哲学書のほとんどすべての注釈を著したが、ほかに哲学書として《宗教と哲学の調和》、《矛盾の矛盾》、医学書に《医学大全》がある。,(松本耿郎) 15100,イマーム,イマーム,im<印78E6>m,,コーランで、「規範」「指導者」を意味し、その後は規模の大小を問わず、イスラム教徒の集団の指導者を意味するアラビア語。「イマームであること」「イマームの位」をイマーマという。イマームは、次の四つの意味に用いられる。(1)集団礼拝の指導者。各地の#モスク#には専属のイマームがいるが、それは聖職者でなく、特別の資格も必要とせず、正しい#礼拝#の方法を心得ていればよい。(2)#スンナ派#では#カリフ#と同義語。(3)#シーア派#ではその最高の指導者。彼は#アリー#の子孫でなければならず、スンナ派のカリフと違って教義決定権と立法権が認められ、しかも不可謬であると信じられている。(4)スンナ派、シーア派を問わず、とくに学識の優れた学者の尊称。ただしシーア派では、この用い方は不敬であるとする考え方が強い。
 イマームを特定の人物の称号として最初に用いたのは過激シーア派のカイサーン派で、#ムフタール#はムハンマド・ブン・アルハナフィーヤをイマームおよび#マフディー#と奉じ、クーファで反乱を起こした。反乱が鎮圧され、700年にムハンマドが没した後、カイサーン派の主流はムハンマドが隠れイマームとなり、最後の審判の日に地上に再臨して正義と公正とを実現すると説いた。他の者は、ムハンマドのイマーマは息子のアブー・ハーシムに伝えられ、彼は716年の死の直前、それをアッバース家のムハンマドに譲ったと主張した。その後アッバース家の当主はイマームと称したが、#サッファーフ#がカリフの位につくに及び、イマームという称号をやめた。しかし、シーア派との宥和政策をとったカリフ、マフディーと#マームーン#はイマームを正式の称号とした。そのころまでに、イマームという語と観念は、シーア派一般に採り入れられたが、アリーの子孫であっても、だれをイマームと認めるかによって、シーア派は諸派に分裂した。→シーア派,(嶋田襄平) 15200,イマーム・アルハラマイン,イマーム・アルハラマイン,Im<印78E6>m al-<印7CE9>aramayn,1028〜85,#アシュアリー派#の神学者、#シャーフィイー派#の法学者。#セルジューク朝#のワジール、クンドリーの迫害を受け、一時、ホラーサーンからメッカ、メディナの聖都に逃れ、ここから「二聖都(ハラマイン)の師(#イマーム#)」と呼ばれた。#ニザーム・アルムルク#に迎えられ、ニーシャープールの#ニザーミーヤ学院#で教鞭をとり、#ガザーリー#をはじめ多くの優れた学者を育てた。,(中村廣治郎) 15300,イマームザーデ,イマームザーデ,im<印78E6>mz<印78E6>de,,語義的には「#イマーム#の末裔」の意味であるが、通常、イマームの子孫もしくはそう信じられた人物を埋葬した、イラン全域に見られる聖祠のこと。#シーア派#イスラムの、とくに女性にかかわる信仰生活は、イマームザーデあるいはそれと類似の機能をもつピール(聖者祠)、あるいはカダムガー(足跡祠)、ジヤーラトガー(巡礼祠)などを中心に営まれているといっても過言でない。テヘラン南方郊外のシャー・アブドル・アジーム、シーラーズのシャー・チェラーグのように、広く全土から#巡礼#者を集める立派な建造物を伴う著名なものから、村外れの墓地に立つ小さなもの、あるいは山腹に単に石を積んだだけのケルン状のもの(普通ピールと呼称)まで、その形態はさまざまである。今なお、古来の樹木・岩石崇拝、#ゾロアスター教#にさかのぼる拝火・聖水信仰の痕跡を色濃く残しているものも多い。特定の起源物語(夢のお告げなど)をもつものもみられる。お参り、願掛け、特定日のお籠りなどが行われる。→墓、マザール,(上岡弘二) 15400,イマーム・レザー,イマーム・レザー,Im<印78E6>m Re<印7CE2><印78E6>,765〜818,#シーア派十二イマーム派#第8代イマーム。第7代イマームの子として生まれ、799年に#イマーム#に即位。#アッバース朝#カリフ、#マームーン#のシーア派宥和政策でメディナからメルブに招かれ、817年に#カリフ#の継承者に任命されたが、アッバース家側に強く反対され、翌年トゥース近郊で急死し、シーア派はカリフに毒殺されたと主張する。遺体は#マシュハド#の聖廟(#イマーム・レザー廟#)に祀られている。,(黒柳恒男) 15600,イラーキー・ハマダーニー,イラーキー・ハマダーニー,<印78FE>Ir<印78E6>q<印77F5> Hamad<印78E6>n<印77F5>,1213〜89,ペルシアの神秘主義詩人。ハマダーンに生まれ、ダマスクスに生涯を終えた。神秘主義修行者としてインド、西アジア諸国を放浪し、小アジアのコニヤでサドル・アッディーンに師事し、#イブン・アルアラビー#の「愛」とワフダ・アルウジュード(存在一性論)の神秘的形而上学の奥義を伝授された。イブン・アルアラビー系の宇宙生成観と愛を主題にした神秘的抒情詩に秀でている。主著は《熱愛者の書》、《閃光の書》。,(松本耿郎) 16100,イル・ハーン国,イル・ハーンコク,<印77F9>l Kh<印78E6>n,1258〜1353,チンギス・ハーンの孫フラグが、イランの暗殺者教団#イスマーイール派#やバグダードの#アッバース朝#を倒して建国したモンゴル王朝。ササン朝の旧領に匹敵するイランの地を領有し、初めタブリーズ、後にスルターニーヤに都した。初代フラグ以下歴代のイル・ハーン(トルコ語で「国の王」の意)は大元ウルス(元朝)の宗主権を認め友好関係を維持しつつ、辺境に侵攻するキプチャク・ハーン国、チャガタイ・ハーン国の軍隊と対決し、一方、シリアをめぐる#マムルーク朝#との争いに際しては、キリスト教国やローマ教皇と結んで対処した。フラグとともに征服地に居付いた部族軍は、本来はフラグ一門の私的な軍隊ではなかったので、1282年第2代アーバーカー・ハーンが外敵の侵入を退け、内政を一応安定させて没すると、#ハーン#位継承争いと絡んだ有力部族長間の政争が頻発した。これと経済政策の破綻とが相まって部族連合の結束は極端に弛み、イル・ハーン国は存亡の危機に直面した。95年に即位したフラグの曾孫#ガーザーン・ハーン#は長らく続いた政争を収拾すると、外征、国史編纂事業を通して麾下の諸部族にモンゴルの栄光と忠誠心をよびおこさせた。さらに彼は#ラシード・アッディーン#を起用して税制・軍制等に大改革を断行、中央集権化を進めるとともにイスラムに改宗し、イラン人との融和を図った。危機が克服されたウルジャーイトゥー・ハーン時代にも前代の諸策が推進されて国力は安定し、諸ハーン国との友好関係も確立されて最盛期をむかえた。しかし、1335年アブー・サイード・ハーンが没してフラグの直系が絶えると、諸勢力分立の状態となり、53年チンギス・ハーンの末裔の最後の一人が殺されてまったく滅んだ。その後、フラグ家「筆頭家老」の家系が西北イランを支配したジャラーイル朝もティムールに討たれた後、1411年に滅ぼされた。→モンゴル,(志茂碩敏) 16200,イルム,イルム,<印78FE>ilm,,「知識」「学問」を意味するアラビア語。名詞イルムの動詞アリマはコーランにおいて、「知る」と同時に「学ぶ」を意味する。広く「知識」を意味するアラビア語には、ほかに#マーリファ#、#フィクフ#、ヒクマ(知恵、聡明さ)などがあるが、イルムは努力によって習得される知識を意味し、したがって最初はコーランや#ハディース#に関する知識、すなわち神学的知識を意味した。#ウラマー#は動詞アリマの能動分詞アーリムの複数形で、元来#ファキーフ#(法学者)に対して神学者を意味していた。#ムータジラ派#以後、思弁神学を#カラーム#、神学者をムタカッリムと呼ぶようになったが、やがてイルムを学問一般の意味に用いるようになり、神学をイルム・アルカラーム、法学をイルム・アルフィクフと呼ぶようになると、ウラマーも学者一般を意味するようになった。現代アラビア語では、イルムは人文・社会科学、自然科学を意味するが、とくに自然科学の意味で用いられる。→マーリファ,(中村廣治郎) 16400,イン・シャー・アッラー,イン・シャー・アッラー,in sh<印78E6>' All<印78E6>h,,イスラム教徒の慣用句。「もしも神が欲し給うならば」の意。コーラン18章23〜24節に「何事においても『私は明日これこれのことをする』などと言ってはならない。ただし『神のみ心ならば』と言い足せばよい」という形で付帯条件として指示されている。この教えに従って、全イスラム教徒は、未来に予定される行為や約束について、それがどれほど些細なことであっても己の一存でできるわけではなく、すべて神の許しがあって初めて可能になるのだという信仰を表明するのであり、これを約束不履行のための定句のように解するのは正しくない。,(堀内勝) 16600,ウイグル,ウイグル,Uyghur,,内陸アジアのトルコ族。8世紀半ばから約100年間、モンゴリアの遊牧国家を形成したが、840年キルギスの攻撃により四散した。唐の北辺に入った部分はやがて離散し、甘粛には一時甘州回鶻(ウイグル)が成立した。他の一部は天山山脈東部を本拠として、しだいにタリム盆地周辺のオアシスを制覇し、定住生活に入った。彼らはそこでマニ教に次いで仏教を信奉しながら、伝統的なアーリア系文化や漢文化とも混合した新しい文化と王国を構築した。さらに別の一派は、バラーサグーンを中心とする一帯に移住していたカルルクの地に入り、のち#カラ・ハーン朝#成立に大きな影響を与えた。10世紀ころ以降、ウイグルは西方から順次イスラム化していき、ウイグル文字の署名をもつアラビア文字使用の契約書も発見されている。タリム盆地一帯のイスラム化はかなり遅れ、カラ・キタイに次いでモンゴル帝国を上級権力として仰いだ13世紀には、タリム盆地東半でムスリムは少数派であり、15世紀のトゥルファンでは仏塔建設さえ行われていた。チャガタイ・ハーン国時代には、中央アジアにおけるウイグル族の主権と名称は消滅したが、分立的な#ホジャ#政権時代、そして清朝時代を通じてイスラム化は徹底し、アラビア文字のチャガタイ・トルコ語が文化的な共通語となっていった。彼らは#スンナ派#に属するとはいえ、#シーア派#的な教説をも取り入れており、一種の土着化したイスラムであった。1920年代にウイグルの名は復活し、各地に新たな集団アイデンティティが芽生え始めた。新中国になって漢族が大量に移入し始めると、55年に新疆ウイグル自治区が成立したあとも現在にいたるまで、ときにイスラムを標榜する民族主義的な行動が散発している。,(梅村坦) 16900,ウサーマ・ブン・ムンキズ,ウサーマ・ブン・ムンキズ,Us<印78E6>ma b. Munqidh,1095〜1188,シリアの騎士、文人。ハマー近郊のシャイザル城主であったムンキズ家の出身で、モースルのザンギー朝君主に仕えて#十字軍#と戦った後、1138年からダマスクスに住んで十字軍騎士と親交を結んだ。44年に#ファーティマ朝#治下のカイロへ移ったが、宮廷の内紛に巻き込まれて10年後にダマスクスへ戻り、62年にはヌール・アッディーンに従ってアンティオキアの攻略戦に参加、ディヤール・バクルでの隠退生活を経て、74年再びダマスクスに戻り、#サラーフ・アッディーン#に仕えた。アラブ騎士道の達人として知られ、詩や文学にも優れた作品を残した。主著に詩集と《回想録》がある。サラーフ・アッディーンによるエルサレム奪回の翌年に没した。,(佐藤次高) 17100,ウズベク,ウズベク,<印7EE8>zbek, Uzbek,,ウズベキスタン共和国の主要構成民族。トルコ系。その名称は14世紀末に初めて史書に登場するが、15世紀中ごろには、現在のカザーフ草原に一大遊牧国家を建設した。1500年シャイバーニー・ハーンに率いられてマー・ワラー・アンナフルへ侵入し、#ティムール朝#を滅ぼした(1507)。これがシャイバーン朝(1500〜99)で、ほかに、ブハーラー、ヒヴァ、ホーカンドの各ハーン国も彼らが建設した王朝である。イスラムは13世紀の中ごろより、ムスリム商人や#スーフィー#の影響によってカザーフ草原に浸透していったが、ウズベクもスンナ派イスラムを受容した。中央アジアのオアシス地帯へと移住したのち、彼らが建設した諸国家ではイスラムの諸制度が整えられイスラム文化が栄えて、移住者の子孫も、先住のトルコ系住民も、同じくウズベクと呼ばれるようになった。彼らはロシア革命の際に、ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国を建てたが、ソ連邦の崩壊に伴い、1991年にウズベキスタン共和国を建設した。,(堀川徹) 17400,ウスール,ウスール,u<印7CE3><印7CF3>l,,「根」「根本」を意味するアラビア語アスルの複数形で、イスラム法の用語としては、それに基づいて法的判断を行う法源を意味する。最初にウスールを定式化したのは#シャーフィイー#で、それは彼によればコーラン、#ハディース#、#イジュマー#、#キヤース#の四つで、しかも、この順序にその権威が認められるとする。彼の法源論は#スンナ派#の法学派によって受け入れられたが、#ザーヒル派#はキヤースを認めない。→イスラム法学,(嶋田襄平) 17700,馬,ウマ,,,アラビア語にはハイル、ファラス、ヒサーンをはじめ馬を表す名称が多数ある。アラブ馬は古くはリビア原種がシリアとエチオピアを経由して、南北からアラビア半島に入り、アラブの遊牧生活、とりわけナジュドのアナザ族の放牧移動によってアラブ馬に固定した。7〜8世紀にはイスラムの拡大に伴い、アッシリア系、カスピアン系馬が新しい血をもたらし、さらにリビア・ベルベル系馬の要素が再び加わった。13世紀にはアナザ族のシリア移住と相まって、ナフードの#ベドウィン#が飼育するだけになって孤立、衰退期に入った。アラブの大征服に馬と#ラクダ#が果たした役割ははかり知れず、アラブ文学の中では馬とラクダは常に高い地位を占め、「馬の書」の名による多くの著作がなされた。ムスリムの中には馬は神の乗用に供される超自然的起源をもつとの信仰がある。卓越した人物はファラスに、天才的少年はムフル(小馬)に、また才色兼備の女性はファラサ、同様の娘はムフラ(雌小馬)にそれぞれたとえられる。,(池田修) 18200,ウマル・ハイヤーム,ウマル・ハイヤーム,<印78FE>Umar Khayy<印78E6>m,1048〜1131,イランの四行詩人、天文学・数学・医学・科学者。ニーシャープールに生まれ、26歳で#セルジューク朝#のスルタン、マリク・シャーの宮廷に登用された。多くの科学書をはじめ、《マリキー暦》あるいは《ジャラーリー暦》と呼ばれる正確な暦を残す。イランの新年(#ノウルーズ#)の歴史・祭祀を記した《新春の書》も彼の著作といわれる。100首から2000首まで、さまざまの説がある彼の《四行詩集》(ルバイヤート)は、19世紀末にイギリスの詩人E.フィッツジェラルドの名訳によって全世界に知られている。日本でも明治41年(1908)蒲原有明による邦訳をはじめ、20種以上の訳詩がある。刹那主義者、唯物主義者、運命論者とも評されている。,(岡田恵美子) 18300,ウラマー,ウラマー,<印78FE>ulam<印78E6>',,イスラムの学者・宗教指導者層。単数形はアーリム。ウラマーとは、#イルム#(知識)をもつ人々を指す語であるが、ここではイルムとは知識一般ではなく、宗教的な知識という意味で使われている。したがって、ウラマーとは宗教諸学の学者を指していて、哲学や数学などいわゆる古代諸学の学者は含まれない。法学者(ファキーフ)、#ハディース#伝承者(ムハッディス)もコーラン読誦者(#クッラー#)もすべてウラマーの一員である。
 現実の社会においてウラマーは、学者、教師、裁判官(#カーディー#)、#ムフティー#、説教師、#礼拝#の導師(#イマーム#)、クッラー、#モスク#の管理者などとして、ムスリムの生活にとってはなくてはならない存在であった。イスラムはキリスト教会におけるような聖職者制度を本来認めていない。しかし他の宗教の聖職者のもつ機能のあるものは、イスラムにおいてはウラマーが果たしている。ウラマーが担当する役割は、宗教的諸施設の維持管理、礼拝などの宗教儀礼をつかさどること、信徒を精神的に指導し、イスラムの教えに関するもろもろの問題について信徒たちの疑問に答え教えること(とくに11世紀以後はウラマーは#教育#の独占的担い手となった)、異端や他宗教の攻撃からイスラムを護ること(護教)などである。このほかにイスラムの独自性に由来する重要な機能がウラマーに課せられた。それはイスラム法(#シャリーア#)の解釈と適用ということである。ウラマーは、まさにこのシャリーアの解釈者・執行者でもあるということにより、一般のムスリムの社会生活のきわめて現実的な側面にまで深くかかわってきたのである。
 ウラマーがはっきりと一つの社会層として認められるほど影響力と数の点で成長したのは、#アッバース朝#時代に入ってからである。#ウマイヤ朝#時代には、すでにさまざまな問題で見解の相違がみられるようになり、教義とか法の問題を扱う学者が出てきたが、彼らの多くは政治の枠外で独自に活動を行っていた。しかしアッバース朝時代になると、イスラム諸学が大いに発展し、それに参加する人の数が増大する一方、統治理念としての#スンナ派#イスラムを確立するために、アッバース朝は多くのウラマーを後援し、多くの者をカーディーに任命したりした。
 イスラムの独自性から、独特の宗教的役割をもって成立したウラマー層は、同時に重要な社会的役割をも担うこととなった。第1に社会統合的機能である。社会の各層から、またさまざまな地域から出てきているウラマーは、彼らの果たすべき役割とも相まって、社会各層あるいは社会を構成する諸共同体を統合する機能をもった。この社会統合機能は都市社会でとくに顕著に現れたが、#都市#と農村(#むら#)もウラマーのネットワークによって結びつけられ地域の連帯感を支えた。
 ウラマーはムスリムの社会と政治的支配権力(国家)の間の仲介者でもあった。ウラマーの政治的仲介機能は、ウラマーがもつシャリーアの解釈者としての立場、ムスリム大衆の宗教的指導者としての立場、そしてその社会統合的機能などにその基盤がある。支配者はウラマー層の同意と協力が必要であった。またウラマーの側でもムスリム社会の防衛、秩序の維持、財政的援助などの点で、安定した支配権力を必要とした。かくして支配権力とウラマー層には相互依存関係が生まれた。このような関係は、アッバース朝時代から近代に至るまで、すべてのイスラム国家で多かれ少なかれ存在した。
 ウラマー層と政治的支配権力の相互依存関係は、ウラマーの腐敗・堕落を生み出したが、ウラマー層が国家に完全にのみ込まれてしまわなかったのは、ウラマーがムスリム社会の代表として、イスラム的政治理念をもって、支配者の権力行使のあり方をチェックするという機能をもいくぶんなりとも果たしていたからである。
 この点は近代になってヨーロッパの勢力がイスラム世界に入ってきた時に、とくに意味をもつことになった。イスラム世界の各地で、ウラマーはヨーロッパの侵略に反抗する民族主義的運動の精神的指導者であると同時に組織者でもあった。近代主義者たちのさまざまな活動にもかかわらず、実際にムスリム大衆を動かしたのは依然としてウラマーであった。とくに中央政府の力の弱い国家、たとえばモロッコやイランなどでは、19世紀末から20世紀にかけて、むしろウラマーの力が強まっている。ウラマーにとっては西洋的イデオロギーそのものはそれほど脅威ではなく、むしろ大衆をより強く自らのほうへ引きつける契機にさえなった。
 ウラマーにとって近代における真の危機は、彼らの存在の経済的・政治的基盤が失われていったということである。教育が国家の管理下に置かれる一方では、世俗化#が進み、彼らの最大の職業市場は失われていった。国家機関が世俗化するにつれ、またヨーロッパ法が採用されるにつれ、それにふさわしい新しい官僚階級が養成され、ウラマーは官職を失っていった。
 ウラマーの社会的影響力の低下は、本来ウラマーがもっている精神的指導性が失われた結果ではないので、なんらかの理由で社会がイスラム的な価値というものを求めようとする時には、再び浮上してくることがある。#イラン革命#がこの最もよい例である。また近年におけるイスラム的教育の復活の動きは、そのような傾向を表していると考えられる。,(湯川武) 18400,ウンマ,ウンマ,umma,,イスラム共同体のこと。このウンマに対して邦訳コーランではしばしば「民族」の訳語が当てられ、また現代アラビア語でも世俗的には「民族」「国家」の意味に用いられている。確かにコーランでは、ウンマの結合範囲が民族や部族と重なりあう場合があるが、ウンマ=部族・民族ではない。ウンマがコーランにおいて意味をもつのは、民族・部族そのものとしてではなく、神が人類救済の歴史の中で使徒を遣わし、人間に呼びかけるその単位集団としてである。大部分のウンマはこの呼びかけを拒み、神の命令にそむいて神罰を受け、滅びた。しかし、あるウンマは使徒を受け入れた。モーセのウンマ、#イエス#のウンマである。これらはおのおの「律法の書」「福音書」を神から与えられ、「#啓典の民#」と呼ばれている。しかし、彼らも互いに対立し、啓典を隠蔽・改ざんし、あるいは使徒を神格化して道を踏み誤ったといわれる。そこで最後に遣わされたのがムハンマドである。そしてムハンマドのウンマは神の啓典コーランを正しく保持し、それを正しく実践するものとして出発した。こうしてウンマは元来、普通名詞的に用いられていたが、やがて「ムハンマドのウンマ」に限定して用いられるようになる。この「ムハンマドのウンマ」こそ神の下した真理を正しく地上に具現するものであり、正義の行われる理想社会の実現を目指し、神のよしとする祝福された聖なる共同体として、その全人類的使命が強調される。これはとくに#ヒジュラ#後メディナにウンマが現実に成立してからの啓示に顕著にみられる傾向である。とはいえ、このウンマと神々の特殊な関係は無条件的なものではなく、ウンマが神の命令に従順であり、その使命を忠実に遂行しているかぎりにおいてである。このことは、ウンマの成員が一方ではその現実の共同体をよりいっそうイスラム的にし、他方ではそのような正義の共同体を外に向かってよりいっそう宣揚し拡大するよう努力する義務を神に負っていることを意味する。これが歴史の中のウンマの発展とその動態の基底にあるものである。
 このウンマの理想は後に#シャリーア#として具体化された。このシャリーアが人間の日常生活の包括的規範である以上、ウンマは人間の「霊的」結合体にとどまらず、日常の生活規範をも共有する人々の結合体でもあるだけに、その結合は密である。しかし反面、宗教的対立が直ちに政治的対立となりやすく、逆に政治的争いが宗教の問題に解されやすい。このため、多民族国家を1人の#カリフ#が一つのシャリーアのもとに統治するというウンマの理想的形態が、ほぼ完全に近い形で実現したのは、#アッバース朝#の初期までである。その後は地理的・民族的制約によって、現実のウンマは政治的に分裂し、今日では国民国家の成立と、トルコにおける1924年のカリフ制の廃止によって、ウンマの統一は遠い夢となってしまったが、それが過去の栄光として、ムスリムに訴える潜在的力は大きい。,(中村廣治郎) 18900,エライジャ・ムハンマド,エライジャ・ムハンマド,Elijah Muhammad,1897〜1975,アメリカ合衆国の#ブラック・ムスリムズ#運動指導者。南部の生れだが、中西部各地で労働者として働き、1930年以降Nation of Islam(ブラック・ムスリムズ)の創立者W.D.ファードに代わってその指導者となる。31年デトロイトに最初の#モスク#を建設、第2次世界大戦中は徴兵忌避のため入獄したが、戦後シカゴを中心にブラック・ムスリムズ運動を再建、頂点の60年代には黒人革命の波に乗って勢力を拡大した。,(猿谷要) 19300,オスマン主義,オスマンシュギ,Osmanl<印7DF5>c<印7DF5>l<印7DF5>k, Osmanl<印7DF5>l<印7DF5>k,,#オスマン帝国#のすべての住民を、宗教・民族の違いにかかわらず、同じ権利と義務をもつ均質な国民として統合し、帝国の政治的一体性を守ろうとする考え方。オスマン帝国は、本来イスラム教徒の優越のもとで異教徒もゆるやかに統合する「イスラム国家」であったが、キリスト教徒住民の権利擁護を口実に干渉してくるヨーロッパ列強の矛先をかわすため、イスラム教徒とキリスト教徒との二元性を克服し、それらの平等を基礎とした「近代国家」としての体裁を整える必要に迫られるようになっていった。そこで、#タンジマート#以後登場し、徐々に国家統治の根本に据えられることになったのがこの原理である。特定の主唱者がいたわけでもなく、さらに、この原理の登場によってキリスト教徒住民の民族運動や列強の進出が弱まったわけでもない。また、「平等」の実現に対するイスラム教徒の反発も根強かったうえに、彼らの間にもナショナリズムが生まれることになるが、オスマン主義が最終的に否定されるには、第1次世界大戦敗北による帝国の崩壊を待たねばならなかった。→トゥラン主義,(新井政美) 19700,ガイバ,ガイバ,ghayba,,「イマームの隠れ」を意味する#シーア派#の用語。カイサーン派の指導者、#ムフタール#が奉じたムハンマド・ブン・アルハナフィーヤが700年に没した時、彼は死んだのではなく姿を隠しただけで、やがて再臨すると主張した一派が現れ、これがガイバ思想の始まりとされている。#十二イマーム派#によると、同派第12代イマーム、ムハンマド・アルムンタザルは、874年父の第11代イマームの死の直後に、4〜5歳でこの世から姿を隠して「隠れイマーム」すなわちガイバの状態に入り、940年まで「小さな隠れ」が続いた。この間にイマームの代理として4人が相次いで現れてシーア派を指導したが、4人目の代理は後継者を指名しなかったので、940年以降「大きな隠れ」の状態に入り、今日まで続いている。少数派のシーア派にとっては「隠れイマームの再臨」(#ルジューウ#)が大きな精神的支柱であった。神秘主義においては、ファナーの段階の「自我喪失」にガイバの語が用いられた。→マフディー、ルジューウ,(黒柳恒男) 19900,カイロ,カイロ,al-Q<印78E6>hira,,エジプト・アラブ共和国の首都。アラビア語ではカーヒラ。ナイル・デルタのほぼ中心に位置し、人口は約1400万(1990推定)。642年にエジプトを征服したアラブ軍は、ナイル東岸に軍営都市(#ミスル#)フスタートを建設してエジプト統治のための州都に定めた。次いで#ファーティマ朝#の第4代カリフ、ムイッズは、969年にエジプトを攻略すると、フスタートの北東約3kmの地点に新都を造営し、カーヒラ(勝利)と命名した。東西約0.9km、南北約1.2kmの城壁によって囲まれ、東大宮殿と西小宮殿、および#アズハル#・モスクを中心とする方形のプランをもつ。軍営都市として建設されたカイロは、ファーティマ朝時代を通じて、その政治的中心地ではあったが、まだフスタートをしのぐほどの経済力を獲得することはできなかった。#アイユーブ朝#の#サラーフ・アッディーン#は南門に続く丘の上に城塞を建設して、ここに政府諸機関を移すとともに、南西のフスタートへ向けて市街地を拡張し、両市街を結ぶ全体的な町づくりに着手した。この事業は未完に終わったが、次の#マムルーク朝#時代になると、紅海から上エジプトを経てカイロに至るルートが東西貿易の主要通路となり、安定した農業生産にも恵まれて空前の繁栄期を迎えた。#スルタン#や#アミール#によって多くの#マドラサ#や#モスク#が建設され、バグダードに代わってイスラム文化の中心地となったカイロは、14世紀初めの最盛期には人口約50万を擁したといわれる。しかし14世紀半ば以降は、ペストの流行と#マムルーク#軍人の苛酷な支配によって急速に衰えた。
 16世紀初めに#オスマン帝国#の一州都となってからは、文化活動の面では振るわなかったものの、#コーヒー#貿易によって人口は徐々に回復し、市街地も西側の郊外へと拡大していった。ナポレオンの遠征以後、#ムハンマド・アリー#による都市復興計画が実行に移され、近代的な国際都市への変貌を遂げるとともに、再びアラブ・イスラム文化の中心としての地位を得て現在にいたっている。,(佐藤次高) 20100,賭け,カケ,,,ジャーヒリーヤ#時代のアラビア半島では賭け事が盛んで、とくにマイシルと呼ばれる賭け矢が流行し、参加者の気前のよさを誘ったものであった。しかしイスラムでは、宗教心を阻害するものとして、マイシルに代表される賭け事いっさいが禁じられた。しかしこの禁止もたてまえ上のもので、賭けさえしなければよいとも考えられた。競馬の場合は、これに加えて、#ジハード#に有用なものとみなされたので推奨されることにさえなった。イスラム世界の拡大と王朝文化の発展に伴い、賭け事は半ば公然と行われ、しかも外来の娯楽も流入し、その中には賭けを行うに絶好の将棋、すごろく遊び、トランプなども含まれ、上流・富裕階級の間に広まった。ギャンブル熱は、やがて中流や下層階級にまで広まり、賭け事で身上を潰す話もまれでなくなり、その社会悪を痛感する為政者の側からする統制の動きもあったが、一時的効果をあげるにすぎなかった。イスラム法では賭け事の常習者の証言は認められないことになっている。,(堀内勝) 20200,ガザーリー,ガザーリー,al-Ghaz<印78E6>l<印77F5>,1058〜1111,ガッザーリーとも呼ばれる。ラテン名アルガゼル。イスラム史上最も偉大な思想家の一人。ホラーサーンのトゥースに生まれ、ニーシャープールの#ニザーミーヤ学院#で当代の碩学#イマーム・アルハラマイン#のもとで#シャーフィイー派#法学、#アシュアリー派#神学をはじめ、イスラム諸学を学ぶ。師の没後、#セルジューク朝#のワジール、#ニザーム・アルムルク#のもとに身を寄せ、やがてその抜群の才能と学識を認められて、1091年イスラム世界の最高学府であった首都バグダードのニザーミーヤ学院の教授として赴任した。こうして#スンナ派#イスラムを代表する学者として、学院での講義のほか、#イスマーイール派#や哲学の異端・異説の批判に八面六臂の活躍をする。しかし、やがて深い懐疑に陥り、95年教授の地位を捨て、家族とも別れて、一介の#スーフィー#として放浪の旅に出た。2年後には郷里に引退してスーフィーの修行を続け、短期間、ニーシャープールのニザーミーヤ学院で教鞭をとったことを除いて、少数の弟子を指導するかたわら、著述に専念した。イスラム哲学#に壊滅的打撃を与えた彼の哲学批判はよく知られているが、彼が哲学から受けた影響もまた大きい。とくにアリストテレスの論理学についてはこれを全面的に受け入れ、その倫理学については、その目的を現世における真理の観想から来世における「見神」へとイスラム化し、これを#イスラム神秘主義#の修行論として位置づけた。こうしてイスラム神秘主義こそ真理にいたる道であるとして、この観点からイスラム諸学を再解釈し、再興しようとした。著書は非常に多いが、《宗教諸学の再興》、《哲学者の意図》、《哲学者の自己矛盾》、《迷いから救うもの》などがとくに重要である。,(中村廣治郎) 20300,ガーザーン・ハーン,ガーザーン・ハーン,Gh<印78E6>z<印78E6>n Kh<印78E6>n,1271〜1304,#イル・ハーン国#第7代のハーン。フラグの曾孫。在位1295〜1304。イル・ハーン国が内訌と財政破綻により内部崩壊の危機に直面した多難の時期に即位し、その危機を克服したことで名高い。即位するや、まず対立勢力を鎮めると、敵国マムルーク朝への遠征を繰り返し敢行して内部結束を固めることに努める一方、これと並行して《モンゴル史》編纂事業を自ら企画・遂行し、麾下の諸部族にモンゴルの栄光と自らに対する忠誠心を強固によびさまさせ、部族連合の絆を回復させた。また、イスラムに改宗してイラン人との融和をはかり、#ラシード・アッディーン#を宰相に登用して税制改革を軸とする諸改革を断行、内政の安定を実現させた。ガーザーン自ら口述してペルシア語でラシードに編纂させた《モンゴル史》はその後、ウルジャーイトゥー・ハーンの命で改変され、現在、《集史》の「モンゴル史」の形で伝えられている。モンゴル帝国盛時のモンゴルの帝王を事実上の作者とするこの書は、モンゴル帝国史研究上、屈指の貴重史料となっている。,(志茂碩敏) 20400,ガージー,ガージー,gh<印78E6>z<印77F5>, gazi,,アラビア語の原意は「襲撃ghazwaする者」。イスラム世界の辺境を防衛し、異教徒に対する襲撃に従事する人々は、「信仰戦士」の意味で「ガージー」と呼ばれ、ある種の記章を有し、長上者に宣誓し、「#フトゥーワ#」という神秘主義的倫理規範に従うものとされ、その組織は都市の#ギルド#に類似していた。11世紀以降、辺境戦士の多くがトルコ族#に占められた結果、事実上ガージーという称号は彼らに専用された。とくに13〜14世紀のアナトリア辺境では、残存するビザンティン領に対し、トルコ族のガージーたちは恒常的戦闘態勢にあった。彼らは信仰のための戦いという大義名分のもとで、領地・戦利品の獲得を目的に襲撃を続けた。有力なガージー指揮者は君侯として各地に割拠し、事実上の独立国家を形成した。モンゴルの侵入によるアナトリアの混乱はこの趨勢に拍車をかけ、ますます多くのガージー志願者が辺境地帯に流入した。彼らの出自は雑多で、ただ能力あるガージー君侯だけがこれを統率することができた。最も成功した統率者がオスマン君侯であり、#オスマン帝国#はガージー国家として勃興したといえる。初期トルコ年代記では、ガージー集団は「ガージーたち」と総称され、近代トルコの祖国解放運動の中で、#ケマル・アタテュルク#はガージー・ムスタファ・ケマルと称された。,(小山皓一郎) 20500,カシミール,カシミール,Kashm<印77F5>r,,インド亜大陸北部の渓谷美に富む地方。西部ヒマラヤの盆地でジェラム川が発する。住民はカシミーリー語を話すが、教育・新聞にはウルドゥー語を用いる。古代インド史から、この地方の歴史が現れるが、イスラム化は遅れた。12世紀ごろ#イスマーイール派#の布教活動があったが、イスラム権力が樹立されたのは14世紀で、地方王朝内での宮廷革命の結果であった。#ムガル帝国#のアクバル大帝は軍を送って地方王朝を攻略した。同地方はムガル朝の避暑地とされたが、18世紀にアフガン族に併合、19世紀にはシク軍に支配され、1846年イギリスの手で藩王国となった。藩王は非ムスリムだったが住民の約8割がムスリムで、インド分割独立後、インドとパキスタン間の係争地となり、1947〜49、65年の戦争で争われた。1949年の停戦ラインが横切り、パキスタン側のアーザード・カシミール(推定人口130万、1971)はムザッファラーバードが首都。インド側のジャンムー・カシミールの議会は56年インドとの合併を決議し、57年発効した。人口は772万(1989推定)。62年中国とパキスタンが国境協定を結んだ。,(加賀谷寛) 20900,ガズナ朝,ガズナチョウ,Ghazna,977〜1186,#サーマーン朝#のトルコ人#マムルーク#、アルプティギーンは逃亡してアフガニスタンのガズナの実質的な支配者となり、以後マムルークたちが次々に権力を握った。サブクティギーン以降は世襲となり、インドへの侵入を開始、その子マフムードは遠くソムナートまで遠征してヒンドゥー教寺院を破壊し、イスラムの擁護者としての名声を得るとともに、多数の略奪品を得た。彼の時代が最盛期で、その版図は、イラン中央部からホラズム、パンジャーブにまで達した。軍隊の中核はトルコ人などのマムルークによって占められ、官僚にはイラン人が用いられた。公用語は主としてペルシア語で、多数のペルシア詩人が宮廷に出入りしたが、インド遠征に同行して記録を残した#ビールーニー#のように、アラビア語で著作を行う学者もあった。第5代のマスウード時代には、#セルジューク朝#によってホラズム、ホラーサーンを失い、12世紀にはセルジュークのサンジャルに服属して貢納を行うようになった。同世紀の中ごろにはゴール朝にガズナを奪われ、最後はラホールで滅亡した。,(清水宏祐) 21100,カスラヴィー,カスラヴィー,A<印7EE5>med Kasrav<印77F5>,1890〜1946,20世紀イランの思想家。独裁反対・立憲主義擁護の立場に立つ。タブリーズに生まれ、青年期に#イラン立憲革命#を同市で体験した。レザー・シャーの体制のもとで各地の地方裁判所長を歴任したが、1928年法務大臣と対立して野に下り、弁護士となった。33年以降イラン文化の腐敗・停滞を人間主義・合理主義の立場から批判する著作活動を開始、知識人の西欧文化崇拝、文部省のペルシア古典文学振興政策の誤り、#シーア派##ウラマー#の蒙昧を攻撃し、独自のイスラム改革を提案したため、これに反発するテロに襲われた。立憲革命史に関する著書がある。,(加賀谷寛) 21300,カダル派,カダルハ,Qadar,,7世紀末から8世紀中ごろにかけて、人間が自ら行為について責任をもつとする意味での自由意志論を唱えた人々の総称。カダルは#六信五行#の六信のカダル(天命)であり、カダル派というのは、カダルについて議論する人々という意味で、外部から与えられた名である。カダル派と呼ばれたものは、メッカ、メディナを含む広い地域に分散していたが、中心はバスラとダマスクスにあった。バスラで最初に自由意志論を唱えたのは、#ハサン・アルバスリー#の教えをも受けたマーバド・アルジュハニーで、彼は#ウマイヤ朝#カリフ、アブド・アルマリクの命で処刑された(699)。ダマスクスでは、#ウマル2世#とも親しかったガイラーンであったが、彼はカリフ、ヒシャームの命で処刑された(ca.725)。その後ダマスクスのカダル派は政治的性格を強くし、744年に南アラブがワリード2世を追ってヤジード3世をカリフの位につけた時、カダル派の多くの者が南アラブに荷担した。,(嶋田襄平) 21400,カーッス,カーッス,q<印78E6><印7CE3><印7CE3>,,説教師、物語師。初期イスラム時代には#モスク#や路上でコーランや#ハディース#、あるいはムハンマドの伝記などを平易な言葉で語り歩き、また礼拝や断食や喜捨を勧めて民衆の教化に重要な役割を演じた。しかし9世紀ころまでにイスラムの教義が整えられると、彼らは誤った伝承を伝える者として法学者によりモスクから追放された。その後も軽妙な語り口のゆえにカーッスの人気は衰えなかったが、時代の経過とともに説教師から物語師へと性格を変え、社会的な地位もしだいに低下していった。,(佐藤次高) 21700,カーティブ,カーティブ,k<印78E6>tib,,書記あるいは秘書を意味するアラビア語。軍人に対して「筆の人」と総称され、イスラム諸王朝の技術官僚として活躍した。公文書の作成は、ムハンマド時代以来一貫してアラブ人によって行われたが、地方の行政文書や租税台帳は、初期の時代には、中世ペルシア語、シリア語、コプト語などをよくする現地人の非イスラム教徒によって作成され、8世紀以後、#ディーワーン#のアラブ化とイスラム化につれて現地人#マワーリー#とアラブ人ムスリムの書記が増大した。#アッバース朝#時代になって官僚機構が発達すると、ペルシア人マワーリーが有力な書記階級を形成し、#シュウービーヤ運動#や#アダブ#文学の担い手となる者もあった。またバルマク家のように、財務行政の専門知識を生かして一門からディーワーンの長官や#ワジール#を輩出する名家も現れた。軍事政権の成立以後は、官僚の行政権は大幅に縮小されたものの、文書の作成や国家財政を円滑に運用するためには、書記を用いることが不可欠であり、それらの専門的な知識は代々「家の学問」として受け継がれた。ブワイフ朝#時代イラクのサービー家や#アイユーブ朝#時代エジプトのマンマーティー家はその代表である。以上のような官僚としてのカーティブ以外に、ワジールに仕えて文書の作成や家産の管理に当たる秘書としてのカーティブも存在した。これらの秘書が長期間同一人物に仕えることはむしろまれであって、彼らは転々として主人を替え、機会を得てディーワーンの書記となる者も少なくなかったことが特徴である。,(佐藤次高) 21800,カーディリー教団,カーディリーキョウダン,Q<印78E6>dir<印77F5>,,#アブド・アルカーディル・アルジーラーニー#を創立者とする神秘主義教団(#タリーカ#)。イスラム世界における最初のタリーカとされている。創立者ジーラーニーは#聖者#として有名になったが、設立当初のカーディリー教団はバグダードにあるジーラーニーの墓廟を中心とする小教団にすぎなかった。イスラム世界の各地にまたがる大教団に発展したのは、15世紀以降のことである。北アフリカ、西アフリカ、シリア、エジプト、トルコ、インドなど各地に広まった。イスラム世界の全域に広まったために、各地域の教団組織は独立性が強く、ジーラーニーの子孫を長とするバグダードの教団本部の統制力はあまり強くなかった。この教団の宗教的立場は概して穏健で平和的であり、正統的イスラムから逸脱する傾向は少なかった。そのため#スンナ派#の#ウラマー#や政治権力との対立にいたることは概して少なかった。,(古林清一) 22800,カラ・ハーン朝,カラ・ハーンチョウ,Qara Kh<印78E6>n,840〜1212,中央アジアを支配したトルコ系イスラム王朝。イリグ(イレク)・ハーン朝ともいう。王朝の起源についてはまだ定説がない。O.プリツァクの説によると、840年ウイグル王国が崩壊すると、その支配下にあったカルルク部族連合体が独立、チュー河畔のベラサグンを本拠に新王朝を開いたとされる。サトゥク・ボグラ・ハーン(955没)の時代に初めてイスラムを受容し、続くムーサーの時代に当たる960年には20万帳に上る遊牧トルコ人がイスラム化したという。以後の諸ハーンは東トルキスタンのホータン、クチャなどの仏教圏に聖戦(#ジハード#)を敢行するかたわら、999年にはブハーラーを占領してサーマーン朝#を滅ぼし、マー・ワラー・アンナフルのトルコ化を促進した。しかし内部抗争のため、1041/2年にはシル・ダリヤおよびホーカンドを境に東西に分裂した。西カラ・ハーン朝は89年#セルジューク朝#、1141年カラ・キタイ朝の宗主権下に入り、1212年ホラズム・シャー朝によって滅ぼされた。一方、東カラ・ハーン朝の首都カシュガルでは、最古のトルコ・イスラム文学作品《クタドグ・ビリク》が著される(1069/70)など、新たなトルコ・イスラム文化の萌芽がみられたが、1089年にはセルジューク朝、1132年にはカラ・キタイ朝の支配下に入り、1211年ナイマンのクチュルクによって滅ぼされた。,(間野英二) 22900,ガラビーヤ,ガラビーヤ,gall<印78E6>b<印77F5>ya,,アラビア語のジルバーブ(衣服)がなまったエジプト方言で、正しくはガッラービーヤ。伝統的なアラブの服は、その土地の風土や生活様式にかなった、ゆったりとした長衣であるが、衿の形、布地の種類、裁断の仕方等によって区別され、それが着用される地域や職能や社会的地位を判別できるものとなっている。しかしガラビーヤといえば、エジプト農民のまとう服を指すことになる。一つはバラディーと呼ばれ、円くえぐった衿ぐりは絹糸で縁取りがしてある。衿元から下着がのぞくが、これはスデイリーという胴着で、絹糸をくくってつくった小さなボタンが30個余りもついており、胸に大きなポケットがついている。もう一つはアフランギーと呼ばれ、ワイシャツの形を取り入れたもので、ちょうどシャツをそのまま裾長にした形をしている。バラディー型が農民の着用するものであるのに対し、アフランギー型は村の教師、農協の職員が着ている。ガラビーヤ・ザルカー(青いガラビーヤ)という言葉をよく聞くが、これはキャラコ地のものをインディゴで染めたために青くなったもので、農民の仕事着を意味し、やがてエジプトの農民の代名詞ともなった。,(奴田原睦明) 23000,カラーム,カラーム,kal<印78E6>m,,元来「言葉」を意味するアラビア語であるが、イスラムの用語としては、「思弁神学」「#イスラム神学#」を指す語として用いられる。この意味では、思弁の学(イルム・アルカラーム)と同義である。「カラーム」の語意のこのような変遷の理由として、その語が派生的にもつ「議論」「討論」の意から出たとか、イスラム神学において最初に採り上げられた主要なテーマが、神の属性としての「言葉」であったからともいわれている。→イスラム神学,(中村廣治郎) 23500,カルカシャンディー,カルカシャンディー,al-Qalqashand<印77F5>,1355〜1418,ヌワイリー、ウマリーと並ぶマムルーク朝#の三大百科事典家の一人。下エジプトの小村に生まれ、アレクサンドリアで#シャーフィイー派#法学を修めた後、1389年からカイロの文書庁に勤務、この時の経験を生かして14巻からなる大部な官吏養成の書《黎明》を著した。ほかに#カリフ#制度とその歴史を体系的に説いた《考察の利益》などの著作がある。,(佐藤次高) 23600,カルバラー,カルバラー,Karbal<印78E6>',,イラク中央部の宗教都市で#シーア派#の聖地。バグダードの南南西約80km、ユーフラテス河畔にあり、人口約十数万。#ウマイヤ朝#カリフ、ヤジードの治世680年に、預言者ムハンマドの孫で#アリー#の次男であるシーア派第3代イマーム、#フサイン#がメッカから家族・部下ら一行約200人とともにシーア派の本拠地クーファに赴く途中、この地でウマイヤ朝軍に包囲された。無条件降伏の申し出を拒否したフサイン側は、同年10月10日に戦闘を開始し、フサインをはじめほとんどすべての者が殉教した。このカルバラーの悲劇を契機に、シーア派の宗教的色彩はいっそう濃厚になった。悲劇の日は#ヒジュラ暦#ムハッラム月10日に当たり、#アーシューラー#と呼ばれ、今日に至るまでこの日にフサインの殉教を偲ぶ行事が盛んに行われる。かつてイランのシーア派最高指導者たちは、主としてこの地に居住し、#ナジャフ#とともに重要な#巡礼#地になっている。,(黒柳恒男) 24100,キスワ,キスワ,kiswa,,#メッカ#の#カーバ#の覆い。カーバに布製の覆いをかけるのは、イスラム以前からの習慣であった。イスラム時代になってからのキスワは、絹、麻、綿などを素材とし、色も白、赤、緑、そして最後に黒になった。現在のキスワは全体が黒で、#シャハーダ#が縫い込まれ、上部には金色の帯があり、コーランの章句が刺繍されている。キスワは年に1度替えられており、その取替えはカリフの務めであったが、13世紀半ばの#マムルーク朝#以来、1962年に至るまでエジプトから提供されるのが習慣となった。現在ではサウディ・アラビア政府(巡礼省)がキスワの管理を行っており、キスワそのものも近年ではメッカ近郊の工場でつくられている。取り外されたキスワは、細かく切られて信徒たちに配られるのがならわしである。かつてはメッカのシャイバ家がその権利を独占していたが、現在はサウディ・アラビア政府が各国のムスリムや団体に無償で配っている。,(湯川武) 24200,奇跡,キセキ,,,通常の様式、つまり「神の慣行」に反して神が事物を生起させること。イスラムでは、一般に#預言者#に現れる奇跡(ムージザ)と、#聖者#に現れる奇跡(カラーマ)の二つが区別される。預言者の奇跡は常に預言者の証明として生起するものである。ムージザという語は、預言者の預言者性の主張を否定する者を(神が)「無力化するもの」の意である。このような意味のムージザとしてムハンマドについてコーランに述べられている奇跡は、コーランの文体そのものである。コーランは繰返し反対者に対して「コーランに匹敵するものを人間がつくれるものならつくってみよ」と挑戦している(11章13節、17章88節など)。ちなみにコーランにおいて「奇跡」として用いられている語はムージザではなく、「徴」(しるし)を意味するアーヤである。この語は後には主としてコーランの節を指すようになる。しかし、#ハディース#や後の伝承ではもっと多くの奇跡がムハンマドについて伝えられている。後にはムージザの条件として、(1)神の行為であること、(2)通常の現象に反すること、(3)反証の不可能なこと、(4)預言者たることを主張する人の真実性を証明するためにその人の手を通して起こること、(5)その人の宣言と一致すること、(6)奇跡自体が宣教を否認するものでないこと、(7)預言者たることの宣言に続いて起こること、などがあげられる。
 カラーマは「寛大である」を意味する動詞karumaの名詞形で、神が聖者に自由に与える「恩寵」のことである。たとえば、読心術・透視・水上歩行など。このようなカラーマは聖者本人も気づかないこともあり、元来、スーフィー#が奇跡そのものを修行の目的とすることは邪道とされていた。彼らにとっては、心の内的発展、信仰の深まりが問題なのであり、そこにこそ本来の意味の奇跡、神の恩寵を見いだしたのであった。事実、初期の優れたスーフィーたちには、聖者の奇跡は一般に公開すべきものではないと考えられていたし、それはむしろスーフィーにとって誘惑であるとして避ける者さえいた。しかし、このような議論とは別に、イスラム世界では広く聖者の廟を中心にしてさまざまな奇跡が伝えられている。,(中村廣治郎) 24400,キブラ,キブラ,qibla,,「向かう方向」を意味するアラビア語であるが、とくにイスラム教徒が礼拝#の際に向かう方向を意味する。ムハンマドはメディナへの#ヒジュラ#の直後、その地の#ユダヤ教#徒の制度を採り入れ、エルサレムの神殿をキブラとしたが、624年2月、これをメッカの#カーバ#に改め、現在に至っている。#モスク#はキブラを示す#ミフラーブ#を中心に構成され、キブラを正しく定めることが測地学の発達に貢献した。,(嶋田襄平) 24600,キヤース,キヤース,qiy<印78E6>s,,スンナ派イスラム法の第4の法源。類推を初めとする厳密な推論を指す。初期の法学者は、法解釈・立法に際してラーイ(個人的見解)を行使したが、#シャーフィイー#はそれを恣意的として退け、コーラン、#ハディース#、#イジュマー#のいずれかによって確立されたところに基づく厳格なキヤースをこれに替え、4法源を確定した。#ザーヒル派#はキヤースを認めず、#ハンバル派#はその適用をできるだけ避けようとする。,(嶋田襄平) 25500,キンディー,キンディー,al-Kind<印77F5>,ca.801〜ca.866,ラテン名アルキンドゥス。イスラム世界最初の哲学者であり、百科全書的に諸学に通じたイスラム知識人(ハキーム)の典型。またペルシア人やユダヤ人の学者の多い中で、数少ないアラブの大学者であり、それゆえ「アラブの哲学者」と呼ばれる。クーファに生まれ、父は同地の総督であった。バスラとバグダードで学び、#アッバース朝#のカリフ、マームーンとムータシムのもとで新来のギリシア哲学を咀嚼し、それを#ムータジラ派#の合理主義神学と一致させようと努力し、ムタワッキルのとき正統主義神学の反動にあって迫害された。彼はアリストテレス哲学を新プラトン主義の立場で吸収消化し、イスラム世界におけるペリパトス学派の祖となるとともに、有名な「知性論」は、文字どおりその後の#イスラム哲学#の出発点をつくり上げた。数学、天文学、占星術、自然学、医学、薬学、音楽などについて約260の論文を書いたといわれるが、現存するものは少ない。後世への影響が大きいものは、ラテン語訳された《光学》と独特な数学的処方学の書《医薬合成階梯》である。,(伊東俊太郎) 25600,偶像,グウゾウ,,,アラビア語のサナムは、石、木材、金属などを素材とした身体をもつ偶像、ワサンは画像などをも含め偶像としているものを指す。たとえばフバルは赤色大理石像、ズー・アルフルサは白色花崗岩像で頭に冠をつけていた。コーランの中ではサナムが5回、ワサンが3回使用されている。また偶像神フバル、ワッド、ウッザー、アッラート、マナートなどの名がみえ、男神、女神に区別されていた。イブン・アルカルビーの《偶像の書》では、29の偶像神に関する説明が加えられている。これは#ジャーヒリーヤ#時代にアラブが偶像崇拝の風習を広くもっていたことを裏づけるものである。伝承によればアラブは姿色のすぐれた石を見つけるとこれを立て、崇拝し、ナサブと呼んで供え物をし、その周りをタワーフ(巡回)する習慣をもっていた。また旅をする時にはこれを持ち運んだ。偶像にはサーディンと呼ばれる世襲的司祭が仕え、信者からの供え物を受け取り、祭壇を設けて、犠牲動物の血を塗り、戦勝や雨乞いなどの祈願をした。偶像の祭は年に1回または2回、春先または初秋に行われた。有力な偶像になると遠隔の部族も、神聖月に#巡礼#して、巡回を行った。巡回者は偶像に手で触れたり、口づけして、御利益を得ようとした。ムハンマドはメッカ征服の時、#カーバ#の周りに置かれていた偶像の目を弓の先で打った後に撤去、破壊させた。イスラムは偶像崇拝を厳にいましめている。,(池田修) 26100,クッラトゥル・アイン,クッラトゥル・アイン,Qurrat al-<印78FE>Ayn,1817〜52,イランの女流詩人、#バーブ教#徒。カズヴィーンの名家に生まれ、バーブの教えに共鳴し、熱烈な教徒として運動の推進に努め、女性解放を唱えた最初のイラン女性ともいわれる。1852年カージャール朝#政府のバーブ教徒大弾圧に際して処刑された。詩人としても名高く、バーブ教に関する宗教詩や社会問題を扱った詩、抒情詩などをつくり高く評価された。,(黒柳恒男) 27600,公証人,コウショウニン,,,イスラム法では、裁判官(#カーディー#)の前で係争当事者のために証言をする証人(#シャーヒド#)の数が、事件の種類によって定められていた。しかし裁判#件数の増大につれて、証人の公正さを調べることがしだいに困難となり、やがて8世紀末以降の裁判官はこれを調査するための助手を採用するにいたった。その後さらに一歩進んで、任官前の若い法律家の中からその証言能力がすでに証明済みの者を公証人として選任することが慣例となった。これらの専門的な公証人をシュフードあるいはウドゥールといい、任免権は裁判官にあった。またイスラム法では、婚姻や売買・賃貸借などの商取引は文書契約ではなく、証人を立てて契約を交わすことが定められていたため、社会生活の広い範囲にわたってこのような公証人の存在が不可欠であった。,(佐藤次高) 27700,香料,コウリョウ,,,昼は灼熱の流砂の中で、ラクダに囲まれてラクダと暮らし、羊の大群に囲まれ、馬で疾駆する遊牧のアラブである。さぞや臭かったであろう。異臭・悪臭ふんぷんどころではない。ラクダの小便は彼らのシャンプーであり、身体に塗ればカやハエやアブなどを追い払う。このような生活の中で唯一のやすらぎを与えるものは、香料の不可思議な妙香であった。
 たとえば彼らが愛用したハーリヤ(香油)は、アンバル(竜涎香)を中心にして、沈香、竜脳(カンフォル)、サフラン、甘松香(スパイクナルド)、白檀(サンタル)、乳香(フランキンセンス)をおのおの適当量混ぜ、それをローズ水、ジャスミン花の油、あるいはベン油に溶解したものである。広く彼らの間に流行し、その種類も#カリフ#の御用品から婚姻者の魂といわれたとびきり高級の特殊品、そして普通の人の愛用品まであった。
 次にナッドといって、アンバル、ムスク(麝香)、竜脳などを主体としてつくった乾燥固形体の香料がある。衣装の中にたたみこんで、衣装を妙香ふくいくとさせ、焚いて芳香を楽しみ、胸間につるして誇り顔であった。前のハーリヤとともに、アンバルが全体の香気を左右する大切な鍵であって、品質とともに用法に細心の注意が必要とされている。香料を焚く時、火熱を加える炭の品質が香煙に大きな影響力をもっていることを、彼らは知っていたようであり、また、飲食品の味付けにもアンバルを多く使っている。とくにブドウ、桑の実、その他種々の果物に砂糖を入れ、ローズ水、アンバル、サフラン、ムスクなどで匂いをつけ、冷たい水で冷やしたシャラーバート(シャーベット)は大流行であった。
 また媚薬としての香薬の使用には驚くほどのものがある。まず相愛の男女に、コーヒーにアンバルを混ぜたものを飲ませて、強い刺激と興奮を与える。沈香、ムスク、アンバルを混ぜた香油を密室内で焚く。そしてアンバル入りのろうそくを灯火とする。木ろうのろう分とアンバルの甘くねばっこい匂いが渾然一体となり、艶麗な香気が相愛の2人を恍惚境に誘い込む。そして2人がベッドに入る前、奴隷#がムスクとアンバルを主とした焚香料で2人の全身をかぐわしいものとさせ、舌のとろけるようなシャーベットを食べさせる。さらにまたローズ水を2人の全身に塗り込めたのである。
 各種の香料が発散する芳香性、不思議なほどの匂いのニュアンスがあって神秘的に近い微妙性、種々の香料薬品を混ぜて、全体から発する芳香を安定させ、ほどよく結合させ、そして引き立たせる安定性、匂いが重くてねばっこく、いつまでも香気を保持させる粘着性。これらの性質を生かし、焚香料、化粧料、調味料として、あくこともなく匂いに耽溺する。そこには流砂の民が強く生きゆくための香料があった。,(山田憲太郎), 植物の花、果実、皮などを食料品に入れて防腐力を高め、食欲の増進を図る東方産の香辛料(スパイス)も早くから西アジア世界に知られていた。その中心はインドと東南アジアのコショウや肉桂(シナモンとカッシア)、モルッカ諸島の丁香・丁子(クローブ)、ニクズク(ナツメッグ)などであった。ムスリム商人#はインド洋#からペルシア湾を経由してこれらの香辛料を輸入し、バグダードをはじめとするイスラム世界の需要に供するとともに、地中海を渡ってヨーロッパへ再輸出することにより大きな利益をあげた。#アイユーブ朝#から#マムルーク朝#へかけては、ムスリム商人による香料貿易の最盛期で、インド洋から紅海を経てエジプトへ運ばれた香辛料は、アレクサンドリアでイタリア商人に売り渡された。とくに「コショウと香料の商人」と呼ばれたカーリミー商人は東方からの香辛料の輸入を独占して莫大な利益をあげ、政府に貸付金を提供するばかりでなく、#モスク#や#マドラサ#を建設して社会的にも重要な役割を演じた。,(佐藤次高) 27900,乞食,コジキ,,,コーランは信者に対して「その財産を、近親者、孤児、貧者、旅人、物乞い、奴隷の解放のために費やす」べきことを繰返し説いている。そのためイスラム社会では乞食(スールーク、ハルフーシュ)や貧者(ファキール)に対する自発的な喜捨(#サダカ#)が奨励され、施しは来世のために善行を積むことになるとみなされた。#モスク#に集まる乞食には入口のひさしで夜を過ごすことが認められ、#礼拝#を済ませた信者は、これらの乞食に相応の施しをすることが慣例となった。12世紀以後、多くの托鉢者(#デルヴィーシュ#)が現れ、#スーフィー#としての修行の旅を続けることができたのも、このような施しの社会慣行があったからにほかならない。また#マムルーク朝#時代の#アミール#たちは、それぞれ特定の乞食集団を抱えていたが、これによってアミールは日常的な施しの機会をもつことになり、ムスリム大衆に対して、公正でしかも気前のよい支配者であることを印象づけることができた。9世紀以後のアラブの散文学は、洗練された都会の教養人と対比して、乞食や浮浪人などの下層民を好んで取り上げ、やがて乞食を主人公とする#マカーマート#やカシーダ(長詩)も書かれるようになった。
 しかし乞食となるのは、清掃人や墓掘人、あるいは無頼人などと同様に、イスラム社会の最下層民である場合が多かったから、いきおい押しつけがましい物乞いや偽ってかたわに見せかける者の数が増大した。スブキー(1370没)はこのような乞食をシャッハーズと呼んで「職人づくし」の最後に取り上げ、彼らによる物乞いのための技巧を詳しく説明している。それによれば、モスクの礼拝者や#カーッス#を取り巻く聴衆にしつこくつきまとうのは忌むべきこととされた。これらのシャッハーズを取り締まるのは、#ムフタシブ#の役目であった。乞食への施しを徳として奨励し、またこれを脱俗的な#聖者#の一種とみなす一方では、このように健全な社会生活を乱す者であるとする見方が近代以降にも受け継がれて、今日に至っている。,(佐藤次高) 28000,コソヴォの戦,コソヴォノタタカイ,Kosovo,,1354年以来バルカンに進出していた#オスマン朝#が、トラキア、ブルガリアを平定してセルビアに迫った89年、セルビアの有力者ラザル公がボスニア王トブルトコやワラキア公ミルチャらの支援を得てムラト1世のオスマン軍と戦った戦闘。セルビア側は敗れたが、その原因としては、西欧諸国がペストや農民戦争や百年戦争のために支援しえなかったこと、教皇の無力、ヴェネツィアとジェノヴァの対立、ビザンティン帝国の衰退のほか、バルカン諸国内部での封建社会の停滞性や政治的・宗教的(キリスト教とボゴミール派)分裂が重要である。この戦いの後、セルビア、ブルガリア、マケドニアなど、ドナウ川以南の大部分は、オスマン帝国の支配下に入った。しかし、オスマン支配は、その農村政策や宗教政策の点でバルカンの民衆にとっての「解放」を意味する場合があったことや、レバント貿易の安定的再開をもたらしたことに注意すべきである。,(南塚信吾) 28500,コーヒー店,コーヒーテン,,,アラビア語ではマクハーというが、#コーヒー#と同義のカフワもコーヒー店の意によく使われる。マクハーは一般に通りに面して開かれており、庶民の生活にすっかり溶け込んでいる。ラジオなどがなかった時代には、マクハーこそがさまざまな情報源であり、界隈の人々の客間でもあり、仕事の口が見つかる職安の機能さえもった。往時は、夕方になると人々はマクハーに出かけ、#タバコ#や茶、コーヒーのサービスを受けながらシャーイルという講談語りがラバーブ(1〜3弦の胡弓)を手にして語るアブー・ザイド等の英雄譚に夜明けまで聞きほれ、マクハーは映画館や芝居小屋の代りとなっていた。現在でもマクハーは活況を呈し、ムアッリムと呼ばれる茶屋の主人が常連に巧みに応対し、とくに年金生活者の姿は朝から見られ、トウラー(西洋すごろく)、トランプ、ドミノ、チェス等に興じている。客の間を靴磨きが歩き回り、富くじ売りや、雑誌・タバコ売りが足繁く回ってくる。これらのマクハーには#女性#の姿はまったく見られず、男の社交場である。#酒#が厳しく禁じられているイスラム世界にあっては、マクハーこそが庶民のくつろぎの場であり、またマクハーには庶民の生活のたくましい鼓動が脈打っている。
 マクハーは娯楽の場であると同時に、社会生活に深く根ざしたものであり、#アフガーニー#や#ムハンマド・アブドゥフ#などもカイロ下町のアタバ広場のマクハーに夜ごとに座り、エジプトの歴史を決する政治談義が繰り広げられる場でもあった。またマクハーは文化を支える役割も果たしてきたが、その伝統は今でも残っており、たとえばエジプト文壇の第一人者、ナギーブ・マフフーズは金曜日の夜、カイロのリーシェというマクハーに必ず現れ、若手作家や読者たちと文学論を交わす風景が見られたが、近年しだいに姿を消しつつある。
 エジプトのマクハーでは、トルコ・コーヒーや茶と並んで#水タバコ#が欠かせぬものである。水タバコは首都カイロではシーシャ、地方都市ではブーリー、農村ではゴーザと、呼び名と形が異なっていて、小説の中では水タバコの名で農村か都会かが判別できる。,(奴田原睦明) 28600,護符,ゴフ,,,古代以来アラビア半島でも魔除けの風習は盛んであったが、預言者ムハンマドは神の名およびコーランの章句とその内容に限って護符の使用を許したといわれる。しかしイスラムの歴史を通じて、イスラムが受容された地域の固有の伝統のうえに習俗化する形で護符観念が形成されていった。一般に、#邪視#、#呪い#、中傷、厄病、不慮の出来事など、さまざまな災難から逃れるために、首につるしたり、財布、頭被、腕輪、足輪などに縫い込めて常時身につける。1枚の紙の場合は3角形、厚みのある場合は4角形の形にして縫い込むか、丸めて筒の中に入れる。護符の中身としては、以下のものが単独か、あるいは組み合わせた形で見られる。#ジン#を支配したとされるソロモンや#諸天使#に関する記述、コーランの章句、月・星・モスクの形、天体・十二宮・星宿・人頭獣身像、動物とくに蛇蝎などの図像、文字・数字の場合は魔法陣の図形、また貴重品、貝、骨などが直接中身とされることもある。ウーザ、タミーマ、ハマーイル、ハーフィズ、ハマーヤなどには、元来それぞれの意味があったが、現今では区別されずに「護符」の意味で用いられている。,(堀内勝) 28800,コム,コム,Qom,,イランの首都テヘランの南120kmに位置する町。古代には#ゾロアスター教#の聖地であった。9世紀に#十二イマーム派#第8代イマーム、#イマーム・レザー#の妹ファーティマの廟が建立された後、この派のイスラム教徒の巡礼地、教学研究の中心地として発達した。市内にはブルージェルディーをはじめ300の#モスク#と学院(#マドラサ#)がある。20世紀初頭ハーエリーにより諸学院が組織化され、イランの十二イマーム派の総本山となった。,(松本耿郎) 28900,コーラン,コーラン,al-Qur'<印78E6>n,,正しくはクルアーン。#アラビア語#で書かれたイスラムの根本聖典。ムハンマドが最初に啓示を受けた610年から632年の死に至るまでの22年間、#預言者#として、また共同体の政治的指導者として活躍する折々に神から下されたとされる啓示を人々が記憶し、後に第3代カリフ、#ウスマーン#の時に集録されたものである。
 114章よりなり、各章には名称があるが、それはその章の主題ではなく、単なる呼称にすぎない。そもそもコーランの各章には、一貫したストーリーというものがない。各章の長短はまちまちであるが、概して初期のものほど短く、時代が下るほどに長くなるので、長い章から順に配列されている現行のコーランの構成はほぼ時代順とは逆になっていると考えてよい。コーランは神が一人称で語ったそのままの言葉として、いっさいの人間の言葉から区別され、したがって集録に際しては人間による文学的作為はすべて排除された。ここによくいわれるコーランの「読みにくさ」、あるいは伝統的に「翻訳」を拒否し、かたくなにアラビア語のコーランに固執しようとするムスリムの態度にみられるコーランの特異性がある。「クルアーン」とは、元来「読誦されるもの」「読誦」の意であるが、それは神がコーランの原本ともいうべき「天に護持されている書板」を#天使#ガブリエルを通して直接にムハンマドに読み聞かせたものである。コーランとは、このように朗々と声を出して誦するものであり、そこにコーランの魅力の一つがある。事実、初期の啓示はサジュー体と呼ばれる脚韻を踏んだ散文詩であり、したがってコーランの読誦は詩の朗誦のように快く耳に響く。宗教音楽もイコンも認めないイスラムでは、このアラビア語のコーラン読誦がもつ、人間業を超えた詩的韻律美と音楽的朗誦美は宗教芸術の域にまで高められた。こうしてコーランはムスリムの宗教生活のあらゆる機会にその一部または全体が誦され、かつてのムスリムの寺小屋(#クッターブ#)では、まずコーランの暗誦が児童に課せられたほどである。
 コーランは神の言葉であり、神とともに永遠であると考えられている。神に服従・帰依することは、具体的にはコーランの言葉に従うことである。こうしてコーランは人間の正邪・善悪に関する判断の究極的基準として、ムスリムの思考や行動を規制するものである。その内容は、神観念、とくにその唯一性(#タウヒード#)、天地創造、アダムの創造と楽園追放、人類の歴史とそれに対する神の支配、終末、死者の復活と審判、#天国#と#地獄#、啓典、預言者といった信条、さらに#礼拝#、#断食#、#巡礼#やタブー(#ハラーム#)のような儀礼的規範、および道徳的な項目や礼儀作法から、#婚姻#・#離婚#、扶養、#相続#、売買、#刑罰#、#ジハード#のような法的規範をも含んでいる。このようなコーラン的規範をムハンマドの伝承(#ハディース#)などで拡大解釈して成立したのが#シャリーア#である。,(中村廣治郎) 29400,サイイド・アフマド・バレールヴィー,サイイド・アフマド・バレ,Sayyid A<印7EE5>mad Bar<印7EF6>lw<印77F5>,1786〜1831,北インド、ウッタル・プラデシュ、ガンジス川中流域のラーイ・バレーリーの貧農出身で、#ムジャーヒディーン運動#を指導した。彼は#シャー・ワリー・ウッラー#の子、シャー・アブドゥル・アジーズのもとで学んだ。アブドゥル・アジーズが、異教徒イギリス人のインド支配に対する抵抗をムスリムの義務として訴えた時、彼は、それをムスリム一般大衆に説いて回った。メッカ巡礼からの帰国後、北インドを回って、イギリス人に対する#ジハード#(聖戦)の準備を整え、ムジャーヒディーン(聖戦に参加する者)たちの戦闘集団を組織したが、武装蜂起そのものは失敗に終わり、戦死した。,(小名康之) 29500,サイイド・アフマド・ハーン,サイイド・アフマド・ハーン,Sayyid A<印7EE5>mad Kh<印78E6>n,1817〜97,インドのムスリムの社会改革家。デリーのムガル貴族の血を引く名門の出であるが、その家柄はインド大反乱(セポイの反乱)以前にすでに没落していた。父の死後21歳の時、周囲の反対を押し切って東インド会社の司法官吏となり、判事補にまで昇進したが1876年に退職。彼はイギリス支配を善意によるものとして受け入れ、ムスリムの間の反英抵抗の思想を否定、親英的態度を保ち、大反乱に際してもイギリス側に忠誠を表明した。イギリス思想、近代自由主義を高く評価し、ムスリムの社会的地位向上のために、ムスリムのための近代教育機関の必要を説き、1875年北インドのアリーガルにイギリス式の高等教育機関を設立、以後#アリーガル運動#を指導した。晩年のアフマド・ハーンはヒンドゥーに対するムスリムという対抗意識をしだいに強め、ムスリム上層の不安を代弁して、国民会議派による対英権利要求を、会議派によるムスリム支配だとして反対するようになり、後の#ムスリム連盟#の思想的基盤を築いた。,(小名康之) 29600,サイイド・クトゥブ,サイイド・クトゥブ,Sayyid Qu<印73F3>b,1906〜66,現代イスラム思想家。エジプトの#ムスリム同胞団#の指導的メンバー。アシュートの富農の生れ。1933年カイロのダール・アルウルーム卒業後、小・中等学校のアラビア語と宗教の教員や教育省役人として過ごすかたわら、30歳ころまではアラブおよび諸外国の文献に学び、おもに詩作・評論活動をしたが、1930年代末に思想的にイスラムに傾斜、このころエジプト農民の搾取からの解放を唱えた。51年#ハサン・アルバンナー#亡きあとのムスリム同胞団に参加し、その理論上・組織上の中核となった。54年#ナーセル#暗殺未遂事件の折に投獄され、66年獄中で処刑された。《コーランにおける社会公正》《コーランの庇護の下で》などの著作を通じ、イスラム大衆運動に依然影響を与え続けている。,(藤田進) 29700,サイクス・ピコ協定,サイクス・ピコキョウテイ,Sykes = Picot,,第1次世界大戦中の1916年5月、英仏露3国が、#オスマン帝国#領土のうち、シリア、キリキア、メソポタミアにおける3国の将来の勢力範囲画定を取り決めた秘密協定である。この協定によって、英仏両国は、フランスが領有を主張し、イギリスが1915年10月にアラブに対して事実上公約した独立アラブ王国の領域に入るシリアの処理を調整した。そしてパレスティナの統治形態は、3国およびメッカの#シャリーフ#の間での将来の協議にまかされることとなった。この秘密協定は、17年11月、ロシアのボリシェビキ政権によって暴露された。→バルフォア宣言、フサイン・マクマホン書簡,(前田慶穂) 30300,酒,サケ,khamr,,アラビア語ではハムル。#ジャーヒリーヤ#時代にイラクやシリアから、#ユダヤ教#徒やキリスト教徒がアラビア半島内部に酒を持ち込んだものとみられ、イスラム発生期にはメッカの住民はことあるごとに酒を飲むほどになっていた。飲酒の結果、#賭け#矢(マイシル)遊びにはしり、さまざまな弊害が目につくようになった。このため禁酒について何回か啓示を受けたムハンマドは、ついに全面禁酒の啓示(コーラン5章90〜91節)を受けるにいたった。酒、賭け矢、偶像、矢占いはいずれも嫌悪すべきものであって、サタン(#シャイターン#)の業であり信仰を妨げるものであるから、これを避けよ、という命令であった。この啓示は#スンナ派#四法学派はもちろんのこと、#シーア派#においても等しく受けとめられ、飲酒は#ハラーム#(禁断)であり、酒類の製造・販売も禁止された。#ハディース#にも酒が悪徳を誘うものであって、飲んではならないとしたものが多い。問題はハムルと呼ばれる酒の範囲であるが、第2代カリフ、#ウマル1世#がブドウ、#ナツメヤシ#、蜂蜜、大麦、小麦の5種を原料とした飲物をハムルと断じて決着をつけたといわれる。ウマル1世は「酒とは人智を曇らすもの」と言っており、以上の5種を原料としたものはもちろん、飲んで酔うものはすべてハラームであるとの考えが支配的になった。これを犯すと80回(奴隷40回)の鞭打ちに処すべきであるとしている法学派が大部分であるが、#シャーフィイー派#はムハンマドと#アブー・バクル#の慣行どおり40回(奴隷20回)の鞭打ちの刑を加えることになっている。このような厳格な禁酒の掟があるにもかかわらず、必ずしもイスラム世界の各国でこれが厳格に守られているとはいえない。文学史上ではジャーヒリーヤ時代のカシーダ(長詩)の序言の部分に酒が讃えられ、#アッバース朝#にはハムリーヤート(酒を主題にした詩)が多くつくられた。中でもアブー・ヌワースは最大の頽廃的詩人で、酒屋に入りびたり、同性愛にふけり、数々の悪徳をつんだ。一方、恋愛詩の用語を用いて神への愛をうたいあげる神秘主義詩人においては、ハムルという言葉は神との合一体験に達して、恍惚とした境地に至ること(ファナー)を象徴的に表すのに用いられた。→アラク,(池田修) 30500,サッファーフ,サッファーフ,al-Saff<印78E6><印7EE5>,ca.723〜754,#アッバース朝#の初代カリフ。在位750〜754。通称(クンヤ)アブー・アルアッバース。ムハンマドの叔父アッバースの子孫。打倒#ウマイヤ朝#のアッバース家運動を指導していた兄イブラーヒームが殺された後、749年クーファに入城した革命軍の推戴を受けてカリフ位につき、翌年ザーブ河畔でウマイヤ朝軍を破り、さらにカリフ、マルワーン2世を殺してとどめを刺した。続いて#シーア派#の弾圧に転じ、アッバース家の権威を確立した。,(森本公誠) 31300,ザーヒル派,ザーヒルハ,<印78F7><印78E6>hir,,法学者#ダーウード・アッザーヒリー#のもとに集まった弟子たちにより、バグダードに創始された#スンナ派#イスラムの法学派。最初のうち、ダーウード派とも呼ばれていた。法源(#ウスール#)として#キヤース#を認めず、#イジュマー#を#サハーバ#(教友)のそれだけに限り、コーランと#ハディース#の文字どおりの意味(ザーヒル)に忠実に従わねばならないとした師の教えを忠実に継承した。10世紀以降も#タクリード#(先人の模倣)を拒否し、#イジュティハード#の行使を強く主張した。早くホラーサーン、東部イランに伝えられたが、さしたる勢力とならなかった。イベリア半島では、#イブン・ハズム#のような熱烈な信奉者があったが、法学派としては強いまとまりがなく、12〜13世紀ごろには消滅した。しかし、ザーヒル派のタクリード拒否は、後の#イブン・トゥーマルト#や#イブン・タイミーヤ#によって継承され、さらに現代の#サラフィーヤ#の主張にまで影響を及ぼしている。→イスラム法学,(嶋田襄平) 31700,ザマフシャリー,ザマフシャリー,al-Zamakhshar<印77F5>,1075〜1144,ホラズム生れのイラン系の神学者、文献学者。西方へ遊学し、メッカ巡礼の後、主として郷里で活躍した。神学的には異端の#ムータジラ派#に属していたが、文献学者・文法学者として優れ、コーランの文体論的研究によってその奇跡性を明らかにした。そのコーラン注釈書(#タフシール#)は、文法学的説明の正確さにおいて、#スンナ派#の学者の間でも広く用いられてきた。,(中村廣治郎) 31800,サマルカンド,サマルカンド,Samarqand,,中央アジアのウズベキスタン共和国の都市。ザラフシャーン川流域にあり、人口は約27万(1970)。紀元前10世紀ころから中央アジア有数のオアシス都市として栄え、その住民であるソグド人は国際的商人としても活躍した。8世紀初頭アラブの支配下に入り、9〜10世紀の#サーマーン朝#の時代にそのイスラム化が完成、11〜13世紀の#カラ・ハーン朝#、#セルジューク朝#、カラ・キタイ朝、#ホラズム・シャー朝#の支配時代にトルコ化が進展し、以後徐々にトルコ人のイスラム教徒の居住する都市となった。1220年モンゴルの侵入によって市街・城壁を破壊されたが、やがてその廃墟の南西に新市街が再建され、14〜15世紀の#ティムール朝#の時代には帝国の首都として空前の繁栄を示した。16世紀以降#ウズベク#人のシャイバーン朝の支配下に入り、時にはその首都となったが、1868年ロシアによって征服され、1924年以降はウズベク社会主義共和国の、91年、ソ連の崩壊後は独立国家ウズベキスタン共和国の一都市として今日にいたっている。,(間野英二) 31900,サーマーン朝,サーマーンチョウ,S<印78E6>m<印78E6>n,875〜999,中央アジアとイラン東部を支配したイラン系イスラム王朝。アム・ダリヤ南のバルフ地方に居住したイラン系地主(ディフカーン)階級に属するサーマーン・フダーの時代(8世紀後半)にイスラムを受容し、その孫たちの時代(9世紀初め)、#アッバース朝#に対する忠誠のゆえに、サマルカンド、フェルガーナ、タシュケント、ヘラートの支配権を与えられ、875年にはアミール、ナスル・ブン・アフマドがカリフからマー・ワラー・アンナフル全域の支配権を与えられ、事実上の独立国家を建設した。以後歴代の#アミール#はシル・ダリヤを境に遊牧トルコ人の侵入を阻止し、遊牧地帯に聖戦(#ジハード#)を敢行するかたわら、国境地帯に#奴隷#市場を設けて多くのトルコ人奴隷を獲得し、それらを西アジアに供給した。900年、イスマーイールの時代にサッファール朝を破ってホラーサーンの支配権をも獲得、首都#ブハーラー#は新たに興ったイラン・イスラム文化の中心地となり、#ブハーリー#、#イブン・シーナー#、ルーダキーなどの天才を輩出した。しかしトルコ人奴隷の台頭など内部抗争のうちに999年#カラ・ハーン朝#によって滅ぼされた。,(間野英二) 32000,サミン運動,サミンウンドウ,Samin,,インドネシアの中東部#ジャワ#において、サミン主義者がオランダ植民地支配期に間欠的に展開した宗教・政治運動。サミン主義とは、中部ジャワ、ブロラ県の農民スロンティコ・サミンが1880年代半ばころから説くようになったジャワ神秘主義の教説である。ただし、サミン主義者自身はサミンの教えをアダムの宗教と呼び、また自らをシケップの民と称した。その教えの要諦は、人は「人の法則」に従って妻との営みに励み、また「労働の法則」に従って土地を耕す農民の生活に徹すれば、おのずから神なる資質を自らのものとしうるということであり、それは、「#アッラー#は我がうちにあり」と説いた聖者セ・シティ・ジュナルの#イスラム神秘主義#の系譜に連なるものであった。サミン主義は1900年以降、ブロラ県からボジョヌゴロ、パティ、ルンバンなど主としてチーク林の広がる中東部ジャワの山地帯に拡大した。またこの過程で、サミン主義者は07年、14〜16年、28〜29年とオランダ植民地支配に対し非暴力的抵抗を行った。その内容は、納税労役の拒否に始まり、オランダ人、ジャワ人官僚、さらには#モスク#管理の任にあたる宗教役人の権威をいっさい否認するもので、これは、「我は神なり」「国とは我自身のことなり」というサミン主義者の宗教的確信の行動的表現にほかならなかった。,(白石隆) 32200,サモリ・トゥーレ,サモリ・トゥーレ,Samori Tour<印79F6>,1830?〜1900,19世紀末、西アフリカ内陸部に広大なイスラム帝国を建設し、フランスの植民地侵略に執拗な抵抗を繰り返した植民地化初期の民族的英雄。1830年ころ、農耕民化したジュラ(マリンケ系のイスラム化した商人グループ)の息子として、現ギニアのコニヤン地方で生まれた。当時の西アフリカ内陸部では、フランスをはじめヨーロッパ列強の、沿岸から内陸部への進出が始まり、各地には群雄が割拠して相争い、戦乱が絶え間なく続いていた。若いころは行商人として活動していたが、母が捕虜として捕らえられたことを契機に軍人となり、周辺の諸将をたちまちのうちに征服、80年代の最盛期には、3万5000人の兵力を擁し19万km<印6B41>の領土と100万人の住民を支配する帝国を建設した。86年、自らイスラムの称号アルマミを名のり、イスラムに基づく神権政治を行うことを宣言した。91年にフランス軍によって首都ビサンドゥグが占領された後、東方に移動し第2次帝国を形成して、フランス軍に抵抗を続けたが、98年ついに逮捕され、1900年流刑地ガボンで病死した。ギニアの独立運動の指導者、初代大統領セク・トゥーレはサモリの曾孫にあたる。,(原口武彦) 32400,サラーフ・アッディーン,サラーフ・アッディーン,<印7EF8>al<印78E6><印7EE5> al-D<印77F5>n,1137/8〜93,#アイユーブ朝#の第1代君主。在位1169〜93。#クルド#人で、イラク中部のタクリートに生まれ、1152年からアレッポ、ダマスクスに住んでザンギー朝のヌール・アッディーンに仕えた。69年#ファーティマ朝#の宰相となってエジプトに実権を確立した後、74年にヌール・アッディーンが没すると、シリアからジャジーラへと領域を拡大して#十字軍#包囲の体制を築き上げ、87年には#ヒッティーンの戦#に十字軍を破ってエルサレムの奪回をなしとげた。これを機に起こされた第3回十字軍のリチャード1世とアッカをめぐる攻防戦を続け、92年の休戦協定によってエルサレムを含むパレスティナの領有権を確保した。翌年、ダマスクスで没。武人として優れた才能を発揮したばかりでなく、イスラムの慣行に基づいて異教徒を公正に扱い、その博愛主義のゆえにヨーロッパの文芸作品にもサラディンの名でしばしば登場する。財政難に苦しみながらも、カイロに#モスク#や#マドラサ#を盛んに建設して、イスラム諸学の振興に努めた。,(佐藤次高) 32900,サントリ,サントリ,santri,,狭義ではイスラム寄宿塾(#プサントレン#)で学ぶ学生を指すが、より広く、熱心なイスラム教徒の意にも用いられるジャワ語。これを文化人類学者C.ギーアツが、ジャワの三つの宗教的伝統・文化類型の一つとして概念化した。すなわち、アニミズム的要素、ヒンドゥー・仏教的要素、イスラム的要素からなるジャワのシンクレティズム(混淆信仰)のうち、イスラム的要素を他の要素よりも強調する文化類型(担い手からいえば人間類型)がこれである。彼は三つの文化類型それぞれと特定の社会層との結びつき(M.ウェーバーのいう「選択的親近性」)を主張し、サントリ文化類型はジャワ北部沿岸のかつての商業都市国家の商人の末裔である小商人・巡回商人層、および、その影響を受けたジャワ内陸部の農民の一部の層と結びつくとした。しかし、ギーアツ批判者の多くは、この結びつきを認めない。,(間苧谷榮) 33000,死,シ,,,イスラムでは、人間の死は肉体からの#霊魂#の分離と考えられている。これは、死を罪に対する罰としてとらえるキリスト教に比して、自然的死に近い考え方である。コーランでは、死の#天使#が人間の体から霊魂を抜き取るとされている(6章93節、32章11節)。睡眠の時も霊魂は神のもとに召され、目覚めとともに返されるもので、一種の死と考えられる。コーランで強調されていることは、このような死はだれも免れえないということ、いつ、どこで死ぬかは神が定め、神のみ知ることであり、その時が来れば一瞬たりとも遅延はないということである(16章61節)。死後に霊魂は神のみもとに召されるが、それが具体的にいつなのか、死の直後なのか、それとも復活の後なのかについて、コーランは明確に述べていない。ただ、神の道(#ジハード#)に斃れた者(殉教者)については、彼らは神のみもとで十分な恵みをいただいて生きており、決して死者と呼んではいけない、と述べている程度である(2章154節、3章169〜170節)。しかし、後の伝承では、預言者たちの霊魂は死後直ちに#天国#に入れられ、殉教者のそれは天国に住む緑の鳥の群れの間で憩い、普通の信者のそれは#墓#の中とも、最下天ともいわれる所でそれぞれ復活を待つ、となっている。また別の伝承では、死の天使に抜かれた信者の霊魂は芳香を放ち、第七天まで運び上げられ、その名を天国の記帳簿イッリーユーンに記され、やがて墓中の死体に戻される。そこでムンカルとナキールの二天使の審問を無事終え、復活を待望しながら天国からの平安と芳香を味わう。他方、荒々しく引き抜かれた不信仰者の霊魂は悪臭を放ち、最下天にも入れられず、#地獄#の記帳簿シッジーンに登録されてから死体に戻され、二天使の審問を受け、復活の日まで罰を受ける。復活によって死者の霊魂と肉体は元に戻され、審判を受ける。信仰者は天国でよき報いを得て、もはや「二度と死の苦しみを味わうことのない」(44章56節)平安な暮しを続けるのに対して、不信仰者は地獄で「死ぬことも生きることもできない」(87章13節)苦しみを味わう。,(中村廣治郎) 33300,シェイフ・ベドレッディンの乱,シェイフ・ベドレッディンノラ,<印73E7>eyh Bedreddin,,1418〜20年に起こったオスマン国家体制に対する反乱運動。ベドレッディンはティムールの遠征に随行してイランからアナトリアへ来たが、異端的傾向の強い神秘主義の教理を説いて、ティムールに敗れたオスマン朝支配下の民衆の支持を集め、空位時代にはムサ王子の大法官(カザスケル)を務めたが、メフメト1世が覇権を握ると、ドブルジャ地方を中心に反乱を起こした。アナトリア側での蜂起に失敗したのち反徒は四散し、ベドレッディンは捕らえられ処刑された。,(小山皓一郎) 33400,ジェヴデト・パシャ,ジェヴデト・パシャ,Cevdet Pa<印7DE3>a,1822〜95,#オスマン帝国#の#タンジマート#期を代表する政治家、歴史家。ロフチャ(現ブルガリア、ロヴェチ)の生れ。イスタンブルでイスラム諸学、および数学・地理学等、西洋の新知識を併せ学ぶうち、1845年ムスタファ・レシト・パシャに見いだされて官界に入り、以後、不遇時代もあったが、学術協会委員、文部大臣、国家会議委員、法務大臣、内務大臣等の要職を歴任した。新民法制定問題に対しては、#シャリーア#の新たな法典化を主張して《民法典》を編集。著書《ジェヴデトの歴史》《ジェヴデトの覚書》《陳述》等は、タンジマート期を含むオスマン朝史の重要な史料とされる。#イブン・ハルドゥーン#の《歴史序説》のトルコ語訳も出版した。,(新井政美) 33600,ジクル,ジクル,dhikr,,元来は、「思い出すこと」「思念すること」「想起すること」、「述べること」「口で言い表すこと」を意味する。さらにその対象に応じて「非難」「弾劾」となったり、「讃美」「称讃」となったりする。コーランに特徴的な用法は、「神は偉大なり」「神に栄光あれ!」のような一定の言葉を口にして「神の栄光を称えること」「御名を唱えて神を讃美し称えること」である。イスラムにおける人間の崇拝行為とは、神の讃美のことであるならば、ジクルが儀礼の主要な要素となるのは当然である。後に#イスラム神秘主義#において、それは一種の称名として、そのような言葉を常にあるいは集団で定期的に一定の所作を伴って繰返し口称し、それによって神を常に念じ、さらに精神の集中によって自己と神との二元的対立を超えた忘我の状態、すなわち神秘的合一体験(ファナー)に至る方法として実践されるようになる。→サマー,(中村廣治郎) 33700,地獄,ジゴク,jahannam,,イスラムでは、この世は終末をもって終わり、#死#者はすべて復活させられて神の前で審判を受ける。生前、信仰し善行に励んだ者はその報償として#天国#に入れられ、信仰せず、不義をはたらいた者はその罰として地獄で永劫の責め苦を受けるといわれる。コーランでは、ヘブライ語の「ヒンノムの谷」を意味するゲヘナから来たジャハンナムの語が用いられているが、そのほかに「地獄」を表す語としては、ナール(火)に次いで、ラザー(火炎)、サイール(焔)、ジャヒーム(火のかまど)、フタマ(つぶし釜)、ハーウィヤ(底なしの穴)などがある。コーランは詩的イメージで地獄の恐ろしさを生き生きと描いているが、その形状については明確でない。ただ「七つの門」があり、巨大な穴であり、その底にはザックームと呼ばれる妖怪の木があり、咆哮と怒号に満ち、黒煙と真っ赤な焔に包まれていて、19の#天使#に守られているといわれる。「七つの門」に対応して7層に分けられ、各人はその罪の種類によってどの層に住むか定められる。,(中村廣治郎) 34100,シナーシー,シナーシー,<印73E7>inasi,1826〜71,#オスマン帝国#の啓蒙思想家。#タンジマート#の推進者ムスタファ・レシト・パシャの庇護を受け、パリに留学。以後、西洋近代文明のトルコへの紹介・導入に努力を傾け続けた。1860年には、トルコ人による初の民間新聞《諸情勢の翻訳者》を同志とともに刊行、一方、西洋文学の影響下に、古典詩の方法によらない新体詩も書き始め、散文においても簡略な文体の創出に努めた。ムスタファ・レシト・パシャの政敵に圧迫され続けたが、次代の思想家・文学者に与えた影響はきわめて大きい。,(新井政美) 34500,シャイターン,シャイターン,shay<印73F3><印78E6>n,,サタン(悪魔)のこと。コーランでは、神と人間の中間的存在として、#天使#のほかにイブリース、#ジン#、イフリートに言及されている。これらの異同については正確には不明であるが、ギリシア語のdiabolosに関係づけられるイブリースはシャイターンの固有名詞と考えられている。コーランではシャイターンは、定冠詞をとる場合ととらない場合があり、また複数形としても用いられている。つまり、冠詞つきで単数形のシャイターンがイブリースであり、これが悪霊であるサタンたちの頭目なのである。神がアダムを創り、居並ぶ天使たちに跪拝を命じた時、このイブリースだけはそれを拒んで神の呪いと怒りをかったが、神にその罰の執行を審判の日まで猶予してもらい、その間地上の人間を惑わすことになる(15章26〜50節など)。このことから、元来イブリースは天使の一種とも考えられるが、同じことを述べた別の箇所では、「あれはもともとジンの一種であったので……」(18章50節)とあることから、ジンであったともいえる。
 ジンはイスラム以前にすでにアラビア半島において信じられていた一種のデーモン(霊鬼)であり、いろいろに変化して砂漠で人を迷わせたり危害を加えたりするものとして非常に恐れられていた。コーランでは、ジンにも人間と同じくさまざまな党派があり、そのおのおのに使徒が遣わされ、あるものは信仰し、他のものは信仰を拒み、審判の時には人間と同じように裁きを受けるといわれる。ただ泥でつくられた人間と違って、ジンやシャイターンは火や焔でつくられたという。シャイターンがアダムへの跪拝を拒んだのはそのためである。これに対して、天使は光でつくられたといわれる。イフリートはジンの一種であるが、コーランではシバの女王の玉座を一瞬のうちにソロモンの所に運んだと述べられているように(27章39節)、巨大なものを動かすことのできる強いジンとみなされている。,(中村廣治郎) 34600,シャイフ,シャイフ,shaykh,,一般的に「長老」「老人」を意味するアラビア語であるが、さまざまな集団の長を意味することもある。とくにアラブの#ベドウィン#は、各種のレベルの血縁集団の長をシャイフと呼んだ。ことに重要なのは、部族の長としてのシャイフ(または#サイイド#)である。部族のシャイフは、年齢、家系、性格、能力などの諸要素を総合して、全体の合意を得られるような人物が選ばれた。部族の有力者の話合い(#マジュリス#)で選ばれるのが普通であった。シャイフの権限は限定されたものであり、部族内においては、その役割は主として調停者としてのそれであった。シャイフが部族全体に指揮権をふるうのは戦争においてのみである。
 部族を超えて国家が成立すると、シャイフは国家と部族を結ぶ接点となった。たとえば、#ウマイヤ朝#のカリフ、#ムアーウィヤ1世#は、#カリフ#の私的諮問機関として有力部族長からなる#シューラー#という会議を開いた。このムアーウィヤ1世のやり方自体、アラブの部族のシャイフのあり方をそのまま踏襲しているが、ともかくシューラーを通じてカリフは部族と意思疎通を図ろうとしたのである。現在のサウディ・アラビア王国でも国王は部族長の意見を聞く会議を開いている。
 シャイフは部族民に対してはそれほど強制力はもたないし、全体に対して公平にふるまうよう期待されているが、それでもその力は富を生み出し、家畜の数やナツメヤシの数、現在ではトラックの数などでは、部族民より明らかにまさっている。シャイフが自身のために利益誘導をすることは、一般にある程度認められている。
 シャイフという称号は部族社会以外の社会でも使われている。#都市#の街区(#ハーラ#)のシャイフ、農村(#むら#)のシャイフ(シャイフ・アルバラド)、#ギルド#のシャイフなどである。これらのシャイフは部族のシャイフと基本的には同じ性格をもっていた。すなわち、内に対しては調停者であり、外に対しては支配者との接点であった。支配者との関係でいえば、多くの場合、このカテゴリーのシャイフは行政組織の末端であり、彼を通じて行政が一般大衆の中に入っていった。そのような役割の一つとして、シャイフが徴税にかかわることがしばしばあった。一方ではシャイフは、大衆の支配権力に対する反抗のリーダーともなりえた。このようにシャイフは小さな共同体の調停者ではあったが、何かあった時には、かなりの指導権をふるえる存在でもあった。
 シャイフという称号は、尊敬を表す敬称として#ウラマー#や#スーフィー#にも与えられた。シャイフは決して制度的称号でも資格でもないので、ウラマーのうちだれがシャイフと呼ばれるかは、はっきりした基準があるわけではない。広くその学識と人格が他より優れていると認められた人がシャイフと呼ばれ、ウラマーの社会では、そういう人々がリーダーシップをとった。またスーフィーの場合も、ウラマーのシャイフと同じで、スーフィーとして信仰と人格がとくに優れていると広く認められた人がシャイフと呼ばれた。このようなスーフィーのもとには多くの求道者・弟子(#ムリード#)が集まり、死後は聖者としてその#墓#は尊崇の対象となったりすることが多かった。スーフィーの場合は、シャイフ以外に各地でさまざまな呼び方がある。
 このようなシャイフの中のあるものは、国家の制度に取り入れられ、一種の官職として支配者によって任命された。たとえば、#マムルーク朝#のスーフィーの長としてシャイフ・アルマシュヤハや#オスマン帝国#のウラマーの長としての#シャイフ・アルイスラーム#などはそれぞれのスルタンによって任命された。,(湯川武) 34900,ジヤ・ギョカルプ,ジヤ・ギョカルプ,Ziya G<印7CF4>kalp,1876〜1924,トルコのナショナリスト、社会学者。「#青年トルコ#」革命後の1909年、革命の中核であったテッサロニキの「統一と進歩委員会」本部に、故郷ディヤルバクル代表として加入。そこで文学者オメル・セイフェッティンらとともに《若いペン》誌を刊行して、トルコ語の純化・簡略化を目指す言語ナショナリズムを推進した。バルカン戦争によるテッサロニキ陥落後、委員会本部とともにイスタンブルへ移り、ユスフ・アクチュラらの《母国トルコ》誌に参加。また、イスタンブル大学で社会学の講義を受け持った。第1次世界大戦後、連合軍によりマルタ島に流され、共和国成立後は国会議員として活動した。ムスリムであるトルコ人として、西洋近代文明に能動的に参加することを主張して、ナショナリズムとイスラム、および「西洋化」の潮流を調和させ、トルコ・ナショナリズムの基礎を確立した。《トルコ主義の諸原理》をはじめとして、評論、詩も多数ある。,(新井政美) 35000,邪視,ジャシ,,,イスラム成立に先立つ時代から、アラビア半島を含めて西アジア一帯に広範に行われてきた俗信。預言者ムハンマドも、この俗信の根絶を図ったものの、逆にその存在を肯定する結果となった伝承を残している。邪視の持主として恐れられたのは、くぼんだ目、青い目、片目、つながった眉などのいずれかを持つ人、中傷ばかりする人、#乞食#、未婚・不妊の老婆、不運ばかりにつきまとわれる人などであるが、動物の目、とくに蛇のそれも含まれる。これらに凝視されると厄難が起こるとされる。幸福な人、富裕者、貴人、祝福される人、妊産婦、幼児、美人などがとくにその難にかかりやすく、また家畜でさえも羨望を招く場合には邪視の対象とされる。邪視払いには、コーランの定句を唱える、手の仕草、火をたく儀式、燻蒸、塩やミョウバンの散布などが行われ、目をかたどったもの、#護符#、#ファーティマの手#、入墨、#ベール#などが邪視除けとなると信じられた。幼児の場合は、男子は女装させるとか、ボロを着せて人目を引かぬようにする。,(堀内勝) 35200,シャージリー教団,シャージリーキョウダン,Sh<印78E6>dhil<印77F5>,,シャージリーを創立者とするイスラム神秘主義教団(#タリーカ#)。シャージリーはチュニジアに生まれ、この地で教団の基礎をつくった後、#マムルーク朝#時代のエジプトに移り、そこで没した(1258)。この教団はエジプト、シリア、アルジェリア、チュニジアなどに広まったが、北アフリカがその本拠となった。この教団は信徒の世俗における職業生活を重視したので、その宗教的立場は概して正統的で穏健である。,(古林清一) 35300,シャー・ナーメ,シャー・ナーメ,Sh<印78E6>h n<印78E6>me,,「王書」を意味し、#フィルドゥーシー#がペルシア語で作詩したイラン最大の民族叙事詩。980年ころアブー・マンスール編《散文王書》等を主たる資料として作詩に着手し、30年余の長年月にわたり作詩に没頭し、1010年ついに完成、#ガズナ朝#のマフムードに献じた。マスナヴィー詩形、約6万対句からなるこの大作は、イランの神話、伝説・伝承、歴史の集大成で、イラン建国から7世紀半ばのササン朝滅亡に至る4王朝歴代50人の王者の治世が述べられている。人類の祖カユーマルス王から始まる最初の2王朝は完全な神話・伝説王朝であるが、作品中の圧巻である。単なる王者の治世記録ではなく、史料的価値は乏しく、文学作品として優れ、ペルシア文学最高傑作の一つに数えられる。勇者ロスタムの活躍をはじめ、多くの武勇伝、ロマンス、悲劇に満ち、宿命論が作品の基調をなし、この書を読むことはイラン人の義務とさえいわれ、最大の文化遺産とされている。イラン・イスラム革命直後はシャー(王)を忌避した当時の風潮の結果、一時的に本書は軽視されたが、その後再認識されて従来以上に重要視され、政府主催の「シャー・ナーメ国際会議」も行われている。,(黒柳恒男) 35400,シャハーダ,シャハーダ,shah<印78E6>da,,「証拠」を意味するアラビア語で、(1)法廷での証言、(2)殉教、(3)信仰告白の意味に用いられる。証人は#シャーヒド#、殉教者はシャヒードという。信仰告白は、「アッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの使徒である」という簡潔な言葉(カリマ)を唱えることで、五柱(#六信五行#)の第1にあげられ、#礼拝#のたびごとに唱えられる。コーランでは、「アッラーのほかに神なし」と「ムハンマドはアッラーの使徒である」とは別々に記され、このカリマと同じ言葉は見られない。コーランで別々に記された言葉を結びつけたカリマが、最初、異教徒のイスラムへの改宗の「証拠」として用いられ始めたと考えるのは、きわめて穏当である。このような必要が痛感され始めた時期、#スンナ派##ウラマー#の先駆者たちによる#イバーダート#の箇条化がなされ始めた時期を考え合わせると、このカリマの成立は8世紀初めのことであろう。,(嶋田襄平) 35600,ジャバルティー,ジャバルティー,al-Jabart<印77F5>,1753〜1825,エジプトの歴史家。先祖がエチオピアのジャバルト地方出身であったことからこの名で呼ばれる。カイロでのジャバルティー家は7代前までさかのぼることができ、#ハナフィー派#の#ウラマー#の名門であった。彼の代表作《伝記と歴史における事蹟の驚くべきこと》は、イブン・イヤース以後オスマン時代においてしばらく途絶えていた編年体形式のイスラム年代記の伝統を復活した著作として高い評価を受け、また、エジプト人歴史家の手になる最後の本格的年代記であった。彼は基本的には伝統的なイスラム学者であったが、同時に、西欧の学問に対する知的好奇心と鋭い時代感覚をも備えていたため、記述はイスラムの危機の意識に支えられながらも、きわめて客観的である。とりわけ、フランスのエジプト占領と#ムハンマド・アリー#の登場という近代エジプトにおける歴史の一大転換期を扱った部分は、貴重な史料となっている。,(加藤博) 35700,ジャーヒズ,ジャーヒズ,al-J<印78E6><印7EE5>i<印7BE2>,ca.776〜868/9,アラブの文学者、思想家。古典散文学の確立者で、バスラの人。キナーナ族のマウラー(#マワーリー#)の家系に生まれたが、祖先はアビシニア出身の奴隷であったといわれる。ジャーヒズとは「出目」のゆえにつけられたあだ名(ラカブ)である。バスラでイスラム諸学を修めた後に、816年に#アッバース朝#カリフ、#マームーン#の招きでバグダードに上り、それから約50年間、バグダードとサーマッラーで大小の著作を次々と発表し、アッバース朝体制の擁護と#ムータジラ派#の教義の正当化に努めた。またアラブの伝統文化を攻撃するペルシア人の#シュウービーヤ運動#に対して、アラブの古詩や伝承を取り入れて逸話文学のジャンルを開拓し、アラブ人文主義に最終的な勝利をもたらした。バスラで病没するまでに書かれた著作は約200点、そのうち現存する完本は30で、主著はペルシア人を風刺した《けちんぼども》、修辞法を説いた《雄弁と明解の書》、後の民族学・博物学の基礎となった《動物の書》などである。,(佐藤次高) 36000,ジャービル・ブン・ハイヤーン,ジャービル・ブン・ハイヤーン,J<印78E6>bir b. <印7CE9>ayy<印78E6>n,ca.721〜ca.815,ラテン名ゲーベル。アラビアの#錬金術#師。彼の父はホラーサーン地方で#ウマイヤ朝#に謀反を企てた#シーア派#の薬種商で、それゆえに殺害されたといわれる。ジャービルはこの地のトゥースで生まれ、やはり熱心なシーア派に属していた。長く父の故郷クーファにとどまっていたが、アッバース朝のカリフ、#ハールーン・アッラシード#に招かれてバグダードに赴き、その宮廷付きの医師となり、バルマク家の知遇も得た。その間、この家のヤフヤーの寵姫の病気を秘薬「イクシール」で直ちに治し、大いに信用を博したといわれる。バルマク家の没落とともに宮廷の寵を失ったが、#マームーン#の時まで活躍した。彼の錬金術は、物質変換の操作によって世界霊魂の自己還帰を行うというヘルメス的錬金術の正統を行くもので、外に現れたものによって内に秘められたものをあらわにするというシーア派的な「比喩的解釈」(ターウィール)の方法によっている。その錬金術の根本概念は「平衡」の概念であり、これによって諸本性の間の正しい調和をうちたてようとするものである。もう一つの特徴は「硫黄・水銀説」で、金属の変化をこの1対の男性的原理(硫黄)と女性的原理(水銀)の対立として説明しようとし、化学的物質のみならず、宇宙的実在のさまざまな秩序が、この二つの原理の拮抗としてとらえられている。また当時ホラーサーン地方の#マニ教#徒の間で流行していた中国錬金術の内容も取り入れているのは興味深い。彼に帰せられている膨大な著作群は、彼個人の手になるものだけではなく、彼と知的伝統を同じくする結社による集団的作品を含むとされている。,(伊東俊太郎) 36200,シャーフィイー派,シャーフィイーハ,Sh<印78E6>fi<印78FE><印77F5>,,#シャーフィイー#の教えに従う弟子たちが、クーファ、メディナの学統に対抗し、法源(#ウスール#)についての厳格な方法論を説いた師の衣鉢を継いで創始した#スンナ派#イスラムの法学派。したがって#ハナフィー派#、#マーリク派#と違って特定の地域との結びつきは薄く、最初バグダードとカイロがその中心であった。やがて#セルジューク朝#(1038〜1194)などの庇護も受けて、西はエジプトから東はイランにかけて勢力を拡大した。しかし、シャーフィイー派を擁護したセルジューク朝などが衰退し、15〜16世紀以降はオスマン朝やサファヴィー朝が台頭したため、中東においては退潮を余儀なくされ、むしろアラビア半島南部、インドのマラバール、コロマンデル海岸、マレー半島、マレー諸島、東アフリカで勢力を拡大した。#アシュアリー#、#マーワルディー#、#イマーム・アルハラマイン#、#ガザーリー#など、高名な学者でこの派に属するものが多い。→イスラム法学,(嶋田襄平・柳橋博之) 36300,シャフラスターニー,シャフラスターニー,al-Sha<印7EE5>rast<印78E6>n<印77F5>,1076〜1153,ホラーサーンのシャフラスターン生れの#アシュアリー派#神学者。主著《諸分派と諸宗派の書》はアシュアリー派の立場に立って#シーア派#、#ハワーリジュ派#、#ムータジラ派#などイスラムの諸宗派・学派の主張の違いを述べたもので、#アシュアリー#、#イブン・ハズム#、バグダーディーなどの同様の書と同じく、分派学的著作に属する。その中にあって本書は、透徹した冷静な叙述と、イスラム以外の世界の諸宗教についても記述している点できわめてユニークである。,(中村廣治郎) 36400,ジャマーアテ・イスラーミー,ジャマーアテ・イスラーミー,Jam<印78E6><印78FE>at-e Isl<印78E6>m<印77F5>,,パキスタンのイスラム主義団体で政党。#マウドゥーディー#が中心人物であった。パキスタンにイスラム政府の実現を要求している。1941年8月創立され、国民会議派がインド・ムスリムを吸収することに反対するとともに、#ムスリム連盟#をイスラムの理想から程遠いものと批判した。パキスタンの分離独立後、ラホールに本部を移し、インドからの避難民に働きかけ、パンジャーブを中心に「イスラム国家」を掲げた。パキスタンの現実に幻滅した学生・知識人・中間階級の間に勢力を拡大した。49年、パキスタンの基本原則に関する「目標決議」が採択される際には、この団体は強力な圧力をかけてこれを要求した。これ以後、近代的民主国家を目指す政府・政治指導者との対立が激化し、53年ラホール暴動が起こると、厳しく弾圧された。58年成立の#アユーブ#政権下でも危険勢力とみなされ、71〜77年の#ブットー#政権とも対立した。ジヤーウル・ハック政権下で、政権の推進した「イスラム化」を支持し、勢力を増大した。アフガニスタンにソ連軍が進駐していたとき、反ソのムスリム義勇戦士勢力を支援した。アラブ世界とも密接な関係をもつ。現在、党首は第3代目。,(加賀谷寛) 36500,ジャマール・アッディーン,ジャマール・アッディーン,Jam<印78E6>l al-D<印77F5>n,,元代の天文・暦法・地理学者。中国名は札馬剌丁。おそらくイラン人と思われるが、その生没年および中国への移住の年代は不明。世祖フビライに仕え、1267年(至元4)「西域儀象」と呼ばれる7種類の天文・地理関係の器具を作製、また《万年暦》と呼ばれる暦書を編纂してともにフビライに献上した。71年(至元8)大都の回回司天台提点(イスラム天文台長)に任命され、73年(至元10)には秘書監の長官の職をも兼任してイスラム文献の収集に努めた。86年(至元23)地理図志編纂の必要性を上奏し、翌87年秘府纂修地図志監官(編集主任)となりその編集に着手、91年(至元28)《大一統志》755巻を完成して秘府に納めた。このようなジャマール・アッディーンの多方面にわたる活躍は、ムスリムをはじめとする「色目人」を重んじ、イスラム文化の中国への導入に多大の関心を示した元朝の政策をよく反映したものといえる。,(間野英二) 36600,ジャーミー,ジャーミー,J<印78E6>m<印77F5>,1414〜92,イランの神秘主義叙事詩人。ホラーサーン地方ジャームに生まれた。ヘラートの#ニザーミーヤ学院#に学び、サマルカンドでイスラム諸学を修め、神秘主義学者と仰がれ、生涯の大半をヘラートで送った。代表作《七つの王座》のうち、《ユースフとズライハー》はことに名高い。ほかにニザーミーの5部作と同じ主題の作品もある。近世ペルシア文学衰退期の最後の大詩人としてその名をとどめている。,(岡田恵美子) 36800,シャリーア,シャリーア,shar<印77F5><印78FE>a,,「イスラム法」「聖法」ともいう。この語は元来、「水場に至る道」を意味した。コーランには、語根の動詞・名詞形合わせて4例(5章48節、42章13・21節、45章18節)あるが、そこでは人間には従うべき「道」があり、それは人間の思惑や思いつきではなく、神が啓示し「定めた」真理として用いられている。人間はただそれを受け入れ、それに服従することによって救いに至るのである。シャリーアとは「人間の正しい生き方」の具体的表現にほかならない。ただイスラムでは、それは人間の理性や思惑ではなく、神の啓示によってのみ知られるとされる。イスラムにおいて正しく生きるとは、神に服従し従順であることを意味する。
 人間はいかなる時、いかなる場合でも、正しく考え、正しく行動しなければならないとすれば、神の正義は少なくとも理念的には人間生活の全分野に妥当するものでなければならない。事実、シャリーアは個々のムスリムの「宗教的」生活のみならず、「現世的」「世俗的」生活をも具体的に規制するものである。その内容は、浄め・懺悔・#礼拝#・#ザカート#・#断食#・#巡礼#・#葬制#などにかかわる「儀礼的規範」(#イバーダート#)から、#婚姻#・#離婚#、親子関係、#相続#、#奴隷#と自由人、契約・売買、#誓言#・証言、#ワクフ#(寄進財産)、訴訟・#裁判#、非ムスリムの権利と義務、犯罪と#刑罰#、戦争などの公・私両法にわたる「法的規範」(#ムアーマラート#)をも含む。そのようなものとして、シャリーアはまた特殊な人に限定されるのではなくて、未成年や禁治産者などを除いて、原則として共同体の成員すべてに等しく適用される規範である。イスラム共同体(#ウンマ#)とは、このシャリーアの理念の地上的表現として意味をもつ。
 このようにシャリーアは実定法的側面を含むとはいえ、本質的には信仰者の当然従うべきものとしての道徳的義務論である。とはいえ、現実の共同体の秩序維持のためにその一部は実定法として強制される。イスラムの政治への志向は、シャリーアのこの実定法的性格とその包括性に由来する。それだけにシャリーアの実際的適用は決して一律ではなく、現実に機能していたのは家族法的側面に限定されていたともいわれる。
 シャリーアは神の命令の具体的体系的表現として絶対不変であるが、他方ではそれは人間が解釈したものとして歴史的であり、それが古典的な形で成立するまでには2世紀を要した。法解釈の方法論として、コーランを補うものとして#スンナ#、#イジュマー#、#キヤース#が法源として確立したが、これらのいずれを重視し、どの範囲まで用いるかによって具体的解釈に違いが生じ、多くの学派が生まれた。今日では、#ハナフィー派#、#マーリク派#、#シャーフィイー派#、#ハンバル派#の四法学派がいずれも#スンナ派#の公認学派として残っている。#シーア派#にはこれとは別の学派がある。,(中村廣治郎), シャリーア体系化後の新しい事態に対処するため世俗法(#カーヌーン#)が定められ、また#アーダ#もシャリーアを補完する慣習法として広く用いられた。19世紀以降、民法・刑法などヨーロッパの法体系が強い影響力をもって適用され、またヨーロッパにならった基本法としての#憲法#が制定されたりするようになると、シャリーアの絶対性・完結性の理念はいたく傷つけられた。現代においてシャリーアの実施への要求が、改めて尖鋭な政治的争点とされる局面もみられるようになっている。→イスラム法学,(板垣雄三・佐藤次高) 37200,シャー・ワリー・ウッラー,シャー・ワリー・ウッラー,Sh<印78E6>h Wal<印77F5> All<印78E6>h,1703〜62,インドのイスラム思想家。デリー生れ。父は有名な#スーフィー#の学者。彼の生涯は、#ムガル帝国#の崩壊の時期にあたっていた。30歳前後のころ、メッカ、メディナで、イスラム神学・法学を学び、帰国後、一般ムスリムへの教育にあたり、ムスリムの間の社会慣習の改革を訴えた。彼はイスラムの思想の浄化を目指したが、単に、イスラム神学・宗教思想の面にとどまらず、当時の社会体制にまで批判を向けた。インドにおける近代イスラム思想の先駆者とみなされており、彼の死後、その理論は子のアブドゥル・アジーズに受け継がれ、実践へと移された。ワリー・ウッラーの思想は19世紀に入って反英運動へと発展していった。,(小名康之) 37300,十字軍,ジュウジグン,,,1096年に始まり、1291年のアッカ陥落をもってひとまず終結する十字軍運動の発端は、#エルサレム#を占領した#セルジューク#・トルコによる巡礼者の迫害にあったとされている。しかしセルジューク朝が異教徒の処遇について、イスラム法の#ジンミー#保護の規定を著しく逸脱した政策をとった事実は認められない。一般に当時のイスラム教徒は十字軍の真の目的を理解できず、ヨーロッパから来住したキリスト教徒の武装集団を、十字軍ではなく、単にフランク人Ifranj、Firanjと呼ぶのが慣例であった。ザンギー朝のヌール・アッディーンは#スンナ派#擁護の政策に基づいてイスラム世界の統一を図り、異教徒に対する#ジハード#を宣言して十字軍に対する最初の反撃を開始した。その成果は#アイユーブ朝#の#サラーフ・アッディーン#に受け継がれ、マムルーク朝の#バイバルス1世#もアッバース家のカリフを擁するスンナ派の国家体制を樹立して対十字軍戦争を遂行し、その勢力をシリアの海岸地帯に封じ込めた。イスラム軍の主力は#アミール#とその配下の#マムルーク#によって構成されていたが、これらのアミールはエジプト、シリアに#イクター#を授与された騎士であって、戦時には自ら装備を整えてスルタン軍に加わることが義務づけられていた。
 11世紀に至るまで、ヨーロッパ世界についてのイスラム教徒の知識は、そのほとんどが間接的な情報に基づくものであったから、戦闘を通じてヨーロッパのキリスト教徒とイスラム教徒が直接の交渉をもったことの意義は少なくなかった。少数ではあるが#ウサーマ・ブン・ムンキズ#のように十字軍騎士と親交を結ぶ者もあったし、戦時中一段と活発になった交易活動を通じて、砂糖生産やガラス工芸の技術なども西方に伝えられた。しかし200年に及ぶキリスト教徒との戦闘は、イスラム教徒の間に不寛容なスンナ派主義をはぐくむ結果となり、十字軍に対してばかりでなく、土着のキリスト教徒や#ユダヤ教#徒をも非難・攻撃する風潮が生まれた。,(佐藤次高) 37500,十二イマーム派,ジュウニイマームハ,Ithn<印78E6><印78FE>Ashar<印77F5>ya,,#シーア派#内の主要宗派で、#スンナ派#の正統四法学派と並んで、第6代イマーム、ジャーファル・アッサーディクにちなみジャーファル法学派と呼ぶこともある。#サファビー朝#以来現代に至るまでイランにおいて支配的である。そのほか、イラク南部、ペルシア湾岸、レバノン南部、インド、パキスタンなどにも同派が分布する。#アリー#を初代#イマーム#と認め、第2代ハサン、第3代#フサイン#をたて、この男系子孫を第12代ムハンマドまでたどる。教義上、各イマームは無垢無謬とされる。第12代は874年(872年の説もある)「隠れ」(#ガイバ#)の状態に入り、939年まで4人の「代理者」(#ワキール#、ナワーブ)による指導が行われた。この後現在まで「長期の隠れ」の期間に入っており、イマームは死んだのでなく、世の終末に「時の主」(サーヒベ・ザマーン、イマーメ・アスル)として再臨(#ルジューウ#)し、正義を実現するとされる。19世紀半ばに#バーブ教#はこの思想を背景として現れた。このようにイマームが隠れている間は、法学者(ファキーフ)だけがイマームの意図を識って信徒に指示を与える役割を行使する。イラン革命指導者#ホメイニー#が提起した「法学者の統治」(ヴェラーヤテ・ファキー)とはこのことを指している。スンナ派と同様に聖典コーランに次ぐ第2の典拠として#ハディース#を認めるが、さらに各イマームの言行をまとめた聖言行録(アフバール)をも重視する。この派の権威ある聖言行録は#ブワイフ朝#下に成立し、クライニー(939没)の《宗教の学問の大要》、イブン・バーブーヤ(991没)の《法学者の許に行かなくとも済む者》、トゥーシー(1068没)の《ハディースの検討》および《イスラム法の仕上げ》の4書である。この聖伝に従い、法学者の解釈に余地を与えまいとする主張は17世紀のアフバール派にみられた。これに対し、18世紀に法学者の解釈権#イジュティハード#を主張したウスール学派が勝利した。この結果、王朝支配から独立する法学者の「最高権威」(マルジャエ・タクリード)説が再確認された。近・現代にはムジュタヒドの上級者が#アーヤトッラー#の称号をもち、その下にフッジャトル・イスラームと称される法学者が多数いる。これら法学者を囲んで学生が学ぶモスク付属ないし聖地付属の学院が、コム、イラク南部(アタバート)にある。信徒はイスラム法の解釈についてこれら個々の法学者に直接質問し、指示を仰ぎ、密接な関係をもつ。信徒は所得に応じ「五分の一税」(ホムス)を彼らに差し出す。,(加賀谷寛) 37700,数珠,ジュズ,,,イスラム世界では遅くとも9世紀半ばころまでにインド方面の仏教徒から借用し、一般化したといわれる。#礼拝#時、#ジクル#の際、葬儀の際、神を讃美する定句を繰返し唱えるために用いられる。玉は木材、骨、角、貴石等のいずれかでつくられ、数は100(アッラーという名とともにその99の美名の合計数)または33が普通で、33または11個目ごとに異形の玉を、結び目にドーム形大玉を配置し、勘定の便に供している。また占いや魔除けにもなり、敬虔な者は平常、手から離すことがない。,(堀内勝) 37800,ジュナイド,ジュナイド,al-Junayd,?〜910,#イスラム神秘主義#者。ネハーヴェンドに生まれ、バグダードで没。彼は師の#ムハーシビー#が組織化した神秘主義修行法をさらに発展させ、体系を与えた。彼は神と人間(アダム)との原初の契約についての思索を出発点にする。神の律法の遵守により、人は神に回帰しうることを主張する。陶酔の神秘体験よりも醒悟のそれを重視する。したがって、神秘主義修行においても、#シャリーア#の規定を逸脱することを極力避ける。このような修行においてこそ、「称名の対象への滅却」が達成されるという。主著は《霊魂の薬》。,(松本耿郎) 38200,ジュンブラート,ジュンブラート,Kam<印78E6>l Jumblat, Janbal<印78E6><印73F3>,1917〜77,レバノンの政治家。#ドルーズ#の名門ジュンブラート家の首長。パリで文学と哲学を、ベイルートで法学を学ぶ。1940年代半ばから政治活動に参加、49年には社会改革を唱える進歩社会党を設立した。47年以後(57年のみを除き)連続して国会議員、しばしば閣僚となり、レバノン政界で有力な地位を占めた。52年シャムウーンにくみしてホーリー大統領を倒し、58年の内戦ではシャムウーンと対決した。1950年代に#ナーセル#の#アラブ民族主義#に共鳴し、60年代にはますます左翼化してレバノンのアラブ民族主義勢力を結集した国民戦線の指導者となり、パレスティナ抵抗運動を強力に支持したが、77年3月シューフ山中で暗殺された。主著《レバノン革命の真実》《レバノン政治の潮流》。,(木村喜博) 38800,シリア,シリア,al-Sh<印78E6>m,,西は地中海、東はメソポタミア、南はシナイ半島、北はタウルス山脈によって囲まれた地域。アラビア語ではシャーム。現在のシリア・アラブ共和国、レバノン共和国、ヨルダン王国、イスラエル(パレスティナ)の領土にほぼ相当する。東西交通の要衝にあって、早くからセム系諸民族による内陸貿易と地中海貿易が活発に行われ、シリア砂漠に接する平原のダマスクスやアレッポ、中央の山岳・高原地帯にあるエルサレムやアンティオキア、地中海岸のアッカやベイルートなど多くの都市が発達した。バビロニア、アッシリア、ローマ、ビザンティン帝国などの支配を経て、636年以降アラブの支配下に入り、#ウマイヤ朝#時代にはダマスクスに都が置かれたことから、多くのアラブがこの地に移住し、しだいにアラブ化・イスラム化が進行した。#アッバース朝#時代には帝国の一属州とされ、その後対#十字軍#の主戦場になったが、#アイユーブ朝#から#マムルーク朝#時代へかけて十字軍支配下の海岸都市は順次解放され、エジプトと結ばれたシリアは再び繁栄の時代を迎えた。16世紀初頭から#オスマン帝国#領に編入され、19世紀にはアラブ民族運動が起こるとともにパレスティナへのユダヤ人の入植が始まり、シリアをめぐる政治社会情況は極度に複雑な様相を呈するにいたった。
 シリアは東西貿易の中継地として重要であったばかりでなく、綿織物、ガラス、石けんなどの特産品がオリーブやイチジクなどの農産物とともにエジプトや小アジア、さらにはヨーロッパへと輸出された。しかし経済的にはイスラム史上常に重要な役割を演じたにもかかわらず、シリアに独立の王朝が形成されることはまれであったから、政治的にはイラクやエジプトに次いで第2の地位を占める場合が多かった。たとえば、12世紀以降、エジプトからシリアへの転封が#イクター#保有者の左遷を意味したことがこのことを端的に物語る。文化活動についてみると、9世紀のシリアではキリスト教徒がシリア語を介してギリシア語文献をアラビア語に翻訳して学問の発展に貢献し、また建築・工芸の分野ではビザンティン文化の伝統を継承して独自のイスラム文明を生み出した。民族・宗教の点では、アラブやクルド人の#スンナ派#イスラム教徒以外に、#ドルーズ派#や#アラウィー派#などの#シーア派#に属するアラブがおり、また、#マロン派#をはじめとする東方諸教会のキリスト教徒もかなりの数を占めて複雑な構成をなしてきたことが特徴である。,(佐藤次高) 38900,ジルジー・ザイダーン,ジルジー・ザイダーン,Jurj<印77F5> Zayd<印78E6>n,1861〜1914,アラブ文芸復興に寄与した知識人で、歴史小説家としても名高い。ベイルートに生まれ、医学を志したが、ベイルートのアメリカ大学の教授と不和になり、エジプトに移った。ジャーナリズムと文学に転じ、雑誌《ヒラール》を出版し(1892)、言語・歴史関係の記事および物語を精力的に掲載した。博学でイスラム史にまつわる歴史小説をシリーズで多数書いている。とりわけ有名な著書としては、《イスラム文明史》全5巻(1902)、《アラブ文学史》全4巻(1911)がある。,(奴田原睦明) 39000,ジン,ジン,jinn,,人間と同様、神により創造された思考力ある生物。精霊、霊鬼とも訳される。ユダヤ教・キリスト教的背景とは関係なく、アラブの俗信として古くからその存在が信じられていたが、コーランの中でもその存在が認められていることにより、イスラム期以降、#天使#やサタン(#シャイターン#)の解釈と絡まりあってそのイメージはますます豊富なものとなった。普段は不可視の存在であるが、凝結すると視認でき、煙や雲のような気体状からやがて固体となって顕現する。奇怪な動物のような姿、とくに蛇の形をとるが、変幻自在である。煙の出ない火(または炎)から創造され、その誕生は人間の祖で土から創造されたアダムより2000年も古いとされる。知力・体力ともに人間より優れ、知識量、創作能力、労働の耐久力に関するさまざまな逸話がある。ただソロモンにだけは対抗できなかったとされ、そのためジンの害悪からの厄よけにソロモンの名を用いることがある。人間と居住空間を同じくし、いたずら好きで、時には人間を死にすらいたらせる霊鬼であり、とくにその頭領がサタン(イブリース)だとして恐れるのが一般人のジン観である。ジンに取り憑かれた人をマジュヌーンといい、その語は後にもっぱら「狂人」の意味で用いられるようになったが、取り憑かれたジンの種類によってその特徴は異なる。マジュヌーンの一般的特徴は雄弁多才なことだとされ、詩人、歌手、巫女、占い師、説教師などは触霊によるとみられた。しかしジンの中にはムスリムのジンもあるので、こうした善性のジンに啓発された者は、ムスリム社会にとっても益をもたらすのであり、狂人が#聖者#扱いされる例がみられるのは、この観念の反映であった。人間に害悪を及ぼす悪性ジンは、その威力によってマリード、イフリート、シャイターン、ジン、ジャーンの順で格付けされているが、これらの悪性ジンは骨と死肉を主食とし、シトロン、赤いハト、鉄を忌み嫌い、コーランが読誦されると逃げ出すと信じられてきた。,(堀内勝) 39100,ジンナー,ジンナー,Mu<印7EE5>ammad Al<印77F5> Jinnah,1876〜1948,「パキスタン建国の父」とされる政治家。#ホジャ#派ムスリムの皮革商の子としてカラチに生まれた。1896年弁護士の資格を得てロンドンから帰国後、ボンベイで弁護士として名をなし、1906年D.ナオロジーの秘書を務めたことを機に政治活動に入った。初期においてはヒンドゥーとムスリムの統一に基づく民族運動の路線を進み、16年#ムスリム連盟#議長となり、インドの自治に関する国民会議派・ムスリム連盟協定の成立に尽力し、自治要求連盟でも積極的役割を果たした。しかし20年のガンディー指導の非暴力的抵抗闘争には強く反対し、会議派を離れた。20〜30年代初め、長くロンドンに滞在する中で、インド・ムスリム独自の利害擁護の方向に傾いた。34年帰国後は、分裂・停滞していたムスリム連盟の組織再建に着手し、37年以降一定の成果を収め、ガンディーおよび国民会議派との対抗姿勢をいっそう鮮明にした。40年の連盟ラホール大会でヒンドゥー・ムスリム「二民族論」を展開し、ムスリム多住地区の分離をうたう「パキスタン決議」を採択させた。以後、連盟の支持基盤を学生・農民を含む広範な層にまで広げて大衆的政党へと成長させ、イギリス統治者に対して、国民会議派と同等の立場で交渉する位置にまで高めた。独立後初代のパキスタン総督となったが、パキスタンをイスラム国家でなく、世俗国家とすべきであることを宣言。48年11月病死し、新生国は早くも政治的危機を迎えた。,(内藤雅雄) 39400,ズー・アンヌーン,ズー・アンヌーン,Dh<印7CF3> al-N<印7CF3>n,ca.796〜861,エジプト生れの#イスラム神秘主義#思想家。カイロでイスラム諸学を修めた後、メッカからダマスクスに遊学して#スーフィー#としての修行を積み、晩年には大衆に神秘主義思想を説いたかどで一時投獄された。神に対する「愛」の重要性を認め、その導きによって修行過程を極めれば、神の顔を目のあたりにするワジュド(恍惚)の域に達するとした。この時の認識を、グノーシス(神秘的知識)の思想を援用して#マーリファ#(感性的知識)と呼び、神秘主義思想の理論化に大きく貢献した。,(佐藤次高) 40200,スフラワルディー,スフラワルディー,Shih<印78E6>b al-D<印77F5>n Ya<印7EE5>y<印78E6> al-Suhraward<印77F5>,1155〜91,ペルシア・イスラム思想家。イランのスフラワルドに生まれ、シリアのアレッポで没した。一般に、「東方照明学の師」として知られている。イスファハーンの学園でイスラム諸学を修得した後、西アジアを巡歴した。その間にイスラム神秘思想を学ぶ。他方、古代ペルシアに伝わったプラトン哲学およびグノーシス哲学からも霊感を得て、独自の神智学を完成した。才気煥発、傲岸不遜な人柄と非イスラム的概念を多く混入させた学説は、保守的な学者たちの反感を買い、ついにアレッポで獄死することになった。その学説において、彼は#イブン・シーナー#の存在・形相・質料の概念を骨格とする世界像を拒否する。イブン・シーナーのような哲学では、真理の観念的理解はなしうるが、真の真理観照は成就しないとする。他方、#ビスターミー#のような神秘主義者も浄化された霊魂を通じて真理を垣間見た者にすぎないとみなしている。そこで、真理の全容を認識するには、真理の象徴である現象の分析法を根本的に変革する。彼は古代イランの#ゾロアスター教#の光明と暗黒の二元的世界観から霊感を得て、全宇宙の諸現象を「光の光」と名づけられる至上の神的本質の発光の階層的発現相とみなす。かくして各層に発現する光は、その強弱に応じそれぞれ小宇宙を形成する。この光が到達せぬ光の欠如する世界は、闇の世界であり、無の領域となる。したがって、光は「無」に対立する「存在」と呼びうる。しかし、スフラワルディーの「光」は観念的なものではなく、霊魂の透徹した領域において認識可能なものである。彼はこのようにして宇宙論と認識論の統一に成功し、人はその照明的原像である天使ジブラーイール(ガブリエル)と合体することにより、至福の境地に到達しうるとする。主著は《東方照明の哲学》。,(松本耿郎) 40300,スフラワルディー教団,スフラワルディーキョウダン,Suhraward<印77F5>,,スフラワルディー(1097〜1168)を創立者とするイスラム神秘主義教団(#タリーカ#)。12世紀にバグダードでスフラワルディーのために修道場が建てられ、教団の基礎がつくられた。13世紀にはスフラワルディーの甥によって教団の活動が活発化し、このころからイスラム世界の各地に広がっていくようになった。シリア、エジプト、トルコなどに広まったが、この教団の活動が最も注目されるのは、インドにおいてである。13世紀に#デリー・スルタン朝#で勢力をもつようになり、以後、インドの宮廷や#スンナ派##ウラマー#と結びつき、勢力を拡大していった。その宗教的立場は逸脱的傾向に走らず、穏健なものであった。,(古林清一) 40900,スワヒリ,スワヒリ,Swahili,,東アフリカのケニア、タンザニア、モザンビーク北部の海岸地帯に住むバントゥー族のイスラム教徒、および彼らの言語の総称。「海岸に住む人々」を指すアラビア語サワーヒリーから転訛した。10世紀以後アラブの#商人#の東アフリカ沿海貿易が盛んになったが、その影響を受けてイスラム教徒となり、音韻や文法構造はバントゥー語そのものでありながら、きわめて豊富な#アラビア語#の語彙を取り入れた言葉を話したのがスワヒリで、14世紀にペルシア語、16世紀にはポルトガル語の若干の語彙も取り入れられた。17世紀のオマーンの支配時代に、ザンジバルからビクトリア湖、タンガニーカ湖、ニヤサ湖に至る通商路が開かれたが、この内陸商業を独占したのがスワヒリ商人で、その結果スワヒリ語は商業用語として東アフリカ一帯に広まった。ドイツ、イギリスの植民地時代に彼らの多くは内陸部に定住させられ、その文化的影響により内陸部のバントゥー族のイスラム化が進んだ。,(嶋田襄平) 41000,スンナ,スンナ,sunna,,イスラム以前では、この語は各部族の「先祖代々踏みならわされてきた道」の意に用いられていた。コーランでは、「昔の人々のやり口」「慣行」(8章38節、35章43節など)、「神の慣行」(17章77節、33章62節など)のように、神に遣わされた使徒たちを否認し迫害して受けた神罰に関連して用いられている。イスラムにおける最も典型的な用法は、「預言者のスンナ」つまりムハンマドの範例・慣行のことであり、一般に正しい伝統、ムスリムの守るべき正しい基準を意味する。これに反すること、あるいはそこにない新奇なことはビドア(逸脱、異端)として否定される。この意味におけるスンナは、イスラム法の古典理論にいう四つの法源(#ウスール#)、すなわちコーラン、スンナ、#イジュマー#(共同体の合意)、#キヤース#(類推)の一つとして、コーランに次ぐ権威をもつ。しかし、スンナ自体は抽象的概念であって、その実質的内容を表すのが#ハディース#と呼ばれるムハンマドの言行についての伝承である。つまり、スンナはハディースという容れ物の中にある。しかし、このようなスンナ=ハディースの考え方が最初から法理論として確定していたわけではない。初めはスンナといえば、それは預言者に直接接することのできた#サハーバ#(教友)たちにまでさかのぼるとされる各地の「生きた法的慣行・伝統」を指す語であった。このような多様な「生きた法的伝統」としてのスンナ概念を否定して、口頭で伝えられるハディースの中にこそ預言者の真のスンナがあるとして、#シャリーア#の古典理論を確立したのが、#シャーフィイー#である。とはいえ、このことはシャーフィイー以前にムスリムの模倣すべき「預言者の範例」としてのスンナの観念がまったくなかったということを意味するものではない。ただそれは「生きた伝統」の中に暗黙のうちに存在していたとみるべきであろう。
 このほかスンナの語は、イスラム法規範の効力についての五つのカテゴリーの第2のマンドゥーブ(義務ではないが望ましい)と同義に用いられる。→イスラム法学、スンナ派,(中村廣治郎) 41100,スンナ派,スンナハ,Sunna,,#シーア派#とともにイスラムを2分する一派である。スンニー派とも呼ばれる。イスラム共同体内で圧倒的多数を占めるため、しばしば「正統派」と呼ばれるが、これはあくまでもスンナ派側からみた場合の呼称である。正式には「スンナと共同体の民」といわれる。その意味は、イスラム共同体が全体として受け入れてきた預言者の#スンナ#(慣行、範例)に従う人々ということである。イスラムにおいてスンナといえば、それは預言者ムハンマドのスンナのことであるが、それを具体的にどのようにして知るかで意見が分かれる。シーア派が預言者の血を引き、その後継者である#イマーム#の宗教的権威を強調し、その伝承を通してスンナを解釈するのに対して、スンナ派は広く#サハーバ#(教友)から語り伝えられてきた、いわゆる#ハディース#の中にスンナは見いだされるとした。このためにハディースの批判的収集が行われ、#ブハーリー#や#ムスリム#などがそれぞれ個別に集録した六つの伝承集が最も権威あるものとして一般に認められた。こうしてコーラン解釈の第1の拠り所としてのスンナの実質的内容が確定することにより、コーラン、#スンナ#、#イジュマー#(共同体の合意)、#キヤース#(類推)の四法源が確定する。もっとも、スンナが確立したといっても、多くのハディースの中にはその信憑性において完全でないものもあり、それをどこまで顧慮するか、したがってまた、キヤースをどこまで多用するか、によって法解釈に相違が生ずる。これがさまざまな法学派を生むことになるが、最終的には#ハナフィー派#、#マーリク派#、#シャーフィイー派#、#ハンバル派#の四法学派が共同体的承認を得てスンナ派の公的学派として確立し、今日にいたっている。したがって、スンナ派ムスリムとは、形式的には「#六信#」と呼ばれる基本的信条、すなわち#アッラー#、#天使#、啓典、#預言者#、来世(#アーヒラ#)、予定を受け入れ、「五行」ないしは「五柱」と呼ばれる基本的義務、すなわち信仰告白(#シャハーダ#)、#礼拝#、喜捨(#ザカート#)、#断食#、#巡礼#を果たし、四法学派のいずれかの法学派に従って日常生活を規制する人々のことをいう。
 シーア派がイマームの不可謬説をとるのに対して、スンナ派はイジュマーの不可謬説をとる。このことは、コーラン解釈の実際上の最終的権威が共同体全体にあることを意味する。このことは、「スンナと共同体の人々」として、また絶対多数派・体制派としてのスンナ派が共同体の統一とその合意をいかに重視したかを示している。→イスラム法学,(中村廣治郎) 41900,セルジューク朝,セルジュークチョウ,Salj<印7CF3>q,1038〜1194,トルコ系の王朝。大セルジューク朝とも呼ばれる。#トゥルクマーン#の族長セルジュークは、カスピ海、アラル海の北方方面より10世紀末にシル・ダリヤ河口のジャンドへ移住してムスリムとなり、#ガージー#を集めて勢力をなした。その子イスラーイールは、#サーマーン朝#、次いで#カラ・ハーン朝#、#ガズナ朝#と同盟して力を伸ばした。その甥のトゥグリル・ベク、チャグリー・ベクらは、1038年ニーシャープールに無血入城し、40年にはダンダーナカーンの戦でガズナ朝軍を破り、ホラーサーンの支配権を手中に入れた。55年にトゥグリル・ベクはバグダードに入り、#アッバース朝#カリフより史上初めて#スルタン#の称号を公式に受け、東方イスラム世界における支配者として公認された。セルジューク朝の進出が大きな混乱・破壊を伴わなかったのは、すでにイスラムに改宗し、「信仰の擁護者」として出現したためである。次のアルプ・アルスラーンは、グルジア、シリアへ遠征し、71年には東アナトリアの#マラーズギルドの戦#でビザンティン軍を破った。第3代スルタン、マリク・シャーの時代が最盛期で、版図はシリア、ホラズムから、東はフェルガーナ、南はペルシア湾にまで達し、イエメンやバフラインにまで遠征軍を派遣した。
 宮廷ではペルシア語が使われ、ペルシア文学、イスラム諸学の黄金時代を迎えた。詩人では、#ウマル・ハイヤーム#、アンワリー、神学者では#ガザーリー#が名高く、彼はまた、政治理論として、スルタンと#カリフ#の相互依存関係を説いた。官僚としてはイラン人が登用された。その代表的な存在が#ニザーム・アルムルク#で、彼の創設した#ニザーミーヤ学院#は、地方都市の発達を反映して、バグダード以外の地にもつくられ、#スンナ派#神学・法学の振興と、国家のための人材養成の機関となった。
 軍隊は初期には遊牧のトゥルクマーンであったが、やがて#マムルーク#、グラームと呼ばれる奴隷軍人が中心となり、#アミール#の大部分も彼らによって占められた。奴隷軍人は、総司令官、地方総督、#アター・ベク#および大#イクター#保有者となった。ニザーム・アルムルクはイクターの管理を強化しようとしたが、マリク・シャーの没後、王族間の内戦によって中央権力が弱体化し、イクター保有者の世襲・独立化の傾向が強まった。国土は初期の時代からマリクと呼ばれる王族の間で分割されており、スルタン位継承をめぐっての内紛も多く、マムルークの優遇に不満を抱くトゥルクマーンもこれに荷担した。歴代のスルタンはアナトリアへ進出する積極的な意図はなく、新たにマー・ワラー・アンナフル方面より流入したトゥルクマーンや反乱に失敗した王族らが、西方へ移動して#ルーム・セルジューク朝#を建国し、アナトリアのトルコ化への先鞭をつけた。サンジャルの時代に一時王朝の再統一がなされたものの、ジャジーラ、シリア、アゼルバイジャンではアター・ベクたちが独立し、カラ・キタイの侵入、遊牧トルコ族であるオグズの反乱により東部州が混乱し、サンジャル自身もオグズの捕虜となって、スルタンの権威は地に落ちた。彼の死後、イラクとケルマーンにセルジューク朝の地方政権が残ったが、前者は#ホラズム・シャー朝#に、後者はオグズによって滅ぼされた。,(清水宏祐) 42400,ゾロアスター教,ゾロアスターキョウ,Zoroaster,,アベスター語ではZarathushtra、現代ペルシア語ではZartosht,Zardosht。紀元前1000年前後、一説に前7〜前6世紀ころ、東イランで活躍したとされるゾロアスターの創唱した世界最古の預言者宗教。その最高神アフラ・マズダにちなみマズダ教、また拝火教ともいわれる。アラブによるイラン征服までイランの国教の地位を占めていた。その聖典を《アベスター》と称する。この世界は、相反する根源的な2霊、聖霊(スパンタ・マンユ)と破壊霊(アンラ・マンユ、アフリマンはこの中世語形)の闘争のただ中に位置づけられ、各人は自由意志でその両霊のいずれかを選択して、善と悪、真実と虚偽の熾烈な戦いに加わることを要請される。この戦いにアフラ・マズダと信徒を助けるのが、「聖なる不死者」と呼ばれる6神格であり、物質世界にそれぞれ、火・水・大地などの特定の庇護物を有する。信徒は、とくにこの3要素を汚すことを忌み、拝火教の通称が示すように特異な祭祀様式や、鳥葬・風葬のための「沈黙の塔」を発達させた。ササン朝のころには、アフラ・マズダそのものが、破壊霊アフリマンと同列化され、両者を、ともに超越する根本原理「無際時」の双生児とする教義(いわゆるズルバン教)が勢力を得た。#シーア派#の第4代イマーム、#アリー#は、ササン朝最後の王ヤズデギルドの娘より生まれ出た、とする口承が流布し、多くのゾロアスター教徒が、シーア派イスラムを受容する動因となった。ユダヤ教、キリスト教、イスラムにみられる個別審判、#天国#と#地獄#、最後の審判とそれに先立つ肉体の復活などは、ゾロアスター自身の教説を継承したものと考えられる。現在、アラブの征服後ゾロアスター教徒が集団的に移住したボンベイを中心にインドに約8万人弱(パールシーと呼ばれる)、ヤズド、ケルマーンを中心にイランに約5万人、パキスタンに約5000人の教徒が数えられ、善思・善語・善行の生活を送っている。,(上岡弘二) 42600,ダーイー,ダーイー,d<印78E6><印78FE><印77F5>,,「宣伝者」「布教者」を意味するアラビア語。この語は初期の#ムータジラ派#に用いられ、その後アッバース家運動においては、主としてホラーサーン地方において同家への忠誠を呼びかけた者たちがこう呼ばれた。イスマーイール派運動においては、#イマーム#から正式に任命された布教者がダーイーと呼ばれ、イマームは自らをダーイー・アルドゥアート(最高ダーイー)と称した。ダーイーは階級的に組織され、各ダーイーにそれぞれ一定の布教地域が割り当てられ、任地において秘密裡に布教活動を行い、勢力の拡大に努めた。同派の支配地域においては、ダーイーは同地域の最高責任者として宗教事項を扱った。#ファーティマ朝#においては、ダーイーは布教者であり、同朝の代理人でもあった。#ニザール派#においては、初めファーティマ朝のダーイー制度にならったが、後にダーイーは同派の最高指導者に対する普通の称号として用いられた。,(黒柳恒男) 42700,ダイラム,ダイラム,Daylam,,カスピ海南西岸の山岳地帯の古名。東のタバリスターン、西のギーラーン地方も広義のダイラムと呼ばれることがあったが、正確には、この両者にはさまれた地方をいう。峻険な地形のため、アラブの征服の時代にもイスラム化することがなく、カドホダーと呼ばれるものが支配する、家父長制的で閉鎖的な社会であったという。言語はペルシア語の一分派で、女性も農耕に従事し、牧羊も行われていた。9世紀後半より、#ザイド派#の布教によって#シーア派#のイスラムに改宗するものが増え、イスラム世界への進出も活発になった。ダイラム人は、ササン朝時代から忍耐強い精強な歩兵として知られ、#ガズナ朝#、#ファーティマ朝#など各地で傭兵として使われた。#セルジューク朝#の#ニザーム・アルムルク#も、《政治の書》の中で、トルコ人と並んでダイラム人を軍隊に加えることを推奨している。タバリスターン、ゴルガーンを支配したジヤール朝(927〜ca.1090)、東方イスラム世界の盟主となった#ブワイフ朝#、中央イランのカークワイフ朝(1008〜51)は、いずれもダイラム人自らが建てた王朝である。11世紀の末には、ダイラム地方の中心地アラムートが#ニザール派#の#ハサン・サッバーフ#の手に落ち、フラグのモンゴル軍に滅ぼされるまで難攻不落を誇った。教団の刺客、#フィダーイー#となったダイラム人も多い。,(清水宏祐) 42800,ダーウード・アッザーヒリー,ダーウード・アッザーヒリー,D<印78E6>w<印7CF3>d al-<印78F7><印78E6>hir<印77F5>,ca.815〜883,#スンナ派#イスラムの法学者で#ザーヒル派#の祖。クーファに生まれて#シャーフィイー派#の法学を学び、のちバグダードに住んで独自の法学を教え、その地で没。#ウスール#(法源)をコーラン、#ハディース#、#サハーバ#(教友)の#イジュマー#(合意)だけに限り、しかもその文字どおりの意味(ザーヒル)に忠実に従うことを主張した。#イブン・アンナディーム#はダーウード・アッザーヒリーの多くの著作を記録しているが、現存するものはない。,(嶋田襄平) 42900,タウヒード,タウヒード,taw<印7EE5><印77F5>d,,神の唯一性のこと。「一つである」を意味する動詞の第2型で「一つにする」「一つと認める」を意味するワッハダの動名詞。イスラムにおける主要な基本的教義である。#イスラム神学#が時として「タウヒードの学」と呼ばれるのはそのためである。しかし、一口にタウヒードといっても、人により、また学派や宗派によってその具体的内容は異なる。たとえば、一般のムスリムにとっては、それは「#アッラー#のほかに神なし」ということを告白し、他の神を現実に崇拝しないことである。神学者にとっては、神が一つということは、神の独一性、神と被造物との隔絶性、具体的にはコーランや#ハディース#の「擬人的」表現の解釈をめぐる議論である。これについて、#ムータジラ派#は神の絶対的唯一性を説く立場から多性を示すとする神の属性を否定するのに対して、#アシュアリー派#はこれを認める。また#スーフィー#たちは、これを自我意識が消滅してすべてが神に包摂されてしまっているファナーの意味に用いる。
 最近では、この語は、とくに#マウドゥーディー#、#アリー・シャリーアティー#、#サイイド・クトゥブ#らのイスラム主義者によって、イスラムの包括的生活様式性や政教一致を意味するものとして用いられている。,(中村廣治郎) 43000,タキーヤ,タキーヤ,taq<印77F5>ya,,「恐れ」「警戒」を意味するアラビア語であるが、イスラムの用語としてはキトマーン、すなわち「危害を加えられる恐れのある場合に意図的に信仰を隠すこと」の意味に用いられる。最初にタキーヤを認めたのは、#ハワーリジュ派#の一派の#イバード派#であったが、のち#シーア派#諸派によって継承発展させられた。シーア派は、信仰は心と舌(言葉)と手(行為)によって表現されるが、もし自己または同信者の生命財産に危害の加えられることが確実であるか、またはその可能性が強ければ、舌と手による信仰の表現は隠してもよいとした。これは少数派として抑圧され、しばしば弾圧を経験したシーア派の自己防衛の手段で、彼らは最初の3代のカリフ在位中の#アリー#と、#ガイバ#中の#マフディー#はタキーヤの状態にあるとした。#スンナ派#でも、異教徒から危害が加えられる恐れのある場合にはタキーヤを認める見解が、#タバリー#の《タフシール》にみえる。,(嶋田襄平) 43400,タサウウフ,タサウウフ,ta<印7CE3>awwuf,,#イスラム神秘主義#に対する#スーフィー#自身の呼称。この語はスーフィーから派生した動詞第5型の動名詞で、元来、「スーフィーになること」「スーフィーとして生きること」を意味した。→イスラム神秘主義,(中村廣治郎) 43500,タジク,タジク,T<印78E6>j<印77F5>k,,中央アジアの東イラン系諸族から形成された民族とその言語。タジクという語の起源は、アラブの一部族を指したペルシア語にあるが、#サーマーン朝#期以後、トルコ人はペルシア人を特定してタジクと呼び、また自称するようになるとマー・ワラー・アンナフルの定住民として民族形成が行われたとみられる。ほとんどが#スンナ派#イスラムに属した。16世紀以降ウズベクの支配下でトルコ化の影響を受け、また19世紀以後はブハーラー・ハーン国のもとでしだいに南部山岳地帯に追われ、次いでロシアに従属し、ロシア革命後、一時ウズベク共和国に入ったが、1929年、タジク社会主義共和国が成立した。ソ連崩壊に伴い、91年にタジキスタン共和国として独立したが、翌年から内戦状態に入った。→イラン,(梅村坦) 43600,ダスーキー,ダスーキー,al-Das<印7CF3>q<印77F5>,1235〜78,イスラム神秘主義思想家。神秘主義教団(#タリーカ#)ダスーキー教団の創設者である。エジプトのナイル川下流のダスークに生まれ、その地で没した。#スンナ派#の戒律を厳しく守りながらも、この教団の宗教儀礼には#コプト#教会や古代エジプトの祭礼に由来すると思われる要素がみられる。このため、この教団の勢力はエジプトから外に出ることはなかった。,(松本耿郎) 44100,ターハー・フサイン,ターハー・フサイン,<印75E7><印78E6>h<印78E6> <印7CE9>usayn,1889〜1973,エジプトの誇る碩学で、アミード・アルアダブ(文学の巨柱)の称号を与えられ、作家でもある。エジプト、ミニヤー県のマガーガ村で、父が製糖会社で働く貧しい家庭に生まれた。3歳の時眼炎にかかり、それが原因で失明。9歳にしてコーランを暗記し、やがて#アズハル#に入った。そのあたりの経緯は彼の自伝的作品《アイヤーム》(日々の書)に詳しく語られている。〈アブー・アラーの回想〉を博士論文に仕上げ、渡仏した。帰国後は当時のエジプトが直面していた新旧両派の思想的対立、教育問題、言文一致運動に自由主義的立場から積極的にかかわった。それによって彼は、アズハルを中心とする旧来の保守的なイスラム学者と対立することとなった。1929年エジプト人として初のエジプト大学(後のカイロ大学)文学部長、後に文部大臣となり、教育の普及に大きな貢献をした。学術論文、小説、文芸評論、啓蒙的意図のもとに書かれた教育・社会評論、さらに翻訳など膨大な著作があり、激動期のエジプトを生きた知識人として大きな足跡を残した。,(奴田原睦明) 44300,ターバン,ターバン,<印78FE>im<印78E6>ma,,アラビア語ではイマーマと呼ばれる。普通ターキーヤという、頭にきっちりはまる綿地の丸帽をかぶり、その上に巻くが、これは汗を抑える効果がある。ターバンはその色によって、宗派、家系、王朝、職能を区別する機能をもった。たとえば#アッバース朝#では黒、#ファーティマ朝#では白いターバンが使われた。時代がより近くなると、白地のターバンは#アズハル#で学んだ#シャイフ#層および農村部の老人が一般に使った。黒地は#コプト#教徒、#ユダヤ教#徒、サード・ザグルール支持者、さらにリファーイー教団の#デルヴィーシュ#のターバンの色となった。緑色は預言者ムハンマドの子孫を示す色となり、赤色はバイユーミー教団のデルヴィーシュのシンボルとなった。近代になるとターバンを巻く者をムアンマムといい、保守伝統派をなし、一方タルブーシュ帽をかぶる者はムタルバシュと呼ばれ、進歩派となり対立がみられたが、トルコでもケマル・アタテュルクが宗教人以外にはターバンを廃止させ、エジプトでは現在アズハルのシャイフや農村部の老人層がつけるのみとなった。→帽子,(奴田原睦明) 44400,旅,タビ,,,ムスリムにとっての旅とは、まず第1に#巡礼#である。交通機関の発展していない時代にあっては、多くムスリムにとって、巡礼はまさに一生に1度の大旅行であった。巡礼団を組織し、警備の兵をつけて送り出すのは#カリフ#の任務であり、後には各地の#スルタン#の任務であった。このようなグループに属さないで個人の資格で巡礼に行く人々もあったが、アラビア半島を横切り#メッカ#、#メディナ#に行くのは、いずれにしても大変な旅行であった。巡礼のルートは貿易ルートとも重なっており、メッカは宗教的聖地であるとともに、活発な交易の場でもあった。また各地から多くの人々が集まるために、情報交換の場所であった。とくに#ウラマー#にとっては、メッカ、メディナはイスラムの学問のセンターでもあり、巡礼をすませた後もそのままとどまる学者も多くいた。交通機関の発達した現代においてさえ、メッカ巡礼は決して容易な旅ではない。大量輸送機関の発達により、毎年100万人以上のムスリムが巡礼のために聖地を訪れるが、経済的にも時間的にもかなり負担であることは変りがなく、依然として多くのムスリムにとっては一生に1度の大旅行である。さまざまの負担にもかかわらず、すべてのムスリムが熱望する旅行であることは、昔も現在も同じである。そしてムスリムにとって巡礼の旅は、宗教的義務の履行であると同時に、世界各地のムスリム同胞の連帯の象徴であることも時代を問わない。
 学問を求める旅もイスラム初期からみられた。各地に散らばる#ハディース#伝承者を訪ねハディースを収集することは、ハディース学の重要な方法である。他の学問においても、各地の評判の高い学者を訪ね教えを乞うことは盛んに行われた。#イブン・ハルドゥーン#も、学問の研鑽の最高の方法は、各地の偉大な学者から教えを乞うために旅をすることだと述べている。多くのウラマーにとって、学問を求める旅は特別のことではなく、普通の生活の一部となっていた。このような学者の旅を可能にしたのは、#ワクフ#(寄進財産)制度とジワール(隣人保護)のような保護の制度である。これらの制度がイスラム世界の各地で機能していたからこそ、中世において#イブン・ジュバイル#や#イブン・バットゥータ#のような人々があれだけの大旅行をなし得たのである。
 イスラム世界の商業の発展は、商業上の旅をきわめて活発なものにした。貿易#商人#は#インド洋#や地中海を渡り、各地に商業ネットワークを張りめぐらし、陸上では都市間を#キャラヴァンサライ#(隊商宿)が結びつけた。大規模な#キャラヴァン#を組み高価な商品を扱う専門的大商人から、巡礼の途中に商いをしながら聖地にいたる人まで、この種の旅行はイスラム世界のいたる所で盛んに行われた。商業上の旅を支えていたのは、通商路の安全を維持し、旅行者の便宜を図るためのさまざまな制度や施設である。安全の維持は国家的政策の場合もあるし、商人たちと遊牧民の間の安全保障の契約もあるし、いろいろなレベルで図られた。
 近代以前のムスリムの旅の特徴は、上記のような異なった旅の目的が、一つの旅の中に結びつけられることがしばしばあったことである。商売をしながら聖地巡礼を行い、その帰途各地の学者に教えを乞う、商人であると同時にウラマーの一員である人はたくさんいた。この点で近代以降のムスリムの旅は、目的が特殊化しているうえに、学問の旅は明らかに少なくなっている。,(湯川武) 44500,タフシール,タフシール,tafs<印77F5>r,,元来、「説明」「注釈」の意であるが、後にはコーランの解釈およびその学問を指す言葉として一般に用いられるようになる。初期にはコーラン解釈は#ハディース#学と深く結びついていたが、後にはおもに文法的・文献学的解釈を指すようになる。これに対して比喩的・象徴的解釈をターウィールというが、一般に#スンナ派#はこれを認めない。コーラン注釈書としては、#タバリー#、#ザマフシャリー#、バイダーウィーらのそれが有名である。,(中村廣治郎) 44600,タフターウィー,タフターウィー,al-<印75E7>ah<印73F3><印78E6>w<印77F5>,1801〜73,19世紀エジプトの思想家。上エジプトのタフター村の有力者の家系に生まれ、#アズハル#学院に学ぶ。1826年、#ムハンマド・アリー#が派遣した留学生たちを引率する#イマーム#として渡仏し、5年間のパリ滞在中、七月革命を目撃し、フランス語を修得し、フランス啓蒙思想の理解を深めた。帰国後、《官報》の編集長、翻訳局長などを務め、ナポレオン法典やモンテスキューの著作などを翻訳し、ブーラーク印刷所から#イブン・ハルドゥーン#などのアラビア語古典を出版し、また自ら精力的な著作活動を行って、イスラムの伝統的概念を駆使しつつ、伝統的#ウンマ#理念に代えてワタン(祖国)と新たなウンマ理念(国民)を強調するなどきわめて開明的な思想を展開した。,(加藤博) 44800,ダマスクス,ダマスクス,Dimashq,,シリア・アラブ共和国の首都。アラビア語ではディマシュク。シャームともいう。人口300万(1990)。シリア地方の中央部に位置し、古来東西交通の要地として繁栄、紀元前10世紀にはアラム王国の首都となったが、その後アッシリアやペルシア、ローマの支配を経て、635年アラブ軍によって征服され、イスラムの支配下に組み込まれた。#ウマイヤ朝#時代にはその首都として大いに栄え、ムスリムの増大に対処するため聖ヨハネ教会を改修して#ウマイヤ・モスク#がつくられた。#アッバース朝#時代になると帝国の首都は東方のバグダードへ移り、ダマスクスは諸勢力の争奪の的となって政局は混乱したが、その過程で住民による生活自衛のための#ハーラ#(街区)づくりが進められた。ザンギー朝のヌール・アッディーンは12世紀半ばからここに居を定め、#ファーティマ朝#や#十字軍#に対抗して#スンナ派#擁護の政策を推進、アーディリーヤ学院(現、アラブ・アカデミー)をはじめとする多数の#マドラサ#を建設した。#アイユーブ朝#もこの政策を踏襲し、安定した政権のもとに商工業は発展してダマスクスは最盛期を迎えた。#マムルーク朝#治下においてもカイロに次ぐ帝国第2の都市として繁栄を続けたが、13世紀末にモンゴル軍によって一時占領され、1400年にはティムールの徹底的な略奪・破壊を受けて衰えた。
 1516年以降は#オスマン帝国#の一州都となったが、#メッカ##巡礼#とヨーロッパ貿易によって再び活況を取り戻した。とくにメッカ巡礼の宿駅としてここには毎年多くの巡礼者が集結し、ダマスクス総督はアミール・アルハッジュとしてその保護と統制に当たった。19世紀初めには一時エジプトの占領下に置かれたが、その後ヨーロッパからの来住者が増大し、カシオン山麓の一帯に新しい市街地が形成された。1920年からフランスの委任統治が始まり、ダマスクス市民は独立を求めて#ドルーズ派#とともに蜂起、これは翌年鎮圧されたが、46年シリア共和国が独立するとその首都に定められた。,(佐藤次高) 44900,タラアト・ハルブ,タラアト・ハルブ,<印75E7>ala<印78FE>at <印7CE9>arb,1867〜1941,エジプト近代産業の先駆者。1889年、法律および言語学校を卒業し、ダーイラ・サーニヤ(政府没収地管理委託会社)をはじめ、外国企業での経営実務についた。1907年恐慌で綿価暴落にあえぐエジプト国内の状況を前にして、外国資本の金融・産業独占を批判、民族銀行設立による金融的自立の重要性を説く執筆・講演活動を展開した。その主張は、第1次世界大戦直後のエジプト民族独立闘争(1919年革命)と呼応し、20年エジプト人出資金のみによるミスル銀行の設立をみた。総裁に就任したタラアト・ハルブは、同行を軸に近代産業群(ミスル企業)の発展を推進し、エジプトを綿花生産依存型の植民地経済構造から脱却させることに貢献した。《イスラム国家の歴史》《エジプト経済の治療およびエジプト銀行・国立銀行設立計画》などを著した。,(藤田進) 45400,ダール・アルヒクマ,ダール・アルヒクマ,D<印78E6>r al-<印7CE9>ikma,,「知恵の館」を意味し、#ファーティマ朝#時代、カイロにつくられた学問のセンター。第6代カリフ、#ハーキム#が1005年に西王宮の一隅に開設した。ダール・アルイルム(#ダール・アルウルーム#)とも呼ばれる。#イスマーイール派#の学問の中心として、神学・法学などの研究教育の場であり、同派の布教活動と密接に結びついていた。哲学、数学、天文学などの研究も行われた。館内には、読書室、講義室、図書室があり、多数の本が収集された。ダール・アルヒクマは後につくられる#シーア派#学問センターのモデルとなった。ファーティマ朝の滅亡とともに閉鎖された。,(湯川武) 45800,断食,ダンジキ,<印7CE3>awm,,イスラムの#イバーダート#の一つで、五柱(#六信五行#)の第4にあげられる信者の義務。ムハンマドはメディナヘの#ヒジュラ#の直後、#ユダヤ教#徒の制度にならって#アーシューラー#を断食の日と定めたが、#バドルの戦#の後、ラマダーン月(9月)を断食の月とした。イスラム教徒はこの1ヵ月間、日の出から日没までいっさいの飲食を禁ぜられ、つばを飲み込むこと、喫煙、性交、意図的射精も許されない。ただし子供、病人、身体虚弱者、妊婦、授乳中の婦人、旅人、戦場にある兵士などは除外されるが、最初の3者のほかは、原則として後日に埋め合せをしなければならない。義務としてのラマダーン月の断食のほかに、自発的断食が推奨され、とくにアーシューラー、巡礼月(12月)9日、シャッワール月(10月)の2日から7日に至る6日間の断食は最も功徳があるとされる。ラマダーン月が夏季になることもあり(たとえばヒジュラ暦1400年では、西暦1980年7月14日から8月12日まで)、水一滴も飲めない30日間の断食は非常な苦しみであるが、それはイスラム教徒の各個人に課せられた義務(ファルド・アイン)なので、ともに苦しみに耐える信者の連帯意識の高揚に役立つ。ラマダーン月27日の夜は#ライラ・アルカドル#(力の夜)と呼ばれ、ムハンマドにコーランの下った日とされる。,(嶋田襄平) 46000,タン・マラカ,タン・マラカ,Tan Malaka,1897〜1949,インドネシアの思想家、革命家。西スマトラの敬虔なイスラム教徒の家に生まれ、1913年オランダに留学。滞在中、第1次世界大戦とロシア革命に触れて社会主義への傾斜を深め、祖国解放を目指す。帰国後、教員生活を経てインドネシア共産党に入党、21年同党議長に就任し反植民地闘争を指導したが、翌年追放。以後42年に帰国するまで、ソ連、中国、フィリピン、タイ、シンガポールなどで、初めはコミンテルンの工作員として活動し、27年には武装蜂起で潰滅した共産党に代わるインドネシア共和国党を設立し独自の運動を行った。日本軍侵攻後ひそかに帰国、3年間の潜伏生活を経て45年8月17日の独立宣言後に活動を再開。#スカルノ#らに対抗して闘争同盟を結成し独立闘争を指導したが、49年ゲリラ戦中に死亡した。インドネシア、フィリピン、タイ、ヴェトナム、ビルマおよび熱帯部オーストラリアを包括する社会主義共同体(アスリア連合)を唱え、また共産主義とイスラムの両立を目指すその遠大な革命思想は、インドネシア史に特異な位置を占める。主著は《大衆行動》《唯物論・弁証法・論理学》、自伝《牢獄から牢獄へ》。,(押川典昭) 46100,チシュティー教団,チシュティーキョウダン,Chisht<印77F5>,,アフガニスタン北西部のヘラート近くのチシュト出身のアブー・イスハークによって創設された#スーフィー#教団の一つ。中央アジアのスーフィー教団は、インド、西アジアに大きな影響を及ぼしたが、このチシュティー派のインドにおける本格的な活動は、ムイーヌッディーン・シジュジーが、12世紀末、デリー南西のアジメールに#ハーンカー#(修道場)をつくった時に始まる。インドにおいて、この教団の指導者たちは清貧に甘んじ、#デリー・スルタン朝#、#ムガル帝国#を通じ、一般ムスリムに対して、最大の影響力をもった。アジメールはその中心地として、今日でもイスラムの祭日には数多くの参詣者を集める。,(小名康之) 46200,チャドル,チャドル,ch<印78E6>dor,,ペルシア語で、イスラム教徒の女性の伝統的な服を指す。アラビア語ではハバラという。既婚の女性が着る、身体をすっぽり包む黒地の着物を意味する。布地はたっぷりと余裕をもたせて裁断してあるが、それは女性の身体の線があらわにならないためであり、エジプトの農村部では、女性は外出する時に今でも必ずこれをまとう。ミラーヤと呼ばれるものもあるが、カイロの下町の庶民階級の女性は現在もこれを身につけており、やはり外出時に色ものの服の上に頭からすっぽりかぶり、腰のあたりに巻き付けるようにして着る。若い娘たちはミラーヤをきっちりと腰に巻いて、身体の線をわざと誇示する者もいる。イスラムでは女性の身体は手首から先と顔以外はアウラ(恥部)とされているため、イスラム世界の女性の着物はこのような宗教的な意味から規制され、女性の美を外に表さないようなものとなっている。,(奴田原睦明) 46300,中国,チュウゴク,,,中国には現在、10民族、1760万人以上のムスリムがいる(1990)。トルコ系の#ウイグル#、カザフ、キルギス、#ウズベク#、タタール、サラール族、イラン系の#タジク#族、#モンゴル#系の東郷族、系統不詳の保安族、それに回族である。イスラム(ムスリム)問題は、中国においては歴史的に民族問題で、このことは今日も基本的に変わらない。中国人口の約92%を占める漢族の中にも、わずかながらムスリムがいるが、歴史的には回民(現在の回族)の一部とみなされてきた。現状は明らかでない。回族を除く9民族が、中国西北の新疆ウイグル自治区、甘粛省、青海省に偏在し、その民族形成後にイスラムに改宗したのに対して、中国最大のムスリム民族の回族(861万)は、トルコ、イラン、アラブ等の外来民族のムスリムの子孫を中核に、これに漢族その他の諸民族の血が混入され、歴史的に形成された民族で、その民族形成・基盤にイスラムの信仰が大きくかかわっている。しかも中国各地に散居しており、回族こそまさに中国的ムスリムといえる。以下、回族を中心に中国イスラムを概観する。なお、回民・回族という時の「回」は、元代に西方から来たムスリムに対する呼称の「回回」に由来し、回民は16世紀以降、回回と同じくムスリムを指す意味で用いられ、現在は民族名称の回族と同意義で用いられている。回族の異称として、漢回(漢装回)、ドゥンガン(東干、東光と写す)等がある。
 中国にいつイスラムが伝わってきたか。651年に大食(タージ)すなわち西方のイスラム教国から使節がやってきたことは史実として確かであるが、これによって宗教としてのイスラムが中国に伝播したとは言えない。唐・宋時代(7〜13世紀)、アラビア・ペルシアの商人が陸・海路を通ってやってきたが、その居住区域が一般中国人(漢族)社会と隔離されていたため、イスラムが漢族の間に広まることはほとんどなかった。異教徒政権下、しかも圧倒的多数の漢族社会の中でのイスラムの普及は容易ではなかったのである。しかし13世紀に興ったモンゴル族の西征と、その帝国の成立の結果、西アジアからアラブ・イラン・トルコ人等多数のムスリム(回回)が商人、兵士、職人、奴隷として中国に移住し、彼らが元朝権力と結びついて活動すると、漢族・モンゴル族の中に改宗するものが現れ、イスラムが初めて中国各地に波及した。この時期にイスラム文化も伝来し、医学、薬学、天文学、暦法等の面で中国文化の発展に寄与した。元朝に代わって漢族の明朝が興ると、西方系のムスリムは土着化し、その子孫は漢族等との雑婚、改姓、漢語の使用によってしだいに漢化したが、イスラム信仰とムスリムとしての自覚を堅持し、一見して漢族とは民族的に区別されるような少数民族的集団を形成した。これが現在の回族の民族形成で、回民と呼ばれた。回民の間にはアラビア・ペルシア語の経典が伝わっていたが、明末(17世紀)以降その漢訳や漢文で著作するイスラム学者(回儒)が現れ、思想の表現、教理の説明にも儒教の思想や用語を借用するようになった。これら中国イスラム文献は、異教徒である支配者に向けての護教的側面と、布教手段としての側面をもったと推測される。布教活動として特記すべきは、17〜18世紀に西北地方で#スーフィー#教団(門宦)が出現したことである。その勢力は新中国成立後まで続いた。明・清代、中国ムスリム(回民)は清真寺(#モスク#)を中心に集団生活を営み、また経済活動(運送、小商、飲食業)によって漢族や周辺少数民族の間に改宗者を得て勢力を伸ばした。清朝はこれを抑えにかかったが、反発(回民反乱)にあい、完全に抑圧することはできなかった。20世紀に入り、イスラム本地との通交が頻繁になると、中国イスラムの革新・啓発運動が起こり、1927年にはコーランの全巻漢訳が初めて出版された(可蘭経)。
 新中国成立(1949)後、回民は経済的に困窮したが、政府は中国伊斯蘭(イスラム)教協会をつくり、また回民を少数民族(回族)とみなし、各地に散在するその集居地域に、寧夏回族自治区をはじめ、自治州・自治県・自治郷などを設けるとともに、清真食品店や回民食堂をつくって、彼らの風俗習慣に特別の配慮を払った。文化大革命(1966〜76)はイスラム教にとって受難の時期で、多くの清真寺が破壊されたが、現在はその多くがムスリムの浄財によって復旧しているという。
 中国イスラムは#スンナ派#に属し、法学上は#ハナフィー派#に属する。ただし祭礼の中には#シーア派#的色彩もみられる。宗教実践は清真寺の宗務者である#アホン#(阿衡、阿<印055B>)が指導するが、五柱(#六信五行#)を完全に実行することが困難な状況にある。共同墓地をもち、豚肉を食べないなどの日常的戒律はかなり遵守されている。また容貌では漢族と一見して区別しにくい回族の男性は、白帽子を着用しており、区別の標識となる。女性の間では#チャドル#をつける習慣はない。清真寺は、外観は中国の寺院のようであるが、内部は図案化された#アラビア文字#が壁面や柱に描かれ、#ミフラーブ#、#ミンバル#にイスラム様式をとどめている。,(片岡一忠) 46700,チョクロアミノト,チョクロアミノト,Umar Said Cokroaminoto,1882〜1934,インドネシアの#イスラム同盟#の指導者。ジャワの地方上級貴族の家に生まれ、官吏養成学校を卒業後官吏になったが、官界の頽廃に耐ええず約3年で官を辞した。1912年スラバヤの商社スティヤ・ウサハの設立に参画し、同社が発行する日刊紙《ウトゥサン・ヒンディア》の編集長になった。同年8月以後、終生イスラム同盟の中心指導者として活躍した。1910年代のイスラム同盟の発展は彼のカリスマ的権威と政治的才能に負うところが大きい。当時の彼のイデオロギーは、人民の政治・社会・経済的利益の促進を基軸としつつも、必ずしも明瞭でない。むしろ共産主義、イスラム近代主義、イスラム保守主義などの諸潮流のイスラム同盟内における共存のために努力した。20年代初期にイスラム同盟がイスラム近代主義を掲げる政党に変化するとともに、彼もイスラム近代主義の旗幟を鮮明にし、共産主義に対しては#イスラム社会主義#を唱えた。,(深見純生) 46800,ティジャーニー教団,ティジャーニーキョウダン,Tij<印78E6>n<印77F5>,,ティジャーニーを創立者とするイスラム神秘主義教団(#タリーカ#)。ティジャーニーはベルベル人で、当初ハルワティー教団に属していたが、18世紀末に新しくティジャーニー教団を創設した。この教団はモロッコ、アルジェリア方面などに広がった。この北アフリカにおけるティジャーニー教団は、19世紀にフランスの植民地支配のもとでは概して穏健で妥協的態度をとった。しかし、ティジャーニーの弟子でセネガル人である#ハジ・ウマル#は19世紀中ごろに、この教団をナイジェリア、ギニア、マリ、コート・ジボアールなどの西アフリカの各地に広めた。この西アフリカにおけるティジャーニー教団は戦闘的性格をもち、フランスの植民地支配に対しても概して反抗的であった。この地域のティジャーニー教団は黒人の間に教勢を拡大し、従来この地域で影響力をもっていた穏健で平和的なカーディリー教団の勢力を駆逐していった。,(古林清一) 46900,ディーナール,ディーナール,d<印77F5>n<印78E6>r,,イスラム世界における金貨の重さおよび金額の単位であると同時に、金貨そのものの呼称。ギリシア語、ラテン語のデナリウスに由来する。最も古いディーナール金貨は、#ウマイヤ朝#のアブド・アルマリク時代にダマスクスで鋳造された。その後、エジプト、ヒジャーズ、チュニジア、スペインにも造幣所がつくられた。ウマイヤ朝時代のディーナール金貨は、純度96〜98%、重さ4.25gで、銀の単位である#ディルハム#との換算比率は1ディーナール=10ディルハムが標準とされた。ディーナールは主として旧ビザンティン領地域で使われ、旧ササン朝地域は、ディルハムであった。#アッバース朝#時代になると、ペルシア地方でもディーナールが使われるようになり、9世紀半ばごろに金銀二本位制が確立した。ディーナール金貨はこの間、純度・重さともきわめて安定しており、イスラム世界の活発な商業活動の基礎となった。金の主要な産地は、ヌビア、西スーダン(現在のマリ、ガーナ)であり、サハラを越えての金貿易はムスリム商人の独占であった。
 10世紀の中ごろからは金の供給量が減少し始め、12〜13世紀にはエジプトを除くほとんどの地域で、ディーナール金貨がつくられなくなった。ひとりエジプトだけは西スーダンの金をマグリブを経由せずに確保できたため、高品位のディーナール金貨をつくり、地中海商業に大きな役割を果たしていた。しかし15世紀の前半には、金の供給量を確保できなくなり、ディーナールの重量を切り下げたが、当時すでに地中海周辺から内陸部にまで流通していたイタリア諸都市の金貨にはとても対抗できなかった。15世紀には、すでにサハラの金貿易の主導権はイタリア商人に握られており、ディーナール金貨は消滅せざるを得なかった。,(湯川武) 47000,ティムール朝,ティムールチョウ,T<印77F5>m<印7CF3>r,1370〜1507,中央アジア、イラン、アフガニスタンを支配したトルコ・モンゴル系イスラム王朝。トルコ化・イスラム化した#モンゴル#人(チャガタイ人)の子孫として中央アジアに生まれたティムールは、1370年#マー・ワラー・アンナフル#の統一に成功、以後絶え間のない征服戦争を敢行し、95年にはモスクワに迫り、98年にはデリーを席巻、1402年には#アンカラの戦#でオスマン軍を撃破するなどの大戦果をあげ、ユーラシア大陸の中心部を覆う大帝国を建設した。ティムールの成功は、中央アジア遊牧民の軍事力とオアシス定住民の経済力の結合を基盤として達成されたが、ティムールの没後も、遊牧民的発想に基づく一族の分封制と、時の真の実力者が君主位を占めるべきだとする遊牧民的君主位継承制が尊重され続けた結果、帝国は政治的分裂を避け難く、マー・ワラー・アンナフルとイランという帝国の最も重要な二つの地域を一つの統一体としてまとめえたのは、わずかに第3代の君主シャー・ルフ(在位1409〜47)と第7代の君主アブー・サイード(在位1451〜69)の両名にすぎなかった。このようにして、後者の死後、帝国はサマルカンドとヘラートをそれぞれの首都とする二つの政権に完全に分裂し、前者は1500年、後者は07年、ともにシャイバーニー・ハーンの率いる#ウズベク#人によって滅ぼされた。このようにティムール朝は政治的には必ずしも強力な国家ではなかったが、ティムールをはじめとする諸君主が都市の充実に意を用い、また学問・芸術の愛好者でもあったため、王朝治下の諸地域にティムール朝文化と呼ばれる華やかな宮廷文化が発達した。ビフザードらの細密画、スルターン・アリー・マシュハディーらの書、アリー・シール・ナヴァーイー、バーブル、#ジャーミー#らの文学、そしてサマルカンドやヘラートに今も残る多くの建造物は当時の文化の水準の高さを今日にまで伝えている。,(間野英二) 47100,ディルハム,ディルハム,dirham,,イスラム世界における銀貨の重さ、金額の単位であると同時に、銀貨そのものの呼称。1ディルハムは銀2.97gが標準であった。金貨の単位である#ディーナール#との比率は、1ディーナール=10ディルハムが法的標準のはずであるが、実際は時代、地域によって大きな変動があり、極端な場合には1ディーナール=30ディルハム以上ということもあった。ディルハム銀貨は最初、ササン朝のものを真似てつくられたが、#ウマイヤ朝#のアブド・アルマリク時代にイスラム独自の銘だけのものが鋳造され、その型がだいたい踏襲された。ディーナール金貨が主として旧ビザンティン領で使われたのに対し、イラク、ペルシアでは、ディルハム銀貨が流通した。銀の主要な産地は、マー・ワラー・アンナフル、アフガニスタン、東部ペルシアにあった。#アッバース朝#時代になると、各地でディーナールとディルハムの両方が使われるようになり、金銀二本位制が確立した。10世紀の後半になると、シリア以東では金が不足し、国家の予算や給与やその他の大きな額は、すべてディルハムで勘定されるようになった。ところが10世紀末から11世紀にかけては、中東全域で銀が不足するようになり、ディルハム銀貨が改鋳され、かなり品質の悪いディルハムが各地に出回った。これは、#サーマーン朝#の貿易政策によりインド(#ガズナ朝#)およびロシア方面に大量の銀が流出したためといわれている。その後12世紀後半から13世紀になると、中央アジア方面からの銀の供給量が再び増え始め、そのうえヨーロッパからもかなりの量が流入するようになり、再びディルハム銀貨は主要な通貨となった。#イル・ハーン国#も銀貨を主要通貨としたが、それはディルハムの4倍以上の重さのもので、ディーナール銀貨と呼ばれた。シリア、エジプトでは、14世紀末にはほとんど銀貨はつくられなくなり、つくられてもきわめて質の悪いもので、間もなく銅貨に取って代わられた。,(湯川武) 47300,ディーワーン,ディーワーン,d<印77F5>w<印78E6>n,,イスラム帝国の行政機関で、庁・局などを意味するアラビア語。最初に用いられたのは640年、カリフ、#ウマル1世#の時で、ムハンマドの妻を含むイスラム教団の有力者やアラブ戦士(ムカーティラ)たちに対する俸給支給のための登録簿としてであったが、やがてそうした事務を取り扱う役所をも意味するようになった。#ウマイヤ朝#になると中央政府の業務も増え、租税徴収を担当する税務庁、カリフの文書を作成する文書庁、文書の封緘を行う印璽庁、戦士の登録と俸給の支給事務を担当する軍務庁、全国の駅逓を統括する駅逓庁などが設けられた。#アッバース朝#ではウマイヤ朝末期以来の中央集権化がいっそう強められ、官僚機構が膨張し、分業化が進んで、ディーワーンの数も増加、それも状況に応じて臨機に改廃された。たとえば、税務庁は9世紀、全国に私領地(ダイア)が発展してくると私領地庁を分岐させたが、892年、首都がサーマッラーからバグダードに戻ると、これら税務諸官庁をディーワーン・アッダールとして統合、次いで全国の税務行政区を3分して、イラク担当のサワード庁、イラン担当の東部庁、シリア・エジプト担当の西部庁を設置、別にカリフ私領地庁を設けて、きめ細かく税務行政が行えるようにし、またディーワーン・アッダールは宰相(#ワジール#)の官房庁として、各官庁間の調整にあたった。アッバース朝におけるディーワーン制度で特徴的なことは、第3代カリフ、マフディーの時、各ディーワーンに対応して、ディーワーン・アッジマームが創設されたことで、これは当該ディーワーンの業務を監督する監査庁を意味し、官吏の業務監察を行った。しかもこれら監査系の諸官庁を統括する最高監査庁も設置され、その長官はカリフによって直接任命された。この監査庁は9世紀末に国家の予算制度が確立すると、会計監査の役割を果たした。すなわち各税務官庁や軍務庁・支出庁が提出した予算表をまず事前監査し、次いで宰相が作成した歳出入の総合予算表に対しては、最高監査庁の長官が監査して、もし疑義がある時はカリフに報告、宰相は予算の再編成を迫られることがあった。このように監査系の諸官庁はジマーム系、それに対して一般の諸官庁はウスール系と呼ばれ、後者の諸長官は宰相に任免権があったが、前者はカリフの任命する最高監査庁の長官に任免権があったことから、宰相の財政業務を監視する役割を果たした。こうした各官庁の長官の俸給は、官庁の等級によって非常に開きがあり、たとえば10世紀初めころではサワード庁の長官の月給は500#ディーナール#であったのに対し、給与庁のそれは10ディーナールにすぎなかった。アッバース朝以降のイスラム諸王朝のディーワーン制度は、ほぼアッバース朝のそれをならったものであったが、ただ#オスマン帝国#では、デーヴァーンdivanは国政の会議を意味し、デーヴァーヌ・ヒュマユーンはスルタンの御前会議を、イキンジ・デーヴァーンは大宰相の主宰する閣議を指した。,(森本公誠) 47400,ディーン,ディーン,d<印77F5>n,,通常「宗教」の意に用いられるアラビア語である。この語源として三つの意味要素が区別される。(1)ヘブライ・アラム語からの「判断」「返報」、(2)アラビア語のダイン(負債)からの「慣行」、(3)パフラヴィー語の啓示、宗教である。要するに、この語の本来的意味は、人間が従うべき神によって与えられた義務的規定の体系のことであり、(1)はこの神の与える側面、(2)はそれを履行する人間の側面を表すものといえよう。,(中村廣治郎) 47600,デーオバンド学院,デーオバンドガクイン,D<印78E6>r al-<印78FE>Ul<印7CF3>m, Deoband,,インドのウッタル・プラデーシュのデーオバンドにあるイスラム学院。#スンナ派#の#ハナフィー派#系。エジプトの#アズハル#に次ぐ高い名声を博している。インド大反乱の後、1867年にムハンマド・カーシム・ナーノータウィーの手で設立された。イギリス支配下のインドでイスラム法を護持する目的を掲げ、政治的にはイスラム宗教指導者によるインド民族運動指導の中心となった。第1次世界大戦中、第4代校長、マフムード・アルハサンの地下の反英運動、「絹のハンカチ」事件が発覚した。大戦直後の#ヒラーファト運動#でも民衆指導の大きな役割を果たした。今日、インド、バングラデシュ、パキスタンはいうまでもなく、アフリカから他のアジア諸国(おもにミャンマー、アフガニスタン)にわたる第三世界から学生が集まっている。現在アフガニスタンを実質的に支配する「ターリバーン」はこの系統の学院生を主体とする。またアジア・アフリカ諸国の信徒のイスラム法上の質問に答えて、#ファトワー#集を多数発行してきた点でも注目される。,(加賀谷寛) 47900,デリー,デリー,Delhi,,インド共和国北部の連邦直轄領。人口約372万(1970推定)。歴史的には11世紀中ごろトーマラ朝の君主が現ニューデリー市の南郊、現在のクトゥブ・ミーナール付近に城塞を築いたのが、首都としてのデリー建設の始まりであるといわれている。12世紀にはチャーハマーナ朝の支配下にあったが、この王朝の最後の王プリトヴィーラージ3世(在位1177〜92)が1192年、ムスリムのゴール朝の軍に敗れ、デリーにおけるラージプートの王朝の支配は終りを告げる。トルコ系ムスリムの侵入後、短期間を除き、#デリー・スルタン朝#、#ムガル帝国#を通じてデリーはムスリム諸王朝の首都として隆盛をきわめた。その時々の王のもとで城塞は移動し、全体としてデリー地域と呼ばれる地帯を形づくっている。ムガル時代にはシャー・ジャハーン(在位1628〜58)のもとで広大なデリー城を含む大都市建設がなされた。今日のオールド・デリーの一画がそれであり、王城の西門の前からまっすぐ西に延びるチャンドニー・チョーク通りは大バーザールのあった所で、当時インド中の富を集め、ムガル時代の商業の繁栄を象徴していた。,(小名康之) 48000,デリー・スルタン朝,デリー・スルタンチョウ,Delhi Sul<印73F3>an,,#デリー#に都を置き、北インドにおけるムスリムの君主(#スルタン#)の支配した諸王朝をいう。普通、歴史的には奴隷王朝(1206〜90)に始まり、ハルジー朝(1290〜1320)、トゥグルク朝(1320〜1413)、サイイド朝(1414〜51)、ローディー朝(1451〜1526)までの5王朝、320年間を指していうが、その語の意義上からは、スール朝(1539〜55)、#ムガル朝#(1526〜39、1555〜1858)までも含んでよい。
 前述の5王朝の王統についていえば、最後のローディー朝のみがアフガン系の君主で、他の4王朝の君主はすべてトルコ系である。この5王朝は、中央アジア、アフガニスタン出身の部族からその君主が出ているが、支配集団の全員が、そうした外来の部族出身の者によって占められていたわけではない。また支配集団はムスリムを中心にしていたが、現実におけるその支配は、地方の在来のヒンドゥーの有力層と結合して行われたのであって、イスラムの支配理念のままに支配が貫徹されたわけではない。
 君主権の強さや支配領域の大きさは時代によってかなりの差があり、一概にはいえない。ハルジー朝のアラー・ウッディーン(在位1296〜1316)の時は、短期間ながら君主権も支配領域も最大となり、ムスリムの軍が初めて南インド征服を行い、その後のデカン、南インドに大きな影響を与えた。また、トゥグルク朝のムハンマド・ブン・トゥグルク(在位1325〜51)の時にも、南インドにまで支配が及び、大帝国となった。彼の時代のデリーや、インドの他の情勢については、大旅行家の#イブン・バットゥータ#がその旅行記で詳しく記している。ムハンマドはデカン・南インド経営のため、現在の西デカンのアウランガーバード付近に、ダウラターバード(「富の町」の意)の大城塞を築いたことでも知られている。
 トゥグルク朝が弱体化した時、1398年、ティムールの軍がデリーにまで侵入し、北インドは政治的混乱に陥った。このころは、デリー政権は名ばかりの一地方政権となり、各地にムスリムの独立政権が生まれた。ティムールによってパンジャーブの統治権をまかされたヒズル・ハーン(在位1414〜21)がデリーに政権を立てたのがサイイド朝であるが、この王朝は君主権が弱く、デリー周辺を支配したにすぎなかった。5王朝最後のローディー朝は、アフガン系貴族の連合政権といった性格をもち、君主は貴族連合体の代表的存在であった。
 この5王朝時代には、ムスリムの大建築物が造営された。その代表的なものは、#スーフィー#聖者の墓・聖廟や、それに付属する廟内の集会場・修道場・#モスク#などである。また、それぞれの君主が造営させた城塞、自らの墓・聖廟などがある。たとえば、デリーに現存する、3人のスーフィー聖者、クトゥブッディーン、ニザームッディーン、ナシールッディーンのダルガー(聖廟)は有名である。,(小名康之) 48100,デルヴィーシュ,デルヴィーシュ,derv<印77F5>sh,,#イスラム神秘主義#の教団(#タリーカ#)に属する修道者。ダルウィーシュともいう。この語の語源はペルシア語であるとされているが、その当否は不明である。彼らは#ファキール#と呼ばれることもある。神秘主義教団は12世紀ころからイスラム世界の各地に創設され始めた。これらの教団は、それぞれ著名な神秘主義思想家により創設され、創設当初の習慣・儀礼が今日まで連綿と伝えられているものもある。それゆえ、デルヴィーシュはその所属する教団に応じて異なった身なりをし、独自の作法を守っている。彼らは所属する教団の規定に準じて、神秘的体験を得るための修行を実行する。日常生活においては清貧と社会正義の実践を尊ぶが、時として世俗との相違を強調するあまり、奇行に走る傾向もある。→スーフィー,(松本耿郎) 48200,天国,テンゴク,,,コーランでは、一般に「楽園」と呼ばれるが、このほかに「エデンの園」、「エデン」、「フィルダウス」、「つい(終)の住居の園」などとも呼ばれる。この世において信仰し、善行に励んだ人たちがその報いとして住むことを許される楽園のこと。彼らはそこで、こんこんと湧き出る泉のほとり、緑したたる木陰で、うるわしい乙女にかしずかれ、たくさんのおいしい食物や酒や飲物を心ゆくまで味わい、なんの気遣いもない生活を送る。中でも最高の喜びは神を見ることだといわれる。このようにコーランは、#地獄#の責め苦に対比して、天国の幸福や喜びを感覚的に描き出している。このほかにコーランは、アダムとイブの楽園追放やムハンマドの「終の住居の楽園」への「天上飛行」(#ミーラージュ#)のことも述べており(53章13〜16節)、これらの異同の問題が後に論議されることになる。コーランの天国の描写の解釈について、それをそのまま文字どおりに解する人々と、それをまったくの比喩的表現ととる人々の両極端の間にさまざまな立場がある。,(中村廣治郎) 48300,天使,テンシ,mal<印78E6>'ika,,この単数形malakないしはmal'akの語源は、初期セム語のmal'ak(使徒)にさかのぼるといわれる。イスラムでは、神と人間の中間的存在として、#シャイターン#(サタン)や#ジン#と並んで天使の存在が認められている。コーランはさまざまな役割をもった天使に直接・間接に言及している。たとえば、「聖霊」「誠実な霊」ともいわれてムハンマドに啓示を伝え、#イエス#を強化したガブリエル、それに匹敵する地位にあるミカエル、終末のラッパを吹くイスラーフィール、またマーリクと呼ばれる#地獄#の番をする天使、ザバーニーヤと呼ばれる地獄での責め苦をつかさどる天使たち、神の玉座を支え、またその周辺にあって常に神をたたえる天使たち、各人の両側にいてその人の行為を逐一記録する天使、墓場で死者を審問して苦しめるムンカルとナキールの二天使などである。コーランでは天使の神への絶対的従順性が強調されており、後にはその無謬性が強調されてくるが、コーランはまた性的誘惑に負け、人間に妖術を教えたハールートとマールートの二天使にも言及している。,(中村廣治郎) 48400,ドゥアー,ドゥアー,du<印78FE><印78E6>',,「祈願」「祈り」を意味するアラビア語。神に何かを乞い求めること、祈り求めることである。1日5回行われる#礼拝#(サラート)が、時に誤って「祈り」と訳されるが、ドゥアーとサラートとは明確に区別される。礼拝は、コーランの読誦や#ジクル#などにより、一定の所作を伴って神をたたえる行為の総体のことであり、ドゥアーはそのうちの一部をなすものである。本来、ドゥアーは自由な祈りとして、神に何を何語でどのように祈願してもよかったのであるが、後には一定の型ができてくる。たとえば、「罪の赦しを乞う祈願」「庇護を求める祈願」「#預言者#への祝福を神に求める祈願」、さらには礼拝と組み合わされた「雨乞いの祈願」「選択のための祈願」などがある。また、このような祈願のために、預言者や初期の敬虔なムスリムや#聖者#から伝えられた霊験あらたかな祈<印4704>文が集録され、範例として多くの祈<印4704>書や修道書の中に引用され、伝えられている。,(中村廣治郎) 48600,トゥラン主義,トゥランシュギ,Turanc<印7DF5>l<印7DF5>k,,トルコ・ナショナリズムの一潮流。トゥランとは、ユーラシア大陸に広がるトルコ系諸民族の居住地の総称であり、トゥラン主義は、それら諸民族の一体性を追求しようとする立場である。そこでは、一体たるべきものの中に、マジャール、フィン、モンゴル、トゥングース等、広義のウラル・アルタイ系諸言語を話す人々をも含めようとする場合もあり、トゥラン概念は大きな振幅をもっている。ツァーリズム支配を脱する目的で、19世紀後半、ロシア治下のトルコ系住民の間に生まれたトゥラン主義の一種であるパン・トルコ主義が、「#青年トルコ#」革命後、#オスマン帝国#内にもちこまれた。《母国トルコ》誌を中心に繰り広げられたこの運動は、初めトルコ民族の統一のほかに、オスマン帝国の再建という異なる目的をも内にはらんでいたが、しだいに#エンヴェル・パシャ#の海外膨張策とも結びついて、前者の色彩が濃厚になっていった。トルコ共和国の成立によって、禁圧されはしたが、トルコ民族としての誇りの感情を醸成しようとする共和国の政策とも相まって、なお根強く生き延びている。→オスマン主義,(新井政美) 48700,トゥルクマーン,トゥルクマーン,Turkm<印78E6>n,,トルコ系の民族。イスラム史料には10世紀から現れる。その語義については、「トルコ人に似た者」「敬虔なトルコ人」「まぎれもなきトルコ人」などの諸説がある。史料の中には、同一の民族・集団をオグズと呼ぶものも、トゥルクマーンと呼ぶものもあり、オグズ、カルルクをトゥルクマーンと総称するものもある。一般的な傾向としては、オグズのうち、ムスリムとなってイスラム世界に進出し、部族集団の形を保持していたものをトゥルクマーンと呼んでいる。アラル海、カスピ海北方より南下し、#セルジューク朝#の成立と前後して、イランを経て、アゼルバイジャン、アナトリアへと移動した。モンゴルの侵入に際して西方へ移動した者も多く、彼らはカラコユンル朝(ca.1375〜1469)やアクコユンル朝(1378〜1508)などを建設し、アナトリアのトルコ化への原動力となった。現在のトゥルクメニスタン共和国のトゥルクメン人は、カスピ海東岸に定着した一分派に源を発すると考えられるが、中世のトゥルクマーン諸部族との間に直接的な関係を求めることは困難である。,(清水宏祐) 48800,トゥール・ポワティエの戦,トゥール・ポワティエノタタカイ,Tours-Poitiers,,732年フランク王国の宮宰カール・マルテルがイスラム教徒の軍を撃退した戦闘。729年スペインの地方総督アブド・アッラフマーンに率いられたイスラム軍は、ロンスボー(ロンセスバリエス)の峠を通ってピレネー山脈を越え、ガスコーニュ地方を襲い、さらにボルドーを占領したうえ、ガロンヌ川右岸でアキテーヌ公ウードの軍を粉砕した。この余勢を駆ってアブド・アッラフマーンは、キリスト教世界最大の聖地の一つである、トゥールのサン・マルタン修道院を目指して北上した。一方、敗北したウードはやむなく宿敵カール・マルテルのもとに赴いて、その援軍を請うた。こうして732年10月25日、アウストラシア・ブルグンドの連合軍を率いるカールとイスラム軍が、ポワティエの北方、トゥールに通ずる旧ローマの軍道沿いに位置するムセ・ラ・バタイユで激突することになった。この戦闘でアブド・アッラフマーンは戦死して、イスラム軍は敗走した。
 この戦いについては、信頼のおける史料が非常に少ないこともあって、有名なわりには不明な点が意外と多い。戦闘が行われた日付や場所について異説があるほか、イスラム軍のガリア侵入の意図に関しても、略奪説と領土の征服説に見解が二つに分かれている。さらに歴史上の意義についても、「西洋の運命を決した世界史上の最大事件の一つ」といった誇張した見方は今日では姿をひそめているが、「西洋文明の優位」を強調する意見もみられる。またアキテーヌの地方主義の立場から、この戦いよりはむしろ、西欧においてイスラム教徒が蒙った最初の大敗北である、721年のトゥールーズの戦におけるアキテーヌ公の勝利のほうを重視して、結局732年の戦いはフランク王国によるガリア支配の死活にかかわる問題であって、「ウードを粉砕したアブド・アッラフマーンなくしてはカール大帝の存在は想像できない」という見解もある。,(下野義朗) 48900,トゥールーン朝,トゥールーンチョウ,<印75E7><印7CF3>l<印7CF3>n,868〜905,アフマド・ブン・トゥールーンの創始したエジプト・シリアにまたがる王朝。アフマド・ブン・トゥールーンはトルコ系軍人で、868年、#アッバース朝#によってエジプトに派遣されそこで実権を握り、#アミール#の称号を得、アッバース朝の宗主権は認めながらも事実上独立した王朝を建設した。トゥールーン朝の基礎は、トルコ系、黒人、ギリシア人などの奴隷軍人からなる強力な軍隊と、豊かなエジプトの経済であった。とくに、国庫収入はバグダードに吸い上げられることがなくなり、いっそう増大し、現存するカイロ最古のモスク建築であるイブン・トゥールーン・モスクを建設、シリアにも勢力を伸ばしたが、安定的支配を確立することはできなかった。2代目のフマーラワイフ時代には、貢納と引換えにシリアからアナトリア東部にわたる地域の支配権も#カリフ#に認めさせ、最盛期を迎えたが、浪費による財政の窮乏と#カルマト派#の出現による国内の混乱のために、バグダードのアッバース朝権力が再びその支配を回復した。,(湯川武) 49200,度量衡,ドリョウコウ,kayl,,イスラム社会は、古代オリエント世界の度量衡をほぼそのままの形で継承した。#シャリーア#には全国に統一的な度量衡が定められてはいたが、現実には各時代や地域による慣行が重んじられ、これを公正な取引の基準に照らして保持するのが市場監督官(#ムフタシブ#)の役目であった。重量の基礎は#ディルハム#とミスカールにあり、1ディルハム(3.125g)は大麦50〜60粒を基準にして定められ、ディルハムとミスカールの比は7:10であったから、1ミスカールは4.464gで、これが1#ディーナール#に相当した。重い物の計量には、キンタールとマンとラトルが用いられた。1キンタール=100マン、1マン=2ラトル=260ディルハムの関係にあったが、現実には地域によってこれらの換算比もまちまちであり、たとえば12世紀のシリアでは1マンが819gであったのに対し10世紀末のシーラーズでは3.33kgであった。一方、貴金属など軽少な物の計量には1/20ミスカール(0.223g)に相当するキーラートが用いられた。穀物や豆類は、重さではなく、容量で量ることが一般に行われた。その単位は、一定重量の穀物容量で表されたが、7世紀のメディナでは1ジャリーブ(=7カフィーズ)は371/3ラトルの小麦に相当し、約29.5lであった。ムッドはアラブ世界に限らずイランやトルコでも広く用いられ、1ムッド=1.05lが規定の容量であるとされた。エジプトに固有なアルダッブは6ワイバに相当し、15世紀のカイロでは約90lであった。
 長さはジラー(前腕の長さ)が基準であって、1ジラー=24アスバー(指幅)=49.87cmと定められていたが、これに相当するイランのガズは95cmであった。土地測量などによく用いられるカサバは3.99m、また馬あるいはロバによる1時間当りの歩行距離を示すファルサフは3ミールに相当し、約6kmが標準であった。容量単位のジャリーブとカフィーズは面積の単位としても用いられ、1ジャリーブは100平方カサバ(1592m<印6B41>)で、1カフィーズは1/10ジャリーブと規定されていた。エジプトのファッダーンは400平方カサバ(6368m<印6B41>)に相当し、キーラートはその1/24であったが、増税の必要から時代が下るにつれて実面積は縮小する傾向にあった。トルコではドヌム(940m<印6B41>)が用いられ、#オスマン朝#支配下のシリアやイラクでもやがてその使用が一般化した。,(佐藤次高) 49800,奴隷,ドレイ,,,自由人(フッル)に対して奴隷一般をラキークというが、通常は男奴隷をアブドあるいは#マムルーク#といい、女奴隷をアマあるいはジャーリヤと呼ぶ。イスラム法の規定では、奴隷は異教徒の戦争捕虜か女奴隷の子供に限られ、債務奴隷の存在は原則として否定された。また女奴隷の子供であっても、主人がこれを認知すれば自由人となり、解放後は、#アッバース朝#カリフの多くが女奴隷の子供であったことからも明らかなように、自由人女性の子供とほぼ同等の権利を与えられた。奴隷をもつことができるのはムスリムだけであったが、主人は奴隷を「物」として所有し、これを売買、相続、贈与の対象とすることができた。しかし奴隷は「人間」としての権利も認められ、主人の許可を得て結婚することも可能であったし、職業や信仰の点でも自由人とさしたる違いはなかった。ただ一般には奴隷が裁判官(#カーディー#)のような公の権威ある職につくことは禁止され、#礼拝#や#ジハード#の義務も比較的ゆるやかであったところに自由人ムスリムとの差別があったといえよう。
 イスラムは奴隷の解放を、死後#天国#に行くための善行として積極的に奨励したが、奴隷の存在そのものを否定することはなかったために、イスラム社会のさまざまな面で奴隷の労働力が活用された。男奴隷は家内奴隷として用いられるばかりでなく、傭兵としてもイスラム史上に重要な役割を演じ、また女奴隷は、#ハレム#へ入る者以外に、歌姫や料理女、あるいは子守女として広く用いられた。ただ#職人#として手工業生産に従事する奴隷はほとんどなく、農業奴隷も、アッバース朝時代の#ザンジュ#を除けば、ごくわずかであったことが特徴である。これらの奴隷は奴隷商人(ナッハース)の手を経てバグダードやカイロにもたらされた。ブハーラーやサマルカンドの奴隷市場には男女のトルコ人奴隷が集められ、アラル海南岸のホラズム地方もスラブ人や#ハザル#人奴隷の輸入地としてよく知られていた。またスラヴ人奴隷はユダヤ商人によってイベリア半島に送り込まれ、ここで去勢の手術を施されてから#マグリブ#を経由してカイロやアレクサンドリアに運ばれた。黒人奴隷は、ヌビアやアビシニア、あるいはザンジバルなどの東アフリカからもたらされる以外に、中央アフリカからもリビア南方のザウィーラを経て輸入された。
 ヨーロッパ諸列強の圧力によって、このような奴隷制が廃止の方向に向かうのは19世紀になってからのことであるが、奴隷の地位が比較的高く、しかも社会的に広く認められた制度であったから、当初は#ウラマー#も奴隷制の廃止に反対であった。しかしコーランは新しい奴隷をつくることを禁止したとする考えがしだいに浸透し、20世紀に入ると#青年トルコ#党による奴隷制の廃止を皮切りに、アラブ諸国やイランも奴隷貿易が非合法であることを相次いで宣言するにいたった。,(佐藤次高) 50100,ナクシュバンディー教団,ナクシュバンディーキョウダン,Naqshband<印77F5>,,中央アジアのブハーラーを本拠としたイスラム神秘主義教団(#タリーカ#)。アブド・アルハーリク・グジュドゥワーニーを創設者として12世紀後半以来ブハーラーを中心に活動を続け、一般にはホジャガーン(ホジャ派)として知られていたが、14世紀にバハー・アッディーン・ナクシュバンドが出現すると、彼の名にちなんでナクシュバンディー教団と呼ばれるにいたった。教義・修行方法は厳格な#スンナ#主義、#シャリーア#主義を貫き、黙誦による心の#ジクル#によって神との合一を目指し、他の諸教団にみられる#サマー#(音曲などを聞きつつ陶酔境に入る修行方法)、遊行、独居といった修行方法を禁じ、あくまで民衆と交わりつつ心の内面を鍛練して高い宗教的境地に達することを目指した。15世紀には#ティムール朝#の支配者たちの支持を得て発展し、とくに教団の長ホジャ・アフラールの時代には、莫大な財産を背景に政治面においても大きな影響力を発揮した。14世紀に東トルキスタン、16世紀にはアナトリア、インド、18世紀にはシリア、ボスニア(バルカン半島)、19世紀にはスマトラ、ボルネオ、マレー半島、クルディスターン(イラン北西部、イラク北部)などにも進出して、諸地方の宗教運動史上に残る重要な役割を演じた。,(間野英二) 50400,ナジャフ,ナジャフ,Najaf,,イラクにおける#シーア派#の聖地。クーファの南西方約10kmの地にある。661年第4代カリフ、シーア派初代イマーム、#アリー#は、クーファで刺殺された。シーア派によると、アリーは遺体を汚されるのを恐れて、クーファ以外の地にひそかに埋葬するよう遺言したという。そこでナジャフが選ばれ、後に聖廟が建立された。シーア派にとっては#カルバラー#とともに最も重要な聖地で、#巡礼#地になっている。,(黒柳恒男) 50500,ナシール・アッディーン・アットゥーシー,ナシール・アッディ,Na<印7CE3><印77F5>r al-D<印77F5>n al-<印75E7><印7CF3>s<印77F5>,1201〜74,イランの十二#イマーム派#の神学者、哲学者、天文学者。トゥースに生まれ、バグダードで没。フラグのイラン侵攻後は、その政治顧問となり、彼がフラグの命によって建設した天文台がアゼルバイジャンのマラーガに残っている。哲学者として彼は#イブン・シーナー#の存在論の真意を把握し、近世イラン哲学の主流である「存在の根源的実在性」の説の基礎を築いた。主著は《イブン・シーナーの指示と覚醒の書注解》、《ナーシルの倫理書》、《イル・ハーン天文表》。,(松本耿郎) 50600,ナーシル・ホスロー,ナーシル・ホスロー,N<印78E6><印7CE3>ir Khusraw,1003〜61,ペルシアの詩人。バルフの一地方に生まれ、メルブで#セルジューク朝#の財務官僚となったが、1045年メッカへ#巡礼#し、次いでエジプトで#イスマーイール派#に改宗、バルフ帰還後は迫害され、バダフシャーンの山中に隠遁して一生を終えた。旅行記《サファル・ナーマ》は、#ファーティマ朝#下のエジプトなど各地の状況を知る貴重な史料であり、詩集《ディーワーン》も文学史、イスマーイール派研究のうえで重要である。,(清水宏祐) 50700,ナズム・ヒクメト・ラン,ナズム・ヒクメト・ラン,Naz<印7DF5>m Hikmet Ran,1902〜63,トルコの反体制的詩人。テッサロニキの名家の出身。祖父も詩人として知られた。革命運動に参加して海軍兵学校を退学後、1921年モスクワ大学留学、マヤコフスキーの知遇を得た。24年帰国してトルコ共産党に入党。25年反体制的詩作のため15年の刑を宣告され、ソ連に亡命した。1928年バクーで最初の詩集を出版、同年帰国し、《絵入り月報》誌に拠って文筆活動を行ったが、37年逮捕され、28年の刑に服す。1951年釈放とともにソ連に亡命、東欧諸国を遍歴してポーランド市民権を取得した後、モスクワで没。その自由詩はトルコ現代詩の流れを変え、平和運動を通じて高い国際的評価を得た。祖国解放運動を題材とした叙事詩《わが祖国の人間風景》、トルコ農民の苦難をうたった詩集《アナドル》、原爆の犠牲者たちに寄せた《ヒロシマ》のほか《頭蓋骨》など戯曲もある。,(小山皓一郎) 51100,ナツメヤシ,ナツメヤシ,,,木の実が主食の座を占める例として、ポリネシアのパンノキと並んで、アラブのナツメヤシがある。ナツメヤシは現在、都市部では主食の座を降りてしまったが、田舎や砂漠地帯ではまだ食生活でこれを抜くわけにはいかない。この木自体、暑熱と塩害に強く、暑く乾燥した地域に適している。住民にとっても、栄養価が高く、熟させるか干すかして保存食となる実の利用に加えて、樹木の乏しい住生活に、幹、枝、葉、髄、繊維とどれをとっても有用であり、恵みの物資となっている。産地としてはヒジャーズおよびイラクがとくに有名であり、後者ではバスラが最大の生産高を誇った。そこから遠くは中国にまで輸出されたといわれる。春先から秋までの実の生長は、同時にアラブの生活サイクルを区切るものでもあった。結実から成熟まで、大きさ、色づき、柔らかさを目安にして、17段階にも上る細かな生長段階別特称が与えられた。太陽の運行ではなく、星・星座の運行と関連させつつ生長度が計測されるのであり、ナツメヤシによる歳時記ができ上がっていたのである。実は主食とされるだけでなく、そのジュースは#断食#明けにまず口にする飲物として貴ばれるし、ジャム、シロップ、菓子の主要材料ともなる。十分熟れた実から採れる蜜は砂糖代りに使われ、また発酵させてアルコール飲料ともされる。,(堀内勝) 51400,ナムク・ケマル,ナムク・ケマル,Nam<印7DF5>k Kemal,1840〜88,#オスマン帝国#の啓蒙思想家、1860〜70年代に反専制運動を行った「新オスマン人」を代表する立憲主義者。#シナーシー#との接触により、西洋近代文明に目を開かされ、1865年同志とともに、反政府運動を組織。のちパリ、さらにロンドンに亡命し、そこで《自由》新聞を刊行。帰国後も流刑などの弾圧の中で、反専制運動を継続した。76年のミドハト憲法制定後、一時政治の中枢にかかわったが、専制政治再開により、不遇の中に没。他方、ロマン主義文学の影響下に、小説、戯曲等も多数発表して、トルコ近代文学の基礎を築いた。,(新井政美) 51600,ニザーミーヤ学院,ニザーミーヤガクイン,Ni<印7BE2><印78E6>m<印77F5>ya,,#セルジューク朝#の宰相#ニザーム・アルムルク#が自らの名を冠して設立した学院(#マドラサ#)。彼は#イスマーイール派#の活発な布教活動に対抗して#スンナ派#の神学と法学を振興させ、有能な官吏の養成を目的として1067年にバグダードに学院を設立したのをはじめとして、版図内の主要都市、たとえばニーシャープール、ヘラート、イスファハーン、メルブなどに同名の学院を設立し、教授陣の任免権を握った。#アシュアリー派#神学と#シャーフィイー派#法学を主要課目に#ハディース#、文学などが教授され、イスラム文化の発達に大きく貢献した。とくにバグダードの学院はイスラム諸学の中心的な地位を占め、学生数は数千人に達したという。教授陣の中で神学教授であった#ガザーリー#はとくに名高く、学生の中では後に#ムワッヒド朝#の基礎を築いたイブン・トゥーマルトやイランの大詩人サーディーがよく知られている。バグダードの学院はセルジューク朝没落後、14〜15世紀ごろまで存続した。,(黒柳恒男) 51700,ニザーム・アルムルク,ニザーム・アルムルク,Ni<印7BE2><印78E6>m al-Mulk,1018〜92,イラン人の政治家。ホラーサーンのトゥースに近い町の地主の家に生まれる。初め#ガズナ朝#のホラーサーン総督に仕え、次に#セルジューク朝#のチャグリー・ベクのもとに転じ、アルプ・アルスラーン、マリク・シャーの2代のスルタンの#ワジール#となった。両スルタンの実質的な#アター・ベク#でもあり、自らも私兵を擁し政治の実権を握って、行政組織・軍隊・#イクター#の整備などの改革を行った。主要な都市に#ニザーミーヤ学院#を開設して#スンナ派#イデオロギーの擁護と#ウラマー#の育成に努めたのもその一つである。彼の著した《政治の書》は、君主に対して統治理念を説いたもので、ペルシア語散文学の傑作であり、歴史史料としても貴重である。1092年バグダードへの旅行途上で#イスマーイール派#と思われる#ダイラム#人によって暗殺されたが、その一族はその後、半世紀にわたってワジールなどの要職についた。,(清水宏祐) 51800,ニザール派,ニザールハ,Niz<印78E6>r,,#イスマーイール派#の一派。#ファーティマ朝#第8代カリフ、ムスタンシルは長子ニザールを後継#イマーム#に任命したが、父の死後、彼は廃されて弟ムスターリーが後継者になった。そこでニザールは乱を起こしたが失敗し、1096年に殺害された。イラン、シリアのイスマーイール派は、新イマームを認めず、ニザールとその子孫を支持し、ムスターリー派に対してニザール派(#アサッシン#)と呼ばれ、#ハサン・サッバーフ#はこの派の最大の指導者であった。,(黒柳恒男) 52300,ヌーリーヤ学院,ヌーリーヤガクイン,al-N<印7CF3>r<印77F5>ya,,ザンギー朝のヌール・アッディーンは、#十字軍#に対する#ジハード#の精神的支柱として#スンナ派#擁護の政策を掲げ、12世紀にダマスクスやアレッポに次々と#マドラサ#を建設した。これらを総称してヌーリーヤ学院というが、中でもダマスクスにある#ハナフィー派#の大ヌーリーヤ学院は、#シャーフィイー派#のアーディリーヤ学院とともに、スンナ派教義の研究と教育に大きな役割を演じた。,(佐藤次高) 52600,ネディム,ネディム,Ahmet Nedim,1681〜1730,オスマン朝の#チューリップ時代#を代表する宮廷詩人。アフメト3世の大宰相イブラヒム・パシャの庇護を受けて宮中に出入りし、裁判官、#マドラサ#教授、司書として仕えた。アラビア語・ペルシア語文献の翻訳のかたわら、#スルタン#への頌詩や抒情詩をものし、とりわけ後者は酒・恋・美女の悦楽をたたえて民衆にも好まれ、その多くは歌曲として歌われた。スルタンの失政に対する#パトロナ・ハリルの乱#の渦中に没した。,(小山皓一郎) 52900,のろい,ノロイ,,,アラブ・イスラム世界で#ジン#や#邪視#と同じくらい、その存在および作用・効果が信じられてきた。最もよく知られた呪いのかけ方には2種ある。(1)呪術師に頼むにせよ、本人が行うにせよ、両手の指を組み合わせて頭上にかざし、呪うべき相手の名を含んだ定句(「何某に神の呪いあれ!」のごとき)を繰返し唱える。したがって指を組み合わせた両手を頭上に挙げる仕草は相手を呪う行為と解されるので注意すべきである。(2)紐にいくつもの結び目をつくり、その上に息や唾を吹きかけながら、ささやくように呪いの定句を唱える。これらの呪いを払ったり除けたりするのに最も威力あるとされるのが、コーランの最終の2章(113、114章)で、これを書きつけた#護符#はウーザと呼ばれる。イスラム、神、諸#預言者#などムスリムの信仰に直接かかわるものを呪ったことが明白である場合は、悔悛が認められない背教、取返しのつかない大罪として呪者は死刑に値すると考えられた。,(堀内勝) 53000,バイア,バイア,bay<印78FE>a,,一団の人々がある人の権威を認めて、その人に服従の意志を示す契約行為。通常「忠誠の誓い」と訳され、おおむねそれは、イスラム国家の最高権威者であるカリフに対する「忠誠の誓い」を指す。語源的には、主権者の手の上に人々が手を置くという忠誠の誓いの方法が、売買契約成立時の売手と買手の行為に似ているところから、「売買」を意味する動詞バーアから派生したといわれる。歴史的には、ムハンマドが#ヒジュラ#の直前に、メディナの人々とアカバで立てた「婦人の誓い」やメッカ征服以前にイスラム教徒たちから受けた「樹下の誓い」を先例とする。しかし忠誠の誓いの方法そのものは、しだいに変化したようで、10世紀後半以降では、おおむね支配者の前の床に口づけするようになった。,(森本公誠) 53200,ハイダラーバード,ハイダラーバード,<印7CE9>aydar<印78E6>b<印78E6>d,,(1)インドのデカン高原中央部にあり、アーンドラ・プラデーシュの州都。旧藩王国名で、インド独立後の州再編までの州名でもあった。(2)パキスタンのシンド州にある都市(1981年の人口約80万)。(1)の州都は人口300万を超える大都市で交通の要衝。ムスリムのニザームが君臨した旧藩王国(1724〜1948)は、インド独立時に帰属をめぐってインド政府と対立し、1948年9月、後者の実力行使でインドに併合された。,(加賀谷寛) 53400,バイバルス〔1世〕,バイバルス,Baybars,ca.1228〜77,#マムルーク朝#の第5代スルタン(在位1260〜77)。キプチャク生れのトルコ人で、モンゴル軍の捕虜となってシリアへ売られ、次いで#アイユーブ朝#のスルタン、サーリフの#マムルーク#(奴隷軍人)となり、1250年マンスーラの戦でルイ9世を捕虜にしてから頭角を現した。60年に#アイン・ジャールートの戦#でモンゴル軍を撃退した後、マムルーク朝スルタン、クトゥズを殺して自らスルタンとなり、カイロに#アッバース朝#カリフを擁立したのに続いて#スンナ派#四法学派を公認、さらにバリード網を整備してマムルーク朝国家の基礎を確立した。東方の守りを固めてモンゴルの侵入を防ぐ一方、71年から対#十字軍#戦争を積極的に遂行して、カエサリア、ヤッフォー、アンティオキアなどの諸都市を次々と攻略した。17年の治世の間に38回のシリア遠征を行い、その輝かしい治績は「アラブの英雄譚」として今もなお巷間に語り継がれている。バイバルスは仲間のマムルーク騎士には信義を尽くす武将であったが、英雄譚を記録した《バイバルス物語》に描かれているのも、義<印3C40>心に富み、ライオンの紋章をつけて異教徒と勇ましく戦うムスリムの騎士バイバルスである。,(佐藤次高) 53700,墓,ハカ,,,イスラムでは遺体は埋葬し、決して火葬にされない。顔面がメッカに向くように横たえられる。通常その上に平らな墓石が置かれ、時に頭部に石碑が立てられる。ただし#ワッハーブ派#は墓石を置かず、土を盛るだけにする。イスラム初期では墓参りは禁じられたが、歴史的に聖廟(#マザール#)崇拝が発展した。死後に#聖者#(ワリー)として崇拝されるものは、強い呪力(#バラカ#)をもつと信じられ、墓石に呪力が宿るので、聖墓に直接触れて呪力を獲得しようとする聖廟儀礼が発達し、呪力によって病いや災いを免れることを望む人々を集めた。また祈<印4704>(#ドゥアー#)を捧げて安産・幸せを祈る婦人も多い。参詣者(ザーイル)が多くなると、墓石の上に丸天井のある建築(クッバ、グンバド)が建てられ、周辺に墓地が形成された。聖者近くに埋葬されることで、死後、聖者の仲介が求められるからである。有名な聖廟には、遠隔地から参詣(ジヤーラ)が行われ、とくに年1度の聖廟の例祭(#マウリド#、インドではウルス)が催され、この期間に市が立ち賑わう。下エジプトではタンターの聖者バダウィー聖廟が、インドではアジメールの聖廟が有名である。聖者崇拝の対象は、#スンナ派#世界では#スーフィー#聖者で、その他、学者、殉教者、異常な能力の持主などがある。#シーア派#の#十二イマーム派#では、各イマーム廟、#イマームザーデ#廟の崇拝が盛んである。イマーム廟は、イラク南部(#ナジャフ#、#カルバラー#、カージマイン)、メディナにあり、イラン国内では#イマーム・レザー廟#が#マシュハド#にある。首都テヘラン近くのコムには、イマーム・レザーの妹ファーティマの廟があり、参詣者が多い。これら聖廟への異教徒の入場は門前で厳重に禁止される。イマームザーデ廟はイマームの子孫の墓で、イラン全土にいたる所に分布している。ワッハーブ派などのイスラム主義者は、これら聖廟を、非イスラム的慣行(ビドア)とみて反対する。→葬制,(加賀谷寛) 53800,ハーキム,ハーキム,al-<印7CE9><印78E6>kim,985〜1021,#ファーティマ朝#第6代カリフ。在位996〜1021。その奇妙な性格と行動で有名。即位してから5年後に専制的権力を振るい始め、極端な政策を次々と打ち出していった。#イスマーイール派#色を強調し、キリスト教徒、ユダヤ教徒を差別、迫害した。#スンナ派#に対しても敵対的政策をとった。狂気じみた禁令、反乱に対する容赦ない弾圧、そして時折みせる寛容と謙遜など、同一の人間の行為と思えないほどの極端から極端への振幅が彼の政策の特徴であった。その最期もそれにふさわしく謎に充ちており、一部の人々は彼を神格化し#ドルーズ派#となった。,(湯川武) 53900,ハークサール運動,ハークサールウンドウ,Kh<印78E6>ks<印78E6>r,,イギリス領インド、パンジャーブ州出身のイナーヤトゥッラー・ハーン・マシュリキー(1888〜1963)により、1931年に組織された運動。ハークサールとは「塵(ハーク)のごとくにつつましやかな生活」の意である。イナーヤト・アッラーは東西の古典・宗教に通じた学識ある官吏であった。彼は初期のイスラム思想を重視し、インドにイスラム支配を確立することを目標としたが、異教徒への排他的立場をとらなかった。その思想にはイスラム的精神性と軍事性とが混交しており、日常的奉仕活動と模擬軍事訓練がその実践形態であった。1930年代末には連合州、パンジャーブ州に組織を拡大したが、39〜41年に#ムスリム連盟#や国民会議派と対立し、第2次世界大戦下の一時的非合法化もあって急速に衰退した。インドとパキスタンの分離独立に際しては、#ジンナー#の「二民族論」に反対し、パキスタン独立後も野党的立場をとった。,(佐藤宏) 54000,バグダード,バグダード,Baghd<印78E6>d,,イラク共和国の首都。ティグリス川中流の河畔にあり、人口は約465万(1985)。#アッバース朝#の第2代カリフ、#マンスール#は、762年、新王朝の都をティグリス川西岸の小村バグダードに定め、ここに三重の城壁に囲まれた大規模な円形都市を造営した。正式の名をマディーナ・アッサラーム(平安の都)という。直径2.35kmにおよぶ円城内には、黄金門宮と大モスクを中心に諸官庁、親衛隊の駐屯所、#カリフ#一族の館などが置かれ、中央にそびえる宮殿の緑色ドームは強大なカリフ権の象徴であった。バグダードは肥沃な農耕地帯のほぼ中央にあり、しかも東西を結ぶ#キャラバン#・ルートと南北の河川ルートの交差点に位置していたから、帝国経済の発展につれて#商人#や手工業者が来住し、市街地も急速に拡大した。円城南のカルフ地区は商工業の中心地として繁栄し、東岸にも軍隊の駐屯地や市場が建設された。最盛期の9〜10世紀には、その人口は100万を数えたといわれる。
 #サーマッラー#時代(836〜892)以後も、アッバース朝の歴代カリフはバグダードに居を定めた。しかし10世紀に入ると、軍閥相互の戦闘や洪水のために市街地の荒廃が進み、シリアやエジプトへの人口流出が始まった。#セルジューク朝#時代の#ニザーミーヤ学院#は、なおイスラム諸学の中心機関ではあったものの、1258年にモンゴル軍の侵入を受けると、バグダードは#イル・ハーン国#の一地方都市となり、イスラム文化の中心は#マムルーク朝#治下のカイロへと移行した。#ティムール朝#の支配を経て、16世紀には#サファヴィー朝#と#オスマン朝#の争奪の地となり、バグダードは極度に衰退した。19世紀初頭からトルコ人総督による改革が実施され、人口も徐々に増大して、1921年にはイラク王国誕生とともに首都に定められた。55年にイラク共和国の首都となってからも発展を続け、石油経済を基礎に近代都市へと急速な変貌をとげつつあったが、湾岸戦争で敗者となってからはアメリカ主導の経済封鎖のもとにおかれ、庶民生活はきわめて困難な状況におかれている。,(佐藤次高) 54300,ハザル族,ハザルゾク,Khazar,,6〜9世紀を中心に南ロシア草原で活動した、おそらくアルタイ系(中でもトルコ系)の遊牧民族。少なくとも6世紀半ば以降、西突厥の宗主権下に南ロシア草原に明確に姿を現し、7世紀前半にはビザンティン帝国と同盟してササン朝ペルシアと争い、7世紀半ば、西突厥が衰えると独立してハザル・カガン国を形成した。ブルガル・オノグル部族連合を破って南ロシア草原の覇権を握り、641/2年以降はカフカス地帯の領有をめぐって新興のアラブと対立、また7世紀後半までに南西のクリミア半島の大半を領有した。8世紀に入ってもアラブ軍との戦いを続けたが、737年、後の#ウマイヤ朝#カリフ、マルワーン2世に率いられたアラブ軍がハザル地域奥深く侵入して勝利を得ると、ハザル・カガンは一時的にイスラムを受容しウマイヤ朝カリフの宗主権を認めた。しかし、ほどなくカリフの宗主権下を脱し、再びアラブと争ったが、9世紀になると戦いもやみ、ヴォルガ下流域の首都アティルは国際貿易の中心地として栄え、ムスリム商人でこの地に移住する者も多く、ハザル人の中にはイスラムに改宗する者も増加した。ただしカガンをはじめとする王族は、9世紀の初め#ユダヤ教#に改宗した。国家は9世紀の後半になると国力が衰え始め、新興のルスをはじめ、ペチェネグ、オグズなどの圧迫を受け、965年にはルスのスヴィアトスラフの遠征によって首都を攻略され、事実上崩壊し、以後徐々に史上から姿を消した。カガン国の国家組織はアルタイ系遊牧国家の伝統を継承し、宗教的権威をもつカガンのほかに、実際の政務を行うシャド、#ベグ#らが存在した。支配階級は冬をアティルなど都市の周辺で過ごし、夏を草原地帯で過ごすという、いわば半遊牧・半定住の生活を送った。国内では農業のほかに漁業も行われたが、隊商にかけられる関税も国家の重要な財源であった。なおアラブはカスピ海を「ハザルの海」と呼んだ。,(間野英二) 54400,ハサン・アルバスリー,ハサン・アルバスリー,al-<印7CE9>asan al-Ba<印7CE3>r<印77F5>,642〜728,初期イスラムの最も優れた思想家。サワード征服の際の捕虜の子としてメディナに生まれ、のちバスラに移住し、その指導的知識人として多くの弟子を養成した。彼は羊毛の粗衣を着ていたことから、後世に最初の#スーフィー#とされるが、彼の説いた教えは禁欲主義にあって、後世の#イスラム神秘主義#運動を形成する一要素である精神修行法を開発した。また#ムータジラ派#はハサンを学祖とするが、彼は罪をより高い次元から判断して人間の責任を強調し、人間はすべて罪障多き偽善者であるから、不断の反省と宗教規定の遵守が要請されると主張した。この点で、ムータジラ派はもちろん、#カダル派#の自由意志論とも一線を画す。彼は#預言者#の#スンナ#という言葉を宗教的・倫理的意味に用いた最初の人であったが、後に法学者はそれを法的慣行の意味に用いた。彼は世俗的権力と化した#ウマイヤ朝#を激しく攻撃したが、武装反乱には加わらず、ひたすら教えを説き続け、初期イスラムの思想と学問は、彼と彼の教えを受けた弟子たちの間から生まれた。,(松本耿郎) 54600,ハサン・サッバーフ,ハサン・サッバーフ,<印7CE9>asan-e <印7EF8>abb<印78E6><印7EE5>,?〜1124,イランの#ニザール派#の初代#ダーイー#で、いわゆる#アサッシン#教団の創始者。コムに生まれ、レイに学ぶ。1072年#イスマーイール派#のダーイーとなり、78年エジプトの#ファーティマ朝#宮廷に赴く。その後イラン各地で宣教活動に従事。90年イラン北部エルブルズ山中の要害アラムート城を奪取し、やがてダイラム、クーミス、クヒスタンおよびシリア方面に勢力を拡大した。94年ファーティマ朝カリフの後継者問題を機に、廃嫡されたニザールを支持して同朝と断絶した。絶対的権威への服従を説くターリーム理論に基づく「新教説」(ダーワ・ジャディーダ)を唱道し、強固な教団組織と独特の暗殺戦術をもって#セルジューク#・スンナ派体制に対抗、ニザール派運動の基礎を据えた。禁欲的で峻厳な人物で、2人の息子を禁を犯したとして処刑したという。著述家としても知られるが、自伝と神学論文の断片が伝えられるのみである。,(加藤和秀) 54800,ハシーシュ,ハシーシュ,<印7EE5>ash<印77F5>sh,,原義は「草」を意味するが、ここでは大麻を指す。13世紀ころエジプトに入ってきたもので、#酒#がイスラム教徒には厳禁されたのに対し、ハシーシュは現実には許容されたため、とくにエジプトではケイフ(嗜好物)として労働大衆の間に広まった。ハシーシュを長期間常習すると、さまざまな健康障害を起こすといわれるが、禁断症状等はなく、食欲が増進し、聴覚・視覚が鋭敏化(人によってはその逆もある)したり、その効果には個人差がある。ハシーシュが酒と異なる点は、それを喫煙する(飲物に溶かして飲むのは危険である)者の意志に従って、弛緩と緊張のいずれにも効果がある点である。緊張への意志をもって喫すれば、集中力をかなり高めることができるので、ハシーシュが禁じられず廉価であった時代には、腕のよい職人を育てたといわれる。またエジプトの農村部では、女子の#割礼#が行われており、性生活において男性が性的持続力を要求されるが、この点においてもハシーシュは大きな効力を発揮する。そのため法律で禁止された現在でも、ハシーシュは根絶されることなく残存している。ハシーシュ禁止令は、農村部女子の割礼廃止とが同時に行われないかぎり効を奏さぬといわれ、その処置はエジプトの今後の課題となっている。ハシーシュは紙巻#タバコ#の中に混入させて喫煙したりもするが、ムアッサルという蜜を混ぜたタバコの上に載せ、ゴーザという水キセルで喫うのが一般に好まれている。19世紀にカイロを訪れたE.レーンが書いているようにはマクハー(#コーヒー店#)でハシーシュは今はもう売られてはいないが、グルザという特殊な茶屋があり、そこでは今でもハシーシュが喫煙されている。ちなみに#アサッシン#の名はハシーシュに由来している。,(奴田原睦明) 54900,ハージブ,ハージブ,<印7EE5><印78E6>jib,,イスラム諸国で、一般民衆が支配者に近づかないよう入口を守り、認められた者のみを会わせる役目を果たす、ほぼ「侍従」と訳される官職名のアラビア語で、動詞ハジャバ(妨げる)の派生語。#ウマイヤ朝#初代カリフ、#ムアーウィヤ1世#の時から採用され、多くは#マワーリー#出身者で地位は低かったが、#アッバース朝#時代になると、宰相(#ワジール#)に次ぐ高位の官職となり、しばしば両者は対立した。スペインの#後ウマイヤ朝#では、ハージブは東方のそれと異なり、支配者を側近や一般大衆から守るとともに、支配者とワジールや下級官吏との間の仲介者の役割も果たしたので、ワジールよりも高い最高の地位を占め、政治について支配者の重要な補佐役となった。とくに同王朝末期では、ハージブが政治や軍事の全権を掌握し、#カリフ#は形式的な主権者となった。#マムルーク朝#では、ハージブの職掌は拡大され、本来の職務のほか、支配階級たる#マムルーク#軍人以外の一般市民や下級兵士の提訴を受け付ける一種の行政裁判権を保持した。,(森本公誠) 55100,パシュトゥーン,パシュトゥーン,Pasht<印7CF3>n,,アフガーン、パターンとも呼ばれる。アフガニスタン全域からパキスタン北西部にかけての地域に住むアーリア系の民族。人口約1500万、すべてイスラム教徒である。母語はインド・ヨーロッパ語のパシュトー語で、#アラビア文字#で表記される。原住地は今のアフガニスタン・パキスタン国境を走るスレイマン山脈地方で、18世紀中ごろカンダハールを中心としてアフガニスタンを建国した。1893年、アフガニスタンとイギリス領インドの国境が画定され、これが彼らの住地を2分して、パキスタンでは北西辺境州を形成している。文明になじむことが少なく、農業・遊牧・商業をおもな生業とする。パシュトゥヌワレイという独自の慣習法を維持しており、武勇と自由を愛し、復讐・連帯・異人歓待・部族集会などの習慣をもつ。その住地は海に面することなく、天然資源に乏しいから、経済的には振るわない。
 アフガニスタン建国以来、この国の政権を掌握していたパシュトゥーン族は、1973年、王制から共和制に移行したころから、分裂抗争を事としてきた。とくに79年から10年間に及ぶソ連軍の侵入とそれに対する抵抗は、この国を滅亡近くに追いこんだ。94年にパシュトゥーン族による政治組織ターリバーン(「宗教学生たち」の意)は、同国の大部分を支配しているものの、安定政権を樹立するにはいたっていない。パシュトゥーン族の慣習法の徳目のうち、「武勇」は健在であるが、「連帯」はまったく失われている。,(勝藤猛) 55200,バース党,バーストウ,al-Ba<印78FE>th,,第2次世界大戦後いくつかのアラブ諸国に生まれた#アラブ民族主義#政党。バースは復興・再生を意味する。1940年代初期のシリアのアラブ民族主義運動の組織を母体とする。それは、パリに留学し帰国後教員となったミシェル・アフラクやサラーフ・ビタール、イスケンデルン出身のザキー・アルアルスージーらが中心となって結成された。彼らは民族的独立を目的とした従来のアラブ・ナショナリズムに対しさらに急進的な社会闘争の目標を掲げた。47年党として正式に発足し、さらに53年アクラム・ホウラーニーの率いるアラブ社会党と合併してアラブ復興社会党となった。党組織はイラク、ヨルダン、レバノン、スーダン、南イエメンなどに拡大し、機構としては、これら各国レベルの組織を統括する地域指導部と、これら地域指導部を全体として統括するパン・アラブ指導部が設置された。「統一、自由、社会主義」に基づく単一アラブ国家の樹立を主張するが、そこではとくにアラブの統一を強調し、反資本主義、反帝国主義、反シオニズムをスローガンとした。
 バース党の基本命題であるアラブの統一は、(1)シリア・エジプト(アラブ連合共和国、1958年2月〜61年9月)、(2)シリア・エジプト・イラク(63年4月、調印のみ)、(3)シリア・イラク(63年10月、決議のみ)、(4)エジプト・イラク(64年5月、合意のみ)、(5)エジプト・シリア・リビアの3国連合(71年4月、機能せず)の5回にわたって試みられた。しかしこれらの試みは、エジプトの指導権、ことに#ナーセル#の立場とバース党との衝突をきたし、成功しなかった。
 民族主義とアラブ社会主義という立場は、1950年代後半以降、政治イデオロギーに弱い軍人や社会経済的貧困層(シリアではとくに#アラウィー派#などのマイノリティ)の入党を促進する要因となった。バース党は、シリアでは63年、イラクでは63年と68年に、将校のクーデタを媒介として政権を獲得した。その後バース党は、パン・アラブ指導部と地域指導部、文民と軍人、#スンナ派#と他の諸宗派という諸要素が錯綜し、党内諸グループの対立・抗争が激化した。その結果、イデオロギー的力点が、統一よりもアラブ社会主義に移行し、アラブ民族主義がパン・アラブ的性格を弱めて各国ナショナリズムの傾向を強めた。,(木村喜博) 55800,ハッド,ハッド,<印7EE5>add,,「制限」「限界」を意味するアラビア語で、境界・辺境、定義(哲学)、名辞(論理学)などのほか、とくにイスラム法の用語として、特定の犯罪に対して、とくにコーランにおいて明示的に規定された刑罰を指す。複数形はフドゥード。ハッドによって処罰される犯罪は、(1)姦通、(2)姦通についての中傷、(3)飲酒、(4)窃盗、(5)追剥ぎである。ハッドは「神の権利」とされるため、これを人間の意志によって免除したり軽減したりすることはできない。→刑罰,(嶋田襄平) 55900,ハッラージュ,ハッラージュ,<印7CE9>usayn Man<印7CE3><印7CF3>r al-<印7CE9>all<印78E6>j,ca.858〜922,#イスラム神秘主義#者。イラン南部のバイダーに生まれ、バグダードで刑死。サフル・アットゥスタリー、#ジュナイド#に師事して神秘主義思想を学び、やがて独自の神秘主義説を唱える。ジュナイドから破門された後、インド、トルキスタンへ布教の旅に赴いた。バグダードに帰って、彼は大衆を前に自説を説教し始めたが、#スンナ派#からも#シーア派#からも異端として告発された。彼は、宗教的勤行が霊肉を聖化し、その聖化された者の中に聖霊が化肉し、その者の行為は神の行為となると教えた。彼は事実、そのような神の「落入」(フルール)を体験し、「我は神」と叫んだと伝えられている。また#奇跡#を行ってみせたとも伝えられる。神と被造物の本質的隔絶を前提にするイスラムの教義からみれば、ハッラージュの思想は異端説であり、彼は913年に逮捕され922年に処刑された。ハッラージュの事蹟と思想は、マシニョンにより編集された《ハッラージュの情報》にみることができる。,(松本耿郎) 56100,ハディース,ハディース,<印7EE5>ad<印77F5>th,,広くは伝承一般、狭くはムハンマドの言行に関する伝承を意味するアラビア語。狭義のハディースは、預言者の教えを守り、その人間像を後世に伝えようとする#サハーバ#(教友)の自然の情に発し、彼の死の直後から数多く語り継がれ、8世紀にズフリーによって最初に収集・記録された。それは一方で、ムハンマド伝に始まるイスラムの歴史叙述の発達を促したが、他方、預言者によって確立された宗教的・倫理的・法的慣行#スンナ#をハディース研究によって知ろうとした学者たち、ハディースの徒を誕生させた。法学者#シャーフィイー#は彼らの方法論を採り入れ、イスラムの法源(#ウスール#)論を定式化したのである。ハディースは本文マトンと、伝承の過程の記録イスナードからなり、後者を欠いたものは厳密にはハディースとはみなされない。ハディースの徒が発達させたハディース批判の学は、イスナードの信憑性の吟味に終始し、そのために膨大な伝記集のつくられたことが、イスラム史学の一つの著しい特徴である。
 初期の代表的なハディース集に、#マーリク・ブン・アナス#の《ムワッター》や、#イブン・ハンバル#の《ムスナド》がある。前者は#婚姻#、契約、#ハッド#などの項目ごとにハディースを分類し、イスラム法の概要を述べるとともに、#カーディー#などの#裁判#実務にも役立つよう編集され、このような形式をムサンナフという。後者はアルファベット順に配列した伝承者ごとにハディースを記録したもので、ムスナドとは、このような形式そのものの名である。シャーフィイーによる法源論の定式化以後、数多くのハディース集が編集された。そのうち法学者によってとくに尊重されたのが、#ブハーリー#と#ムスリム#の《サヒーフ》、#アブー・ダーウード#、#ティルミジー#、#イブン・マージャ#、#ナサーイー#の《スナン》で、これらは「六書」と称せられ、すべてムサンナフ形式である。→イスラム法学,(嶋田襄平) 56200,バーティン派,バーティンハ,B<印78E6><印73F3>in,,中世に#イスマーイール派#に与えられた別称。#シーア派#によると、コーランには、「表面的意味」(ザーヒル)と「内面的意味」(バーティン)の両面があり、内面的意味なしに表面的意味は存在せず、#イマーム#は両面的意味を解釈する力を備えているという。#十二イマーム派#は両面の同時性と均衡を保つことに努めるが、イスマーイール派は内面的意味のみをとくに重視・強調したので、バーティン派と呼ばれた。同派によると、スンナ派のコーランの#タフシール#はザーヒルを字義どおりに解釈するにすぎないが、バーティンはターウィール(精神的注釈)によって解かれ、ターウィールは、まず初代イマーム、#アリー#に授けられ、その後、七イマーム、隠れイマームを経て#ファーティマ朝#のカリフに受け継がれたという。イスマーイール派の布教者(#ダーイー#)はバーティンの教義を有力な武器としてスンナ派支配地域に赴き、同派への改宗を呼びかけた。→イスマーイール派,(黒柳恒男) 56600,ハナフィー派,ハナフィーハ,<印7CE9>anaf<印77F5>,,#アブー・ハニーファ#の名によって名づけられた#スンナ派#イスラムの法学派。アブー・ハニーファ、#アブー・ユースフ#、シャイバーニーの著述・教授活動を通じ、それ以前の地域的法学派としてのクーファ学派を中心に、バスラ学派を吸収しながら形成された。初期には個人的見解に依拠する度合が高いとされたが、3人の学祖の権威はむしろ他の3学派における学祖の権威よりも高い。アブー・ユースフ以後、#アッバース朝#カリフの保護を受け、イラク、シリア、イラン、中央アジア、インドに広まり、初期には#マーリク派#と並んで西方イスラム世界でも支持を得、とくに#アグラブ朝#下の北アフリカとシチリア島で栄えた。トルコ人は最初からハナフィー派に属し、同派は#セルジューク朝#、オスマン朝の歴代君主の保護を受け、#オスマン帝国#およびインドの#ムガル帝国#で、最も権威ある法学派とみなされた。→イスラム法学,(嶋田襄平・柳橋博之) 56900,バハーイー教,バハーイーキョウ,Bah<印78E6>'<印77F5>,,バハー・アッラーフと名のったイラン人ミールザー・ホセイン・アリーがはじめた宗教。彼はテヘランの名家に生まれ、1844年セイエド・アリー・モハンマドのバーブの宣言後に初期の#バーブ教#徒になって指導的役割を果たしたが、52年の大弾圧で逮捕、投獄された。その後家族とともに国外に追放され、63年にバグダード近郊においてバーブが予言した「神が現し給う者」であると宣言し、それから間もなく新宗教の布教を始めてバーブ教から離脱し、バーブ教徒の大半は新宗教を受け入れた。#オスマン帝国#政府によりイラク、トルコから追放された彼は、68年にパレスティナのアッカに達し、ここを新宗教の根拠地と定め、布教・執筆活動に努めた。彼は各国の指導者に手紙を送って新宗教の支持を訴え、死後2年で早くもアメリカに最初のバハーイー教徒の組織が形成された。長子アッバース・エフェンディーは父の後を継ぎ、1910年代に欧米に布教の旅を続けて大きな成果を挙げ、同地域におけるバハーイー教の基礎を築いた。3代目教主ショウギー・エフェンディーの時代になって、同教の中心はハイファに移され、今日にいたるまで活発な布教活動が続けられているが、教祖の生国イランでは異端視され布教が禁じられている。バハーイー教はバーブ教の教義をさらに発展させたもので、すべての宗教の根源は一つであるとされ、人類の平和と統一を究極の目的とし、あらゆる偏見の除去、両性の平等、科学と宗教の調和が説かれ、諸宗教の要素を取り入れた普遍的新宗教になっている。教徒はバーブ教にならって19を聖なる数字とし、バーブ暦(1年は19ヵ月、1ヵ月は19日)に従って毎月1日に集合し、聖典を読み運営を協議する。アラー月(3月2〜21日)は#断食#月とされ、飲酒は厳禁、1日3回の祈りが義務づけられ、収入には19%の宗教税が課せられる。教祖の著作《キターブ・アクダス》は同教の基本的聖典である。,(黒柳恒男) 57200,ハーフィズ,ハーフィズ,<印7CE9><印78E6>fi<印7BE2>,1326〜90,イランの抒情詩人。シーラーズに生まれ、この地に没した。青年時代に、詩人・文人の保護者として有名なファールス州の支配者、アブー・イスハークに仕え、詩才を磨いた。壮年時代に、文人王シャー・シュジャーに仕え、愛や恋人、酒などを主題とする多くの抒情詩をうたう。一見耽美的にみえる彼の詩の真意は、神秘主義の陶酔境を巧みな比喩をもって表現したもので、古来最もイラン人に愛され続けている。,(岡田恵美子) 57300,バーブ教,バーブキョウ,B<印78E6>b,,19世紀にイラン人セイエド・アリー・モハンマドがはじめた宗教。シーラーズに生まれた彼は、ペルシア湾岸の港町で商売に従事したが、間もなくやめて#シーア派#の聖地カルバラーへ#巡礼#に行き、同地で神学者カージム・ラシュティーの弟子になり、シャイヒー派の教理を学んだ。師は死ぬ前にシーア派の隠れイマーム(#マフディー#)の再臨を予言し、1844年、イランの混乱した政治・社会情勢および民衆のマフディー再臨を熱望する宗教的状態を背景に、セイエド・アリー・モハンマドは自らを「バーブ」(アラビア語で門の意)と宣言した。彼は腐敗した聖職者を非難するとともに、シーア派の改革や両性の平等、政治・社会の再編成の必要を説き、とくに農民や中小商人の間にマフディーの出現として受け入れられ、その勢力は全国に急速に広まった。増大する勢力に驚いた#カージャール朝#政府は弾圧を始め、47年にバーブを監禁したが、弟子たちは布教を続けた。48年に主要な教徒たちがマーザンダラーン州のバダシュト村に集まり、既成の宗教の枠内では彼らの宗教・社会思想の実現は不可能であるとして、イスラムおよび#シャリーア#から完全に離脱することを決定し、さらに積極的な布教のために政府と戦う決意を固めた。48年から2年間彼らはイラン各地で武装蜂起して政府軍に徹底的に抗戦し、大半が惨殺された。50年にバーブはタブリーズで処刑されたが勢力は衰えなかった。52年に2人のバーブ教徒が国王の暗殺を企てたのを機に、政府側の大規模な弾圧と迫害が強化され、約4万の教徒が犠牲になったという。これ以降教徒たちは戦闘的方針をやめ、その後内部分裂によってバーブ教徒の大半は#バハーイー教#に移り急速に衰退した。バーブの著作の中で《バヤーン》は最も聖なる書とされ、その基本的教理は、「神は唯一にして、バーブは神が映し出される鏡であり、何人もバーブに神を見ることができる」ということである。,(黒柳恒男) 57400,パフラヴィー朝,パフラヴィーチョウ,Pahlav<印77F5>,1925〜79,イランの王朝。第1次世界大戦直後、イラン北部では地方革命政権が生まれ、テヘランの中央政府の力は極度に弱まったが、イギリス帝国主義はロシア革命の波及を恐れて、1921年レザー・ハーンによるクーデタを演出し、その権力を強化した。彼は軍部独裁の道を進み、25年末レザー・シャーと称してパフラヴィー朝を興し、26年戴冠式を行い、上からの近代改革を進めようとした。35年、それまで外国でペルシアと呼ばれていた国名を正式にイランと定めた。41年、連合国の圧力で国王は退位を余儀なくされ、南アフリカへ亡命し、44年7月死去した。王位は皇太子が継承し、モハンマド・レザー・パフラヴィーを称して22歳で即位した。第2次大戦中は連合国との協力を強いられた。大戦直後、ソ連軍駐留下に地方革命政権が生まれ、イランは米ソの冷戦に巻き込まれたが、弱かった国王権力はアメリカの支持で強化された。51〜53年、#モサッデク#首相の率いる石油国有化運動が高揚すると、これと対立した国王は一時国外に脱出したが、最終的にモサッデク政権を打倒した。57年治安機構(SAVAK)を設立、58年パフラヴィー財団を創設して社会事業も始めた。60年ファラハ王妃との間に皇太子が誕生、63年白色革命が国民投票で承認された。#イラン革命#で国王は79年1月国外に脱出、同年4月イスラム共和制が成立し、王制は打倒された。,(加賀谷寛) 57600,ハーラ,ハーラ,<印7EE5><印78E6>ra,,#都市#の街区。マハッラともいう。都市建設に伴う部族別の区画割や、出身地・職業・宗教などを同じくする者が、それぞれ固有の地区に住みつくことによって成立し、現代に至るまで日常生活の基本的な単位をなしてきた。ハーラの内部は中通り(ダルブ)から分かれた路地(アトファ)や袋小路(ズカーク)が曲がりくねって続き、外の大通りに通ずる二つの門(バーブ)は夜になると夜警人によって閉鎖されるのが慣わしであった。そこには、町の中央#モスク#や#市#場とは別に、独自のモスク、公衆浴場(ハンマーム)、市場(スーク)などがあり、民家(ダール)は大家族がいっしょに住むこともあれば、借家人が壁を隔てて同居している場合も少なくなかった。ハーラは経済的な小共同体であるばかりでなく、各地の情報はここを通じて伝達されたし、また租税の徴収や歩兵の臨時的な徴募もこの街区を単位にして行われた。その責任者を#シャイフ#あるいはアリーフという。ハーラの規模は人口500程度から数千までとさまざまであったが、住民たちは互いに顔見知りの間柄であって、彼らは結婚の祝いや、願掛け・厄払いの行事にこぞって参列し、また#聖者#の生誕祭には笛や太鼓を先頭にして若者たちの行列が町中を練り歩いた。このような共同の社会生活の中から強固なハーラ意識が生まれ、相互扶助や弱者救済などの価値の担い手が#アイヤール#、アフダース、あるいはシュッタールと呼ばれる任<印3C40>無頼の徒であった。その下町気質はやがて18世紀以降のイブン・アルバラド(町の子)へと継承されていく。,(佐藤次高) 57700,バラカ,バラカ,baraka,,「祝福」を意味するが、神が#預言者#たち、および#聖者#たちに与えた超人的能力を指して用いられる語。とくに#イスラム神秘主義#の教義と結びつき、生存中だけでなく、死後にもその力は存続すると考えられ、ムハンマドや聖者たちの#墓#石、その囲い、遺体や遺品にバラカがあると信じられ、その力に触れることにより、一般信徒にもろもろのよき効能が及ぶとして有り難がられた。→奇跡、マザール,(堀内勝) 58000,ハリデ・エディプ,ハリデ・エディプ,Halide Edip Ad<印7DF5>var,1884〜1964,トルコの女流作家。イスタンブルに生まれ、アメリカ系女学校を卒業。1908年ころから文筆生活に入り、第1次世界大戦後は政治活動に身を投じ、婦人解放に貢献した。イギリス、フランスなど国外での生活が長く、帰国後イスタンブル大学の英文学教授を務めた。その作品にはイギリス小説の影響が強い。オスマン帝国末期のイスタンブルを舞台とした恋物語《ハエのいる雑貨屋》のほか多数の小説、評論、紀行文、回想録などがある。,(小山皓一郎) 58400,バルフォア宣言,バルフォアセンゲン,Balfour,,1916年の#サイクス・ピコ協定#および#フサイン・マクマホン書簡#は、パレスティナに関するかぎり、フランスおよびアラブの発言権を認め、イギリスの意図する単独支配を困難にした。イギリスは、17年、この困難を克服する役割を、イギリスの支配下でパレスティナをユダヤ国家にしようともくろむシオニスト組織に見いだした。イギリスは、シオニスト指導部にフランスを説得させたうえで、11月2日、バルフォア外相から英国シオニスト連盟会長ロスチャイルド卿あての書簡の形で「パレスティナにユダヤ人の民族的郷土を設立する」のに賛成した。これがいわゆる「バルフォア宣言」である。アラブ側の反発を考慮して、宣言の文言にはユダヤ国家建設をうたわず、「非ユダヤ人(アラブ人)社会の市民的・宗教的および政治的地位は損なわない」との但し書きが付けられた。しかしこの宣言は、事実上イギリスの対アラブ公約を破るものであり、イギリスの帝国主義的意図に便乗したシオニストに、ユダヤ国家建設の糸口を与えるものとなり、#パレスティナ問題#の発端となった。,(前田慶穂) 58500,ハールーン・アッラシード,ハールーン・アッラシード,H<印78E6>r<印7CF3>n al-Rash<印77F5>d,766(763)〜809,#アッバース朝#第5代カリフ。在位786〜809。この王朝の全盛期を代表する君主で、797、803、806年の3回にわたってビザンティン帝国に親征、屈辱的講和条件を与えたが、対内的には相次ぐ反乱の鎮圧に苦慮した。内政では、最初の17年間はバルマク家一門を重用したが、その権勢があまりにも強大になりすぎたために、803年にこれを断絶させ、自ら政治に臨んだ。《#千夜一夜物語#》の登場人物としても有名。,(森本公誠) 59200,パンジャーブ,パンジャーブ,Panj<印78E6>b,,インド亜大陸北西の広大な平原で、「五河」地方の意。パキスタンのパンジャーブ州の人口は、4700万(1981)以上で、州都は#ラホール#。インドのパンジャーブ州の人口は、2020万(1991)で、州都はチャンディーガルに置かれている。住民はパンジャービー語を話し、これがインド側では州公用語になっている。古代より征服民族が中央アジアから、この地を経てインドの中心部に侵入した。11世紀に#ガズナ朝#のマフムードがこの地を経て前後17回にわたりインド遠征を行い、この地方が領域に編入され、12世紀には同王朝の拠点となった。この後、トルコ系の諸征服王朝の支配下に置かれた。#ムガル帝国#下には#ラホール#に王城が築かれて栄え、アムリトサルにシク教の本山が生まれた。19世紀初めシク王国の支配下に置かれ、1849年イギリス領に併合され、大規模な運河工事で農業が発展した。1947年インド分割独立とともに、この地も2分された。,(加賀谷寛) 59500,ハンバル派,ハンバルハ,<印7CE9>anbal,,#イブン・ハンバル#の弟子たちによってバグダードで結成された#スンナ派#イスラムの法学派。イブン・ハンバル自身がそうであったように、この派は#ハディース#の徒の系統を引いて伝統主義的で、#イジュマー#を#サハーバ#(教友)のそれに限り、#キヤース#の行使を最小限にとどめ、思弁神学(#カラーム#)と#イスラム神秘主義#に強く反対した。#ブワイフ朝#のバグダード入城(946)まで、この地で最も勢力を誇る法学派であったが、ブワイフ朝の#シーア派#保護政策により、しだいに勢力を失った。#イブン・タイミーヤ#と、その弟子イブン・カイイム・アルジャウジーヤの活躍により、14世紀にシリアで一時勢力を回復したが、あまりにも排他的であったため長続きしなかった。18世紀にイブン・タイミーヤの強い影響を受けた#ワッハーブ派#がアラビア半島に興り、現在ハンバル派に属すものは、このワッハーブ派だけである。→イスラム法学,(嶋田襄平) 60000,ビスターミー,ビスターミー,Ab<印7CF3> Yaz<印77F5>d al-Bis<印73F3><印78E6>m<印77F5>,?〜ca.874,#イスラム神秘主義#者。バスターミーとも呼ばれる。タバリスターン山中のビスタームに生まれ、そこで生涯を閉じる。同時代の神秘思想運動から孤立して独自の思想を確立し、後世のイスラム神秘主義哲学に多大の影響を与えている。彼は神秘主義修行の最終目標を神との「合一滅却境」であるとして、神の唯一性と存在の実相の認識が思索の中心主題になっている。イスラム神秘思想が存在の形而上学に基盤を求めるようになるのはビスターミーに由来する。著書はないが、彼のシャタハート(ファナーの境地で無意識に発せられる言葉)を集めたものが最近刊行された。,(松本耿郎) 60100,羊,ヒツジ,,,アラビア語で羊・ヤギはまとめてガナムと呼ばれ、雄・雌・子・親にそれぞれ固有の名称がある。毛・皮・肉・ミルクなどの利用のため、牧草地で飼育されている代表的な家畜である。羊飼いの後に体の大きい雄羊または雄ヤギが羊・ヤギの群れを連れ、その後方に牧羊犬がついて移動する光景は中東ではよく見られる。#ハディース#に「ガナムはガニーマ(有益)である」と言われているとおり、ムスリムの生活の支えをなしてきた。#ジャーヒリーヤ#時代の#ハニーフ#信仰にかかわりをもつコーラン37章107節の文句に「我らは(アブラハムの)子供を大いなる犠牲で贖ってやった」とあるのは、愛児イサクのために神が親雄羊を現して身代りに供えさせたものと解されており、雄羊は神への供物としては最善のものと信じられてきた。#メッカ##巡礼#においてはもちろんのこと、祈願成就などの際には好んで雄羊がいけにえにされる。イスラム法上、最善の犠牲動物は雄羊であって、生後1年以上経ており、病気をもたないものとされている。犠牲祭(イード・アルアドハー)の礼拝の直後に犠牲にされる羊の肉は3等分され、家族、貧困親族、貧困家族に配分される。これは宗教的義務(ファルド)ではなく、預言者の慣行(#スンナ#)とみなされ、有能者が行う善行に数えられている。またムスリムはすべての#預言者#がガナム飼いであったと信じており、ムハンマドも40歳ころ啓示を受けるまではその例外ではなかった。これは「イスラムには修道生活なし」と言われるように、「働いて食を得る」ことをたてまえとする労働価値観に結びつくとともに、預言者らが最も一般的な職業にたずさわった者の中から現れたということで人心を引きつける効果をもってきたものと考えられている。羊肉は肉類の中で最も美味なものとみなされている。アラブはラクダの毛は帽子や外衣に、羊毛は衣類・敷物などに用いるのに対し、ヤギの毛はテントに使う。それはヤギの毛がよく雨水をはじくためのようである。
 生活面や宗教信条において高い有用性や価値が認められている反面、社会通念上、羊・ヤギの地位はかなり低いものとなっている。(1)親雄羊は、頭髪をふり乱した男、ないしは他人の犠牲者に、(2)雄小羊は理解力に欠け、妻を守ることに無関心の男に、(3)雌羊と雌ヤギは弱者で何事もあきらめた人間に、(4)雄ヤギは頑固で、何かとたてをつき不快な男、または妻の不貞に沈黙しているような男に、それぞれたとえられている。,(池田修) 60200,ヒッティーンの戦,ヒッティーンノタタカイ,<印7CE9>i<印73F3><印73F3><印77F5>n,,ティベリアス湖西方のヒッティーンで行われたムスリム軍と#十字軍#との決戦。1187年3月、#サラーフ・アッディーン#は聖戦(#ジハード#)を宣して、エジプト、シリア、ジャジーラから1万2000の正規軍と2万余の補助軍を結集、一方、エルサレム王のギーもほぼ同数の十字軍騎士を集めてこれに対抗した。7月4日の戦いはムスリム軍の圧倒的な勝利に終わり、ギーを捕虜としたサラーフ・アッディーンはその余勢を駆って同年10月、約88年ぶりにエルサレムを奪回した。,(佐藤次高) 60400,ヒラーファト運動,ヒラーファトウンドウ,Khil<印78E6>fat,,第1次世界大戦後のイギリスの対トルコ政策、とくにイスラム国家最高主権者#カリフ#の廃止をめぐり、カリフ制擁護をかかげてインド・ムスリムが立ち上がった反英闘争の一形態。アリー兄弟、#アーザード#、モハニらが結成したヒラーファト委員会に対して、この問題をヒンドゥー・ムスリム統一強化の好機とするガンディーは、国民会議派組織を挙げてこれに合流、自ら全インド・ヒラーファト委員会議長となる。多くのムスリム大衆は「ヒラーファト」の意味をカリフ制ととらず、イギリスへの「対抗」(キラーフ)と考えていたといわれるが、従来#ムスリム連盟#が組織しえなかった農村ムスリム大衆を反英民族運動に糾合した歴史的意味は大きい。一方、この運動によって政治に宗教が持ち込まれることになったとするガンディー批判は、今日のインド歴史家の中にもある。セーブル条約が締結され、その後#ケマル・アタテュルク#がトルコの実権を握り、カリフ制を廃止し、近代化を推進する中でインド人のトルコへの関心は弱まった。,(内藤雅雄) 60700,ビールーニー,ビールーニー,al-B<印77F5>r<印7CF3>n<印77F5>,973〜1050以後,ホラズム生れのペルシア人科学者、哲学者、旅行家。#シーア派#に属し、反アラブ的感情は終生変わらなかった。数学者アブー・アルワファーの弟子について数学を学び、ジュルジャーン、レイに出て、天文学・医学を修めた後、再び故郷に帰った。#ガズナ朝#の君主マフムードが来攻した時に捕らえられて彼に仕え、インド征服にも同伴してこの地に長くとどまり、ガズナに帰って没した。彼の旺盛な知的好奇心と鋭い批判的精神とは、中世を通じて並ぶ者がない。180にも及ぶ著作の中で、インドの宗教・科学・習俗を語った《インド誌》は、貴重な歴史的記録である。天文学的百科全書《マスウード典範》は、医学におけるイブン・シーナーの《医学典範》と同様に、天文学における基準的書物である。イブン・シーナーとは異なり、彼の著作はラテン語訳されなかったため、西欧世界に影響を与えることはなかったが、イスラム世界では常に高い尊敬をかち得てきた。,(伊東俊太郎) 60800,ファイ,ファイ,fay',,イスラム法で、戦利品とくに不動産の戦利品を意味するアラビア語。コーランにはファイという言葉は見えないが、3回使われたアファーアという4型動詞が「ファイとして与える」を意味すると考えられたところから、初期イスラム時代にファイは戦利品一般を意味する言葉として広く用いられていた。#ウマル2世#はアラブと#マワーリー#から同じく#ハラージュ#を徴収する政策をとり、そのために征服地はイスラム教徒全体に属する不可分土地財産としてのファイで、ファイを用益するものは地代としてのハラージュを国家に納めなければならないという国家的土地所有の理論の基本的な考え方(ファイ理論)を示した。これを受けて初期法学派は戦利品を意味する二つの用語、#ガニーマ#とファイとを対立するものととらえ、#アブー・ユースフ#以後、最終的に、ファイは戦士によって分配されることのない不動産の戦利品を意味するにいたった。→ガニーマ,(嶋田襄平) 61300,ファーティマ朝,ファーティマチョウ,F<印78E6><印73F3>ima,909〜1171,#イスマーイール派#の王朝。北アフリカの#ベルベル#人の支持を秘密運動によって結集することに成功したイスマーイール派は、#アリー#と#ファーティマ#の血を引くと称するウバイド・アッラーフをシリアからイフリーキーヤに招いて#マフディー#(救世主)とし、909年、#アグラブ朝#を倒して#カリフ#に推戴した。これがファーティマ朝の始まりである。この王朝は、#アッバース朝#カリフに対抗してカリフを称した、現実に力をもつ最初の#シーア派#の勢力である。ファーティマ朝の建国運動が短期間に成功したのは、軍事的にはベルベルのクターマ族の力によるところが大きい。北アフリカの情勢は複雑で、成立したばかりのファーティマ朝は多くの困難にぶつかったが、2代目のカーイムの時代には、トリポリを制圧し、エジプトにまで兵を進めた。4代目ムイッズ時代に、部将ジャウハルの活躍で、西はモロッコから東は紅海、シリアまでの広大な地域を支配下に入れた。
 イフシード朝支配下のエジプトを征服したジャウハルは、フスタート北方に新しい都#カイロ#を建設し、カリフ、ムイッズを972年に迎えた。ムイッズと次のアジーズの時代は、ファーティマ朝が最も充実した時代で、政治的な安定と経済的繁栄を謳歌した。キリスト教徒やユダヤ教徒に対しても寛容な政策をとり、政府の官僚としても多くを登用した。一方、イスマーイール派の布教組織も、#アズハル#を中心にしっかりとつくり上げられ、多くの宣伝者(#ダーイー#)が各地に派遣された。11世紀の第8代ムスタンシルの治世は繁栄で始まり、干ばつ、飢饉、疫病などの天災と軍閥の抗争、民衆の反乱が重なり、衰退の進行で終わった。この間にヨーロッパの勢力により地中海の島々を、#セルジューク#・トルコの進出によりシリアの多くを失った。この危機に登場したのが、ムスタンシルの宰相バドル・アルジャマーリーとその息子のアフダルで、2人の努力により、ある程度の秩序を回復した。しかしアフダルの時代には、十字軍がシリア、パレスティナに侵入し、ファーティマ朝の領域はエジプトだけになってしまった。ムスタンシルの死後、継承問題が起こり、廃嫡されたニザールを支持する人々は、ファーティマ朝を離れ#ニザール派#となった。この後のファーティマ朝は宮廷内の権力闘争と軍閥の抗争に終始し、ますます弱体化した。12世紀後半にはシリアのヌール・アッディーンによって派遣された#サラーフ・アッディーン#が宰相となって実権を握り、1171年最後のカリフ、アーディドの死によって王朝は滅びた。
 ファーティマ朝の繁栄は、ベルベル人、スーダン人、ギリシア人などからなる強力な軍隊と、豊かなエジプトの経済に支えられていた。ことに#インド洋#―紅海―地中海を結ぶ貿易で、ファーティマ朝は大きな利益をあげた。文化的にもイスマーイール派の布教と並んで学問の振興に力を入れ、アズハルや#ダール・アルヒクマ#などを中心に宗教的学問だけでなく、哲学、医学、文学などの発展に寄与した。,(湯川武) 61400,ファーティマの手,ファーティマノテ,yad F<印78E6><印73F3>ima,,#護符#の一種。地域により「マリアの掌」(カッフ・マルヤム)、「5」(ハムサ)ともいう。開いた掌を外に向けた形が一般的であるが、マグリブ地方では親指と小指が同形で両端に開き、中指を中心に左右対称につくられている。「掌」と「5」のもつ象徴性・秘義性が絡んで、古くから西アジア、北アフリカに広まっていた土俗信仰であったが、イスラムの浸透とともに、五柱(#六信五行#)の教義や#ファーティマ#尊崇に伴う意味づけも加わった。掌の図案には、コーランの章句、敬虔な威力ある言葉、格言、目の形、5の数などが付加されると護符としての効力を倍加するとも考えられた。地域により、#イード#・アルアドハーの際に犠牲動物の血を掌につけて戸口の目立つ所に押しつけたり、扉に掌の形をしたノッカーを取り付けたり、旗や垂れ幕の頂部に飾りを兼ねて掌状のものを冠としたりする習慣もみられ、家畜の首の部分、また今日では自転車や自動車の前・後部に、備え付けたり描いたりして厄除けとする場合も多い。,(堀内勝) 61500,ファドル・アッラー・アスタラーバーディー,ファドル・アッラ,Fa<印77F6>l All<印78E6>h Astar<印78E6>b<印78E6>d<印77F5>,1339〜93,#シーア派#系統の神秘主義教団フルーフィー教団の創設者。神秘主義思想の中に含まれる騎士道精神を発展的に解釈し、神秘主義者の支配する国家の設立を夢見たと伝えられる。コーランの文字(フルーフ)に神秘的解釈をし、彼自身が神の肉化したものと主張したので、フルーフィーと呼ばれる。#ティムール朝#の支配に反対し、剣でもって神の正義を地上に実現するという過激な思想を抱いたために、ティムールの子ミーラーン・シャーに虐殺された。主著は《永遠の書》。,(松本耿郎) 61700,ファラーイジー運動,ファラーイジーウンドウ,Far<印78E6>'i<印7BE2><印77F5>,,19世紀初め東ベンガルでシャリーアトッラーが創始したムスリムの社会改革運動。彼は2度のメッカ巡礼を行い、出身地のファリードプル(東ベンガルのデルタ地帯)を中心にムスリム農民の間を説教して回り、ムスリムとしての宗教的義務(ファラーイズ)を厳しく守ることを訴え、運動参加者にはムスリムの生活に取り入れられたヒンドゥー教の慣習・儀式を捨てるように誓わせた。この運動はその子、ムハンマド・ムフシヌッディーンに引き継がれてから、戦闘的な農民運動に発展し、彼は1840年代に運動の組織化を図り、自ら頂点に立ち「教団の長」となった。彼は「土地は神のものである」と説き、地主による土地の独占は許されないと主張したため、ムスリム小作農民がこの運動に加わり、農民による地主襲撃が起こった。57年、インド大反乱が起こった時、地主襲撃を扇動した疑いで彼は逮捕され、拘禁中に死んだ。彼の死後、運動は衰えたが、東ベンガルではその後も長く農民運動の一つとして、この運動を継承する小グループが残存していた。,(小名康之) 61900,ファルス,ファルス,fals,,イスラム世界における銅貨の呼称。ビザンティン帝国の銅貨を受け継いで、#ウマイヤ朝#時代には主としてビザンティン領域の多くの鋳造所で銅貨がつくられ、#アッバース朝#時代には、銅貨は全イスラム世界に広がった。銅貨と#ディーナール#金貨、#ディルハム#銀貨との換算比率は、各地域で定まったものがあったはずだが、ほとんど記録には残っていない。銅貨は小額の日常的な取引にのみ使われ、またサイズが地方によってばらばらであったこともあり、その流通範囲はごく狭かった。銅貨は9世紀から12世紀まで、なんらかの理由で姿をほとんど消してしまったが、13世紀には再び流通するようになった。ことに14世紀末からは、ヨーロッパ産品の買付けのために中東の銀がヨーロッパへ流出し、ヨーロッパの銅が中東へ来るようになり、エジプト・シリアで大量の銅貨が発行された。#マムルーク朝#政府の、金・銀貨の不足を銅貨の発行によって補おうとする政策は、インフレーションを促す一因になるとともに、対ヨーロッパ貿易における中東の購買力を急速に低下させた。,(湯川武) 62200,フィルドゥーシー,フィルドゥーシー,Firdaws<印77F5>,934〜1025,イラン最大の民族叙事詩人。イラン東部のトゥースの地主の家に生まれ、980年ころ、イスラム以前のイランの神話、伝説、歴史を主題として#ペルシア語#で《#シャー・ナーメ#》の作詩に着手し、約30年かけて1010年に約6万対句からなる大作を完成し、#ガズナ朝#スルタン、マフムードに捧げたが報いられず、失意のうちに郷里で没した。彼の作とされたロマンス詩は後世の作と判明した。,(黒柳恒男) 62900,フサイン・マクマホン書簡,フサイン・マクマホンショカン,<印7CE9>usayn = MacMahon,,第1次世界大戦の直前から、独立アラブ国家の首長たらんとする野望をもつメッカの#シャリーフ#、#フサイン#は、対オスマン政府反乱と交換にアラブ独立をイギリスに認めさせようとした。彼は、大戦中の1915年7月から16年3月に至る間に、エジプト高等弁務官マクマホンと各5通の往復書簡を交わし、イギリスに戦後アラブ王国の独立を承認させ、16年6月の「アラブ反乱」に立ち上がった。→サイクス・ピコ協定,(前田慶穂) 63000,プサントレン,プサントレン,pesantren,,西マレーシア北部および南タイからインドネシアにかけてみられる、住込み制の伝統的なイスラム教育のための塾。ジャワでは#サントリ#(サンスクリット起源のジャワ語で生徒・修業者の意)のいる場所という意味でプサントレンの語が用いられるが、ジャワ文化圏外では、たとえばマレーシアにおいて寄宿のための庵を意味するポンドックが用いられるように、地域によって呼称は異なる。プサントレンに似た制度はすでにイスラム到来以前に成立していた。サントリとなる者は、#モスク#や私宅で行われる初歩のイスラム教育にあきたらず、師(#キヤイ#またはグル)を求めて遠方に旅し、師の近くに庵を建てて住み、師の教えを講堂で聞き、モスクで祈りをあげ、禁欲的な日常生活を過ごしながら、同行とともに一種のコミュニタスを形成する。学習内容や修業期間は一定の決りがなく、塾・個人ごとにかなりの差がみられ、サントリ数も20人くらいから500人以上に及ぶものまでまちまちである。寄進や内部での生産活動などによって経営が維持され、授業料はとらない。キヤイはイスラム伝統の布教者・護持者であると同時に、文化的仲介者の役割をも果たしてきた。近代的学校教育制度の普及に伴い、プサントレンは変貌を遂げつつあるが、農村部では依然強い影響力をもち、政治勢力の基盤となることもある。インドネシアだけでその数は5万ともいわれる。→クッターブ、マドラサ,(坪内良博・立本成文) 63100,フズーリー,フズーリー,F<印7EF3>zuli,?〜1556(1580以後),#オスマン帝国#の詩人。イラクのヒッラで生まれ、イラクで生涯を過ごした。#スレイマン1世#のバグダード征服をたたえる詩で名声を得たが、晩年は不遇であった。ペルシア語・アラビア語でも詩作したが、トルコ語のアゼルバイジャン方言による作品が最も優れる。代表作《ライラとマジュヌーン》のほか、トルコ民衆詩の系譜を引く抒情的な《詩集》がある。,(小山皓一郎) 63400,フトゥーワ,フトゥーワ,futuwwa,,元来は「若者らしさ」「寛大さ」を意味するアラビア語で、#ムルーワ#の対概念として東方イスラム世界で広く用いられた。10世紀以後になると、これに各種の宗教結社や職業集団の意味が加わり、その語義は多様化した。
 初期イスラム時代には、#ジャーヒリーヤ#時代の伝統を受け継ぎ、高貴で、しかも勇敢な若者をファターと呼んだが、#アッバース朝#中期ころになると、都市の民衆の間からフトゥーワの徳を理想とするフィトヤーンあるいは#アイヤール#などの任<印3C40>無頼の徒が現れた。フトゥーワは、「宗教の一房」といわれるように、イスラム信仰においても重要な徳目とされ、またアラブ騎士道の精神的支柱でもあったから、異民族の#マムルーク#騎士もポロの競技を通じてその修得に努めた。
 #アサビーヤ#は砂漠の遊牧民ばかりでなく、都市においても集団結成の基本原理として機能していたが、これらの集団員にはフトゥーワに従う者であるとの自覚があった。このことからやがて職業や宗派別の集団をフトゥーワと呼ぶ慣行が生まれ、12世紀後半のバグダードにはこの種の集団・結社が五つあったといわれる。アッバース朝カリフ、ナーシル(在位1180〜1225)はこれらのフトゥーワを統一して、#ウラマー#、軍人、高級官僚などをこれに帰属させることにより、かつてのように強大な#カリフ#権の復活をもくろんだ。その野心的な試みはモンゴル軍のバグダード侵入によって無に帰したものの、ナーシルの理想は小アジアのアヒー(兄弟団)に受け継がれ、13〜14世紀へかけて特定の守護聖者を祀る宗教的職業#ギルド#が多数形成された。一方、このころになると#タリーカ#の結成も盛んになり、#スーフィー#たちは、任<印3C40>を尊ぶアイヤールとは異なって、フトゥーワの精神を忍耐と寛容であると解釈し、その実践に努めた。手工業者の職業ギルドとタリーカとの具体的関係は不明であるが、フトゥーワを媒介として両者が緊密な関係にあったことは間違いないであろう。
 ナーシルのフトゥーワは、エジプトでは「宮廷のフトゥーワ」として存続した。カイロに擁立されたアッバース家のカリフは、#バイバルス1世#に「フトゥーワの衣服」を授け、また彼以後の歴代#スルタン#は#アミール#や外国の使節にこの衣服を授与するのが慣わしであった。この慣行は15世紀ころまでには廃れてしまったが、しかし民衆レベルでのフトゥーワはその後も強固に生き続けた。#オスマン朝#時代の職業ギルドがフトゥーワと呼ばれたこと以外に、18世紀末以降のエジプト、とくにカイロ市民の理想像とされるイブン・アルバラド(町の子)は、本来の意味でのフトゥーワとムルーワの持主でなければならなかった。これは外国人や農民にはない都市民の特徴であったが、その精神は現在でもなおカイロの下町気質として保持されている。→ギルド,(佐藤次高) 63700,フナイン・ブン・イスハーク,フナイン・ブン・イスハーク,Hunayn b. Is<印7EE5><印78E6>q,808〜873,ラテン名ヨハンニティウス。#ネストリウス派#の医者、翻訳者。ユーフラテス河畔のヒーラに薬剤師の息子として生まれ、バグダードでイブン・マーサワイフに医学を学んだ後、アレクサンドリアで発展した文献批判学の方法を身につけ、次いでバスラでアラビア言語学を修めた。バグダードに帰ってジブラーイール・ブン・ブフティシューのためにガレノスの翻訳に従事し大いに認められ、#アッバース朝#カリフ、#マームーン#に紹介された。その後彼は息子や甥の協力を得て巨大な翻訳事業に乗り出し、ガレノスをはじめとして、ヒポクラテス、プラトン、アリストテレス、ディオスコリデス、ユークリッド、プトレマイオスなどの多くのギリシアの学術文献を、シリア語を介してアラビア語に訳し、この活動は、カリフ、ムタワッキルの時代の時最高潮に達した。アッバース朝におけるギリシア学術の移入と勃興に最も功績あった人物であり、彼自身の著作としては、ラテン語訳されて中世を通じて大きな名声を得た《ガレノス医術入門》などがある。,(伊東俊太郎) 63900,ブハーリー,ブハーリー,Mu<印7EE5>ammad al-Bukh<印78E6>r<印77F5>,810〜870,ブハーラー生れのイラン系#ハディース#学者。メッカで研鑽後諸国を巡って16年間に60万のハディースを収集したといわれる。編著《サヒーフ集》には、97部門に分類されたその7300余が採録されている。同書は独特な判定基準で厳選された信憑度の高い内容と、ムサンナフ(主題別分類)型記述による簡便さから、ハディース六書の第1に数えられ、コーランに次ぐ権威を付されて、後代のハディース編纂の範となった。,(磯崎定基) 64100,ブラック・ムスリムズ,ブラック・ムスリムズ,Black Muslims,,アメリカ合衆国の秘密結社的な黒人団体。Nation of Islamとも呼ばれる。創立者のW.D.ファードについて詳細はわからないが、1930年以降はシカゴを中心に、#エライジャ・ムハンマド#が指導者となった。白人と黒人の分離、および黒人の優越性を説くブラック・ナショナリズムの代表的な組織で、いわゆる公民権団体とは一線を画している。思想的には過激だが、必ずしも行動的ではなく、団員は禁酒禁煙、女性に対する優しい態度などが求められ、60年代の黒人革命高揚期には団員が25万を超えたといわれ、22州で50以上の#モスク#が建てられている。その後はブラック・キャピタリズムを提唱し、大学や各種の学校を建設した。週刊新聞《ムハンマド・スピークス》は一時発行部数が50万を超えた。
 75年にエライジャ・ムハンマドが死去し、80年代に入って黒人の地位がある程度向上したこともあって、人種間の問題についてアメリカ人の関心が低くなり、この組織の存在感も薄らいだ。しかし、その後ルイス・ファラカーン師が指導者となり、積極的にアフリカ各国との結びつきを強め、国内では社会正義を目指す大規模な行進を行ってその名を高めている。またこの組織のシンボルだったボクシング界のムハンマド・アリー・クレイが、96年のアトランタ・オリンピックの開幕式に不自由な身体ながらも登場し、世界の注目を集めた。,(猿谷要) 64300,風呂,フロ,<印7EE5>amm<印78E6>m,,アラブ圏に見られる共同浴場は、トルコ人がビザンティン帝国領を占領し、ローマ風の共同浴場の制度を保存しつつ、これに古代からオリエントで発達してきた様式を加味融合させたもの。ハンマームと呼ばれ、カイロの下町やダマスクスに細々ながら今でも残っている。内部の構造は入口を入るとマスラハと呼ばれる脱衣所兼用の広間があり、番台にはムアッリム(親方)がいて応対し、茶、タバコの接待がある。斜陽のきわみにあるとはいえ、個室は広間の2階にもあり、大理石を敷きつめたつくりは往時を偲ばせるものがある。マフザムという下帯または腰巻を受け取り、木のサンダルを履いて奥に入ると、ハラーラという蒸し風呂式部屋がある。湯客は普通浴槽から立ち上る湯気で発汗させ、垢を取る。男湯ではムカイイスと呼ばれる三助に当たる男が、体毛を剃ったり、マッサージをしてくれる。女湯ではラッバーナと呼ばれる女性がその任に当たるが、昔は花嫁は初夜に臨む前の晩に風呂屋の一室を借り切って身づくろいをし、ハンマームには晴れがましい役目があったが、今は家庭風呂に駆逐されて、うらぶれた観はぬぐい難い。カイロには現在二十数軒の風呂屋が残っているが、風呂屋は午後から朝にかけて開いているため、風呂屋の釜の火はエジプト市民の朝食であるフール・ムダンメス(ソラマメを煮たもの)を夜通し煮込むのに使われ、また貧しい労働者らが宿代りに使ったりしている。
 往時はどの街区(#ハーラ#)にも#モスク#、#クッターブ#、スーク(#市#)と並んでハンマームがあり、金曜日の朝はお祈りの前に朝風呂に入る男たちで賑わった。女性隔離下の社会にあって、風呂屋は女性にとって楽しいくつろぎの場で、お菓子や果物持参で風呂に行き、母親たちは息子の嫁を風呂屋で物色していたという。農村部ではナイル川の水で沐浴する姿がよく見られるが、ターサという真鍮のたらいが嫁入道具の一つで、家の中ではこれを使って行水をしている。,(奴田原睦明) 64500,ブワイフ朝,ブワイフチョウ,Buwayh,932〜1062,イラン、イラクを支配したイラン系の#シーア派#王朝。#ダイラム#人の族長ブワイフの3人の息子は、ジヤール朝のマルダーウィージュに仕えて勢力を伸ばし、イスファハーン、ジバール、ケルマーンおよびフージスターンで独立した。946年、末弟アフマドはバグダードに入り、#アッバース朝#カリフより、#アミール#・アルウマラー(大アミール)に任命され、ムイッズ・アッダウラ(王朝の強化者)の称号を、また2人の兄も、それぞれカリフから称号を与えられた。ブワイフ朝はシーア派の#十二イマーム派#に属していたが、#スンナ派#の#カリフ#を保護することによってその支配の正当化を図ったので、宗教的権威としてのアッバース朝カリフと、世俗権力としてのブワイフ朝アミールの共存する二重構造が生じた。このような関係は、次の#セルジューク朝#にも受け継がれ、#スルタン#はカリフから#シャリーア#施行の権限を授与されて政治を行った。ムイッズ・アッダウラはイラクのサワード地方で、軍人に給与の代りに#イクター#を授与し、イスラム史上初めて軍事イクター制の施行者となった。
 王朝は、アドゥド・アッダウラ、ファフル・アッダウラの時代が最盛期であったが、ブワイフ朝の領土は、ファールス、ケルマーン、ジバール、イラクの4地方に大別され、それぞれ別の王族によって統治され、その関係は時代によっても異なり、複雑である。宮廷の公用語はアラビア語であり、《歌謡の書》を編纂したイスバハーニーらが現れ、アラブ文学の繁栄期であった。一方、ルクン・アッダウラがパフラヴィー語を刻んだ貨幣を鋳造し、アドゥド・アッダウラ以降のアミールの中に、シャーハンシャー(王中の王)を名のる者が現れるなど、イラン的伝統との結びつきを強調しようとする傾向もあった。軍事力の根幹はダイラム人、ギーラーン人であったが、時とともに、とくにイラクでは、トルコ人#マムルーク#が重んじられ、前者との対立が激化した。王族間の内紛、イクター保有者と総督との反目、スンナ派とシーア派の住民の対立の激化、都市における#アイヤール#の横行も加わって衰退に向かった。一部はファールスで命脈を保ったものの、1055年にセルジューク朝がバグダードに入った時、すでにイラクの政治の実権はトルコ人のマムルーク将軍の手に移っていた。,(清水宏祐) 64600,フワーリズミー,フワーリズミー,al-Khw<印78E6>rizm<印77F5>,ca.780〜ca.850,アラビア代数学の出発点をつくった数学者で、また天文学者、地理学者。アラル海の南ホラズムの出身で、#アッバース朝#のカリフ、#マームーン#治下のバグダードで活躍した。我々が今日用いているアラビア数字は、彼がインドから導入したもので、アラビア記数法やそれに基づく計算を意味する「アルゴリズム」という語は、彼の名前の転訛したものである。彼の著作のうち最も有名なものは《代数学》で、これはアラビア数学の嚆矢をなすばかりでなく、後のヨーロッパに初めて代数というものの存在を教えたものであることは、algebra(代数)という語がこの本の書名の一部al-jabr(移項して負の項をなくす操作)に由来することからもわかる。この書は、12世紀にラテン語に2度も訳され、西欧世界の数学に大きな影響を及ぼした。また彼のつくった天文表も同じ時にラテン語に訳され、大いに尊重された。プトレマイオスの地理学の本文と地図も改良している。,(伊東俊太郎) 64800,フンドゥク,フンドゥク,funduq,,地中海沿岸地域に見られる商館、商人用の宿。ギリシア語を語源としており、アラビア語からイタリア語のfondago,fondacoとなった。フンドゥクは11世紀にはすでに#ファーティマ朝#領域の各地、またファーティマ朝から独立した北アフリカ各地に多数存在していた。この時代のフンドゥクはそれほど大型ではなく、旅館と倉庫を一つにしたようなもので、そこを利用する#商人#は、宿泊料と商品保管料を別々に払った。ファーティマ朝時代のフンドゥクは商人などが出資して建設された私的財であった。ファーティマ朝領域における多数のフンドゥクの建設は、#スンナ派#地域においてそれに対抗するものとしてのハーンの建設を促した。フンドゥク、ハーン、カイサリーヤなど、同じ性格をもつ商業用施設に冠せられる多くの異なる名称があるが、13世紀以降は一般的にはマシュリクではハーン、シリアの地中海沿岸とエジプトではさまざまな名称の並存、マグリブではフンドゥクが使われたようである。13世紀になると、フンドゥクのほとんどは#ワクフ#として建設されるようになり、建設者もそれまでの商人だけではなく、スルタンやその関係者など支配層の人々が加わってきた。そして規模の大きいものも出てきて、単なる宿泊施設としてだけではなく、商取引も盛んに行われる常設の商館となったものも多い。地中海沿岸の大きな港には、ヨーロッパの商人専用のフンドゥクもつくられた。また北アフリカでは近代にいたるまでフンドゥクは、ローカルな商人や#職人#の仕事場、倉庫、店舗としても使われていた。→キャラヴァンサライ,(湯川武) 65000,ベクターシュ教団,ベクターシュキョウダン,Bekt<印78E6><印7DE3>,,トルコの神秘主義教団。開祖ハーッジー・ベクターシュは一説では12世紀にホラーサーンからアナトリアに到来したが、教団の組織化は15世紀初めから1世紀間にわたって進められた。15世紀後半には#イエニチェリ#軍団と結合し、その教育と戦場への従軍において排他的な特権を維持した。1826年#マフムト2世#のイエニチェリ掃滅に伴い同教団も弾圧を蒙ったが、再び勢力を回復し、近代トルコ民衆運動の一翼を担った。1925年の法令で解散を命じられたが、アルバニア、ユーゴスラビアの一部に残存している。教義の上ではイスラム以前のトルコ的伝統を保持すると同時に、多くのキリスト教(とくに#ギリシア正教#)との共通要素を含み、これがイエニチェリ兵士やバルカン出身者の帰依を容易にしたと考えられる。#オスマン朝#体制に対し、民衆の立場から反乱を指導し、女性の地位を尊重するなど、イスラム正統派にみられない自由な行動様式が特徴的である。,(小山皓一郎) 65700,ペルシア語,ペルシアゴ,F<印78E6>rs<印77F5>,,インド・ヨーロッパ語族、インド・イラン語派に属する言語で、イランの国語。歴史的には、古代・中世・近世ペルシア語からなるが、一般にペルシア語といえば、7世紀半ば以降今日に至るイスラム時代の近世ペルシア語を指す。
 近世ペルシア語はササン朝時代の公用・文学語であった中世ペルシア語を母体とし、文字には#アラビア文字#が用いられ、多くのアラビア語彙を借用している。その成立年代は明確ではないが、9世紀までに成立した。7世紀半ばから約2世紀間にわたるアラブのイラン支配時代には、#アラビア語#が行政・宗教・学術語として用いられ、#ゾロアスター教#関係の著作では中世ペルシア語の命脈が細々と保たれ、近世ペルシア語はおもに話し言葉として使われた。9世紀にイランに民族王朝が成立し、政治的復活に伴い、ペルシア語は文学語としてしだいに台頭した。10世紀に#サーマーン朝#がイラン伝統文化とイスラム文化との融合を目指して民族文化政策を採った結果、中央アジア、ホラーサーン地方を中心に「ペルシア文芸復興」が起こり、ペルシア語は詩・散文の両分野において文学語としての基礎を確立した。このようにして2世紀余り続いたイランにおけるアラビア語の独占体制は、ペルシア語の台頭によって崩れたが、宗教語としてのアラビア語の重要性は今日まで保たれている。さらに学術語としてもアラビア語はイランで主として12〜13世紀まで用いられ、中世のイラン系学者たち、たとえば#イブン・シーナー#、#ビールーニー#、#ガザーリー#などは、主要作品をすべてアラビア語で著述した。これは当時ペルシア語が学術語として確立されていなかったというよりも、イスラム共通の言語であるアラビア語で書いたほうが広く読まれ、大きな評価を受けたためであった。10世紀以降ペルシア語はしだいに多くのアラビア語の要素を取り入れながら、文学語としてばかりでなく行政語・学術語としても大きく発展し、イランのみならず、中央アジア、アフガニスタン、北インド、トルコへとその影響力を伸ばし、広大な地域にペルシア語文化圏が形成され、イスラム文化の発展に大きく貢献した。こうしてペルシア語はイスラム世界においてアラビア語に次ぐ第2の主要な言語としての地位を占めるにいたった。
 中世におけるペルシア語作品は多くの優れた詩人たち、たとえば#フィルドゥーシー#、#ウマル・ハイヤーム#、ニザーミー、サーディー、#ルーミー#、#ハーフィズ#らによる詩が主流を占めているとはいえ、散文の分野においても、歴史、地理、神秘主義、伝記、教訓等に関する多くの優れた作品が著された。16世紀初頭以降、ペルシア文学古典時代は終わって、ペルシア詩の中心は一時的に#ムガル#宮廷に移り、イランにおける文学活動は停滞したが、やがて19世紀#カージャール朝#時代に文学活動は復活し、西欧の思想・文学の影響を受けながら近代文学活動が活発に行われ、現代社会に即した多くの作品が執筆された。,(黒柳恒男) 66000,ベンガル,ベンガル,Bengal,,インド亜大陸東部のベンガル地方(バングラデシュとインドの西ベンガル州)は、1991年現在推定約1億1000万のイスラム教徒人口を擁する。彼らはヒンドゥー教徒とともにベンガル語を母語としている。ベンガル地方は13世紀の初頭からイスラム王朝の支配下に入ったが、それ以前にもチッタゴン港を中心にアラブ商人を通じてイスラムと接触した。イスラム王朝下の#スーフィー#の活動も農民の改宗を促した。イギリスのインド支配のもとでベンガルのイスラム教徒は経済的・社会的にヒンドゥー教徒に対し劣勢にあったが、19世紀の後半以降の農民の反領主闘争や知識人による啓蒙活動がしだいにベンガルのイスラム教徒の社会的自覚を高めた。こうした変化を背景にイスラム教徒が多数を占めるベンガル東部地方は、イギリスの分割統治の帰結として、1947年にパキスタンの東翼として独立したが、71年にはバングラデシュとして再びパキスタンからも独立するという複雑な歴史を歩んでいる。
 バングラデシュ独立によって、ムスリムが人口の約8割を占める、世界で第4位のムスリム人口を擁する新国家が誕生した。独立直後の人民連盟(Awami League)政権は、独立に反対したイスラム政党の活動を禁止したが、75年のクーデタ後に成立したジアウル・ラフマン、およびH.M.エルシャドという2代の軍事政権は、イスラム政党の活動を解禁し、国家原理にイスラムを取り込んだ。とくにエルシャド政権期(1982〜90)には、憲法にイスラムの国教化規定が盛り込まれた(1988年)。軍事政権はイスラム党などのイスラム主義運動とは距離をおきながら、地方で声望のあるスーフィー教団やモスクのイマーム層に積極的な支援を行った。イスラムの政治的復権とともに、農村部では、イマームらの伝統的指導層と、ヒンドゥー教徒、部族社会などのマイノリティや、開発事業に進出している非政府組織などとの摩擦も表面化している。,(佐藤宏) 66100,帽子,ボウシ,,,ブルナイタ、クッバアのような、つばのある外来の帽子を指すアラビア語もあるが、中でもタルブーシュはアラブ世界に溶け込み、いくつかの形を生み出した。タルブーシュ・トルキー(トルコ帽)というのは、真紅の植木鉢を伏せたような形をし、小さな房飾りを後方に垂らしたもので、エジプトでは近代の改革運動を背負った先進的知識人が一時かぶった。タルブーシュ・イマーマ(#ターバン#の意)は、上が丸くなっており、その上にターバンを巻くが、これは#アズハル#の#シャイフ#層が現在でもかぶっている。そのほかに大きな房が特徴のタルブーシュ・マグリビーがあり、マグリブ地方で普及し、エジプトでは#ベドウィン#の首長が好んでかぶった。
 エジプトの農民はリブダというフェルト帽をかぶり、その上にターバンを巻くこともある。しかしアラブの伝統的なかぶりものは帽子ではなく、砂漠という風土に適した防暑・防塵にきわめて有効なクーフィーヤという四角な布をイカールという輪状のバンドでおさえたものに、その本来の姿がある。,(奴田原睦明) 66200,ホジャ,ホジャ,khw<印78E6>ja, hoca,,元来は貴人を意味するペルシア語。イスラム世界の諸地域で、一般に、先生、師、主人、宦官、大商人等の意で用いられる。歴史的用語としては、9〜10世紀の#サーマーン朝#の宮廷では#ワジール#が大ホジャと呼ばれ、12世紀以降の中央アジアでは、後に#ナクシュバンディー教団#と呼ばれる#イスラム神秘主義#者たちの一派がホジャガーン(ホジャ派)と呼ばれた。このホジャ派は14世紀以降東トルキスタンにも進出を開始し、17〜18世紀にはカシュガルとヤルカンドを本拠に、いわゆるカシュガル・ホジャ家を成立させた。彼らは東チャガタイ・ハーン国の寄進を受けて経済的にも強大となり、その宗教的権威は、時に#ハーン#の政治的権威を凌駕することすらあったといわれる。17世紀後半にジュンガル王国、18世紀半ばに清朝の支配下に置かれて後もなお宗教的権威を保ち、ヤークーブ・ベクの乱などムスリムの反乱でも重要な役割を演じた。なおインドおよび東アフリカの#ニザール派#のムスリムもホジャと呼ばれる。,(間野英二) 66300,ホスローとシーリーン,ホスローとシーリーン,Khusraw wa Sh<印77F5>r<印77F5>n,,イラン詩人ニザーミーのロマンス叙事詩《五部作》のうち、1177〜81年にかけて6500句をもってうたわれた一編。ササン朝の王ホスロー2世(在位590〜628)と美女シーリーンをモデルにした恋物語。ホスローとシーリーンとの長い愛の遍歴と結婚、暗殺された王の後を追って自害するシーリーンの悲劇は、イラン本土のほか、東方イスラム世界の各地で広く賞讃され、ミニアチュールに描かれ、ソ連ではバレエとなって上演された。美女シーリーンに関しては古来諸説あるが、ニザーミーはアルメニアの王女と設定している。技巧的で華麗、難解な比喩を用いることで知られる著者は、有名な神秘主義詩人でもあり、物語のうちひたすら神秘的な愛のみをシーリーンに捧げる青年石工ファルハードと、現世の愛を求めるホスロー王との間で交わされる「恋問答」に神秘思想をよみ込んでいる。,(岡田恵美子) 66400,ホッラム教,ホッラムキョウ,Khurram,,#マズダク教#と過激#シーア派#思想との混交によって生じたイランの反アラブ、反政府的性格の強い異端の宗教。アラビア語史料はホッラミーヤまたはホッラムディーニーヤの名で、マズダク教そのものを意味することもある。アッバース家運動中、その#ダーイー#(宣伝員)のヒダーシュが、ホラーサーンでマズダク教徒の勢力と結んだのがその始まりである。#アブー・ムスリム#の謀殺後、その血の復讐を求めたスンバーズの乱(755)、隠れメシアとしてのアブー・ムスリムの再臨を説いたウスターズシースの乱(767)、#ムカンナーの乱#(776)などが起こり、マズダク教と過激シーア派との結びつきはいっそう強まった。ホッラム教徒の最大の反乱は9世紀前半の#バーバクの乱#で、その平定後もホッラム教徒は残存し、12世紀の前半、ハマダーン(エクバタナ)の北西およびアゼルバイジャンに、ホッラム教徒が住んでいたと伝えられる。,(嶋田襄平) 66700,ホラズム,ホラズム,Khw<印78E6>razm,,中央アジアのアム・ダリヤ下流域一帯を指す名称。アラビア語ではフワーリズム。ヒヴァともいう。古来東西文化の要衝にあってイラン文化の一大中心地として栄えたが、8世紀初頭アラブに征服され、同世紀末ないし9世紀初頭にイスラムを受容、やがてイスラム文化の一中心地に成長し、#フワーリズミー#、#ビールーニー#などの学匠を生んだ。11世紀には#ガズナ朝#、次いで#セルジューク朝#の支配下に入ってこの地のトルコ化が進んだが、この間、セルジューク朝のトルコ人奴隷を始祖とする第4期#ホラズム・シャー朝#が勃興し、13世紀初頭には、イラン、#マー・ワラー・アンナフル#全域を支配する強国となった。しかし、1221年モンゴル軍によって征服され、以後キプチャク・ハーン国、次いで14世紀後半には#ティムール朝#、さらに16世紀以降はウズベク人のヒヴァ・ハーン国の支配下に入ったが、1873年ロシア軍によって征服され、1924年以降は2分されてソ連邦のウズベク・トゥルクメン両共和国に、そして91年のソ連の崩壊以後は独立したウズベキスタン・トゥルクメニスタン両共和国に所属して現在にいたっている。,(間野英二) 66800,ホラズム・シャー朝,ホラズム・シャーチョウ,Khw<印78E6>razm Sh<印78E6>h,1077〜1231,アム・ダリヤ下流域のホラズム地方では、アラブの侵入以前から、ホラズム・シャーと称するイラン系の支配者があり、その後の#サーマーン朝#、#ガズナ朝#系の地方政権も、ホラズム・シャー朝の名で呼ばれた。しかし、狭義のホラズム・シャー朝とは、#セルジューク朝#のトルコ人マムルーク、アヌーシュティギーンが1077年にホラズムの軍政府総督(シャフナ)に任命されたことに始まる。その子クトゥブ・アッディーンはホラズム・シャーを名のり、3代目のアトスズにいたって完全に独立した。第7代のアラー・アッディーン時代が最盛期で、ゴール朝を滅ぼしカラ・キタイを破って、版図はフェルガーナからマクラーンにまで達した。交通路の要衝を占め、交易によって繁栄し、ホラズム商人の活動も南ロシア、ドナウ河口にまで及んだ。しかし、その末期にはモンゴルの侵入を受け、その子ジャラール・アッディーンの奮戦も空しく、1231年に滅亡した。この王朝のもとではホラズム地方の住民のトルコ化がいっそう進行し、その一方では、ペルシア文学や、アラビア語によるイスラム諸学の研究の中心地でもあった。,(清水宏祐) 67000,マウドゥーディー,マウドゥーディー,Ab<印7CF3> al-A<印78FE>l<印78E6> Mawd<印7CF3>d<印77F5>,1903〜79,パキスタンでイスラムによる社会改造を説き、#ジャマーアテ・イスラーミー#の中心的指導者であった。1920年インドの新聞編集者となり、26年、最初の主張《イスラムの聖戦》を出版。32年からイスラム主義思想の雑誌《コーランのタルジュマーン》を発行、43年、《コーラン注釈》を出版した。41年、ジャマーアテ・イスラーミーを創立、53年ラホール暴動で死刑判決(のち減刑)、しばしば活動停止処分を受けた。,(加賀谷寛) 67200,マカーマート,マカーマート,maq<印78E6>m<印78E6>t,,説話形式のアラブの散文文学の一ジャンル。単数形はマカーマ。10世紀ハマザーニーによって創作され、11世紀ハリーリーによって大成された。主人公は学識・詩才・機智に富み、加えてずる賢い。ある時は貧者、#乞食#、不具者に身なりを変え、またある時は説教師、学徒、旅人になって、マカーマで荒稼ぎし、同席した語り手がそれを語るという形式である。マカーマとは、人の集う所の意味で、まれに小人数の場合もあるが、多くは町の辻、#モスク#、大邸宅、墓地など多人数の集まる所である。こうしたマカーマで、主人公はその場に応じた才覚を発揮して、その見返りに聴衆から金品の布施を受ける。彼が立ち去った後、語り手も含めた聴衆はだまされたことに気づくが、その才知に舌を巻く、といった筋である。マカーマは1編ずつ異なった地名が付され、筋も異なった工夫がされ、当時の日常生活、宗教観、考え方が息づいている。文体はサジュー(押韻散文)で統一され、盛上りの部分では詩が入る。西洋の悪漢小説に比肩でき、近代になって再評価が行われている。,(堀内勝) 67300,マクス,マクス,maks,,コーランや#スンナ#に根拠がなく、したがってイスラム法では租税と認められない各種の雑税。#タバリー#の年代記その他の史書によれば、春分・秋分の贈物、帳簿手数料、両替手数料、送達吏報酬、貨幣鋳造者報酬、水車使用料、婚姻税など各種の雑税があり、#ウマル2世#や#サラーフ・アッディーン#は、これらの雑税を非合法として廃止したという。法学者がとくに問題としたのは、地方政権の君主や総督が街道上や城門外に税関を設け、入城または入市するムスリム#商人#からウシュール(#ウシュル#の複数形)の名で、商品価格の10%を徴収することであった。イスラム法のウシュルの規定では、ハルビー(敵国人)の商人に10%の関税を課すことは合法であるが、ムスリムと#ジンミー#の商人には関税は課せられず、それぞれ年収の2.5%と5%の商業税を課せられるだけであったので、法学者はこれをマクスとして厳しく非難した。,(嶋田襄平) 67400,マクリージー,マクリージー,al-Maqr<印77F5>z<印77F5>,ca.1364〜1442,#マムルーク朝#時代のアラブの歴史家。カイロに生まれ、#ハナフィー派#や#シャーフィイー派#の#シャイフ#に師事して法学や#ハディース#学を学んだ後、メッカに遊学、1382年にはエジプトに来住した#イブン・ハルドゥーン#の講義に列席して大きな影響を受けた。カイロで市場監督官(#ムフタシブ#)やモスクの説教師、あるいは#マドラサ#の教師を務めた後、1407/8年から10年間ダマスクスの病院の管理やマドラサでの教師生活を送った。17年、50歳を過ぎるころから公務を退いて著作活動に専念、豊富な経験をもとにエジプト誌を集大成した《地誌》や、エジプト・シリアの社会生活をリアルに描いた《諸王朝の知識の旅》など200余点の著作を残した。,(佐藤次高) 67600,マザール,マザール,maz<印78E6>r,,イスラムの聖廟。「参詣する所」の意。聖者の#墓#で霊験があるという評判が立つと善男善女が集まり聖廟となる。このような聖廟はイスラム世界中いたる所、村の端々、都市の内外、遊牧民の通る路傍に見られ、それぞれ土着のイスラム以前の信仰・習俗と結びついた。廟内では毎週木曜の夕方に宗教行事が開かれ、念仏のように「ラー・イラーハ」の句を繰返し唱える#ジクル#の行や、聖者に助力(マダド)を求める祈願などがなされる。,(加賀谷寛) 67900,マシュハド,マシュハド,Mashhad,,イラン、ホラーサーン州の州都。人口約75万。14世紀末までは北方のトゥースがホラーサーンの中心都市として栄えていたが、ティムールの子ミーラーン・シャーによりトゥースが破壊されて以後、マシュハドがトゥースに取って代わった。マシュハドは9世紀に建設された#十二イマーム派#8代目#イマーム・レザー#の廟を中心に、同派の信者の#巡礼#地として発展した町である。イマーム・レザー廟は黄金のドームを中心にした巨大な建造物であるが、これに接してゴウハルシャード・モスク、アースターネ・クドス図書館があり、一大建造物群をなしている。市中には十二イマーム派の教学を研究・教授する学院(#マドラサ#)が多く、神学生の数も多い。これらの学院の中でも、近世イラン最高のイスラム哲学者サブザワーリーが教鞭をとったハーッジ・ハサン学院は著名である。,(松本耿郎) 68200,マジュリス,マジュリス,majlis,,イスラム諸国で、集会所、サロン、議会などを表すアラビア語。「座る」「(集会に)参加する」を意味する動詞jalasaの派生語。イスラム以前から、一般に集会の意味で用いられたらしく、コーランでも複数形がムハンマドの集会の意味で1回だけ出る。イスラム期に入って#ウマイヤ朝#初期、アラブの戦士たちが部族ごとに集住した軍営都市(#ミスル#)内では、その部族の中でのしかるべき居住区ごとに集会所としてのマジュリスが設けられていた。#アッバース朝#に入って官僚機構が発達してくると、重要な諸官庁(#ディーワーン#)は、さらに内部がいくつかの部や課に分かれていたが、それらに当たるのがそれぞれマジュリスと呼ばれた。たとえば税務庁の中のマジュリス・アルウスクダールは、税務に関する公文書の受付と発送業務を扱ったし、マジュリス・アルアスルはほぼ総務課に該当した。また宰相や知事など高官の官邸もしくは邸宅には、マジュリスと呼ばれる部屋があって、会議室の機能のほかに、社交的な意味のサロンとしても用いられ、とくに宴会としてのマジュリスでは音楽と踊り子と酒が欠かせない要素とされた。#ファーティマ朝#では、最初カリフが儀式などで座る座所を意味していたが、しだいに御前会議に近いものになり、その会議を扱う官庁ディーワーン・アルマジュリスも設けられた。#マムルーク朝#では、マジュリスはスルタンやスルタンに代わる執権もしくは総司令官を議長とする最高顧問会議を指し、執権、総司令官、カリフ、宰相、四法学派の最高裁判官、有力百騎隊長らが列席し、国家の諸政務について意見を徴された。このような会議の世話役として、実力のある百騎隊長のうちからアミール・マジュリスが任命されていたが、これは官房長官に当たる。議題が国家的な政務でなく、#ワクフ#(寄進財産)に関する諮問であるとか、異端者の宗教裁判であるとか、あまり重要でない場合は総司令官が議長となり、その議題の審議に適した裁判官や法学者が追加して選ばれ列席した。またマジュリスは公文書の中では、たとえばマジュリス・アルカーディーのように、公職にある人物に対する単なる敬称としても用いられた。近代に入って西洋の議会の概念が導入されると、それに対応する語として用いられるようになった。もっとも、現代においてもそれは、代議制に基づく立法機関としての意味から、王制のもとでの単なる諮問機関としての意味まで、多様な内容を含んでおり、マジュリスの民主主義的意味が政治的争点とされるようになっている。,(森本公誠) 68400,マズダク教,マズダクキョウ,Mazdak,,ササン朝期イランの宗教・社会改革者マズダク(5〜6世紀)の教説。婦女子・財産の共有、肉食の禁止などを主張したとされる。マズダクの運動・教説の詳細を復元することは資料の関係で不可能である。今なおマズダク運動を、まず社会改革運動と理解する立場と、本来宗教運動で社会的なものは二次的とする見解の対立がある。宗教的には、その教説は、#ゾロアスター教#と#マニ教#の要素を取捨した、一種のグノーシス主義的宗教とするのが妥当であろう。長期の干ばつとエフタル族の侵入で混乱する当時の社会情勢を背景に人心に浸透し、国王カワード1世(在位488〜531)が、貴族・聖職者階級の権勢を制する意図もあってマズダクの信奉者となったことから、さらにその勢いを加えた。カワード1世は、治世の晩年、王位継承者フスラウ1世の助言を入れて、マズダクとその信従者たちを一挙に殺害した(528年あるいは529年初頭)。マズダクの教説は部分的に#ホッラム教#に引き継がれた。,(上岡弘二) 68500,マスラハ,マスラハ,ma<印7CE3>la<印7EE5>a,,「利益」を意味するアラビア語であるが、イスラム法学の用語としては、公共の利益を意味する。最初#イブン・ハンバル#によって唱えられ、彼はコーランと#ハディース#に明文のない問題について、マスラハの見地からする#カリフ#の自由裁量を認めた。しかしそれ以上マスラハの理論を展開することなく、それは#ハナフィー派#のイスティフサーン(よしとして承認すること)、#マーリク派#のイスティスラーフ(公共の福祉への配慮)とともに、#シャーフィイー派#の#キヤース#に圧倒された。のち#イブン・タイミーヤ#は「#イジュティハード#の門は閉ざされていない」との前提に立ち、コーランとハディースに明文のない問題について、マスラハの見地からキヤースを適用し、イジュティハードを行うことを主張し、それは#ワッハーブ派#、#シャー・ワリー・ウッラー#、#タフターウィー#、#ムハンマド・アブドゥフ#らによって継承・発展させられた。,(嶋田襄平) 68700,マートゥリーディー,マートゥリーディー,al-M<印78E6>tur<印77F5>d<印77F5>,?〜944,イスラムの神学者。#アシュアリー派#とともに#スンナ派#神学を代表するマートゥリーディー派の祖。生涯についてはあまり知られていない。マー・ワラー・アンナフルで活躍し、サマルカンドで没。この派はおおむねこの地方に限定されている。神の絶対性を強調するアシュアリー派に対して、人間の理性を相対的にやや重視するのがおもな相違点である。,(中村廣治郎) 68900,マニ教,マニキョウ,M<印78E6>n<印77F5>,,イラン人マーニー(216〜276あるいは277)によって創始・唱道された二元論的宗教。マーニーは経典の文字を自ら考案するなど、多才な折衷・統合的神智者であった。教義の母体となった当時の#ゾロアスター教#(つまりズルバン教)に、キリスト教、メソポタミアのグノーシス主義と伝統的土着信仰、さらには仏教までを摂取・融合した世界宗教である。光・闇、精神・質料、善・悪が截然と分けられていた始原のコスモスへの復帰を軸として、マニ教独自の救済教義が宇宙論的に展開される。教団組織は、仏教のそれにならったと推測され、出家に相当する「義者・選ばれた者」と俗人の「聴問者」の2種類の信者により構成されていた。前者には、肉食・動植物の損傷の禁止、完全な禁欲、週に2日の#断食#、イスラムの断食月の先駆と目される、ベーマ大祭に先立つ1ヵ月間の断食などが要求された。ササン朝のシャープール1世の厚遇を得て、マーニーはインドに及ぶ精力的な伝道活動を行ったが、次王ワフラーム1世の宗教政策の転換により殉教した。しかし、その教義は有能な後継者の手によって大いに拡大し、最盛期の4世紀には、西はエジプトから北アフリカ、さらにイベリア半島へ、東は中国に達した(中国では摩尼と表記)。アラビア語のジンディークは、マニ教徒を意味する中世ペルシア語ザンディークが借入されたものである。→ザンダカ主義,(上岡弘二) 69100,マフディー,マフディー,mahd<印77F5>,,「導かれた者」を意味するアラビア語。一方で「神により正しく導かれた者」という意味にも用いられ、#アブラハム#、ムハンマド、#アリー#ほか4人の正統#カリフ#、#アッバース朝#カリフのナーシルなどがマフディーと呼ばれる。他方、メシアの意味でも用いられ(終末論的マフディー)、その初見は過激#シーア派#のカイサーン派の#ムフタール#が、ムハンマド・ブン・アルハナフィーヤを#イマーム#およびマフディーとして奉じ、クーファで反乱を起こした時である。反乱が鎮定され、ムハンマドが700年に没すると、カイサーン派の一部の者はムハンマドは死んだのではなく、一時姿を隠しているにすぎず、やがて地上に再臨して正義と公正とを実現すると説いた。これが、マフディーであるイマームの「隠れ」(#ガイバ#)と再臨(#ルジューウ#)を特徴とするシーア派独特の隠れメシア思想の始まりである。
 #ウマイヤ朝#末期の政治の混乱とともに、人々の間にメシア思想が広がったが、それを巧みに利用したことがアッバース朝革命の成功の理由の一つに挙げられ、#サッファーフ#、#マンスール#、マフディーというアッバース朝最初の3代のカリフのラカブ(カリフ名)にはメシア思想が反映されている。カイサーン派の隠れメシアの観念はシーア派にも受け入れられ、#十二イマーム派#は第12代目イマームのムハンマド・アルムンタザルが隠れメシアになったと信じ、#イスマーイール派#は別の隠れイマームの血統を継ぐマフディーが再臨して#ファーティマ朝#を開いたと主張した。イスラムにおける終末論的マフディー思想の伝統は根強く、#ムワッヒド#運動における#イブン・トゥーマルト#、#マフディー派#運動における#ムハンマド・アフマド#、1979年11月のメッカの#カーバ#襲撃事件におけるカフターニーなど、激しい抗議と抵抗運動の際、しばしばマフディーと称する者が活躍する。,(嶋田襄平) 69500,マムルーク,マムルーク,maml<印7CF3>k,,黒人奴隷兵(アブド)に対して、トルコ人、チェルケス人、モンゴル人、アルメニア人、スラヴ人、ギリシア人、クルド人などのいわゆる「白人」奴隷兵を指す。グラームともいう。8世紀初めにアラブ軍がアム・ダリヤ以東に進出してイスラムの支配権を確立すると、多くのトルコ人が戦争捕虜や購入奴隷としてイスラム世界にもたらされた。これ以後、イスラム軍の中にはアラブ以外にトルコ人マムルークも加わるようになったが、大量のマムルークを購入して親衛隊を組織したのは、#アッバース朝#のカリフ、ムータシム(在位833〜842)であった。彼らの中には軍人としての実力を認められて奴隷身分から解放され、やがて軍団の司令官や地方総督に抜擢される者も現れたが、間もなく国家の支配権を手中にして#カリフ#の改廃をも左右するにいたった。10世紀以降の#ブワイフ朝#や#セルジューク朝#でも軍隊の中核には常にマムルーク軍が存在したし、エジプトの#トゥールーン朝#ではすでに2万4000騎のトルコ人マムルークが採用され、次の#ファーティマ朝#でも#ベルベル#人や黒人奴隷兵と並んでかなりの数のマムルークが用いられていた。
 #マムルーク朝#は#アイユーブ朝#時代に編制されたマムルーク軍団によって樹立された王朝であるが、この王朝の崩壊後も、マムルーク軍人は在地の支配者として19世紀初頭にいたるまでエジプト・シリアの実権を保持し続けた。イランの#サファヴィー朝#では軍事力強化のためにグルジア人マムルークが採用され、また#オスマン帝国#でも18世紀初頭にいたるまでは奴隷兵としてのカプクル軍団、とりわけ、キリスト教徒の子弟を徴募して編制した#イエニチェリ#軍が、ヨーロッパやアラブ世界の征服に大きな役割を演じた。
 マムルーク朝時代についてみると、現地の両親や少年の中には将来の出世を見込んで自ら身を売る者があり、奴隷商人の手を経てダマスクスやカイロに運ばれると、そこでアラビア語やイスラムについての教育と弓や馬術などの軍事訓練を受けた後、奴隷身分から解放されて#スルタン#のマムルーク軍団に編入された。この時マムルークには生活の基礎となる#イクター#が与えられ、都市に住んで農民からの租税を徴収するとともに、やがて軍功を積み重ねて十人長から四十人長、百人長へと昇進していくのが彼らの出世の道であった。奴隷として購入されたことから、主人であるスルタンには篤い忠誠心を抱き、またマムルーク相互の間にも強い仲間意識が存在することによって、#十字軍#やモンゴル軍をしのぐほどの強固な軍団が形成された。しかし、これらのマムルークはムスリム大衆にとってはやはり異民族支配者であったから、政権を維持するためには、ムスリムの日常生活と深いかかわりをもつ#ウラマー#の支持を得ることが必要であった。スルタンをはじめとするマムルーク軍人が#モスク#や学校を盛んに建設してウラマーとイスラム文化の保護に努めたのは、そうすることによって初めて公正なイスラムの支配者たりうることを理解していたからにほかならない。,(佐藤次高) 69600,マムルーク朝,マムルークチョウ,Maml<印7CF3>k,1250〜1517,エジプト、シリア、ヒジャーズを支配したトルコ系#マムルーク#の#スンナ派#王朝。首都は#カイロ#。バフリー・マムルーク朝(1250〜1390)とブルジー・マムルーク朝(1382〜1517)の前後2期に分かれる。バフリー・マムルークは軍団の兵舎がナイル川(バフル)のローダ島にあり、ブルジー・マムルークはカイロの城塞(ブルジュ)に兵舎があったことに由来する。#アイユーブ朝#の奴隷軍団であったバフリー・マムルーク軍は、1250年クーデタを起こして新王朝を樹立し、宮廷女奴隷出身のシャジャル・アッドゥッルを初代スルタンに推戴した。第2代スルタンのアイバク(在位1250〜57)はシリアに残存するアイユーブ朝勢力をたたき、上エジプトのアラブの反乱を鎮圧したが、王朝の基礎を固めたのは第5代スルタンの#バイバルス1世#であった。彼は#アッバース朝#カリフの擁立やバリード(駅逓)網の整備によって国内体制の強化に努め、外に対してはシリアに残存する#十字軍#勢力と戦う一方、キプチャク・ハーン国と結んで#イル・ハーン国#の西進を阻止、またヌビアにも遠征して西アジアにマムルーク朝の覇権を確立した。その成果はカラーウーン(在位1279〜90)とその子孫の#スルタン#に受け継がれ、14世紀初頭のナーシル時代に王朝は最盛期を迎えた。安定した政権のもとに農業生産は発展し、商品作物としてのサトウキビ栽培が普及するとともに、都市の織物業も目覚ましい繁栄ぶりを示し、これを基礎にカーリミー商人や奴隷商人がインド洋と地中海貿易に活躍した。しかし1347〜48年のペストの大流行によって都市と農村の人口は激減し、ナーシル没後は幼少の息子たちが相次いで即位したために、実権を握る、マムルーク出身の#アミール#たちの抗争によって政局は混乱を極めた。この機に乗じてチェルケス人マムルークのバルクークが政権を握り、ブルジー・マムルーク朝を開いたが、この時代のスルタンは家系によらず、有力アミールの中から選挙によって選ばれるのが慣例であったために、軍閥相互の勢力争いは一段と激しくなった。またペストの流行も相次いだために経済状態はさらに悪化し、エジプト市場から金貨と銀貨が消失して、やがて銅貨の時代が始まった。バルスバイ(在位1422〜37)は財政補填のために砂糖の専売政策を実施したが根本的な解決策とはならず、1498年のバスコ・ダ・ガマによるインド航路発見によって、中継貿易に基礎を置くエジプト経済は致命的な打撃を受けた。すでに16世紀初頭から#オスマン朝#との間に確執を生じていたマムルーク朝は、1516年マルジュ・ダービクの戦で#セリム1世#に敗れてシリアを失い、翌年カイロを占領されて王朝は滅びた。
 スルタンを頂点とするマムルーク体制を支えていたのは奴隷出身のマムルーク軍人であり、バフリー・マムルーク朝時代にはトルコ人、モンゴル人、クルド人が中心であったのに対して、ブルジー・マムルーク朝時代にはカフカス出身のチェルケス人が主力を占めるにいたった。彼らは奴隷商人によって購入され、カイロの軍事学校を卒業すると、やがて功績に応じて十人長、四十人長、百人長へと昇進し、中央行政を預かる侍従(ハージブ)や官房長官(ダワーダール)、マムルーク軍総司令(アターベク・アルアサーキル)、あるいは地方総督(ナーイブ)などの要職に抜擢された。その生活の基盤は#イクター#保有にあり、軍人たちはイクター授与の見返りとしてスルタンに対する軍事奉仕を義務づけられた。大イクター保有者であるアミールは農村からの富を都市に集中し、スルタンとともに#モスク#や#マドラサ#の建造を競い合って、ミナレットの形体やモスク内部の壁面装飾(赤・黒・白の色調やムカルナス)などにマムルーク様式と呼ばれる独自の建築様式を生み出した。このような軍人による学問の保護とバイバルス1世以降のスンナ派四法学派の公認政策とによって、#ウラマー#の社会的役割はさらに増大し、#アズハル#を中心とする学問研究は最高潮に達した。新しい学問分野の開拓はなされなかったものの、ウマリー(1349没)や#カルカシャンディー#らの百科事典家によってイスラム諸学の集大成が行われ、またイスラム世界の危機の時代を反映して#マクリージー#やイブン・イヤース(ca.1524没)など第一級の歴史家が輩出した。,(佐藤次高) 69700,マームーン,マームーン,al-Ma'm<印7CF3>n,786〜833,#アッバース朝#第7代カリフ。在位813〜833。イラン人の女奴隷を母にもち、東方諸州の総督となったが、809年の異母弟アミーンのカリフ即位後、両者間は険悪化、内乱となり、813年バグダードを占領してカリフ位についた。国内の反乱の鎮圧に努力する一方、#バイト・アルヒクマ#(知恵の館)を建設してギリシア文献の翻訳事業を推進、その影響を受けた#ムータジラ派#神学を公認教義として思想統一を図るとともに学問を奨励した。,(森本公誠) 69900,マラーズギルドの戦,マラーズギルドノタタカイ,Mal<印78E6>zgird,,東アナトリアのワン湖北岸より約50km内陸部の城塞都市マラーズギルド近傍で、1071年に、ビザンティン軍と、アルプ・アルスラーンが率いる#セルジューク朝#軍との間で行われた戦い。数の上では劣勢のセルジューク軍が、奴隷軍人(グラーム)の働きによって大勝利を収め、ビザンティン皇帝ロマノス・ディオゲネス自身も捕虜となった。これを契機に、アナトリアへのトルコ人の流入が活発になった。,(清水宏祐) 70200,マリク,マリク,malik,,「支配者」「王」を意味するアラビア語。コーランでは神あるいは異民族の王の呼称として用いられ、#カリフ#も自らマリクを称することはなかった。しかし#アッバース朝#以後の#ウラマー#によれば、#ウマイヤ朝#時代からのカリフは、たとえ称号はカリフであっても、その実態は世俗的な君主(マリク)にすぎず、わずかにアッバース朝時代の何人かのカリフが#イマーム#に必要とされる水準に達したとされた。現実には、10世紀以降#サーマーン朝#や#ブワイフ朝#の君主はアッバース朝カリフの宗主権を認めて、自らはペルシア語の#シャー#と同じ意味でマリクを称した。トルコ系のザンギー朝やアルトク朝の君主もマリクの称号をよく用いたが、#アイユーブ朝#や#マムルーク朝#では「勝利の王」のように、スルタンに対する形容名辞としての用法が一般化した。近代以降は、エジプトやイラクやヒジャーズなど独立国家の君主の称号として使用された。,(佐藤次高) 70600,マーリファ,マーリファ,ma<印78FE>rifa,,「知識」の意であるが、#スーフィー#の間では同じく知識を意味する#イルム#と区別して、特殊スーフィー的な知識に対して用いられる。イルファーンともいう。イルムとは、通常の理性を備えている者ならだれでも知的学習によって習得できる形式的知識であり、イスラムの中では、イスラム法学・神学・伝承学・コーラン学・文法学などの宗教諸学に関する形式的知識を指す。その専門家たちを#ウラマー#というが、この語は「知識(イルム)ある者」「学者」を意味する。これに対してマーリファは、イスラムの神秘家(スーフィー)に固有の神秘的直観知である。それはいかなる知的過程の結果でもなく、神がそれを受容する能力を与えて創造した人間に、神からの賜物として与えられる直接的体得知である。その意味でこの知識は、神の意志と恩恵に全面的に依存している。それは、自我意識の消滅(ファナー)によって我と汝、我と神という彼我の二元的対立を超克し、すべてが本源たる神に帰一した状態において悟得される、あるいは与えられる知識である。したがって、たとえば、「我は神なり」(#ハッラージュ#)、「我に栄光あれ!」(#ビスターミー#)のように、それを日常的言語で表現しようとすると、著しく逆説的となり、門外の者には背信にみえる。「神を知る者は黙して語らず」といわれるのはそのためである。,(中村廣治郎) 70700,マルコム・エックス,マルコム・エックス,Malcolm X,1925〜65,アメリカ合衆国の黒人解放運動指導者。#ブラック・ムスリムズ#に所属し、#エライジャ・ムハンマド#の片腕といわれたが、ケネディ大統領暗殺事件についての発言のために脱会し、別に宗教団体「ムスリム・モスク」と、政治組織「アフリカ系アメリカ人統一機構」を設立した。メッカに#巡礼#し、新しい展望によるブラック・ナショナリズムを目指した時に暗殺された。その後の若い黒人層に与えた影響はきわめて大きい。,(猿谷要) 71000,マー・ワラー・アンナフル,マー・ワラー・アンナフル,M<印78E6> war<印78E6>' al-Nahr,,アラブの侵入期およびアラブ支配時代(8〜9世紀)にアラブ人がブハーラー、サマルカンドを含むアム・ダリヤ以北のオアシス定住地帯を呼んだ名称。アラビア語で「川(アム・ダリヤ)のかなたの地」を意味する。ギリシア人のこの地方に対する呼称トランスオキシアナ、すなわち「オクサス川(アム・ダリヤ)のかなたの地」と同義である。これに対し、シル・ダリヤ以北の遊牧地帯はトルキスタン、すなわちペルシア語で「トルコ人の住地」と呼ばれたが、10世紀末に始まる#カラ・ハーン朝#のマー・ワラー・アンナフル支配以後、この地方に徐々にトルコ人が流入して、従来ペルシア語の用いられていたこの地方をトルコ化した結果、現在ではこの地方をも歴史家たちはトルキスタンと呼び、マー・ワラー・アンナフルという用語を、いわばこの地方に対する雅称として用いている。19世紀の後半ロシア人の支配下に入ったこの地方は、1924年、ソ連中央政府によってソ連を構成するウズベク共和国、タジク共和国、トゥルクメン共和国の領域に分けられた。しかし、91年のソ連の崩壊後、これらの国は次々に独立し、この地方はウズベキスタン共和国、タジキスタン共和国、トゥルクメニスタン共和国の領域となって現在にいたっている。,(間野英二) 71200,マーワルディー,マーワルディー,al-M<印78E6>ward<印77F5>,974〜1058,#シャーフィイー派#の法学者、政治思想家。ペルシアのマーワルド出身。各地の#カーディー#を務めた後、バグダードに住み、#アッバース朝#カリフ、ザーヒルに仕えた。その主著《統治の諸規則》により政治思想史上高く評価される。とくにその#カリフ#論は、現実のカリフの実態とはかけ離れた議論ではあるが、スンナ派の立場をよく表す理論であると同時に、アッバース朝臣下としての彼自身のカリフの復権を願う気持も込められている。,(湯川武) 71300,マンスール,マンスール,al-Man<印7CE3><印7CF3>r,ca.713〜775,#アッバース朝#第2代のカリフ。在位754〜775。異母弟の初代カリフ、#サッファーフ#の4年間の治世の後を受けた、アッバース朝体制の実質上の創設者。精力的で冷酷無残な人物とされていて、自己の権力の確立に障害となる人物は、アッバース朝の成立に貢献した叔父アブド・アッラーフや功臣#アブー・ムスリム#のような者でも抹殺し、またアッバース家カリフ位に反対する#シーア派#を弾圧した。続いて762年から766年にかけて新都#バグダード#を建設し、帝国支配の理念としての神権的#カリフ#観念の確立と権力の中央集権化に努めた。すなわちアッバース朝革命に貢献したホラーサーン軍をカリフの軍隊として掌握する一方、#ウマイヤ朝#末期以来の官僚機構や地方行政機構の踏襲と整備、とりわけ地方総督の権限下にあった裁判官(#カーディー#)の直接任命による司法権の独立、駅逓(バリード)制度の完備とその情報機関としての利用、財政制度の改革を行い、国庫歳入の増収と備蓄を図った。,(森本公誠) 71500,ミスル,ミスル,mi<印7CE3>r,,イスラム初期に征服地に建設された軍営都市。複数形はアムサール。アラブ・ムスリムの勢力が、アラビア半島の外へと拡大し各地を征服した時に、征服地の統治の拠点として、またその後の征服活動の基地として軍営都市が建設された。イラクの#バスラ#や#クーファ#、エジプトのフスタート、チュニジアの#カイラワーン#などは、新たに建設されたミスルの代表的な例である。またシリアの#ダマスクス#やヒムスでは、既存の都市の一部を、住民を移転させてアラブ軍の駐屯地とした。これもミスルと呼ばれている。ミスルにはアラブのみが居住して、他の人々は排除された。これは地元の住民とアラブを隔離することにより、征服民族としてのアラブの優越性を維持しようとしたためだと説明されている。しかし住民のイスラムへの改宗が進むと、#マワーリー#として多くの非アラブがミスルに入り込み、後にはすっかり混住してしまい、アラブの軍事都市としてのミスルの特徴は失われてしまった。ミスルあるいはマスルは#エジプト#を指す固有名詞としても使われている。またエジプトの中でも、#カイロ#と対比してとくにフスタートを指して使われることもある。,(湯川武) 71700,ミドハト・パシャ,ミドハト・パシャ,Midhat Pa<印7DE3>a,1822〜84,#オスマン帝国#の第1次立憲制樹立(1876)に大きな役割を果たした政治家。イスタンブルに生まれ、18歳で官界に入った。以後着実に昇進し、国家会議議長(1868)、バグダード州知事(1869)等を歴任。1872年には大宰相(#サドラザム#)に任じられたが、わずか3ヵ月で辞任した。その後、#スルタン#に疎まれて不遇時代を送ったが、76年5月、軍隊の協力も得てスルタン、アブデュルアジーズの退位、ムラト5世の即位に成功した。その後さらに、アブデュルハミト2世を即位させて憲法の起草に努力し、76年12月には自ら大宰相となり、いわゆるミドハト憲法を発布した。しかし、1ヵ月半後にスルタンにより辞任させられ、国外に遠ざけられた。その後、一時、シリア州知事等に任じられたが、81年、アブデュルアジーズ殺害の容疑により捕らえられてアラビア半島のターイフの刑務所に送られ、その地で処刑された。,(新井政美) 72100,ミーラージュ,ミーラージュ,mi<印78FE>r<印78E6>j,,元来は「はしご」を意味するアラビア語。後にはとくに「ムハンマドの昇天」の意に用いられるようになった。コーランは神を#天国#に至る「はしごの主」であると述べ(70章3節)、またムハンマドを連れて聖なる礼拝堂から遠隔の礼拝堂まで夜の旅(イスラー)をしたと記している(17章1節)。聖なる礼拝堂とはメッカの#カーバ#を指し、遠隔の礼拝堂とは天国を意味したが、後世の#ハディース#は遠隔の礼拝堂をエルサレムの神殿に比定し、ムハンマドは天使ガブリエルに連れられて、翼のある天馬(ブラーク)に乗り、エルサレムに旅してそこから光のはしごを登って昇天し、神の御座にひれ伏したと伝えている。ムハンマドの昇天が単なる夢か、現実の出来事かはムスリムの間でも早くから意見が分かれていたが、ミーラージュの観念はファナーに至る霊魂高揚の階梯のシンボルとして、後の#イスラム神秘主義#思想に影響を及ぼした。また、ダンテの《神曲》の構想にも影響を与えたといわれる。ラジャブ月27日の前夜が「ミーラージュの夜」に当たるとされ、聖夜の一つに数えられている。,(佐藤次高) 72400,ムアーマラート,ムアーマラート,mu<印78FE><印78E6>mal<印78E6>t,,「取引」を意味するアラビア語ムアーマラの複数形。#イバーダート#とともにイスラムの規範を構成する。イスラムの用語としては、来世の#天国#を保証されるために、現世でいかに行動し、何を避けるべきかという信者の行動の規範、中でも信者同士の人間関係を意味する。その中心は、売買、契約、#利子#、#婚姻#、離婚、#相続#などであるが、そのほか#賭け#の禁止、#酒#・豚肉など飲食物の禁忌、困窮者に優しくせよとか正直であれといった倫理的徳目から礼儀作法まで含まれる。,(嶋田襄平) 72600,ムガル帝国,ムガルテイコク,Mughal,1526〜39、1555〜1858,1526年バーブルによって創始されたインドの王朝。ムガルの名はチンギス・ハーンのモンゴル帝国に由来する。バーブルはティムールの血を継ぐものではあるが、初期のムガル支配層には中央アジア出身のトルコ系が多く、民族的にモンゴル系とはっきりわかる者は非常に少数であったと思われる。
 バーブルはローディー朝軍をパーニーパットの戦で破って帝国を創始したものの、間もなく死に、子のフマーユーン(在位1530〜39、55〜56)が跡を継いだ。フマーユーンも即位してほどなくアフガン系のスール朝のシェール・シャー(在位1539〜45)と戦って敗れインドを追われた。シェール・シャーの死後、1555年、フマーユーンはやっとデリーの王座にかえりついたが事故がもとで間もなく死に、弱冠13歳のアクバル(在位1556〜1605)が王位についた。ムガル帝国が北インド一帯の支配王朝として安定したのは、このアクバルが成人して自ら帝国の統治に乗り出してからのことである。以後、皇帝はジャハーンギール(在位1605〜27)、シャー・ジャハーン(在位1628〜58)、アウラングゼーブ(在位1658〜1707)と続くが、1570年代から18世紀初めまでが帝国の最盛期であった。18世紀には短命な皇帝が続き、その半ばごろにはデリー周辺の一政権にまで弱体化し、その後もムガル皇帝位は続いたものの名ばかりで、帝国は事実上崩壊した。イギリスが東インド会社を中心にインドの領土獲得に乗り出したのは、帝国支配が崩壊しインドが分裂状態にあった時である。ムガル最後のバハードゥル・シャー2世(在位1837〜58)がインド大反乱(1857〜59)の責任をとらされて、イギリス側から退位させられるにいたり、ムガル皇帝位も消滅した。
 帝国の支配機構はアクバル時代中期に整えられた。その時アクバルのもとで活躍した人物はシェイフ・ムバーラクとその2人の息子で、とくに年少の息子アブル・ファズルは歴史書《アクバル・ナーマ》、《アクバル会典》の叙述・編纂をしたことで有名である。帝国の支配は全土を12(後に15)の州(スーバ)に分けて行われたが、中央からの直轄支配領域はおもに北インドであった。帝国領の各地には北インドも含め有力なヒンドゥー・ラージャ(王)がおり、彼らに対しては間接支配を行うのみであり、とくにラージャスターンではムガル支配層はラージャたちと同盟関係を結び、彼らの領域内の統治に介入しないことが普通であった。帝国領内の土地は給与地(ジャーギール)と政府領地(ハーリサ)とにほぼ大別されるが、大部分を占めるのはジャーギールであり、ここからあがる税収分は、部将・高官たちの帝国統治や軍務のための給与として与えられた。
 ムガルの官僚はマンサブダーリー制によって組織された。支配層はウマラー(#アミール#の複数形)と称される貴族層と皇族とによって形成され、中以下のマンサブダールとは身分において違っていた。ムガルの中期以降、帝国領の拡大やデカン支配のための政策によって、マンサブダール全体の人数も増え、給与地としてのジャーギール地が不足しがちになった。17世紀末ごろにはムガル支配層は奢侈にふけり、一方で中間層が発達し農民層からの取り分を吸収したため、ジャーギール地からの収入は減少した。支配層は全体として貧窮化し、ムガル支配は弱体化した。
 このころまでに帝国領全体に農村の商品生産が発達し、全国的な商業流通も活発となっていた。また、ヨーロッパ人との貿易により銀が大量にインドに流入し、都市と農村を結ぶ経済構造に大きな変動が起きつつあった。ムガル支配層はこの変動に対処せず、農村の貢租徴収にその経済収入の多くを依存して、農民への収奪を強化するのみであった。農民層は力をつけてきた地方の地主・領主層と結び、ムガル支配層の収奪に抵抗した。とくにデカン西部に興隆したマラータは指導者シヴァージーのもとでムガルに反抗し、18世紀に入ってマラータ王国はムガル支配を根底から揺るがした。
 ムガル帝国支配の時代は、比較的長く国内の平和が続き、各方面の文化が発達した。宮廷を中心にして#ペルシア語#による歴史書が多数編纂され、その挿絵としてペルシアから移入された技法による細密画が多く描かれた。また建築面でもアクバル時代のアーグラ近郊のファテプル・シークリーの宮殿やシャー・ジャハーン時代のデリー城、タージ・マハルにみられるように壮大な建築物がつくられた。宮廷内や北インドの一般ムスリムの間では、ペルシア語の語彙を採り入れたウルドゥー語が日常的に話されていた。宗教面ではムガル支配層の間にはかなりの数のヒンドゥー教徒も混じっており、思想的にも後世みられるような宗教的な厳格主義はまだ現れていない。皇帝は一般に個人の宗教儀式や意識に介入しないだけの寛容さをもっていた。ムガル前期(16世紀〜17世紀前半)と後期(17世紀半ば以降)とで、ムガル皇帝の宗教政策の違いは、皇帝個人の宗教意識や行動によるというよりも、ムガル内外の思想的・政治的状況の違いによるほうが大きい。
 ムガル帝国とヨーロッパ人との交渉は17世紀に入ってとくに盛んとなり、オランダ、フランス、イギリスなどの東インド会社はインド各地沿岸の港に商館を開き貿易を行った。ヨーロッパ人はムガル帝国の砲兵隊として多く雇われもしたし、イエズス会の神父たちもアーグラやデリーで布教活動を行い、彼らがもたらした当時のヨーロッパ絵画はムガル細密画に大きな影響を及ぼした。,(小名康之) 72900,ムジャーヒディーン運動,ムジャーヒディーンウンドウ,Muj<印78E6>hid<印77F5>n,,19世紀初め、現在のパキスタンの北西辺境地方を中心に起こった、イギリス支配に対する#ジハード#(聖戦)に参加する者たち(ムジャーヒディーン)の運動。その中心は#サイイド・アフマド・バレールヴィー#で、異教徒イギリス人の支配する植民地インドを、ムスリムの手で解放することを目指した。1826年、指導者とともにムジャーヒディーンの500人はパンジャーブ北方の北西辺境地方に根拠地をつくり、まずシク王国に対してジハードを宣言した。イギリス支配打倒の前にシクからのパンジャーブ解放を第1の目標に定めたのである。一時期山岳部族民の協力のもとに、北西辺境地方最大の勢力を築き上げたものの、部族民との連合がうまくいかず、根拠地も不安定となった。31年5月、ランジート・シングのシク軍と戦って敗れ、指導者サイイド・アフマド・バレールヴィーほか約600人のムジャーヒディーンが戦死した。その後も60年代まで運動は続きイギリス支配に抵抗した。イギリス側では、この運動の参加者を「#ワッハーブ#の徒」と呼んだ。,(小名康之) 73100,ムスタンシリーヤ学院,ムスタンシリーヤガクイン,Mustan<印7CE3>ir<印77F5>ya,,#アッバース朝#カリフ、ムスタンシルがバグダードに設立した学院(#マドラサ#)。#ニザーミーヤ学院#が#シャーフィイー派#法学の教育を重視したのに対して、この学院はスンナ派の四法学派の教育を主目的として数年の歳月をかけて建設され、1234年に開校し、膨大な#ワクフ#の基金によって運営された。授業課目には、法学のほかに神学、文学、数学、哲学、医学等も含まれていた。建物・設備等においてもニザーミーヤ学院をはるかにしのぎ、13世紀後半から14世紀にかけてイスラム諸学の中心的役割を果たした。教授陣には各法学派から一流の学者が選ばれ、それぞれの学派に属する学生の指導に当たった。学生には奨学金のほかに日常必需品が支給された。8万巻を蔵した付属図書館も有名である。アッバース朝没落後も学院は存続し、古典イスラム時代の末期に、イスラム文化の発展に大きく貢献した。,(黒柳恒男) 73200,ムスリム,ムスリム,muslim,,イスラム教徒を意味するアラビア語。女性形ムスリマ、複数形ムスリムーン。本来アラビア語語根s-l-mの第4型動詞aslamaの能動分詞で、「(神に)絶対的に服従する者」を意味する。コーランでは、ムハンマドの説いた一神教の信者を指す言葉として、このムスリムと、語根<18>'-m-nの第4型動詞a'manaの能動分詞ムーミンmu'minとが併用され、はるかに後者の頻度が高い。しかし、宗教を呼ぶ名としてのイスラムの確定とともに、イスラム教徒を意味するムスリムという用語も確定した。ヨーロッパには、古く語尾を伴ったペルシア語形として伝えられたが、現在ではフランス語を除きmuslim(moslem等のなまりを含む)が支配的となった。中国の木速児蛮はペルシア語形、穆思林はアラビア語形の音訳である。普通名詞のほか、ムスリムはイスラム教徒の個人名(イスム)としても多く用いられる。,(嶋田襄平) 73300,ムスリム,ムスリム,Muslim b. al-<印7CE9>ajj<印78E6>j,817(821)〜875,ニーシャープール生れのアラブ系#ハディース#学者。諸国を遍歴して伝承収集に努め、その成果から7000余を選んで《サヒーフ集》を著した。この書はイスナード(伝承の過程の記録)やマトン(本文)叙述の厳正さから、ハディース六書の中でも#ブハーリー#のそれに比肩され、ともどもサヒーハーン(両正伝集)と呼ばれている。ほかに伝承者伝や法解説書の著作も知られるが現存しない。,(磯崎定基) 73500,ムスリム連盟,ムスリムレンメイ,All India Muslim League,,1906年12月、独立前東インドのダッカで結成されたムスリムの政治組織。正式には全インド・ムスリム連盟。19世紀末ごろから、インド国民会議派はイギリスに対して自治・代議制についての要求を高めたが、これに対して、ムスリム間にヒンドゥー優位との不安が高まり始めた。19世紀末ごろ、こうしたムスリムの不安を代弁していたのが、#サイイド・アフマド・ハーン#であった。1905年のベンガル分割令に対する反対運動の中でアリーガル大学を中心としてムスリム独自の政党設立が試みられた。そうした政党結成に向けての運動の中で06年10月、大実業家の#アーガー・ハーン3世#を中心とするムスリム代表派遣団はイギリスの新総督ミントー(在任1905〜10)と会見、ムスリムの政治的権利を認めるように訴えた。総督はイギリス本国の分割統治の方針に基づき、国民会議派とは別のムスリム独自の政治的要求に好意的態度を示し、同年12月にダッカで連盟の創立大会が開かれたのである。
 創立当初連盟の常任議長には前述のアーガー・ハーンが選出されたが、当時の指導者たちは連合州、ベンガル、ボンベイなどの大地主や実業家で、ムスリム上層の保守的特権層がその中心を占めていた。連盟はムスリムの政治的権利と利益を守るために、インド政庁側に請願を繰り返す代表団にすぎなかったのである。
 1919年からの数年は、#ヒラーファト運動#にみられるように、一般ムスリムの間にかつてないほどの反英運動が高まった時期である。しかし、それにもかかわらず35年統治法の時期まで連盟の党員数はほとんど増加せず、ムスリム一般大衆をその基盤として獲得するにはいたらなかった(1927年連盟員数1330人)。35年のインド統治法のもとでの最初の州議会議員選挙(1937)でも連盟は不振を極めている。連盟が初めて政党組織として拡大するのは、37年10月のラクナウ大会以降のことである。この大会で#ジンナー#は国民会議派の政策をヒンドゥー支配だとして激しく非難し、ムスリム独自の政権を目指す姿勢を打ち出し、同時に大衆化路線による組織の拡大を決定、その後、連盟員数は急速に増加していった。第2次世界大戦中の40年3月、ラホール大会でジンナーはヒンドゥーとムスリムの二民族論を打ち出し、ムスリムのための分離独立国家を主張した。この時の決議が後にパキスタン決議と呼ばれるものである。しかし、この時の決議では、「パキスタン」はなんら明示されておらず、46年4月のデリーでの連盟議員総会で初めて明確に述べられた。47年8月14日にパキスタンが、翌日インドが分離独立した。独立後のパキスタンの制憲議会では、連盟が絶対多数を占め、国家元首である総督ジンナーと中央政府首相リヤーカト・アリー・ハーンの体制下で、つかの間の安定した状態にあった。しかし、ジンナーの死後(1948)、アリー・ハーンは暗殺され(1951)、連盟内部の対立が現れ始めた。58年に#アユーブ・ハーン#がクーデタのあと大統領の地位につくまで、中央政府の政権は短期間にめまぐるしく交代した。この間、連盟は中央議会では、国民を指導する力を失って分解し、西パキスタンの州段階においてのみ指導力をもつ地方政党となった。,(小名康之) 73600,ムータジラ派,ムータジラハ,Mu<印78FE>tazila,,8世紀中ごろから10世紀中ごろまで栄えた#イスラム神学#の先駆的一派。初期のムータジラ派は、イスラムの根本的な教義#タウヒード#を合理的な思惟によって擁護した人々で、その特徴的な教義は神の属性の否定と、「創造されたコーラン説」であった。前者は伝統的な#ウラマー#が#アッラー#の属性名を認めていたのに対し、本質のほかに属性を認めることは、神が外部の何ものかに依存していることになり、タウヒードに矛盾するとして神の属性を否定したものである。後者もウラマーがコーランを神とともに永遠な神の言葉そのものであると主張するのに対し、それは神のほかに永遠なるものを並べるシルク(多神教)にほかならないとして、コーランが神によって創造されたことを説いたものである。
 #アッバース朝#カリフ、#マームーン#が827年に「創造されたコーラン説」を公認するに及び、ムータジラ派はアッバース朝宮廷で支配的勢力となった。それは学派としてまとまったものではなかったが、#アシュアリー#は彼と同時代のムータジラ派に共通の原則として、(1)タウヒード、(2)#アドル#、(3)#天国#への約束と#地獄#への脅し、(4)信者と不信者との中間の状態、(5)勧善懲悪の五つを挙げる。この段階ではタウヒードと並んで、ヘレニズム的観念での神の正義(アドル)が強調され、アリストテレスの論理学が方法論となった。ムータジラ派というのは「退いた人々」を意味し、外部から与えられた名で、自らは「タウヒードとアドルの徒」と称し、また外部から「カラームの徒」とも呼ばれた。彼らは#カラーム#(言葉、議論、思弁)を方法論としたイスラム最初の神学者グループで、アシュアリーは彼らの方法論を取り入れつつ#スンナ派#神学を樹立した。→イスラム神学,(嶋田襄平) 73700,ムッラー,ムッラー,mull<印78E6>,,アラビア語のマウラー(「主人」「味方」等の意、#マワーリー#の単数形)がペルシア語に転訛した語。ペルシア語においてこの語は多義的に用いられる。(1)本来、イスラムの宗教諸学に深く通じた人に対する尊称として用いられる。ムッラー・ハーディー・サブザワーリーに冠せられるムッラーの語はこの意味である。(2)イラン各地の#クッターブ#(寺子屋)で児童に読み書きやコーランを教える人をムッラーと呼ぶ。ムッラーと呼ばれる人々は、コム、マシュハドなどにある学院(#マドラサ#)で一定の宗教教育を修了した人々である。彼らはクッターブで教育活動に従事するだけではなく、地域住民の人生相談に応じたり、結婚式や葬儀の立会人、礼拝堂での説教師なども務める。(3)イランのイスラム教徒は#ゾロアスター教#や#ユダヤ教#の聖職者をムッラーと呼ぶこともある。,(松本耿郎) 74000,ムハーシビー,ムハーシビー,al-Mu<印7EE5><印78E6>sib<印77F5>,781〜857,#イスラム神秘主義#者。バスラに生まれ、バグダードで没。初期イスラム禁欲的神秘主義運動の修行法を整理し理論化し、#ジュナイド#らの弟子を養成した。彼は自己の体験した法悦境(至高の瞑想境)を達成するための#霊魂#の鍛練浄化の方法を定めた。霊魂の日常の働きを厳しく監視し、神の観照に障害となる邪念の有無を常に審問したのでムハーシビーとあだ名された。主著は《霊魂統御法》。,(松本耿郎) 74500,ムハンマド・アリー,ムハンマド・アリー,Mu<印7EE5>ammad <印78FE>Al<印77F5>,1769〜1849,エジプト総督(在位1805〜48)、#ムハンマド・アリー朝#の創立者。マケドニア地方の都市カワーラに生まれた。出自は定かではないが、アルバニア系といわれる。1801年ナポレオンのエジプト占領時に、#オスマン帝国#によって#アルバニア人#非正規軍の将校としてエジプトに派遣された。ナポレオン退却後の政局混乱に乗じて頭角を現し、05年#ウラマー#、カイロ市民の支持を背景に総督(ワーリー)に任命され、オスマン帝国もこれを追認した。以後、旧支配階層#マムルーク#勢力を一掃し、西欧軍事技術、徴兵制の実施による近代的軍隊の創設、行政改革、西欧技術修得のための各種専門学校の設立、検地の実施による一元的農民支配の強化、農作物の作付指定と専売制度、近代工場の設立など、一連の富国強兵・殖産興業政策を実施し、エジプトにおける支配権を固めた。とりわけ、可耕地増加を目的とした通年灌漑体系の整備、商品作物綿花の栽培奨励策は、その後のエジプト経済に大きな影響を与えた。また、対外的には、#ワッハーブ派#掃討のためのアラビア半島への出兵(1811〜18)、スーダン征服(1818〜20)、ギリシア独立戦争におけるオスマン帝国支援(1824〜26)、第1次・第2次シリア戦争(1831〜33、39〜40)などを通して、領土拡張政策をとった。こうした領土拡張政策、とりわけシリアの領有権の主張は、いわゆる#東方問題#を引き起こし、西欧列強の介入による40年のロンドン四国条約締結によって、スーダンを除く征服地の放棄、およびエジプト国内市場の開放を余儀なくされたが、その代償として、ムハンマド・アリー一族によるエジプト総督世襲を認められた。,(加藤博) 74700,ムハンマド・アリー朝,ムハンマド・アリーチョウ,Mu<印7EE5>ammad <印78FE>Al<印77F5>,1805〜1953,#ムハンマド・アリー#を開祖とする近代エジプトの王朝。メフメト・アリー朝ともいう。その公式な政体は、1914年までは#オスマン帝国#の属州(統治者の正式名称はワーリー、1867年以後#ヘディーウ#)、1914年から22年まではイギリス保護国(同、#スルタン#)、そして22年以降は王国(同、マリク)。1840年のロンドン四国条約締結は、ムハンマド・アリー一族によるエジプト総督の世襲化の道を開いたが、このことは同時に、ムハンマド・アリーによる国内産業独占政策の放棄と、西欧資本主義に対するエジプト国内市場の開放をも意味した。以後、サイード、イスマーイール・パシャの統治下にあって、スエズ運河開設に象徴される一連の近代化政策が実施され、その間、エジプト財政の外資依存と綿作モノカルチャー農業構造の進展によって、エジプト経済の対西欧従属過程が進んだ。76年におけるエジプト財政の破産に端を発した一連の政情不安の中で、近代エジプト最初の民族主義運動である#オラービー運動#(1879〜82)が発生したが、この運動はイギリス軍によって鎮圧され、以後エジプトはイギリスの軍事支配下に置かれ、エジプト経済の対西欧、とりわけ対英従属化は強化された。第1次世界大戦後の1919年、サード・ザグルールを指導者とする反英民族独立運動が発生し、この運動の高まりの中で、22年イギリスはエジプトの独立を一方的に宣言した。しかし、これによって従来のイギリス権益が放棄されたわけではなく、独立は名目的なものであった。その後のエジプト政治は、イギリスからの完全独立の達成という課題をめぐって展開された。その政治過程は、(1)イギリス、(2)トルコ系大地主貴族階層を支持基盤とする国王・宮廷勢力、(3)議会制の枠内での政治闘争を目指し、中小地主階層と民族産業資本家階層を主たる支持基盤とする#ワフド党#の利害がからみあって展開された。さらに、1930年代以降は、(4)都市大衆を組織した#ムスリム同胞団#を中心とする大衆運動もこれに加わった。しかし、エジプトの完全独立の達成は、この王朝を倒した52年7月23日の#ナーセル#を指導者とする自由将校団の軍事クーデタ(エジプト革命)を待たねばならなかった。,(加藤博) 74800,ムハンマド・ブン・アブド・アルワッハーブ,ムハンマド・ブン・アブド・アルワッハーブ,Mu<印7EE5>ammad b. <印78FE>Abd al-Wahh<印78E6>b,1703〜91,アラビア半島ナジュド地方の宗教家。タミーム部族出身。ナジュド地方ウヤイナの生れ。メディナでイスラム学を修めた後、多年にわたってイラク、シリア、イラン各地を学問遍歴した。帰郷後、遅くとも1740年までには、コーランと#スンナ#だけに基づき、神の唯一性を強調する厳格な復古主義的教説の布教を開始した。その思想は#イブン・ハンバル#の学説の流れを引き、#イブン・タイミーヤ#の学説に大きく影響されているといわれる。1744年あるいはその数年後、故郷を追われたが、ナジュドのダルイーヤに拠点を置くサウード家の保護を得、以後、サウード家の勢力拡張に伴って、彼の思想はアラビア半島に広まっていった。しばしば局外者が彼の名を冠して#ワッハーブ派#と呼ぶこの運動は、近代におけるイスラム革新運動の先駆けとして、その後のイスラム世界に大きな影響力を及ぼした。,(加藤博) 75300,むら,ムラ,,,#都市#(マディーナ)に対して、西アジアのむらを一般にカルヤという。イランのディーフ、トルコのキョイがこれに相当する。しかし政府が租税徴収単位としてむらを把握する場合には、これをバラドと呼ぶのが普通であり、また初期イスラム時代の私領地(ダイア)もやがてカルヤと同じむらの意味で用いられるようになった。むらの規模は大小さまざまであって一定していない。大きなむらの場合には、その周辺にカフルと呼ばれる小さな集落のできていることがよくあった。これは、人口増加や水路の開削、あるいは遊牧民の定着などを契機として親むらのまわりに形成された枝むらであって、租税の納付額(イブラ)は親むらと合わせて計算されていた。家屋はむらの中に散在するのではなく、1ヵ所への集住形式をとるのが一般であったが、大家族はそれぞれ別個の居住区(#ハーラ#)に住むことが多かった。むらには開放耕地や果樹園以外に、共同利用のための#モスク#や教会、歓待用の家(マドヤファ)、水車や石臼、墓地などがあり、これらの有無によって各むらに固有な景観がつくり出されていた。また大きなむらでは、都市と同じように#市#(スーク)があり、織物商や薬屋はそこに常設の店舗を構えていたから、むらにもモスクが建てられるようになる11世紀以後については、都市とむらの間に本質的な相違は認められない。しかし生活の基礎が農業生産にあるという点で、やはりむらは都市とおのずから異なる特質を備えていたといえるであろう。
 むらのまとめ役である村長(#シャイフ#)は、農民による水利の慣行を維持し、政府による農村調査や検地の時にはむらを代表して村民の状態を報告する義務があった。初期イスラム時代のエジプトでは#コプト#の村長のマーズートが、またイラン・イラクではディフカーンが在地の有力者として租税の割当てや徴収に責任を負っていた。しかしアラブの勢力が浸透するにつれてこれらの権限は弱まり、代わってアラブ人村長がむらをとりしきるようになっていった。むら社会を構成する主要な階層は、ファッラーフーンあるいはムザーリウーンと呼ばれる自小作の農民であった。彼らは犂と2頭の牛を所有し、初期の時代にはたとえ小作人であっても自ら国家に租税を納めるだけの自立性を備えていたが、#イクター#制の成立後はムクターに隷属する農奴的な存在へと転落していった。これらの農耕民以外にも、むらには耕地や道路の見回り役、揚水車や犂をつくる大工、説教師や#カーッス#、あるいはコプト教の修道士などさまざまな職種の人間たちが見られた。もちろんこれらの非農耕民がすべてのむらに存在したわけではないが、彼らはそれぞれの役職に応じてむらの耕地の一部を与えられ、そこからの収入を生活の資として用いていた。
 農民の生活は農業を基礎とするものであったから、イランのペルシア暦やエジプトのコプト暦のような太陽暦が、#ヒジュラ暦#と併せ使用されていた。小麦や大麦、豆類、亜麻などの冬作物を基本として、夏の渇水期にも、揚水車その他を利用して棉や稲、サトウキビ、ゴマなどが栽培された。とくに稲やサトウキビは、#アッバース朝#中期以降、新しい商品作物としてイランからイラク、エジプトへと急速に広まっていった。労働は秋の播種期と春から夏へかけての収穫期に集中し、冬の農閑期には水路を開削・整備するための労働力の徴発が行われたが、これは農民にとって大きな負担であったという。
 むらは自給自足的で、しかも閉鎖的な生活を営んでいたわけではなく、早くから村落間には分業が発達し、各種の商品作物が遠近の都市へと出荷された。また香辛料や都市の手工業製品が移動商人(ラッカード)によってもたらされると同時に、近在の農民がロバに乗って都市へ出掛けていくこともまれではなかった。しかも#クッターブ#での初等教育を終えたむらの子弟には、都市の#マドラサ#で勉学を続ける道が開けていたし、カーッスも都市とむらの情報交換に重要な役割を演じていたから、経済的にも、また社会的にも都市とむらは常に密接な関係を保っていたといえる。むらと遊牧民との関係についてみても、農産物と乳製品や羊毛との交換以外に、遊牧民がむらの見回り役を請け負い、時には農民とともに抗租反乱を起こすことによって、両者の間には相互に依存する関係が生まれていた。このように都市民と遊牧民との緊密な関係のもとに、むらを中心とする地方社会(リーフ)が形成されていたのである。このリーフの性格が根本的に変化するのは、近代的な土地改革が実施され、むら社会が世界市場と直結される19世紀以降のことであった。→都市,(佐藤次高) 75600,ムルジア派,ムルジアハ,Murji'a,,8世紀の前半、コーランの解釈を通じ、イスラム教徒の多数の者に支持されうる教義と儀礼の定立・箇条化を図っていた人々。ムルジアというアラビア語は「延期するもの」を意味し、イブン・サードによれば、彼らは「#ウスマーン#と#アリー#について判断を延期し、信仰(イーマーン)と不信仰(クフル)に関し意見を述べなかった」という。つまり、#ハワーリジュ派#と#シーア派#のいずれにもくみせず、信仰と不信仰の問題は神の審判に待つとしたのである。ムルジア派の多くは、クーファの初期法学派の学者とも重なり合い、イスラム思想史上#スンナ派##ウラマー#の先駆者として位置づけられる。彼らの方法も、初期法学派のそれと同じラーイ(個人的見解)の行使で、学派のラーイの平均値を伝承という形で表明し、それはしばしばムハンマドその人の言葉に仮託されたが、これらはもちろん厳密な意味での#ハディース#ではない。,(嶋田襄平) 75700,ムルーワ,ムルーワ,muruwwa,,「男らしさ」を意味し、アラブの理想的男性像にかかわる。その要素として以下の三つが強調される。(1)戦闘や逆境の折に示される勇気(ハマーサ)、(2)口頭であれいったん取り交わした約束は必ず果たす誠実さ(ワファー)、(3)感情に激することなく鷹揚で物惜しみせずもてなす寛恕(カラム)。これらの徳は詩やことわざにおいてもたたえられたが、その度外れた追求は個人生活を破壊させることもあり、イスラム成立期にはムルーワと#ディーン#(宗教)との葛藤という形で表面化した。しかし、ほどよいムルーワの追求こそ人倫の道であるとされ、それが自己の不遜を戒め神を畏怖する敬虔さ(タクワー)に裏打ちされることによって、イスラム期以降の新たなムルーワ像が完成する。なお女性の理想像はムンジバートと呼ばれた。それは、貞節と良識をわきまえ、夫や息子のイルド(身内の女性を保護すべき徳目)に守られながら、息子たちや弟たちをカーミル(ムルーワを具備した一人前の男、複数形カマラ)として育成する女性であるとされ、そのような倫理観に沿って女子教育も行われた。,(堀内勝) 75900,メヴレウィー教団,メヴレウィーキョウダン,Mevlev<印77F5>,,トルコの神秘主義教団(#タリーカ#)。マウラウィー教団ともいう。この名は開祖#ルーミー#(1207〜73)の尊称マウラーナー(我らが導師)に由来する。初めアナトリアの古都#コニヤ#を中心とする小教派であったが、15世紀前半、オスマン朝ムラト2世のころから歴代#スルタン#の庇護を受け、#オスマン帝国#内の有力教団として拡大した。その教義の最大の特徴は、キリスト教をも包摂する寛容さにあり、プラトン哲学の影響も認められる。民衆の間からしだいに社会上層部に支持層が上昇し、洗練された学問・芸術の母体となった。キリスト教との類似をみせる厳格な儀式をもち、とくに音楽に合わせて集団をなして旋回する#ジクル#(#サマー#とも呼ばれる)はよく知られ、西欧での別称「踊る(旋舞する)#デルヴィーシュ#」はこれに由来する。1925年、他の神秘主義教団とともにその修道場(テッケ)は閉鎖されたが、社会の各層になお根強い支持者を有している。,(小山皓一郎) 76200,メフメト〔2世〕,メフメト,Mehmet,1432〜81,#オスマン朝#第7代スルタン。在位1444〜46、1451〜81。ファーティヒ(征服者)とも呼ばれる。1444年父ムラト2世は一時メフメトをスルタン位につけて隠退したが、2年後に復位したため、メフメトの治世は51年の父の死により始まる。53年のコンスタンティノープル(#イスタンブル#)征服は、ビザンティン帝国を消滅させて外患の種を除く一方、内にはトルコ族出身の名門勢力を弱め、#スルタン#の権力を増大させた。メフメト2世は#イエニチェリ#に代表されるカプクル(宮廷奴隷)を重用し、専制君主を戴く官僚制国家の体制を確立した。対外的にはアナトリアとバルカンの両方面に征服活動を続行し、セルビアを併合、ボスニアを服属させ、ペロポネソス半島の大部分を占領し、アドリア海の支配をめぐってベネツィアと戦った。またジェノバを黒海から駆逐してトレビゾンド、カッファその他の要衝を奪い、#クリム・ハーン国#を臣従させた。アナトリアでは宿敵カラマン侯国を併合し、さらに東方へ向かう遠征の途上で陣没した。ロードス島とベオグラードの攻略はついに成功しなかった。度重なる戦役、新首都イスタンブルの建設などは財政を圧迫し、貨幣の改鋳はいっそう状況を悪化させた。カプクルとトルコ族名門勢力の派閥抗争も激化し、メフメト治世の末年は多くの難問に直面していた。メフメトは激しい気性と合理主義精神に発する決断力、学問・芸術に対する理解の深さ、異質の文明に対する寛容さにおいて、比類のないスルタンであった。,(小山皓一郎) 77000,モッラー・サドラー,モッラー・サドラー,Moll<印78E6> <印7EF8>adr<印78E6>,1571〜1640,#十二イマーム派#の神学者、哲学者、神秘主義思想家。「神智学者の長」とあだ名された。十二イマーム派の神学と#イブン・アルアラビー#のワフダ・アルウジュード(存在一性論)および、#スフラワルディー#の「東方照明哲学」、そして#イスラム神秘主義#とを総合させたペルシア・イスラム思想の完成者である。神秘主義修行道に基づいた長年の瞑想の結果、モッラー・サドラーは絶対者である神を「輝ける真実在」として観照する。そして、全宇宙の諸存在はこの「輝ける真実在」の自己開示の結果であるとみる。この自己開示は人間の認識レベルに対応するように階層的構造を呈している。しかし、この階層的構造は静止的でなく、下降階層と上昇階層が表裏一体となるものと把握されて動的であるとみられている。根源的唯一存在である「輝ける真実在」からの不断の聖なる溢出により、存在は多様化するが、多様性は唯一者の展開相なのである。このような動的溢出の過程に出現する存在者は、不断に変化・更新するとみなされる。モッラー・サドラーはこの変化・更新を、「実体的運動」という観点から説明する。それゆえ、変化する存在者の自己同一性を確立しうるのである。このような神体験と形而上学、自然観を、モッラー・サドラーは絶えずコーランおよび十二イマーム派の12人のイマームの語録に依拠しながら解説している。彼によって確立された思想は、それ以後の十二イマーム派宗教思想活動の傾向を決定した。主著は《四つの旅》。,(松本耿郎) 77100,もてなし,モテナシ,<印77F6>iy<印78E6>fa,,イスラム教徒の主要な人倫の一つでアラビア語でディヤーファという。アラブの遊牧民は、昔から見ず知らずの者でも客として迎え、手助けをして3日間(最初に共食した食物が体内にとどまる期間)、何不自由ないように尽くすのが神聖な義務とされた。この遊牧民の美風は、イスラムにも受け継がれ、コーラン(4章40節)や#ハディース#の中で、孤児や貧乏人などとともに、見知らぬ者や旅行者を客として敬意をもって迎え、慈善や喜捨を施すべきことが説かれている。また、領主などが村を訪れたときに農民が提供する歓待の貢物もこの名で呼ばれた。
 「もてなし好き」と評判を得ることは、その人の徳の高さが公認されることを意味する。詩を好むアラブは、ある人物の人柄の良さを叙する場合、そこでは必ず「もてなし」が主題とされる。砂漠的世界においては、かまどの大きさ、灰の多さ、テントの前で焚くもてなしの火が、定住の世界においては、もてなしの頻度、贈り物、物惜しみしない気風がたたえられる。「もてなし好き」で有名な人物は多く知られているが、ことにハーティム・アッターイーなどは時代や地域を超えて知られた代表的人物である。もてなしを受ける側で注意すべきは、相手の好意に対して最大限報いることであって、たとえば出された食事を拒絶したり、少ししか食べなかったりすることは、ホストを侮辱することを意味する。しかし、また、明らかに食べきれないほどの量の馳走が出された場合には、残りは家族や近隣の者に回されるので、適量を食べたのち礼を言い席から立ち去るのが礼儀なのである。,(堀内勝) 77300,モハーチの戦,モハーチノタタカイ,Moh<印73E6>cs,,1521年にベオグラードを陥落させてドナウ・サバ川以南を平定した#スレイマン1世#の#オスマン帝国#軍が、ドナウ川を越えて26年にモハーチでハンガリー軍を破った戦い。折からハンガリー国内では、ポーランド出身の若いラヨシュ2世が貴族の掌握に苦労し、カトリックとルター派の対立が激化、1514年のドージャ農民戦争後の貴族による農民抑圧が進行し、野心的貴族サポヤイが王権を狙って、国内の統一が失われていた。加えてキリスト教世界も、フランスとオーストリアの対立、ドイツでの宗教改革や農民戦争などにより分裂していた。この後ハンガリーは、北西部のハプスブルク家のおさえるハンガリー王国、中央大平原のトルコ領、自治的なトランシルヴァニア公国に3分割され、オスマン帝国はやがて最大領土を樹立する。一時、モハーチでの敗戦がハンガリーでのいわゆる「再版農奴制」成立の原因とされたり、トルコ支配の破壊的性格が強調されていたが、近年においてはそれは否定されている。,(南塚信吾) 77600,モンゴル,モンゴル,Mongol,,1206年、チンギス・ハーンによる蒙古高原統一により国家機構を整えたモンゴルは、やがて南方農耕地帯に侵入して国家財政の基礎を固めると、東西交易路を抑えるため西方に目を向け、まずカラキタイを倒し、次いで#ホラズム・シャー朝#を滅ぼし、一隊はイランからカフカスを抜けて南ロシアをかすめた。この遠征はイスラム世界の東面・北面への一時的な侵入であったが、アゼルバイジャン、ホラーサーン、カシミール方面に出先機関を設置して将来の布石とすると、13世紀の半ば、チンギス・ハーンの孫フラグを西アジア・イスラム世界征服のため派遣した。彼はイランの暗殺者教団#イスマーイール派#の拠点を次々と攻略し、#バグダード#の#アッバース朝#を滅ぼすと、征服地にそのまま居ついてササン朝の旧領に匹敵するイランの地を領有し、#イル・ハーン#国を開いた。モンゴル侵入以前の遊牧トルコ族のイラン侵入と征服は、イスラムの権威は自明のものとしてなされたが、モンゴル族のそれは西アジアにおける聖俗両面の伝統を一挙に覆すものであった。しかしながら、大元ウルス(元朝)の宗主権を認め、さらに各ウルスとの友好関係を確立したイル・ハーン国の西アジア支配は東西世界を一つに結びつけ、イラン系のムスリムはモンゴル宮廷の特権商人その他として東西の各地で活躍することとなり、中央アジアのイスラム化が進み、#中国#のムスリムも増大し、#ペルシア語#は国際語としてイランの外部に大きく広がって広域的なペルシア語文化圏を成立させた。イラン系ムスリムの東西文化交流での活躍は伝統的なイランの学術・美術等の発展に刺激を与え、西アジア・イスラム世界の中に独自性を発揮させることとなった。第8代イル・ハーンのウルジャーイトゥーの命で編纂された一種の世界史《集史》はモンゴル帝国時代の東西学術・文化交流の盛況を端的に示す証拠品である。,(志茂碩敏) 77900,ヤサヴィー教団,ヤサヴィーキョウダン,Yasav<印77F5>,,中央アジアのヤス(現、トルキスタン市)を本拠とした#イスラム神秘主義#教団(#タリーカ#)。11世紀後半に中央アジアのサイラムに生まれたトルコ人アフマド・ヤサヴィーを創設者として、中央アジアおよびヴォルガ沿岸の遊牧トルコ人の間に多くの信徒を獲得し、ヤスの町にあるアフマドの霊廟はトルコ人たちの間で聖地として名高い。アフマドとその後継者たち(アタの号をもつ)は、その神秘思想をトルコ語の俗語を用いた詩・歌謡の形で人々の間に広めることに努めた結果、彼らによって神秘主義的トルコ民俗文学と呼ばれる一つの新しい文学ジャンルが確立された。アフマドの作とされる《ディーワーネ・ヒクマト》、ハキーム・アタの《バクルガン・キターブ》などはその代表的作品である。なおアフマドの孫弟子にあたるハーッジー・ベクターシュは小アジアにおいて#イエニチェリ#と関係のあったことで名高い#ベクターシュ教団#を創設した。,(間野英二) 78100,ヤフヤー・ケマル,ヤフヤー・ケマル,Yahya Kemal Beyatl<印7DF5>,1884〜1958,トルコの詩人。ウスキュプ(現、ユーゴスラビアのスコピエ)に生まれ、1903〜12年の間パリに留学、のちスペイン、ポーランド駐在公使、パキスタン大使、国会議員を歴任した。トルコ古典詩の韻律を守る最後の詩人といわれるが、ボードレール、マラルメなどフランス象徴詩人から影響を受けた。《海の歌》《声なき船》《幻想の都》などイスタンブルにちなんだ詩がとくに愛誦されている。,(小山皓一郎) 78500,ユヌス・エムレ,ユヌス・エムレ,Yunus Emre,?〜ca.1321,トルコの民衆詩人。アナトリア中部サカリヤ川流域で生まれた。アナトリア方言による詩作は彼を嚆矢とする。#ベクターシュ教団#または#カーディリー教団#の指導者タプドゥク・エムレのもとで修道生活を体験し、その作品には神秘主義の色彩が強い。詩形にはペルシア的な音量律とトルコ的な音数律とを併用している。トルコ民衆の生活に根ざした素朴な作風は人々に愛され、トルコ近代文学にも大きな影響を与えた。,(小山皓一郎) 78700,預言者,ヨゲンシャ,nab<印77F5>,,アラビア語でナビーまたは(神の)使徒(ラスール)とも呼ばれる。しかし、預言者は警告者として啓示を伝えるために遣わされただけであって、使徒のように新たな律法を伝え、共同体(#ウンマ#)の指導者とはならない者、あるいは使徒は啓示とともに特殊な使命を与えられた者ともいわれて、両者を厳密に区別する場合もある。この見方からすればムハンマドは使徒であるが、預言者とも呼ばれている。
 コーランによれば、人類は元来一つの共同体であったが、争いによって分裂してしまった。そこで神はおのおのの共同体にその中から選び出した預言者を遣わして、人々の争いを裁決し、正しい道に導くために彼らに啓示して正しい信仰と行為規範を伝えさせた。そのような預言者として、アダムをはじめとして、ノア、#アブラハム#、イサク、ロト、ヨセフ、モーセ、ダビデ、ソロモン、ザカリヤ、(洗礼者)ヨハネ、#イエス#などの聖書的人物や、アード族、サムード族、ミデヤン族にそれぞれ遣わされたフード、サーリフ、シュアイブなど、28人の名があげられている。イスラムでは、これらの一連の預言者のうち、ムハンマドが最後の預言者であり、しかも最も優れた預言者とされる。したがって彼以後の預言者はいっさい認められない。伝承によれば、預言者の数は12万4000人で、使徒の数が315人ないしは313人、下された啓典の数が104ともいわれ、後にはこれらの数をめぐっていろいろ議論がなされるが、結局、コーランにいうように正確な数は不明ということになる。
 このほかに論議されたことは、預言者と罪の問題、#天使#や#聖者#との上下関係、預言者間の優劣の問題、預言者の証明としての#奇跡#の問題などがある。一般には、預言者は少なくとも召命後は無謬であるとされる。不注意な過ちは別にして、いっさいの罪を免れているのか否かについては意見が分かれるが、啓示の伝達に関しては、いかなる罪も否定されている。このような存在としての預言者は聖者よりも、また天使よりも上位にあると考えられている。とはいえ、一般には預言者はいかに理想的人間ではあっても、人間以上の存在ではない。この観点からイスラムでは、イエスは預言者ではあってもその神性は否定される。しかし、#スーフィー#の間では、預言者ムハンマドは理想的スーフィーとみなされ、その召命ないしは啓示体験はまさに神人合一的な自我消滅(ファナー)体験の中で神が彼の口を通して語るその典型と考えられ、さらには神は天地万物の創造に先立ってムハンマドの先在的形相をつくったとまで主張される。これはアダムに神が吹き込んだ神的霊と同一であり、これが天上の光としてアダム以後の一連の預言者に受肉するにいたったという。こうしてムハンマドは神的ロゴスの体現者として、それを通して人間が神と交わる仲介者的存在とみなされるようになる。→ムハンマド,(中村廣治郎) 79100,ライラとマジュヌーン,ライラトマジュヌーン,Layl<印78E6> wa-Majn<印7CF3>n,,イスラム文化圏に広く親しまれている悲恋物語。アラブ世界では「マジュヌーン・ライラ」として知られる。家柄も教養も良く育った2人であったが、詩才豊かな主人公カイスは恋人ライラの名前をある詩の中に叙してしまったために、恋人の家柄を著しく傷つけ、そのため求婚も拒絶されてしまう。恋人が他人に嫁ぎ、癒されぬ恋の病いはカイスを発狂させ、マジュヌーン(狂人)と呼ばれながら砂漠をさまよい、恋人の幻影を追い求める。ライラは恋人への愛と夫への忠節とのはざまに苦しみ、果ては衰弱して死ぬ。マジュヌーンも純粋な恋の気持を詩にうたいながら、ライラの後を追う。筋に小異はあるものの、こうした恋物語はアラビアの砂漠的環境に生まれ、その純愛と悲恋、詩のすばらしさおよび歌にセットされたことなどの理由から、広くイスラム文化圏に流布し、中でもイランの詩人ニザーミーの作品化の功績は大きく、神秘的な愛をうたい、神秘主義の教科書ともいわれる。物語、民謡、詩吟、劇として今日でも絶大な人気があり、西洋でも「ロミオとジュリエット」の中東版として親しまれている。,(堀内勝) 79200,ラクダ,ラクダ,,,世界の遊牧文化の諸相の中で、アラブのそれを特徴づけているのは、ラクダが家畜の主体をなし、文化の基層と深く関連していることである。ラクダの呼称としては、ジャマルjamal(総称、雄)、ナーカ(雌)、バイール(単数総称)、イビル(複数総称)がある。非アラブには英語のcamelの語源となったことによりjamalが最も知られるが、アラブにとっては使用頻度および概念的にも後3者のほうが圧倒的に多い。バイールは雌雄の別なく1頭のラクダの意味で用いられる。
 家畜化した(紀元前3000年ころ)のもこの地域が最初だし、その後荷駄用、また乗用として広く利用したうえ、さらに戦闘用にまで訓育したのはアラブのみであった。これは他のラクダ遊牧民と比較して特筆すべきことである。アラブの大征服の歴史も、イスラム化の歴史も、ラクダの存在を抜きにしては語れない。中東のラクダは一瘤であり、寒さと荒れ地に慣らされた中央アジアの二瘤ラクダと異なり、暑く乾燥した気候に耐える体質をもっている。何よりも「飲み溜め」ができ、渇きに強い。それは胃袋のみでなく、筋肉の組織の間にも水を蓄えることと、背中の瘤の脂肪を空気中の酸素と化合させ代謝水をつくり出すことの二つの特殊な機能をもつからである。このため、広大な砂漠を渡る「砂漠の舟」とすることができた。また長く豊かなまつ毛、開閉自在な鼻、平たく大きな足裏は、砂塵・砂地に対して強く、頑丈な歯・歯茎、それに反芻胃は粗食に耐えうる力を与えている。人間にとっては乳と肉は食用に、毛と皮は衣と住にそれぞれ有用で、ラクダ遊牧民にとって生活必需品の多くがラクダから得られ、それゆえ「ラクダの寄生虫」などと言われる。砂漠的環境において尚武の精神をもつラクダ遊牧民の自立的世界は、都市中心の王朝世界と競合していた。ラクダが、財貨としては#ザカート#や血の代償額を、またラクダ荷として重量を、ラクダ日として距離行程を測る基準単位に用いられたことも、それがアラブの生活の中に占めていた地位を示している。,(堀内勝) 79300,ラージー,ラージー,al-R<印78E6>z<印77F5>,ca.854〜925,ラテン名ラゼス。イスラム世界のみならず、中世世界を通じて高名な臨床医。イラン北部のレイに生まれ、初めは音楽、次いで哲学、さらに#錬金術#にうち込み、この研究により目を痛めてから医学に転じ、レイの病院長となり、40歳のころ招かれてバグダードの中央病院の院長となった。彼の予後における熟練、その症候分析の正確さ、治療の適切さは、彼の名を全イスラム世界にとどろかせ、大きな信頼と尊敬をかち得た。彼はまた錬金術(化学)の知識を医療に応用したから、医療化学派の祖ともいえる。184の著作をものしたといわれるが、現存する著作のうち著名なものは《包含の書》であり、これはガレノスの医学理論を批判しながら、自己の客観的観察と処方のすべてを含んでいるアラビア医学最大の百科全書である。この書は12世紀にラテン語訳されて以来、17世紀まできわめてよく研究され続けた。そのほか解剖学を含んだ《マンスールの書》があるが、とくに注目すべきは《天然痘とはしかの書》で、これはイスラム医学の傑作で、18世紀にいたるまで西欧で出版され、熱心に読まれた。,(伊東俊太郎) 79400,ラシード・アッディーン,ラシード・アッディーン,Rash<印77F5>d al-D<印77F5>n,1247〜1318,イル・ハーン国の政治・財政顧問、歴史家。ハマダーンに生まれ、初め典医としてアーバーカー・ハーンの宮廷にあったが、1298年ころ#ガーザーン・ハーン#に抜擢されて仕え、#ニザーム・アルムルク#に範をとり、イラン社会に適合したモンゴル支配体制の確立に尽力した。続くウルジャーイトゥー・ハーンにも仕え、ガーザーン・ハーンの諸策を推進したが、アブー・サイード・ハーン時代の初め、政敵の陰謀によって処刑された。彼はガーザーン・ハーンの口述に基づき《モンゴル史》を編纂し、さらに、ウルジャーイトゥー・ハーンの命により、《モンゴル史》を核とする一種の世界史《集史》の編纂にあたった。モンゴル帝国盛時のモンゴルの帝王の口述、指示どおり、イスラム史観に偏らず平明に記されたこれらの書は、モンゴル時代史研究の貴重な史料となっている。,(志茂碩敏) 79600,ラービア,ラービア,R<印78E6>bi<印78FE>a,714〜801,女性の禁欲・神秘主義思想家。バスラに生まれ、バスラで没。まとまった著書はないが、その語録がまとめられている。初期#イスラム神秘主義#思想は、懼神・絶対帰依を中心とし、禁欲と反省による霊肉の浄化を目指した。ラービアはこのような神秘主義運動の中に、「神への愛」の理念を導入した最初の人であるといわれる。彼女の「神への愛」は、きわめて官能的な語彙で表現され、イスラム神秘主義文学の先駆者ともみなされている。,(松本耿郎) 79800,ラービフ,ラービフ,R<印78E6>bi<印7EE5>,ca.1840〜1900,ナイジェリア北東部を支配したボルヌー帝国の征服者で、スーダン出身の奴隷商人。ハルトゥーム付近の貧しい家に生まれた。1865年ころよりスーダン南部のバフル・アルガザール州の実質上の支配者ズバイル・ラフマーン・パシャ父子のもとで奴隷貿易に従事し、73年にはズバイルの軍隊の司令官に就任した。奴隷貿易を禁止したエジプト政府軍との衝突後、南部のダルフール地方などで奴隷貿易に従事しながら「ラービフ帝国」の建設に着手した。85〜89年の4年間は「#マフディー#」の名により戦っているが、これは、ラービフがスーダンの#マフディー派#の運動に同調したというよりも、#サヌーシー派#の有力者であるスルタンを頂くワダイ王国に反発する人々を味方につけて、ワダイの属国を征服する手段であったとみなされる。92年12月にバギルミー王国を、さらに翌年4月にはソコト王国のハヤツ・ブン・サイードの協力もあってボルヌー征服を達成した。しかし、97年以降フランスの侵略に直面し、1900年のクッスリ決戦で戦死した。,(岡倉登志) 79900,ラホール,ラホール,Lahore,,パキスタンの#パンジャーブ#州の州都。人口295万(1981)。11世紀に#ガズナ朝#のマフムードに征服された。有名な#スーフィー#のフジュウィーリーもこの地に来て没し、その廟が今日も残っている。その後、トルコ系侵入者の手で同市は数々の略奪・破壊を受けた。#ムガル帝国#下に復興され、ジャハーンギール帝が宮廷をおいた。同朝のアウラングゼーブ帝の壮大な「王のモスク」が有名である。,(加賀谷寛) 80700,ルジューウ,ルジューウ,ruj<印7CF3><印78FE>,,「隠れ#イマーム#の再臨」を意味する#シーア派#の用語で、ラジュアともいわれる。#十二イマーム派#の信仰によると、940年から「大きな隠れ(#ガイバ#)」に入って今日までその状態が続いている第12代イマーム、ムハンマド・アルムンタザルは、この世に悪・不正がはびこってその極に達すると、#マフディー#としてこの世に再臨し、悪を一掃して地上を正義で支配すると信じられており、シーア派信仰の大きな柱である。,(黒柳恒男) 80900,ルーミー,ルーミー,R<印7CF3>m<印77F5>,1207〜73,イランの神秘主義詩人。神学者バハー・アッディーン・ワラドの子としてバルフに生まれ、1219年ころ家族とともに郷里を去り西方へ流浪の旅に出て、10年後にアナトリア(ルーム)の#コニヤ#に定住、ルームにちなんでルーミーと号した。父亡き後、その高弟の指導で神秘主義を修行し、シリアに留学して当代一流の学者となった。44年、放浪の老托鉢僧シャムス・アッディーン・タブリージーとの出会いで、彼の運命・人生は一変した。老師に神の愛の完全な像を見いだした彼は、それまでの生活を放棄して日夜師に仕え、神学者から酔える神秘主義詩人に変わった。老師との別離後、師を慕う切々たる熱情は陶酔の抒情詩によまれ、44年から61年までは抒情詩の時代と呼ばれる。61年(一説では59年)以降は、マスナヴィーの時代として知られ、愛弟子フサームの勧めで神秘主義詩の最高傑作、全6巻2万5000句に及ぶ《精神的マスナヴィー》の作詩に着手し、没するまで作詩活動を続けた。彼は「踊るデルヴィーシュ」で知られる#メヴレウィー教団#の創始者としても名高い。主要な詩の作品には陶酔の抒情詩集として知られる《シャムセ・タブリーズ詩集》、「ペルシア語のコーラン」と評される《精神的マスナヴィー》、《ルーミー四行詩集》があり、散文作品には宗教講話集《フィーヒ・マー・フィーヒ》(ルーミー語録)、《七説話》などがある。コニヤに葬られ、聖廟は同地に現存する。,(黒柳恒男) 81000,ルーム・セルジューク朝,ルーム・セルジュークチョウ,R<印7CF3>m Salj<印7CF3>q,1077〜1308,アナトリア(ルーム)に存在したトルコ系王朝。王朝の始祖となったスライマーン・ブン・クタルムシュの父クタルムシュは、イランの#セルジューク朝#の創設者トゥグリル・ベクのいとこにあたる。スライマーンは1071年#マラーズギルドの戦#の後、アナトリアへ入り、ニカエアを占領してルームの地にセルジューク朝国家を創建した。スライマーンの子クルチ・アルスラン1世の時代(在位1092〜1107)には第1回#十字軍#による攻撃でニカエアを失い、以後国家の首都はアナトリア中央部にある#コニヤ#に置かれた。12世紀後半スルタン位にあったクルチ・アルスラン2世のもとで勢力は大いに伸張し、アナトリアの内陸部に支配権を確立した。13世紀前半、カイホスロウ、カイカーウス、カイクバード3代のスルタン時代にアナトリア南北の沿海部へ進出し、王朝の最盛期を迎え、彼らの宮廷はイラン・イスラム文化の保護・育成に貢献した。しかしカイクバードを継いだカイホスロウ2世の治世(在位1237〜45)にはモンゴル軍の侵攻を受け、1243年キョセ・ダグの戦に敗れ、77年以後イル・ハーン国に従属する状況が強まり、国力を回復しえないまま14世紀に入って滅亡した。この王朝のもとで、アナトリアのトルコ化とイスラム化が進行し、コニヤ、カイセリ、シヴァスなどの都市にはモスクやマドラサが数多く建設された。,(井谷鋼造) 81200,レイ,レイ,Rey,,イランの首都テヘランの南に隣接する小都市。古代から栄えた町で、#ゾロアスター教#の遺跡もある。イスラム時代になってからも、#アッバース朝#カリフ、#ハールーン・アッラシード#や神学者ラージーをはじめ歴史上著名な人物がこの町に生まれた。市中に#十二イマーム派#第8代イマーム、#イマーム・レザー#の息子アブド・アルアジームの廟と、第7代イマーム、ムーサーの息子ハムザの廟とがあるため、十二イマーム派の信者の#巡礼#地となっている。,(松本耿郎) 81300,霊魂,レイコン,,,霊魂を表す語としては、アラビア語のナフス、ルーフおよびカルブがある。まずナフスはアラビア語の古詩以来、再帰用法的に「自己」「自身」を表す語として用いられてきた。この意味では、コーランでは神自身に対しても用いられている(5章116節)。しかし、コーランにおいて特徴的なナフスの用法は、人間の「魂」「霊魂」としてである。これは、人間が死んでから#死#の#天使#が肉体から引き出すものである(6章93節)。このナフスの性格として、(1)「とかく悪事をやらせたがるもの」(12章53節)、(2)「己を責めさいなむもの」(75章2節)、(3)「静かに安らぐもの」(89章27節)、の三つがあげられている。この3区分は、後に#スーフィー#たちによって人間の霊魂の修練の発展段階を示すものとしてとらえられ、発展する。ルーフについては、元来、「息」「風」を意味し、ヘブライ語に近かった。コーランでは単数形でのみ24回用いられているが、その用法は次のようである。(1)神が生命を与えるため、また懐妊させるため、それぞれアダムとマリアに吹き込んだもの。(2)神の御言に属するものとして、人知の及ばぬものとして、啓示を伝える使徒に関係して用いられている。(3)「言葉」(ロゴス)と並んで#イエス#を指す語として。(4)諸天使と並んでその一種として。(5)「誠実なる霊」「聖霊」と訳されるもので、マリアに立派な男性として現れたり、イエスを強化したり、ムハンマドに啓示を伝えたりする天使的存在。要するに、コーランではルーフはもっぱら神と関係づけられて用いられていて、人間の霊魂・本質としての用法はない。しかし、後になると、キリスト教やギリシア哲学、とくに新プラトン派の影響のもとに、霊魂論はよりいっそう複雑な思弁的発展をみる。たとえば、#ガザーリー#は、ナフス、ルーフを同義ととらえる一方、血液とともに人体を巡る物質的な生命原理としての霊魂観を排して、「己(ナフス)を知る者は神を知る」という場合の人間の神的本質、人間の中の神の御言に属するもの、この世にあってこの世のものではない人間の部分、人間が神を知り愛することを可能にする「高貴なる実体」を指すものとして、その意味を深める。この意味でガザーリーは、ナフスやルーフよりもカルブ(心)の語を好んで用いる。,(中村廣治郎) 81400,礼拝,レイハイ,<印7CE3>al<印78E6>t,,イスラムの#イバーダート#の一つで五柱(#六信五行#)の第2にあげられる信者の義務。アラビア語でサラート。神への服従と感謝の念の行為による表明である。義務としての礼拝は夜明け(スブフ、ファジュル)、正午(ズフル)、午後(アスル)、日没(マグリブ)、夜半(イシャー)の一日5回であるが、ほかに自発的礼拝を行うことが推奨される。礼拝にあたっては、身を浄め(ウドゥー)、意図(ニーヤ)を明らかにし、#キブラ#に向かって低頭(ラクア)、平伏(スジュード)を含む定められた方法で行う。#モスク#のみならず、墓地、屠殺場など不浄の場以外の任意の場所で個人で行いうるが、毎金曜日正午の集団礼拝は#イマーム#の指導のもとに、マスジド・アルジャーミーで行われるのが原則で、礼拝の前に#フトバ#が述べられる。なおペルシア語では、礼拝をナマーズという。,(嶋田襄平) 81600,レパントの海戦,レパントノカイセン,Lepanto,,レパントはギリシア中西部コリント湾の北岸にあり、パートレ湾に通じる海峡の入口を扼す漁港の町ナフパクトスのイタリア語名。16世紀半ば、#オスマン帝国#は地中海の制海圏を手中にし、その伸張は、スペイン王フェリーペ2世がバレアール諸島住民にスペイン本土への避難を命じるほどに、地中海キリスト教諸国にとって切迫した脅威と感じられていた。1570年にキプロス島がオスマン帝国に占領されると、ローマ教皇庁、スペイン、ヴェネツィアは連合艦隊を編成して反撃を試みた。71年10月7日、203隻の連合艦隊と230隻のオスマン海軍はレパント付近で対戦、火器と作戦に優れた連合艦隊が圧勝した。16世紀最大と評されるこの海戦は、ただちには東西両陣営の形勢逆転に結びつかなかったが、キリスト教諸国は不敗とされてきたオスマン海軍に対する萎縮感から解放されて自信を回復、またスペインの海軍力が世論の注目を集めた。文豪セルバンテスは、一兵卒として参戦して負傷、後にこの海戦を「かつてなかった最も偉大な一瞬」と呼んだ。,(小林一宏) 81800,錬金術,レンキンジュツ,,,英語で錬金術を意味するalchemyの語源はアラビア語のアルキーミーヤで、アルは定冠詞であるからキーミーヤの語源が問題になる。これについては、(1)エジプトの呼称であり「黒い土地」を意味するkmtに結びつけるもの、(2)ギリシア語で金属を熔融する方法を意味するkhymeiaに由来するとするもの、(3)中国語の「錬金術」の金の広東音kimと関係づけるもの、などがあるが、アラビア錬金術の出自から考えて(2)の説が妥当であろう。実際3世紀にゾシモスを中心とするヘルメス的なギリシア錬金術が成立するが、7世紀にこれが二つの経路を経てアラブ世界に移入される。すなわち、ヘルメス主義の拠点ハッラーンを中心とするシリア、およびアレクサンドリアを中心とするエジプトからである。前者ではギリシア錬金術書のシリア語訳を通り、後者ではマリアノスという人物に錬金術を学んだ#ウマイヤ朝#第2代カリフの子、ハーリド・ブン・ヤジードの活躍によってである。また#シーア派#の#十二イマーム派#の第6代イマーム、ジャーファル・アッサーディクもアラビアの所伝によれば錬金術に優れていた。彼に師事したといわれる8世紀の#ジャービル・ブン・ハイヤーン#こそアラビア錬金術の中心人物で、シーア派の「比喩的解釈」(ターウィール)の方法と物質変換の操作とにより同時に魂を純化するヘルメス錬金術を徹底させ、「平衡」の概念と「水銀・硫黄」の教説によって、その基本的枠組みをつくり上げた。このジャービルにおいて不可分的に結びついていた物質的錬金術と精神的錬金術は、その後しだいに分裂し、10世紀の#ラージー#は前者の物質的錬金術の方向に進み、ヘルメス的解釈を拒否し、錬金術の象徴的次元を否定して、ほとんど近代の物質化学に近づいていった。これに反し13世紀のイラーキーは、錬金術を神的起源のものと考え、その精神的側面を強調し、外的な物質の変換を内的な精神的昇華との象徴的関係においてとらえた。その後イスラム世界を支配したのは、後者の精神的錬金術を主軸とするもので、それは#イスラム神秘主義#の中に取り入れられ、イスラムの精神世界の一つの重要な構成要素となった。またこのアラビア錬金術は、12世紀以降西欧世界に取り入れられ、巨大な影響を及ぼした。→アラビア科学,(伊東俊太郎) 81900,六信五行,ロクシンゴギョウ,,,イスラムは信仰だけあれば足りるとする宗教ではなく、正しい信仰が行為によって具体的に表現されなければならないとする。その信仰(イーマーン)の内容と、行為のうち、とくに神への奉仕にかかわるもの(#イバーダート#)を簡潔な箇条としたものが六信五行である。六信とは(1)#アッラー#、(2)#天使#、(3)啓典、(4)#預言者#、(5)来世(#アーヒラ#)、(6)予定(カダル)を信じること、五行とは(1)信仰告白(#シャハーダ#)、(2)#礼拝#、(3)喜捨(#ザカート#)、(4)#断食#、(5)#巡礼#、を行うことである。五行はアラビア語では、イスラムの信仰を支える5本の柱という意味で五柱(アルカーン・アルハムサ)というが、日本では普通「六信五行」と言い慣わす。その箇条化は特定の学者の仕事ではなく、#スンナ派##ウラマー#またはその先駆者たちの#イジュマー#として、六信は10世紀の後半、五柱は8世紀の初めに成立したと考えられる。,(嶋田襄平) 82100,ロバ,ロバ,,,アラビア語ではヒマール、雌ロバはヒマーラまたはアターンと呼ばれる。飼育されているロバと野生ロバとは名称のうえでも区別する。飼育されているロバは家畜として水車を動かしたり、荷物の運搬、乗用などに供される。預言者ムハンマドをはじめとして、さらには#聖者#と仰がれた人々がロバに乗っていた伝承があるが、有力な支配者らは通常、#馬#に乗ることを好んだ。ロバは一度通った道は決して忘れず、聴力に優れているが、その鳴き声は最も不快なものである、とコーランに記されている。イスラム法では飼育されているロバの肉を食用に供することは許されていない。また雄ロバを雌馬と配合することは原則として禁じられているが、実際にはこれが行われ、一代かぎりのバグル(ラバ)が育てられ、乗用や搬送用に使われている。アラブはおろか者をロバにたとえるが、同時に忍耐強く、戦闘などで決して後退しない者にも用いる。これはロバがライオンなどに出会った時、立ち止まるか、前進する性質をもっているためだといわれる。これに対し、野生のロバは狩猟の対象とされ、その肉は食用に供され、食べた者は200〜800年も長生きすると信じられている。,(池田修) 82200,ワキール,ワキール,wak<印77F5>l,,「代表者」「保証人」「代理人」「保護者」などを意味するアラビア語。コーランには、たとえば、「#アッラー#は我々の言葉の保証人(ワキール)である」(12章66節)という表現があり、「ワキール」はアッラーの99の名前の一つとなっている。
 イスラム社会の発展とともに、ワキールはさまざまの分野で、上記の一般的な意味を踏まえつつ、それぞれの分野に特殊な意味をもって使われるようになった。たとえば#シーア派#では、#イマーム#は個人的な代理人(ワキール)を使って信徒たちと連絡を取り合うことがしばしばあった。ことに#十二イマーム派#では、12代目イマームのムハンマド・アルムンタザルがこの世から隠れ(#ガイバ#)てしまってからは、イマームに代わってワキールがこの派の代表者の役割を果たした。
 イスラム法のある分野では、法的な代理制度(ワカーラ)を認め、ワキールは法的代理人という意味で使われるようになった。とくに商業の分野ではこのワカーラ制度が大きな役割を果たした。法人の概念をもたないイスラム法では、商業上の仲間組織による所有権の分有を認めていたが、これは理論的にはワカーラの概念に含まれる。商業の代理制度は、ある特定の事柄や品物について、権限を委任する人(ムワッキル)と委任される人(ワキール)が、両者の了解のもとに代理権の契約を結ぶことをいう。現実に存在した商業上のワキールは、次のような機能を果たした。(1)ある#都市#のワキールは、そこにいない#商人#の法的代理人で、債権の取立てやその他狭義の法的問題の処理に当たる。このために、たとえばユダヤ商人のワキールに、ムスリムの#カーディー#がなっている例が多く、10〜13世紀カイロのゲニザ文書に出てくるという。(2)ワキールは商品の保管業務も行い、取引の場所を提供した。ダール・アルワカーラと呼ばれる施設は、本来ワキールの管理する倉庫兼取引場のようなものであった。(3)ワキールは商人たちの間に立って、商品や資本を預かったり、仲介者の役割を果たした。(4)ワキールは、行政的な役割として港の監督とか関税の徴収などを行うこともあった。このようなワキールの役割と機能をみてくると、単に他の商人の代理人であるというよりは、各地域の商人のリーダー的な存在だったようにもみえる。実際、ワキールの中でもワキール・アットゥッジャールと呼ばれた人々は、商人頭とでも訳したほうが適切かもしれない。商業においてワキールが独自の役割を果たしたのは中世半ばまでである。
 商業上のワキールと並んで、歴史的に重要なのは、ダイアとか#イクター#など土地所有者のワキールである。この場合は代官とでも訳すのが適当であろう。このタイプのワキールの任務は第1に徴税であり、それを所有者に届けることであった。また場合によってはダイアやイクターの経営管理に当たっていたこともある。中世後期になると、イクターにもワキール以外にさまざまな権限の所有者が入り込み、ワキールのイクターにおける地位は低下した。
 官職名としてのワキールもすでに#ウマル1世#の時代に存在していたと伝えられるほど古い。その後はさまざまな官庁でワキールという名のつく官職が置かれ、現代にまで受け継がれている。また現代の軍隊でも下士官の位階として各国で使われている。,(湯川武) 82400,ワジール,ワジール,waz<印77F5>r,,イスラム諸国で行政の最高責任者を表すアラビア語で、通常「宰相」と訳され、現在では転じて「大臣」を指す。旧説では中世ペルシア語vishirの派生語で、ササン朝ペルシアの制度を借用したものと考えられていたが、アラビア語のワジールは元来「補佐」や「重荷を負う者」の意味をもっていて、それが「君主の助力者」というイラン思想と結びつき、#アッバース朝#に入って公的な肩書となった。アッバース家運動を推進してきたアブー・サラマが革命軍のホラーサーン軍から「ムハンマド家のワジール」という尊称を贈られたのが最初であるが、この時はまだ#カリフ#から任命されたのではなく、制度としても未熟であった。しかし、その後カリフ体制の中央集権化を図るうえから、ワジールはカリフの単なる補佐役から、しだいに代務者の役割を果たすようになり、やがて9世紀末近くなると、ほとんどすべての行政機関の統括者になるとともに、時には各州の総督や税務長官、裁判官の任命権をも掌握し、カリフに代わって国政の全般を指揮した。こうしたワジールの大半は#マワーリー#の書記(#カーティブ#)階級出身者かその子孫かで、長年官庁業務に従事し、とりわけ税務関係の諸官庁長官の経験者が多かった。しかし、中には商人階級出身者や行商から身を起こして財をなし、徴税請負人を経て宰相になった者もいる。ワジールは行政上では強大な権力を行使したが、カリフに対して絶対服従しなければならないことから、宮廷内の陰謀に巻き込まれやすく、地位は不安定で、在任期間は概して短かった。10世紀半ば、イスラム世界に軍事政権が成立してカリフ権が弱体化すると、ワジールもカリフの単なる書記に転落した。ただ#セルジューク朝#時代には#スルタン#を補佐する宰相職の意味に復した。#ファーティマ朝#では、アッバース朝にならって官僚出身者がワジールとなったが、そのような文官支配による国家体制も前半期までで、後半になると軍人が宰相職も兼ね、他のイスラム世界の軍事政権と変りないものとなった。#マムルーク朝#時代はおおむね文官出身者がワジールに任命され、税務行政を担当し、スルタン政府の重要なメンバーとして国政に参加はしたが、同時にスルタンの家産の管理者をも兼ねていた。したがって支配階級の#アミール#たちからは、従属的な職掌とみなされて、よく評価されない傾向があった。
 #オスマン朝#のワジール(ヴェジールvezir)職は最初セルジューク朝のそれを引き継いだものであったが、14世紀の後半になると、この称号は複数の人物に与えられ、それぞれの権限も限定されたものとなった。しかし1360年代初めには、その第1ヴェジールに当たる者を大宰相とする制度が生まれ、やがてはスルタンに代わって、行政と軍事の国政全般を処理する者となった。ただし称号としては、初めはウル・ヴェジールも用いられたが、もっぱら#サドラザム#が使用された。一方ヴェジールの数は時代によって変遷があり、4人ないし7人任命されたが、時代が下ると、なんらの職権も保持せず、単にスルタンの娘婿というだけでヴェジールの称号を与えられるなど乱れた。,(森本公誠) 82600,ワフド党,ワフドトウ,wafd,,エジプトの民族主義政党。第1次世界大戦後、パリ講和会議にエジプトの民族「代表団」(ワフド)を送ろうとして始まった運動を母体に、1924年、サード・ザグルールを指導者として成立。「エジプト人のためのエジプト」を標榜し、キリスト教徒・ムスリムの違いを超えた広範な大衆の支持を獲得した。サード・ザグルールの無条件独立の立場は、絶えず同党の選挙での大勝をもたらした。だが、彼の死後、とくに世界恐慌後の30年代、都市の大衆・農民の窮乏化と対照的にエジプト資本主義の発展に伴い、同党の地主・ブルジョア政党としての性格が強まった。36年イギリス・エジプト同盟条約を締結したナッハース・ワフド党内閣は、外交自主権・英軍撤退を基礎とする独立の内実より政治的経済的なイギリスとの関係強化を重視した。いわばエジプトにおけるモダニズムの潮流の一環としてのワフド党の議会制民主主義原則は、大衆的支持を失い、以後同党は、党内分裂や、反ワフド勢力の#ムスリム同胞団#、左翼、自由将校団などが組織する新たな大衆運動の台頭に直面していった。第2次世界大戦中・戦後と親英政党としての立場に存命をかける同党は、同盟条約撤廃要求に沸き立つ国内の動揺に対しては、スーダン問題や#パレスティナ問題#を通じ国民の中の民族主義を国外へと喚起させることでその危機回避に終始した。エジプト革命の成功で命脈を絶たれた同党は翌53年に他の政党とともに解散させられた。78年サーダート政権批判勢力の一つとして旧党勢力を中心に新生を期したが、3ヵ月で自ら解散、80年代以降ムバーラク政権下で「ワフド新党」として再度復活し、新興ブルジョアジー議会政党として現在にいたっている。,(藤田進) 00200,アーイシャ,アーイシャ,<印78FE><印78EA>'isha,ca.613〜678,預言者ムハンマドの妻。父は初代カリフの#アブー・バクル#。ムハンマドの最初の妻#ハディージャ#の死の直後婚約し,#ヒジュラ#後結婚した。結婚当時9歳であったと伝えられている。#メディナ#時代のムハンマドは10人を超える妻を迎えたが,アーイシャは実質的に最愛の妻の座にあった。ある時,姦通の疑いをかけられたが,神の啓示によりその潔白が証明され,逆に疑った人々が罰せられた。ムハンマドは彼女の膝の上で息を引き取り,彼女の部屋に埋葬された。夫の死後は再婚せず,他の妻とともに「信徒の母」と呼ばれた。子はなかった。第4代正統カリフの#アリー#と対立したが,ラクダの戦(656)に敗れた後は,政治に関与しなくなった。ムハンマドの言行(#スンナ#)に関する多くの伝承を後世に伝えた。,(後藤明) 01900,アズハル,アズハル,al-Azhar,,カイロにある古い#モスク#(970年設立)とそれに付随する#マドラサ#(972年設立)とからなり,現存するイスラム最古の最高学府とされている。マドラサは全イスラム世界からの長年の#ワクフ#財産によって運営されてきたが,イスラム世界でアラビア語が衰退した#オスマン帝国#下においても存続し,よく伝統的アラブ・イスラム諸学を今日に伝えた。大学は1936年の法令によってモスクより分離し,イスラム法学部,神学部,アラビア語学部(伝統3学部)として新たに再編成された。アズハルはエジプト各地に付属の中等部(4年)や高等部(5年)を傘下に置いていたが,61年の法令により,普通高校出身者の入学も可能となった。現在では「信仰と労働」をモットーに,女子部も含めて医学部,工学部をはじめ13学部を数える総合大学に変わった。アズハル大学はエジプト人の子弟ばかりでなく,全イスラム世界の子弟の教育を行う使命がある。このために創立以来多くの外国人留学生をかかえ,最近では常時約3000人の外国人留学生が在籍し,その卒業生(アズハリー)はイスラム世界の宗教指導者や裁判官,各地のイスラム大学の教授やアラビア語教師として活躍している。,(飯森嘉助) 02200,アター,アター,<印78FE>a<印73F3><印78E6>',,「贈り物」を意味するアラビア語であるが,イスラム史の用語としては,ムハンマドの未亡人・親族・功労者の年金,軍人・官僚の俸給を意味する。640年#ウマル1世#が,メディナと各#ミスル#に#ディーワーン#を設けて支給を開始した。アラブ戦士(ムカーティラ)のアターは年額で最高2000から最低300ディルハムで,大部分は最低額を割り当てられ,ほかに#リズク#を支給された。ミスルに移住してアターを支給されるのは,アラブの特権とみなされていたが,#ムフタール#は反乱に際し#マワーリー#をディーワーンに登録してアターを支給し,それは#ウマイヤ朝#カリフ,#ウマル2世#によって政府の政策とされた。#アッバース朝#初期の正規軍ホラーサーニーの指揮官は月額2000,兵士は80,高級官僚は300,下級官僚は30ディルハムのアターを支給され,ホラーサーニーには臨時の特別支給もあった。アラブ戦士のアターは,アッバース朝カリフ,#マームーン#の時代に廃止された。→ガニーマ,(嶋田襄平) 03200,アッラール・アルファーシー,アッラール・アルファーシー,<印78FE>All<印78E6>l al-F<印78E6>s<印77F5>,1908〜74,モロッコ民族運動の指導者。フェスの生れ。青年時代から民族意識に目覚め,文化運動・政治運動に加わった。1930年の#ベルベル勅令#以後の民族運動高揚期には,33年の国民行動連合,37年のワタン党,43年のイスティクラール(独立)党設立など,常に民族運動の先頭に立って,モロッコの独立(1956)に大きく貢献した。独立後は一時期を除いてイスティクラール党は万年野党の立場に立ち,アッラール・アルファーシーもまた名誉職についただけで晩年は政治的に不遇であった。,(宮治一雄) 03500,アニミズム,アニミズム,,,アニミズムの定義はさまざまであるが,ここでは,「自然の物体に神性を認めそれを崇拝すること」に限定する。
 #ジャーヒリーヤ#のアラブ社会には,#ユダヤ教#とキリスト教の二つの一神教が入っていたが,多神信仰がより普遍的であった。メッカの民は#カーバ#の主である#アッラー#以外に,アッラート,マナート,ウッザーの三女神を熱心に崇拝していた。アッラートはターイフにある立方体の石に宿る神,マナートはメッカとメディナの中間にある谷の黒石に宿る神,ウッザーはメッカに近い谷の3本のアラビアアカシアの木に宿る神であった。アラビアにはこのほかにも多数の神々がいた。またとくに神像をつくって,そこに宿る神を祀る場合も多い。人々は神像のミニアチュールや天然の小石に特定の神の分身を宿らせ,それを携帯したり,カーバに奉納したりした。
 イスラムは,そのような物体にアッラーと同格の神が宿るという思想を徹底して否定した。しかし,そのような物体に超自然的な何かがあるという思想までは払拭できなかった。カーバの聖なる黒石は神体ではなく,また崇拝の対象ではないが,#巡礼#者が必ず接吻するものとして残り,さらに聖なる#霊魂#が宿る物体,魔性の#ジン#が宿る物体などが各地に残った。厳格なイスラム法は,カーバの黒石以外のそのような物体の存在を無視するが,土俗化した民衆イスラムの中には,聖霊・悪霊が宿る物体の概念は根強く残った。→偶像,(後藤明) 04400,アブド・アルカーディル,アブド・アルカーディル,<印78FE>Abd al-Q<印78E6>dir,1808〜83,1830年のアルジェ占領以降フランスが進めたアルジェリア植民地化政策に対して,全国各地で民衆の武力抵抗運動が組織された。アブド・アルカーディルはその代表的指導者であり,現代アルジェリア民族運動の父とみなされている。西アルジェリアのアラブ系豪族の出で,父親は#スーフィー#教団の指導者であったが,32年に選ばれてアミール・アルムーミニーンとなり,侵略者に対する#ジハード#を開始した。37年には西部から中央にかけて全土のほぼ2/3を支配下に収めて,植民地化に対抗するため国家機構と軍制の整備,税制の改革などを試みた。39年以降フランス軍と全面戦闘に入ると,しだいに追いつめられながら,47年に降伏するまで徹底的抗戦を続けた。フランスで5年間虜囚生活を送った後,シリアのダマスクスで晩年を過ごした。,(宮治一雄) 04600,アブド・アルカリーム,アブド・アルカリーム,<印78FE>Abd al-Kar<印77F5>m,1882?〜1963,リーフ戦争の指導者。アブデル・クリムとも呼ばれる。1912年以降モロッコはフランスとスペインの間で分割され,その植民地になったが,リーフ地方にはスペインの支配が完全に及んでいなかった。アブド・アルカリームは,征服戦争を進めるスペイン軍に対する抵抗運動の指導者であり,21年に反攻に転じてリーフ地方の支配権を奪回し,23年リーフ共和国の樹立を宣言,大統領となった。25年にフランス領に戦闘が拡大したことから,両国軍の共同作戦に直面して劣勢に陥り,翌年5月に降伏した。リーフ戦争は第1次世界大戦後に列強がつくり上げた戦後体制への挑戦でもあり,国際連盟やコミンテルンのあり方に問題を投げかけるものであった。アブド・アルカリームは,降伏後レユニオン島に幽閉されたが,47年に脱走してエジプトに亡命し,カイロで北アフリカ解放委員会を設立,マグリブ諸国の民族運動の連携に貢献した。,(宮治一雄) 04800,アブー・バクル,アブー・バクル,Ab<印7CF3> Bakr,ca.573〜634,初代正統カリフ。在位632〜634。#クライシュ族#のタイム家出身。メッカの中流の商人で,おそらく預言者ムハンマドの古くからの友人であった。ムハンマドが初めて神の啓示を受けた直後からの最も古い信徒の一人である。メッカ時代の信徒の中には,彼の影響で信徒となった者が多いと伝えられている。#ヒジュラ#の後では,政治家としても行動したムハンマドのよき補佐役であった。アラブ諸部族の系図に精通していたといわれる。ムハンマド生存中から#巡礼#の指揮をとるなど,しばしばその代行の役を果たし,ムハンマドの死の翌日,イスラム教団国家の初代カリフに選出された。カリフ位に就任直後,軍をアラビア半島内の各地に派遣して,蜂起した反イスラム勢力(#リッダ#)を破り,同時にイラクとシリアの征服事業に着手した。記録にあるかぎりでは,4人の妻との間に3男3女があり,ムハンマドの愛妻#アーイシャ#は次女である。,(後藤明) 04900,アブー・ハニーファ,アブー・ハニーファ,Ab<印7CF3> <印7CE9>an<印77F5>fa,ca.699〜767,イスラム法学者。#スンナ派#四法学派の一つ#ハナフィー派#の祖。祖父はアフガニスタンからクーファに連れてこられた奴隷で,父の代から絹織物商であった。主としてクーファで法学・神学を学び,師のハンマードの没後クーファにおける法学の第一人者と称せられた。#カーディー#の職に就くことなく,多くの弟子を育てた。著書とされているものの多くは,後世の人の作品と考えられる。#シーア派#との関係を疑われてバグダードで獄死した。,(後藤明) 05800,アホン,アホン,<印78E6>kh<印7CF3>n(d), <印78E6>khw<印78E6>nd,,広義にはイスラム法学・神学に通じる人を示すペルシア語。トルコ語諸方言にも借用されている。地域によって具体的には,#マドラサ#の教師,高位の#ウラマー#,宗教儀礼の指導者等を指す。東トルキスタンでは,宗教指導者を指していたが,後には男性に対する一般的な敬称となった。#中国#ムスリムの間では,アホン(阿衡,阿<印055B>,阿洪)は宗務者の位階の一種で,清真寺(#モスク#)の教長になる資格を有するものをいう。,(濱田正美) 06200,アミーン・アルフサイニー,アミーン・アルフサイニー,Am<印77F5>n al-<印7CE9>usayn<印77F5>,1896〜1974,パレスティナ・アラブの政治指導者。エルサレムの名門の生れ。エルサレムのユダヤ教学校,カイロの#アズハル#学院,イスタンブルの法律学校に学び,第1次世界大戦下アラブ反乱に参加した。1920年のエルサレムの大衆デモで逮捕されたが,イギリス当局の介入で許され,21年エルサレムの#ムフティー#となり,22年にはパレスティナの#ワクフ#管理の権限をもつムスリム最高会議議長に就任。29年の歎きの壁事件で激化したユダヤ人移民との紛争で,宗教的対立を扇動し,ユダヤ人入植者の武装活動をも刺激した。30年イスラム世界会議の議長となり,#パン・イスラム主義#の活動にも熱中した。36年反乱では,アラブ高等委員会議長としてパレスティナ・アラブの全国的闘争を指導したが,37年イギリスの圧力でムスリム最高会議から追われ,シリアを経てイラクに亡命。同地でラシード・アリーの率いる反英反乱に協力したが,反乱失敗後,ドイツに亡命,ナチスの宣伝活動に協力した。第2次世界大戦後はパリを経てカイロに戦犯追及の手を逃れ,#ムスリム同胞団#にも接近したが,戦後の#パレスティナ問題#の展開の中では,政治的指導力を完全に失い,ベイルート郊外に隠棲して没した。,(林武) 06700,アラウィー派,アラウィーハ,<印78FE>Alaw<印77F5>,,#シーア派#の一分派。ヌサイリー派とも呼ばれる。現在,この集団はシリア,トルコ南東部および一部レバノンに居住するが,そのうち多数はラタキア背後の山地に集中し,シリア人口の1割強を占める。教義は特定サークルの秘伝とされ,また女性は魂をもたぬ存在とみられた。教義上#イスマーイール派#の影響が顕著だが,シリアの土着的宗教伝統のうえにキリスト教とイスラムを折衷したものともみられる。人類史の七循環期においてそれぞれ奥義を体現するサーミト(沈黙者)をナーティク(語る者,預言者)より上位に置き,その結果,第4代カリフ,#アリー#を神格化し,またアリー,ムハンマド,教友のペルシア人サルマーンの3人――頭文字をとってアイン,ミーム,スィーン――の組合せ(月,太陽,天空に比せられる)を重視する。#オスマン帝国#下で19世紀前半までは一定の自治が認められ,またフランスのシリア委任統治は分割支配政策としてその自治権を強調し操縦した。独立後もシリアの軍人に占める比重は大きく,さらにアサドなど#バース党#の有力指導者もこの派に属するものが多い。,(板垣雄三) 07400,アラブ,アラブ,<印78FE>Arab,,歴史的には,もと#アラビア半島#に住み,のち中東地域に広く進出した人々。アラブ自身の伝承では,アラブは(1)失われたアラブ,(2)真のアラブ,(3)アラブ化した人々(ムスターリバ)に分けられる。(1)は神によって絶滅させられたとコーランに記されるアード族やサムード族等,(2)はカフターンを祖とする南アラブでヤマン族ともいい,(3)はアドナーンを祖とする北アラブでカイス族ともいう。後に整えられたアラブの系譜では,カフターンは《創世記》10章のヨクタンに比定され,アドナーンは#イシュマエル#の子孫とされる。
 有史以来,南北アラブは別々の歴史をたどり,南アラブは紀元前8世紀ころからイエメン,ハドラマウトに一連の古代南アラビア王国を建設した。その文化は高く,後の#アラビア文字#と異なる独特の文字で記した多くの碑文を残す。北アラブの名は前854年の戦争を記録したアッシリアの碑文に見え,ヘレニズム時代にナバタイ,パルミュラ両王国を建設し,中継貿易によって栄えた。4世紀に南アラブの王国は崩壊し,南アラブの一部は遊牧民となって北方へ移住した。狭義の#ジャーヒリーヤ#時代に南アラブは北アラブの文化的影響に属し,南アラブの言語は廃れて北アラブの言語が共通語となり,南アラブの文字は姿を消してナバタイ文字が広く使用され,半島全体で遊牧生活が支配的となった。南北アラブの区別はイスラム時代の初期まで政治的・社会的に重要な意味をもったが,#アッバース朝#が成立するとほとんど無意味となり,その後アラブを区別するうえで意味をもつのは,遊牧民(#ベドウィン#)と定住民との違いだけである。
 コーランにアラブという言葉そのものは見えないが,異人の言葉アジャミーに対して,アラビア語のコーランという表現が数ヵ所にあり,ムハンマドは言語を媒介としながら,一つの民族としてのアラブの観念を表明した最初の人となった。イスラムによって民族的アイデンティティを与えられたアラブは,#カリフ#の指導のもとに大規模な征服を行い,大帝国を建設してその支配者集団となった。同時に多数のアラブ戦士が家族を率いて征服地に移住し,#ウマイヤ朝#の初期,その数は最低に見積もっても130万に達したと推定される。彼らの住みついた軍営都市#ミスル#は,周囲の住民のアラブ化・イスラム化の拠点となった。コーランの言葉であるとともに支配者集団の言葉でもある#アラビア語#は,帝国唯一の公用語・共通語とされ,文学・学問の用語ともなった。征服地の住民はアラビア語を自らの言語とすることによってアラブ化し,それはイスラム教徒としての#ウンマ#への帰属意識によっていっそう促進された。しかし,このような非アラブのアラブ化は,逆にアラブをして彼らの民族意識を希薄にさせる結果となった。かつての支配者集団はイスラム教徒大衆の中に埋没し,中世の長い期間を通じて,アラビア語を母国語とするイスラム教徒は,特定の部族・村落・街区,教団その他の民衆組織への帰属意識を抱くだけで,いかなる民族に属するかということは問題にされる余地がなかった。このようにして,イスラム教徒たることとアラブたることとは,個人および集団の意識において一体化し,シリア,イラク,エジプト,北アフリカのイスラム教徒は,自らの言語を棄てなかった北アフリカ西部の#ベルベル#人を除き,自己をイスラム教徒のアラブと意識し続けた。
 現代におけるアラブ意識は,#ナーシーフ・アルヤージジー#らキリスト教徒の文芸復興運動に始まったが,その後の情勢,中でも#アラブ民族主義#運動の展開は,アラブを一つの民族とみなす方向に進んでいった。現在の中東にはアラビア語を母国語とするキリスト教徒も多く,中にはレバノンのファランジスト(アラビア語ではカターイブ)のように,イスラエルと組んでイスラムに敵対する集団もある。このような状況のもとであえてアラブを定義すれば,現代においては「アラビア語を母国語とし,ムハンマドの宣教に始まるアラブの歴史と文明の所産の中に育まれ,それへの帰属意識をもち続けるもの,それがアラブである」となろうか。
 コーランで遊牧民はアーラーブと呼ばれ,定住民と遊牧民との双方に共通の言語アラビア語がアラビーと呼ばれているにもかかわらず,その後一貫して,歴史史料においても文学作品においても,アラブはアジャム(非アラブ)や#マワーリー#と対照的に用いられる場合を除き,遊牧民の意味に用いられ続けてきた。現在でも口語アラビア語(アーンミーヤ)でアラブといえば,遊牧民を意味する。このことから,アラブの原点は遊牧民であるとか,最も純粋なアラビア語は遊牧民のそれであるとか,さまざまな議論がなされうるであろうが,アラブの定義において遊牧民と定住民とを区別することは無意味である。,(嶋田襄平) 08800,アンサール,アンサール,an<印7CE3><印78E6>r,,「助ける人」を意味するアラビア語で,一般に預言者ムハンマド時代の#メディナ#の住民をいう。622年のムハンマドの移住(#ヒジュラ#)以前,メディナのアラブ人社会は内戦状態にあった。ごく少数の人々がムハンマドの宗教を受け入れ,彼を招くことによって内戦状態を終結しようと行動し,これがしだいに多数の人々の共感を得て,ヒジュラが実現した。当初は,積極的なアンサールは数のうえでは少数派であったが,ヒジュラ後6年の初めごろには,メディナの住民の大多数はアンサールになった。#メッカ#など外部からの移住者(#ムハージルーン#)とともに,ムハンマドの指導する教団国家の構成員であったが,両者の間には微妙な対立があった。ムハンマドの死の直後,アンサールは独自に指導者を擁立しかけたが,結局はムハージルーンの一人である#アブー・バクル#の#カリフ#位を承認した。アンサールの子孫は,氏族名を名のることより,単にアンサーリーと称することが多い。,(後藤明) 10500,イスラム社会主義,イスラムシャカイシュギ,,,イスラム本源主義に立つ現代社会批判の一つであるが,さまざまな現れ方をするので特定しにくい。共通なのは社会的均衡の確立と維持であり,社会正義の基礎をイスラムに求めること,内容的には#ウンマ#論および護教論になるという性格をもつ。イスラム世界が経験した空前の大変化,#カリフ#制の崩壊,軍事的敗北,主権喪失,文化的混乱のさなかで,同信結束がゆるみ相互扶助は社会原理として機能不全に陥っている現代の危機から脱出するための方途として,原始イスラムのウンマに実現されていた社会的公正,共同主義の回復が主張される。そこでは現代資本主義の悪としての階級対立が論断されるけれども,世俗主義の政治思想や唯物史観とは無縁で,無神論や「共産主義」には激しい敵意をもつ。イスラム社会主義論は,この点では限りなく本源主義に近づく。#シャリーア#に基づく社会,道義の復興による福祉国家の完成という構想は,信仰の柱の一つ#ザカート#を基礎に展開される消費の均等化ないし財の再配分のことであって,生産手段の社会的所有を主張するものではない。また,これとは別に近代社会主義思想の影響を蒙ったうえで,イスラムに社会主義の原理想を求める立場も広義のイスラム社会主義の中には認められる。さまざまな原理的・政策的提案があるが,総じていえば,イスラム主義の強さと私有財産制擁護とは比例する。もろもろの「アラブ社会主義」も同根の政策思想で,国民主義の立場から階級間の休戦を訴え,公共部門の拡充を企てている。急進的なイスラム本源主義者が政権にあるところでは,近年になって所有は神のみに許されることで,個人には限定的な用益権しかない,消費もつつましい必要を充たすだけに限られるべし,とする論理が構成されだしてきたので注目される。それがどのような公有論と社会的蓄積を生むのか関心を引くのであるが,具体的な福祉国家建設の実績はどこにもまだ存在しない。,(林武) 11700,イード,イード,<印78FE><印77F5>d,,イスラムの二大祭を指す。トルコ語ではバイラムという。これらのうちイード・アルフィトル(#断食#明けの祭,トルコでは小祭ともいう)は,断食月のラマダーンに続くシャッワール月の1日から3日までイスラム世界全土において盛大に祝われる。イード・アルアドハー(犠牲祭,トルコでは大祭ともいう)は,#巡礼#月のズー・アルヒッジャ月の10日から13日にかけて4日間続く。10日はメッカ巡礼の最後に当たり,巡礼者は動物犠牲を捧げるが,これに合わせてイスラム世界では各家庭でいっせいに犠牲を屠る。祭日期間中人々は晴着を着て外出し,相互に訪問しあったり祝いの言葉を交わして喜びあう。遠方の知人・友人には,この際にお祝いのカードを送るのがならわしである。→マウリド,祭,(飯森嘉助) 11900,イドリース教団,イドリースキョウダン,Idr<印77F5>s,,モロッコ出身で,メッカ,アシール,イエメンで活動したアフマド・ブン・イドリースが19世紀初めに創始した教団(#タリーカ#)。#ハンバル派#の立場に立ち,預言者ムハンマドの教友(#サハーバ#)の代より後に成立した#イジュマー#と#キヤース#とを認めず,コーランと#スンナ#のみに拠るとした点では#ワッハーブ派#に近い。しかし#ジクル#にあたる多数の祈<印4704>文をもち,神との融合に代えて預言者ムハンマドの精神との融合を説いた点では,#イスラム神秘主義#の一潮流である。#サヌーシー教団#の成立に大きな影響を与えた。,(板垣雄三) 12300,イブラヒム・ミュテフェッリカ,イブラヒム・ミュテフェッリカ,<印75F9>brahim M<印7EF3>teferrika,ca.1674〜1745,#オスマン朝#の官人,外交官。トランシルヴァニアのクルジュでキリスト教徒の子として生まれ,聖職者としての教育を受けたが,イスラムに改宗しオスマン朝に仕え,主として外交の分野で活躍した。改宗の事情については諸説がある。彼はオスマン朝への活版印刷術の導入者として知られる。オスマン帝国領内では,1493年以来,非ムスリム臣民は各自の言語により活版印刷所を開設していたが,#アラビア文字#による活版印刷に対しては宗教界の反発も強く印刷所もなかった。彼は開放的な世俗文化が栄えた#チューリップ時代#の雰囲気を背景に,宗教書を除くという条件で勅許を得て,1727年にヨーロッパの技術を導入して活版印刷所をイスタンブルに開き,辞典,文法書,歴史書,地理書,科学技術書等を刊行し,トルコにおける西欧化の一つの原点を築いた。,(鈴木董) 12500,イフワーン,イフワーン,ikhw<印78E6>n,,兄(弟)を意味するアラビア語ukhの複数形。実際に血のつながる兄弟の場合は,複数形ikhwaを用いることが多く,イフワーンは兄弟のような関係にある人々,すなわち同胞,仲間を意味することが多い。コーランでの用法もほぼそのようになっている。預言者ムハンマドは#ヒジュラ#の際,個々の#ムハージルーン#と個々の#アンサール#に兄弟の関係を結ばせ,後者に前者の生活の面倒をみさせた。しかし,しばらくしてこのような擬制の兄弟関係を設定する政策を棄て,ムスリムはみな「信仰上の兄弟」とみなす考えを採った。このようなイフワーンの観念がコーランや#ハディース#で強調され,ムスリム相互の関係の理想となった。
 イスラムの歴史の中で,さまざまな宗教運動がイフワーンを強調した。1912年から始まった#ワッハーブ派#のイフワーン運動もその一つの例である。この運動はイブン・サウードによる遊牧民の定住化政策でもあり,部族の枠を超えて人々が1ヵ所に集まり,互いにイフワーンとして軍事と生産活動で協力しあうことを目的としていた。当初,サウード家に強力な軍事力を提供したこの運動は,しだいに王家との利害の対立が顕著となり,弾圧されて30年には消滅した。また,#ハサン・アルバンナー#の組織したエジプトの#ムスリム同胞団#は近代西欧的な法と政治を否定し,イスラム法による政治を主張して,40年代には政治的大勢力であった。,(後藤明) 12700,イブン・アッズバイル,イブン・アッズバイル,Ibn al-Zubayr,622〜692,メッカの僭称カリフ。父は#サハーバ#のズバイル,母は#アブー・バクル#の長女アスマーで,ヒジュラ後ムハージルーンの間に生まれた最初の男子。#ウマイヤ朝#のヤジード1世による#カリフ#位の世襲を認めず,683年ヤジード1世が没してムアーウィヤ2世がカリフ位を世襲すると,メッカでカリフを宣言し,ウマイヤ朝から独立した。彼はイラクとエジプトでもカリフと認められ,一時はシリアの半分以上を支配したが,統治の実務的能力に欠け,最後は#ハッジャージュ・ブン・ユースフ#の軍隊に包囲され,692年メッカで戦死した。カリフを宣言してから敗死するまでの9年間をイスラム史家は第2次内乱の時代と呼ぶ。,(花田宇秋) 13200,イブン・アルムカッファー,イブン・アルムカッファー,Ibn al-Muqaffa<印78FE>,720〜756,#アッバース朝#カリフ,マンスールの書記(#カーティブ#)。サンスクリットの動物寓話《パンチャタントラ》の中世ペルシア語訳を《カリーラとディムナ》の名で,またササン朝の宮廷文学をアラビア語に翻訳したほか,独創的な倫理・教訓論や政治論を著した。イラン系貴族の血を引きイスラムへの改宗は晩年で,#ザンダカ主義#者の嫌疑を受けて処刑された。新しい概念と語彙とを#アラビア語#に導入し,#アダブ#文学を開いた。,(後藤明) 13300,イブン・アンナディーム,イブン・アンナディーム,Ibn al-Nad<印77F5>m,ca.936〜995(998),ナディームとも呼ばれる。988年に完成された《目録の書》の著者。バグダードで書籍業を営む父の薫陶で幼少時からアラビア語写本に親しむかたわら,イスラム諸学を修めた。《目録の書》は,988年までにアラビア語で著された書物の総合目録を意図したものであるが,イスラム諸学に限らず,#ユダヤ教#,キリスト教から#マニ教#,ヒンドゥー教等にも及び,とくにこれらの部分では文献目録を超え,著者独自の見解が述べられている。,(花田宇秋) 13400,イブン・イスハーク,イブン・イスハーク,Ibn Is<印7EE5><印78E6>q,ca.704〜ca.767,まとまったムハンマド伝として最も古い《預言者の伝記》の著者。もと《マガージーの書》と呼ばれた3部作であったが,古く散逸し,#イブン・ヒシャーム#の編集した《預言者の伝記》として今日に伝えられる。戦争捕虜としてメディナに来て解放された祖父も父も当時の著名な学者。父やズフリーなどからメディナで学んだが,メディナ学界の長老にうとまれ,各地を歴訪し,建設直後のバグダードで没した。,(後藤明) 14000,イブン・トゥーマルト,イブン・トゥーマルト,Ibn T<印7CF3>mart,ca.1091〜1130,モロッコの宗教運動の指導者。アンティ・アトラス山中の#ベルベル#の一派,マスムーダ族の出身。1106年に故郷を出発,コルドバから東へマシュリクに向かい,#アシュアリー派#神学や#イスラム神秘主義#思想,#ガザーリー#の学問などを学んだ。宗教と道徳の改革の情熱に充たされつつマグリブに戻ってからは,#タウヒード#の教義を説く宗教運動を起こし,21年には自ら#マフディー#と称して,ベルベル人への布教と#ムラービト朝#の打倒とに力を注いだ。彼の死後,後継者アブド・アルムーミンが彼の教えをもとに#ムワッヒド朝#を建てた。,(私市正年) 14100,イブン・ハズム,イブン・ハズム,Ibn <印7CE9>azm,994〜1064,イスラム・スペイン時代の代表的神学者,法学者,哲学者,歴史家,詩人。コルドバの名家に生まれ,諸学を修めた。若くして内戦に巻き込まれ,各地を流浪しながらきわめて広範な著作活動を行った。代表作《諸宗派についての書》は,#ユダヤ教#,キリスト教,イスラムについての一種の百科事典であるが,イスラムの諸学派に対しては#ザーヒル派#の立場から批判を加えている。また文学作品《鳩の頸飾り》は,イスラムの恋愛論の白眉である。,(花田宇秋) 14500,イブン・ハンバル,イブン・ハンバル,Ibn <印7CE9>anbal,780〜855,イスラムの法学者。#スンナ派#四法学派の一つ#ハンバル派#の祖。神学者,#ハディース#学者としても有名。#アッバース朝#創成時の軍隊の主力であったホラーサーン軍団の家に,バグダードで生まれる。そこで学び,イスラム世界を広く遊学し,ハディース学者として著名となった後,#ムータジラ派#の教義を承認せず厳しい迫害を受けた。彼の迫害に対する抵抗がムータジラ派の崩壊を導いた。主著はハディース集《ムスナド》。,(後藤明) 14800,イブン・マージド,イブン・マージド,Ibn M<印78E6>jid,,生没年不明。15世紀半ば,#インド洋#航海の水先案内人として活躍した。彼の父と叔父もまた有名な水先案内人であった。航路・方位指針・天文・測地法などに関する22種類の著書が知られている。これらの著書は,いわばインド洋を舞台として数千年にわたって活躍してきたアラブ・ペルシア系航海民のもつ航海知識を精練し集大成したものであって,その高度な航海技術と精緻で詳細な地理的知識には驚くべきものがある。彼は1498年,バスコ・ダ・ガマの率いるポルトガル艦隊を東アフリカのマリンディからインドのカリカットまで案内したといわれるが,その事実は不明である。,(家島彦一) 16800,ウクバ・ブン・ナーフィー,ウクバ・ブン・ナーフィー,<印78FE>Uqba b. N<印78E6>fi<印78FE>,?〜683,#ウマイヤ朝#の北アフリカ総督。エジプトの征服者アムル・ブン・アルアースの甥。663〜670年にかけてリビアからチュニジアの征服を完了。670年チュニジアに軍営都市#カイラワーン#を建設し,以後の北アフリカ征服の拠点とした。680年一軍を率いてマグリブに長征し,モロッコのアガディルの北で大西洋に達した。帰途ベルベル人との戦闘でビスクラ付近で戦死した。,(花田宇秋) 17200,ウスマーン,ウスマーン,<印78FE>Uthm<印78E6>n b. <印78FE>Aff<印78E6>n,?〜656,第3代正統カリフ。在位644〜656。預言者ムハンマドよりは少し若い,古くからの信徒。#クライシュ族#のウマイヤ家出身。第2代カリフの#ウマル1世#の遺言でできた6人の長老会議の互選により,カリフ位についた。その治世の前半は順調であったが,後半は一族・縁者に偏る人事に,征服地に駐屯していた戦士の不満が強くなり,ついには不満分子の過激派の手で殺害された。,(後藤明) 17800,ウマイヤ朝,ウマイヤチョウ,Umayya,661〜750,ウマイヤ家の#ムアーウィヤ1世#が#ダマスクス#を首都として建設したイスラム王朝。14代の#カリフ#のすべてがウマイヤ家出身者(最初の3代はスフヤーン家,以後の11代はマルワーン家)であったのでこの名がある。同朝はアラブの征服によって成立し,その政策はイスラム社会の国家的統一の護持とイスラムの政治的領域の拡大を目標とし,結果としてアラブの異民族支配と,彼らの排他的特権が許容されていた。これらによってウマイヤ朝は「アラブ帝国」と呼ぶにふさわしい。この点で後代の#アッバース朝#とは本質的に異なる。また前代の#正統カリフ時代#の国家との相違点は,カリフ位がウマイヤ家によって独占されたこと,相対的に強化された政治権力がイスラムの理念と抵触した事実がしばしばあったことである。このことから,とくに#シーア派#がそうであるが,後世のムスリムやムスリム法学者・政治思想家の中には,同朝は真のイスラム国家から逸脱した世俗・王朝国家(ムルク)と呼ぶ者が多い。
 ムアーウィヤ1世は,20年間のカリフ在位中,第3代カリフ,ウスマーンの暗殺から第4代カリフ,アリーの暗殺にいたる第1次内乱(656〜661)によって分裂した国内の統一に努めた。その没後,#フサイン#の#カルバラー#での戦死を経て,683年にはメッカの#イブン・アッズバイル#がカリフと称し,685年クーファでは#ムフタールの乱#があり,同朝は存亡の危機に陥った。これを第2次内乱(683〜692)というが,第5代カリフのアブド・アルマリク(在位685〜705)は,これらを平定して帝国を再建した。次のワリード1世(在位705〜715)の時,征服が再開されて同朝は最盛期を迎えた。以後,国家の創建以来続いていた政府とアラブ部族民の対立,アラブ諸部族間の反目,シーア派や#ハワーリジュ派#の反政府活動,非アラブ・ムスリムの#マワーリー#の不満,ウマイヤ家一族内の対立などが相関しあい,帝国の支配体制は弛緩した。ヒシャーム(在位724〜743)の国家再建策も効を奏せず,同朝は崩壊への道を進んだ。747年アッバース家の宣伝者(#ダーイー#)#アブー・ムスリム#は,ホラーサーンのメルブで挙兵し,次いで749年,#サッファーフ#はクーファでカリフを宣した。750年マルワーン2世が逃亡先の上エジプトで殺され,ウマイヤ朝は滅んだ。一族のアブド・アッラフマーン1世は,イベリア半島に渡り,756年コルドバで同朝を再興した(#後ウマイヤ朝#)。
 ムハンマドを頂点とする部族連合的国家が空間的に拡大し,カリフを頂点とする地域連合体に転化したのがウマイヤ朝国家である。従来の国家構造の遺産,支配者アラブの反権威・反政府的傾向,広大な支配領域(住民も多種多様で,政治的・文化的統一がなされていなかった),などがウマイヤ朝を地方分権的国家にした。総督(#アミール#)のカリフによる任免も地方的事情によって制約され,遠征軍の司令官(アミール),徴税官(#アーミル#),警察(#シュルタ#)の長官,裁判官(#カーディー#)の任免も原則として総督に委任されていた。この総督のもと,アラブ・ムスリムは,ムカーティラ(戦士)として軍営都市(#ミスル#)に部族(氏族)集団ごとに常駐し,#ディーワーン#に登録されて俸給(#アター#)と現物給与(#リズク#)を受けていた。第2次内乱後アブド・アルマリクは,バリード(駅逓制)の拡充,行政用語のアラビア語による統一,アラブ式貨幣の鋳造を行い,帝国の中央集権化を図った。かつてのアラブの伝統的部族会議である#シューラー#(部族の長老会議)やウフード(地方代表者会議)も有名無実となり,カリフの自由意志によって総督の任免がなされるようになった。その反面,政府とアラブ・ムカーティラとの利害の対立が増大し,イブン・アルアシュアスの乱(700)が起こった。イラク総督#ハッジャージュ・ブン・ユースフ#は,イラクのムカーティラ統御のため軍営都市ワーシトを建設し,ここにシリアのアラブ・ムカーティラを常駐させた。このようにして,しだいにアラブ・ムスリム間の階層分化が進み,ディーワーンから除外され,土着化して農民に転落する者も増加した。一方,非アラブ被支配者は,商工業に従事する者以外はほとんど農民で,#ジズヤ#または#ハラージュ#と呼ばれた租税を村落共同体ごとに一括納入する代りに,自治機構の存続と信教の自由を許されていた。彼らは改宗してマワーリーとなり,租税負担を逃れようとしたが,被征服民を#奴隷#とみなしていたアラブは,彼らを同等に扱おうとしなかった。#ウマル2世#の両者の租税負担における平等化政策も失敗し,マワーリーの不満はいよいよ大きく,政治・社会問題となった。
 対外遠征が継続された結果,ウマイヤ朝は,西はイベリア半島から東は中央アジア,西北インドまで,単独政権としてはイスラム史上最大の地域を領した。その内的要因は,ムスリムによる宣教の意志のほかに,政府の意図的政策を見逃してはならない。政府は叛服常なきアラブ・ムカーティラ(大部分は遊牧民出身)の遠心的エネルギーを外に向けようとした。東方では706年,#クタイバ・ブン・ムスリム#が中央アジアを征服してフェルガーナに達した。また#ムハンマド・ブン・アルカーシム#は西北インド(シンド)を征略した(712〜713)。北アフリカ征服は,670年#ウクバ・ブン・ナーフィー#のカイラワーン建設により本格化し,711年#ターリク・ブン・ジヤード#が,712年ムーサーがイベリア半島に上陸し,その大部分を制圧した。のち,イスラム軍は732年#トゥール・ポワティエの戦#でフランク軍にその北進を阻止されたが,その後も734年にはローヌ渓谷に,743年にはリヨンに達した。他方,ビザンティン領の小アジア,東地中海島嶼へも定期的遠征が行われ,とくに677〜679,717,718年の3回,首都コンスタンティノープルの包囲攻撃が行われた。
 この時代はイスラム文化の揺籃期で,イスラムの諸学問もこの時代に生まれた。首都がダマスクスであったので,ビザンティン文化の影響を多く受けたが,各地の先進文化が受容され,それらがイスラム的に再生された。それを象徴する遺跡として,#岩のドーム#,#ウマイヤ・モスク#,ムシャッターの城などがある。詩作も盛んで,代表的詩人としては,アフタル,ファラズダク,ジャリールがいた。→後ウマイヤ朝,(花田宇秋) 18100,ウマル〔2世〕,ウマル,<印78FE>Umar b. <印78FE>Abd al-<印78FE>Az<印77F5>z,682〜720,#ウマイヤ朝#第8代カリフ。在位718〜720。敬虔なイスラム教徒で,イスラムの理念を現実の政治に反映させようとした最初の#カリフ#。そのため彼は征服地の住民のイスラムへの改宗を奨励し,一連の税制改革を行った。改革は失敗に終わったが,それはアラブ・ムスリムとの平等を求める#マワーリー#の要望に答えるもので,時代の潮流であり,#アッバース朝#の成立によって彼の理想は実現した。,(花田宇秋) 18600,エヴリヤ・チェレビー,エヴリヤ・チェレビー,Evliya <印74FA>elebi,1611〜84,#オスマン帝国#時代の旅行家。エヴリヤ・チェレビーはあだ名,本名はメフメト・ジッリー。宮廷宝石細工師長の子としてイスタンブルに生まれ,小姓として宮廷に仕え,のち騎兵となった。旅行を愛し,多年にわたり広く旅行し,その見聞をまとめて旅行記を著した。《エヴリヤ・チェレビー旅行記》の名で知られる彼の旅行記の中には,イスタンブルをはじめとするオスマン帝国領内にとどまらず,中部ヨーロッパにまでいたる周辺諸地方に関する記述も含まれ,大部の旅行記に乏しいオスマン朝の紀行文学の中で異色の大作となっている。記述には時に不正確な点や誇張等が含まれ,史料として用いるに際しては扱いに注意を要するが,17世紀中ごろにおけるオスマン帝国およびその周辺諸地域の地理・社会・産業・風俗等についての貴重な情報源となっている。オスマン語原本は,10巻本として刊行されている。,(鈴木董) 18800,エチオピア教会,エチオピアキョウカイ,Ethiopia,,エチオピアのキリスト教化の開始は4世紀とされる。アレクサンドリア主教の管轄というたてまえにより,エジプトの修道士が同教会の首長(アブーナー)となる慣行が生じた。5世紀以降,同教会は#モノフィジート#の一派となり,これと並行して聖書のゲーズ語訳がなされ,ゲーズ語が礼拝用語として定着した。6世紀にエチオピア王国はヒムヤル王国を滅ぼしてイエメンを支配し,その結果「象の年」の事件,すなわち,アブラハの率いるエチオピア軍のメッカ攻撃(コーラン105章)が起きたこと,またメッカで迫害を受けたイスラムの信者の一部が#ヒジュラ#に先立ってまずエチオピアに避難したことなどが示すように,同教会の存在はイスラム成立を取り巻く国際環境において重要な一要素であった。ソマリアおよびヌビアのイスラム化の進行に伴い,エチオピア山地に拠る同教会は,国家のイデオロギー的支柱となった幾つかの有力修道院を中心に,イスラム勢力の浸透に対して抗争を繰り返した。12世紀以降ローマ・カトリック教会からの働きかけがなされ,それは17世紀にことに活発に行われたが,結局,同教会はモノフィジートの立場にとどまった。,(板垣雄三) 19200,エンヴェル・パシャ,エンヴェル・パシャ,Enver Pa<印7DE3>a,1881〜1922,#オスマン帝国#末期の軍人,政治家。イスタンブルに生まれる。陸軍士官学校・陸軍大学卒。1903年マケドニアの第3軍配属,対ゲリラ作戦に従事し,統一と進歩委員会に加入した。08年蜂起してマケドニア山岳地帯に潜入し,#青年トルコ#革命を指導,憲法復活後イスタンブルに入ったが,要職に就けずベルリン駐在武官となった。09年イスタンブルの反乱が起こるや,帰国し鎮圧軍参謀長となり,11年リビア戦争,12〜13年バルカン戦争に従軍し,その戦功により国民的英雄となった。14年2階級特進し少将(#パシャ#)となり,陸軍大臣・総参謀長に就任,タラート・パシャ,ジェマル・パシャとともに三頭政治を行った。親ドイツ的立場からオスマン帝国を第1次世界大戦参戦に導いたが,18年敗戦によりベルリンに亡命し,さらにソ連に亡命してモスクワからトルキスタンに移った。トルキスタンにおいてソ連政府と対立し,トルコ民族独立運動に参加,ブハーラーを中心に活躍したが,ブハーラー東方の戦闘で敗北,戦死した。,(設楽国広) 19800,カイラワーン,カイラワーン,Qayraw<印78E6>n,,チュニジア中部の都市。アラブの軍人#ウクバ・ブン・ナーフィー#が670年に築いた軍営都市(#ミスル#)が起源で,マグリブ最古のイスラム都市。ベルベル人の指導者クサイラによる占領(7世紀末)や,#ハワーリジュ派#による占領(8世紀中ごろ)など,政治的に不安定な状態が続いた。9世紀に#アグラブ朝#の都になるとともに繁栄し始め,アンダルスやイラクなど東西の各地から集まった学者たちが活発な神学論争を繰り広げた。11世紀中ごろ,#ファーティマ朝#が送り込んだアラブ遊牧民ヒラール族により破壊され,衰退した。,(私市正年) 20000,カウム,カウム,qawm,,部族,民族を意味するアラビア語で,人々の集団を指す言葉としてはコーランの中でもしばしば登場する。近代の#アラブ民族主義#の成立と展開を通じて,言語や文化,また文化伝統を支える宗教的基盤などの上に成立する「民族」としての意味が強調されるようになった。この場合,ドイツ語のVolkに近い内容をもつと理解してもよい。アラブの結びつきをカウムのそれとして把握し,その統一の実現を求めるようなカウミーヤ(民族主義)に対して,民族の地縁的・歴史的形成体としての意味を重視するワタニーヤ(民族主義,愛国主義。ワタンは祖国,郷土の意)がしばしば対立的な思想となる。エジプト民族主義やパレスティナ民族主義はワタニーヤといえよう。これにイスラムの普遍主義(人類的立場)を加えて,アイデンティティ複合の幅広い可能性の中で,カウム概念の振幅を測るべきである。,(板垣雄三) 20700,カーシャーニー,カーシャーニー,K<印78E6>sh<印78E6>n<印77F5>,ca.1885〜1962,イランの宗教家。イラクの#シーア派#の聖地で研鑽を積み,#アーヤトッラー#の称号をもつ。第1次世界大戦時にイラクにおける#反英ジハード#を体験し,以後反英・民族主義を掲げ政治活動を展開した。バーザールおよび下層中間層を組織化して「イスラム同志会」を結成し,イラン国王暗殺未遂事件の容疑で国外に追放された。1950年帰国,国会議員となり国民戦線(N.F.)と共闘,#モサッデク#の石油国有化案を支持した。53年国会議長,モサッデクとの対立が表面化し下野,反革命への道を開いた。,(山田稔) 22000,ガニーマ,ガニーマ,ghan<印77F5>ma,,イスラム法で,戦利品,とくに動産の戦利品を意味するアラビア語。#バドルの戦#の直後の啓示(コーラン8章41節)は,「戦利品として取ったもののフムス(1/5)はアッラー,使徒,近親者,孤児,貧者および旅人に属する」として,戦利品の1/5をムハンマドに差し出し,残りの4/5を戦士間で分配することを定めた。これがイスラムのフムス制度の始まりで,のちフムスを取る権利は#カリフ#によって継承された。コーランでは動詞ガニマが1回,名詞マグナムの複数形マガーニムが4回使われただけで,ガニーマという語は見えない。しかしイスラム法では,ガニーマと#ファイ#とが戦利品を意味する用語とされ,ファイ理論との関連において,最終的にガニーマは,その4/5が戦士たちによって分配され,1/5であるフムスは政府によって徴収される動産の戦利品(家財道具,武器,軍馬を含む)を意味するにいたった。→アター,リズク,(嶋田襄平) 22100,カーヌーン,カーヌーン,k<印78E6>n<印7CF3>n,,ギリシア語に由来するアラビア語で,後にペルシア語,トルコ語にも採り入れられた。古くは租税用語として用いられたが,後にイスラムの宗教法としての#シャリーア#に対し,世俗法を意味するようになった。イスラムにおいては,全社会生活は,シャリーアにより規律されるたてまえであるが,現実にはシャリーアにより覆いきれない部分が生じ,主として政治・行政上の世俗法としてのカーヌーンが成立していった。カーヌーンは,理論上はシャリーアを補完するにすぎぬものとされた。しかし,実際上は支配者の権威に基づく世俗法としてのカーヌーンは,シャリーアとは独立の法体系と化し,両者の間の対立もみられるようになった。カーヌーンは#オスマン帝国#時代に,#スルタン#の権力の増大とともに著しい発達を遂げ,世俗法としてのカーヌーンの役割が増大し,法令集成としてのカーヌーン・ナーメが多数成立した。,(鈴木董) 22200,カーバ,カーバ,Ka<印78FE>ba,,#メッカ#にあるイスラムの最も神聖なる神殿。カーバとは立方体を意味する。「神の館」ともいう。ムスリムは日に5回の#礼拝#を全世界からカーバに向かって行い,#巡礼#(ハッジュとウムラ)をカーバ目指して行う。コーランではカーバの建設者は#アブラハム#とその子#イシュマエル#とされている。伝承によれば,ムハンマドの青年時代のカーバは,高さは人の背丈ほどで屋根もなかったが,火事で焼け落ちたので,ほぼ現在の形に建て直されたという。その後#イブン・アッズバイル#はカーバを拡張したが,その死後もとの形に戻され,1630年の改修を経て今日に及んでいる。
 現在,カーバは聖モスクの中庭の中央に位置する。それは,大理石の基盤の上にある長さ約12m,奥行約10m,高さ約15mの石造りの建物で,その四隅はほぼ東西南北を指している。平屋根は北西に向かってゆるい勾配があり,雨どいに続く。北東に向かう面が正面で,その左端,建物の東に向かう角の地上約1.5mの所に,巡礼者が接吻する聖なる黒石がはめこまれている。正面の地上約2mの高さに入口があり,必要な時に,いつもは外されている階段をかけて内に入る。内部は大理石の敷石の床となり,3本の木の柱があって屋根を支えている。建物の外側面は1枚の絹布(#キスワ#)で覆われ,巡礼の期間だけ下部が巻き上げられる。入口の手前に「アブラハムの立ち所」があり,さらにその手前に「シャイバ家の門」と「#ザムザム#の泉」がある。,(後藤明) 22400,カーフィル,カーフィル,k<印78E6>fir,,無信仰者を意味するアラビア語。元来は「抹殺した者」という意味であるが,イスラムの思想では「神の恩寵を抹殺した者」すなわち,それを感謝しない者の意に使われ,さらに神を信仰しない者一般を意味する言葉となった。コーランでもしばしばこの言葉は用いられ,109章では複数形カーフィルーンが章題になっている。コーランでカーフィルは,信徒が近づいてはいけない者で,神が罰して地獄に落とす者とされる。#ハワーリジュ派#が罪の問題を提起して以来,どのような罪を犯せばカーフィルであるかが議論された。シルク(多神崇拝)の罪を犯した者がカーフィルであることについては,意見の違いはない。#ハッド#の罪を犯した者については,#アズラク派#はカーフィルとしたが,#イバード派#は所定の罰を受けて後悔すればカーフィルとされないとした。後世の#イスラム法学#でも,カーフィルの定義についてさまざまな議論がなされた。,(後藤明) 22600,カラギョズ,カラギョズ,karag<印7CF4>z,,トルコの影絵人形劇。トルコ民衆芸能の代表的一部門。原義はトルコ語で「黒い目」を意味し,劇中の主人公の名,転じて影絵人形劇全体の呼称となる。その起源はアジアにあるといわれるが,具体的起源や伝来の経路については諸説があり不詳である。しかし,少なくとも16世紀にはトルコに入り,17世紀にはほぼ現在の形をとった。上演は,皮革を油で透明にして彩色した人形を白い布幕の後ろで操り,さらにその後方の光源により影を幕に投影する形で行われる。主として#断食#月の夜や#割礼#の祝宴の余興として,また都市の#コーヒー店#での娯楽として演じられた。内容は,無学でがさつだが庶民的機智に富むカラギョズと,インテリ的で気取ったハジワトの掛合いを中心とし,これにオスマン社会の諸社会層,諸民族を戯画化したさまざまの登場人物が絡む形をとる。題材としては,古い民話に基づくものから,その時々の世相に取材したものまでさまざまのものがある。,(鈴木董) 23700,カルマト派,カルマトハ,Qarma<印73F3>,,#イスマーイール派#の一分派。899年ごろ,イスマーイール派の主流は,後の#ファーティマ朝#カリフの家系を#イマーム#と認めたが,サワードの同派の責任者であった#ハムダーン・カルマト#はそれを認めず反抗した。この時の彼の行動を支持した人々がカルマト派と呼ばれる。また,バフライン,イエメン,レイなどの同派の組織もファーティマ朝カリフの家系をイマームとは認めず,同様にカルマト派と呼ばれた。サワードの教団はシリアに進出して10世紀の初めに大いに活躍したが,#アッバース朝#軍隊の討伐を受け,907年にはサワード,次いでシリアのカルマト派の勢力も衰えた。政治的に最も活発であったのはバフラインの教団で,ムーミニーヤという首都を築いて独立勢力となり,サワードにもしばしば武力侵攻し,また930年にはメッカを襲撃して#カーバ#の黒石をバフラインに持ち帰った。バフラインの教団は,11世紀の終りごろまで独立を保っていたが,イスラム世界の他の地域に影響を及ぼすことなく,やがて消滅した。,(後藤明) 23800,カワーキビー,カワーキビー,al-Kaw<印78E6>kib<印77F5>,1849〜1902,シリアの#アラブ民族主義#思想家。アレッポの名門の出身で,#ムハンマド・アブドゥフ#の弟子。#オスマン帝国#政府の官吏を経て文筆活動に入る。#アブデュルハミト2世#の専制を厳しく批判するジャーナリズム活動のため拘禁されたが,結局1898年シリアを追放されてカイロに移住,イスラム改革の論陣を張る《マナール》誌の寄稿家となり,さらにイエメン,ザンジバル等をも広く旅行した。イスラムにおけるアラブと非アラブの区別を強調し,キリスト教徒,ユダヤ教徒も含めてアラブの団結と急進的な改革とを主張した。著作に《専制の性質》《メッカ》などがある。,(林武) 24000,宦官,カンガン,,,宮廷などの去勢された使用人のことで,イスラム世界では19世紀までかなり重要な役割を果たしてきた。アラビア語ではハシー(去勢された人)のほか使用人を意味するハーディムなどいろいろの言葉で宦官を意味させているし,ペルシア語にもフワージャ(中国では火者)その他,トルコ語にもタプグチその他いろいろの名称がある。イスラム法に去勢禁止の明文はないが,#イジュマー#(合意)で人間の去勢は禁じられてきた。しかしイスラム以前からアラビアで宦官が使われていたらしい。イスラム時代に入っても,他の世界から輸入された者が主で,去勢手術にもユダヤ教徒やキリスト教徒が当たった。白人宦官と黒人宦官との2種があったが,#アッバース朝#第6代カリフ,アミーンの時代から宮廷宦官が増加し,10世紀前半ころは一万数千人もがカリフ宮廷におり,その他,貴族・富豪なども多くの宦官を使用した。1857年#オスマン帝国#政府は#奴隷#を禁止し,宦官もしだいに姿を消した。,(前嶋信次) 24500,キヤイ,キヤイ,kiyai,,東南アジアでメッカに#巡礼#し,そこで真のイスラムに触れて帰ってきた人に付される称号で,ジャワ語の聖人を意味する。イスラムの指導者,イスラム学者,ポンドック(#プサントレン#)の教師などに付され,アラビア語の#ウラマー#とほぼ同じような意味をもつ。とくにインドネシアにおいては,19世紀メッカから帰った多くのキヤイが青少年のための学校を開き,イスラムの復興に努めるとともに,共同体の指導者としての役割を担った。,(中原道子) 24700,キャーティプ・チェレビー,キャーティプ・チェレビー,K<印78E6>tip <印74FA>elebi,1609〜57,#オスマン朝#の文人。キャーティプ・チェレビーは職業に基づくあだ名で,本名はムスタファ・ブン・アブドゥッラー。欧米ではハッジ・ハリーファとして知られる。官人の子としてイスタンブルに生まれ,自身も実務官人として各地を転任し諸職を歴任した後,イスタンブルで没した。本務のかたわらイスラム教学と世俗的諸学問の両方面について研究を続け,書誌学,歴史学,地理学,イスラム神学その他広い分野にまたがって多くの著作を残し,オスマン朝最大の百科全書的博学者として知られる。とりわけ,書誌学における彼の著作《諸書名と諸学問についての疑問の探求》は,イスラム世界の著作類に関する包括的書誌として不朽の価値を有する。地理学における未完の世界地理書《世界の鏡》は,西欧側の地理書も利用して書かれたオスマン朝地理学史上最大の作品である。歴史学においても,イスラム通史としてアラビア語の《要約》およびトルコ語の《歴史の暦》,1591年から1654年までのオスマン朝史であるトルコ語の《要約》等も,トルコ史学史上,重要な著作である。彼は現実政治にも関心を有し,政治改革論として《混乱の改革における行動の原則》を著したが,この著作はその後のオスマン朝の政治家・政論家に大きな影響を与えた。,(鈴木董) 25000,宮廷,キュウテイ,,,中東イスラム世界における宮廷は,単に君主の生活の場であるにとどまらず,文化的にも政治的にも重要な意味をもっていた。イスラム世界における宮廷制度は,#アッバース朝#期に#カリフ#がしだいに神権的専制君主化していく過程の中で発展を遂げていったといわれる。その後,イスラム諸王朝にも引き継がれ,#オスマン帝国#において,最も完成した形をとった。宮廷は文化的にも重要な意味を有し,一方では宮廷儀礼が発達し作法の発展の場となるとともに,他方では文人・学者に活動の場を提供し,また建築家や工芸家の活動を支える一つの核ともなり,学問と芸術の発展に資するところが大であった。しかし,より重要なのは,宮廷のもっていた政治的役割であった。中東イスラム世界における国家の権力構造の家産制的特質に照応し,君主の家政は,国政と密接不可分に結びつき,宮廷は権力構造の中で最も重要な一画をなしていた。とりわけ特徴的であるのは,君主の家政の場としての宮廷に属する#奴隷#(#マムルーク#,グラーム)出身者の軍事的・政治的使用である。宮廷出身の奴隷の軍事的・政治的使用は,広く中東イスラム世界に見いだされるが,#セルジューク朝#,#ルーム・セルジューク朝#を経て,オスマン朝に受け継がれ,オスマン朝において,その最も制度的に完成した形態をとるにいたった。
 オスマン朝の宮廷制度は,15世紀以降に本格的に発展した。とりわけ15世紀後半,#メフメト2世#によるコンスタンティノープル征服の後,新都イスタンブルに,従来の首都ブルサとエディルネにおける宮殿に加えて,「旧宮殿」,「新宮殿」(別名トプカプ宮殿)が新たに造営され,制度的にも著しい発展を遂げた。オスマン朝では,宮廷はペルシア語からの借用語で「サライ」と呼ばれ,君主の公務の場としての外廷と,君主の私的生活の場としての内廷と,宮廷の女性の生活の場としての#ハレム#(後宮)とに分かれていた。このうち内廷には,多数の小姓(イチ・オーラン)が勤務し,小姓は,少なくとも16世紀末ごろまでは,大多数が戦争捕虜および帝国領内のキリスト教徒臣民の子弟から#デヴシルメ#により徴収された少年からなり,奴隷身分に属するグラームであった。内廷は君主の生活の場であると同時に,大多数がグラームからなる小姓の教育訓練機関としての性格ももっていた。小姓は内廷での教育訓練の後に,帝国の支配組織の諸部門に転出し,その重要な担い手となった。オスマン朝における宮廷は,制度的に最も完成した形態をとったが,同時に,その政治的重要性も最も強いものとなった。オスマン朝の権力構造の中で,中枢としての位置を占める大宰相職(#サドラザム#)就任者のうち,西欧化開始以前の大宰相のほぼ半数が宮廷出身者であったことは,その政治的役割を如実に示している。,(鈴木董) 25100,教育,キョウイク,,,イスラム社会には厳密な意味で階級としての聖職者はいないが,イスラム諸学を修めた者は,その多寡に応じて社会的に名誉ある地位を約束された。すなわち上は為政者に対して意見や忠告を具申できる大臣や#ムフティー#や#ウラマー#から,下は村の#モスク#の#イマーム#やハティーブ(説教師)にいたるまでの地位が約束された。
 伝統的なイスラム社会にあって,これらの聖職者層は人々から尊敬され,事実上庶民の精神生活を支配していたといえる。以上がイスラム教育振興のための刺激になっていたことは確かで,両親が子供の教育に寄せる期待もここにあった。
 一般に両親は子供が宗教心の厚い人間に育つことを希望しており,子供は7歳前後までに#礼拝#や#断食#の修行を始めるように教育される。#食事#のマナーから遊びにいたるまで,コーランや#ハディース#によって規定されているが,これによって子供たちは厳しくしつけられる。とくに家父長権の強いイスラム社会にあって,父親の宗教心が厚い場合その影響力は絶大である。
 近代の教育制度が整う以前の子供たちは,このような両親の期待を担ってみな#クッターブ#と称する寺子屋式コーラン塾に通った。ここでの学習は簡単な「読み・書き・そろばん」のほかにコーランの暗誦がすべてであった。クッターブには決まった年限がなく,早い者は5歳くらいから通い始め,12歳前後で塾を終える。とくに優秀な生徒は,地方の中心都市に所在する#マドラサ#またはマーハド(中・高等教育に相当)に進む。エジプトの場合,19歳までクッターブに籍を置き,その間にコーランを暗誦して読誦の流儀をマスターすることによって,兵役免除の特権を取得しようとした者がかなりあった。マドラサでは生徒たちは先生を囲んで車座になって宗教諸学やアラビア語諸学の基礎を学ぶが,その間に文学や詩,預言者伝やイスラム史,地理,作文,書道,修辞学や論理学などの基礎も併せて習得した。
 大学に相当する教育機関は,時代によって異なる。クッターブの教育を「手習い教育」,モスクの教育を「車座教育」とすれば,イスラム初期のそれは「サロン的教育」に相当し,本屋や紙屋の店頭とか,ウラマーの自宅などで行われた。しかし,その後イスラム諸学の体系化が進むと,#ニザーミーヤ学院#や#アズハル#などの本格的なイスラム諸学の高等教育機関が現れた。アズハルの場合は,それ自体が初等教育から大学教育までの一貫した教育機関を傘下に有しているが,1896年の時点では次のように規定されていた。クッターブの教育を終えた(15歳くらい)後に8年間アズハルに過ごし,少なくとも八つの学問をよく学び,アズハル総長を委員長とする3人のウラマーが行う試験にパスした者は,モスクのイマームや説教師,その他それに相当する官職を得る資格を有する。またアズハルに12年以上在籍し,八つ以上の学問に精通した者は,総長を委員長とする6人のウラマーによる試験を経て,教授資格,その他それに相当する官職を与えられると規定されている。また当時教授資格はさらに3級に分けられ,1級か2級に合格した者で#ハナフィー派#に所属している者は,裁判官(#カーディー#)かムフティーの地位が約束されていた。
 一般にイスラム教育の中心はコーランの研究であって,それを解釈する一手段として,アラビア語諸学(文法学・言語学・修辞学・詩論・音韻学など)が重視された。またコーランの諸規定や意図するところを#シャリーア#として体系化しようとしたものが#イスラム法学#であり,コーランの具体的諸規定を補うものとしてハディース学が重視された。次いでコーランも含めてハディース学の一部から歴史学が発達したが,地理学も文学もまた広い意味でコーラン解釈の必要を契機として発達したものと考えられている。
 伝統的なイスラム教育の特徴として,神の学問はそれを志す者には,だれにでも,いつでも開放されるべきことという原則によって,年齢制限や年限や期間が不明瞭であること,また時間割もクラス制も固定したものがなく,クッターブなどを除いて出欠席はまったく本人の自由であったこと,またとくに初等教育の段階では,コーランや諸学の原本の暗記中心教育であったことがあげられる。しかし近代になると,これらの特徴は生徒の発達過程を無視した教育として逆に批判の対象となった。いずれにせよこの教育は,かつてイベリア半島からインド亜大陸や中央アジアにまたがる広大なイスラム世界内のほぼ共通のシステムであったので,この間に学問の交流が広範囲にわたって行われたこともまた著しい特徴であろう。加えてどの学校で学んだかということより,だれについて学んだかが大変重視され,その免許(イジャーザ)が大きな意味をもった。そのため,当時は師を求めて千里の道を遠しとしない精神がみなぎっていたのである。
 ハディース学者として名高い#ブハーリー#はハディースを求めて中央アジアの故郷のブハーラーを後にし,バルフ,メルブ,ニーシャープール,レイ,バグダード,バスラ,クーファ,メッカ,メディナ,エジプト,ダマスクス,カイサリーヤ,アッカ,ヒムスと16年間諸国をめぐり歩き,その間に接した師や学者が実に1700人に及んだと伝えられている。→子供,(飯森嘉助) 25200,キョプリュリュ家,キョプリュリュケ,K<印7CF4>pr<印7EF3>l<印7EF3>,,17世紀後半の#オスマン帝国#で大宰相(#サドラザム#)を輩出したアルバニア出身の家系。キョプリュリュの名は,初代メフメト・パシャが,後に根拠地としたアマスヤ県キョプリュの地名に由来する。初代メフメト・パシャは,おそらくは#デヴシルメ#により#宮廷#に入り,地方の諸職を歴任した後,帝国の体制全体が動揺し,ヴェネツィアがダーダネルス海峡を封鎖する危機に際し,異例の抜擢により1656年に大宰相となり,粛清・改革を断行し,後を継いだ実子のファーズル・アフメト・パシャ(1635〜71)とともに帝国の勢力挽回に貢献した。同家からはその後も,メフメト・パシャの子ファーズル・ムスタファ・パシャ(1637〜91),孫のヌーマン・パシャ(1670?〜1719),またメフメト・パシャの女婿で第2次ウィーン包囲の指揮者であったカラ・ムスタファ・パシャらの大宰相を輩出し,世襲的門閥の少ない完成期以後のオスマン朝における例外的な有力家系となった。,(鈴木董) 25800,クタイバ・ブン・ムスリム,クタイバ・ブン・ムスリム,Qutayba b. Muslim,669/70〜715,#ウマイヤ朝#のホラーサーン総督で中央アジア征服者。705年,イラク総督#ハッジャージュ・ブン・ユースフ#の命令でアム・ダリヤを渡り中央アジアに侵入,諸都市を征服しフェルガーナに達し,中央アジアがイスラム化する端緒を開いた。ハッジャージュ・ブン・ユースフとワリード1世の死で保護者を失い,第7代カリフ,スライマーンに反旗を翻したが,新カリフに忠誠を誓う部下にフェルガーナで殺された。,(花田宇秋) 25900,クッターブ,クッターブ,kutt<印78E6>b,,「学校」を意味するアラビア語。一般に,コーラン暗誦を中心とする初等教育施設をいう。マクタブも同義語として用いられたが,後者は現代では,近代教育制度の中での小学校を指すことが多い。イスラムの歴史のごく初期から初等教育に関する記録はあり,#ジャーヒリーヤ#時代にまでさかのぼる。伝統的なクッターブは,ほとんどの場合,政治権力の統制外にあり,町でも村でも望みさえすればだれもが通える程度に普及していた。そのカリキュラム,教育程度,修学年限,施設の規模などまったくまちまちで,コーラン暗誦を中心とすること以外に定まったものはない。初等数学や習字をカリキュラムに含む場合が多く,教師1人に生徒数十人が一般的な姿である。施設に付属する財産はないのが普通で,生徒の両親からの謝礼金が教師の収入であった。20世紀になって近代教育制度の普及とともに,伝統的なクッターブは消滅しつつある。→教育,(後藤明) 26000,クッラー,クッラー,qurr<印78E6>',,コーラン読誦者を指すアラビア語で,厳密な意味で#ハーフィズ#とは違うが,初期イスラム時代にはほとんど同じ意味をもったと考えてよい。そのためリッダの戦のヤマーマの役(632)でクッラーの多くが戦死したことが,コーラン結集の契機となった。また彼らは戦場ではクッラー軍団をなし,戦士を鼓舞する役割を担った。クッラーはイスラム史上最初のコーランとイスラムの教師で,第2代カリフ,#ウマル1世#は638年に各征服地に彼らを派遣している。
 現在ではムクリーと呼ばれる専門のコーラン読誦者がいるが,彼らは美声であるとともに,コーラン読誦の各流儀(普通7流派とも10流派ともいわれている)を心得ていて,技術的な訓練を長年積んだ人々で,イスラム社会では各種の集会や儀礼において重要な役割を担っている。
 コーラン読誦学は宗教諸学の中でも最も古い学問であるが,その流派発生の原因として,(1)コーランがアラブ諸部族の各方言によって理解されていたこと,(2)初期の#アラビア文字#の正字法上の欠陥(文字に付随する点も母音表記法もなかった),などがあげられる。なお#マーリク派#は,コーランを歌のように抑揚をつけたり節をつけて読むことを禁じている。,(飯森嘉助) 26300,クライシュ族,クライシュゾク,Quraysh,,イスラム勃興期,#メッカ#に住んでいたアラブ部族。北アラブ系のキナーナ部族の支族で,預言者ムハンマドを生み,彼の11代前の祖先クライシュを共通の祖先としていた人々。5代前の祖クサイイが#カーバ#の管理権を奪い,近親者をメッカに定着させてから部族としてのまとまりをもつようになる。3代前の祖ハーシムの時代に遠隔地隊商貿易の組織化に成功し,祖父の時代に南アラビア軍の攻撃からメッカの聖域を守り,以後急速に発展する。クサイイ以後はクライシュ族には首長はなく,十数の氏族がさまざまな権利・義務を分担していた。ビザンティン帝国治下のシリア諸都市,ササン朝治下のイラク,インド・中国と通じていた南アラビア,エチオピアなどに隊商を派遣していた。ムハンマドが#預言者#として活動し始めると,少数の者が信徒となり,多数は迫害したが,630年武力でムハンマドに屈してからは,イスラム国家の発展に指導的な役割を果たした。,(後藤明) 27400,憲法,ケンポウ,dust<印7CF3>r,,ドゥストゥールはペルシア語起源であるが,#オスマン帝国#時代に規則とか制限とかの意味で広く用いられ,今日ではアラビア語として定着し,基本法の意味となった。しかし,基本法の実態を検討すれば,政教を分離したトルコ共和国と,サウディ・アラビアその他の国々のように#シャリーア#の堅持を唱えるだけで成文化された基本法をもたないところを両極端として,中間に各国の特殊事情を反映させたさまざまな基本法の構成と運用形態がある。とくに第2次世界大戦後の不安定な政情が,憲法の改廃を頻繁なものにしており,かつ憲法の理念と法運用の実態とは無関係なことも少なくない。
 憲法問題の争点は,イスラムの地位をめぐるものであり,シャリーアが法と倫理の理想とされながらも,なおイスラムを国教とするべきか否かが争点となる。またシャリーアによる主権行使の制限が可能かどうかということが,議会主義その他の政治参加形態との関係で,神学がらみの立法・政治論争を生む。
 信教の自由,人権尊重を明記することは今日のイスラム諸国では当然のこととされているけれども,その具体的な内容となれば,近代的な法と社会のモデルとは別の脈絡でのみ機能することが少なくない。たとえば,信教の自由を保障するシリアの憲法は,イスラムを国教とはしていないが,すべての「#啓典の民#」のみには格別の公的地位を与えているし,その定義が伝統的なものなのか否かは判然としない。またアフガニスタンの旧憲法では,国教体制下でヒンドゥー教徒とユダヤ教徒に特別の保護を与えている。そこで改めて異質の文化との対応でシャリーアの理念と世俗的問題との調整・調停の仕事が立ち現れるし,これこそが立憲主義が難渋するところである。信教の自由は保障しても,元首の信仰を制限する例は多い。シャリーアは,実際上は身分法・財産法にのみかかわることになりつつあるが,だれがムスリムかを定義しきれなくて混乱が起きがちである。,(林武) 28300,コニヤ,コニヤ,Konya,,アナトリア南部の都市。ローマ時代はイコニウムと呼ばれた。12〜13世紀には#ルーム・セルジューク朝#の首都として政治・文化・商業の中心として栄え,宮殿,#モスク#,#マドラサ#,廟など,数多くの初期トルコ・イスラム芸術の遺構を今日に残している。とくに#ルーミー#の創設した#メヴレヴィー教団#の本部には,現在でも毎年多くの#巡礼#者が訪れている。セルジューク朝以後,カラマン侯国を経て#オスマン帝国#時代に入っても,東西交易路の中心地としての役割を果たしたが,17世紀以後しだいに重要性を失った。しかし現在はトルコ共和国の穀倉地帯であるコニヤ平原の市場都市として活況を呈し,政治的には保守勢力の地盤として重要性をもっている。,(永田雄三) 30000,サイフ・アッダウラ,サイフ・アッダウラ,Sayf al-Dawla,916〜967,シリアのハムダーン朝の君主。在位945〜967。名は「国家の剣」を意味する称号。モースルからイフシード朝治下の北シリアに侵攻して諸都市を陥れ,アレッポを中心にモースル政権から独立した王朝を興した。この時期,たまたま強盛であったビザンティン帝国の攻撃からシリアを防衛する一方,#ファーラービー#,詩人ムタナッビー,《歌の書》の著者イスバハーニーなどの文人・学者を保護した。,(後藤明) 30200,ザカート,ザカート,zak<印78E6>t,,イスラム法に定める信者の神への奉仕の義務(#イバーダート#)としての喜捨で,五柱(#六信五行#)の第3にあげられる。コーランのザカートは,#サダカ#と同じく自発的な喜捨を意味していた。ザカートの本来の意味は「浄め」で,ムハンマドはメッカ時代からザカートを信者の重要な徳目の一つとし,その支払を絶えず呼びかけていたが,それは決して強制的なものではなかった。しかしムハンマドは630年以後,新たにイスラムの教えに従ったアラブに,サダカの名で家畜と#ナツメヤシ#の一定率の支払を強制し,#アブー・バクル#以後その制度化が進められ,後に確立したイスラム法では,これをザカートと呼ぶようになった。法学派によって多少の違いがあるが,いま#ハナフィー派#の定めるところによって,ザカート制度のあらましを記す。ザカートが課せられるのは,イスラム教徒の所有する(1)通貨,(2)家畜,(3)果実,(4)穀物,(5)商品で,最後の商品には金銀と発見された埋蔵財貨を含む。いずれも1年以上所有していることが前提で,それぞれザカートの課せられる最小限が定められている。ザカートの課せられる率は,(1)は2.5%,(2)は種類によって差があるが,0.8%から2.5%,(3)と(4)は天水・流水灌漑の場合に10%,人力・畜力または特別の灌漑施設を必要とする場合には5%,(5)は年収の2.5%,金は5%,銀は2.5%,埋蔵財貨は20%とされる。次にザカートの使途は,(1)貧しい#巡礼#者,(2)托鉢#デルヴィーシュ#,(3)借金を返済できない者,(4)#乞食#,(5)貧しい旅行者,(6)新改宗者の援助のためと定められている。このようにザカートは,イスラム教徒に課せられた事実上の財産税で,しかもその使途が困窮者の救済のためと定められているところから,欧米の学者は多くこれを救貧税と呼ぶ。しかしザカートが政府によって徴収されることは,キリスト教の救貧税との大きな違いである。→サダカ,(嶋田襄平) 30400,サダカ,サダカ,<印7CE3>adaqa,,「喜捨」を意味するアラビア語。イスラム法に定めるムスリムの義務としての#ザカート#に対し,自発的な喜捨を意味し,それが自発的であることを強調するために,とくにサダカ・アッタタッウー(自発のサダカ)ということもある。コーランでは,ザカートもサダカも自発的喜捨を意味した。しかしムハンマドは630年以後,新たにイスラムの教えに従ったアラブに,サダカの名で家畜と#ナツメヤシ#の一定率の支払を強制した。家畜は種類によって率が違ったが,ナツメヤシは収穫の1/10(#ウシュル#)を現物で徴収し,このサダカは明らかに,イスラム法に定めるムスリムの義務としてのザカートの最初であった。イスラム法成文化の時代の学者たちは,コーランではサダカよりザカートがはるかに数多く現れるところから,義務としての喜捨をザカート,自発的喜捨をサダカと呼んだのであろう。したがって初期の文献には,ザカートとサダカの用語上の混乱も認められる。→ザカート,(嶋田襄平) 30700,サーデク・ヘダーヤト,サーデク・ヘダーヤト,<印7EF8><印78E6>deq Hed<印78E6>yat,1903〜51,現代イランの代表的作家。テヘランの名門の出身。フランス留学(1926〜30)中から,《生埋め》等の初期短編を著し,《三滴の血》(1932),《明暗》(1933),代表作《盲目のフクロウ》(1941),《野良犬》(1942),《ハージー・アーガー》(1945)によって現代ペルシア文学の基礎をつくった。カフカらの西欧の実存主義の影響を受けており,レザー・シャーの専制独裁的治下にあって作品はペシミズムと狂気に彩られている。精神的孤独と苦悩のうちにパリでガス自殺した。イラン古代史やパフラヴィー語研究にも携わり,イラン民俗学の先鞭をつけた。,(山田稔) 31100,サハーバ,サハーバ,<印7CE3>a<印7EE5><印78E6>ba,,預言者ムハンマドの教友のこと。狭義にはムハンマドと苦楽をともにしながらイスラムの礎石を築いた人々であるが,一般には,ムハンマドの生存中にたとえ幼児であっても彼に1度でも接した人すべてをいう。サハーバは,預言者の#スンナ#を伝える#ハディース#の伝承の過程を記したイスナードの冒頭の人物になるため,後世,その伝記が尊重された。ムハンマドの言行を直接見聞したサハーバが,次の世代にその言行を伝えて初めてハディースが成立する。ハディースの真偽の判定の根拠の一つは,そのハディースを伝えたサハーバが,ムハンマドのその言行を直接見聞できる立場にあったか否かにあるため,その伝記が尊重されたのである。また,サハーバは神の意志を直接に受けた預言者の指導下にあった人々で,その行動は預言者の,ひいては神の認めるものと後世に理解される。その意味でもサハーバの伝記は尊重された。,(後藤明) 32100,ザムザム,ザムザム,Zamzam,,メッカにある聖なる泉の名。地表から約4m低い場所に湧き出る。現在は#カーバ#を囲む聖モスクの中庭の地下にある。イスラム教徒の説話では,#アブラハム#が妻ハガル,息子#イシュマエル#とともにこの地に来た時,神はのどが渇いて泣き叫ぶイシュマエルを憐れみ,彼が砂を掘った所にこの泉を湧き出させたという。その後,泉は埋められたが,預言者ムハンマドの祖父アブド・アルムッタリブが再発見した。泉の水量は豊かで,やや塩分を含んでいるが水質は良い。アブド・アルムッタリブの時代からカーバへの#巡礼#者はこの泉の水を飲むようになり,イスラム以後にもその習慣は引き継がれた。巡礼者は自らが飲むだけでなく,水を故郷に持ち帰る。病気の治療に効くという俗説が広く信じられている。また巡礼者の多くは布を泉にひたす。死後,その布にくるまって埋葬されるためである。,(後藤明) 32600,サワード,サワード,al-Saw<印78E6>d,,「黒」または「黒い物体」を意味するアラビア語。都市近郊の農耕地帯のほか,とくに現在のイラク共和国南部の肥沃な沖積平野をサワードと呼んだが,北限については諸説がある。前イスラム時代から南アラブが進出し,ヒーラを首都としてラフム朝を建設していた。633年夏,#ハーリド・ブン・アルワリード#は,ヤマーマに#ムサイリマ#を破った後,付近の遊牧民の長ムサンナーの勧誘に応じてサワードに遠征し,ヒーラを攻略した。これがアラブの大征服の端緒であり,また最初の成果であった。638年にバスラ,639年にはクーファの二つの軍営都市が建設され,#正統カリフ時代#,#ウマイヤ朝#時代の東方経略の根拠地となった。#アッバース朝#の初期,その中央部に首都バグダードが建設され,サワードは同朝の政治・経済・軍事・文化の中心地となった。エジプトと並んでイスラム世界有数の穀倉地帯であるため,歴代のカリフ・総督は,開墾,運河の開削などに意を用いて農地としての生産性向上に努めた。しかし,一方で#ザンジュの乱#や#カルマト派#の反乱などの場ともなり,モンゴルの侵入以降は荒廃が著しく,その生産性は衰退の一途をたどった。サワードはイスラムに征服された最初の農耕地帯であったため,その時の租税徴収の実態が他の地域および後世の租税制度の参考となる。そこで当地域における#ウマル1世#の租税政策の実態をめぐって法学者の論争が起こった。,(花田宇秋) 32700,ザンジュの乱,ザンジュノラン,Zanj,,869〜883年に#サワード#で起こった反乱。反乱軍の兵士の多くがザンジュと呼ばれた黒人奴隷であったため,一般にこう呼ばれる。サワード地方では,灌漑,排水,地表の塩分除去が農耕に不可欠で,その作業を奴隷にさせる大農場経営がササン朝時代から盛んであった。農場奴隷は東アフリカのザンジュやスーダン人,マグリブ人などさまざまであったが,ザンジュが最も多かったと考えられる。サワードのザンジュはイスラム時代になってからこの乱以前にも2度反乱を起こしたことが記録されている。
 9世紀末のこの反乱の指導者は,アリーで,第4代カリフ,#アリー#の子孫と称するアラブ貴族であった。彼はアラビアのバフラインで宗教改革運動を始め,信徒を得て863/4年に武装蜂起したが失敗した。869年,彼はバスラで反アッバース家の蜂起を試みたが再び失敗し,バグダードに隠れた。彼はこの時に,サワードの農場奴隷労働者に注目し,彼らを反乱のエネルギー源として組織していった。彼を支持する軍は,871年にはバスラを陥れ,サワードのかなりの部分を支配するにいたった。彼はバスラの近くにムフターラという城塞都市を築いて,そこを首都とし,行政・軍事機構を整えて小国家をつくった。ザンジュを主力とするその軍は,2度アフワーズに進攻し,また中部イラクのワーシトを一時占領した。当時の#アッバース朝#は#マムルーク#軍団が政治を壟断し,軍閥間の対立・抗争が絶えず,無政府状態に近かったが,カリフの弟で将軍ムワッファクが実権を握るに及んで立ち直ってきた。ムワッファクは自ら軍を率いて反乱軍に反撃し,反乱軍はしだいに追いつめられ,首都ムフターラの陥落とアリーの死をもって反乱は終わった。反乱は,アラブ貴族が指導する反アッバース家の新国家建設運動であったが,ザンジュなどの農場奴隷労働者のエネルギーを吸収しようと試みた点が注目に値する。,(後藤明) 32800,ザンダカ主義,ザンダカシュギ,Zandaqa,,狭くは#マニ教#,広くは表面上イスラム教徒でありながら,内心#ゾロアスター教#,マニ教などを信じることを意味するアラビア語。ザンダカ主義者をジンディークという。#アッバース朝#の初期,過激#シーア派#の運動が弾圧によって鎮静させられると,ザンダカ主義が重大な政治・社会問題となった。この場合のジンディークは#イブン・アルムカッファー#,#ワジール#の息子,有名な詩人などイラン系新改宗者の知識人で,彼らは征服者である異民族の宗教への改宗の内心の抵抗を,マニ教ないしゾロアスター教的な言辞でつつみかくすものであったらしい。一方で第3代カリフ,マフディーがアリーフという特別の裁判官を任命して徹底的な調査と処刑を行わせ,他方#ムータジラ派#によるイスラム思弁神学(#カラーム#)樹立の運動が進むとともに,ザンダカ主義はしだいに衰え,この時以後,二度とザンダカ主義が問題となったことはない。,(嶋田襄平) 33200,シェイフ・サイトの乱,シェイフ・サイトノラン,<印73E7>eyh Sait,,トルコ共和国成立期の#クルド#人の反乱。1925年2月大統領#ケマル・アタテュルク#の政教分離政策に反対するクルド人が反乱を起こした。反乱は#ナクシュバンディー教団#の長,シェイフ・サイトによって指導され,またたく間に東南アナトリアに拡大した。トルコ政府は軍隊を派遣して鎮圧した。反乱首謀者46名は逮捕され,6月19日「独立法廷」で死刑の判決を受け,翌日ディヤルバクルで処刑された。この反乱以後,トルコ共和国のクルド人の勢力は弱まり,宗教運動の背後にあった独立運動も鎮静化した。,(設楽国広) 33500,シオニズム,シオニズム,Zionism, <印7EF8>ahy<印7CF3>n<印77F5>ya,,ユダヤ人国家を建設しようとする運動。19世紀後半,中・東欧の多様なイデオロギー的立場からするユダヤ人知識人の活動によって,その輪郭が形成された。しかし運動の組織化は,ハンガリー出身のTh.ヘルツルが1897年スイスのバーゼルで世界シオニスト機構を設立したのに始まる。指導権はロシア出身でイギリスに移住したCh.ワイツマンに受け継がれたが,1917年,イギリス政府からパレスティナにおけるユダヤ人ナショナル・ホーム建設に賛成する旨の#バルフォア宣言#を引き出すことに成功した。すでに1880年代以降,帝政ロシアの迫害を受けた東欧ユダヤ教徒の間には,パレスティナ移住運動が起こっていたが,組織的植民活動は,第1次世界大戦後のイギリスのパレスティナ委任統治下で展開される。1930年代には,ナチズムがその強烈な反セム主義によって,ヨーロッパからのユダヤ人の移民としての放出を促進した。#パレスティナ問題#の深刻化の中で,40年代には,アメリカがシオニズム運動の新しいパトロンとして登場した。これらの国際政治状況を利用しつつ,同運動は,ベン・グリオンらの指導のもとで48年ついにイスラエル国家の設立に成功した。目標達成によってシオニズムの歴史は完結したとする人もあるが,それはイスラエル国家のイデオロギーとして生き続けている。しかし,労働ないし社会主義シオニズム,宗教的シオニズム,イスラエルの国土(エレツ・イスラエル)の拡張を要求するシオニスト改訂派(後のリクード)など,シオニズムの中には多様な潮流が含まれており,シオニズムには,西洋の前哨と東洋の星,植民地主義とキブツ社会主義,労働運動と宗教的熱狂,レアルポリティークと聖書,民主主義と神政国家,被差別者の解放区と国際的ゲットーといった二律背反が絶えずつきまとってきた。本来,非宗教的運動として出発したはずのシオニズムは,いよいよ#ユダヤ教#正統派の権威と切り離しえなくなっているのが現状である。,(板垣雄三) 33800,ジズヤ,ジズヤ,jizya,,イスラム法に定める人頭税。心身健全で自由身分の#ジンミー#の成年男子だけに課せられ,貨幣で徴収される。納税者の社会的地位や財産に応じ,旧ビザンティン領では1,2,4#ディーナール#,旧ササン朝領では12,24,48#ディルハム#の3段階に分けられていた。ジズヤは,コーラン(9章29節)にみえ,ムハンマドは#ユダヤ教#徒とキリスト教徒からジズヤを徴収したが,それは人頭税で,貨幣で徴収された。#ウマイヤ朝#の行政用語ではジズヤと#ハラージュ#は区別がなく,ともに征服地の住民から徴収される租税一般を意味していた。当時,地租と人頭税は併せて村落単位で一括徴収されていたので,両者を区別する必要がなく,両者を併せたものが旧ビザンティン領ではジズヤ,旧ササン朝領ではハラージュと呼ばれていたのである。したがって,とくに地租と人頭税とを区別する必要のある場合には,「土地のジズヤ」(地租),「首のハラージュ」(人頭税)などの用語も用いられた。#ウマル2世#がジンミーのイスラムへの改宗を奨励する政策をとるに及び,ジンミーと#マワーリー#の租税負担に差を設ける必要が生じ,地租は両者に課せられるが,人頭税はジンミーだけに課せられるようになり,人頭税ジズヤ,地租ハラージュという用語の区別が確定した。ジズヤは金額としてはわずかであったが,ジンミーにとってイスラムの支配に服するという象徴的意味があり,時に「ジズヤの民」と称せられることもあり,ジンミーはジズヤを屈辱と感じた。,(嶋田襄平) 34800,シャキーブ・アルスラーン,シャキーブ・アルスラーン,Shak<印77F5>b Arsl<印78E6>n,1869〜1946,シリア出身の#アラブ民族主義#理論家,作家。第1次世界大戦まで#オスマン帝国#官吏。1920年代シリア・パレスティナ会議の活動に加わり,そのジュネーブ常駐代表となった。そこで25年の間フランス語の《アラブ民族》誌を発行し続け,パン・アラブ主義の立場を宣伝した。北アフリカのイスラム思想運動と民族主義に与えた影響が大きい。第2次世界大戦中は親枢軸の立場をとった。著作には#ラシード・リダー#の伝記がある。,(林武) 35100,ジャジーラ,ジャジーラ,al-Jaz<印77F5>ra,,ティグリス・ユーフラテス川に囲まれたイラクの北西部とシリアの北東部を含むステップ地帯。水と鉱物資源に富み,イスラム以前からアラブ遊牧民が同地に移住していた。641年,イヤード・ブン・ガヌムの征服以来,#ウマイヤ朝#,続いて#アッバース朝#,#ブワイフ朝#,#セルジューク朝#が当地域の完全支配に努めたが,住民は叛服常なく,ハムダーン朝,マルワーン朝,ウカイル朝などの土着王朝の成立を許した。穀物・米・オリーブなどの各種農産物,馬・羊,鉄・ナイフ・矢・鎖・石けんなどの手工業製品を多く生産した。これらの生産物はティグリス川を交通路として輸出されていた。,(花田宇秋) 36700,ジャラール・アーレ・アフマド,ジャラール・アーレ・アフマド,Jal<印78E6>l <印78EA>l-e A<印7EE5>mad,1923〜69,現代イランの作家。テヘランのシーア派聖職者の家庭に生まれ,苦学して高等師範修了後,教職につく。第2次世界大戦後トゥーデ党に入党(1947)。処女作《年始訪問》(1945)で文壇に登場した。#モサッデク#時代には国民戦線の一翼である「第三勢力」に参加,1953年離脱した。58年代表作《校長》を上梓,教育・文化問題に関心を示し,60年代から第三世界論,民族文化再認識の論調を打ち出し,王制批判を続けた。著書《地の呪い》(1967),《ガルブザデギー》(1962)等多数。,(山田稔) 37000,シャリーフ,シャリーフ,shar<印77F5>f,,「高貴な血筋の人」を意味するアラビア語(複数形アシュラーフ)。イスラム以前のアラブ社会でシャリーフと自称し,また他者からもそうみなされた家系は少なからずあった。イスラム以後では,この語はもっぱら預言者ムハンマドの家族の子孫に用いられた。ただ,たとえば彼の叔父アッバースの子孫を含めるか否かなど,その範囲については時代や宗派そして地方により異なり,またほぼ同義語となった#サイイド#との区別もさまざまである。,(後藤明) 37900,シューラー,シューラー,sh<印7CF3>r<印78E6>,,「合議」あるいは「評議会」を意味するアラビア語。シューラーはイスラム以前のアラブ部族社会の政治慣習の一部であったが,イスラムはこれを是として追認した。コーランは預言者に対しても一般の信徒に対しても,この合議の慣行を維持することを命じている(3章159節,42章38節)。ムハンマドが実践した#スンナ#のうちで,#バドルの戦#のメッカ側の捕虜の処遇について教友たちの間で合議されたことがよく知られている。#ハディース#もまた合議制を大いに奨励している。
 コーランは#ウンマ#の統治形態について,具体的にはほとんど何も言及していない(4章59節)が,ムハンマドによるこの合議制の実践は,専制政治を否定するものであって,後世の為政者の模範であり,またウンマ成員間の集団意識を高めるためにも不可欠であると考えられている。シューラーには為政者が物事の最終決定を決断する前に,要人や実力者たちに諮問をするケースも含まれるが,時には住民に対して合同礼拝を召集して,そこで物事が住民全体の間で討議される場合もある。しかしシューラーは必ずしも民主主義と同一ではない。一般に#正統カリフ時代#は合議が実践されていたとされ,#カリフ#職が世襲化してからは合議制は著しく制限されたと考えられている。,(飯森嘉助) 38000,シュルタ,シュルタ,shur<印73F3>a,,初期イスラム時代の警察・警官のこと。シュラタ,あるいは複数形でシュラトとも呼ばれる。語源は4型動詞「的確な目的のために,ある事物を他と区別する」にあり,転じてシュルタとは軍隊のエリート部隊を指すようになり,それが警察を示す用語に転化した。シュルタの起源については,#正統カリフ時代#,あるいは#ムアーウィヤ1世#時代の両説がある。城を守る衛兵や番兵のハラサとは異なり,当時のシュルタは#カリフ#や総督の親衛隊・治安部隊として敵対分子や不穏分子の摘発・鎮圧にあたった。#アッバース朝#や#ファーティマ朝#におけるシュルタの長官の権限は大きく,しばしば#カーディー#(裁判官)のそれらを凌駕するほどであった。#後ウマイヤ朝#では,官吏・将校用の大シュルタと一般市民用の小シュルタに分かれていた。アッバース朝では10世紀前半から,シュルタの代りにシフナの語が使われ始め,また地方ではマウーナとも呼ばれていた。,(花田宇秋) 38400,商人,ショウニン,,,西アジアの地理的位置が,ユーラシア,アフリカ,地中海,#インド洋#の接点にあることから,その地域社会の特徴は,限られた農耕地と不安定な乾燥農業に頼るよりも,都市を中心とする流通加工・中継貿易・運輸から成り立つ複合経済が歴史的に古くからみられたことである。とくに,より遠隔の世界との商業交易が地域社会と経済の発展の重要な基礎であって,その経済活動の実際の担い手として活躍した商人層が国家・社会・文化のあらゆる分野で大きな役割を果たした。
 本来,アラビア語のタージル(商人)は,アラム語からの借用語であって,とくに酒類を商う外国系商人を意味したが,ムハンマドの時代前後には,シリア,イラク,イエメンの各方面に派遣された#キャラヴァン#貿易に参加する#クライシュ族#の大商人は広くタージルと呼ばれた。
 アラブの征服が進み,ヘレニズム世界,イラン世界,インド洋,地中海などの,それまで政治・軍事・経済の諸発展を異にしていた交流圏が,イスラムという一つの共通の文化的ネットワークの中に組み込まれていく過程で,商人層の活躍する史上初の世界的規模の流通圏が実現した。また,イスラム社会における#巡礼#行為が国家・社会・部族・宗派などの枠を超えて多くの人々に広く自由な商業活動を行う機会を提供した。また,ムスリム商人たちの広範な活動は,キャラヴァンと#海運#による交通運輸網の発達と併せて,共通語としての#アラビア語#の使用およびイスラム法による商保障の確立という文化的背景に大きく支えられていた。とくに,イスラム法は商業活動によって生じる協同責任,委託商品と利得の配分,#利子#や損害賠償などをめぐる紛争問題を解決するうえの規範となった。ディマシュキーは,その商業論の中で#アッバース朝#時代のムスリム商人をハッザーン(蔵持商人),ラッカード(遍歴商人),ムジャッヒズ(問屋商人)の三つの型に分類して,広大なイスラム世界を舞台として活躍する商人の役割とその社会的地位の高さを説明している。ディマシュキーの商業論によって明らかなように,ムスリム商人の役割分担は,生産・加工・販売の諸過程で未分化であり,また多種多品目を商う総合卸売商的な特徴を強くもっていた。#市#を中心として活動した商人は小売商(バーア,スワイカ)と呼ばれた。また,取り扱う特殊商品によって,パン屋,油屋,薬屋,反物商,紙商などと呼ばれて,都市の中に定められた居住・販売地区に同一職種の商人・手工業者が住んだ。彼らの秩序・商道徳・価格・量目を監視する役目は,市場監督官(#ムフタシブ#)であった。#両替#,金融,仲介斡旋,装身具・貴金属加工,酒,香辛料,薬物類などの職種では#ユダヤ教#徒,キリスト教徒などの#ジンミー#が特殊技能と強固なネットワークをもって活躍した。国家にとって商人は,貨幣借款,通貨・物価政策,現物税の現金化,軍事物資の調達や国家投資による外国貿易の代行などの面で深い共存関係にあった。#マムルーク朝#時代,国家支配層や官僚の支援を得た大商人は,#奴隷#,香辛料,金銀貨,穀物,砂糖,高級織物などの貿易取引を請け負うことによって,巨額の資本を蓄積し,その一部を#モスク#,#マドラサ#,ハーン(#キャラヴァンサライ#),#ザーウィヤ#などの公共施設に寄進し,多くの学者・知識人を集めるなどの積極的文化活動を行った。したがって,商業ならびに商人たちの商行為は,イスラム国家と社会の安定を支え,文化の繁栄に寄与する重要な原動力として,人々の間に広く容認され,高い社会的評価を得ていた。,(家島彦一) 38500,食事,ショクジ,,,中東の苛酷な自然条件のもとでは,食物の獲得方法こそ,そこに生きる人間の最大の関心事であったに違いない。人間と家畜の共生が絶対必要な生活形態であってみれば,人間が家畜を口にするまでの一定のルールが不可欠であろう。神はこれに答えて食べてよいものと口にしてはならぬものを明示するとともに,食肉に関するさまざまな規定を明示した。コーランでは,死肉,流れる血,豚肉,#アッラー#以外の名が唱えられて屠殺された動物の肉,絞め殺された動物の肉,撲殺された動物の肉,墜死した動物の肉,角を突き合わせて殺された動物の肉,野獣が喰い残した肉,さらに賭博で分配した肉などを食べることを禁じている。所定の屠殺法は「アッラーの御名においてアッラーは偉大なり」と唱えつつ鋭利な刃物を用いて一気に頸動脈と喉笛とを切開すること(最も苦痛を与えないで屠殺する方法)である。
 #ハディース#によって食事の集団主義が強調されていることが注目される。したがって友人やおじやおばなどの家を食事時に突然訪ねてもいっこうに失礼にあたらない。また食事への招待を受けた場合は,返事を渋ることは非礼とされ,むしろ#断食#中で食べられなくとも喜んで出席すべきだとされている。招待者に勝手について来た者でも,客として迎えられるのが普通である。食事はビスミッラーヒ(アッラーの御名において,いただきます)で始まり,アルハムド・リッラーヒ(アッラーに讃えあれ,ごちそうさま)で終わらねばならない。不浄な左手を用いてはならず,右手の親指・人差指・中指の3本を用いて食べることがよいとされている。床に座って食べる場合は,できるだけ多勢の者がテーブルを囲むことができるように,右膝を立てて片膝をついた状態で食べてもよい。食べ過ぎと無遠慮なふるまいはハディースによって戒められているが,主人は客に対して熱心にすすめ,飲み水等の回し飲みは右の人に回せとある。金製または銀製の食器・容器を使う者は地獄に落ちるとあるが,全体としてハディースは初期イスラム時代の質素で禁欲的な傾向を示している。貧者に食事を供すること(施し)は贖罪行為と関係がある。たとえば誓いを破った場合には10人の貧者に,また断食を破った者は60人の貧者に食事を供さねばならない。,(飯森嘉助) 39500,スカルノ,スカルノ,Sukarno,1901〜70,インドネシア民族主義運動の指導者,インドネシア共和国初代大統領。スラバヤ郊外に生まれた。父はジャワ人,母はバリ人。1926年にバンドン工科大学を卒業後,一貫して政治運動に挺身した。オランダ植民地政府により10年に及ぶ投獄と流刑の生活を続けたが,日本軍政中に政界に復帰し,45年8月17日,ハッタ(初代副大統領)とともに独立宣言を発布,共和国の初代大統領に就任した。50年代末から「指導された民主主義」を掲げ,軍と共産党の力の均衡の上に独裁的性格を強めたが,65年の「9月30日事件」以後この均衡が崩れるとともに,陸軍,イスラム派,学生などを中心とする反スカルノ派の攻撃を受けて辞任に追い込まれ,68年には#スハルト#が第2代大統領に就任した。青年時代の投獄と流刑の生活の中で宗教的思索を深めたが,それはイスラムを含むすべての宗教の基底にある「神性」への開眼として現れ,パンチャ・シラ(建国五原則)の第1項における「唯一の神への信仰」として定立された。政権の座について以降は,ヒンドゥー・ジャワ的な宗教観への傾斜を深め,イスラムはインドネシアに存在する多様な宗教のうちの一つであるという姿勢を強めたために,イスラム派勢力のうち,ことに#マシュミ党#系勢力との間に対立を深め,マシュミ系はスカルノ打倒の急先鋒に立った。,(土屋健治) 40700,スルフ,スルフ,<印7CE3>ul<印7EE5>,,「対立する2者の和解」を意味するアラビア語。イスラム法の用語としては,商取引などでの係争事件の示談をいう場合と,外交上の和平条約をいう場合がある。歴史的に重要なのは後者の用法で,初期法学者は7世紀のアラブの大征服に関連してスルフの観念を発展させた。法学者の議論によれば,征服にはスルフによる征服と,アンワ(武力)による征服の2種があった。スルフによる征服では,ムスリムは異教徒の政治集団と平和裡に交渉して,彼らの政治的自治と,その生命・財産の安全と信仰の保持を保障し,彼らに一定の税の支払と他の義務を課した。理念的には,スルフを結ぶ相手は#啓典の民#に限られ,#偶像#崇拝者や多神教徒は含まれなかった。またスルフを結び安全保障された人々を#ジンミー#という。一方,アンワによる征服の対象となった異教徒の財産は#ファイ#(政府が一括管理するムスリムの共有財産)か#ガニーマ#(戦士に分配される戦利品)になるとされた。,(後藤明) 41300,誓言,セイゴン,,,アラビア語でカサム,ヤミーン,ハルフといい,この三つの語はほぼ同義語として使われる。神の名もしくはその属性(至高なる者,慈悲深きお方など)において,特定の行動・行為を,する・しないを誓うことで,日常生活におけるさまざまな約束や陳述に用いられる。とくにワッラーヒ(神にかけて)という言葉は日常会話でもしばしば用いられる。
 誓言は神に対するもので,法的な規制力はない。神と個人との契約であるのだから,誓いを破っても,人間がそれを罰することはできない。ただ神だけがそれを罰する。しかし,誓言に反した行為をしても,神の怒りを受けずに済ます行為をイスラム法は定めている。「その贖罪には汝らの家人を養う通常の食事で10名の貧者を養え,またはこれに衣類を支給し,あるいは奴隷を1名解放せよ。これらのことができぬ者は3日間の断食をせよ」(コーラン5章89節)がその法規定の根拠となる。,(後藤明) 41500,正統カリフ時代,セイトウカリフジダイ,,632〜661,ムハンマドの死に続く4人の#カリフ#,すなわち#アブー・バクル#,#ウマル#,#ウスマーン#,#アリー#の時代をいう。実態はともかく,後の#ウマイヤ朝#,#アッバース朝#のカリフと違い,彼らの政治にはイスラムの理念が反映されていたと考えた後世の政治思想家が,彼らを正統カリフ(神によって正しく導かれたカリフたち)と呼んだことがその名称の由来である。選挙制カリフの時代,あるいは族長的カリフの時代という学者もいる。イスラム国家の創成期にふさわしく,栄光の時代であるとともに苦悩の時代でもあった。すなわち,ムハンマドの死後,カリフ制度の確立で#ウンマ#の分裂を回避したイスラム国家は,ビザンティン領,ササン朝領への大征服によって大帝国を建設した。しかし,しだいにアラブ・ムスリム諸階層の利害の衝突が顕在化し,それは下級兵士によるカリフ,ウスマーンの殺害に発展し,イスラム国家は最初の内乱(656〜661)を経験した。この第1次内乱の終結が同時に正統カリフ時代の終りで,この内乱を経てイスラムに国家的統治が確立された。,(花田宇秋) 41600,青年トルコ,セイネントルコ,Gen<印75F6> T<印7EF3>rkler,,#オスマン帝国#末期,スルタン,#アブデュルハミト2世#の専制政治に反対した改革運動。1889年イスタンブルの軍医学校学生イブラヒム・テモの結成した「統一と進歩委員会」を中心勢力とする。1876年に公布されたミドハト憲法の復活を目的とした。97年大弾圧によりオスマン帝国内の活動停止,パリのアフメト・ルザらの海外活動が中心となり,1902年中央集権派と地方分権派に分裂した。06年テッサロニキに「統一と進歩委員会」本部を成立させた。08年ニヤージらの若手将校の武装蜂起を契機として,憲法の復活を一方的に宣言,スルタンはこれを追認し第2次立憲体制期に入った。中央集権派が国会議員を独占したが,09年イスタンブルでの兵士の反乱により一時勢力を後退させ,反乱鎮圧により勢力を増大,13年クーデタにより政権を握り,#エンヴェル・パシャ#,タラート・パシャ,ジェマル・パシャが三頭政治を行った。第1次世界大戦にドイツ側に立ち参戦を指導,敗戦後,勢力は国外逃亡などで消滅した。,(設楽国広) 42200,葬制,ソウセイ,,,イスラム社会の葬制は,所によりさまざまである。イスラム以前の古い葬礼の伝統が根強く残っている所も少なくない。しかしイスラムでは遺体をいかなる理由があろうとも火葬にしてはならない戒めがある。それは地獄に落ちた者に対して神のみが処罰できる方法だと考えるからである。土葬を守らねばならないので,葬儀全般は取り急いで行われる。遺体の安置に際して重要なことは,右脇腹を下にして顔をメッカの方向に向けて横たえることである。地上の墓標もこの方向に並ぶので,墓石はどれもみな同一方向に並んでいる。#墓#に壮大な廟やドームを営むことは元来は法度であるが,現実にはこの戒めは守られていないことが多い。イスラムの葬礼規定の多くはムハンマドの#スンナ#(慣行)に求められるが,それによると遺体は埋葬する前に近親者によって水と石けんでていねいに洗われる。経かたびらは3枚の白い無地の布で,生前にメッカの#ザムザム#の泉の聖水を振りかけておいたものが最良とされている。故人の家から埋葬地に遺体が運ばれる途中で,棺は#モスク#に運び込まれて葬儀礼拝が捧げられる。墓地までの葬列は徒歩でなければならない。葬列の進行中に泣き女が加わることがあるが,これはイスラムとは元来関係がなかった。通行人は死者に敬意を表して立ち止まるが,道端に座っている者は同じ理由で立ち上がる。また時には故人とはまったく関係のない人でも葬列に参加する。親族の男性や友人のうちから4人が1組で交代に棺を肩にかつぐ。葬列の進行速度は走るほどではないが,ややテンポが速い。弔問期間は3日間続き,喪服の色は黒で,妻の服喪期間は4ヵ月と10日である。近親者は遺体を埋葬して3日後に墓参する風習があるが,この際に飲食物が供されることはなく,コーランだけが読み上げられる。死亡日から数えて40日目を故人の追悼日として弔う風習があるが,これは東方のキリスト教徒も同じである。→墓,(飯森嘉助) 43700,タバカート,タバカート,<印73F3>abaq<印78E6>t,,アラビア語タバカの複数形。同じ状態にある者を意味する。#ハディース#学では同一世代の学者をいう。預言者ムハンマドの同世代人が預言者の言行に関する伝承ハディースを次の世代に語り継ぎ,彼らがさらに次の世代に語り継ぐ。ハディースが記録される時には,その本文マトンのほかに,代々ハディースを語り伝えた伝承者の名をイスナードとして記録する。ハディースの真偽の検討のために,世代ごとにまとめられた伝承者の伝記集が編纂されたが,このような形式の伝記集をもタバカートといい,後には#ウラマー#,#スーフィー#などの師弟関係を基準にした世代別の伝記集もタバカートと呼ばれた。
 タバカートはまた社会階層を意味し,たとえば,支配者,学者・知識人,戦士,農・工・商人のおのおのを一つのタバカとした。近・現代になって共産主義,社会主義がアラブ世界に導入されると,搾取・被搾取の関係を軸にした社会階級の概念を表すのにも,タバカートが用いられるようになった。,(後藤明) 43800,タバコ,タバコ,,,コロンブスによって新大陸から持ち込まれ,1586年ころまでにはヨーロッパ各地に広がった。エジプトでは早くも89年にタバコの栽培が始まった。今日タバコ工業はイスラム世界のどこでも見られるほどに普及していて,国によっては国庫の有力な財源の一つとなっている。イスラム世界の伝統的なタバコの吸飲法は,水タバコ(シーシャ)や長煙管によってニコチンの害を抑えるところに特徴がある。
 古典時代の法学派の開祖たちは,タバコの存在を知らなかったので吸飲の是非については何も言及していない。現在でもタバコ吸飲の合法性については意見が分かれている。タバコは酒や麻薬のように酔わせるものでないこと,また吸飲者すべてにとって害になるわけではないので,不法ではないと主張する者もいる。しかし一般的には不法ではないが,財の浪費という面で好ましくないものと考えられている。またムスリムの健康と生命と財産は,神から一時的に預かったもので,それらを危険に陥れたり,勝手に処置してはならないという考え方があり,これによると医者から禁煙宣告を受けた者にとって,タバコはまさに宗教的意味においても不法となる。また自分の家族を扶養する必要度の大きい者にとっては,タバコの不法度もそれだけ大きくなるということにもなる。また以上のような社会的・宗教的な規制により,イスラム社会では女性の吸飲者はほとんど見られない。,(飯森嘉助) 44200,タバリー,タバリー,al-<印75E7>abar<印77F5>,839〜923,イスラム世界を代表する歴史家,コーラン学者。タバリスターンのアームルに生まれ,バグダードで没。若くしてバグダードに出て法学を学んだ後,フスタートなど諸市を巡り,#ハディース#を収集した。バグダードに帰還後は#シャーフィイー派#的立場から#ハンバル派#と厳しく対決しながら,著述活動に専念し,《諸預言者と諸王の歴史》《タフシール》などを著した。前者は初期イスラム史学史を代表する史書であるとともに最初の年代記である。世界の創造,前イスラム時代の諸民族の歴史を述べた後,イスラム時代に入ってからは,年代記の形で915年までのイスラム国家の発展・展開を述べたもので,神学的歴史観に立ち,後世の年代記作者の範となった。その叙述方法は,自分の考え・判断を極力抑え,特定の事件に関するあらゆる伝承を伝承史家別に列挙するというもので,この点,後世の研究者にとって史料集としても有益である。,(花田宇秋) 45100,ターリク・ブン・ジヤード,ターリク・ブン・ジヤード,<印75E7><印78E6>riq b. Ziy<印78E6>d,?〜720,アンダルス征服軍の指揮官で,ベルベル人。#ウマイヤ朝#のイフリーキヤ州総督ムーサーに仕え,タンジール駐屯軍の長であったが,711年7000人の兵からなるムスリム軍(その大部分がベルベル人)の指揮官に任命され,アンダルスを侵攻し,西ゴート王国を滅ぼした。翌年出征してきたムーサーと競いながら,アンダルスを征服した。ジブラルタルは,ターリクの山(ジャバル・アッターリク)の転訛した地名。,(私市正年) 45300,ダール・アルウルーム,ダール・アルウルーム,D<印78E6>r al-<印78FE>Ul<印7CF3>m,,「諸学の家」を意味し,下記のような諸例がある。(1)#ダール・アルヒクマ#の別称。(2)#デーオバンド学院#の正式名称。(3)1872年#ヘディーウ#,イスマーイール・パシャ治下のカイロで設立された公立学校教員養成機関で,エジプト最初の近代的カリキュラムをもった非宗教的学校。そこでは,イスラムの革新を目指した#ムハンマド・アブドゥフ#が歴史を教え,あるいはここに学んだ#ハサン・アルバンナー#が,近代的な社会運動の方法への目を開かれるとともに,イスラムの危機意識をいっそう先鋭なものとした。1945年には,カイロ大学に吸収されて,その一学部となった。,(板垣雄三) 45700,ダーワ・イスラーミーヤ,ダーワ・イスラーミーヤ,Da<印78FE>wa Isl<印78E6>m<印77F5>ya,,イスラム宣教協会。1970年トリポリのイスラム宣教第1回世界会議の決議に基づき,リビアの革命評議会は,72年に前述の宣教会議の執行機関として,法人格を有するイスラム宣教協会の設置を決定した。同協会のおもな目的は,(1)宣教会議の諸決定の実施,(2)アラビア語の普及,(3)コーランの平易な解説と各国語への翻訳出版,(4)既成法学派の相違にとらわれないイスラム法体系の再編成,(5)イスラム辞典の編纂,(6)イスラム教育に必要な新しい教材開発などである。さらに専業のイスラム宣教者の必要を認めて,イスラム宣教専門学校を設置し,同校の卒業生を中心に,現在40ヵ国以上の国々にアラビア語の普及とイスラムの伝道の目的で,約450人の宣教者を派遣している。宣教協会の設置・維持・運営は,リビアが提唱してイスラム諸国に呼びかけたが,元来は他のイスラム諸国も平等に参加することを期待したものである。宣教者はリビア人に限らず,ムスリムでその資格を有する者であれば,国籍は問わないことが特徴である。,(飯森嘉助) 49900,トレド,トレド,Toledo,,スペイン中央部の都市。アラビア語ではトゥライトゥラ。714年の征服以来,イベリア半島におけるイスラムの政治・文化上の一中心で,#後ウマイヤ朝#時代は戦略上の要衝として,またズー・アンヌーン朝時代は同朝の首都として栄えた。1085年アルフォンソ6世によって再征服された後も,イスラム文化は存続した。とくにアルフォンソ10世(在位1252〜84)の時代は1250年にドミニコ会の東洋語学校が設立されたこともあって,当市はヨーロッパにおけるアラビア語文献のラテン語への翻訳の中心地であった。,(花田宇秋) 50000,ナイーマ・エフェンディー,ナイーマ・エフェンディー,Naima Efendi,1655〜1716,#オスマン朝#の歴史家。本名はムスタファ・ナイーム。#イエニチェリ#軍団員の子としてシリアのアレッポに生まれる。のちイスタンブルに出て宮廷に仕え,次いで実務官人として諸職を歴任し,宮廷史官にも任ぜられた。彼は1591年から1659年にいたるオスマン朝の年代記を著した。《ナイーマ史》の通称をもって知られるこの年代記は,史観の確かさ,史料批判の厳密さにより,諸年代記中の傑作とされる。,(鈴木董) 50300,ナーシーフ・アルヤージジー,ナーシーフ・アルヤージジー,N<印78E6><印7CE3><印77F5>f al-Y<印78E6>zij<印77F5>,1800〜71,レバノンが生んだ人文主義的な#アラブ民族主義#の第1世代を代表するキリスト教徒。コーランの#アラビア語#よりは,民謡・説話・野史の言語の中に民族がもつ不可侵の価値があることを主張して,宗教を政治の根底に据える立場から抜け出て,異なる宗教人口に共通な文化的紐帯としての言語(アラビア語)による統合を訴えた。アラビア語の各種定期刊行物出版の先鞭をつけた。,(林武) 50800,ナスル朝,ナスルチョウ,Na<印7CE3>r,1230〜1492,イベリア半島最後のイスラム王朝。首都名をとって#グラナダ#王国ともいう。カスティリャ王国に貢納しながら,北方のキリスト教徒と北アフリカのイスラム教徒(ムスリム)との力の均衡を保つという巧みな外交政策により独立を保った。イスラム国家という意識が強く,キリスト教徒支配地からのムスリム亡命者を保護し,アラビア語を唯一の公用語とした。国家は集約的農業,手工業,交易により繁栄し,学芸を保護したので,イブン・アルハティーブのような偉大な学者が輩出し,また首都グラナダにアルハンブラ宮殿が建てられた。アラゴンとカスティリャ両国の合併により強化されたキリスト教徒により滅ぼされ,最後のナスル家の者はモロッコに逃げた。#イブン・ハルドゥーン#が,一時この王朝の廷臣として仕えた。,(私市正年) 50900,ナスレッディン・ホジャ,ナスレッディン・ホジャ,Nasreddin Hoca,,アナトリアを中心とし,広くトルコ族の間,さらに,かつての#オスマン帝国#の領土内で語り伝えられている滑稽・頓智譚の主人公。このような話は,アラブ・ペルシア・トルコ文学ではラティーファと呼ばれるジャンルに属する。ナスレッディン・ホジャを主人公とする滑稽・頓智譚は,現在,550話以上に上る。トルコ人は,だいたいにおいて彼を実在の人物と考え,トルコのアクシェヒルの郊外には,彼の霊廟といわれるものが現存する。ただし,その生存年代については,13世紀初頭〜同世紀後半説,13世紀後半〜14世紀初頭説,14世紀後半〜15世紀初頭説そのほかいくつかの見解がある。これに対して,ヨーロッパの学者の中には,彼の実在を疑問視する者が多いが,アナトリアにナスレッディンという人物がいて滑稽・頓智譚を残し,それらを中核として,アラブやイラン起源の類話が集められたという可能性が強い。,(護雅夫) 51900,ニハーワンドの戦,ニハーワンドノタタカイ,Nih<印78E6>wand,,642年,アラブ軍がササン朝ペルシア軍を破った戦い。639,640,641年などとする説もある。アラブ軍の主将はヌーマーン。ニハーワンド(ペルシア語ではネハーベンド)はイラン高原からイラク北部に抜ける交通路上のザグロス山中の要所である。イラクを制圧したアラブ軍に対して,イラン高原に退いた皇帝ヤズデギルド3世が最後の決戦を挑んだ。この敗北により,ペルシア軍の組織的抵抗は終わり,ササン朝は事実上滅亡した。,(後藤明) 52200,ヌビア,ヌビア,N<印7CF3>ba,,ナイル川第1瀑布より上流のエジプト南部地方を指す。アラビア語ではヌーバ。イスラム教徒のアラブの侵入は,7世紀中ごろに始まる。完全には服従しなかったキリスト教徒の王国は,交易や時折行う貢納により,イスラム社会に奴隷や金を供給した。#ファーティマ朝#まではこのような関係が続いたが,#アイユーブ朝#から積極的な遠征がなされ,#マムルーク朝#の14世紀初めにヌビアは征服された。軍事的征服はアラブの移住と相まってこの地方のイスラム化とアラブ化を促進させた。,(私市正年) 53100,売春婦,バイシュンフ,,,「乞食は売淫と同様に最も古くからの職業と考えられる十分な資格がある」とは中世イスラム世界の浮浪者や#乞食#についての2巻の研究書《中世イスラムのアンダーワールド》(1976)を著したC.E.ボズワースがその書の初めに記した言葉である。アラビアには#ジャーヒリーヤ#時代からカイナという歌い女がいた。#都市#にもいたし,遊牧民の間にもいた。身分は#奴隷#であったが,ある特定の主人の所有物として,賓客などをもてなす役を務める者と,もっと賤しく,酒場に所属したり,流浪の酒売り人に従って歩き,売春婦として媚を売る者との2群に分かれていた。これらは普通,アラブ人ではなく,異郷から連れて来られた女奴隷たちで,白人もいたが,黒人である場合が多かった。イスラム時代に入り,飲酒が禁止されると,大部分の下級歌い女たちも姿を消したが,遊女がことごとくなくなったのではないようで,#ウマイヤ朝#初代カリフ,#ムアーウィヤ1世#により,バスラ総督に登用されたジヤード・ブン・アビーヒの生母はターイフの遊女だったという説がある。1824年から7年間もカイロに住んだE.W.レーンは,そのころ同地の警察は遊女たちを登録し,税金を取っていたと伝えている。またガワージーと総称される女性の踊り子たちがいるが,自分たちはバルマキーと称し,#アッバース朝#の盛時に富強をきわめたバルマク家の子孫といっていたが,実はジプシーのような特殊な種族であり,美貌の者が多く,その一部は売春婦でもあったと伝えている。その他,そのころカイロをはじめ,エジプトには無数の売春婦がおり,彼女らの払う税金は全住民の収入税の1/10に等しかったという。#シーア派#の#十二イマーム派#のみが認めているムトア(一時的契約結婚)の制度は合法的にある期間だけ女性と同棲することを許すものだが,#スンナ派#法学ではこれを認めていない。,(前嶋信次) 53300,バイト・アルヒクマ,バイト・アルヒクマ,Bayt al-<印7CE9>ikma,,「知恵の館」を意味するアラビア語。9世紀に#アッバース朝#カリフ,#マームーン#によってバグダードに建設された研究機関。その主たる目的はギリシア語による哲学・自然科学の書物の収集と,それのアラビア語への翻訳であった。ササン朝時代のジュンディーシャープールの学院の伝統を受け継いだもので,カリフ,#ハールーン・アッラシード#時代の「知恵の宝庫」という図書館が直接の前身となっている。翻訳官の大部分は#ネストリウス派#のキリスト教徒であった。ササン朝時代からギリシア語の学芸はシリア語に翻訳されており,アッバース朝の初期からアラビア語への翻訳も始まっていたが,「知恵の館」は翻訳活動を組織的に行った点に特色がある。#ムータジラ派#の合理的思弁神学を否定し正統派神学に戻ったカリフ,ムタワッキル(在位847〜861)の時代に「知恵の館」は自然消滅したが,王侯が図書と学者を集めた学院(#マドラサ#)を設立するという伝統は残った。,(後藤明) 53600,ハイル・アッディーン,ハイル・アッディーン,Khayr al-D<印77F5>n,1820〜90,チュニジアの近代的改革の推進者。#マムルーク#出身の官僚で,フサイン朝のベイに登用され,1857年から64年にかけての近代的改革で大きな役割を果たした。73年以降宰相として国政の実権を握り,外債償還のための税制改革,法制や学制の改革などの近代化政策を進めたが,こうした上からの改革が国民の負担を強め,77年には守旧派の台頭により失脚,改革も挫折した。,(宮治一雄) 55400,バスマラ,バスマラ,basmala,,「ビスミッ・ラーヒッ・ラフマーニッ・ラヒーミ」という決り文句のこと。「慈悲深く慈愛あまねき神の御名において」の意。イスラム法での義務とされる行為と,勧められる行為を行う際に初めに唱える。また書物や文書の巻頭に記す。コーランの各章は第9章を除き,すべてバスマラで始まる。その行為や文に神の祝福を願うためである。ただ,#礼拝#や#ジクル#はこのバスマラではなく,#タクビール#で始まる。,(後藤明) 55500,バスラ,バスラ,al-Ba<印7CE3>ra,,イラク共和国,現バスラ市の南西郊外にある港湾都市。現在のズバイルがその故地。バスラとは「黒い小石」を意味する。イスラム最初の軍営都市(#ミスル#)で,638年,ウマル1世の命によりウトバが建設した(建設年には異説もある)。#正統カリフ時代#,#ウマイヤ朝#時代は,ホラーサーン,中央アジアなど東方の征服の基地として発展し,またイラクの政治・文化の中心都市としてクーファとその覇を競った。#アッバース朝#になり,バグダードに政治的中心としての地位を譲ったが,商・工・農業の一大中心地として,また#アラビア語#の文法学や#ムータジラ派#など,イスラムの学問・思想の発祥地として繁栄し,最盛期の人口は30万〜60万に達した。9世紀以降は#ザンジュの乱#,#カルマト派#の反乱など相次ぐ争乱によって荒廃し,モンゴルのイラク侵入後,いっそう衰退した。盛時の遺跡としては,#アリー#のモスク,#サハーバ#のタルハとズバイルの墓,#ハサン・アルバスリー#の墓など数ヵ所を数えるのみである。,(花田宇秋) 55600,ハッジャージュ・ブン・ユースフ,ハッジャージュ・ブン・ユー,<印7CE9>ajj<印78E6>j b. Y<印7CF3>suf,661〜714,#ウマイヤ朝#の軍人,政治家。#イブン・アッズバイル#の第2次内乱中,ウマイヤ朝第5代カリフ,アブド・アルマリクに登用されて内乱を終結させ,メディナ総督を経てイラク総督に任命された。#アズラク派#を討伐してイラクの平和を回復し,灌漑や干拓に努めて農業の振興を図った。クーファのアラブ戦士の不満を代表するイブン・アルアシュアスの乱(700〜704)に悩まされたが,新軍営都市ワーシトを建設して武断政治を行い,中央アジア,西北インドを征服させた。,(花田宇秋) 56000,ハディージャ,ハディージャ,Khad<印77F5>ja,?〜619,預言者ムハンマドの最初の妻。#クライシュ族#アサド家出身。595年ころ結婚。その時,ムハンマドは25歳の貧乏な青年で,彼女は40歳を超えた富裕な商人であった。この結婚以前に,彼女は2人の夫と生別・死別しており,何人かの子供もいた。ムハンマドとの間に3男4女をもうけたが,男児はみな夭折した。四女が#ファーティマ#。ムハンマドの教えを受け入れ最初のイスラム教徒となり,終生夫のよき保護者であり,理解者であった。生前は夫に他の妻を許さなかった。,(後藤明) 56300,パドリ戦争,パドリセンソウ,Padri,,19世紀前半,インドネシアのスマトラ西部#ミナンカバウ#地方で,厳格なイスラム教徒(パドリ派)を中心とする勢力が,オランダとの間に展開した武力紛争。発端は,1803年にメッカから戻った3人の#巡礼#者が,#ワッハーブ派#の影響のもとにイスラムの戒律強化の運動を始め,慣習派(アダット派)との間に対立を深めたことにある。慣習派はパドリ派によるこの改革運動を制するため,初めイギリスに,また21年には領土委譲を条件にオランダに武力援助を求めたが,これにより事態は植民地戦争の様相を呈するにいたった。狭義のパドリ戦争はこの21年から45年まで断続的に行われた戦闘を指し,4期に分けられる。1821年以来パダンを拠点にしたオランダは慣習派を助けてソロック地方を除くミナンカバウ全域を32年までに手中に収めたが(第1期),32年から34年にかけてパドリ派は慣習派と共同していくつかの地域を奪回した(第2期)。34年にはイマーム,ボンジョルが現れて戦闘は熾烈をきわめたが,37年にボンジョルもオランダに降伏した(第3期)。その後,なお各地でオランダとの戦闘が続いたが,45年までにソロック地方も平定され(第4期),オランダはミナンカバウ全域を手中に収めることになった。パドリ戦争は,その後バタック,アチェなどで引き起こされる,オランダによるスマトラ征服戦争の発端をなすとともに,ミナンカバウ社会でのイスラム改革運動として後日まで影響を及ぼした。,(土屋健治) 56400,バドルの戦,バドルノタタカイ,Badr,,624年3月,預言者ムハンマドがメッカの#クライシュ族#を破った戦い。メディナに移住(#ヒジュラ#)したムハンマドが,シリアからの帰路にあったメッカの隊商を襲おうとして300余名を率いて出撃。これを知ったクライシュ族もムハンマド軍を襲うため出撃し,メディナからの道がメッカとシリアとを結ぶ通商路と合するバドルで会戦となった。ムハンマドにとって最初の本格的な戦いで,この勝利によりメディナでの政治的立場を強めた。,(後藤明) 56700,ハニーフ,ハニーフ,<印7EE5>an<印77F5>f,,「真の宗教の信徒」を意味するアラビア語。「真の宗教」とは唯一絶対神#アッラー#に帰依することで,コーランは#アブラハム#がハニーフであったことを強調する。すなわち,アブラハムは#偶像#崇拝者ではなくハニーフであり,また,ハニーフではあっても#ユダヤ教#徒でもキリスト教徒でもなかった,と述べている。アブラハムがこのようなハニーフであったと強調する啓示の背景には,預言者ムハンマドとユダヤ教徒,キリスト教徒との論争がある。アブラハムはモーセや#イエス#よりも前の人,すなわち,ユダヤ教やキリスト教の成立以前の人である。それにもかかわらず,彼が「真の宗教の信徒」であったことは,すでに旧約聖書で強調されており,ユダヤ教徒もキリスト教徒も否定できない。アブラハムがハニーフであったという事実から,ユダヤ教でもなく,キリスト教でもない「真の宗教」の存在をムハンマドは導き出した。
 #イブン・イスハーク#の《預言者の伝記》は,イスラム以前のメッカに4人のハニーフがいたとして,その名を挙げている。その1人はムハンマドの妻#ハディージャ#の従兄ワラカである。当時の人々がこの4人をハニーフと呼んだのではなく,彼らが唯一絶対神への信仰を保っていたために,後世の人がコーランでのハニーフの概念を彼らに当てはめたと考えられる。しかし,偶像崇拝・多神信仰が盛んなメッカにあっても,一神教の思想をもつ人々もおり,彼らの思想・行動がムハンマドに刺激を与えたことは事実であろう。,(後藤明) 57000,バーバクの乱,バーバクノラン,B<印78E6>bak,,アゼルバイジャンの#ホッラム教#徒の指導者バーバクが起こした反乱(816〜837)。バーバクはマダーイン(クテシフォン)の人で,アゼルバイジャンのホッラム教の指導者ジャーウィーザーンの弟子となり,師の没後その跡を継ぎ,816年,アゼルバイジャンの山中に拠って反乱を起こした。それはたちまち東はホラーサーン,西はアルメニア,南はジバールにいたる広大な地域を支配し,都市と通商路を脅かした。#アッバース朝#政府は最初なすところがなかったが,835年,カリフ,ムータシムは将軍アフシーンを派遣し,数回の失敗と援軍の到着の後,アフシーンは837年にアゼルバイジャンのバーバクの本拠を陥れた。バーバクはアルメニアに逃れたが,身柄をアフシーンに引き渡され,翌年サーマッラーで処刑された。しかし,バーバクを隠れメシアと信ずるホッラム教徒は,11世紀末までアゼルバイジャンの山中に存続した。,(嶋田襄平) 57500,ハムダーン・カルマト,ハムダーン・カルマト,<印7CE9>amd<印78E6>n Qarma<印73F3>,?〜ca.899,#カルマト派#の創始者とみなされた人物。#イスマーイール派#の活動家で,サワードの同派の秘密組織の責任者であった。890年ごろクーファの近くに隠れ館をつくり,そこを根拠地として暴力的な活動を行う。899年ごろ,イスマーイール派の主流が後の#ファーティマ朝#カリフの家系を#イマーム#として認めた時,これを認めず主流に反旗を翻して姿を消した。この時,彼を支持したイスマーイール派の活動家は,主流とは別な運動を展開するが,彼らは一般にカルマト派と呼ばれることになる。,(後藤明) 57900,ハラーム,ハラーム,<印7EE5>ar<印78E6>m,,イスラム法に定める行為の五範疇のうち,第5番目の禁止される行為をいう。イスラム法では,ハラームをなした者にのみ#刑罰#が科せられる。刑罰は神による罰と人による刑罰に分けられる。不信仰などの最も重いハラームの行為をなした者は,神によって罰せられる(来世は#地獄#に落とされる)が,大部分の行為は人によって罰せられるものである。殺人・傷害などの人身への加害は,同害同復の原則で被害者の近親者によって#復讐#されるか,血の代償であがなわれる。姦通,中傷,飲酒,窃盗などもハラームの行為で,コーランによって行為者への刑罰は定められている。詐欺,恐喝などのハラームの行為は,その刑罰はコーランには定められていないが,#カーディー#によって刑罰が個々の場合に応じて定められる。豚肉や死肉を食べること,#利子#を取ること,月経中の女と通じることなどもハラームであるが,とくに定められた人による刑罰はない。
 ハラームは,メッカの#カーバ#を囲む聖所がマスジド・アルハラーム(聖モスク)と呼ばれるように,神聖不可侵を意味する。ハラームと同じ語根から派生したハラムは,流血・殺生・伐採禁断の地,つまり聖域を意味し,前イスラム時代にはメッカ周辺の地がハラムとされ,イスラム時代には,メディナ周辺の地,およびエルサレムの#岩のドーム#,#アクサー・モスク#を含む区域もハラムとされた。→刑罰,ハレム,(後藤明) 58100,ハーリド・ブン・アルワリード,ハーリド・ブン・アルワリード,Kh<印78E6>lid b. al-Wal<印77F5>d,?〜642,「神の剣」とたたえられた初期イスラム時代の軍人。初めイスラムに敵対していたが,629年,メディナに来て改宗。633年,ムハンマド没後の諸反乱(#リッダ#)を平定後イラクに進軍し,次いでシリアに転戦した。636年,ビザンティン軍を#ヤルムークの戦#で撃破し,アラブのシリア征服を不動のものとした。しかし,#ウマル1世#と対立し,この戦いを最後にヒムス(ホムス)に隠退した。,(花田宇秋) 58700,ハレム,ハレム,harem,,アラビア語ハリームがトルコ語に入ったもの。出入禁断の場所の意だが,とくにイスラム世界において家屋内の婦人専用の部分を意味する。イスラムの風俗習慣には,#ジャーヒリーヤ#時代からのアラビアのそれが引き継がれたものが多いが,婦人が#ベール#で面部や他の部分をも覆う風習もイスラム以前からあった。しかしハレムに押し込められることは,イスラム時代になってから,とくに厳しく行われるようになった。コーラン33章53〜59節には,メディナにあった預言者ムハンマドの家,とくにその妻たちに対しムスリムたちが守るべき心得をいろいろ記してある。たとえば「食事への許しがないのに預言者の室内に入ってはならぬ。招かれた時に入れ。しかし食事が終わったなら,長話はせずに退散せよ。(預言者の妻たちに)何か尋ねる場合は帳の後ろからしなくてはならぬ。預言者の妻たちが(素顔を見られても)罪とならぬのは,彼女たちの父や息子たち,兄弟,兄弟の息子たち,姉妹の息子たち,それらの(同信の)女たち,および彼女たちの右手の所有する者たち(#奴隷#たち)のみである」としている。またコーラン24章31節には,一般のムスリマ(女性のイスラム教徒)たちが守るべきこととして次の諸事が挙げられている。「視線を低くし貞節を守れ。外に現れるもののほかは美(や飾り)を目立たせてはならぬ。ベールを胸の上に垂れよ。おのれの夫または父のほかには,美(や飾り)を現してはならぬ。夫の父,おのれの息子,夫の息子,おのれの兄弟,兄弟の息子,姉妹の息子,自分の女たち,自分の奴隷たち,性欲をもたぬ供廻りの男,女の身体に意識をもたぬ幼児のほかは(そうしなければならぬ)」としてある。これらの教えを典拠とし,中東地方の都市生活上の婦人隔離の風習がますます厳重に仕上げられたものがハレムである。ことに王侯貴族・富裕者の家庭で,この風習は顕著であり,中流以下では一夫一妻の家庭が普通であった。《千夜一夜物語》などには,#アッバース朝#時代のカリフや貴族たちのハレムの情景がよく描かれている。その中の最長編〈オマル・ブヌ・アン・ヌウマーン王とその子たちの物語〉によると,バグダードのその宮廷には1年の月数に従い12の宮殿があり,各宮殿に30の部屋があり,合計360の部屋にはそれぞれ1人ずつの側室が住み,王は各側室に年に一夜のみを割り当てていたとある。このような生活が中世の庶民の想像した最大規模のハレムの姿であったろう。ハレムの風習は社会の近代化とともに消滅しつつあるが,現在でも若干はその余風がある。1909年に#オスマン帝国#スルタン,#アブデュル・ハミト2世#が退位させられハレムが解散されたのが,大規模な宮廷ハレムの終焉を告げるものであったという。→ハラーム,(前嶋信次) 58800,ハワーリジュ派,ハワーリジュハ,Khaw<印78E6>rij,,ハーリジー(単数形)派ともいう。イスラムにおける最初の政治・宗教的党派。過激で非妥協的な行動により,第4代カリフの#アリー#と#ウマイヤ朝#の支配体制を混乱させる一方,宗教・思想の面では,#カリフ#の資格とムスリムの罪の問題を初めて提起した。657年のシッフィーンの戦で,アリーと#ムアーウィヤ1世#の双方が調停によって事態の収拾を図ろうとした時,人間による調停に反対したアリー軍の一部の者が「判決は神にのみ属する」を合言葉にアリーのもとを去り,クーファの近くのハルーラーに集まった。彼らはハルーリーヤ(ハルーラーに集まった者),またはムハッキマ(判決は神にのみ属すると主張する者)と呼ばれた。次いで658年2〜3月に調停工作が失敗した時,#クッラー#(コーラン読誦者)を含む数千の戦士がクーファを脱出し,先の集団に合流した。この脱出行為が彼らの集団名,すなわち「脱出した人々」(ハワーリジュ)になった。クッラーの影響によってしだいに統一され理論化されていった彼らの主張は,神政国家としてのイスラム国家をコーランの規定をそのまま政治に反映させることによって再生しなければならないというものであった。しかし,658年7月,アリーの討伐を受け,ナフラワーンで400〜500人を残して全滅した。#ウマイヤ朝#時代に入ると,南イラクを中心としてゲリラ活動を行いながら勢力を拡大し,とくに第2次内乱中に,アラビア半島,西南ペルシアにも活動を広げた。しかし,路線・思想の相違により,過激派の#アズラク派#,穏健派の#イバード派#などの諸派に分かれた。その後は,一時的に勢力を増すことはあってもしだいに活動は衰え,#アッバース朝#の成立後,イラクにおける活動が途絶した。以後,その活動の舞台は東アラビアと北アフリカ(#ルスタム朝#はイバード派の王朝)に移り,現在では,オマーン,イエメン,北アフリカ,および17世紀にオマーンから伝えられた東アフリカのザンジバルに少数のイバード派が残るだけである。
 彼らのカリフ論の特徴は,その平等主義から,敬虔なムスリムであれば,だれでもカリフになれるとするもので,この点#スンナ派#,#シーア派#と対立する。また同派は調停に同意したアリーをはじめ,同派以外のムスリムを致命的な罪を犯したとして,#カーフィル#(無信仰者)とみなしたが,そのことが,ムスリムにとっての罪とは何であるのか,また罪は人間の責任かという問題を提起することになった。#タキーヤ#(危害を加えられる恐れのある場合に意図的に信仰を隠すこと)は最初ハワーリジュ派によって認められ,のちシーア派によって継承された。,(花田宇秋) 59000,パン・イスラム主義,パン・イスラムシュギ,Pan-Islamism,,「イスラム世界」の統一を目指す思想,運動。すでに早く#シャー・ワリー・ウッラー#の子のアブドゥル・アジーズが,1803年イギリス支配下のインドはダール・アルハルブ(戦いの家)であると宣言する#ファトワー#を発して,#オスマン帝国#カリフへの帰属感を表明したように,それは近代のムスリム世界の状況の中でしばしば#カリフ#制や#ダール#・アルイスラーム(イスラムの家)の概念に即して求められた。しかし,パン・イスラム主義という言葉自体は,1870年代後半のヨーロッパで造語され,急激に広まったものである。19世紀末オスマン帝国スルタン,#アブデュルハミト2世#は,帝国の解体を阻止するため,逆に世界のイスラム教徒への影響力の強化を企て,#アフガーニー#を利用しようとしたり,ダマスクス・メディナ間のヒジャーズ鉄道(巡礼鉄道)を建設したりした。1914年,第1次世界大戦にオスマン帝国が参戦した時,世界のイスラム教徒に向けて#ジハード#が宣せられたが,ほとんど反応はなかった。しかし戦後,カリフ制廃止をめぐっては,インドで強力な#ヒラーファト運動#が起こった。#ラシード・リダー#の《マナール》誌の活動は,カリフ制なき後のイスラム世界統合の希求に支えられていた。第2次世界大戦後では,一時パキスタンが明確にパン・イスラム主義をうたい,イスラム世界会議(1926年メッカで創設,31年以降#アミーン・アルフサイニー#を議長としてエルサレムに本部を置いた)の本部をカラチに移した。#ナーセル#政権下のエジプトでは,#ムスリム同胞団#を禁圧しつつも,#アズハル#大学を通じて世界のイスラム教徒への働きかけがなされた。61年マレーシアの#アブドゥル・ラーマン#はイスラム諸国連盟を提唱し,66年サウディ・アラビアの#ファイサル#国王はヨルダン,イラン,チュニジア等と結んでイスラム同盟の結成を呼びかけた。後者のパン・イスラム主義は,69年#イスラム諸国会議#として実現された。73年の第4次の#中東戦争#はラマダーン戦争とも呼ばれたが,それは広く世界のイスラム教徒の情動に訴える効果を期待するものであった。#イラン革命#以後,現代世界における#ウンマ#の現実を批判して,これにイスラム革命の要求を突きつけようとする運動の高まりの中で,新しいイスラム世界論の局面が生じてきた。,(板垣雄三) 59300,ハンダクの戦,ハンダクノタタカイ,al-Khandaq,,預言者ムハンマドが#メッカ#軍と戦った3度目の戦い。ハンダクとは塹壕を意味する。アブー・スフヤーンを中心にメッカ市民は遊牧民を組織して1万名弱の軍勢を集めて#メディナ#に進攻してきた。ムハンマドは予想された進攻地点に塹壕を掘り持久戦に持ち込んだ。627年4月,約2週間の包囲の後,メッカ市民・遊牧諸部族連合軍は,なんらの成果もあげずに解散し,ムハンマドはメディナを守りきった。,(後藤明) 59700,ひげ,ヒゲ,,,ひげには口ひげとあごひげがある。どちらかというと宗教的にはあごひげのほうが重視される。したがってあごひげにかけて誓いを立てたり,またあごひげを剃り落とす#刑罰#もある。ムスリムにとってあごひげが問題になる理由は,預言者ムハンマドがあごひげを生やし良く手入れはしたが,短く切ったり刈ったりはしなかったからである。それに加えて彼に先行するすべての#預言者#の慣習でもあったためである。それだけにあごひげは若者や召使などがたくわえると,物笑いの種になることがある。口ひげは男性の威厳のしるしである。だから若者でも召使でも#宦官#や男色者に間違えられたくないならば,立派な口ひげをたくわえねばならない。ムハンマドの身だしなみによると,口ひげは口に入らぬように短く切って手入れすることが大切だとされている。またひげを染めることは違法ではない。ムハンマドも染めていたと伝えられている。ムスリム社会では,わきの下の毛や陰毛は逆に抜いたり剃ってしまうという風習がある。,(飯森嘉助) 59800,ヒジュラ,ヒジュラ,hijra,,「移住」を意味するアラビア語。単に居住場所を変わることではなく,従来の人間関係を断ち切って新たな人間関係の中に移ることをいう。一般には,622年の預言者ムハンマドの#メッカ#から#メディナ#への移住と,その前後の教友(#サハーバ#)たちの移住を指す。このヒジュラをコーランではメディナ社会に移ったとはいわず,神の道に移住したと表現する。メッカでのイスラムの発展は絶望とみたムハンマドと教友が,メッカの非信徒である親子・兄弟・親族・知人・友人などとのすべての縁を断ち切り,彼らと戦う決意をしたのがヒジュラであった。ムハンマドのヒジュラの後でも,神の道に移住して来ることはヒジュラと呼ばれ,ヒジュラを行った人々は#ムハージルーン#と呼ばれたが,彼らは必ずしもメディナに移住する必要はなかった。また大征服の時代に征服地の#ミスル#に来て戦いに参加することもヒジュラと呼ばれた。
 ヒジュラがイスラム国家の発展の起点であったとの認識のうえに,後にカリフ,#ウマル1世#は,ヒジュラの行われた年の年初(西暦622年7月16日)を紀元とする#ヒジュラ暦#を採用した。後に#アズラク派#や創成期の#ムラービト朝#で,外部から陣営に加わることをヒジュラと呼び,植民地時代の北アフリカやインドにおいて,異民族の支配から逃れて#ダール#・アルイスラームに移住することもヒジュラと呼ばれた。,(後藤明) 60300,ヒュルフローニエ,ヒュルフローニエ,Christiaan Snouck Hurgronje,1857〜1936,姓は正確にはスヌーク・ヒュルフローニエ。オランダのイスラム学者。ライデン大学で神学とセム語を学び,1880年にメッカ#巡礼#についての論文で博士号を取得した。84〜85年,アラビアに滞在したが,キリスト教徒としてメッカ滞在6ヵ月の最長記録は,彼がいかにアラビア語やイスラム学に精通していたかを物語る。88年から翌年にかけて大著《メッカ》(2巻)をドイツ語で書き,世界的名声を確立した。89年からオランダ領東インド政府官吏としてインドネシアに勤務し,すでに十数年来続いていたスマトラの#アチェ戦争#につき,政庁に助言してその収拾に寄与しつつ,《アチェ人》(2巻,1893〜94)を著した。1906年に帰国してライデン大学アラビア語教授となり,政府の東インドおよびアラビア問題に関する顧問を兼ねた。全集と助言集が出版されている。,(永積昭) 60900,ファイサル,ファイサル,Fay<印7CE3>al b. <印78FE>Abd al-<印78FE>Az<印77F5>z,1906〜75,サウディ・アラビア国王。在位1964〜75。王国の建設者アブド・アルアジーズ・ブン・サウードの第3子。1927年ヒジャーズ知事,28年#ウラマー#会議議長,対外交渉も担当した。53年父の死とともに兄のサウードが即位すると,次期王位継承者に指名され,副首相兼外相となった。サウード王との対立が深刻化する中で,王族の信を集め62年王の政務代行,64年ウラマー会議の決議を得てサウードを退位させ即位した。財政再建に努め,保守勢力の抵抗を排して教育・通信・運輸の近代化を推進した。外交上は一貫して親米の立場をとり,62年以降イエメン内戦に介入して#ナーセル#の社会主義路線と軍事的にも対決した。66年イスラム同盟の結成を提唱し,67年の六月戦争後は対エジプト関係を改善しつつ,69年#エルサレム問題#で#イスラム諸国会議#開催の主導権をとった。73年の十月戦争では石油戦略発動に中心的役割を演じたが,やがて甥に暗殺された。,(板垣雄三) 61200,ファーティマ,ファーティマ,F<印78E6><印73F3>ima,ca.606〜632/3,預言者ムハンマドの四女。後に第4代カリフとなる#アリー#と結婚し,ハサンおよび#フサイン#の2男をもうけた。ムハンマドの血はこの系譜を通して今日に伝わった。父の生前から,父の妻や縁者で構成されているムハンマド家ともいうべき集団の世話役であった。父の死後,権力がムハンマド家から離れたことに抗議しつつ,間もなく死去した。後世,理想の女性とみなされ,とくに#シーア派#世界で#ファーティマの手#をかたどった#護符#が愛用されている。,(後藤明) 62300,フェス,フェス,F<印78E6>s,,モロッコ北部の都市。アラビア語でファース。789年#イドリース朝#の都として建設された後,モロッコの学問と文化および商工業の中心都市として発展し始めた。#ムラービト朝#期には川をはさむ二つの町が合併され,マリーン朝期の飛躍的発展を準備した。13世紀の中ごろ,マリーン朝の都となると,新しい市街地や多くの#マドラサ#と#モスク#が建設され,織物と皮革に代表される商工業の発展と相まって,学問と文化が非常に栄えた。スペインや西サハラの#マリ帝国#との交流も活発に行われた。サード朝期には一時衰えたが,17〜18世紀のアラウィー朝期に再び繁栄した。9世紀に建てられたカラウィーイーン・モスクが有名。,(私市正年) 62700,フサイン,フサイン,<印7CE9>usayn b. <印78FE>Al<印77F5> b. Ab<印77F5> <印75E7><印78E6>lib,625〜680,#シーア派#第3代#イマーム#。第4代カリフ,#アリー#と預言者ムハンマドの娘#ファーティマ#との間に生まれた第2子。メディナに隠退していた兄ハサンの死で,シーア派は彼を同派の盟主と仰ぐにいたった。680年,#ムアーウィヤ1世#の死後,#カリフ#位を継承したヤジードを認めず,シーア派の招きに応じてクーファで反旗を翻すべく同地に向かった。しかし,クーファ近郊の#カルバラー#で#ウマイヤ朝#の政府軍に包囲され,これと戦って戦死した(680年10月10日,#ヒジュラ暦#61年ムハッラム月10日)。彼の死でシーア派の政治的運動は頓挫し,以後同派の運動はしだいに宗教的色彩を強めていった。彼の殉教は,以後のシーア派の精神的拠り所となった。とくに#サファヴィー朝#以後,イランのシーア派ムスリムは,フサインの死を悼み,毎年ムハッラム月の最初の10日間,殉難祭を行い,最終日の10日目(#アーシューラー#)に祭は頂点に達する。,(花田宇秋) 62800,フサイン,フサイン,<印7CE9>usayn b. <印78FE>Al<印77F5>,ca.1852〜1931,ヒジャーズ王。在位1916〜24。第1次世界大戦下のアラブ反乱の名目上の代表者。預言者ムハンマドの後裔とされるハーシム家の生れ。#オスマン帝国#の#アブデュルハミト2世#の命令でメッカに拘束されたが,1908年#青年トルコ#革命で#シャリーフ#としてメッカ知事となった。アラブ民族主義者たちに推戴され,14年末よりカイロに密使を送ってイギリス側と接触(#フサイン・マクマホン書簡#),戦後のアラブ王国独立の承認の約束をとりつけ,息子のファイサル1世,アブド・アッラーフ・ブン・フサインらとともに反乱を開始し,16年ヒジャーズ王となった。24年#カリフ#制廃止に即応して自らカリフを宣言したが,ムスリム指導者間で孤立,同年サウード家のアブド・アルアジーズ・ブン・サウードにメッカを攻められ,アカバに逃亡し,25年イギリス船でキプロスに亡命した。31年アンマンで死去,エルサレムに埋葬された。,(板垣雄三) 63200,フダイビヤの和議,フダイビヤノワギ,al-<印7CE9>udaybiya,,628年3月,預言者ムハンマドとメッカ市民との間に結ばれた和議。フダイビヤはメッカ郊外の地名で,ここがメッカの聖域の境界である。#バドルの戦#の敗戦後,メッカはムハンマド軍に#ウフドの戦#である程度の復讐はしたものの,#ハンダクの戦#でも決定的な勝利を得られず意気消沈していた。ムハンマドは夢に促されて#巡礼#に旅立ち,フダイビヤに滞在した。メッカは敵対するムハンマドとその信徒を巡礼者として迎え入れることもできず,また戦う力もなく,10年間の休戦をおもな内容とする和議を結んだ。交渉の間,一時ムハンマドの使者が殺されたと信じられ,ムハンマドは1400名の仲間にいかなる事態になっても彼の命に服することを誓わせた。これを樹下の誓い(#バイア#)という。和議に従ってムハンマドは翌年巡礼を果たしたが,さらにその翌年和議は破れ,ムハンマドはメッカを征服した。,(後藤明) 63500,フトバ,フトバ,khu<印73F3>ba,,金曜日の正午の集団礼拝や二大祭(#イード#)の#礼拝#の際に,礼拝に先立ってなされる説教。これを行う人間をハティーブという。フトバは2度なされ,ハティーブはフトバの際は立ち,最初と2度目のフトバの間は座るなど,フトバの儀式は細部にいたるまで定式化されている。フトバは2度とも,まず神をたたえ,預言者ムハンマドに神の祝福があらんことを求めることによって始まり,続いてコーランの数節が朗誦される。この際,ムハンマドに続いて,その時の支配者にも神の祝福が求められることがしばしばある。このような形でフトバで名を読み上げられれば,集団礼拝の参加者はその支配者の支配を承認したことを意味し,逆にその名がフトバから落とされれば,その支配が承認されないことを意味した。クーデタ,独立などの重要な政治行為が,フトバを通じて民衆に知らされたのである。,(後藤明) 63600,ブトルス・アルブスターニー,ブトルス・アルブスターニー,Bu<印73F3>rus al-Bust<印78E6>n<印77F5>,1819〜83,#アラビア語#への知識を深め,愛情を喚起することに生涯を捧げた啓蒙的な人文主義の民族主義者。レバノンの#マロン派#キリスト教徒の名門に生まれた。アメリカのプロテスタント宣教師らと協力して,近代の学術への目を開きながら,#ナーシーフ・アルヤージジー#とともに近代思想を典雅なアラビア語で表現することに努力した。1863年ベイルート郊外に「国民学校」を創設し,70年には学術文芸誌《ジナーン》,政治評論紙《ジンナ》を発行して,一群の文筆家を養成するのに貢献した。聖書をアラビア語に訳したほか,アラビア語大百科事典を企画,執筆中に没。祖国愛こそ第1の信仰箇条であることを説いた。,(林武) 64900,ベグ,ベグ,beg,,「首長」「支配者」を意味するトルコ語の称号。地域と時代によりさまざまな用法があり,語形にもベグ,ベク,ベイ,ビー等多くの変化形があるが,すべては古代トルコ語のベグにさかのぼる。本来のトルコ語ではなく,他の言語からの借用語。語源に関しては,ペルシア語のバグ(神聖な)とする説と,中国語の「伯」とする説がある。古代トルコ語のベグは,特定の官称号ではなく,一般人民に対して,貴族身分の者を指す称号であった。トルコ族のイスラム化以後は,アラビア語の#アミール#と同義に用いられ,また#スルタン#,#ハーン#等の称号を有する支配者に服属する地方的な支配者もこの称号で呼ばれた。#オスマン帝国#では,貴族,文武の高級官僚およびその子弟がベイと呼ばれた。人名の後に付する尊称としての用法は,特定の社会階級を超えて用いられるようになり,トルコ共和国およびその他のトルコ語圏において,男性に対して用いられる最も普通の尊称となっている。,(濱田正美) 65400,ベフバハーニー,ベフバハーニー,Behbah<印78E6>n<印77F5>,ca.1844〜1910,#イラン立憲革命#期(1905〜11)のテヘランにおける指導的立憲派#ウラマー#の一人。#タバコ・ボイコット運動#に際しては,ボイコットに批判的立場をとったが,立憲運動には積極的に関与した。第1議会(1906〜08)では,ユダヤ教徒を代弁して議席を占めた。続く第2議会(1909〜11)では穏健派に隠然たる影響力を有したが反対派により暗殺された。,(八尾師誠) 65900,ベルベル勅令,ベルベルチョクレイ,,,1930年5月にフランス保護領モロッコで公布された法令。アラブ地域とベルベル地域を区画し,前者ではイスラム法(#シャリーア#),後者では慣習法による裁判を行うよう定めた。モロッコの#スルタン#名で公布されたが,実質的にはフランス植民地当局が強制したものであり,スルタンの権威とイスラム法の適用範囲を縮小すると同時に,アラブ系住民とベルベル系住民を分断することを目指すものであった。モロッコ人はこれをイスラムへの挑戦として受けとめ,同法令への反対を契機として,1920年から文化運動として高まり始めていたモロッコ人の自己主張が政治運動に転化していった。33年の「国民行動連合」結成,翌年のモロッコ改革案発表などがその表れである。同法令はこのように分割統治政策の典型例であるとともに,モロッコ民族運動の起点としての意味をもっている。,(宮治一雄) 67100,マウリド,マウリド,mawlid,,マウリド(生誕祭)はコーランにも#ハディース#にも準拠していないが,(1)預言者ムハンマドのマウリド,(2)#シーア派#のマウリド,(3)#スンナ派#神秘主義#聖者#のマウリドの三つのタイプがある。#ワッハーブ派#は,これらのマウリドが人間の神格化を促すものとして軽視ないしは違法としているが,他のイスラム世界では盛大に祝われている。エジプトでは(1)の際に花嫁やラクダ,馬などの動物をかたどった砂糖菓子がつくられ,祭が終わるとそれらを食べるという伝統的な風習がある。またこの際にムハンマドの美徳や奇跡をたたえる詩が長々と吟じられ,ムハンマドの生涯が鳴物入りで多少粉飾した形で朗詠される。(2)の場合は#アリー#以下の歴代の#イマーム#の生誕祭を盛大に祝うことになるが,シーア派の神秘主義聖者もまたアリーの子孫に当たるとされ,その生誕祭が祝われる。(3)の場合はそれらが地方最大の縁日となり,近郊の農村から人を集めて賑わい,商売も大繁盛する。そしてこれらのマウリドの期日は,農繁期を避けて人為的に決定され,しかも#ヒジュラ暦#によらず地方の農事暦によって年に2回行われることも珍しくない。→イード,祭,(飯森嘉助) 68300,マスウーディー,マスウーディー,al-Mas<印78FE><印7CF3>d<印77F5>,ca.896〜956,バグダード生れの著名な学者。彼の学問的態度は,当時の多くのイスラム知識人と同様,自然現象・地理・歴史・部族・動物・植物・鉱物などの,いわば大宇宙の森羅万象の諸現象について,その具体的なあり方と多彩で有機的な様態を解明することにあった。したがって,彼は若いころからインド洋周辺の諸地域,シリアやエジプトなどを広く巡り,自らの観察と経験を積み,収集した膨大な資料をもとに,30巻に及ぶ大百科全書《時代の情報》を著した。現存する書は,この抄録・要約本といわれる《黄金の牧場と宝石の鉱山》である。また晩年には《提言と再考の書》を著して,彼の学問体系を簡潔に整理した。,(家島彦一) 68600,祭,マツリ,,,宗派の別なくイスラムの二大祭(#イード#)は断食明けの祭(イード・アルフィトル)と犠牲祭(イード・アルアドハー)である。このほかに,(1)#ヒジュラ暦#の元日,(2)ムハンマドの生誕祭(ラビー・アルアッワル月の12日),(3)夜の旅と昇天(#イスラー・ワ・ミーラージュ#)記念の夜(ラジャブ月の27日の前夜),(4)シャーバーン月の15日(ニスフ・シャーバーン)の前夜,(5)#ライラ・アルカドル#(力の夜,ラマダーン月の下旬の一夜)などがある。#シーア派#ではこのほかムハンマドが#アリー#のカリフ権を表明したとする事件を記念するガディール・フンムの祭(ズー・アルヒッジャ月の18日)や,アリー,#ハサン#,#フサイン#の殉教記念日を重視する。とくにフサインの殉教記念日#アーシューラー#(ムハッラム月の10日)は,シーア派最大の行事である。このほかシーア派においては,歴代#イマーム#(6代,8代,12代など)の生誕祭(#マウリド#)や命日が重視される。また宗派の別なく#イスラム神秘主義#の#聖者#の生誕祭が地方的な祭として広く行われている。→イード,マウリド,(飯森嘉助) 70100,マラブー,マラブー,marabout,,アラビア語のムラービトに由来する言葉で,マグリブにおいて#リバート#に住む修道士を指す。8世紀末から,モナスティールやスースなどチュニジアの海岸地域に建設され始めたリバートは,キリスト教徒に対する#ジハード#(聖戦)のための軍事的要塞であるとともに,信仰と布教の拠点でもあった。イスラムの浸透に伴い,11世紀ころになると,リバートは内陸部にも建てられるようになったが,その役割は軍事的というよりも,宗教的性格を強めていった。西アフリカに興った#ムラービト朝#は,そのようなリバートの修道士が建てた王朝である。13〜14世紀ころからの#イスラム神秘主義#の発展に伴い,リバートは#スーフィー#の修行場である#ザーウィヤ#を意味するようになり,マラブーは#聖者#を指すようになった。このようにしてマラブーは聖戦の兵士としての軍事的性格を喪失した。それとともに,マラブーの名前にシディsidiあるいはムーレイmoulay(ともに「私の主人」の意でアラビア語からきた語)という称号が用いられ始めた。また現在ではマラブーは聖者が埋葬されているリバートまたはザーウィヤを指す場合にも使用されている。,(私市正年) 70400,マーリク・ブン・アナス,マーリク・ブン・アナス,M<印78E6>lik b. Anas,ca.709〜795,イスラムの法学者。スンナ派四法学派の一つ#マーリク派#の祖。祖父も父もメディナの学者として知られ,彼自身もメディナで生まれ,学び,没した。生前からメディナの初期法学派の巨頭として大きな影響力をもっていた。#アッバース朝#のカリフもしばしば彼に法に関する意見を諮問し,カリフ,#ハールーン・アッラシード#は#巡礼#の際,彼の自宅を表敬訪問した。主著は《ムワッター》。,(後藤明) 71100,マワーリー,マワーリー,maw<印78E6>l<印77F5>,,アラビア語マウラーの複数形。マウラーはコーランで,信者の保護者としての神を意味し,#ゴルトツィーハー#はその本来の意味は親族であると言う。前イスラム時代および初期イスラム時代のアラブの部族社会では,解放された#奴隷#は自由人になるのではなく,旧主人のマウラー(被護民)とされ,しばしばその家庭内にとどまった。征服戦争の時代には,解放された捕虜も自由人になるのではなく,分配を受けた旧所有者のマウラーとされ,その#家#の一員とされた。#ウマイヤ朝#時代から,自由身分のアラブだけでなく,#ムアーウィヤ1世#のマウラーであったキリスト教徒マンスール父子の例のように,非アラブの非イスラム教徒も,アラブの有力者の保護を受け,そのマウラーとなる者が生じた。このような保護関係をワラー,保護関係を結ぶことをムワーラートといい,保護者に対して被護者,被護者に対して保護者を,いずれもマウラーと呼ぶ。非アラブが改宗して#ムスリム#(イスラム教徒)になるのも,このムワーラートを通じてであり,いわゆるマワーリー問題は,このような非アラブ・ムスリムの増加によって引き起こされた問題である。
 征服地の非アラブ住民の改宗は古くからあったが,それが重大な政治・社会問題となったのは,7世紀末の#サワード#においてであった。ウマイヤ朝の政治はアラブの非アラブ支配の原則に立ち,アラブは事実上の免税特権を享受し,征服地の非アラブ農民は重い#ハラージュ#を支払わされていた。7世紀末のサワードで,多くの農民がハラージュを免れるため農村を逃れてクーファ,バスラに集まったが,アラブの支持を得られなかった#ムフタール#は,クーファで反乱を起こすにあたり,彼らを#ディーワーン#に登録して#アター#(俸給)を支給し,兵士として利用した。その際,アターを受けるのはアラブ・ムスリムの特権と考えられていたので,これらの非アラブ農民のイスラムへの集団的改宗が行われた。反乱は鎮圧され,イラク総督#ハッジャージュ・ブン・ユースフ#は彼らを農村に追い返し,従来どおりハラージュを徴収し続けた。マワーリーは,同じムスリムの当然の権利として,アラブとの租税負担の平等を求めてやまず,同じような要求は下エジプトでも始められた。またワリード1世の時代に再開された征服に多くのマワーリーが参加したが,彼らにはアターが支給されないことが多く,アラブとの平等を求めるマワーリーの不満は高まり,政府は対策に苦慮した。#ウマル2世#の税制改革はこのような背景のもとに行われ,それは直接マワーリーの不満の解消にならなかったが,それを契機にムスリムの平等がアラブ,非アラブ双方に強く意識され,それは#アッバース朝#の成立によって実現された。以後,非アラブ・ムスリムを意味するマワーリーという言葉は無意味となって使われなくなり,その後マウラーと呼ばれたのは,アラブ,非アラブに関係なく,カリフをはじめアッバース家有力者の腹心であった。,(嶋田襄平) 71400,右と左,ミギトヒダリ,,,ムスリムの右手優先の思想はコーランによって規定されている(17章71節,56章27〜38節,69章19〜20節)。もちろんムハンマドもこのように行動したことには疑いの余地はない。また右(ヤミーン),右手(ヤムナ)を示すアラビア語の基本概念のうちにも,すでにこのことが暗示されている。すなわち語根y-m-nは幸福,幸運,祝福,吉兆,成功,繁栄を意味している。したがってよほどの理由がないかぎりイスラム社会では,手にしろ足にしろ#バラカ#(祝福,御利益)は右から始めることによって成就すると考えられている。だから靴をはく時は右足から先にはく(ただし脱ぐ時は左から脱ぐ)し,家や#モスク#も必ず右足から踏み込むことになっている。たとえ左利きの人でも飲み食いは右手で食べることが正式なのもそのためである。#礼拝#前のウドゥー(清浄行為)もすべて右から始めなければならない。また着物の袖を通す場合も,右からと決まっているし,髪の毛を刈る時も右側から刈っていく。一方,左手は用便をする時に用いる不浄な手と考えられている。ハディースに「用便をする時に右手を使うな,それ(陰茎)を洗う時も右手を用いることなかれ」とあり,トイレに入る場合には,左足から先に踏み込むことになる。ヨーロッパ人によって言い古された「右手にコーラン,左手に剣」といえば,ムスリムはみな左利きということになり,仮に「左手にコーラン,右手に剣」といえば最も不浄な手で最も神聖なものを持つという不合理に陥ってしまい,どちらもキリスト教徒側の単なる誹謗と虚構であることは明白である。,(飯森嘉助) 72300,ムアーウィヤ〔1世〕,ムアーウィヤ,Mu<印78FE><印78E6>wiya,?〜680,#ウマイヤ朝#の創建者でその初代#カリフ#。在位661〜680。父は預言者ムハンマドに敵対したメッカの#クライシュ族#ウマイヤ家の指導者アブー・スフヤーン。633年の秋,異母兄ヤジードの軍に従ってシリア征服に向かい,639年,ヤジードの死で,ウマル1世によりシリア総督(#アミール#)に任命された。#ウスマーン#のカリフ就任後は,地中海に進出するなどしてシリアでの支配を固めた。656年にウマイヤ家出身のカリフ,ウスマーンが殺されると,その血の復讐を叫んで4代カリフ,#アリー#と対決した。657年のシッフィーンの戦を境としてしだいに勢力を拡大し,660年エルサレムでカリフを宣言,661年のアリーの暗殺でダマスクスにウマイヤ朝を開いた。#ディーワーン#の創設,ビザンティンへの定期的遠征を行うなど,内乱で混乱したイスラム国家を建て直した。反面,実子ヤジード1世を次期カリフに指名し,カリフ世襲化の道を開いた。,(花田宇秋) 72700,ムカンナーの乱,ムカンナーノラン,al-Muqanna<印78FE>,,「ムカンナー」(覆面者)とあだ名されたハーシム・ブン・ハキームがマー・ワラー・アンナフルで起こした反乱(776〜783)。反徒はムバイイダ(白衣を着る者)と称され,#ホッラム教#徒の現地の農民と,トルコ人部族民からなり,ムカンナーはアダムに始まり#アブー・ムスリム#(別の報告ではムハンマド・ブン・アルハナフィーヤ)にいたる預言者に具現された神の化身の最後とされた。,(嶋田襄平) 72800,ムサイリマ,ムサイリマ,Musaylima,?〜633,預言者ムハンマドの死の前後に輩出した偽預言者の一人。本名はおそらくマスラマで,ムサイリマは軽蔑を意味する縮小形。今日のリヤドがあるヤマーマ地方を根拠地として,ハニーファ族の人を中心に自らの宗教を説き人々を組織した。ムハンマドの生存中から活躍し,アラビアを2人で2分しようと提案した。初代カリフ,#アブー・バクル#の派遣した軍に激戦の末敗れて戦死した。,(後藤明) 73400,ムスリム同胞団,ムスリムドウホウダン,Ikhw<印78E6>n al-Muslim<印77F5>n,,20世紀エジプトで生まれたイスラム宗教社会運動の団体。#ハサン・アルバンナー#を中心に秘密結社として1929年4月イスマーイーリーヤで結成,33年,本部はカイロに移った。30〜40年代を通じてしだいに都市の労働者,職人,小商人,学生の間に拡大し,公然たる運動となった。現代生活の全局面でのイスラムの徹底化を主張し,コーランを#憲法#とするイスラム国家の建設と社会的正義(アダーラ)の実現とを要求し,#ウンマ#の内側に生じた腐敗・堕落を排撃して,巨大な大衆動員力をもつ政治・社会団体となった。核→細胞→家族→軍団と積み上げられるピラミッド型の集権的組織をもち,各レベルにナキーブ(指導者)が置かれ,頂点に立つハサン・アルバンナーがムルシド(導師,団長)として統轄した。イルティハーム(結び)の儀式を伴う秘密の入団式があり,団員の昇級には身体検査を含む試験と,各レベルごとの特定の訓練および宣誓とが要求された。クラブ,成人学校,#モスク#をもち,労働組合と婦人運動に積極的に進出し,青少年組織とスポーツ団体を掌握,商事・紡織・出版等の企業を運営し,宣伝(パンフレットの大量印刷,拡声器による街頭扇動,ラジオ放送)を重視した。38年,第5回総会は自らを「#サラフィーヤ#(イスラム純化運動),正しき道,#タサウウフ#の実現,政治団体,体育グループ,科学文化協会,企業体,社会的理想」と規定した。公然活動のほかに秘密機関をもち,地下軍事組織をも建設した。第2次世界大戦後,首相,蔵相,警視総監ら要人の暗殺や爆破事件などテロ活動を組織し,反イスラエル・反英の#ジハード#運動に大衆を動員し,52年の自由将校団のクーデタにいたる革命情勢を醸成した。しかしこの間,49年ハサン・アルバンナーを継いで団長となったハサン・イスマーイール・アルフダイビーのもとで,指導部に分裂が進行した。ムハンマド・アルガッザーリーや#サイイド・クトゥブ#らの著作活動はむしろこの時期の理論的統一の希求を示す。同胞団と密接な関係にあったサーダートらを擁する自由将校団は,権力掌握直後は微妙な対同胞団政策をとったが,54年1月解散令を発し,同年10月#ナーセル#狙撃事件を機に弾圧に踏み切り,これを解体した。しかし大衆意識の中にその思想的影響力は強く残り,内外(解体後,活動の本拠はサウディ・アラビアに移る)で再組織の企てが持続した。こうして脱ナーセル化の過程を経た76年6月,その機関誌《ダーワ》(呼びかけ)が復刊され,活動の再開が事実上公認されるにいたった。#シャリーア#の実施要求やイスラエルとの平和条約への反対などについては政府に対して批判的に振る舞うことが容認された。この段階では,同胞団を乗り越えようとする#タクフィール・ワルヒジュラ#など新世代の諸地下運動が生じてきた。81年9月には,サーダート政権末期の広範囲な政治弾圧のもとで,その対象の一つとされた。1937年ダマスクス支部設立をはじめとして,同胞団はパレスティナ,ヨルダン,スーダン等,他のアラブ諸国にも拡大していったが,第2次世界大戦を通じて自立的組織となったシリアの同胞団は,そこでの一政治勢力としての位置を占め,シリア北部,ことにアレッポを中心に,エジプトとの統合への,次いで#バース党#体制への批判者となった。,(板垣雄三) 73800,ムデーハル,ムデーハル,mud<印79F6>jar,,アラビア語のムダッジャンがスペイン語に転訛したもので,「残留者」すなわち,キリスト教徒に再征服された後のイベリア半島で,自分たちの信仰・法慣習を維持しながらその地に被支配者として残留を許可されたイスラム教徒をいう。1085年の#トレド#陥落以後のレコンキスタの進展で,ムデーハルの数はしだいに増加した。時とともに彼らはスペイン社会に同化してロマンス語を話すようになった。彼らがイスラムの優れた文化・学問・技術を,中世スペイン,ひいてはヨーロッパ諸国に伝達した役割は大きい。彼らの多くは#コルドバ#,セビリャ,トレド,バレンシアなどの大都市に居住し,建築業,革細工,金属細工,彫刻業,織物業,文筆業などに従事していた。彼らの活動によって,イスラム文化と中世スペイン・キリスト教文化との融合がなされた。この融合文化をムデーハル文化といい,それを代表する建築物としてセビリャのアルカサルがある。,(花田宇秋) 73900,ムナーフィクーン,ムナーフィクーン,mun<印78E6>fiq<印7CF3>n,,預言者ムハンマドに忠実でなかったメディナの信徒を指すコーランの用語。偽善者,偽信徒と訳されることが多い。622年の#ヒジュラ#の後,ムハンマドによるメディナの内戦の調停に異を唱えたのはごく少数で,大部分はこれを歓迎した。しかし,#アンサール#として彼に無条件に従った信徒以外に,当時のメディナには#ユダヤ教#徒や#偶像#崇拝者とともに,イスラムを受け入れながらもムハンマドの指導に素直には従わない人々もいた。#ウフドの戦#の際,そのような信徒が決戦の直前に戦線を離脱したので,ムハンマドは苦戦を余儀なくされた。そのため,ムハンマドはこのような信徒をムナーフィクーンとして批判した。これ以後,さまざまな場合に,ムハンマドの命に忠実でない信徒は同じ名称で批判され,ムハンマド没後の政争の際も,しばしば,政敵はムナーフィクーンとして批判されるようになる。,(後藤明) 74100,ムハージルーン,ムハージルーン,muh<印78E6>jir<印7CF3>n,,「移住者」を意味するアラビア語。従来の血縁・地縁から離れ神の道に#ヒジュラ#(移住)を行った人々をいう。622年の預言者ムハンマドのヒジュラ前後に#メッカ#から#メディナ#に移住した70余名の成年男子とその家族が最初のムハージルーンである。#アンサール#とともに形成期のイスラム教団国家の中核であった。その生計は,当初,アンサールに頼っていた。ヒジュラ後4年,#ユダヤ教#徒ナディール部族をメディナから追放し,彼らのナツメヤシの農園の分配を受けた後は,最初のムハージルーンはメディナの中流以上の資産家になった。ムハンマドの権威の増大とともに,メッカやアラビアの他の場所からメディナに来るムハージルーンの数は増え,630年のメッカ征服時には,成年男子の数で700名に達していた。ムハンマド没後の教団国家を指導したのはアンサールではなくムハージルーンであった。大征服時代,軍営都市(#ミスル#)に移住した戦士もムハージルーンと呼ばれることがある。,(後藤明) 74300,ムハンマド・アブドゥフ,ムハンマド・アブドゥフ,Mu<印7EE5>ammad <印78FE>Abduh,1849〜1905,エジプトのイスラム改革思想家。ナイル・デルタの小農の家庭に生まれたが,#アズハル#学院に学び,1877年アズハルで講じるほか,官吏・教員養成のため新設された#ダール・アルウルーム#の教師ともなった。この間#アフガーニー#の思想的影響下で立憲運動に加わり,79年故郷に追放されたが,翌年カイロに戻って官報編集長となり,民族運動を支える指導的#ウラマー#の一人として#オラービー運動#に積極的に参加した。82年革命の敗北により逮捕され,国外追放となり,84年亡命先のパリでアフガーニーと協力して《固き結合》誌を刊行し,ムスリム世界への扇動に従事した。85年ロンドンからチュニスを経て#マフディー派#勢力下のスーダンに潜行を企てて果たさず,ベイルートで活動した。88年許されて帰国,裁判官となるが,これ以後は政治行動を離れて国民教育に専念した。95年以降アズハルの組織と教育内容の改革に努力し,99年立法会議議員に指名されるとともにエジプトの最高#ムフティー#となると,#マーリク派#の立場で#マスラハ#(社会的利益)とタルフィーク(適用の工夫)を重視しつつ,#利子#・配当,食物,衣服などに関して弾力的法解釈による#ファトワー#(意見書)を発した。この間,改革思想を体系的に示すため,弟子の一人#ラシード・リダー#の協力を得て#タフシール#(コーラン注釈)の完成を目指したが,未完に終わった。理性と啓示との調和を説く立場,帰国後の政治的漸進主義,ヨーロッパ文化への関心は,#ムータジラ派#とか親英派などという非難も生んだが,合理主義の立場で伝統を革新することこそ,父祖(サラフ)の時代の真に本源的なイスラムの精神を復興することであると説き,#サラフィーヤ#の近代主義的展開に礎石を据え,20世紀イスラム改革思想に決定的方向づけを与えた。,(板垣雄三) 75400,ムラービト朝,ムラービトチョウ,al-Mur<印78E6>bi<印73F3>,1056〜1147,西サハラに興った#ベルベル#王朝。スペイン語ではアルモラビデ。遊牧部族であるサンハージャ族の指導者ヤフヤーは,メッカ巡礼の帰途,宗教的情熱にかられ,モロッコの学者イブン・ヤーシーンを説教師として招いた。セネガル河口の小島に建てられた#リバート#(修道場)で彼の説教を聴いた修道士たち(ムラービトゥーンと呼ばれ,王朝名の起源である)は,やがて#ジハード#を唱え,南下して#ガーナ王国#を滅ぼし(1076),スーダンのイスラム化への道を開いた。イブン・ターシュフィーンに率いられた軍隊は北上し,モロッコとアルジェリアの西半分を征服,首都#マラケシュ#を建設し(ca.1070),さらにイベリア半島南部をも征服・支配した。イベリア半島の支配とともに,進んだ建築技術や学問がマグリブに流入した。国家の地方行政組織は未発達であり,経済的基礎は交易路の支配にあった。#アッバース朝#のカリフ権を認めて#マーリク派#の法学を支持したこと,および土着の異端的諸勢力を消滅させたことは,マグリブに#スンナ派#による統一をもたらした。征服が完了し,宗教的情熱を喪失するとともに軍事力も衰え,新興の#ムワッヒド朝#に滅ぼされた。,(私市正年) 75800,ムワッヒド朝,ムワッヒドチョウ,al-Muwa<印7EE5><印7EE5>id,1130〜1269,チュニジア以西の北アフリカとイベリア半島南部を支配した#ベルベル#最大の王朝。スペイン語ではアルモアデ。創始者アブド・アルムーミンは,#イブン・トゥーマルト#の宗教運動を基礎に,アトラス山中の定着民マスムーダ族を率いてアトラス山中のティーンマッラルに建国した。1145年にはイベリア半島に軍隊を派遣,間もなく半島南部を支配し,47年には#ムラービト朝#を倒し,都を#マラケシュ#に移した。帝国経済の基礎は,交易路の支配にあったが,農業技術の改良や,鉄,銅,銀などの採掘,皮革をはじめとする手工業の発展も著しく,それに伴い学問や芸術が栄えた。#イブン・トゥファイル#や#イブン・ルシュド#が宮廷で仕えたのはその象徴である。政治的機構の基本は,アルモアデ・ヒエラルヒーと呼ばれる職能別の政治的・軍事的組織であった。支配者層内部の対立抗争,マスムーダ族に比して宗教的情熱に乏しい諸族(アラブ,ザナータ,トルコ系のオグズなど)の役割の増大と彼らの反抗,レコンキスタ運動の強化によるラス・ナバス・デ・トロサの戦での敗北(1212)などにより衰退し,1269年マリーン朝により滅ぼされた。農村部のイスラム化とモロッコのアラブ化が進んだ。,(私市正年) 76500,モサラベ,モサラベ,moz<印73E6>rabe,,アラビア語のムスターリバ(アラブ化した人々)がスペイン語に転訛したもの。イスラム・スペインにおいてキリスト教徒でありながら,言語・文化的にはアラブ化したスペイン人を指す。東方イスラム世界の#ジンミー#と同じく被支配者として租税を支払う代りに,信仰の自由は保証され,ムスリム各社会層と調和した。彼らの多くは,コルドバ,セビリャ,トレドなどの大都市に住み,商工業に従事していたが,芸術家,建築家,宮廷文筆家として活躍する者も多かった。彼らはアラブ支配者とスペイン人被支配者の間に位置し,両者のパイプ役となった。とくにイスラムの諸学や芸術・文化の北方のキリスト教諸国への伝播に貢献した。馬蹄形のアーチや丸天井などの建築様式は彼らの活動の所産で,これをモサラベ様式という。しかし,レコンキスタ運動が進展するにつれ,同宗者のレコンキスタ軍と同郷者のムスリム勢力の中間にあって動揺したが,#ムラービト朝#と#ムワッヒド朝#の到来によってその活動はしだいに制限されていった。,(花田宇秋) 76900,モダニズム,モダニズム,,,近代思想の原理と方法をイスラムに持ち込み活性を取り戻そうとする動向の総称で,一律な内容のものではない。大まかには,(1)中世的な論理で構成される教義・社会観から,イスラムを解放しようというもので,イスラム教学組織の改革,教育の振興(直接には識字運動),(2)イスラムを自由主義的な発想で再解釈しようとする#世俗化#的立場に立つ知識人たちの活動,の二つがある。いずれにしても,残念なことに,イスラムの宗教的核心や宗教的感情の中心からそれたところで問題を展開したから,イスラムの新生にはならなかった。したがって,(3)現代的な価値・思想・科学的発見のいっさいをコーランの中に改めて読み取ることこそがイスラムの原理性と現代性にほかならない,という逆転した発想をさえ生むことになった。こうした思想の社会史は,モダニズムの担い手が,中産階級以上の都市住民であって,彼らの生活が大部分の敬虔な庶民の宗教生活からは乖離したものであったことを物語る。,(林武) 77400,モリスコ,モリスコ,morisco,,「小さなムーア人」を意味するスペイン語で,キリスト教徒治下のイベリア半島に居住したイスラム教徒を指す。元来はイスラムに改宗したスペイン人の呼称であった。従来レコンキスタ後もキリスト教徒の地にとどまっていたイスラム教徒は#ムデーハル#と呼ばれていたが,1492年のグラナダ陥落以後,彼らはモリスコと呼ばれるようになった。以後モリスコの歴史は迫害・反乱・追放のそれであった。それは,信教の自由を保証したグラナダ降伏条約の廃棄に続いて,99年枢機卿ヒメネス・デ・シスネロスのグラナダでのイスラム文献焼却に始まる。迫害の理由は,スペインの国家統一の一環として,世界観・信仰の統一が叫ばれたこと,国内の矛盾・対立のモリスコへの転嫁,1529年の#オスマン帝国#のウィーン包囲によるイスラムへの敵対感情の増大などであった。1502年にはグラナダの,26年にはアラゴンのモリスコが,それぞれ改宗か追放かの選択を迫られたのをはじめ,56年にはフェリーペ2世が法令で信仰・言語・制度・生活様式などの廃棄を強要した。1609年にフェリーペ3世はモリスコ追放令を布告し,その結果50万人のモリスコが対岸の北アフリカに渡った。彼らはそれまで,表面的にはキリスト教徒に改宗しても,内ではイスラムの信仰・慣習を遵守したり,反乱で迫害に対抗していたが,しだいに移住を余儀なくされていった。スペインを逃れたモリスコの総計は約300万人に達したといわれる。,(花田宇秋) 78000,ヤジーディー,ヤジーディー,Yaz<印77F5>d<印77F5>,,イラク北部にいる少数民。呼称の由来は不明。自称はダーシン。クルド語の方言を話すが,宗教儀礼ではアラビア語を用いる。イスラム(ことに#シーア派#や#イスラム神秘主義#),キリスト教(ことに#ネストリウス派#),#ゾロアスター教#などの教義・儀礼と呪術信仰とが混交した独特の宗教をもつ集団として形成されてきた。#オスマン帝国#は,その首長に北イラクの1サンジャクを与えることによって,その存在を認めた。クジャクに象徴される#天使#(マラク・ターウース)の存在を信じ,またそれと同一視されるシャイフ・アディーの墓への#巡礼#を重んじるが,悪魔崇拝者という非難を受けてきた。,(板垣雄三) 78300,ヤルムークの戦,ヤルムークノタタカイ,Yarm<印7CF3>k,,636年8月,アラブ軍がビザンティン帝国軍を破った戦い。アラブ軍の将軍は#ハーリド・ブン・アルワリード#。シリア全土をほぼ征服していたアラブ軍に対して,皇帝ヘラクリウスが大軍を送って反撃を試みた。各地に散開していたアラブ軍は,現在のヨルダン領にあるヤルムーク河畔に結集し,決戦を挑んだ。この敗戦により,ビザンティン帝国はシリア支配を永遠に失い,アラブ軍はいくつかの都市を除いて,シリア全土を再び制圧した。,(後藤明) 78900,ヨーロッパ,ヨーロッパ,,,〔ヨーロッパとイスラム世界〕ヨーロッパ世界の形成それ自体が,並行現象としてのイスラムの成立・拡大の歴史との深い相関関係の中で,あるいはむしろムスリム社会の発展という事態がヨーロッパに対してもった強力な規定性に即して,眺められなければならない。それは,(1)古代ギリシア・ローマの遺産・伝統を「西洋古典」として「中世」ヨーロッパにのみ結びつけるような意図的誤認に対する反省であり,(2)前近代のヨーロッパが科学・思想・文芸の面でも,政治・社会・法の体制の面(たとえばホッブズやロックに先行して社会契約の観念はイスラム政治思想の重要なテーマであった)でも,産業・技術・物産の面でも,はるかに進んだ都市的文明を担っていたムスリム諸社会との交流に負うところがいかに大きかったかということの,改めての確認であり,(3)#オスマン帝国#にいたる「イスラム国家」の歴史的存在をヨーロッパにとって外的なものとしておしのけ,あるいはもっぱらヨーロッパ側から客体化し対象化して眺めるようなやり方(ハプスブルク家の西ハンガリー支配がオスマン帝国の秩序の中にはめ込まれていたことを無視したり,ウェストファリア条約をもって国際社会の成立とみなして,#カピチュレーション#に示されるような国家間に働く自然の法の認識から国際法が意識されるようになったことを無視するやり方)では,ヨーロッパ史の理解それ自体も成り立たないという事実の認知である。→アンダルス,シチリア
 〔ヨーロッパのイスラム認識〕「イスラム」とはヨーロッパ世界にとって直接的脅威とみなされる存在であり,常に相互浸透的関係に立つ相手であり,絶えず気になる「異質世界」だった。それは,通常,ヨーロッパ側でのみ一方的に,「サラセン人」「サラセン帝国」として要約された。サラセンの呼称の由来については,必ずしも明らかではないが,アラビア語のシャルク(東)からきたのではないかともみられている。ヨーロッパのイスラムないしサラセン認識には「敵」のイメージがまとわりつき,羨望と畏怖が嫌悪と軽蔑を生み出す心理的コンプレックスとして作用した。イスラムとは破壊と荒廃を意味し,貪欲に恐怖と野蛮をまき散らす悪魔的な力であった。「コーランか剣か」という非難の符牒も,シャルルマーニュ(カール大帝)が神の戦士としてサラセン人に懲罰を加える《ローランの歌》も,トルコ禍の久しい悪夢も,ムスリム世界への包囲戦略としての大航海(「地理上の発見」)によって地球を一周して到着したフィリピンでさえ「#モロ#」=イスラム教徒に遭遇するという「事実」認識も,その脈絡の上にあった。しかもイスラムは決して外的な未知の存在だったのではない。サラセン人の世界である「近東」とは聖書の国,聖地であったばかりでなく,イスラムの世界はヨーロッパ内部の被差別者「ユダヤ人」を媒介にして民衆生活レベルでも「実感されうる」ものなのであった。こうして#十字軍#→#東方問題#→#パレスティナ問題#と連結する干渉の歴史が成立する。8世紀初めのイングランドの聖職者ベーダがサラセンをハガルと#イシュマエル#の子孫だとしたことから始まって,言語研究の歪曲としての19世紀のセム「人種」観の定着にまでいたる背景が,そこにはある。18世紀半ばまで,ヨーロッパの東洋学者とは,聖書学者・イスラム学者・セム系言語研究者を兼ねた者であった。ヨーロッパの一般的「東洋」観は,自分たちの物差しで測定可能ななじみの対象だと信じられたイスラム的オリエントの知的視野を拡張するものとして形成された。そうした「思い込み」の中で,イスラムはムハンマドを崇拝する「マホメット教」Mohammedanismと言いならわされ,キリスト教の異端,ないしはその模倣だとする見方が支配的であった。12世紀のクリュニー修道院でのペトルス・ベネラビリスらのイスラム研究奨励も,ヨーロッパの諸大学にアラビア語の講座を置くことを決定した1311〜12年のウィーン公会議も,ヨーロッパ人として初めてメッカ・メディナを訪れたロドビコ・ディ・バルテーマの体験も,イスラム説伏のための宗論の諸計画も,上の見方に立つものだった。ムハンマドは狡猾な背教者とされ,好色・男色・放蕩・背信といった悪徳の象徴とされる。ダンテは「不和と分裂の種をまいた人」として彼を地獄に落とし,ルターは口汚くののしり,19世紀初めまでヨーロッパの包括的・体系的イスラム研究の最初の達成と目された17世紀フランスのデルブロの事典や同じく17世紀イングランドのプリドーのムハンマド伝では,ペテン師とされている。16〜18世紀に本格的に出発したヨーロッパの#イスラム学#は,19〜20世紀には,政治支配を含むヨーロッパ諸国のムスリム社会との直接的関与・接触を通じて,はるかに精緻な体系を築いたとはいえ,依然としてそこにも強烈な偏見が客観性・実証性の装いの基底にもちこされているのではないか,という批判と反省が最近は強調されるようになっており,ヨーロッパの学校教科書の中でのイスラムに関する記述の書換えも提案され,「イスラムと西欧」の対話の必要性が叫ばれている。
 〔イスラム教徒のヨーロッパ認識〕ヨーロッパ人は,アラビア語では歴史を通じてイフランジー(フランク人)として認識されてきたが,イスラムの普遍主義およびイスラムにおける国家・社会理念からは,むしろナスラーニー(キリスト教徒)の「一部」として眺められた。それは十字軍のような敵対の局面でも,オスマン帝国のカピチュレーション(フランス人,イギリス人……としてよりもキリスト教徒として#ジンミー#化するシステム)のような協約の局面でも,そうであった。しかし19世紀以降,ヨーロッパの支配的影響力がムスリム社会を従属化させる過程で,イスラム改革運動は真正面からヨーロッパないしヨーロッパ文明を問題とし,これを批判・学習・参照しなければならなくなった。→イスラム学,(板垣雄三) 79000,ライラ・アルカドル,ライラ・アルカドル,layla al-qadr,,#断食#月であるラマダーン月の後半のある一夜をいう。この夜にコーランが下されたというから,それは歴史上の一夜でもあるが,コーランによると,この夜は祝福された夜で1000ヵ月にも匹敵する夜,つまり1年中で最上の夜である。また#天使#と聖霊(ルーフ)が天下り,夜明けまで地上に平安がみなぎるとも述べられている。この聖夜は正確には特定できないが,#ハディース#によると月末の10日間の奇数日の夜とされ,中でも27日の夜が最も多くそれと信じられている。またこの夜起きて勤行に励む者は過去の罪をすべて許されるともハディースは伝えている。イスラムは元来禁欲主義を奨励していないが,この10日間は別で,ムスリムは毎夜#モスク#に参集して長い#礼拝#とコーランの読誦と神の名を念じつつもっぱら勤行に励む。このお籠りは預言者の#スンナ#(慣行)であるが,これに習ってムスリムは1ヵ月間の断食の苦行の最後を全うするための精神力を高めようと努力する。,(飯森嘉助) 79700,ラービタ・イスラーミーヤ,ラービタ・イスラーミーヤ,R<印78E6>bi<印73F3>a Isl<印78E6>m<印77F5>ya,,正式名称は,ラービタ・アルアーラム・アルイスラーミー(イスラム世界連盟)という。1962年サウディ・アラビアのメッカで発足。連盟のおもな目的には,イスラムの統一と連帯の促進,ムスリム間の諸政策と諸活動の調整,コーランの思想とその価値の普及,全世界のムスリムの宗教的諸権利の回復運動への支援,正義と公正に基づく国際平和と国際協力運動への支援などがある。ラービタの最高委員会はメッカに本部を置き,その執行機関は事務総長がこれを統轄する。ラービタは独立したイスラム機関ではあるが,二聖都の#イマーム#であるサウディ・アラビア王国の王の財政的支援と協力を受けている。ラービタの協力機関のうちには,カイロの#アズハル#大学の研究機関と研究者が含まれるとともに,ジュッダのアブド・アルアジーズ大学とも協力関係にある。ラービタは世界のイスラム機関や組織に対して財政的援助を行っているが,イスラムの大祭(#イード#・アルアドハー)を世界各地で同じ日に祝うことを目的としたイスラム観測所や#巡礼#の際の説教など特異な活動分野ももっている。,(飯森嘉助) 80300,リズク,リズク,rizq,,糧食を意味するアラビア語(複数形はアルザーク)。コーランでは,「生命を支える栄養物」「神から授けられた食糧」の意味に用いられる。イスラム史の用語としては,640年から#アッバース朝#カリフ,#マームーン#の時代まで,アラブ戦士(ムカーティラ)に#アター#とともに支給された食糧品を意味し,その後は軍人・官吏に支給された俸給を意味した。アラブ戦士の場合,アターを戦士自身の本俸とすれば,リズクは扶養家族のための手当であり,戦士と家族の名が#ディーワーン#に登録され,家族数に応じて大麦,小麦などの食糧品が現物で支給された。#ウマル1世#に始まるイスラムの租税制度では,播種地からは原則として単位面積当り一定額の貨幣と一定量の穀物が徴収された。穀物が現物で徴収されたのは,リズクとして支給する穀物の確保を意図したからであるが,地域によっては酢,蜂蜜などの特産品も現物で徴収され,リズクとして支給された。,(嶋田襄平) 80400,リッダ,リッダ,ridda,,預言者ムハンマド没後,アラブ諸部族の多くがメディナ政権から離れた現象をいう。ムハンマドの晩年,アラビア半島の大部分の地域では,ムハンマドの使節を受け入れ,その権威を承認した。しかしその没後は,各地でそれぞれ#預言者#を称した人々に組織されて,初代カリフ,#アブー・バクル#の権威を認めなかった。アブー・バクルは各地に軍を派遣してこの動きを鎮めた。イスラムの歴史家はこの現象を一度は受け入れたイスラムからの離脱とみなす。そして,イスラムからの離脱一般をもリッダという。,(後藤明) 80800,ルスタム朝,ルスタムチョウ,Rustam,777〜909,アルジェリア西部に#ハワーリジュ派#の一派#イバード派#が建てた王朝。首都はターハルト(ティーハルト)。ペルシア人のイブン・ルスタムは,ベルベル人の信者の支持を得,777年に北アフリカのイバード派教徒の唯一の#イマーム#と認められた。ターハルトはサハラ縦断の#キャラバン#・ルート上にあり,商工業が栄え,また各地から学者が来住した。厳格な教義のもとに禁欲主義的・清教主義的な社会であったといわれる。#イドリース朝#や#アグラブ朝#と敵対したが,スペインの#後ウマイヤ朝#と友好関係を保った。内乱と軍事力の低下のため#ファーティマ朝#に滅ぼされた。,(私市正年) 82500,ワッハーブ派,ワッハーブハ,Wahh<印78E6>b,,18世紀半ばアラビア半島に起こったイスラム改革運動。復古主義的立場でイスラムの純化を目指す近代の改革運動として初発的なもの。自らはムワッヒドゥーン(一神教徒)と称する。#スンナ派#に属し,法学上#ハンバル派#の立場をとる。創始者はナジュド出身の#ムハンマド・ブン・アブド・アルワッハーブ#。彼はメディナおよびイラク,イランの各地に遊学し,一時は#スーフィー#として知られたが,転向して14世紀の#イブン・タイミーヤ#の思想的後継者となって故郷に帰った。すなわち,コーランと預言者の#スンナ#に立ち戻ることを厳格に主張し,哲学思想や神秘主義を初期ムスリムの正しいイスラムに対するビドア(革新),つまり歪曲・逸脱だとして退けた。ことに#聖者#や#墓#の崇拝を最も厳しく排撃した。#タウヒード#(神の唯一性)とカダル(神の予定)とを強調し,シルク(多神教)につながる可能性ありと認めるいっさいのものを否定しようとした。故郷で迫害された彼は,ナジュドのダルイーヤに拠るムハンマド・ブン・サウードの勢力拡大運動と結ぶこととなり,その結果,この運動はサウード家の政治的消長と軌を一にしつつ,アラビア半島に展開した。サウード家の支配はワッハーブ王国と呼ばれることもある。それは,19世紀初め,イラクのカルバラーを急襲し,メッカ,メディナを占領したが,#オスマン帝国#の命を受けた#ムハンマド・アリー#の討伐軍によって滅ぼされた。その後の変転を経て,20世紀初め,アブド・アルアジーズ・ブン・サウードがリヤードを奪回し,やがてサウディ・アラビア王国を建設するとともに,この立場は半島主要部分におけるイスラムの主流となった。この運動はその出発において部族的・宗派的枠組みから自由でなかったとはいえ,諸地域におけるイスラム改革運動の諸潮流を触発させた。→サラフィーヤ,ムジャーヒディーン運動,(板垣雄三) 00100,挨拶,アイサツ,,,ムスリム(イスラム教徒)同士の挨拶は,アッサラーム・アライクム(あなたの上に平安を!)に対して,ワ・アライクム・アッサラーム(そしてあなたの上にこそ平安を!)とコーランによって決められている(10章10節,51章25節)。この際に敬意を表するため,右手の手のひらを相手に向けて開き,頭の位置に上げて挨拶することもある。相手が挨拶をしたら少なくとも上記の返事をするか,もしくはもっと立派でていねいな挨拶を返すことが礼儀とされている(4章86節)。たとえば「そしてあなたの上にこそ平安と#アッラー#の慈悲と祝福がありますように!」とやや長文の返事をすることがよいとされている。#ハディース#によれば,ラクダや馬の上の者は歩いている者に対して最初に挨拶すべきだとされている。同様に,歩いている者は,座っている者よりも先に挨拶すべきであり,少数の者がおおぜいの者に対して先に挨拶すべきであると規定されている。
 上記のムスリムの挨拶は,季節や一日の朝夕の時間にまったく関係なく用いられる。また出会った時でも別れる時でも用いられる。そして同一人物に対して一日に何回でも,そのつど用いてもよいことになっている。自分の家に入る時「ただいま」の意味で上記の挨拶を唱える人もいる。またこの挨拶は子供に対しても女性に対しても用いられる。しかし相手が明らかに#ユダヤ教#徒やキリスト教徒などの異教徒の場合には,こちらからアッサラーム(平安を!)と言うべきではないとされている。ただし,彼らのほうから挨拶をされたらワ・アライクム(そして君たちにも!)と言うべきであると規定されている。もし,異教徒の集団の中に,少しでもムスリムが混じっている場合には,正式なムスリムの挨拶をせよと命じている。
 一昔前は女性の間では朝はサバーフ・アルハイル(おはよう),晩はマサー・アルハイル(こんばんは)という挨拶が交わされたが,今日ではこの挨拶が一般の男性の間に普及するようになった。このほかに折にふれて交わされる,半ば儀礼的な挨拶の言葉がある。たとえばひげをそった時とか,手術を受ける者や病人,これから#巡礼#に赴こうとする者に対する特殊な挨拶言葉が決まっている。また,あくび(縁起が悪い)やくしゃみ(縁起がよい)をした時にも,一定の決り文句がやりとりされる。祭日には人々はクッル・アーミン・ワ・アントゥム・ビハイル(よいことが毎年めぐってくるように)という祝いの言葉を交わすことになっている。握手は預言者時代にすでに行われていて大いに奨励されているが,深く腰を曲げて挨拶することは神以外の者をおがむ偶像崇拝につながる行為として禁じられている。#旅#から無事に戻ってきた者を迎える時には,首と首とを合わせて抱擁しあって首にキスをしてもよいことになっている。また子供にキスをすることはかまわないが,婦人の手を取ってキスをするという習慣はない。ただし相手が男性で聖人や高名な#ウラマー#の場合は,手を取ってキスをすることが許されている。,(飯森嘉助) 00800,アーガーハーン・ケルマーニー,アーガーハーン・ケルマーニー,<印78EA>g<印78E6>kh<印78E6>n Kerm<印78E6>n<印77F5>,1853〜96,近代イランの改革思想家。ケルマーンに生まれ,数学,自然科学,神学を修めた。1884年故郷を追われ,イスタンブルに亡命した。その地で#パン・イスラム主義#の改革思想家#アフガーニー#と交わり,ペルシア語新聞《アフタル》の編集に携わった。国外からイランの近代化と立憲制の必要を説いたが,#オスマン帝国#政府によって逮捕され,96年#タブリーズ#で処刑された。,(坂本勉) 01100,アグラブ朝,アグラブチョウ,Aghlab,800〜909,#イフリーキヤ#のアラブが土着の#ベルベル#人を支配して建てた#スンナ派#の王朝。首都は#カイラワーン#。ホラーサーン出身の軍人アグラブの息子イブラーヒームが#アッバース朝#の宗主権を認めつつ自立したのが起源である。#ハワーリジュ派#の反乱,アラブ軍兵士の反抗,法学者の為政者に対する非難など内政は不安定であったが,#シチリア#の征服(878年完了)によってイスラム文化をヨーロッパへもたらし,また#マーリク派#法学者が優位に立つことによって,マーリク派のスンナ派イスラムをマグリブに浸透させたという点で重要な意味をもつ。#ファーティマ朝#によって滅ぼされた。,(私市正年) 01500,アザーン,アザーン,adh<印78E6>n,,#礼拝#の時刻を告げる肉声による呼びかけで,ユダヤ教のラッパ,仏教・キリスト教の鐘に相当する。アザーンは慣行(#スンナ#)であるが,集団の礼拝に際してはだれか一人が代表して唱えればよい。これを唱える人をムアッジンというが,彼は人差指を耳の穴に入れて,メッカの方角に向かって次のようにアラビア語でアザーンを唱える。
 (1)アッラーは偉大なり(4回)
 (2)私はアッラーのほかに神なしと証言する(2回)
 (3)私はムハンマドがアッラーの使徒なりと証言する(2回)
 (4)いざや礼拝に来たれ(2回)
 (5)いざや成功のために来たれ(2回)
 (6)アッラーは偉大なり(2回)
 (7)アッラーのほかに神なし(1回)
 早朝の礼拝(ファジュル)のアザーンは(5)と(6)の間に「礼拝は眠りに勝る」(2回)という文句が入る。また#シーア派#のアザーンは(5)と(6)の間に「いざや善行のために来たれ」(2回)が入り,最後の(7)を2回繰り返して唱える。,(飯森嘉助) 03700,アフガーニー,アフガーニー,Jam<印78E6>l al-D<印77F5>n al-Afgh<印78E6>n<印77F5>,1838/9〜97,イスラム改革および反帝国主義の運動の扇動家,組織者。名はジャマール・アッディーン。アフガン人と自称したが,イラン生れ。そのため,イランではアサダーバーディーと呼ぶ。イギリスによるインド大反乱の鎮圧と#ムガル帝国#滅亡とから,早くヨーロッパの脅威を感得し,アフガニスタンの政争に関与してイスタンブルに逃れたが,彼の哲学思想を異端とする#ウラマー#の圧迫を受け,1871年カイロに定住した。#イジュティハード#の再開を唱えて,#ムハンマド・アブドゥフ#,サード・ザグルールら,後にエジプトの民族的指導者となる青年たちに感化を与え,専制反対・立憲制要求・対ヨーロッパ抵抗の立場で秘密結社を組織して,ワタン党や#オラービー運動#を準備した。79年インドに追放されたが,イギリスのエジプト占領後,移動の自由を得,ヨーロッパで活動,ロシアを含む諸国を遍歴した。この間,84年パリでムハンマド・アブドゥフとともにアラビア語政治評論誌《固き結合》を18号まで刊行,同誌は以後西アフリカからインドネシアにいたるムスリム世界各地にひそかに運び込まれ,強烈な帝国主義批判と抵抗闘争におけるムスリム連帯の訴えとによって甚大な影響を及ぼした。J.E.ルナンとのイスラムの合理主義的立場に関する論争やスーダン問題についてのイギリス政界との折衝によって,ヨーロッパの政治家・知識人の間でも注目された。1880年代後半,2回にわたり#カージャール朝#のシャー(国王)の求めでイランに滞在したが,90年追放され,これを機としてイランでは#タバコ・ボイコット運動#,シャー暗殺事件の激動が始まった。90年以降,彼を#パン・イスラム主義#の立場で利用しようとした#オスマン帝国#スルタン,#アブデュルハミト2世#に迎えられてイスタンブルへ赴いたが,同宮廷内部で孤立,イランのシャー暗殺をめぐる容疑などのため幽閉され,死亡した。毒殺説もある。,(板垣雄三) 07500,アラブ民族主義,アラブミンゾクシュギ,al-Qawm<印77F5>ya al-<印78FE>Arab<印77F5>ya,,#アラブ#の一体性の自覚としてのアラブ民族意識に基づいてアラブの統一を求める思想,運動。一般に,アラブであること(ウルーバ)の中で,アラブの連帯性を支える最も重要な基盤は,#アラビア語#とその文化伝統であるとされることが多い。その意味で,アラブは#カウム#(民族,国民)であるとされ,その政治的統合が待望されることになる。アラブ民族主義は,まず19世紀半ば,#東方問題#を批判し克服する思想的立場として形成された。ヨーロッパ諸国はアラブ地域への東方問題的アプローチにおいて,もっぱら現地社会における宗派的反目・抗争の扇動にあたった。それは#十字軍#の伝統を継ぐものであった。またアラブ民族主義によって東方問題の操作が困難になると,それへの対抗策として,19世紀末#シオニズム#の利用が始まり,#パレスティナ問題#が設定されることになる。それゆえ,19世紀のアラブ民族意識は,まず宗教的分裂・対立を克服しようとする立場として表明された。レバノン・シリアでは,キリスト教徒知識人(#ナーシーフ・アルヤージジー#や#ブトルス・アルブスターニー#ら)の役割が大きかった。アルジェリアの#アブド・アルカーディル#がダマスクスに亡命し,シリアの#カワーキビー#がエジプト,イエメン,ザンジバルを遍歴する中で,アラブ民族主義の思想は一段と豊富化されたが,カワーキビーの仕事にも見られるように,それはアラブの文化伝統としてのイスラムの強調にもつながっていった。近代のアラブ意識の端緒を示していた#ワッハーブ派#に始まる#サラフィーヤ#の流れも,アラブ民族主義の発展を刺激した。政治運動としては,この民族主義は19世紀末以来の#オスマン帝国#下のシリアやメソポタミアの多様な秘密結社(カフターン会,盟約,青年アラブ等)を生み,それらは結集して第1次世界大戦下,#シャリーフ#の#フサイン#を戴くアラブ反乱へと発展した。第1次大戦後,英仏の影響下でアラブ諸国家群が形成されると,アラブ民族主義はアラブ諸国家間の統合・協力問題として示されるようになる。1930年代末にはパレスティナ問題を議題にしばしばアラブ諸国会議が開かれたが,同問題は国王たちの主導権争いの道具にされた。第2次世界大戦中,イラクのハーシム家を中心とする肥沃な三日月地帯案や,トランスヨルダンのハーシム家を中心とする大シリア案など国家的統合の諸計画が策定されたが,結局,45年エジプトのファールーク王の主導下でカイロにアラブ連盟(初めは,エジプト,イラク,サウディ・アラビア,イエメン,トランスヨルダン,シリア,レバノンの7ヵ国が結成した地域機構)がつくられた。第2次大戦後,大衆的組織運動を目指す#バース党#やアラブ民族運動が生まれた。後者は60年代に左翼化して,パレスティナ人の間では人民戦線(PFLP),南イエメンでは民族戦線(NLF)となる。この間エジプトでは,1952年革命で王制が倒され,#ナーセル#の指導下でアラブ民族主義の高揚期を迎えた。スエズ運河国有化を契機に起こった56年の第2次#中東戦争#(イギリス,フランス,イスラエル3国のエジプト侵攻)におけるエジプトの政治的勝利は,58年のエジプト・シリア両国の統合によるアラブ連合共和国の成立や,同年のイラク革命,62年のイエメン革命などへと導いた。アラブにはアラブ独自の社会主義があるべきだとするアラブ社会主義の潮流も,1950〜60年代のバース主義やエジプトにおける国有化,公共セクターの拡大などを生んだ。しかしアラブ連合共和国は61年に解体したし,その後の多くの国家的統合計画のいずれもが流産した。67年の第3次中東戦争後のハルトゥームでのアラブ首脳会議では,エジプトとサウディ・アラビアとの間のイエメン戦争が解決され,73年の第4次中東戦争では,アラブの#ナフダ#(復興)が強調されたが,その後,対イスラエル・対イラン関係をめぐりアラブ諸国の足並みは乱れ,亀裂は91年の湾岸戦争によりいっそう深まった。,(板垣雄三) 08300,アルメニア,アルメニア,Armenia,,アルメニア語ではハヤスタンで,地理用語ではティグリス・ユーフラテス両河上流,イラン高原とアナトリア高原の間の山地を指す。アルメニア人が歴史的アルメニアと呼ぶ範囲は主張により異なるが,東アナトリアからアゼルバイジャンまでの地域を含む。従来,イランとの関係が深かった東アルメニアは7世紀にアラブが征服し,ドビンの#アミール#がキリスト教徒のアルメニア人地方太守を通じて間接統治を行った。9世紀にはバグラト朝アルメニア王国が成立した。西部にはアルツルニ家のウスプラカン王国が成立した。両者は11世紀にビザンティン,次いでセルジューク朝の支配するところとなったが,アルメニア人のシリア,エジプトへの移住が強まった。アルメニア高地ではその後トゥルクマーン系,#クルド#系の小王朝が興亡し,16世紀から19世紀までは#オスマン帝国#がその大部分を,イランが北東の一部を占領,多くのアルメニア人が両国の首都に移住し,多方面,とくに国際交易に活躍した。アルメニア商人の国際的活動は,17世紀にイラン産絹の対ヨーロッパ輸出にかかわった。オスマン帝国下のアルメニア人は,19世紀末から第1次世界大戦にかけて,大虐殺にあい,流亡するものが多数生じた。この時ジェノサイドが行われたかどうかの承認問題が,トルコと西欧諸国との国際関係に影響を与えている。イラン・カージャール朝のイレヴァン・ハン領であった東北アルメニアは19世紀ロシアに併合された後,1918年独立,ソ連の一共和国を得て,92年アルメニア共和国として独立した。また,キプロス,トルコ,イラン,レバノン,シリア等の中東諸国にアルメニア人社会が存在する。→アルメニア教会,(北川誠一) 10000,イスファハーン,イスファハーン,E<印7CE3>fah<印78E6>n,,イラン中央部の都市。人口127万(1996/97)。紀元前6世紀にできたユダヤ人居留区が町の起源をなす。#ブワイフ朝#期に,現在の市街の原形ができた。1244年の#モンゴル#の攻略,1387,1414年の#ティムール朝#軍の来襲で破壊された。1597年#サファヴィー朝#の遷都によって第2の発展期を迎え,「王の広場」を中心に周到な都市計画が実施に移された。イランの#シーア派#の政治的中心として栄えたが,1722年アフガン遊牧民に攻撃され荒廃した。しかし,19世紀に復興,現在にいたっている。,(坂本勉) 10300,イスラム学,イスラムガク,,,第2次ウィーン包囲(1683)を最後に,#オスマン帝国#はヨーロッパにとって東方の脅威ではなくなった。18世紀のヨーロッパ,とくにイギリスとフランスでは,トルコ人やイスラム教徒に対する恐怖心や敵意は影をひそめ,代わって,異国情緒のロマン主義―オリエンタリズム―が支配的となった。パリやロンドンの目抜き通りのコーヒー店,キオスクをしつらえた東洋風庭園,A.ガランの《#千夜一夜物語#》(1704〜17),モンテスキューの《ペルシア人への手紙》(1722),ヴォルテールの《マホメット》(1741)などが18世紀ヨーロッパのオリエンタリズムを代表する。他方,ヨーロッパで聖書研究が飛躍的な発展をとげたのも18世紀で,その刺激をも受けて東方諸言語への文献学的関心が高まり,公正な解説とともに現在なお利用されているG.セールのコーラン英訳(1734)も著された。ナポレオンのエジプト遠征(1798〜99)が,人々の中東への関心をいっそう高めたのはいうまでもなく,19世紀になるとアジア協会(パリ,1822),王立アジア協会(ロンドン,1823),アメリカ・オリエント協会(1842),ドイツ東洋協会(1847)などの学術団体が相次いで設立された。新しい学問としての,イスラム学誕生の機運は,十分に熟したといえよう。
 イスラム学は,伝統的なイスラム教徒の学問とは本質的に異なり,またオリエンタリズムとも一線を画す。それは19世紀中ごろのヨーロッパで,そのころまでに古典学,聖書学,とりわけ歴史学の領域で確立された歴史的文献批判の方法論に基づき,初期イスラムの宗教と歴史を対象に始められた学問で,やがてイスラム教徒の宗教的・歴史的・文化的活動の所産全体に,その対象を広げていった。このような意味でイスラム学建設者の名にふさわしいのは,文献学から歴史学に進み,ユダヤ人としてヨーロッパの大学で初めて東洋学教授の地位を占めたG.ヴァイルであった。《ムハンマド伝》(1843)に始まり,《コーランの歴史的・批判的序説》(1844)を経て《カリフ史》(3巻,1846〜51 別冊2巻,1860,62)にいたる彼の一連の業績は,イスラム学誕生の産声となった。ヴァイルに続くT.ネルデケの《コーランの歴史》は,その後のコーラン研究の方向を示し,また《ムハンマド伝》(1863)は一般読者を対象としたものであるが,ムハンマドの生涯の時代区分の基本的構成を確立した。A.フォン・クレーマーの《イスラムの主要思想の歴史》は後の思想史の,また《オリエント文化史》は社会経済史の先駆となった。とくに重要な地位を占めるのはゴルトツィーハー I.とJ.ウェルハウゼンの業績で,前者の《イスラム研究》のアラブ部族組織と#ハディース#の批判的研究,後者の《アラブ帝国》で展開された初期イスラムの国家と社会についての古典理論は,部分的に修正された点はあるが,現在なお有効である。
 優れた先駆者に恵まれたイスラム学は20世紀にいたって飛躍的な発展をみ,ネルデケの《コーランの歴史》は徹底的な増補改訂がなされ(3巻,1909〜38),外来語彙,外来異文の研究のほか,章節の相対的ならびに絶対的年代の確定,用語の正確な意義,ユダヤ教・キリスト教の影響等の研究が進められた。ムハンマド伝に関しては,クロノロジーを含む細部をほぼ決定したF.ブフルの《ムハンマド伝》(1903;ドイツ語版,1930)に続き,社会学的分析を特徴とするW.M.ワットの2部作(1953,56),宗教心理学的視点からのT.アンドラエの《ムハンマド》(1930)等が著された。フォン・クレーマーの思想史研究は神学・哲学・政治思想の個別研究によって受け継がれ,とくにR.ニコルソンとL.マシニョンによる#イスラム神秘主義#の研究は,神学や法学の研究では知ることのできないイスラムの一側面を明らかにした。
 #アッバース朝#最盛期の政治・経済・社会・文化の高度の分析と総合とをみごとに一致させたA.メッツの《イスラムのルネサンス》(1937),ほとんどすべてのハディースは後世の偽作であるとして学界に強い衝撃を与えたシャハトの《イスラム法学の起源》など,優れた個々の研究は枚挙にいとまがないが,20世紀の30年代から一貫してイスラム学の指導的立場にあったのはH.ギブである。征服史,政治史,制度史,政治思想,文学と,彼の研究対象になった分野は幅広いが,彼のイスラム理解の根底には,論文〈イスラムにおける宗教思想の構造〉(1938)に示されるように,アニミズムおよび神秘主義の衝撃によく耐えた#スンナ派##ウラマー#への一種の親近感がある。やがて彼はアメリカに移り,歴史学者のほかに政治学者,社会学者,経済学者をも組織した地域研究を指導することになり,欧米の中東政策にコミットするようになった。この二つの点から,最近ギブに代表されるイスラム学に対するイスラム教徒の学者の不信感も表明されている。しかしアメリカに中心を移したイスラム学は,そのあらゆる分野で量・質ともに発展の一途をたどり,他方A.A.ドゥーリー,S.A.アリーからM.A.シャーバーンなど,ヨーロッパで生まれ育ったイスラム学の方法論を身につけたアラブの優れた学者も相次いで輩出している。現在におけるイスラム学の盛況は,旧版《イスラム百科事典》(4巻,1913〜34 補遺,1938)に続き,1960年以来その新版の刊行が進められていることによく示されている。
 19世紀の中ごろイスラム学を開拓したのは文献学者であったが,20世紀におけるイスラム学の発達を支えたのも文献学者である。このような意味で,F.ビュステンフェルト,M.J.ド・フーユ,E.ザハウらによるアラビア語テキストの刊行,C.ブロッケルマンらによる文献の記述・分類・解説の努力は高く評価されなければならないし,今後も継続されなければならない。また欧米のイスラム学と中東のイスラム研究の伝統を継承した日本のイスラム学の進展は近年著しいものがある。→ヨーロッパ,(嶋田襄平) 10600,イスラム諸国会議,イスラムショコクカイギ,al-Mu'tamar al-Isl<印78E6>m<印77F5>,,国民の中に多数のムスリムを擁する国家は「イスラム国」であるとする前提の上に立って,そのようなイスラム諸国の連帯・協力の強化,抑圧に反対し公正な国際秩序を求める第三世界の解放闘争への支援などを目的として設立された国際機構。#エルサレム問題#の深刻化に伴い,#アクサー・モスク#放火事件を機として,1969年9月モロッコのラバトで開催されたイスラム諸国首脳会議(25ヵ国の元首が参加)において,その設立が決議された。翌70年サウディ・アラビアのジュッダでのイスラム諸国外相会議が定期的会合と常設事務局開設を決定した。事務局はジュッダに設置され,マレーシアの前首相#アブドゥル・ラーマン#が初代事務総長に就任し,71年5月国際機構として正式に発足した。第2回首脳会議は,アラブ産油国の石油戦略発動後の74年2月,パキスタンのラホールで開かれ,イスラエルの占領地からの撤退,イスラム諸国の経済社会開発,資源に対する主権確立などをうたったラホール宣言を採択した。また79年モロッコのフェスにおける外相会議は,エジプト・イスラエル平和条約を非難してエジプトの資格停止を決め(1984年復帰),エルサレムをパレスティナの首都と宣言するなど,国際政治上注目を集めた。しかし80年に発生したイラン・イラク戦争に対しては,パキスタンのジア・ウルハック大統領らの調停も効を奏さず,その結束にひびが入った。このことは,81年1月のメッカでの首脳会議にも反映された。外相会議は通常,年1回開催される。加盟国はパレスティナ解放機構(PLO)を含め50(1995年現在)。,(板垣雄三) 11600,市,イチ,,,イスラム世界において市はバーザールという名称で一般に呼ばれている。この語はペルシア語で,日本では慣用でバザールといい,アラビア語のスーク,トルコ語のチャルシュに相当する。
 バーザール,スーク,チャルシュは,いずれも定期市を意味することもあれば常設店舗の連なる市場を指すこともある。しかし歴史的にみると定期市のほうが早く出現したことは間違いないと思われる。イスラム勃興以前の#アラビア半島#では,多神教崇拝の偶像が祀られている聖域の近くで定期市が開催された。10ばかりの定期市のうち,ウカーズのそれが最も有名である。11月に市が立ち,#クライシュ族#などの遊牧民が集まり,タミーム部族出身の管理人が十分の一税を徴収していたという。
 7世紀以後,イスラム世界の各地に#都市#ができてくると,小売商人,職人が構える常設店舗群とそれに隣接する卸売商人の事務所兼倉庫ともいうべきキャラヴァンサライが集まる市場が形成されてくるようになる。これは自然発生的にできた場合もあれば,人為的・計画的につくられた場合もある。前者は定期市が発展して常設店舗の市場になった場合である。都市は生活空間・行政単位として,いくつかの街区(#ハーラ#,マハッラ)に分かれていたが,街区の小路の辻で定期市が開かれ,これが常設店舗に発展したものが多い。これは流通範囲の限られた小市場といえるものであった。これに対して都市全体の流通の核となり,近郊の農村,遠隔地にもつながるような大市場が都市計画に従って建設された。#アッバース朝#の首都バグダードにあったカルフの商工業地区がその典型と考えることができる。
 大市場のもつ流通機能をイランのイスファハーンを例にとって説明しよう。この町のバーザールはアラブ征服時代からその原形があったが,16世紀#サファヴィー朝#時代に整備されて今のようなかたちになった。「王の広場」が町の中心に配置され,その北側から北東のコフネ広場までドームの屋根で覆われたバーザールが連なっている。アーケードの通路からわきに入ると,キャラヴァン#サライ#の中庭に行けるようになっている。このような建築配置の中で,広場,常設店舗,キャラヴァンサライがそれぞれ流通機能を分担しあっていた。
 広場は都市において処刑や外国使節を謁見する場所,練兵場として利用され,重要な機能をもっていた。「王の広場」も上記の機能のほかに,西に宮殿,南と東にシャー・モスクとロトフォッラー・モスクがあり,四方を常設店舗が取り囲んでいたので,政治・宗教・商業の機能をここに集中させていた。サファヴィー朝期には,フランス人の旅行家J.シャルダンの報告によると,毎日この広場が露店商の黒いテントで埋まったというから,常設店舗を補完する露店の市場でもあった。同じような状況は19世紀のブハーラーでも見られる。タジクの革命的文学者アイニーの自伝によると,ブハーラー・ハーンの宮殿の前にあるアルグ広場は,処刑が執行された後,食料品屋・果物屋・菓子屋などの露店商に開放された。広場は常設店舗ができた後でも,依然として定期市が開かれる空間であったという。他方,コフネ広場では,19世紀に週3日,穀物・乾草・わら・薪・木炭を売買する市が立った。水曜日と金曜日の2日は,別に古物市が開催された。市民は不要になった衣類や道具を持って広場に集まり,相互に売買を行った。広場はまた特殊商品の卸売市が立つ所でもあった。19世紀のイスファハーンでは,四つの広場において果物・野菜・アヘンの取引が毎日行われた。果物の場合,その流通過程は次のようであったと考えられる。まずボナクダールという卸売商人が近郊の村に果樹園を賃借し,ここでとれた果物を#ラクダ#・#ロバ#をひく運輸業者を雇って広場に運び込んだ。次いで仲買人立会いのもとに果物の小売商に卸し,大きな盆を頭に載せて運ぶ「強力」に店先まで持っていかせた。
 広場には市場監督官(#ムフタシブ#)が,昼間は常駐し大市場全体を統轄する役目を負っていた。ここにはまた,語り物師,吟遊詩人,軽業師,曲芸人,道化者,レスラー,ルーティーがやってきて,それぞれの芸を演じてみせていた。これによって人がおのずから集まってき,そこで相互に情報の交換がなされた。チャイハーネ(喫茶店)とともに,そこはさまざまな種類の情報を含むバーザール風評なるものが出てくる所でもあったのである。
 常設店舗は大市場の中心をなし,小売商の店か職人が仕事をする生産の場であった。アッバース朝期のバグダードと同様,19世紀イスファハーンでも,染物師,更紗づくり,機織職人,菓子屋,鞍づくりなどが業種別に一区画を構成していた。これは#ギルド#の成員が自主的にまとまりをつくっていたというより,むしろ政府の徴税,市場の監督の利便を考えてのことであった。何よりも店舗施設はワクフによって建設・維持された公共財産であり,#商人#・#職人#は最初から賃借者として統制される面が強かったのである。常設店舗に隣接するキャラヴァンサライは,国際貿易に従事する大商人が隊商宿兼卸売事務所として使うもので,これによってバーザールは遠隔地貿易とつながっていた。
 大市場は以上のように,広場,常設店舗,キャラヴァンサライの三位一体の構造からなり,前近代における流通の根幹をなしていた。しかし,20世紀に入ると,新しい店舗が主要街路に沿ってつくられ,その比重はしだいに低下していった。→ギルド,商人,職人,(坂本勉) 11800,イドリース朝,イドリースチョウ,Idr<印77F5>s,789〜926,モロッコの王朝。第4代カリフ,#アリー#の子孫イドリースがメディナでの反乱に失敗した後,モロッコに逃れ#ベルベル#人の一派アウラバ族の支持を得て建国した。史上最初の#シーア派#王朝とされるが,その政治に,顕著なシーア派的特徴はない。首都として建設された#フェス#には,アンダルスやイフリーキヤからアラブが移住し,進んだ文化や技術を伝えた。9世紀前半には,政治的分裂が進み,王朝は衰退,#ファーティマ朝#により滅ぼされた。モロッコの都市部のイスラム化を進めた。,(私市正年) 12400,イフリーキヤ,イフリーキヤ,Ifr<印77F5>qiya,,ラテン語のアフリカAfricaに由来するアラビア語。その範囲は時代によって変わる。アラブ征服の初期には,リビア以西の北アフリカ全体を指した。#アグラブ朝#以降,チュニジアに政権を築いた王朝の版図に対応し,ほぼチュニジアを中心にアルジェリア東部とリビア西部を含む地域内に限定されるようになった。#マグリブ#の東部に相当する。,(私市正年) 13700,イブン・ジュバイル,イブン・ジュバイル,Ibn Jubayr,1145〜1217,アンダルスの旅行家。バレンシアに生まれ,アレクサンドリアで没した。父および当時の#ウラマー#よりイスラム諸学とアラビア語諸学を学び,詩文・散文に秀でる。メッカには3回#巡礼#したが,第1回目の巡礼旅行記を美文体で日記風に記録した。1183年にグラナダを出発し,海路でアレクサンドリアにいたった後,上エジプトから紅海を渡り,メッカに巡礼した。次いでバグダードからダマスクス,アッカにいたり,ここからシチリアに渡り,85年約2年3ヵ月後にグラナダに戻った。その《旅行記》は,自身の見聞に基づいて#十字軍#時代のイスラム世界の社会状態を克明に叙述し,後世の巡礼記(#リフラ#)の手本として利用された。またノルマン朝下のシチリアの記述も貴重な同時代文献史料である。,(飯森嘉助) 14600,イブン・ヒシャーム,イブン・ヒシャーム,Ibn Hish<印78E6>m,?〜833,ムハンマド伝の古典《預言者の伝記》の編集者。#イブン・イスハーク#の《マガージーの書》の第2部と第3部とを編集し,他書から補った注をつけた。A.ギヨームによる英訳がある。彼は,南アラビアの名家の血を引くと伝えられ,《マガージーの書》の第1部を主要な素材として,南アラビアの古代史を扱った《ヒムヤル王の王冠の書》を著した。父の代にバスラからエジプトに移り,生涯をそこで過ごした。,(後藤明) 15700,イラン,イラン,<印77F9>r<印78E6>n,,インド・ヨーロッパ語族のイラン語派に属する人々が歴史的につくりあげてきた文化圏。イランの概念は,ふつう自然地理的な地域概念,国の概念として理解されるが,その場合はイラン高原とそこに興亡した諸国家が念頭におかれ,しばしば#ペルシア#という概念で置き換えられる。しかし,文化圏の意味でとらえると,かつてイラン系の諸民族が分布していた中央アジアを含めて考えるのが適当であり,より広域的な概念としてとらえられていくことになる。
 イラン高原と中央アジアは,イスラムが入ってくる7世紀まで同じ文化圏といっても言語,政治の面からするとかなり違う世界であった。前者には西イラン語派に属するさまざまな方言を話す人々が住み,パフラヴィー語(中世#ペルシア語#)を公用語としつつササン朝の中央集権的な支配体制のもとにあった。これに対して後者には#ホラズム#,バクトリア,ソグド,ホータンなど東イラン語派に属する諸語を使う人々がオアシス都市に拠りながらそれぞれ独自の言語,文化の華を咲かせ,政治的にはソグド国家にみられるように都市連合という性格が強く,まとまりに欠けていた。
 しかし,このような東西の違いも,アラブによる征服とそれに続くイスラム化の過程で徐々に克服されていき,9世紀後半までに東西のイラン語派に属する諸言語に代わって二つの地域に通用する新しい共通語としてのペルシア語が形成され,文化的統一が果たされていくことになる。この文化変容を可能にしたのは,しばしば「沈黙の二世紀」と呼ばれる7世紀後半から9世紀後半の時期にかけてのイラン系知識人による#アラビア語#とその文化の摂取,それとの格闘の中で自分たちの固有の文化を守りぬこうとする必死の努力であった。#ウマイヤ朝#,#アッバース朝#の支配下で彼らは征服者の言葉であるアラビア語を使うことを余儀なくされた。ササン朝以来の名望家でワジールを務めたことでも知られるバルマク家などの書記・官僚たちにとって,仕事柄,アラビア語を熟知することは必須の条件であった。また,アラブの遊牧民に比べ概して知的レベルが高かったイラン系知識人の中にはアラビア語を使ってアラブ文化の形成に貢献することを期待されるものも多かった。アラビア語辞書を編纂したハリール・ブン・アフマド,#シュウービーヤ運動#を起こしアラブ散文学の創始者と目される#イブン・アルムカッファー#はその典型である。
 このようにイラン系の人々は,征服後の二世紀間,アラビア語の圧倒的な影響下におかれ,自分たち本来の言葉であるパフラヴィー語,ソグド語などでもって著作することが少なくなっていき,沈黙の状態を続けた。この時期はイラン系の人々にとって文化的な沈滞期とみることもできるが,見方を変えると東西のイラン系諸語がアラビア語の影響を受けながら変容し,整理,統合されて東西のイラン系諸語を越える,汎用性のあるペルシア語になっていく揺籃期として位置づけていくことができる。確かにイラン系の人々はアラビア語から文字を借用し,おびただしい語彙を自分たちの言葉の中に取り入れた。しかし,言語の骨格をなす文法構造においてはイラン系言語の本質をいささかも失わなかった。このかぎりにおいて彼らはアラビア語に完全に飲み込まれず,その文化的矜持を保持し続けることができたといえる。
 ペルシア語が明確なかたちをとって姿を現すのは,アッバース朝体制にかげりが現れ#サーマーン朝#(875〜999)が,イラン高原東北部の#ホラーサーン#地方から中央アジア西部のマー・ワラー・アンナフル地方にかけての地域を支配するようになるころのことである。ペルシア語は,文法構造の系統では西イラン語派の流れをひく。しかし,サーマーン朝が首都を中央アジアのブハーラーにおき,そこでのペルシア語によるイラン文化のルネサンス運動を保護すると,それはまたたくまに旧東イラン語世界にも広がっていった。ここにイラン高原と中央アジアとは真の意味での一体性を獲得し,アラブ世界とは異なる文化圏としてのイラン世界を形成するにいたる。このことを端的に象徴するのが,#フィルドゥーシー#による民族叙事詩《#シャー・ナーメ#》の集大成である。彼はホラーサーン地方出身の詩人であったが,マー・ワラー・アンナフル出身の詩人ルーダキーがすでに着手していたイラン高原から中央アジアにかけての地域に広がるイラン系の神話・伝説を採集する仕事を引き継ぎ,まとめあげた。これによって彼はイラン高原から中央アジアにかけての地域がペルシア語を核にした一体不可分のイラン文化圏であることを訴え,その意識を人々に植えつけていこうとしたのである。
 しかしながら,文化圏としてのイランの一体性は《シャー・ナーメ》が完成した直後の11世紀に早くも崩れ始め,16世紀初頭,イラン高原と中央アジアが政治的にも言語・宗教的にも分離することによって失われていく。これに大きな役割を果たすのは,元来モンゴル高原で遊牧生活をおくっていたトルコ系遊牧民の民族移動であった。彼らは,9世紀後半の古代ウイグル王国崩壊をきっかけにして大挙,西遷を開始,中央アジアとイラン高原にそれぞれ#カラ・ハーン朝#,#セルジューク朝#を成立させ,トルコ系王朝による支配の道を開いた。これ以降,イラン文化圏は移動してくるトルコ系の人々と,もとからの住民であるイラン系の人々との間の共存と摩擦の関係に応じてその一体性を脅かされるが,それにとどめを刺したのが16世紀初めにおける#サファヴィー朝#と#ウズベク#の#シャイバーン朝#の成立であった。これによってイラン高原ではシーア派イスラムが国教とされ,言語的には西北部の#アゼルバイジャン#地方を中心に多数のトルコ系の人々が住むものの,ペルシア語とイラン系の住民が優勢な地域になっていった。これに対して中央アジアでは従来どおりスンナ派イスラムの信仰が維持された。しかし,言語的にみるとペルシア語を使う人々はマイノリティの立場に追い込まれ,近代になってタジク人と呼ばれる民族を形成していくことになる。他方,トルコ系諸語を使う人々の優勢は揺るぎないものとなり,中央アジアはイラン文化圏とは違うトルコ系住民が多数を占める地域という意味での「トルキスタン」になっていくのである。
 以上から明らかなように,16世紀初頭は文化的に中央アジアをイラン高原から分かち,トルコ系文化圏として自立化させていく歴史上の分岐点であった。しかし,このようにしてできてくる二つの文化圏をいたずらに対比させ,その違いを強調していくには十分な注意が必要である。イラン高原をペルシア語が優勢なイラン文化圏,中央アジアをトルコ系諸語(近現代においてそれはウズベク語,カザフ語,キルギス語,トゥルクメン語というかたちで現れる)がペルシア語系のタジク語を圧倒するトルコ系文化圏だと規定できたとしても,それはイラン系,トルコ系それぞれの相対的な住民・文化構成にしかすぎないからである。両文化圏は11世紀以降かたちづくられてきたイラン系,トルコ系それぞれの文化的な緊張関係を軸にしているということでは構造的には通底している。その違いに目をやるのではなく,むしろその共通性にこそ着目することが必要である。こうした視点を欠くとイランにおけるアゼルバイジャン問題,中央アジアにおけるウズベク人とタジク人の反目などの民族問題についての歴史性が見えてこないように思われる。,(坂本勉) 17600,ウフドの戦,ウフドノタタカイ,U<印7EE5>ud,,預言者ムハンマドとメッカ軍との2度目の本格的な戦い。625年3月23日,メディナの北の山ウフド山の中腹から裾野で戦われた。メッカ軍にとっては#バドルの戦#の復讐戦であった。当初は約700名のムハンマド軍がアブー・スフヤーンの率いる約3000名のメッカ軍を圧倒したが,騎兵隊の奇襲に遭ってムハンマド軍は潰走した。ムハンマドは山の中腹で陣を立て直し,決定的な敗北とはならなかった。,(後藤明) 18700,エジプト,エジプト,Mi<印7CE3>r,,イスラムにおいて,エジプトはモーセやヨセフの説話をはじめ,啓示の中で意味づけられる物語の重要な一舞台であり,コーラン的世界の重要な要素である。しかし,エジプトにイスラムがもたらされたのは,640〜641年アムル・ブン・アルアースの率いるアラブ軍の征服によってであった。ムスリムの軍営都市としてのフスタートが建設され,ビザンティン帝国に対して久しく抵抗を続けてきた#コプト#教会のキリスト教徒住民は,同帝国の圧迫から解放されて,ムスリム支配下の#ジンミー#として位置づけられることになった。エジプト史では,この事件をファトフ(開くこと,征服)と呼ぶ。これからエジプト社会のイスラム化およびアラブ化の過程が開始されたが,エジプト社会でムスリムが多数を占め,アラビア語が支配的となるまでには数世紀を要した。この間,ミスル(エジプト)は,ムスリム支配の諸地域に建設された諸#ミスル#(軍営都市)の中の代表的ミスル(フスタート,後に#カイロ#)をもつものとなった。初めエジプトはメディナ,次いでダマスクス,次いでバグダードからの支配に服したが,9世紀の#トゥールーン朝#の成立とともに自立的国家を形成するようになり,しかも同王朝以後,イフシード朝,#ファーティマ朝#,#アイユーブ朝#,#マムルーク朝#を通じて,#シリア#,さらにはメッカ,メディナを含むヒジャーズをも政治的に統合する領域国家の中心となった。カイロを建設したファーティマ朝は#シーア派#の王朝であった。#十字軍#の攻勢を打破し,またそれに続いて東方からのモンゴル勢力の進出を阻止したのは,#スンナ派#のアイユーブ朝とマムルーク朝とであった。バグダードの#アッバース朝#が滅んでからは,同王朝の#カリフ#はエジプトに移ったとされ,マムルーク朝のエジプトはイスラム世界の中心となった。イスラム文化の精華ならびにイスラム社会の基本的特徴とされるものは,この時代のエジプトにその形成の多くを負っている。古代以来のグノーシス思想の伝統をもつエジプト文化が#イスラム神秘主義#の体系化に果たした役割は#ズー・アンヌーン#のマーリファ論をみれば理解されるであろう。
 #オスマン帝国#支配のもとでエジプト社会はしだいに疲弊したが,ヒジャーズへの食糧供給地であり,また#スルタン#・カリフ制に根拠を与えるエジプトの存在は,オスマン帝国の中で,経済的のみならずイデオロギー的にも重要な支柱であった。ナポレオン1世の征服以降,近代のエジプトは,西欧への従属下に置かれたが,#ムハンマド・アブドゥフ#や#ラシード・リダー#らの活動,#ムスリム同胞団#の運動によって,イスラム改革思想やムスリム社会運動の中枢の地位を占めた。そこではエジプトの伝統の中でのイスラムの意味とイスラム史におけるエジプトの独自の地位とが吟味され直すことになった。エジプト史の構図は,(1)ファラオの時代,(2)ヘレニズムの時代(その後半はキリスト教の時代),(3)イスラムの時代,(4)近代,という時代区分に基づいて描かれるのが普通であるが,(3)の伝統基盤としての重みをどれほどに評価するかが大きな問題である。すでにイブン・タグリービルディーから#ジャバルティー#にいたる,ムスリム歴史家のエジプト史叙述の久しい伝統を通じて,エジプトのマハーシーン(魅惑)は大きな主題であり,#タフターウィー#はエジプト国民(#ウンマ#)とワタン(祖国)への愛を強調した。#ターハー・フサイン#はエジプトの地中海的性格を,タウフィーク・アルハキームは源泉としての古代文明を,ムハンマド・フサイン・ハイカルはアラブ的伝統の意義を強調した。スブヒー・ワヒーダ,フサイン・ファウジー,ガマール・ヒムダーンへといたる現代エジプトの「エジプト的性格」論争は,強調されるべきものはエジプトなのか,アラブなのか,イスラムなのかという,「エジプト人」アイデンティティの歴史的課題の吟味を継承するものである。,(板垣雄三) 19000,エルサレム,エルサレム,al-Quds,,ユダヤ教,キリスト教,イスラムの3宗教共通の聖都。アラビア語ではクドス。イスラムにおいてエルサレムが重視される理由は,まず,(1)#キブラ#がメッカの#カーバ#に変更されるまで,預言者ムハンマドも信者たちもエルサレムに向かって礼拝していたこと(コーラン2章136〜145節),(2)ムハンマドが遠隔の(アクサー)礼拝堂すなわちエルサレムに導かれた夜の旅およびそこでの#ミーラージュ#(コーラン17章1節)とに求められる。638年エルサレム征服にあたり,カリフの#ウマル1世#は自ら同市に赴いた。彼は降伏したエルサレム総主教に会見し,キリスト教徒住民に#ジンミー#としての安全と教会の保護とを保証するとともに,ミーラージュの出発点とされた岩を堆積物の下から発見して,そのかたわらでの礼拝を指揮したといわれる。イスラムのメッカ,メディナに次ぐ第3の聖地としてのエルサレムの地位は,こうして確立された。同市は「聖なる家」(アラビア語の呼称クドスはこれらを簡略にした形)と呼ばれ,#ムアーウィヤ1世#が同市でカリフたることを宣言した後,#ウマイヤ朝#の手で#アクサー・モスク#と#岩のドーム#とが建設されると,これら二つのモスクのある区域はハラム・アッシャリーフと称せられるにいたった。第2次内乱(683〜692)でウマイヤ朝がメッカ・メディナを失った時期があったことにより,それらとエルサレムとを#巡礼#の地として同等視する#ハディース#も引照されつつ,エルサレムの地位はいっそう高められた。#アッバース朝#初期のカリフたちもここを訪れたが,その後10〜11世紀のイブン・ハウカル,マクディシー,#ナーシル・ホスロー#らの旅行家・地理学者も,同市の重要性に関する知見を記述した。しかし1099年に同市は#十字軍#に占領され,エルサレム王国が建設された。多数の住民が殺され,キリスト教一色に塗りつぶされる1世紀を経て,1187年#サラーフ・アッディーン#は同市を奪回し,アクサー・モスクでの集団礼拝が盛大に行われ,ハラム・アッシャリーフは清掃・再建された。やがて同区域の西の壁に沿って,夜の旅でムハンマドを運んだ天馬ブラークをつないだとされる場所に,マガーリバ・モスク(別称ブラーク・モスク)も建てられた。エルサレム回復後,サラーフ・アッディーンが十字軍との戦争継続状態のもとでも,同市へのキリスト教徒の来訪・居住を許したように,ムスリム支配下のエルサレムは,キリスト教徒にも#ユダヤ教#徒にも開かれた都市とされた。スペインの異端審問を逃れて#アンダルス#のユダヤ教徒(セファルディム)が同市に移住してくるようにもなった。こうしてエルサレムは,それぞれにその象徴性を重視する3宗教の共生の場として,アラブ都市(アラビア語で生活する諸宗教の人々の都市)という性格を発展させた。しかし19世紀以降,#エルサレム問題#はこれに楔を打ち込むような形で作用し始める。,(板垣雄三) 19100,エルサレム問題,エルサレムモンダイ,,,#エルサレム#という都市の組織と地位,諸宗教聖地の管理ならびに世界中の信者たちによる聖地へのアクセス(接近)権などの諸問題をめぐる社会的・国際的紛争。その背景には,普遍主義的諸宗教によるエルサレムの象徴化過程の交錯がある。イスラエルの民の宗教にとって,それはダビデの町,母なる都市であった。#ユダヤ教#の展開において,それは神殿の再建と破壊が記念される場(19世紀以降は,ソロモンの神殿の遺構とみなされた「歎きの壁」にその焦点が置かれた)であり,約束の地の象徴であった。キリスト教にとって,それは#イエス#の死と復活の舞台であり,都市の破滅の予言が成就すべき場であった。イスラムにとっても,エルサレムは重大な意味をもつ聖地である。ローマ帝国によるユダヤ教徒の入市の禁止と,イスラム,ユダヤ教,東方キリスト教を抑圧した#十字軍#とが,この都市をめぐる紛争の歴史的種子をまいていた。ムスリム支配下でエルサレムは3宗教が共存するアラブ都市として発展したが,エルサレム問題は,まず19世紀に#東方問題#の中で表面化した。#オスマン帝国#でフランスが#カピチュレーション#の先例を開いたのに起因するカトリック教会のエルサレムにおける優位と,これへの#ギリシア正教会#の対抗とを通じて,聖地管理権をめぐるフランス・ロシアの対立はクリミア戦争へと導いたし,イギリス領事の保護下で進出したアシュケナジーム・ユダヤ教徒(ヨーロッパ系)は,歎きの壁で祈るために,ムスリム居住区であるマガーリバの袋小路に舗石や幕やベンチを持ち込んで紛争を起こした。#シオニズム#運動が展開する20世紀になると,エルサレム問題は#パレスティナ問題#の最も深刻な局面となった。ユダヤ人の組織的植民の進行の中で,1929年歎きの壁事件が起きたが,そもそも紛争は歎きの壁がハラム・アッシャリーフの西の壁だということに起因した。47年国際連合総会はパレスティナ分割決議により,エルサレムをアラブ国家にもユダヤ人国家にも属さぬ特別区域として国際化することを目指したが,翌48年イスラエル国家成立とともに起こったパレスティナ戦争(#中東戦争#)の結果,エルサレムはヨルダンとイスラエルとによって東西に分割された。そのためユダヤ教徒はヨルダン領に入ったユダヤ教聖地を訪れることができなくなった。しかし分断状況は67年六月戦争(中東戦争)により大きく変化し,ハラム・アッシャリーフのある東エルサレム(旧市街)はイスラエルに併合された。これに反対する国際連合のたび重なる決議にもかかわらず,イスラエルは,マガーリバ地区のアラブ住民を立ち退かせ,歎きの壁に面する広場をつくるとか,ハラム・アッシャリーフの地下の考古学的発掘を進めるなど,同市の「再統合」による改造を推進した。69年,一オーストラリア人の放火による#アクサー・モスク#の火災はムスリム世界を動揺させ,#イスラム諸国会議#成立の契機となった。77年サーダートのエルサレム訪問とアクサー・モスクでの礼拝参加とともに開始されたエジプト・イスラエル間の和平は,80年イスラエル国会によるエルサレム基本法(統一された同市をイスラエルの永久の首都と宣言)の可決へとつながり,これに対抗してサウディ・アラビアは,81年,エルサレムをパレスティナの首都とする要求を含む8項目提案を行った。,(板垣雄三) 19600,改宗,カイシュウ,,,イスラムは,神と人間との仲介者としての聖職者や,またそのための教会や教会組織を必要としない。各自は自ら宗教の基本と儀礼を学び実践せねばならない。この点では#ウラマー#または専業宣教者と一般の信徒の間に,いかほどの相違もない。つまり,イスラムにおいては信徒はすべて宣教師となりうる資格を有している。このことは,イスラムの布教の歴史が証明しているところであるが,それは何よりも個人的な宗教的情熱によって支えられているものであり,それゆえに近年では布教組織の不統一と欠如として問題となっている。
 預言者ムハンマドがイスラム最初の宣教師であるが,コーランはイスラムの宣教の原則として,(1)強制しないこと(10章99節),(2)叡知と立派な説教によって説得すること(16章125節)をあげている。ムハンマドのメッセージを最初に信奉した人々は,妻の#ハディージャ#やいとこの#アリー#などの身近な者たちであったが,概してメッカ時代の改宗は,#クライシュ族#の先祖伝来の根強い慣習によって阻まれ,多くの同調者を得るまでにはいたらなかった。
 メディナ時代のアラビア半島では,身内であるムハンマドの身の安全を守るために改宗した叔父のハムザや,ムハンマドの政治的手腕を期待しつつ改宗したメディナの#アンサール#の例にみられるように,その改宗の契機はさまざまであった。#ウマイヤ朝#は,アラブの特権を維持するために,異民族の改宗には消極的であったが,#ウマル2世#の平等政策以後は,集団で改宗する被征服民の数がしだいに増大した。#アッバース朝#時代になると,都市の住民ばかりでなく,農民の改宗者の数も増え,またバグダードの#カリフ#の親衛隊として#トルコ族#の軍団が権力を掌握すると,中央アジアのイスラム化がいっそう進むようになった。
 イスラムの辺境地での布教と改宗は,平和的で非政治的・非軍事的手段によって行われた場合が多かった。布教と改宗がこのように世界的に成功した原因は,いくつかの社会的・政治的・宗教的な複合要因によるが,次のようなおもな布教・改宗のパターンがみられた。
 (1)イスラム商人型 #商人#は異教の地にあって,現地の言語や風俗習慣や事情に精通し,所によっては専業的宣教師よりも警戒されないうえに,住民によって最も信頼されている人々であったので,彼らの布教と改宗に果たした役割は大きい。
 (2)特定宗派教団型 この型には法学派や神秘主義諸教団(#タリーカ#)の組織的布教や各種の宗教改革運動に伴う布教活動も含まれる。
 (3)婚姻型 これには現地妻の改宗から彼女らの家族や親族に改宗が波及する場合,イスラムに熱心な妻たちの影響によって布教と改宗が進行した場合,アフリカの非ムスリム季節労務者のイスラム女性との現地一時婚に伴う改宗の例などを含む。
 (4)ハッジュ型 これはメッカ#巡礼#(ハッジュ)を通して発心し,帰国後布教運動を起こす例であるが,これらハーッジュ階層によるイスラム帰属運動も含まれる。
 (5)王族・貴族型 これは熱心なウラマーや専業宣教者によって,王侯貴族や族長が個人的に改宗するもので,これに伴って住民の大量改宗が行われる。
 (6)奴隷解放型 これはイスラムの教えに従って,手に入れた#奴隷#の身分を著しく改善したり,進んで奴隷解放を実践することによって下層階級への布教と改宗を促したことである。
 イスラムへの改宗の儀式は比較的簡単である。2人以上の証人の前(普通は#イマーム#の前)で#シャハーダ#(信仰告白)を述べればよい。シャハーダは普通アラビア語の原文によって述べられる。この際に当然イスラムの#六信五行#についての説明を受けるとともに,改宗の証としてイスラム名を受けることになる。,(飯森嘉助) 21500,割礼,カツレイ,,,性器の一部を除去する割礼は古代エジプトの壁画にも認められ,今日ユダヤ社会,イスラム社会,その他世界各地の原住民の一部の間で行われている。#ユダヤ教#では#アブラハム#以来の重要な宗教儀礼とされ,アブラハムがイサクを割礼した故事にならって生後8日目に施術を受けるよう義務づけている。初期の東方キリスト教徒の間でも,この儀礼は守られていたが,西方の伝道者パウロが心の割礼こそ大切であるとして精神化して以来,ヨーロッパ社会には定着しなかった。
 イスラム以前のアラビア社会においても割礼の習慣があったが,コーランは割礼について何も触れていない。ムスリムが割礼を守る理由はアブラハムと彼の宗教にならうためであり,#ハディース#もまたこのことを伝えている。イスラムの法学者はこれによって割礼は義務であるとする者(#シャーフィイー派#,#ハンバル派#)や,単なる#スンナ#(預言者の慣行)とする者(#マーリク派#,#ハナフィー派#),またスンナとしても未確認のスンナとみなす者等々,彼らの解釈の立場は一定していない。地域によっては割礼をもってムスリムとしての唯一のシンボルマークとみなして,入信の際の第1条件とする所も現実にはある。割礼年齢はまちまちで,生後1週間から12歳くらいまでの幅があるが,通常は7歳前後が適齢とされている。施術は昔から刃物を扱う床屋や専門の施術師(女児の場合は産婆)が行っていたが,現代では外科医が多くなっている。施術と施術場所については,とくに規定はないが,多くの場合は宗教的祭日や#モスク#の縁日が選ばれ,モスクの境内または近くの広場の仮設小屋で集団的に行われる。また外科医の場合は当然病院で行う。割礼の前後には家庭内で内祝をして,かつては祝いの行列が町を練り歩いた。とくにオスマン朝のスルタンの王子の割礼では,同職組合(ギルド)や神秘主義教団が参加し,盛大なパレードが挙行された。切断した包皮は焼却したり,モスクの境内の土中に埋められる。また塩をかけハンカチに包んで首に掛け,手術の傷が癒えると川に投げることもあるという。女児の割礼は男児に比べるとその数は少ないが,割礼不要説の立場をとる意見が近年高まっている。,(飯森嘉助) 21900,ガーナ王国,ガーナオウコク,Ghana,,サハラ砂漠西部の南縁に,おそらく8世紀以前に形成されたと思われる黒人王国。現在のモーリタニア南東部を中心に,マリ,アルジェリアの一部にかけてがその勢力圏だった。ガーナというのは元来王の称号で,国そのものはアウカールと呼ばれた。サハラ南縁にその後形成された#マリ#,#ソンガイ#等の黒人国家と同様,長距離交易を軍事的に保護し,交易に課税することが「国家」の主要な役割と経済的基盤だった。交易の中心は,サハラ砂漠の塩床から切り出され運ばれてくる岩塩と,西アフリカで大量に採れた金だった。西アフリカの金については,イラン出身の地誌家イブン・アルファキーフも「ガーナでは金は砂の中にニンジンのように生える。人々はそれを夜明けに取りにいく」と10世紀の初めに記しているように,誇張された噂さえ広まっていた。一方,金の産地であるサハラの南の黒人の国では,塩が欠乏していた。この塩と金の交易のうえに,ガーナをはじめとする初期の黒人国家が形成され,繁栄することになる。ガーナについて,11世紀のイベリア半島のアラブの地誌家バクリーは「王は国に入ってくる塩には,ロバ1荷について1ディーナールの金を,出ていく塩については2ディーナールの金を徴収する。……王は,砂金は住民の取るにまかせるが,金塊は自分の所有とする」と記している。ガーナの都は,非イスラム教徒だった王や廷臣,騎馬の兵士(ガーナの王は,戦いがあれば20万人の戦士を動員することができたといわれる),呪術師などが住む町と,そこから6000歩離れた所にあった,イスラム教徒である北アフリカの商人をおもな住民とする町とから成り立っていた。その後,この地方の乾燥化と,長距離交易の仲介地の東方への移動に伴って,ガーナは衰退し,1076/7年,イスラム教徒の#ムラービト朝#の軍事集団の攻撃を受けて崩壊した。13世紀以降は,ガーナの南方に新しく興ったマリ帝国の勢力下の一地方国として存続したらしい。,(川田順造) 24900,キャラヴァンサライ,キャラヴァンサライ,k<印78E6>rv<印78E6>nsar<印78E6>y,,ペルシア語で「隊商宿」の意。商業機能のうえから二つのタイプが認められる。
 第1は街道沿いに建てられた純然たる隊商宿で,#商人#,#巡礼#者,#旅#人を宿泊させることに基本的な機能がある。アラビア語ではこの種のものをハーンということが多い。政府・王侯貴族・商人の#ワクフ#(寄進財産)によって建てられた場合には無料で泊まることができた。最古のものは#ウマイヤ朝#期に見いだされるが,13世紀以降盛んに建設された。
 第2は卸売商人の事務所として使われるものである。都市のバーザール(#市#)に隣接して建てられ,これをアラビア語ではダール・アルワカーラ,#フンドゥク#,カイサリーヤという。建築構造は一般に中庭があり,そのまわりを2階建ての小部屋に区分された建物が取り囲む。1階部分は商品を保管する倉庫,事務所として使われ,2階部分は宿泊施設にあてられた。中庭とバーザールを結ぶ細長い通廊(ダーラーン)は,卸売商人が小売商に品物を卸す取引場としての機能をもつ。
 キャラヴァンサライを利用する商人は在地の商人でなく,その土地の市況に不案内な旅商人であることが多い。そのため仲買人の斡旋で取引を行った。彼らはキャラヴァンサライを部屋ごとに賃借し,同国・同郷,宗教・人種を同じくする者が協同で借りていた。キャラヴァンサライにはそれぞれ得意とする主要取引商品があり,それに従って絹,毛織物,#奴隷#などがキャラヴァンサライの名に冠せられることもあった。→キャラヴァン,フンドゥク,(坂本勉) 25300,ギリシア正教会,ギリシアセイキョウカイ,,,#ネストリウス派#や#モノフィジート#を排除しつつ,ビザンティン帝国の皇帝権力のもとで正統化された東方教会。ムスリムの側ではルームとして認識された(コーラン30章参照)。1054年ローマ・カトリック教会(ラテン教会)と決裂するはるか以前から,聖霊の発出をめぐる教義や聖職者のひげ・妻帯などの慣行の上でも,東方的独自性が顕著だったが,それはイスラムとの対決・交流にもよる。8〜9世紀の聖像破壊運動(イコノクラスム),#ウマイヤ朝#に仕えたのち同教会の神学の体系化に尽くしたダマスクスのヨハネスの役割,神秘主義(ヘシカスム)の動向が,それを証明している。15世紀イスタンブルを占領した#オスマン帝国#は,この教会の文化伝統の継承者となり,同教会はギリシア人官僚(ファナリオット)とともに帝国の重要な支柱と化した。コンスタンティノポリス総大主教は帝国最大の#ミッレト#の長であり,教会はバルカンにおける南スラブ支配の機構そのものとなった。この体制の動揺の中で,19世紀に,ギリシア人の民族意識やバルカンの民族運動,パン・スラブ主義が興った。#東方問題#激化の過程で,ロシアは#エルサレム問題#をめぐりこの教会の保護者として干渉したが,現地のアラブの教会では,礼拝用語のギリシア語に固執する聖職者に反対して,平信徒はアラビア語化を促進した。オスマン帝国下のシリアでカトリックとの合同(ユニアット)により分離した一派がギリシア・カトリックで,近代の慣用ではメルク派とも称される。1964年,ヨルダン・イスラエル分割下のエルサレムで,総大主教アテナゴラスはローマ教皇パウロ6世と会見し,東西教会の再結合がうたわれた。,(板垣雄三) 26700,クリム・ハーン国,クリム・ハーンコク,K<印7DF5>r<印7DF5>m Kh<印78E6>n,1443〜1783,チンギス・ハーン家のジョチの後裔であるハジ・ギライがキプチャク・ハーン国から分かれ出てクリミア半島に建国。首都は16世紀初めからバフチサライ。1475年から#オスマン帝国#の宗主権下に入り,ロシア・東欧に対する緩衝国家の役割を果たした。その騎馬軍団はときにはモスクワまで遠征したが,18世紀に入るとロシアの攻勢に直面し,1783年ロシア帝国に併合された。住民はクリミア・タタール人と呼ばれた。,(小松久男) 28400,コーヒー,コーヒー,,,現在のコーヒーの語源となったアラビア語のカフワは元来ワインを意味していた。コーヒーの木は,古代にエチオピアからアラビア半島に伝わっていたが,今日の飲み物としてのコーヒーは,15世紀以後になってイエメンから広まった。コーヒーは初期のうち薬用または#イスラム神秘主義#者の夜間の長い勤行を助ける眠気覚ましとして好んで使用されたが,同じ理由でメッカの聖モスクやカイロの#アズハル#学院の教師や学生の飲み物として普及した。次いで一般の場で供されるようになり,やがて#コーヒー店#で音楽や歌や踊りが演じられるようになった。こうした享楽的な風潮に対して,宗教者側から一時非難の声が上がり,しばしば論争となった(1511年メッカでは禁止令が出された)。しかしコーヒーはアラブの大都市を中心に普及し,やがてイスタンブルにもコーヒー店が開かれるようになった(1554)。このコーヒー店を支えた人々は,品の良いチェス愛好家や水タバコの喫煙家や談合好きのイスラム教徒であった。これが現代の喫茶店の原形であり,トルコからヨーロッパへと広まり,17世紀末以降ヨーロッパ商人は,アラビア半島に買付けに訪れた。,(飯森嘉助) 28700,コプト,コプト,al-Qib<印73F3>, al-Qub<印73F3>,,エジプトを表すギリシア語「アイギュプトス」に由来するアラビア語で,コプト(エジプト)教会に属するキリスト教徒を指す。コプト教会は,#モノフィジート#の立場に立ったエジプトの教会が広く農民の支持を得て土着性を獲得し,修道院を拠点にしてビザンティン帝国に反抗する過程を通じて形成された。その首長は,エジプトにキリスト教を伝えたという聖マルコの座を継ぐものとされ,ディオクレティアヌス帝即位の284年を紀元とし迫害と殉教を記念するコプト暦は,農事暦として有用な古代以来の太陽暦を受け継ぐものであった。コプト語(ギリシア文字をもとにして書かれた古代エジプト語)とその文化が,この教会の独自性を発展させた。#エジプト#がアラブの支配下に入ると,コプトはようやく安定した法的地位を得た。しかし徴税に抗する反乱も起こったため,ムスリム支配者の政策にも変遷があった。寛大だった#ファーティマ朝#でも,カリフの#ハーキム#による苛酷な抑圧があった。#十字軍#はコプトの立場を苦しくさせ,コプトは,重い木の十字架をぶら下げることを強制され,騎乗を禁止された。コプトがムスリム支配機構の中に徴税吏や書記(#カーティブ#)として食い込んでいたことも,非コプト住民の反発を招いた。こうしてイスラムへの改宗が進行し,コプトはしだいに少数派の地位に追い込まれた。右手首内側に十字架の入墨をする習慣も,守勢の抵抗を示すものとなった。#オスマン帝国#支配下で,コプトはすでにエジプト人口の1割程度となっていたとみられる。この間,10世紀に典礼でのコプト語・アラビア語併用が始まり,15世紀には,コプト語の衰退,アラビア語の通用が決定的になっていた。コプトは,18世紀末のフランス軍占領,19世紀末からのイギリス支配のもとで,しばしばヨーロッパ勢力の協力者・手先となったが,その反面,#ワフド党#などの民族運動の中でも大きな役割を演じた。1860年代以降アメリカの長老派教会の宣教活動により,コプト福音派教会も生まれた。74年,総主教管区会議(シヌードゥス)とは別に,身分法関係の裁判や#ワクフ#管理をつかさどる信徒代表会議(#マジュリス#・アルミッリー)が平信徒から選出されるようになり,聖職者と平信徒との対立が生じ,国家の介入も増した。#アラブ民族主義#に対立して「コプト民族」の存在を強調する立場も現れた。1952年エジプト革命以後,イスラムの国教化の是非をめぐる憲法論争は,コプトの地位に直接影響する問題となった。70年代サーダート政権は,ムスリム・コプト間の宗派紛争の操縦やマリア顕現をめぐる世論操作など,コプトの置かれた微妙な立場につけ込む政策をもてあそび,81年には総主教シェヌーダ3世の追放や教会指導者の逮捕も強行された。現在,エジプト総人口の1割弱がコプトといわれ,主として上エジプト,カイロにいる。,(板垣雄三) 31000,サヌーシー教団,サヌーシーキョウダン,San<印7CF3>s<印77F5>,,リビアを中心に北アフリカに拡大した#イスラム神秘主義#教団。アルジェリアのムスタガーニム近在の出身で,フェス,チュニス,カイロなど北アフリカ各地を遊学した後,メッカでアフマド・ブン・イドリースの感化を受けたムハンマド・ブン・アリー・アッサヌーシーにより,1837年メッカで創設された。40年代以降,本拠をリビアに移し,ジャグブーブやクフラ・オアシスを中心にサハラ一帯のオアシスに#ザーウィヤ#(修道場)群を設立,周囲のフランス,#ムハンマド・アリー朝#,#オスマン帝国#,イギリスの諸勢力と対峙し,1911年以降はイタリアのリビア支配に対して持続的抵抗を組織した。成立当初は法学上#マーリク派#に属したが,1843年これと決裂,イドリース教団の立場を継受しつつ#イジュティハード#の権利を主張し,他方,伝統的諸教団の#ジクル#を集大成して自ら神秘主義の精髄を代表するとした。#ジハード#運動を通じてリビア人の民族的自覚を促し,第1次世界大戦期以降の教団指導者ムハンマド・イドリース・アッサヌーシーは,1951年リビア王国独立に伴い国王となったが,王制は69年革命で打倒され,以後,教団の影響力は失われた。→イドリース教団,(板垣雄三) 32500,サラフィーヤ,サラフィーヤ,salaf<印77F5>ya,,近代のイスラム改革の思想・運動を貫く主要な潮流。一般に祖先を意味するサラフは,ここでは預言者ムハンマドの教友(#サハーバ#),あるいは成立期#ウンマ#を支えた人々を指す。そこでサラフィーヤ(サラフ主義)とは,ビドア(後世の逸脱・歪曲)を排して初期イスラムの原則や精神の回復を目指す立場をいう。それが単なる復古主義でないのは,回帰すべき原点,純化されるべき伝統がそもそも何であるかを,厳しく問うものだからである。イスラムの「現状」を衰退・堕落として批判し,状況を打開・是正するタジャッドゥド(復古=革新)が課題として自覚され,#タクリード#にとらわれることなく,#イジュティハード#を再開することが求められる。この思想・運動の最も明確な出発点となったのは,#ワッハーブ派#であった。しかし,広く近代のイスラムにおける積極的な思想的営為には,常になんらかの形で,サラフィーヤ的志向が動機づけを与えていたといえる。インドの#シャー・ワリー・ウッラー#と#ムジャーヒディーン運動#や#ファラーイジー運動#,あるいは東南アジアのムハンマディーヤ運動においても同様といえよう。また#イドリース教団#や#サヌーシー教団#においても,さらに#マフディー派#においてさえ,それは妥当する。#アフガーニー#の政治的行動主義と結合したイスラム改革の要求も,サラフィーヤに支えられていた。サラフィーヤの思想の体系的展開は,#ムハンマド・アブドゥフ#と#ラシード・リダー#によって与えられた。サラフを預言者の教友にのみ限定せず,より広く#スンナ派#イスラム発展期の伝統のうちにこれを求め,#アシュアリー#や#マートゥリーディー#らもサラフだとしつつ,サラフの合理的精神に沿って#シャリーア#のリベラルで柔軟・斬新な再解釈を示そうとしたムハンマド・アブドゥフに対し,ラシード・リダーは師の思想を厳格な正統主義の方向に転換していった。こうして,これ以後のサラフィーヤの潮流は,現実に適合するようにイスラムを変えていこうとするモダニズム(近代主義)的傾向と,現実をイスラムによって正していこうとするファンダメンタリズム(原理主義)的傾向との,二つの対極の間で展開することになった。,(板垣雄三) 35900,ジャーヒリーヤ,ジャーヒリーヤ,j<印78E6>hil<印77F5>ya,,「無知」を意味するアラビア語。イスラムに対比して用いられ,預言者ムハンマドに啓示が下る以前の,まだイスラムを知らない#アラブ#の状態をいう。歴史用語としては,ムハンマドの時代に先行する約150年間のアラブ社会を指す場合が多い。その意味でのジャーヒリーヤ時代では,遊牧民的価値観が優越していた。当時のアラビアには,農民も#商人#も少なからずいたが,#ラクダ#を飼養する遊牧民(#ベドウィン#)が代表的な#アラブ#であるとみなされていたのである。政治的にはササン朝ペルシア帝国の支配がアラビア半島のかなりの部分を覆い,またビザンティン帝国の支配も一部の地帯に及び,さらに南アラビアの王国,ガッサーン朝,ラフム朝などのアラブの王国も存在した。しかし,このような現実とは別に,遊牧民的価値観のもとでは,人々の生活は政治権力の支配とは無縁のところにあるとされた。人々は家族・氏族・部族という血縁に基づく重層的で自立的な社会集団を形づくり,その枠内で生活することが理想とされた。現実には権力支配を求める戦争も,部族の名誉のための男のスポーツとして美化された。このような価値観を広めたのは主として詩人であった。この時代は,詩人によって#アラビア語#がアラブ社会の共通語として形成された時代でもあった。詩人がアラビア語と遊牧民的価値観をアラブ社会に広めていた時代が,ジャーヒリーヤ時代であるともいえる。,(後藤明) 38100,ジュヴァイニー,ジュヴァイニー,Juvayn<印77F5>,1226〜86,イランのホラーサーン州ジュヴァイン地方の名家出身の歴史家,財務官僚。父バハー・アッディーン,兄弟のシャムス・アッディーンとともにモンゴル人に仕え,バグダード知事の地位にまで登った。モンゴリアに旅した際(1251〜53),同時代史の執筆を勧められ,〈ホラズム帝国史〉〈イスマーイール派教団史〉〈モンゴル帝国史〉の3部からなる《世界征服者の歴史》を著した。,(北川誠一) 39200,ジンミー,ジンミー,dhimm<印77F5>,,イスラム法で,ジンマを与えられた人々をいう。この場合のジンマは,非ムスリムに対する生命・財産の安全の保障を意味する。預言者ムハンマドは,アラビア半島の諸部族,#ユダヤ教#徒,キリスト教徒に与えた文書の中で,「神と神の使徒ムハンマドによるジンマ」という表現で,この意味でのジンマという言葉を用いた。大征服時代には,征服者であるアラブ・ムスリムが服従した被征服民非ムスリムを「ジンマの民」として扱った。理念的な法理論では,ジンマの民は神の啓示を信じ聖書をもつ#啓典の民#,すなわちユダヤ教徒とキリスト教徒に限られ,仏教徒のような偶像崇拝者や多神教徒は含まれない。しかし,実際の征服の過程では,服従した民はすべて「ジンマの民」とされた。
 イスラム法が体系化した9世紀には,征服者と非征服者の区別は実態としてはなくなっていて,ジンミーは純粋に法理論上の概念となった。そこでのジンミーは,その生命・財産の安全と,各自の信仰の保持が保障され,次の義務を負っている。(1)ムスリムの主権を認め,ムスリムに政治的に服従すること。(2)戦争の際ムスリムを助けること。(3)ムスリムに#ジズヤ#(人頭税)と#ハラージュ#(土地税)を納めること。(4)ムスリムの#旅#人を毎年3日間歓待すること。9世紀以後の歴史の現実では,ムスリムは単一国家をつくらず,政治的には常に分裂していた。したがって,ジンミーは,ムスリムが主権者であるおのおのの国家の非ムスリムであった。そして,それらの国家では,ムスリムの圧倒的多数もまた被支配者であった。法理論上,ジンミーが義務を負っているムスリムは,現実にはおのおのの国家の一握りのムスリムとなり,他のムスリムも実質的にジンミーと同じ立場にあり,ジズヤの支払を除き,ジンミーだけがとくに差別されることは少なかった。しかし,#ファーティマ朝#のカリフ,#ハーキム#のように,ジンミーをとくに差別し苦しめた為政者も時にはいた。→スルフ,(後藤明) 42500,ソンガイ帝国,ソンガイテイコク,Songhai,,黒人アフリカで最大の勢力圏をもった帝国。支配部族ソンガイ(ソンライ)族の名をとってこのように呼ばれるが,首都ガオの名をとってガオ帝国とも呼ばれる。16世紀の最盛期には,ガオ(現,マリ共和国)のあるニジェール川大湾曲部東部地方を中心に,その勢力は,西アフリカ西端の現セネガル共和国の地域から,金の主要な産地だったニジェール川上流の山地地方(現,ギニア共和国),岩塩の産地テガザ(現,マリ共和国)を含むサハラの一部,東はハウサ諸国(現,ナイジェリア北部)にまで及んだ。その支配は,#ガーナ#,#マリ#など西アフリカのサハラ南縁に形成された諸国と同様,長距離交易の軍事的な保護という性格が強かったが,同時に,既存の首長領や国家を征服して貢納を強要することを,ソンガイ帝国は大規模に行った。したがって,勢力圏といっても,明確な国境が定まっていたわけではなく,ハウサ諸国のように,かなりの自立を保ちながら,ソンガイに従属し貢納していた社会が多い。この地方に先行したマリ帝国のような,支配層の被支配社会への経済的・文化的浸透は行われず,広域の支配体制の崩壊後は,文化・社会的統一体としての帝国の痕跡はほとんど認められない。
 ソンガイ帝国の起源は,9世紀にさかのぼると思われる。初期首長は呪師的性格をもっていたといわれるが,早くから北アフリカの商人が来住し,社会のイスラム化が進んでいた。14世紀には,ニジェール川大湾曲部一帯に覇を唱えたマリ帝国の一地方領だったが,15世紀後半,勇猛な武将だったソンニ・アリ王(在位1464〜92)が,マリ帝国の支配を覆した。ソンニ・アリは軍事征服の手を広げ,被支配社会に対して専横な支配者として臨んだ。彼の死後,アリの麾下の武将だったアスキア・モハメドが帝位につき(在位1493〜1528),ソンニ王朝に代わってアスキア王朝を築いた。モハメドは熱烈なイスラム教徒として#メッカ#にも#巡礼#し,帝国の勢力圏を拡大すると同時に,宗教・交易を保護し,彼の治政下で宗教・交易都市トンブクトゥも空前の繁栄を迎えた。かくて,西アフリカ内陸の広大な地域に,「ソンガイの平和」が確立されたが,1580年代になってからは,疫病・干ばつ・洪水などの災厄が相次ぎ,モハメド大帝から7代後のモハメド4世(在位1586〜88)の時代には内乱も生じた。そして,次のアスキア・イスハーク2世(在位1588〜91)の時,かねてサハラとその南の黒人の国に野心を抱いていたサード朝モロッコのマンスール王が送った遠征軍の攻撃を受け,91年,帝国は崩壊した。燧石銃を装備したモロッコ軍は,それまで火器を知らなかったソンガイの大騎馬軍を潰走させたが,これがサハラ以南のアフリカ社会に鉄砲がもたらされた最初だった。,(川田順造) 43100,タクビール,タクビール,takb<印77F5>r,,アッラーフ・アクバルという決り文句を唱えることをいう。「神は偉大なり」の意。日に5回の#礼拝#の際,その初めに唱える。また神秘主義教団の#ジクル#の際,タクビールを唱えることが多い。反乱や支配者への直訴の際に,モスクのミナレットなどでタクビールが行われた。その他,日常生活のさまざまな場面で唱えられる。,(後藤明) 46400,中東,チュウトウ,,,第2次世界大戦後に頻用されるようになった国際政治上の地域概念。東はアフガニスタン,イランから西はモロッコまで,北はトルコ共和国から南はアラビア半島全域,スーダン,大サハラ地域までを包括するが,時にはさらにパキスタン,「アフリカの角(つの)」地帯(ソマリアなど),モーリタニアなどが含められることもある。一般に中東の主要な構成要素は,イラン,トルコ,アラブ地域とされる。
 「中東」は,19世紀に頻用された中近東とは同じでなく,中近東に属していた#バルカン#(#オスマン帝国#下のルメリア地域)を含まぬ代り,中近東には含まれなかった北アフリカ(#マグリブ#)をも包含する。中近東ないし近東はヨーロッパの伝統的「東方」概念と距離感とに基づきつつ,二つの紛争地帯として,極東と対置される形で設定された地域概念であったが,これに対して,「中東」における「東」にはむしろ東西対立などという場合の社会主義的「東方」の意味もこめられていた。したがって,「東」になる「危険」をはらんだ地域というニュアンスをもつものとして,「中東」は明らかに「西」側的発想からする地域編成概念である。しかしそのように枠づけられた地域に住む人々も,自らの地域をあえて「中東」と呼ぶことによって,対抗的主体性を示すことが多い。,(板垣雄三) 46500,中東戦争,チュウトウセンソウ,,,1948年5月イスラエル国家の成立とともに始まったアラブ諸国・イスラエル間の一連の武力紛争。中東紛争,アラブ・イスラエル紛争ともいう。もっとも,その間に発生した大規模な戦争激発局面のみを指すことも多い。すなわち,48〜49年の第1次(交戦国により呼称は異なり,アラブ諸国ではパレスティナ戦争,イスラエルでは独立戦争または解放戦争と呼ぶ),56年の第2次(上と同様,それぞれ,スエズ戦争,シナイ戦争),67年の第3次(六月戦争に対し六日戦争),73年の第4次(十月戦争またはラマダーン戦争,ヨーム・キップール―贖罪の日―戦争)の4回の戦争である。しかしその他の時期にも,紛争は消耗戦争,コマンド作戦,空襲,心理戦争,経済ボイコット等々さまざまな性格・規模の諸局面を伴いつつ,絶え間なく展開し続けた。4回の激発も,先行する戦争の結末がそのまま次の戦争の引き金となるという連鎖を形づくっている。そのうち最も注目される第3次戦争は,第1次戦争後固定されていた休戦ラインを越えて広大なイスラエル占領地(ヨルダン川西岸地区,ガザ地帯,ゴラン高地,シナイ半島)をつくり出し,その拡張した領域内に多数のアラブのパレスティナ人住民をかかえ込んだイスラエル国家はその変質が進み,#シオニズム#の目標であったユダヤ人国家とは似つかぬものとなった。またイスラエルの東エルサレム併合は,#エルサレム問題#を急転させた。アラブ産油国の石油禁輸政策を伴った第4次戦争も,またその後のアメリカ主導下の中東和平工作も,イスラエルのシナイ半島からの段階的撤兵とキャンプ・デーヴィッド合意に基づくエジプト・イスラエル平和条約という変化を生み出したものの,その他の面では第3次戦争が創出した現実を逆に凍結するように作用した。第3次戦争以降,パレスティナ抵抗運動が発展し,パレスティナ人の民族的主体性の確立が進むと,アラブ諸国対イスラエルという対立図式の枠内でのみ中東紛争を説明しようとする中東戦争観は,現実の中でその破綻がいよいよ明らかになるとともに,パレスティナ人切捨ての論理としてのその性格がますます露呈されるにいたった。中東戦争を宗教間の抗争としてとらえる見方,すなわち現代国際政治の中での#ジハード#論的解釈も,それが非宗派的国家の建設を目指すパレスティナ人の運動の発展のためにいよいよ成り立ちにくくなったからこそ,第4次戦争の双方の呼称がよく示すように,紛争における宗教的立場を逆にいっそう強調しようとする勢力が生じるようにもなった。→パレスティナ問題,パン・イスラム主義,(板垣雄三) 51000,ナーセル,ナーセル,Jam<印78E6>l<印78FE>Abd al-N<印78E6><印7CE3>ir,1918〜70,エジプトの政治家,軍人。伝統的エリートの家の出ではなく,上エジプトの郵便局長の家に生まれ,早くから反英民族運動に加わり,1938年陸軍士官学校を卒業,48〜49年のパレスティナ戦争に参加した。52年7月のエジプト革命において自由将校団を率いて指導的役割を果たし,54年ナギーブ大統領失脚後,名実ともに革命指導の最高責任者となった。
 国内政策としては,第1次農地改革を実施し,産業振興に努め,アラブ民族主義による真の独立達成をはかった。またイスラム改革派に理解を示すと同時に,イスラム団体の政治介入を拒否し,最大のイスラム政治団体であったムスリム同胞団を非合法化した。対外政策としてはエジプト駐留イギリス軍の撤兵,バンドン会議における非同盟の旗手の役割,アラブ世界における民族主義の中核的役割など華々しい活動を展開した。55年チェコスロヴァキアからの武器購入,バグダード条約機構加盟の拒否によって対欧米関係が悪化し,アスワン・ハイダム建設に対する世界銀行の約束が撤回され,ナーセルはこれに対し56年スエズ運河国有化をもってこたえた。この措置はイギリス・フランス・イスラエル軍の介入によるスエズ戦争を引き起こした。軍事介入は失敗に帰したが,エジプトの対ソ接近を確定的なものとし,アスワン・ハイダムと工業化計画に対するソ連の援助が大々的に行われることになった。
 国内的にも私企業優先主義から国家指導による計画化経済への転換が50年代末に現れ,シリアとの連合(1958〜61),その後の分離を契機として,61年社会主義宣言が行われたのである。社会主義宣言とともに第2次農地改革が導入され,大私企業の国有化措置がとられた。また,この時期にはアズハルも国家管理のもとにおかれて改革され,アラブ世界の宗教・言語の研究・教育センターとしてイスラム連帯を唱えるナーセルの宗教外交を支えることとなった。
 60年代にはイエメン内戦に介入し失敗した。またパレスティナ解放運動の支持と#パレスティナ問題#の「平和的」解決の間に立って揺れ動いた。そして67年第3次#中東戦争#の敗戦によってアラブ民族主義とアラブ社会主義が破産し,ナーセル体制は事実上その歴史的役割を終えた。敗戦後ナーセルは慰留されて大統領の職にとどまり,再軍備とイスラム精神復興を軸として敗戦後の再建と対アラブ諸国関係の回復に努め,対イスラエル消耗戦争(1969〜70)の遂行と70年ヨルダン内戦をめぐるヨルダン政府とPLOの関係回復に活動中,過労のため心臓発作で死去した。,(中岡三益) 52500,ネストリウス派,ネストリウスハ,Nestorius,,#モノフィジート#と並び立つ東方キリスト教の一派。アッシリア教会とも呼ばれる。アンティオキア派の東方神学の潮流の中で,キリストの神性と並んでその人間性に注目し,マリアをテオトコス(神母)と呼ぶことに反対したテオドロスやネストリウスらの立場は,431年のエフェソス公会議を経て異端とされていった。その結果,6世紀にかけて分離独立するにいたった東シリアの教会がネストリウス派である。教会用語としてはシリア語を用い,メソポタミアを中心としてササン朝ペルシアのもとで拡大した。セレウキア・クテシフォンにこの教会の首長たる東方総主教(カトリコス)座が置かれ,各地の神学校・修道院はヘレニズムの学問のセンターとなった。同派には医師,技術者などが多く現れた。この派は積極的布教活動に取り組み,イランからさらに東方へと広まり,中央アジアから中国(そこでは景教とも呼ばれた)に,またアラビア半島から南インド(今日ケーララと呼ばれるマラバール海岸地帯)に伝えられた。アラビア半島には,同派を奉じていたメソポタミアのアラブのラフム朝(3世紀〜602)の首都ヒーラから盛んに伝道が行われた。預言者ムハンマドがウカーズの定期市で同派の主教クッス・ブン・サーイダの説教を聴いたという伝承があり,631年ムハンマドと会談したキリスト教徒とは同派の人々だったとみられる。アラビア半島に広まっていた同派の存在がイスラムの成立に対して与えた影響は大きかったであろう。コーランの中で問題とされている預言者#イエス#やキリスト教には,ネストリウス派の教義が多く反映されているともいわれる。イスラム国家のもとでネストリウス派は#ジンミー#の中で有力な地位を打ち立て,ことに#アッバース朝#のもとで多くの官僚・学者を生み出した。#ヤコブ派#など他の東方キリスト教徒も,ネストリウス派のカトリコスの監督下に置かれた。#ダール・アルヒクマ#でギリシア語文献の翻訳事業を推進した#フナイン・ブン・イスハーク#も同派のキリスト教徒である。同派は11世紀初めトルコ系のケレイト族をキリスト教に改宗させ,その後のモンゴル帝国拡大のもとでも重要な役割を演じた。#オスマン帝国#期を通じてクルディスターン山岳地帯に中心をもつようになったが,第1次世界大戦後トルコの迫害を受け,またイラクでも1930年代に政府の弾圧を蒙った。現在では,イラク,イラン,シリア,アゼルバイジャン,アメリカなどに散在する少数派となっている。なお,ユニアット(カトリックとの合同)によってこの教会から分離してカトリック側に移行した部分は,カルデア・カトリック教会と呼ばれる。,(板垣雄三) 52800,ノウルーズ,ノウルーズ,Nour<印7CF3>z,,イラン太陽暦(ペルシア暦)の新年元旦。暦によって日にちに違いがあるが,現行暦では3月21日に当たる。#ゾロアスター教#に由来する祝祭日。ノウルーズ前後に年末年始の行事が春と収穫の訪れを祝って催される。年末最後の水曜日にはチャハールシャンベスーリーという火をたいて健康を祈願する行事が行われる。昔はノウルーズ当日に,宮廷で宗教的儀式が挙行されて贈物の受理が行われ,饗宴が張られたという。13日目に人々は行楽を兼ねて郊外に出かけ,近親者で祝宴を開く。,(坂本勉) 54500,ハサン・アルバンナー,ハサン・アルバンナー,<印7CE9>asan al-Bann<印78E6>,1906〜49,エジプトの#ムスリム同胞団#の初代の団長。ナイル・デルタ農村の出身。#ダール・アルウルーム#に学び,都市生活の虚飾に反発し,1929年中学校教員として赴任したイスマーイーリーヤで同胞団を創設。40年代にはエジプト最大の大衆政治団体として社会の多方面に活動を広げる宗教社会運動に成長させ,その階層組織を神秘的権威をもって統轄した。パレスティナ戦争への大衆扇動,秘密軍事機関による要人暗殺などのテロを組織したが,逆に秘密警察によって暗殺された。,(板垣雄三) 55300,バスマチ運動,バスマチウンドウ,Basmac<印7DF5>,,ロシア革命後の旧植民地トルキスタンにおいて新生のソヴィエト政権に対して行われた現地ムスリムの「反革命」運動。原義は匪賊・急襲者で,この名はソヴィエト側の与えた他称。運動の参加者には,民族主義者,#アミール#をはじめとする旧支配者,#スーフィー#,農民,遊牧民など多様な要素が見いだされ,統一的な組織・綱領は存在しなかった。運動が最も活発であったのは1918〜24年であるが,地域によっては30年代まで存続し,ソヴィエト政権に多大の脅威を与えた。,(小松久男) 57100,ハーフィズ,ハーフィズ,<印7EE5><印78E6>fi<印7BE2>,,「保持者」「護持者」の意を表すアラビア語で,普通コーラン(ハディースを含める場合もある)を全部暗誦している者につける敬称である。かつては法学者の多くがハーフィズである場合が多かったが,彼らの伝記を集めた最古のものにザハビー(1274〜1348)の《暗誦者列伝》がある。子供がコーラン塾(#クッターブ#)に通ってコーラン全114章の暗誦が終わると,家族の者はコーラン教師と学友を招いてハトマ(暗誦完了)の祝いをする。塾のコーラン教師はこの時初めて相当額の謝礼を受け取ることができる。子供は早ければ10〜12歳くらいでハーフィズとなり,周囲の者からは#シャイフ#(長老)と呼ばれて敬意を表される。かつてのイスラム世界の教育目標が,コーランに始まりコーランで終わったことを思えば,ハーフィズになった子供はそれだけで将来を嘱望されたものである。イスラム社会では盲人がコーランを暗誦して,アズハル大学総長のような高い社会的地位にのぼる例もある。またハーフィズは敬称であるとともに単なる人名としても用いられる。,(飯森嘉助) 58600,パレスティナ問題,パレスティナモンダイ,,,アラブ分割政策(アラブの#ユダヤ教#徒を「ユダヤ人」として扱い,これを非ユダヤ教徒としての「アラブ」から切り離す)と独特の植民地主義(世界のユダヤ人すなわち離散の地diasporaのユダヤ人のパレスティナ植民を国際的に組織する)とを結合させる#シオニズム#運動(1948年以降はイスラエル国家)と,これを19世紀の#東方問題#操作に代わる20世紀の中東支配・管理のための基軸的装置として利用しようとした強国(1917年の#バルフォア宣言#から第2次世界大戦までは英仏,ことにイギリス,第2次大戦から67年までは米ソ,67年以後は主としてアメリカ)の政策とが,絡み合ってつくり出してきた国際的・社会的紛争。そこでは,絶えず「アラブ」対「ユダヤ人」,さらにアラブ諸国対イスラエル(#中東戦争#)という対抗関係の枠組みによる割切りが押しつけられ,また,棄民としてのユダヤ人のパレスティナ導入がパレスティナのアラブの棄民としての排除をもたらすという形式で,国際的連関構造をもった住民追放が系統的に進められた。こうして「ユダヤ人国家」の対極として,世界に離散したディアスポラ・パレスティナ人が形成され,パレスティナ民族主義がパレスティナ問題の克服要因として成長を始めた。もともと,パレスティナという名称は,フィリスティア(ペリシテびとの国)に由来し,ローマ・ビザンティン支配のもとではシリアの行政区画であり,アラブ支配もこれを受け継いでフィラスティーン(パレスティナにあたるアラビア語)軍区を置いた。しかしその後は,パレスティナは漠然とシリアの南部地方を指すものでしかなかった。パレスティナ問題の展開の場としてのパレスティナの地域的区画が明確になるのは,南部シリアのうちヨルダン川の西側の地域(シスヨルダン)をパレスタインと定め,そこに,イラクやトランスヨルダンにおいてと同様,国際連盟の名によるイギリス委任統治を樹立することが決定されていく過程においてであった(1920年連合国のサン・レモ会議,21年イギリス帝国のカイロ会議)。こうしてユダヤ人国家建設予定地の中に囲い込まれた住民が,自分たちの運命の収奪に抗する戦いの中で,「パレスティナ人」となっていった。#アラブ民族主義#を分断しようとするパレスティナ問題は全アラブ地域に共通の問題を投げかけたが,そこでの特殊な形態の植民地主義は,アラブ一般には解消できないパレスティナ人独自のアイデンティティをもまた発展させることになった。
 パレスティナ問題の国際政治過程は,イギリス政府がユダヤ人の民族的郷土をパレスティナに設立することに賛成したバルフォア宣言から本格的に展開し始めた。パレスティナへのユダヤ人入植は,ロシア・ツァーリズムによるポグロム(ユダヤ人虐殺)扇動の圧力のもとで,すでに19世紀末から開始されてはいたが,その本格的発展はイギリス委任統治下においてであり,ことに1930年代に入って,ユダヤ人を狩り立てるナチスのアンチ・セミティズムの異常な圧力が加わってからである。移住は合衆国を中心とする諸財団・基金の援助によっても促進された。欧米の反ユダヤ主義がこぞって,東・中欧からパレスティナに向かっての大規模な人口移動を組織したのだといえる。これに対して,たちまち1920年代初めから現地アラブ住民の抵抗が始まったとはいえ,初期においては土地代金の入手で潤うアラブ地主層がイギリス当局に懐柔され,また民衆もシオニズムの意図やヨーロッパの反ユダヤ主義の押しつけの意味を容易に見抜くことはできなかった。#エルサレム問題#の最初の爆発ともいうべき29年の歎きの壁事件,さらに30年代半ばの植民者の激増に伴うパレスティナ社会の激変と,シオニストの強硬なアラブ駆逐運動とに反発した36〜39年のアラブ反乱などを通じて,パレスティナ人の大衆運動はエルサレムのムフティー,#アミーン・アルフサイニー#の指導下で,しばしば#ジハード#論的宗教抗争の方向に誘導された。37年のピール報告から47年の国際連合のパレスティナ分割決議にいたるパレスティナ分割(ユダヤ人国家,アラブ国家,国際化エルサレムへの)諸計画が国際政治の中で論議されていた時,36年に発揮されたようなパレスティナのアラブの政治的・軍事的抵抗力はすでに根こそぎ破壊されており,国際社会もパレスティナ人の自決権に顧慮を払わなかった。48年,米ソの支持のもとにイスラエル国家が成立する時には,多数の難民が国土そのものから放逐された。この後パレスティナ人の問題はアラブ・イスラエル紛争の論理に従属させられ,中東戦争の現実の中に隠蔽された。64年に成立したパレスティナ解放機構(PLO)もアラブ諸国のパワーゲームの道具立てにすぎなかった。イスラエルが,49年のイスラエル・ヨルダン・エジプトによるパレスティナ3分割の状況を打破してパレスティナ全土の統合を実現し,アラブ民族主義に打撃を与えた67年の第3次の中東戦争の後,PLOはパレスティナ抵抗運動の諸組織―ファトフと人民戦線(PFLP)など―を基盤に再編成され,各地のパレスティナ人の革命化・急進化が進んだ。そこでは,ムスリム,ユダヤ教徒,キリスト教徒が共存する単一の民主的・非宗派的パレスティナ社会の建設が目標とされ,イスラエル市民をも巻き込む新しいパレスティナ人の形成が目指されるようになった。中東戦争ならびにアラブ諸国・イスラエル間の和平の枠組みを維持すべく戦われた73年の第4次の中東戦争をはさんで,アラブ諸国も,上のような主体性を発展させつつあるパレスティナ人の運動に対して,抑圧(たとえば70年のヨルダンの黒い九月事件)と対応(たとえばPLOをパレスティナ人の唯一正統の代表機関と認めた74年のラバトでのアラブ首脳会議)の間を揺れ動いた。しかし,パレスティナ人の民族的自決権,帰郷または補償を受ける権利の承認こそ中東の平和の前提条件であるべきだ,という認識は,その後国際的にますます広く受け入れられるようになった。,(板垣雄三) 58900,ハーン,ハーン,kh<印78E6>n,,遊牧民の族長の称号。8世紀に古代トルコ語で書かれたオルホン碑文にカガン,カンの称号が見えるが,これがイスラム世界に入ってハーンに転訛した。北アジア,中央アジアに建国した突厥帝国では,遊牧封建領主に「小可汗」の称号を与え,帝国の唯一・最高の主権者である君主は「大可汗」と称した。突厥の後,トルコ系遊牧民の族長層はいずれもカガン,カンの称号を名のったが,最初のイスラム化したトルコ系国家,#カラ・ハーン朝#の君主は,イレク・ハーンと称した。西アジアに入り,#アッバース朝#カリフから世俗の支配権をゆだねられた#セルジューク朝#の支配者は,#スルタン#の称号を採用した。その他の族長層はハーンといったが,これは諸王を意味する#アミール#,マリクと同義である。モンゴル帝国では,4ハーン国の支配者をハーンといい,この上に立つ最高君主をハーカーン(ペルシア語で「ハーンの中のハーン」の意),ないしはカーアーン(トルコ,モンゴル語で「カンの中のカン」の意)といった。#サファヴィー朝#では,ハーンは大きな州の支配者,スルタンはその下の行政地区の支配者を意味するようになり,もとの意味を失った。,(坂本勉) 59900,ヒジュラ暦,ヒジュラレキ,hijra,,イスラム世界で行われている暦。イスラム暦とも呼ばれる。預言者ムハンマドのメッカからメディナへの#ヒジュラ#(移住)があった年を紀元元年とするため,この名がついた。英語ではAnno Hijraeを略してA.H.と記す。
 ムハンマドがメディナの郊外クバーに到着したのは622年9月24日であるが,当時のアラビアの暦で,その年の1月1日,西暦の622年7月16日が,ヒジュラ暦紀元元年1月1日に当たる。ムハンマド没後,第2代カリフ,#ウマル1世#の時代に,ヒジュラがイスラム国家建設の出発点であったとする認識に立って,この暦が定められた。
 ヒジュラ暦は完全な太陰暦で,月が地球を1周するのは291/2日であるから,1ヵ月は29日か30日となる。1年は12ヵ月で閏月を置かない。イスラム以前のアラビアの暦は3年に1度のわりで閏月を年初に設けていたが,コーランに神が天地を創造した時に月数は12であった旨記されており,それによって閏月を置かなくなった。したがって1年は354日となり,太陽暦の3651/4日より,およそ11日短い。各月と季節は毎年ずれて,321/2年で1巡する。また,1日は,日没に始まり日没に終わる。たとえば,ヒジュラ暦の27日とは,26日の日没から27日の日没までを指す。月の名称は次のとおり。
 第1月 ムハッラム 30日
 第2月 サファル 29日
 第3月 ラビー・アルアッワル 30日
 第4月 ラビー・アッサーニー 29日
 第5月 ジュマーダー・アルウーラー 30日
 第6月 ジュマーダー・アルアーヒラ 29日
 第7月 ラジャブ 30日
 第8月 シャーバーン 29日
 第9月 ラマダーン(断食月) 30日
 第10月 シャッワール 29日
 第11月 ズー・アルカーダ 30日
 第12月 ズー・アルヒッジャ(巡礼月) 29日
 ヒジュラ暦でも7日を1週とする。曜日名は以下のとおり。ヤウム・アルアハド(日),ヤウム・アルイスナイン(月),ヤウム・アッサラーサー(火),ヤウム・アルアルバアー(水),ヤウム・アルハミース(木),ヤウム・アルジュムア(金),ヤウム・アッサブト(土)。,(後藤明) 62100,フィダーイー,フィダーイー,fid<印78E6>'<印77F5>,,「宗教・政治的目的のために一身を犠牲にして戦う者」を意味するアラビア語。アラムートを本拠とした#イスマーイール派#の#ニザール派#において,主命により一身を賭して同派の宗教・政治上の敵を暗殺した者を指した。フィダーイーにより#セルジューク朝#の宰相#ニザーム・アルムルク#をはじめ多くの名士たちが暗殺された。彼らは使命に赴く前に麻薬#ハシーシュ#(インド大麻)を飲まされたとも伝えられるが確証はない。
 13世紀にニザール派の拠点が崩壊すると,この語は使用されなくなったが,19世紀半ばのオスマン帝国で反体制組織が自称として用いたのをきっかけに復活。パレスティナ人コマンドもかつては自らをフィダーイーと呼んでいた。また,この語のペルシア語複数形をフェダーイヤーンというが,イランでこの語を採用した有名な極右イスラム団体に#フェダーイヤーネ・イスラーム#がある。1971年にはマルクス・レーニン主義を奉じるフェダーイヤーネ・ハルクというゲリラ団体が組織され,79年の#イラン革命#に際し人民蜂起で大きな役割を果たしたが,その後非合法化された。,(黒柳恒男) 62600,復讐,フクシュウ,,,アラビア語でサール。イスラム以前のアラブ社会では,被害者またはその親族が同じ害を報復する同害報復が制度として広くみられ,イスラム以後の時代にも伝統として残った。イスラム以前の時代では,殺人事件などを裁く公権力がないのが社会の常態であり,事件は私的な復讐を招いた。被害者の親族が加害者本人もしくはその親族に復讐するのが制度の原理であるが,その際の親族の範囲は慣習法の中ででも特定されていなかった。また人間一人の生命がみな等価とみなされていたわけではなく,性・年齢・社会的立場によって差があるものとされていたが,その基準も不定であった。そのため,復讐が新たな復讐を招くこともしばしばあり,その繰返しが,親族の範囲を部族レベルに広げて,大規模な戦争にまで発展することもあった。殺人は,時には金品で償われることもある。その金品を「血の代償」という。イスラム法は,復讐よりは「血の代償」による事件の解決を求めている。一方で,現代でも,サールがイルド(名誉)を守る手段として行われることもある。→刑罰,(後藤明) 63800,ブハーラー,ブハーラー,Bukh<印78E6>r<印78E6>,,中央アジアの都市。ザラフシャン川下流域のオアシス地域に位置し,古くはイラン系ソグド人の都市国家として知られた。709年#クタイバ・ブン・ムスリム#指揮下のアラブ軍に征服されてからイスラム化が始まり,#サーマーン朝#期にはその首都となった。この時代のブハーラーは,西アジアにトルコ系奴隷を供給する商業都市として繁栄するとともに,イスラムの学問と復興するイラン文化の一大中心地であった。13世紀のモンゴル時代には極度の荒廃を経験したが,都市は徐々に復興し,1500年の#ウズベク#による征服の後はブハーラー・ハーン国の首都となった。この時代においてもブハーラーは中央アジアにおけるイスラム教学の中心地であり,とくに近郊にある#ナクシュバンディー教団#の開祖の聖廟は各地から多くの#巡礼#者を集めた。1920年のソヴィエト革命を経て,現在はウズベキスタン共和国の一地方都市となっているが,市内にはソ連時代にも機能していたミーリ・アラブ・マドラサなど多数の歴史的建造物が残されている。,(小松久男) 64000,ブラウン,ブラウン,Edward Granville Browne,1862〜1926,イギリスのイラン学者。露土戦争に影響を受け,ケンブリッジ大学に入学して医学を修めるものの,広く#イスラム学#に関心をもちイラン研究に転じた。1887〜88年,イランに旅行,#バーブ教#の調査を行う。その学風はペルシア語写本の綿密な研究に基づく文献学的方法に特色があるとともに,同時代史にも鋭い関心を寄せた。このことはイラン,オスマン帝国の立憲主義者たちとの親交や援助によく現れている。主著に《イラン立憲革命》がある。87年以来,母校の教壇に立ち,#イラン学#の基礎を築いた。,(坂本勉) 65600,ペルシア,ペルシア,F<印78E6>rs,,イランの異称,ペルシア語でファールス。古代ペルシア語のパールサがギリシア語・ラテン語に入り,現代ヨーロッパ諸語のペルシアという地名となる。地域概念としてのペルシアは,もともとはアケメネス朝が拠ったイラン南西部ファールス地方を指すが,アケメネス朝のイラン高原統一によって現在のイラン全体を含む概念にまで意味が拡大した。ペルシアとイランとは同じ地域概念だとみなすこともできるが,後者は古代のイラン系諸民族の分布を考えると,中央アジアも含むより広域的な概念としてとらえられている。→イラン,(坂本勉) 66600,ホラーサーン,ホラーサーン,Khor<印78E6>s<印78E6>n,,イラン北東部の州。歴史的にはアフガニスタンのヒンドゥークシュ北麓地方,トゥルクメン共和国を構成する地域を含む。651年,アラブ軍に征服された。#ウマイヤ朝#末期,この地方に駐屯していた軍隊は,#アブー・ムスリム#に指揮され,アッバース朝創設運動の原動力となった。9世紀,イラン文化復興の気運が起こると,その中心となり,近世ペルシア語のもとになったダリー語がここで形成された。アッバース朝の中央集権体制が崩れると,イラン系の地方王朝ターヒル朝(821),サッファール朝(867)が成立した。900年,マー・ワラー・アンナフルの#サーマーン朝#がこの地方を併合,その保護のもとにイラン文化が発展した。994年,#ガズナ朝#のスルタン,マフムードによって占領され,以後,トルコ系遊牧民の支配を受けるようになる。1381年,ティムールに征服され,その孫シャー・ルフの時,この地方の中心都市ヘラートはイラン支配の拠点となった。1507年,#ウズベク#族のシャイバーニー・ハーンによって一時占領されるが,#サファヴィー朝#は反撃し,この地方の北東の境界をアム・ダリヤに保った。ウズベク族の攻撃を最後に,中央アジアからこの地方へのトルコ系遊牧民の民族移動の波は止まった。しかし,北東方面に#トゥルクマーン#族,南東方面にアフガン族がおり,この地方が3分割される基礎ができあがった。1833年,条約により,現在のイラン・アフガニスタン国境線が引かれ,80年,ロシアと条約が締結され,現在のトゥルクメン共和国との国境線のもとになるものがこのとき画定された。,(坂本勉) 67500,マグリブ,マグリブ,Maghrib,,アラビア語で「日が没する地」または「西方」を意味し,#マシュリク#に対する語。普通,チュニジア,アルジェリア,モロッコを含む北西アフリカを指す。これにリビアを含める場合もある。元来は#ベルベル#人の居住地であった。カルタゴ,ローマ,ヴァンダル,ビザンティン帝国に相次いで支配されたが,それらの支配はいずれも都市や海岸部に限られ,マグリブ社会に深い影響を残さなかった。7世紀中ごろ,イスラムと#アラビア語#を携えて侵入して来たアラブは,ベルベル人に積極的に改宗を説き,彼らを徐々に同化させていったが,その過程は困難を極めた。670年,アラブは軍営都市#カイラワーン#を建設したが,ベルベル人の指導者クサイラやカーヒナによる激しい抵抗に遭った。それらの抵抗が鎮圧された後も,ベルベル人は#ハワーリジュ派#(#ルスタム朝#など)や#シーア派#(#イドリース朝#や#ファーティマ朝#など)を受け入れ,#スンナ派#のアラブ支配に抵抗した。11世紀中ごろ,ファーティマ朝が送り込んだアラブ遊牧民,ヒラール族とスライム族はマグリブ東部のアラブ化を促進させた。同じころ,西サハラの遊牧民サンハージャ族が熱狂的宗教運動を土台にして#ムラービト朝#を建国し,アルジェリア以西とスペインを征服,スンナ派イスラムを広めた。続いて興った#ムワッヒド朝#も宗教運動を土台とし,マグリブ全体を統一してスペインをも支配した。この王朝下ではモロッコのアラブ化と内陸部や山岳地域のイスラム化が進んだ。13〜16世紀までマリーン朝,ザイヤーン朝(アブド・アルワード朝),ハフス朝の3王朝が鼎立したが,この間の#イスラム神秘主義#の発展は目覚ましく,イスラム化がいっそう深まった。16世紀にはアルジェリアとチュニジアは#オスマン帝国#に征服されたが,モロッコは#シャリーフ#(ムハンマドの子孫)によるサード朝,アラウィー朝の建国により独立を保った。オスマン帝国が支配した時期(16〜19世紀)に,モロッコ,アルジェリア,チュニジアの領土の原形ができあがった。
 この三国はいずれもフランスの植民地支配下に置かれたため,独立後もフランスの言語・文化の影響やフランスとの強い政治的・経済的関係が維持されている。しかし,政治体制のあり方は三国間で異なっていて,それが相互の緊張関係(とくにモロッコとアルジェリア)を生むことがある。また1989年2月に結成されたアラブ・マグリブ連合(モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア,モーリタニアの5ヵ国)も十分に機能していない。,(私市正年) 68100,マシュリク,マシュリク,Mashriq,,アラビア語で「日が昇る地」または「東方」を意味し,#マグリブ#に対する語。エジプト以東の東アラブ地域を指す。中世のマグリブやアンダルスの人々にとって,マシュリクは何よりも#巡礼#の地(メッカ)であり,また学問を学ぶ土地(カイロ,バグダード,ダマスクスなど)であった。現代では,マグリブ諸国が政治的・経済的・文化的な統合を目指して連合体(アラブ・マグリブ連合)を結成したが,エジプト以東の全アラブ諸国がマシュリクとしての一体性を意識することは希薄である。,(私市正年) 68800,マドラサ,マドラサ,madrasa,,#教育#施設を指すアラビア語。伝統的には#ウラマー#を育成するための高等教育施設をいう。法学を中心に,コーラン諸学,#ハディース#学,神学,言語学,古詩学などの教授が中心で,数学,天文学,医学,哲学などイスラムにとっては外来の学問も教授される場合もあり,イスラム世界に広く存在し,小さな町でも一つ以上,大都市では数十から百を超えるマドラサがあった。マドラサは大きな#モスク#そのものの場合もあり,またモスクの付属施設の場合もあった。授業はモスクの礼拝場でなされるのが普通であったが,場合によってはマドラサとしての特別の施設にモスクが付属することもある。大規模なマドラサになると数十名の教授に俸給を支払い,数百名から千名を超える学生に奨学金と寄宿舎を提供した。それらの財源は主として#ワクフ#で,ワクフ自体は権力者の寄進の場合が少なからずあったが,ワクフの運用やマドラサでの授業内容は政治からある程度自立してなされていた。学生は一つのマドラサだけで勉学するよりは,師を求めて各地のマドラサを遊学するのが常で,ウラマーとして認められるまで10年から20年近くもかかった。イスラム世界に普遍的な制度としてマドラサが誕生するのは11世紀からで,#セルジューク朝#の宰相#ニザーム・アルムルク#や#アイユーブ朝#の創始者#サラーフ・アッディーン#などが組織的に設立した。セルジューク朝やアイユーブ朝ではシャーフィイー派の,マムルーク朝ではこれに加えてハナフィー派の,また,オスマン朝ではハナフィー派のマドラサが多く建設され,これらの学派は,それぞれの地域で強い勢力をもつことになった。→教育,ニザーミーヤ学院,ヌーリーヤ学院,ムスタンシリーヤ学院,(後藤明) 69000,マフザン,マフザン,makhzan,,「倉庫」を意味するアラビア語。元来は税の貯蔵庫を意味したが,モロッコでは,しだいに国庫や,それから派生して中央政府あるいはその代表者たちをも意味するようになった。したがってモロッコの歴史でマフザンの土地とは国家権力の直接支配が及ぶ所を指す。それに対して中央権力に服しない部族の土地をシーバの土地と呼ぶ。また#オスマン帝国#治下のアルジェリアのマフザン部族とは,ベイ(太守)に直接仕える部族のことである。19世紀以降,モロッコに成立したカリスマ的スルタンを中心にした体制はマフザン体制と呼ばれ,今日のモロッコ王制もマフザン体制の再編とみなされている。,(私市正年) 69800,マラケシュ,マラケシュ,Marr<印78E6>kush,,モロッコ中南部の都市。アラビア語でマッラークシュ。1070年ころ,#ムラービト朝#の都として建設された。王朝の発展,とくにスペイン征服とともに,#キャラヴァン#貿易をはじめ商工業,文化が栄えた。続く#ムワッヒド朝#もここを都とし,市街地の拡大,庭園,クトゥビーヤ・モスク等の建設を行い,#イブン・ルシュド#ら多数の学者が来住し,学問研究の中心地ともなった。その後,16世紀にサード朝の都として繁栄した一時期を除けば,小独立政権の地方的拠点とされることが多かった。今日ではジャマー・アルフナー広場を中心にモロッコの一大観光都市として有名である。,(私市正年) 70500,マリ帝国,マリテイコク,Mali,,黒人アフリカの帝国の一つ。その名を継いで1960年に独立したマリ共和国の地域をおもな勢力圏に,14世紀を最盛期として栄えた。イスラム化された北アフリカのかなたにある黒人アフリカの「黄金の都」として,ヨーロッパ世界の幻想をかきたてたトンブクトゥは,マリの栄華を象徴した。しかし,この商都が帝国の首都ではなく,マリの君主の都がどこにあったのかさえ不明なことからもわかるように,帝国といっても,統一国家としての組織化は弱く,いくつかの地方に盛衰した王朝の,交易路と交易拠点を覆う「勢力圏」とみるべきである。イスラムの浸透が北アフリカ西端にまで及び,サハラを南北に越える交易が8世紀以降盛んになってから,西アフリカのサハラ砂漠南縁に,北アフリカとの交易を経済上の基盤とする黒人帝国が出現する。11世紀末に衰退した#ガーナ#,これに続くマリ,#ソンガイ#の諸帝国がそれである。ただ,その経済的繁栄や,支配層の栄華を形づくった文物の流入が,イスラム化された北アフリカとの交渉に負っていたとしても,支配者が形成され台頭する基盤は,黒人アフリカの文化に根ざしていたとみられる。マリの歴史を探るにあたっても,現地や北アフリカに残された,全体としてきわめて不十分なアラビア語の記録と,間接的で断片的なポルトガル語,イタリア語などの記録,地中海世界でつくられた若干の地図のほかには,同時代史料としての文字記録や遺跡・遺物がないので,口頭伝承をはじめとする民族誌資料の検討が重要である。
 マリに先行したガーナが,「勢力圏」としては没落した後,現在のマリ共和国の南西地方に勢力をもっていたソソ族の支配に反抗し,これを打破したマリンケ族のスンジャータという英雄(13世紀?)が,マリ帝国の始祖とされている。しかし神話的性格の濃厚なこの始祖が興した王朝と,14世紀にトンブクトゥの交易も支配下に収め,メッカに華やかな#巡礼#を行って(1324〜25)「黄金の帝国マリ」の名を広めたムーサー王の王朝とは,ひとつづきのものではないと考えられる。マリの都はいくつもあったらしいが,同一王朝が遷都しただけでなく,複数の王朝の交代や消長もあったとみなすべきであろう。いずれにせよ,マリンケ族の支配者による勢力圏としての連続性は保っていたマリは,セネガル川やニジェール川上流地帯の金の重要な産地を支配していた。マリの勢力圏から北アフリカへ輸出される金や#奴隷#と引換えに,北からはサハラの岩塩や北アフリカ産の織物,装身具,馬などがもたらされた。金の産地の住民はイスラムを拒み続けたが,マリの支配層は早くからイスラム化したようである。文化としてのイスラムの受容が,黒人帝国の支配者の特権を高め,北アフリカとの交渉を円滑にする役割を果たしたといえる。マリは,その勢力圏の東部のソンガイ族が15世紀中ごろから勢力を伸ばすにつれて衰退したが,ソンガイ帝国支配下の地方勢力としては存続した。,(川田順造) 70800,マルコム・ハーン,マルコム・ハーン,Malkom Kh<印78E6>n,1833〜1908,近代イランの改革思想家。イスファハーンのアルメニア人家庭に生まれる。1843年,フランスに留学,帰国後フリーメーソン組織をつくって活動したため,61年国外に追放された。72年までイスタンブルに滞在,立憲思想の影響を受ける。73年,追放を解かれロンドン駐在代理大使に任命された。89年罷免されてからは,《カーヌーン》紙を創刊し,イラン政府を批判した。1908年,スイスで客死。,(坂本勉) 70900,マロン派,マロンハ,M<印78E6>r<印7CF3>n,,東方キリスト教の一宗派で,レバノンを中心とするユニアット教会。5世紀にオロンテス河谷で独特のキリスト論(二つの性質・一つの意志)をもつモノテリートの集団として成立したが,十字軍時代にローマ・カトリックに帰属し,18世紀に正式にユニアット教会となった。独自の典礼をもち,礼拝用語はアラビア語と一部シリア語で,「アンターキヤ総大司教」と称する首長をいただく。7世紀以降レバノン山地に拠り,そこでの多数派として自主性を確保したが,#マムルーク朝#下では抑圧の時代を経験した。19世紀前半,同山地南部に拡大し,#ドルーズ派#との宗派紛争が激発し,1860年のフランスの軍事干渉により列強の介入を招いた。組織規約(1864),第1次世界大戦後のフランス委任統治,国民協約(1943)等を通じて樹立されたレバノン政治体制の宗派別編成のもとで,マロン派は人口の30%を占める最大宗派とされ,独立後も大統領・軍司令官等の要職をおさえた。この優越的地位に対して,ムスリムの不満と批判が高まるとともに,マロン派住民の間では,#アラブ民族主義#やシリア民族主義に対する反発とレバノン民族主義(しばしばフェニキア主義として示される)への傾向とが強まった。1958年および75年以降の内戦をピークとするレバノンの政治対立の中で,マロン派はカターイブ(ファランジスト),自由国民党,自由レバノン等の運動に主要な社会的基盤を提供した。,(板垣雄三) 74200,ムハンマド,ムハンマド,Mu<印7EE5>ammad,ca.570〜632,イスラムを説いた預言者。日本ではマホメットと呼ばれる場合が多い。コーランでは彼は,「神の使徒」(ラスール・アッラー),「預言者」(ナビー),「警告者」(ナジール)などの語で呼ばれ,#アブラハム#,モーセ,#イエス#など一連の#預言者#の系列において「最後の預言者」と位置づけられている。
 イスラム教徒とその社会にとって,日常生活から国家の政治にいたるまで,神の意志が絶対のものとされる。その意志は,預言者に下された啓示に示される。預言者以外の人間には,神の意志は直接には伝わらず,また最後の預言者がムハンマドであるから,ムハンマド以後の人間はムハンマドに下された啓示を集成したコーランによって,最も正しく神の意志を知ることになる。また,神の意志を直接に受けた預言者ムハンマドの言行(#スンナ#)にも,神の意志は示されている。その言行に関する伝承(#ハディース#)も,神の意志を知る手掛りとなる。#スンナ派#の神学・法学の体系の中では,このように,ムハンマドはその言行の細部にいたるまで重要な人物と位置づけられてはいるが,彼はあくまで「預言者」「警告者」であり,決して神性を有するとも,信仰・崇拝の対象であるともされてはいない。
 ムハンマドは,アラビア半島の町#メッカ#で生まれ育った。メッカは#カーバ#のある聖地で,毎年アラビアの各地から#巡礼#者が集まる町であった。カーバはアブラハムが建設したと信じられており,多くの神々の像が祀られていたが,神殿の「主」は#アッラー#であるとされていた。ムハンマドは当時のメッカの住民,#クライシュ族#のハーシム家に生まれた。クライシュ族はムハンマドの5代前にメッカに定着し,3代前の時代から隊商を組織する国際商人に成長していた。ハーシム家はクライシュ族の名門ではあったが,彼個人は,誕生前に父を失い,幼時に母も失い,孤児として祖父や叔父に育てられた。
 ムハンマドは25歳のころ,富裕な未亡人#ハディージャ#と結婚し,以後,平穏で安定した生活を送った。彼は当時のクライシュ族の習慣として,郊外のヒラー山で貧者に喜捨を与えるなどの儀礼を行っていたが,その儀礼をしている時,突然に彼は異常な経験をする。全身が押しつぶされるような感覚があり,大#天使#ガブリエルが啓示を「誦め」と命じたと伝えられている。最初の啓示は彼が40歳(610)のころにあった。以後,啓示は彼が死を迎えるまでの二十数年間にわたって断続的にあった。
 預言者と自覚したムハンマドは,人々に警告し始めた。主として若者からなる信徒集団が形成された。しかし,クライシュ族の多くの人々は,父祖以来の宗教を棄てることはできなかった。また,ムハンマドの説教は,カーバを有し,そこに集まる巡礼者を迎えていた宗教都市メッカの基盤を危うくするものと考えられた。ムハンマドはまた富を独占する大商人を批判し,内面的な信仰だけでなく,メッカ社会のあり方そのものを問題にしたのであった。それゆえ,彼と信徒への迫害は急速に厳しくなっていった。
 622年,ムハンマドと70余名の信徒とその家族がメッカを棄て,#メディナ#に移住した。彼は移住から死までの11年余りの期間に,メディナを中心とする教団国家を建設した。移住(#ヒジュラ#)は国家建設の契機となった重大事という認識が,後にこの年を紀元とする#ヒジュラ暦#を成立させた。
 メディナには#ユダヤ教#徒と多神信仰のアラブがいた。後者は長い間内戦を繰り返し,その調停者としてムハンマドを招いたのであった。彼が移住した当初,信徒は少数であったが,晩年にはメディナのアラブは,ほぼ全員が信徒になっていた。一方,ユダヤ教徒はムハンマドを預言者とは認めなかった。最初,#断食#やエルサレムに向かっての#礼拝#など,ユダヤ教の儀礼をイスラムに取り入れたムハンマドも,ついにユダヤ教徒と対立し,イスラム独自の儀礼を確立していった。
 一方,#偶像#を崇拝するメッカのクライシュ族の人々とは,#バドルの戦#,#ウフドの戦#,#ハンダクの戦#と3度戦った。戦力的には優位にあったメッカは勝利できず,#フダイビヤの和議#で両者は和した。しかし,ムハンマドは条約違反をたてに,630年にメッカを征服し,ここをイスラムの聖地とした。
 メッカと戦う一方で,ムハンマドはアラビア半島の諸部族とも接触を広げていった。メッカ征服以前の段階では,諸部族とムハンマドとの関係は,対等な相互の安全保障であったが,メッカ征服後になると,ムハンマドは相手にイスラムの信仰を求め,神と彼の安全保障(ジンマ)を与え,一定率の#サダカ#を徴収した。またキリスト教徒,ユダヤ教徒など#啓典の民#からは#ジズヤ#や他の税を徴収した。
 632年,ムハンマドはメッカに最初の,そして彼としては最後の巡礼を行い,メディナに帰って間もなく没した。その時,彼の影響力はアラビア半島の全土に及んでいた。ムハンマドは,最初の妻との間に3男4女をもうけたが,子孫を今日まで残したのは末娘#ファーティマ#1人である。メディナ時代には,#アーイシャ#ほか10名を超える妻がいた。,(後藤明) 76000,メッカ,メッカ,Makka,,預言者ムハンマド生誕の地。アラビア語でマッカ。#カーバ#のあるイスラムの聖地。アラビア半島の西,紅海に沿って南北に走る山脈の西斜面の谷間に発達した町。1966〜70年の平均降水量157.2mm。夏の気温は一日の最低気温32℃,最高気温40℃程度。冬は最低15℃,最高32℃程度。岩山に囲まれた荒地で,農耕は不可能。現在は旧市街を取り巻いていた岩山を越えて市域は広がり,人口は約37万(1974)。近年の#巡礼#時には,200万人を超える巡礼者を全世界から迎える。
 町の起源は明らかでなく,コーラン(6章92節)で「邑々の母」(ウンム・アルクラー)と呼ばれているのは,神が最初に創造した町だったからであると信じられている。後世のイスラム教徒の説話では,天地創造の際最初につくられた地がカーバの建てられている所で,#天国#を追放されたアダムが地上に降りたのがメッカのアブー・クバイス山であり,その地にアダムの墓があるとされる。さらに,#アブラハム#とその子#イシュマエル#が,ノアの時代の大洪水で流れたカーバを再建したとされる。すなわち説話はメッカは大地の中心であり,アブラハム以来,神への信仰のための特別な地であるとする。しかし,コーランでは,アブラハムとイシュマエルによるカーバ建設の記事しかみられない。
 2世紀のプトレマイオスの《地理学》によれば,アラビアにマコラバという町があり,すでにこの時代から,メッカは南アラビアと地中海世界を結ぶ通商交易地にあたっていた。マコラバという名称は古代南アラビア語で聖地を指すマクラバの転訛と考えられ,一般に,メッカのこととされている。その真偽はともあれ,メッカは7世紀のムハンマドの時代の人々にとっても伝説的な大昔からの聖地であり,それは古代南アラビア文明の影響下にあったことは事実である。
 ムハンマドの5代前の祖,クサイイの時代から,メッカの歴史はやや明らかになる。彼は南アラブ系のカーバ守護者集団を追放してメッカの支配者となり(5世紀末ごろ),自分の近親者である#クライシュ族#の人々をメッカに集めた。以後,メッカはクライシュ族の町となる。クサイイの孫,ムハンマドにとっては曾祖父にあたるハーシムの時代,クライシュ族の人々は国際的な隊商貿易の組織者となり,メッカは商業都市として発展し始める。ムハンマドの祖父アブド・アルムッタリブの時代,クライシュ族は南アラビアを征服していたエチオピア軍の進攻を退けて聖域を守り,以後巡礼者を迎える宗教都市としてもいっそうの発展をみた。
 ムハンマドが#預言者#としてメッカで活動し始めたのは,このようなメッカ社会の発展がその頂点に達していた時である。ムハンマドの宗教活動に共鳴し信徒となったのはごく少数で,彼らはやがて迫害されエチオピアや#メディナ#に移住(#ヒジュラ#)した。多数は無関心か迫害する側に立ち,ムハンマドのヒジュラ後は彼と戦った。624年の#バドルの戦#ではメッカ市民の一部は戦うことに反対であったが,その敗戦後はアブー・スフヤーンの指導下で総力をあげて戦った。しかし決定的な勝利を得ることができずに内部分裂していき,630年にはムハンマドに全面降服した。
 ムハンマドは#偶像#崇拝・多神信仰などを排したが,メッカがもっていた宗教的機能をほぼ全面的にイスラムの中に取り入れていた。ムハンマドによるメッカ征服は,その後のムハンマドとイスラムの影響力の増大に伴って,聖地としてのメッカの権威を高める結果をもたらした。また,征服以後に#改宗#したメッカ市民は,それ以前に改宗していた#ムハージルーン#とともに,イスラム勢力の発展に指導的な役割を果たしていった。
 #ウマイヤ朝#と#アッバース朝#のもとでは,メッカもメディナも政治的中心ではなくなっていたが,二聖都としてイスラム世界の学問と宗教面での中心であった。683年と692年の#イブン・アッズバイル#とウマイヤ朝カリフ軍との戦争,930年の#カルマト派#の襲撃などでメッカの市街は破壊され,また洪水など自然災害にも繰返し遭っているが,そのつどすぐ町は再建され,歴代の#カリフ#に保護された。
 アッバース朝が衰え始めた960年ごろから,#アリー#の子ハサンの系統の#シャリーフ#がメッカの市政を代々担当するようになる。このシャリーフ政権は,#ファーティマ朝#,#アイユーブ朝#,#マムルーク朝#などエジプト・シリアを支配した王朝の保護下に置かれる場合が多く,完全に独立した政権であった時期はほとんどない。また近隣の地方政権とも絶えず争っていた。一方で,シャリーフは巡礼を通じてイスラム世界各地の支配者から贈物などを受け,またエジプトなどにイクターを授与されて収入を確保できた。また,メッカの諸施設のためのワクフもイスラム世界の各地に設けられていた。1517年以後はシャリーフ政権は#オスマン朝#の保護下に入り,そのスルタンは「二聖都の保護者」と称して,イスラム世界での政治的第一人者であることを誇った。第1次世界大戦中,イギリスと結んだシャリーフ,#フサイン#は,オスマン朝からの独立を宣言し,その軍はアラブの勢力を集めてシリアのダマスクスを攻略した。フサインはアラブの王と称し,さらにイスラム世界のカリフと称したが,1924年イブン・サウードに敗れた。以後メッカはサウード家の王国の一部となり,今日ではサウディ・アラビア王国のメッカ州の州都である。,(後藤明) 76100,メディナ,メディナ,al-Mad<印77F5>na,,イスラムの聖地。アラビア語でマディーナといい,預言者の町(マディーナ・アンナビー)の略。#メッカ#とともに「二聖都」と称される。預言者ムハンマドの墓廟があり,その墓廟を含んで#預言者のモスク#がある。これは生前のムハンマドの住居兼モスクの位置にあたる。現在はサウディ・アラビア王国のメディナ州の州都で,人口約20万(1974)。
 溶岩台地に囲まれた,南から北に向かうゆるい斜面をなす窪地にある。窪地にはいく筋かのワーディーがあり,降雨の時以外は涸れているが伏流水が豊かで,窪地は農耕の適地となっている。おそらく古くから農牧業が行われ,集落も発達していたと思われるが,イスラム以前数十年より前の歴史はつまびらかでない。ムハンマドの時代までヤスリブの名で知られており,2世紀のプトレマイオスの地図にあるヤスリッパはこの窪地にあった町のことと考えられる。
 ムハンマドの#ヒジュラ#前のメディナは,町というより,窪地の方々に小集落が散在する集落形態であった。小規模な砦が数十から百近くあり,人々は戦時にはそこに立てこもった。住民はアウスとハズラジュというアラブの二つの兄弟部族と,いくつかの#ユダヤ教#徒の集団であった。ヒジュラ前の数十年間,アラブの両部族は内戦を繰り返していた。彼らはムハンマドを招き,彼の調停を受け入れることによって内戦を終結した。
 ムハンマドは,彼を支持したメディナの人々を#アンサール#とし#ムハージルーン#(移住者)とともに新しい社会の構成員とした。ユダヤ教徒の集団は次々とメディナを追われるか滅ぼされるかし,ムハンマドの晩年にはメディナの住民の大多数はムハンマドに忠誠を誓うイスラム教徒となっていた。この時期のメディナ社会が後世のイスラム教徒によって理想的な社会(#ウンマ#)とみなされる。
 ムハンマド没後,#アブー・バクル#,#ウマル1世#,#ウスマーン#の3代のカリフはメディナに住み,ここから征服戦争を指導し,広大な征服地の統治を指示していた。第4代カリフ,#アリー#とウマイヤ朝カリフ,#ムアーウィヤ1世#の時代は,カリフはメディナを離れたが,有力者の多くがメディナに住み,ここは相変わらず政治的に重要な都市であった。683年の#イブン・アッズバイル#とウマイヤ朝の争いの際,ハッラの戦でメディナ軍がウマイヤ朝軍に敗れた後は,メディナは政治的な意味を失った。しかし,その後も聖地として,また学問の一中心地としての地位は保った。
 974/5年,#ファーティマ朝#が二聖都を保護下に置いていた時代に,預言者のモスクを中心とする市街を囲む城壁が築かれ,1162年にザンギー朝,1500年代に#オスマン朝#の手によって拡大された。1908年,ヒジャーズ鉄道がメディナまで開通したが,ここからメッカまではついに敷設されなかった。19年,トルコ軍守備隊が引き上げ,ここは#フサイン#王の統治下に入ったが,24年以来サウード家の領土に組み込まれ,今日にいたっている。,(後藤明) 76400,モサッデク,モサッデク,Mo<印7CE3>addeq,1881〜1967,20世紀イランの政治家,民族主義者。#カージャール朝#の大臣を父に,皇女を母にもつ名門で大地主の出身。フランス,スイスに留学して帰国後,1915年国会議員となり,法相(1917),蔵相(1921),アゼルバイジャン総督(1922)などを歴任。#パフラヴィー朝#を興したレザー・シャーの独裁を批判して30年代を通じ追放されていた。レザー・シャー退位に伴い帰国,44〜53年再び国会議員となった。49年トゥーデ党やイスラム勢力を結集して国民戦線を組織し,その指導者となり,51年国会で石油国有化法を可決させ同年首相就任。アングロ・イラニアン石油会社の施設を接収,約1世紀に及ぶイギリスのイラン支配を終わらせた。しかし,イラン石油は国際市場から締め出されて経済は悪化し,支持勢力内部にも亀裂を生じ,53年アメリカの干渉政策のもと国王派のクーデタにより失脚した。3年の実刑判決後,公的な場での活動を禁じられた。その後も,国王体制反対運動の精神的支柱と仰がれ,死後も79年#イラン革命#直後は#ホメイニー#に次ぐ国民的指導者と評価されたが,一方トゥーデ党との協力をイスラムの威信にかかわるものとして非難する否定的見解も生じた。,(加納弘勝) 77200,モノフィジート,モノフィジート,Monophysites,,「一つの性質」(モノ・フュシス)を表す語から出た名称で,キリスト単性論の立場に立つキリスト教諸派を一括して指す。東方キリスト教において,#ネストリウス派#と双璧をなす一方の主要潮流で,#シリア正教会#(ヤコブ派教会),#コプト#教会,#エチオピア教会#,#アルメニア教会#がこれに属する。単性論は,5世紀のキリスト論をめぐる神学論争の中で,キリストは神人両性の一致結合であるが両性の区別は厳存し混合されないとしたアンティオキア派に対して,キリストは実質的に神人の結合した一なるものだと主張したアレクサンドリア派の立場から発した。451年のカルケドン公会議が,キリストは「両性において混ざらず変わらず(単性論の否定),分かれず離れない(ネストリウス派批判)」という信条を定めたことにより,モノフィジートは異端とされるにいたった。この神学論争には,ビザンティン帝国の皇帝権力に対するシリア・エジプト地方の反抗という政治情勢が反映されていた面があり,カルケドン会議以降,西シリア,エジプト,エチオピア,アルメニアの東方諸教会はキリストの神性をもっぱら強調する傾向を強めつつ,独自の道をたどるようになり,おのおのの教会の民族的性格を形成していった。モノフィジートは,すでにガッサーン朝(529〜581)を通じて,イスラム成立前のアラブの間にも伝播していたが,7世紀以後,イスラム支配のもとで#ジンミー#とされるキリスト教徒住民のうち,シリアのかなりの部分,エジプトやアルメニアの大多数は,単性論派に属していた。,(板垣雄三) 77800,シリア正教会,シリアセイキョウカイ,al-Kan<印77F5>sa al-Suriy<印78E6>n<印77F5>ya,,#モノフィジート#に属し,シリア語の文化伝統に根ざす教会。6世紀にビザンティン帝国の圧迫のもとで,この教会の組織化に尽くしたヤコブ・バラダイオスの名にちなんで,ヤコブ派と呼ばれる。その修道院はシリア農村に大きな影響力をもち,帝国への抵抗の拠点となった。7世紀にイスラム支配下に入り,#ジンミー#としての地位を享受した。その活動はメソポタミアなど東方にも広がり,この教会の首長たるアンティオキア総主教と並んで,東方のイラクのティクリートなどに置かれた府主教(マフリアノ)の権威も増した。この教会は,#ネストリウス派#とともにギリシア語・シリア語の古典研究の伝承者として大きな役割を果たした。しかし礼拝用語としてはシリア語を保存しつつも,信徒のアラビア語化は進み,聖職者の著作もアラビア語で行われるようになった。#十字軍#の時代にこれへの態度をめぐって同教会は分裂を経験した。この問題は#オスマン帝国#支配下まで尾を引き,18世紀末,シリア・カトリック教会の分離という事態をも生じさせた。,(板垣雄三) 81500,レオ・アフリカヌス,レオ・アフリカヌス,Leo Africanus,1489以後〜1550以前,ムーア人の文人,旅行家。カトリック勢力がイベリア半島を奪回した後の16世紀に,イスラム,黒人アフリカ,カトリックの3世界に生き,貴重な見聞録を残した。イスラム教徒としてグラナダに生まれ,名はハサン・ブン・ムハンマド・アルワッザーン・アッザイヤーティー。グラナダの陥落(1492)後,モロッコに渡って教育を受け,17歳のころ伯父に伴われてサハラの南に当時栄えていた黒人帝国#ソンガイ#に行き,数年後再びこの地を訪れ,エジプトまで旅をした。1518年ころトルコを訪れた帰途,シチリアの海賊に捕らわれ,ローマに送られて教皇レオ10世の知遇を得た。教皇の名を与えられて受洗し,アフリカのレオと通称される。口述筆記による見聞録《海と陸の旅》が50年ヴェネツィアで出版されて反響を呼び,後に《アフリカ誌》の名で広く知られるようになった。,(川田順造) 00900,アクサー・モスク,アクサー・モスク,J<印78E6>mi<印78FE> al-Aq<印7CE3><印78E6>',,エルサレムの聖域,ハラム・アッシャリーフの南西端に位置する。伝承によると,この地が預言者ムハンマドの「夜の旅」の到着地とされているところから,アル・アクサー(アラビア語で「遠隔の地」の意)と呼ばれている。#ウマイヤ朝#時代に建造され,以後,改築・補修を重ねたので,創設時の要素としてはアーケードが残っているにすぎず,初期の様相はつまびらかでない。現在のモスクは,1345〜50年(#マムルーク朝#時代)に再建されたものである。#ミフラーブ#を主軸とする側廊と,ミフラーブ前方のドーム,#キブラ#壁に平行する列柱など,全体の構成はバシリカ風で,#ウマイヤ・モスク#のそれに類似している。,(杉村棟) 03400,アナトリア,アナトリア,Anatolia,,トルコ共和国のアジア領を構成する半島。小アジアともいう。トルコ語ではアナドルAnadolu。この言葉はまた,オスマン帝国時代にキュタヒヤを主都とした州の名称としても用いられた。語源的には「日の出」を意味するギリシア語に由来し,地域名としては,ビザンティン帝国の小アジア西部の軍管区(テマ)「アナトリコン」に発祥する。中世イスラム史料では「ビラード・アッルーム」(ローマ人の地,すなわちアラブからみればギリシア語の世界)と呼ばれる。11世紀末以後トルコ人の移住が始まり,15〜16世紀には,#オスマン帝国#の首都#イスタンブル#と中東各地とを結ぶ#キャラヴァン#・ルートの通過地として繁栄し,ヘレニズム文化圏からトルコ・イスラム文化圏への移行を完了した。現在,ムスリム・トルコ人の大部分は#スンナ派#に属するが,東部アナトリアには#シーア派#が多く,また#クルド#人,アラブなどのムスリム少数民族がいる。第1次世界大戦前には,ギリシア人,#アルメニア#人などキリスト教徒も多数存在した。また,トルコ人民衆の間には#メヴレヴィー#,#ベクターシュ#,#ナクシュバンディー#など神秘主義教団が浸透し,それらの宗教儀礼にはシャーマニズムやキリスト教の儀礼が混交している。,(永田雄三) 03900,アブデュルハミト〔2世〕,アブデュルハミト,Abd<印7EF3>lhamit,1842〜1918,#オスマン帝国#末期の専制君主,第34代スルタン。在位1876〜1909。即位当初,バルカン諸民族の保護を口実としたヨーロッパ諸列強の干渉をかわすために,改革派政治家#ミドハト・パシャ#らの起草した憲法(ミドハト憲法)を発布(1876)し,議会を開設した(第1次立憲制)。しかし,1877〜78年の露土戦争を機に憲法に盛りこまれていたスルタンの「大権」を認める条項をたてに,78年2月に憲法を停止し議会を閉鎖して専制政治を開始した。彼の専制政治は全世界のイスラム教徒の大同団結を求める#パン・イスラム主義#をシンボルとしたが,真の目的はそれによってオスマン帝国の分裂・解体を阻止しようとするところにあった(#オスマン主義#)。一方では,#タンジマート#以来の西欧化改革にも力を注ぎ,これを大衆的な基盤に据えた。対外的には露土戦争敗北後のベルリン条約(1878)によってバルカン領土の大半を失った。イギリス,フランスを牽制するためにドイツに接近して政治的独立を維持することに成功したが,バグダード鉄道敷設権をはじめ基幹産業・公共施設の建設などに対する多くの特権を外国企業に与え,経済的には帝国主義諸国による植民地化への道を開いた。晩年は宮廷にこもり,諜報組織を使って反専制運動を弾圧するなど保守反動化した。1908年,「#青年トルコ#(統一と進歩委員会)」派青年将校の蜂起に屈して第2次立憲制の再開を認めたが,09年にそれに対する「反革命」にかかわった疑いにより退位を余儀なくされ失脚した。,(永田雄三) 06300,アヤ・ソフィヤ,アヤ・ソフィヤ,Ayasofya,,537年ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世によって首都コンスタンティノープルに造営されたギリシア正教会の最も重要な聖堂。1453年にコンスタンティノープルが#オスマン帝国#に征服されると,ただちに#モスク#に改造された。16世紀の建築家シナンは,このビザンティン建築の最高傑作をしのぐために苦心した末,スレイマニエ・モスクなどトルコ・イスラム建築の傑作を残した。19世紀末にアヤ・ソフィヤをギリシア正教会に復帰させよとの国際世論もあったが,1935年にトルコ共和国政府によって博物館とされた。近年,イスラム復興運動の高まりにより,博物館の一角がモスクとしても使われている。,(永田雄三) 07100,アラビア半島,アラビアハントウ,,,ユーラシア南部の大半島。アラビア語でジャジーラ・アルアラブ(アラブの島)という。爪先を北東に向けた太くて短い長靴に似て,面積は約259万<印5263>,日本のほぼ7倍に当たる。半島全体は西に高く東に低い高原性台地からなり,かかとに当たる#イエメン#がいちばん高く,最高峰は標高3760mである。ここから北と東に山脈が延び,北の山脈はメッカの後背地で標高2000m余りであるが,最北部のミディアン山地には2890mに達する山がある。東の山脈もしだいに低くなるが,爪先のオマーンで高く,最高峰は標高3107mである。
 このように,アラビア湾(ペルシア湾)岸を除く海岸が高い山脈で遮られているため,内陸部の降雨量はきわめてわずかで非常に乾燥し,中央部のナジュド高原をはさんで北にナフード,南にルブー・アルハーリーの大砂漠があり,ダフナー砂漠が帯状に両者をつないでいる。ナフード砂漠はそのままシリア砂漠に続き,自然の境界はない。ルブー・アルハーリーは「空虚な1/4」を意味し,面積約59万5700<印5263>の広大な砂漠である。降雨量はきわめて少ないが,砂漠の雨は集中豪雨型であることが多い。豪雨時に水の流れる川となり,それ以外は地上に露出した乾いた堅い河床となるのがワーディー(涸れ川)である。それは太古以来,自然の交通路となっているが,表面は乾燥していても地下水流があり,それが地表に近づいた所では泉や井戸となる。ワーディーが集まって多量の地下水の湧出する所がオアシスで,集落ができ,#ナツメヤシ#を主とする栽培農業が行われる。それ以外の所では,泉や井戸を拠点とする遊牧生活が営まれる。
 紀元前8世紀ころ以降,イエメンとハドラマウトに一連の古代南アラビア王国が栄えたが,4世紀には滅び去り,6世紀の中ごろから#メッカ#が,商業および宗教都市としてその重要さを増してきた。ムハンマドのイスラムの創唱と,それに続く#アラブ#の大帝国の建設により,二聖都メッカ・#メディナ#は,この帝国の信仰と政治の中心となった。信仰および学問の中心としての二聖都の重要性は,その後いささかも失われることがなかったが,#イブン・アッズバイル#の没落を最後に,アラビア半島の政治的重要性はしだいに失われていった。#アッバース朝#は二聖都を含むヒジャーズは支配したものの,半島東部には#イバード派#,#カルマト派#の政権が,イエメンには#ザイド派#の政権が興った。その後ヒジャーズは#ファーティマ朝#,#アイユーブ朝#,#マムルーク朝#,#オスマン帝国#の宗主権のもとにあり,イエメンでは地方政権が興亡を繰り返した。#ワッハーブ#王国の後,1932年に現在のサウディ・アラビア王国が成立した。アラビア半島は現在,政治的にはサウディ・アラビア王国,イエメン,クウェート・バハレーン・カタルの3シャイフ国,オマーン・スルタン国,アラブ首長国連邦の7ヵ国に分けられる。,(嶋田襄平) 07600,アリー,アリー,<印78FE>Al<印77F5> b. Ab<印77F5> <印75E7><印78E6>lib,ca.600〜661,第4代正統カリフ。在位656〜661。#シーア派#初代#イマーム#。預言者ムハンマドのいとこ。その娘#ファーティマ#をめとり,彼女との間に男子としてハサンと#フサイン#をもうけた。改宗の時期は2・3位を争うほど早く,若くからイスラム教団の発展に尽くした。第3代カリフ,#ウスマーン#の殺害者たちに推されてカリフを宣言したが,もろもろの対抗勢力との抗争で精力を使い果たし,結局彼の理想を実現することなく生涯を終えた。すなわち,656年12月,ムハンマドの未亡人#アーイシャ#と#クライシュ族#の有力者ズバイルおよびタルハとの連合軍をバスラ近郊で破り(ラクダの戦),#クーファ#を首都としたものの,ウスマーンの血の復讐を求めるシリア総督#ムアーウィヤ1世#の反抗にあい,これを討つべくユーフラテス川を上った。657年7月シッフィーンの荒野で決戦を挑んだが勝敗決せず,調停によって事態の収拾を図ったが,結局失敗し,661年2月この調停の過程でアリーと袂を分かった#ハワーリジュ派#の一人,イブン・ムルジャムに暗殺された。ウスマーン殺害から,アリーの死までを第1次内乱と呼び,#カリフ#制度による統治が問われた時期といえる。彼を支持した人々はシーア・アリー(アリーの党派)と呼ばれたが,のちアリーが省略されて#シーア派#という名となった。アリーの子孫は,シーア派にとってイマームであるだけでなく,預言者の血を引くものとしてイスラム世界で広く尊敬された。彼は直情径行の人で武力にも秀でていたが,理想が高いわりには政治的能力に欠けていた。,(花田宇秋) 07900,アリー・シャリーアティー,アリー・シャリーアティー,<印78FE>Al<印77F5> Shar<印77F5><印78FE>at<印77F5>,1933〜77,イランのホラーサーン州の小村にウラマーの子として生まれる。マシュハド大学文学部で学んだ後,フランスに留学し,社会学と西洋哲学を修めた。この間,ルイ・マシニョン,フランツ・ファノン,ジャン・ポール・サルトルらから大きな思想的影響を受け,アルジェリア解放戦線とも関係をもった。直面する社会問題への対処の方法として「自己(つまりイスラム)への回帰」を主張,同時にイスラムも,一つの文化からイデオロギーへ,雑多な知識の集積から組織だった装置へと自己変革を遂げることを提唱し,イランの知識人層に多くの共感を獲得。秘密警察の圧力を嫌って居を移したロンドンで心臓病のため客死。,(八尾師誠) 08000,アリー・パシャ,アリー・パシャ,Ali Pa<印7DE3>a,ca.1744〜1822,19世紀初めに#オスマン帝国#支配下の北部ギリシアと南部アルバニアに半ば独立の侯国を築き上げた豪族。祖先は西アナトリアのキュタヒヤ出身の#メヴレヴィー教団#の修道者(#デルヴィーシュ#)といわれる。祖父の代から現アルバニアのテペレナを足場に勃興し,彼の代にいたって,現在はギリシアに属するイオアニナを中心に,アドリア海沿岸からテッサロニキにいたるバルカン南西部を支配下におさめ,当時この地方に関心を寄せていたフランスと外交関係を結んでオスマン帝国の#スルタン#を牽制した。しかし,彼は支配権を確立する過程で,この地方のギリシア人,アルバニア人を圧迫した。オスマン帝国の#マフムト2世#は,当時アナトリアとバルカンの各地を事実上支配していた#アーヤーン#を弾圧するなど強力に中央集権化を進め,その代表格であるアリー・パシャに対して,フルシト・パシャを総司令官とする軍団を派遣し,彼を戦死せしめた。晩年,国際的にその名を知られた彼の「東洋的」な豪奢な生活ぶりは,イオアニナを訪れたバイロンの出世作《チャイルド・ハロルドの遍歴》に主題の一つを提供した。死後に残された200以上の農場(チフトリキ)を含む莫大な遺産は,オスマン王家に没収された。,(永田雄三) 08200,アルバニア人,アルバニアジン,Albania,,インド・ヨーロッパ語系諸族に属するイリュリア人の系統を引くといわれるバルカンの先住民。アルバニア共和国の住民を構成する(1992年推定人口336万)が,このほかにユーゴスラヴィアのコソヴォ自治州の住民の大多数をも占める。アルバニア北部とコソヴォに住むゲグ族と南部アルバニアのトスク族とに大別されるが,部族制の伝統が強く,たとえばゲグ族は10ほどのバイラク(トルコ語で旗を意味する)と呼ばれる父系の部族社会に分かれ,バイラク内の通婚関係や自治を維持している。15世紀末に#オスマン帝国#の宗主権を受け入れてから,イスラムに改宗する者が多く(アルバニアの65%,コソヴォの大多数),その言語にもトルコ語の影響が強い。剽悍な山岳民であることから,オスマン帝国軍の傭兵として,しばしばバルカンやアナトリアのキリスト教徒諸民族の独立運動の弾圧に利用された。1770年のペロポネソス半島のギリシア人蜂起鎮圧後,ペロポネソス半島に移住してギリシア人化し海洋民になった者も少なくない。また,コソヴォ地方に住むアルバニア人は,アルバニア国内の同族との連帯意識を強くもっている。このため,1950年代以後アルバニア系住民が共和国への格上げ要求を柱とした民族主義運動を展開すると,ベオグラード政府の厳しい弾圧もあって「コソヴォ」問題が発生した。,(永田雄三) 09200,イエニチェリ,イエニチェリ,yeni<印75F6>eri,,#オスマン帝国#における常備歩兵とその軍団。トルコ語で「新しい兵士」を意味する。軍団の創設に関して定説はないが,14世紀後半,とくにアドリアノープル(現,エディルネ)征服(ca.1360)直後のことと推定されている。1354年以後オスマン朝のバルカン領土が拡大すると,新たな戦力の補給とバルカン諸民族の同化政策とを兼ねてこの軍団が創設された。最初,戦争捕虜の1/5が戦利品として国庫に属したことから,これをトルコ人の家庭に預けてトルコ語とムスリムとしての生活習慣とを身につけさせた後,軍団員として登録した。1402年の#アンカラの戦#に敗北後,オスマン朝のバルカン征服が停滞し,捕虜の確保が困難になると,#デヴシルメ#制が導入された。これによって徴用された者の大部分がイエニチェリとなった。この軍団は16世紀末までは,オスマン帝国軍の精鋭として規律正しく,王朝の発展に貢献した。17世紀以後は軍紀が乱れ無頼集団化して,しばしば暴動を起こした。軍団創設当時のアナトリアやバルカンでは,神秘主義諸教団の長老や#デルヴィーシュ#の影響力が強く,オスマン朝諸制度の中に宗教的要素がもちこまれたが,イエニチェリ軍団の場合も,#ベクターシュ#教団との関係が強く,軍団員の多くがこの教団に加入し,その宗教儀礼が軍の儀式に反映された。軍団には馬具や武器の製造を担当する特殊部隊が特権的#ギルド#を形成していたこともあって,17世紀以後軍団員の商工業への進出がみられ,ギルドの特権を守る後ろ盾となった。18世紀末以後,帝国軍隊の西欧化改革が進むと,軍団はこれに反対し,反乱を起こしたが,#マフムト2世#は1826年に軍団を廃止し,同時にベクターシュ教団の活動も禁止された。,(永田雄三) 09300,イエメン,イエメン,al-Yaman,,アラビア半島の南西部に位置し,広義にはハドラマウト地方,海岸低地,高原山岳地域の3地域からなる。アラビア語ではヤマン。ハドラマウト地方からアシール,ヒジャーズ地方に連なる高度1500〜2500mの山岳高地には,夏季の南西モンスーンの影響で豊富な降雨がみられ,森林,渓谷,ワーディーなどのつくる多彩な自然生態系が広がる。紀元前1000年以上の昔から,この降雨と山岳の石材を利用して,農業用水と灌漑用のダム,貯水池や石垣をめぐらした段状の耕地がつくられて,山岳地から海岸低地の砂漠地帯まで広がる傾斜地では,大麦,小麦,モロコシ(ズッラ),果実や熱帯産作物が栽培された。山岳・砂漠地では羊・ヤギの牧畜も盛んに行われ,部族主義が社会の基本となっている。またイエメンの地理的位置がアデン湾と#インド洋#に面して東アフリカに近く,バーブ・アルマンデブ海峡を通って紅海に入り,エジプト,シリア,地中海世界とも結びついていること,そして何よりもインドのマラバール海岸やグジャラート地方の諸港市に達するインド洋横断航海の要衝に位置したために,古くから東西を結ぶ国際交通運輸と貿易上の重要な中継地として発達した。アデン,シフル,ライスート,モカ(ムハー)などの港市は,とくに10世紀半ば以降,イスラム世界の文化と経済活動の中心がイラク地方からエジプト・シリア地方に移動したことに伴って,インド洋世界と地中海世界とを結ぶ交通ルートの中軸として,国際貿易と情報の動きを左右するような大きな影響力をもった。イエメンの諸都市には,アラブ,ペルシア,インド,東アフリカのバントゥー系などの諸民族,ヒンドゥー教,#ユダヤ教#,キリスト教,#ゾロアスター教#などの宗教・思想・生活基準を異にした人々が各地から集まって,常に時代の動きに鋭敏に反応する流動的な文化環境をつくっていた。その文化的影響は広くイスラム世界に及んでいる。,(家島彦一) 09900,イスタンブル,イスタンブル,<印75F9>stanbul,,ボスポラス海峡を隔ててアジアとヨーロッパにまたがる歴史的都市。トルコ共和国最大の商業・文化都市。人口は約777万(1995)。紀元前7世紀ごろビザンティウムの名で建設され,330年にローマ皇帝コンスタンティヌスがここに首都を移して以後,その名にちなんでコンスタンティノポリスと呼ばれ,ローマ帝国の東西分裂後は,ビザンティン帝国の首都として東方キリスト教世界の中心となった。イスラムの勃興以来,この町の征服はその大きな目標とされていたが,1453年5月,#オスマン帝国#の#メフメト2世#によってその宿願が果たされた。スルタンは直ちにここを首都とし,やがてこの町はイスタンブルと呼ばれるようになった。オスマン帝国による征服は,バグダード,ダマスクス,カイロ,サマルカンドなどの旧イスラム文化の中心地から,多くの学者,政治家,芸術家,職人などのこの町への移住を促し,#イスラム文化#の中心の西方への移動,バルカン,東ヨーロッパ,南ロシア方面へのその伝播を促進した。1517年に#セリム1世#がエジプトを征服して,オスマン帝国の#スルタン#がスンナ派イスラム世界の盟主としての地位を獲得して以来,この町はイスラム世界全体の政治的中心となり,中央アジア,インド,東南アジアなどのイスラム諸王朝からの使節も往来した。16世紀中ごろ,人口45万前後に膨張したこの町は,東西・南北の貿易の中継基地となり,地中海,黒海経由の商船・艦隊が頻繁に出入りした。18世紀末以後,オスマン帝国の衰退が顕著になると,カイロ,テヘランなどとともに#東方問題#をめぐる列強の確執,帝国内被支配諸民族の独立運動,列強の植民地支配に対するムスリム諸民族の反帝国主義運動などの中心となった。オスマン帝国が滅亡し,1923年トルコ共和国が成立すると,首都はアンカラに移されたが,現在でも共和国の商工業・文化の中心地としての役割を失っていない。市内には現在でも#アヤ・ソフィヤ#やスレイマニエ・モスクなどビザンティンおよびイスラム文化の遺跡が多数残されている。,(永田雄三) 11100,イスラム美術,イスラムビジュツ,,,イスラム美術形成の母胎となったのは,アラビア半島から四方に勢力を伸ばしていったアラブが新たに支配下に置いた諸地域の多様な伝統であり,中でもササン朝ペルシアと古代地中海世界の文化の伝統がその中核をなす。また,イスラム美術の発展の過程で,イスラム世界に隣接した国々の文化から受けた影響も決して少なくない。こうした過去の伝統と外来の影響によって生じた多様性を特色とする一方,イスラム美術は強力な統一的性格によっても特色づけられる。この統一性は,ほかならぬイスラムによって与えられたといってよい。広大なイスラム世界に住む人々の共通した宗教的概念と慣習が,イスラム美術の形成と発展に少なからず影響を与えている。また,宗教的儀礼,学問,文芸に,アラビア語・アラビア文字が多年にわたって使用されていたこと,#巡礼#,通商,学問研究,#ギルド#の#職人#の修業などによって起こる人々の移動,乾燥した自然環境なども,画一的性格を強める要素となっている。
 #コーラン#はムスリムの規範であり,信徒の日常生活の細部にいたるまで規定しているにもかかわらず,造形美術についてはまったく触れていない。しかし,預言者ムハンマドの言行を記録した#ハディース#には,造形に対する否定的記述が散見される。したがって造形芸術はイスラムの教義に抵触するわけではなく,各時代・地域の支配者やイスラム法学者らの解釈にまかされた。造形的表現が時には厳しく制限されたり,またある時は自由に行われてきたのはそのためである。
 厳格な一神教であるイスラムにおいて,神は具体的な姿形をとらず,#偶像#を礼拝することが堅く禁じられている。したがって,偶像とまぎらわしい,いわゆる聖画・聖像の類はいっさい製作されず,イスラムの目的や機能に寄与することもなかった。この偶像忌避の傾向は,絵画や彫刻に対して著しく否定的な風潮を生み,彫刻,とりわけ人体像の製作はまったく行われなかった。#モスク#やコーランなど,イスラムに直接関係した建物や器物の装飾に,具象性,つまり生きものの描写を徹底して排除しているのは,こうした理由に基づくものである。他方,イスラム美術工芸の発達を支えていたパトロンたち(王侯貴族,とくにモンゴル侵攻以前では都市の富裕な市民階級)の宮殿や屋敷の室内装飾,あるいは彼らが所有していた写本や器物のような私物にまでは宗教的規制が及んでおらず,控えめで著しく様式化した表現ではあるが,人物や動物の表現は自由に行われていた。造形的表現を忌避する傾向は,一方において装飾美術における文様の発達を促し,アラベスクに代表されるようなイスラム独特の文様を生んだ。幾何文,植物文,アラベスク,アラビア文字文など多種多様な装飾文様と多彩な色を装飾面全体に展開していく傾向が,「空間恐怖」という言葉で象徴されているように,濃厚な美意識に基づく徹底した装飾美の追求もまたイスラム美術を特色づけるものである。,(杉村棟) 11200,イスラム文化,イスラムブンカ,,,世界史上大きな役割を果たしてきた文化の一つで,7世紀に預言者ムハンマドによって確立されたイスラムの教えがその推進の要素となり,不変の地盤ともなって,現代にいたっている。西はアフリカから東はインドネシア,フィリピンの南部にまでいたるイスラム世界は,まことに広大で自然条件も多様である。また人種構成も複雑であり,多彩な文化伝統を包含している。しかし,中東地方,ことにイスラムに帰依した#アラブ#の地域が,当初からイスラム文化の中心となって今にいたっている。
 この文化の変遷を4時期に分ける説が行われている。第1期はムハンマドがこの教えを説き始めた7世紀の10年代から,イスラムが東はインド北西部,中央アジア,西は北アフリカ,イベリア半島にまで地盤を固めた8世紀中ごろまでである。続く第2期はその後,1050年ころまでで,この間に第1期に確保した地域内で,ギリシア,ペルシア,シリア,エジプト,インドなどの古い文明の伝統と接触することにより,いわゆる文化的沸騰を起こし,独自のイスラム文化の体系が発達していった。この文化の中心となった2大要素は,イスラムと#アラビア語#で,その中に他の諸文化の要素を融合し,きわめて魅力に富む新文化を大成していった。ただし,この時期にきわめて大きな働きをしたのは#イラン#人であり,アラブを凌ぐかと思われるばかりの活動を示した。しかしその一方では,イラン人のほうがイスラム化し,アラブ化して古来の伝統文化を失うのではないかと思われたが,これに対する反動として#シュウービーヤ運動#が起こった。またこの時期に,コーランの研究を中心とするその解釈・読誦その他の諸学,#ハディース#学,#イスラム法学#・#神学#,アラビア語学,歴史学などが起こり,これらはイスラム諸学として,学問の主流となった。ことに法学は大勢力を占め,その学者たちは#ウラマー#と総称され,社会のエリートとして絶大の勢力を占めるにいたった。イスラム世界には聖職者の階級はないが,ウラマーがコーランの解釈を通じて一般民衆の指導に当たるところから,他宗教の神職・僧職階級を凌ぐ潜勢力を蓄えるようになった。これらイスラム固有の諸学に対し,外来の学と呼ばれてやや日陰者的に扱われたのは,#錬金術#,占星術,天文学,医学,数学,ギリシア哲学,地理学,音楽その他で,エジプトのアレクサンドリア,ジャジーラ(上メソポタミア)地方のハッラーン,シリアのダマスクス,イランのジュンディーシャープールなどは,ギリシア諸学の大中心でイスラム世界に大きな影響を与えた。最も早くイスラム教徒に歓迎されたのは,錬金術,占星術,医学等であったが,ギリシア人,シリア人,イラン人などがこれら諸学の中心であり,宗教としては,キリスト教徒,#ユダヤ教#徒が多かった。しかし9世紀末から10世紀に入ると,イスラム教徒の中からもこれら諸学の大家が輩出し,医学,哲学その他では,古代ギリシアの大家の後を継ぐ大物が続出した。彼らがアラビア語で書いた文献は,12世紀以降盛んにラテン語その他に訳出され,ギリシア→アラブ→近代ヨーロッパという哲学・諸科学の伝播系統がつくられた。#カリフ#制度は預言者ムハンマドの死(632)の直後に始まり,1924年まで続き,イスラム文化史上大きな役割を果たしたが,第1期には,この制度による#ウマイヤ朝#がヘレニズムの代表的地域シリアを,第2期には#アッバース朝#がペルシア文化の濃厚なイラクを本拠地とし,その黄金時代を展開させた。第3期は11世紀中ごろから1800年ころまでの7世紀半である。この時代には中央アジアを経て西進してきた#トルコ族#,#モンゴル#族が政治の中心となり,イスラム世界の政治・経済・文化の各方面に大きな変化を与えた。しかし彼らもイスラム化し,#バルカン#半島,アフリカ中部,中央アジアの東部,インド一帯,東南アジア等もイスラム世界に加わったが,一方,海に陸にヨーロッパ勢力との対立が険しくなった。第4期は19〜20世紀で,トルコ族の支配や西欧の帝国主義のもとに植民地化され,萎縮していたアラブが民族的に覚醒し,20世紀に入り第2次世界大戦を機に続々と独立を達成したこと,イスラム世界をあげて文化的にも近代化が著しく,政治的にも独立し,東西勢力のいずれにもくみしない第三勢力としての自覚を深めてきたことなどがとくに大きな特色で,イスラム文化はますます全世界の注目を浴びつつある。
 以上のように,イスラム文化は複雑な変化を経た多様なものであるが,それでいて強烈な一様性によって統一されている。全教徒一兄弟の理念が数億の教徒の脳裏に強く刻まれていることもその特徴の一つである。このように規制力の強い宗教のうえに形成された文化であるから,文学,音楽,建築,美術などの方面においても多様性の中を強いイスラムの性格が貫いている。そのことは8世紀から15世紀末までイスラム文化が栄えた#アンダルス#や,9〜11世紀にイスラム文化に彩られた#シチリア#などに今も残るイスラム美術の遺構にもうかがえるのである。,(前嶋信次) 14700,イブン・ファドラーン,イブン・ファドラーン,Ibn Fa<印77F6>l<印78E6>n,,生没年不明。#アッバース朝#カリフ,ムクタディルの派遣した使節団の一員として,921年6月バグダードを出発,ホラーサーン,ホラズム地方を経由して,約1年後にボルガ河畔のブルガール族の王居に到着した。彼による《旅行報告書》は,抄本としていくつかのイスラム地理書にみえており,10世紀の北方情勢,とくに西進を続けるトルコ系諸部族,ブルガール族,ルース(スカンディナ・ルス)族に関する生活情況,風俗や貿易などを伝える確かな記録である。,(家島彦一) 15800,イラン学,イランガク,,,イラン学は,楔形文字の古代ペルシア語碑文,パフラヴィー文字の碑文とアベスター経典,ソグド語・サカ語・ホタン語の出土文書などの厳密な言語学的研究から始まった。W.ガイガー,E.クーン共編の《イラン言語学概論》(1895〜1904)がその成果である。イラン言語学はパミール方言などイラン諸方言の調査,#ペルシア語#の文法書・辞典の整備を進展させるとともに,#ゾロアスター教#・#マニ教#の研究にも文献学的基礎を与え,M.ボイスの《ゾロアスター教史》(1975)を生み出すにいたっている。
 イランの考古学的調査に先鞭をつけたのは,フランス隊のスーサ発掘であり,シカゴ大学のペルセポリス調査は大きな成果をあげた。出土品の多様性はイラン美術に対する関心を高め,A.U.ポープ編の《イラン美術大観》(1938〜39)という豪華本が刊行された。
 #アラビア文字#を用いたペルシア語は,イラン本土ばかりでなく,インド・アフガニスタン・中央アジアの諸王朝の公用語であり,文献はほとんどペルシア語で書かれた。ロシアのアジア進出とともに多量のペルシア語写本が西方に流れた。19世紀半ばころから,これらのペルシア語写本の整理が始まった。C.リューの《大英博物館ペルシア語写本目録》(1879〜95)は最も優れたカタログであり,これはペルシア語原典によるイラン文化研究の第一歩といってよい。西洋古典学の文献学的方法に準拠する,ペルシア語原典のテキスト校訂と訳注の作成という業績が蓄積された。#ジュヴァイニー#の《世界征服者の歴史》をはじめとする重要なペルシア語テキストが《ギブ記念叢書》に納められた。#フィルドゥーシー#の《#シャー・ナーメ#》や,#ウマル・ハイヤーム#,サーディー,#ハーフィズ#の詩も各国語に訳され,ペルシア文学作品が欧米諸国で鑑賞されるようになった。主要な大学にペルシア語講座が設置され,イラン学専攻の研究者が養成された。#E.G.ブラウン#の《ペルシア文学史》(1928)は,イランの文学遺産を通観したもので,ペルシア文学ばかりでなく,広くイラン文化の研究を方向づける古典となっている。イラン史の分野では,《ケンブリッジ・イラン史》8巻が企画され,6巻7冊が刊行(1968〜86)されているが,イラン学の中心も徐々にアメリカ,ヨーロッパ諸国に移りつつあるようである。
 イランにおけるイラン学研究は,1950年代以後急速に進み,テヘラン大学を中心に優れた学者が活動し,文学・史学・宗教などの文献学的研究,文書の整理,碑文の解読から美術・考古学・人類学の諸分野の開拓が試みられている。イラン人はこれらの研究を総称してイラン学と呼んでいる。出版物も膨大な量となった。79年の#イラン革命#で一時休止の観があるが,アフシャール編の雑誌《アーヤンデ》は健在で,現在のイラン学術情報を伝えてくれる。,(本田実信) 16300,岩のドーム,イワノドーム,Qubbat al-<印7EF8>akhrah,,エルサレムのかつてユダヤ教やキリスト教の聖域でもあった「神殿の丘」に建てられた特異な宗教建築。685/6または687/8から691/2年に#ウマイヤ朝#カリフ,アブド・アルマリクの命により建立。8角形プランの聖殿中央に置かれた巨石(約18×14m)の周囲を歩廊が二重に取り巻いている。外壁のタイル,ドームなどは,オスマン朝時代に補修されたもの。中央の聖石から預言者ムハンマドが天界をめぐる「夜の旅(#ミーラージュ#)」に旅立ったという説話がある。構築的にはイスラム以前の伝統を踏襲しているが内外の壁面を飾るアラビア語の銘文が示唆するように,四方どこからでも眺めることができた岩のドームの機能は,近隣諸国の異教徒を征服したイスラムの力を誇示する記念碑的なものであったともいえよう。内部のアーチなどの,赤・緑・金色で施された華麗なモザイク装飾には,王冠・花環・葡萄唐草が象徴的に表現され,ビザンティンやササン朝ペルシアの影響が色濃く残っているイスラム初期の造形感覚を知るうえにも,きわめて重要な資料となっている。,(杉村棟) 17300,ウスマン・ダン・フォディオ,ウスマン・ダン・フォディオ,<印78FE>Uthm<印78E6>n dan Fodio,1754〜1817,19世紀初期,西スーダン地域におけるイスラム改革指導者。#スーフィー#のイスラム教師・知識人として,イスラム信仰の純化を図り,現在のナイジェリア北西部にソコト・カリフ国を創設し,近隣のハウサ諸国を支配した。15世紀ころにセネガル川上流のフータ・トロ地方から移住したフラニ族の学者の家に生まれ,父や近親のイスラム学者について学び,1774〜75年ころから教師として活動を始めた。80・90年代には,優れたイスラム学者で弟子の一人でもある弟アブド・アッラーフ,息子ムハンマド・ベロとともに,彼の名声は上がり,ハウサ族農民の支持をも得た。98年この地方の支配者ゴビル王国の#スルタン#は,名声が高まる一方のウスマンの活動を説教だけに制限した。しかし1804年2月に,支持者たちによって#イマーム#(指導者)に選ばれ,王国が建設された。近隣地域に#ジハード#を始め,08年までに,クツィナ,カノ,ダウラ,アルカラワを征服。ウスマン自身は政治を弟と息子にまかせ,多くの学生に囲まれて簡素な生活を送り,イスラム教義,統治に関する著作および詩作に励んだ。17年にソコト近郊で没。,(中村弘光) 17900,ウマイヤ・モスク,ウマイヤ・モスク,J<印78E6>mi<印78FE> al-Umaw<印77F5>,,706〜714/5年に#ウマイヤ朝#カリフ,ワリード1世によってダマスクスに建造された現存する最古の#モスク#。かつてローマ時代の神殿の聖域であった所に建てられ,しかも解体された洗礼者聖ヨハネ教会の一部を転用している。中庭の三方にはピアと柱とによるアーケードが設けられ,#キブラ#壁に平行して,2列の列柱が走り,これを直角に横切った身廊には,#ミフラーブ#の前にドームが象徴的にかけられている。このモスクの名を高めているのは,モスクの外壁やアーケードを飾っている建物や樹木などの華麗なモザイク画である。,(杉村棟) 18000,ウマル〔1世〕,ウマル,<印78FE>Umar b. al-Khha<印73F3><印73F3><印78E6>b,?〜644,第2代正統カリフ。在位634〜644。イスラムのパウロとも称され,イスラム国家の真の建設者。初めメッカで預言者ムハンマドに敵対したが,改悛してムスリムとなった。預言者没後,#アブー・バクル#の#カリフ#就任を推進して#アンサール#の野望を断った。第2代カリフに就任後は,イラク,シリア,エジプトの征服を指導し,軍営都市(#ミスル#)の建設,#アミール#・#アーミル#の任命,アラブ戦士への#アター#と#リズク#の支給など,イスラム国家の組織化に全力を傾注した。638年シリアのジャービヤに向かい,直接征服軍に指示を与え,次いでエルサレムの征服を確認した。イスラム紀元(#ヒジュラ暦#)の制定,#ディーワーン#の創設,カリフの称号としてアミール・アルムーミニーン(信者の長)の採用などを行った。アラビア半島から#ユダヤ教#徒を追放したのも彼であったが,私怨によりペルシア人奴隷に暗殺された。娘ハフサはムハンマドの妻の一人。,(花田宇秋) 18500,ウンマ党,ウンマトウ,umma,,スーダンのイスラム教団マフディー派(#ムハンマド・アフマド#の子孫マフディー家が#イマーム#職を占める)を中核とした政党。第2次世界大戦中にスーダン独立の展望が開けると,スーダン政治に強力な影響を与え続ける親エジプト的なミールガニー派教団が民族統一党を結成して,エジプトとの統合を主張したのに対して,マフディー派はアンサール(同派の信徒)を基盤にウンマ党を結成(1945),「スーダン人のためのスーダン」をスローガンに,独立後のスーダン支配を目指した。1965〜69年にかけて連立ながらウンマ党政権が誕生し,同党の「イスラム憲法」志向は,ムスリム中心の北部とキリスト教徒が多数派の南部とからなるスーダンに動揺をもたらした。69年5月革命で誕生したヌメイリー政権は脱イスラムの方向での国家統合を打ち出し,ウンマ党を非合法化した。,(藤田進) 19400,オスマン帝国,オスマンテイコク,Osman,1299〜1922,中央アジアから移住したトルコ族によって,1299年にアナトリアに建国されたイスラム国家。#トルコ革命#によって1922年に滅亡するまで,600年余にわたって西アジア(イランを除く),北アフリカ,#バルカン#,黒海北岸,カフカスの大部分の地域を支配した。13世紀の末,アナトリア西部のビザンティン帝国との国境近くにいた,オスマンと名のるイスラム戦士(#ガージー#)を中心とした小グループに発祥した。1326年にブルサを首都と定め,ニカエア,ニコメディアなどのビザンティン帝国の要都を征服してから発展し,54年にバルカン半島に進出した。#コソヴォ#(1389),#ニコポリス#(1396),ヴァルナ(1444)などの戦でバルカン諸民族軍を破り,1453年5月にコンスタンティノープル(#イスタンブル#)を攻略してビザンティン帝国を滅亡させ,15世紀末までにバルカンとアナトリア全土とを平定した。1517年にエジプトを征服して#マムルーク朝#を滅ぼし,メッカとメディナの保護権を掌握すると,オスマン帝国の#スルタン#は#スンナ派#イスラム世界の盟主としての地位を事実上獲得した。これは,#アッバース朝#の衰退以来失われていたスンナ派イスラムの統一を回復すると同時に,イランにおいて#サファヴィー朝#が#シーア派#政権として確立していく契機ともなった。
 オスマン帝国は#スレイマン1世#の時代に最盛期を迎えた。この時代に北アフリカのムスリムが帝国の宗主権を受け入れて属国となり,バルカンではベオグラード,ブダペストが併合されてハンガリーが服属し,ウィーンが包囲攻撃された(1529)。東方では,サファヴィー朝の首都#タブリーズ#を陥れて「絹の道」を確保し,南に下ってモースル,バグダード,バスラにいたるティグリス・ユーフラテス経由の「#香料#の道」を掌握した。さらにアラビア半島のイエメン,アデンに支配権を確立してインド洋におけるポルトガルに対抗して,南インド,東南アジアのイスラム系諸王国を支援した。地中海では1522年にロードス島を攻略して聖ヨハネ騎士団をマルタ島に追放し,38年に#プレヴェザの戦#でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を破って地中海の制海権を手中にすると,43年にはフランス王を支援してニースを占領した。こうした征服と領土の拡張とは,オスマン帝国を東地中海,黒海からインド洋にまたがるイスラム世界帝国とし,その首都イスタンブルは世界各地から渡来する使節,#商人#などでにぎわい,人口45万前後に達する世界有数の国際都市となった。スレイマン1世は,海上・陸上ルートによる中継貿易活動を刺激して関税収入の増大を図るために,1536年にフランスに#カピチュレーション#の特権を与えた(その正式批准は1569年)。
 帝国領内の政治・社会組織も,先行するイスラム諸王朝の遺産を継承して整備され,バグダード,ダマスクス,カイロ,サマルカンドなど伝統あるイスラム諸都市から,トルコ人,イラン人,アラブなどの学者,文人,職人などが移住し,#ハナフィー派#法学理論を中心に学問や芸術が発達した。とくに#メフメト2世#,スレイマン1世など,歴代スルタンの建立した#モスク#に付属した#マドラサ#に学んだ#ウラマー#層は,#カーディー#(裁判官)として各地に派遣されて地方の行政と司法とをつかさどり,#シャリーア#に基づく公正な支配を実現することを理想とするイスラム国家の支柱となった。彼らはトプカプ宮殿内に設けられた御前会議(#ディーヴァーヌ#・ヒュマユーン)に参加するカザスケル(大法官)に直属した。一方,シャリーアに関してカーディーの相談役となる#ムフティー#が各地に駐在したが,その頂点にはシェイヒュル・イスラム(#シャイフ・アルイスラーム#)が存在し,御前会議の枠外にあって,スルタンや官僚による政治をシャリーアの観点から制肘した。以上の点から,オスマン帝国は最も完成されたイスラム国家であり,シャリーアの精神を忠実に実践したといわれている。広大な領域を統治するための官僚・軍人層の養成においても,アラブの#マムルーク#を制度的に発展させた#デヴシルメ#制によって,主としてバルカンのキリスト教徒子弟の中から人材を求めた。デヴシルメ出身の侍従や官僚たちは,帝国の支配エリートとして,宮廷作法・行政実務を身につけ,ペルシア語・アラビア語の影響を強く受けたオスマン・トルコ語に堪能な「オスマン人」という意識を自らもち,独特な,コスモポリタンな文化を発達させた。このような人材を得て発達した官僚組織とウラマー層とに支えられた帝国の統治は,ティマール制に基づく軍事封土の保有者シパーヒーに対する国家管理の厳しさと商工業に対する#ギルド#的統制の強さとになって現れた。一方ではトルコ系遊牧民・農民・商工民の大多数は,中央アジア,ホラーサーン方面に成立した#ナクシュバンディー#,#ベクターシュ#などの神秘主義諸教団(#タリーカ#)を媒介にして組織されており,これらの教団組織がバルカンや北アフリカに拡大するに従って,トルコ・イスラム文化がこれらの地域に伝播した。18世紀末以後,一方ではヨーロッパ諸列強の軍事的・政治的圧力,他方では国内における地方勢力の勃興とバルカン諸民族の覚醒といった諸問題に直面したスルタンは,タンジマートなど西欧化を志向する諸改革を実施した。その結果,1876年に第1次立憲制が実現するなど国家体制は近代的装いを獲得した。しかし,スルタンが列強との間に結んだイギリス・トルコ通商条約(1838)をはじめとする一連の不平等条約や,外国人商人・資本家に対して与えた諸特権は,中東諸地域の経済的植民地化を促進し,帝国滅亡後に成立した民族諸国家の将来を困難なものとした。→トルコ革命,(永田雄三) 19500,海運,カイウン,,,イスラム世界を広く覆うほぼ共通した自然地理的条件として,海とステップ・砂漠があげられる。アラブの大征服以後,砂漠地帯では#ラクダ#による#キャラヴァン#が発達する一方,海上とくに#インド洋#と地中海では大規模な船団編成による交通運輸と貿易のネットワークが張り巡らされて,イスラム世界に住む人々の足として,また商売や情報伝達の道具として広く利用された。海運は陸上運輸のキャラヴァンに比べると,大量の積載能力をもち,かつ遠距離間の輸送を直接的に廉価に行いうるという点で,人・物質・情報等の広範な交流と融合関係を形成するうえに大きな役割を果たしたといえる。
 イスラム以後,東地中海ではビザンティン海軍の活躍によってムスリムの地中海進出は難しかったが,#コプト#教徒,#ユダヤ教#徒,ギリシア人との軍事的・商業的協力関係が成立するにつれて,地中海の海運は徐々に開かれていった。9世紀初めころ,東・西地中海のほぼ中央部に位置するチュニジア・イフリーキーヤ地方に#アグラブ朝#が興隆すると,スーサを海軍基地としたムスリム軍はビザンティン海軍を圧倒して,#シチリア#を征服(827),地中海に進出した。こうしてシリア,エジプト,チュニジア,シチリアを結ぶ地中海の海運は,東・西イスラム世界を結びつける国際的な交通運輸と貿易上の幹線として機能するようになった。さらにシチリアとチュニジアを経由して西ヨーロッパ世界,#アンダルス#,極西マグリブ地方やサハラ砂漠の南縁に通じるキャラヴァン・ルートとも有機的に連続した。11世紀末,#十字軍#運動の開始とともに,ジェノヴァ,ヴェネツィア,ピサ,アマルフィなどのイタリアの都市国家は,船の大型化と船舶保有数を急激に拡大して,地中海の海運を独占しようと努めた。このことは,自由交流の場としての地中海の役割を大きく変貌させた。一方,インド洋では,ペルシア湾岸とイエメン出身のアラブ・ペルシア系航海民は紀元前にさかのぼる昔から,インドのマラバール地方やモルディブ・ラカディブ群島に産したココヤシやチーク材を用いて,三角帆をつけた縫合型構造船(ダウ)を発達させた。彼らは定期的かつ一定方向に吹くモンスーンと海流を最大限に利用し,そして天測術にも習熟して迅速・確実・安全に大陸間を往来する航海術を知った。モンスーンと海流を航海に利用すれば,夏季の航海期(4〜5月,8月下旬〜9月上旬)には,南アラビア,ペルシア湾からインド西海岸や東南アジアの諸地域に,また東アフリカからの北上航海が行われ,冬季の航海期(10月中旬〜翌年3月末)には夏季と反対方向への横断がいずれも20〜30日の航海日数で可能であった。地中海の海運が常に西ヨーロッパ・キリスト教世界の諸勢力との敵対・抗争関係の中で行われたのに対して,インド洋ではムスリム,ユダヤ教徒,ヒンドゥー教徒,仏教徒,キリスト教徒など,宗教・人種・文化を超えた自由な交流と共存の諸関係が,ポルトガルをはじめとするヨーロッパ諸国の勢力によるインド洋進出まで,長らく維持された。,(家島彦一) 20800,カージャール朝,カージャールチョウ,Q<印78E6>j<印78E6>r,1796〜1925,イランを支配した#トゥルクマーン#系の王朝。部族としてのカージャール族の名は15世紀に初出する。#サファヴィー朝#の#クズルバシュ#(紅帽軍)を構成する部族で,17世紀までアゼルバイジャン地方で遊牧していた。その後,辺境防備のためカスピ海南東のゴルガン地方に移された。18世紀半ば,後に王朝の創始者となるアーガー・モハンマドはシーラーズに拠るザンド朝のカリーム・ハーンの宮廷に人質として幽閉生活をおくっていたが,1779年そこを脱出,17年の歳月をかけて群雄の割拠するイランを統一し,96年テヘランを首都にカージャール朝を開いた。その国家構造は遊牧分封制に基づいて一族を地方知事に任命し,軍人には分与地(#トゥユール#)を与えていくという中世以来の伝統を色濃く残すものであった。しかし19世紀になると,イランへのイギリス,ロシアの進出が始まり,ヨーロッパが主導する近代世界システムへの対応を余儀なくされていくことになる。ロシアはカフカスの領有権をめぐって2度にわたる対イラン戦争を行い,それぞれ#ゴレスターン条約#(1813),#トルコマンチャーイ条約#(1828)を結んで同地方を割譲させた。イギリスは1841年イランとの間に通商条約を締結し,56年にはヘラート問題に介入してペルシア湾から攻撃を加え,同地方を一時占領した。
 イランの従属化が進行する中で,1844年イラン南部地方を中心に#バーブ教#運動が起こされた。これはセイエド・アリー・モハンマドを指導者とするメシア思想を奉じる宗教反乱であったが,その背景には民族主義的な志向もあったといわれる。48年宰相に就任したアミール・カビールは,近代改革を軍事・財政・行政・教育の各分野にわたって推進したが,52年に暗殺され,王朝の立直しは失敗に終わった。70年以降,王朝財政は破綻し,道路建設・電信敷設・河川航行・銀行開設等の利権を,ヨーロッパの投資家に譲渡していった。90年イギリス人に譲渡されたタバコ利権をめぐって,#ウラマー#を中心に#タバコ・ボイコット運動#が組織された。この運動は民衆に反帝国主義闘争とカージャール朝専制体制の打倒の必要性を自覚させた。1905年,憲法と議会の開設を要求して#イラン立憲革命#が起こされた。この革命運動はタブリーズ武装蜂起(1908〜11)で高揚したが,第1次世界大戦の勃発,19年のイギリス・イラン協定によって革命のエネルギーは急速に失われていった。20〜21年ロシア革命の影響を受けた民族解放運動が,ギーラーン,#アゼルバイジャン#,#ホラーサーン#で起こされ,社会主義的な地方革命政府が樹立された。しかし,軍務大臣レザー・ハーン(後のレザー・シャー・パフラヴィー)は,対ソ条約を締結して支援のために進駐していたソ連軍を撤退させて地方革命政権を武力で鎮圧,25年カージャール朝を廃して自ら#パフラヴィー朝#を建てた。,(坂本勉) 21200,語り,カタリ,,,イスラム世界の語り物師には種々の種類と名称がある。ワーイズ,#カーッス#,ムザッキル,ラーウィーなどがそのおもな例だが,ほかにも種々のものがある。アラビアには#ジャーヒリーヤ#時代からその先駆をなす人々がいた。各部族には戦闘その他の重要事件に部族民を鼓舞する演説(#フトバ#)を行う人々がいて,ハティーブと呼ばれていた。カーッスやワーイズはその流れを汲み,イスラム時代に入ると,一般大衆に,コーランの中の神に背いたため滅亡した古代諸民族や,旧約聖書中の諸人物(たとえばヨセフ,モーセその他)の事績を引き,いろいろ敷衍して興味深く平易に説いた。公認のカーッスと私的のものとの二様があったが,#モスク#に現れて講説したのは7世紀中ごろ,イラク地方が初めてという。これらの中には#ハサン・アルバスリー#のような博学者もいた。しかし後世には卑俗に流れ,単に興味本位の話し家に変わり,本来の宗教的目的を忘れる者も少なくなかった。これらの宗教的語り師と異なり,ラーウィーは古代からの詩人の逸話やその作品などを物語る人々だが,市井の逸話やロマンスなど対象は広くなった。1824年から数年間をカイロで暮らしたE.W.レーンによると,当時,その地にいた職業的語り物師のうち,最も多数いたのはシュアラーと呼ばれる人々で,約50人おり,アブー・ザイドの事績を語り,詩の部分は1弦のビオールを弾じつつ歌った。第2はムハッダシーンという人々で約30人おり,#マムルーク朝#の名君#バイバルス1世#の事績物語をおもに語った。第3はアナーティラと呼ばれる人々で,最も高尚で数も少なく,約6人ほどであった。ジャーヒリーヤの詩人アンタルの物語をおもな出し物とするが,《#千夜一夜物語#》《デルヘンマ物語》など,レパートリーは広かった。#アッバース朝#時代の逸話文学の大家タヌーヒーも,晩年はバグダードでラーウィーとして暮らしながら不朽の名著を執筆したのである。,(前嶋信次) 22300,カピチュレーション,カピチュレーション,capitulations,,生命・財産の安全,治外法権(領事裁判権,免税)などの保障を在留外国人に特権的に認めることを定めた国際的条約。ヨーロッパ諸国とアジア・アフリカ諸国との間に広く成立した。イスラム諸国では,9世紀に#アッバース朝#がフランク王国に対してこの特権を与えたのが最初といわれる。12世紀以後,イタリア諸都市が西アジア・北アフリカ各地のイスラム諸王朝よりこの特権を得てから一般化した。16世紀前半に#オスマン帝国#が,イランを除く西アジア・北アフリカを統一し,フランス(1536授与,批准は69),イギリス(1579),オランダ(1613)にこの特権を認めると,カピチュレーションは,中東とヨーロッパとの間の地中海貿易を規定する基本的条約の性格を獲得した。イランも17世紀以後イギリスなどに同様の特権を認めた。カピチュレーションは,船舶の修理,災害時の救助活動,海賊からの商船の保護と保証などに関して相手国との双務関係を定める場合もあるが,全体としては,オスマン帝国の#スルタン#が相手国に与える恩恵的な特権授与の性格が強い。したがってこの条約の有効期間は明記されず,また,スルタンが代わるたびに新たな認可を必要とした。こうした特権授与は,当時の中東とヨーロッパとの貿易が中東に有利であった事情を反映しているが,オスマン帝国の側でも,それによって相手国の好意を取りつけて国際政治関係を有利に導こうとする政治的意図や,通商活動を活発にすることによって関税収入を増大させようとする経済的・財政的意図があった。18世紀以後,中東とヨーロッパとの貿易関係が逆転し,オーストリア,ロシア,アメリカなどの新興諸国もこの特権を獲得すると,カピチュレーションは,ヨーロッパ諸国による中東への経済的進出の有力な手段に変わった。1923年にトルコ共和国はローザンヌ条約によってオスマン帝国のカピチュレーションを廃止し,イランもまた,28年にイギリスに対するこの特権を廃棄し,エジプトでは37年に解消した。,(永田雄三) 22500,歌舞音曲,カブオンギョク,,,歌い,踊り,舞うことを好むのは広く人類の本性に基づくもので,アラブもきわめて古くからそうであった。アードとかサムード,アマーリクなど先住諸民族として伝えられている人々も,歌舞を愛したことが語り伝えられている。早く文化を発達させたイエメンの民の間にも,ヒムヤリーとハナフィーとの2系統の音楽が古代からあったことが知られている。アラビア半島中北部の#ジャーヒリーヤ#時代の多数の詩人たちの作は,多くは曲にのせられて歌われたものであろうという。預言者ムハンマドが青年時代に#ハディージャ#と結婚した時は,音楽や舞踊をもって人々はこれを祝福した。歌手たちが花婿を中心に街頭を練り歩くことは,現在のアラブの間でも行われている。歌舞にはフダーという仕事(水運び,水汲み,織匠,落穂拾い,家庭仕事など)に伴うもの,哀歌や悼歌,子守歌,子供たちの遊戯の歌,戦いの歌などいろいろあるが,サウディ・アラビアの王族たちが今も伝えているナジュドの踊りは,両肩から胸上で交差するように黒革の帯をかけ,手に手に剣を抜き持って群舞する儀式的舞踊で,古代から戦いに先立って士気を鼓舞するために行われたものが残っているのである。イスラム時代になると,歌舞音曲が#シャリーア#(イスラム法)に合するのか,それとも禁じられているかについて,さまざまな議論が行われた。コーランには,これについての明文はない。#ハディース#には,合法だとするものと,否定するものとの双方があって,いずれとも決し難いが,結局,#ハラーム#(禁止)ではないが,推奨はできぬもの(マクルーフ)とする説が圧倒的のようにみえる。それで#正統カリフ時代#は,歌舞が最も衰えた時代とされるが,#ウマイヤ朝#時代には勢力を盛り返し,#アッバース朝#の初期(750〜847)はその黄金時代であり,ビザンティンやペルシアなどの影響も強くなり,歌謡・舞踊は大きな進歩を遂げた。イスバハーニーの《歌の書》は,歌舞の愛好者の一人だったカリフ,#ハールーン・アッラシード#の命で,当時の高名な音楽家たちが選んだ歌謡100曲を基とし,さらにこれに古代からの多くの詩人や歌手などの事績を付け加え,50年間の歳月を費やしてまとめあげた大著である。広くイスラム世界で愛読され,ジャーヒリーヤ時代から9世紀にいたるアラブ文明の全史,同民族の記録簿などとして高く評価されている。この一事によっても,歌謡の文化史上の重要さを理解できるであろう。音楽家の中には,イブラーヒーム・アルマウシリーや,その子イスハーク・アルマウシリーなどのように,時のカリフたちに愛重されて巨富を積んだ者から,#奴隷#身分の歌い女まで,境遇は千差万別だった。また13世紀に小アジアの#コニヤ#に起こった神秘主義の#メヴレヴィー教団#の人々のように,音楽に合わせて旋舞することを重要な行事としていた例もあり,歌舞の歴史はきわめて多彩複雑である。現在のイスラム世界でも,歌舞音曲はよく保護され,民衆の熱い支持を受けている。,(前嶋信次) 22700,ガラタサライ・リセー,ガラタサライ・リセー,Galatasaray Lisesi,,トルコの近代的高等学校。1868年創立。初代校長はフランス人。イスラム教徒とキリスト教徒との共学制で,フランス語とトルコ語で授業が行われ,後にソルボンヌ大学のカリキュラムを模した大学部が併設された。#オスマン帝国#末期から共和国初期にかけて,トルコの代表的知識人,官僚,政治家が多数輩出した。現在は高等部のみである。,(永田雄三) 23100,カラ・ヤズジュの乱,カラ・ヤズジュノラン,Kara Yaz<印7DF5>c<印7DF5>,,16世紀末から17世紀初め,アナトリアで頻発したジェラーリー諸反乱の一つ。そのころ,#オスマン帝国#のティマール(軍事封土)制の動揺に伴い,地方有力者による国有地簒奪,重税,治安の乱れが慢性化し,このため土地を追われた農民・遊牧民は,近衛騎兵(シパーフ)出身のカラ・ヤズジュを指導者として,1598年,南東アナトリアのマラシュ近郊で蜂起し,アナトリア中央部を制圧する勢いをみせた。カラ・ヤズジュの急死により反乱軍は四散したが,ジェラーリー諸反乱は各地に続発し,アナトリアは荒廃した。,(永田雄三) 23200,カランダリー教団,カランダリーキョウダン,Qarandar<印77F5>,,13世紀の初めサーウィーがシリアに設立した典型的な農村型の神秘主義教団(#タリーカ#)。しかしカランダルと呼ばれた遊行#デルヴィーシュ#は,おそらく仏教の強い影響のもとに,すでに11世紀からホラーサーンで活動を始めていた。彼らは頭髪とひげを剃り落とし,独特の衣装と道具を身につけ,シリア・エジプト・アナトリア・北インドなどイスラム世界の各地を遊行して回った。その姿が西アジアで見られなくなった後も,インドと中央アジアでは20世紀初めまで見られた。,(嶋田襄平) 23900,為替,カワセ,suftaja,,#アッバース朝#時代から用いられた手形の一種。振出人が他地にある受取人あてに送る現金送達の手段である為替手形のこと。アラビア語でスフタジャ。手形の振出人が甲の土地で現物を受領し,その代価を乙の土地にある受取人に支払うことを保証した一種の約束手形である。しかし,約束手形にあっては,振出人が債務者として自ら支払に任ずるが,為替手形にあっては,振出人が他地にある第三者を自己の代理人として支払の引受人に指定し,これに支払義務を転移するものである。したがって為替手形にあっては,振出人・受取人・引受人の3者の具備が必須条件である。また額面金額は直ちに換金されず,支払猶予期間が設定されているため,通常,支払期限が付記される。したがって為替手形の書面には,引受人の指名と支払期限(満期)が記載されている。公金の場合,各州から首都の中央政府に送られてきた為替手形を換金する時,引受人は多く宮廷銀行家であり,手数料にあたる,リバー(#利子#)とは異なる正当な取得分リブフを取得した。民間の場合,債権者となった手形の受取人が,債権譲渡(ハワーラ)により自己の負債を引受人に振り替えて貸借を相殺している事例がある。民間の手形決済は定期市開催中に行われることが多く,シャーバーン月の十五夜(満月の夜)が手形の満期に指定され,この夜は「手形の夜」と呼ばれた。
 ヨーロッパにおける約束手形の発生は,中世末期のイタリア為替商によるものであるが,教会法の利子禁止令に抵触する嫌疑を受け盛行するにいたらなかった。しかし為替手形は,ローマ教皇庁自ら各地からの納金の送付方法として利用したため,商人間に広く行われるにいたった。そして西アジアのイスラム世界において遅くも10世紀以降に高度の発達を遂げた手形決済の慣行が影響を及ぼしたことが想定される。→信用取引,(佐藤圭四郎) 24800,キャラヴァン,キャラヴァン,k<印78E6>rv<印78E6>n,,ペルシア語カールバーンに由来し,隊商を意味する。アラビア語ではイール,カーフィラ,キタールという。馬,ラバ,ロバや#ラクダ#などで編成されるが,長距離間の大量輸送力という点では,1頭で250〜280kgほどの積載能力があるラクダが最も優れている。アラブの大征服以後,ラクダを主体としたキャラヴァン交通と運輸のネットワークが,東は中央アジア,西はマグリブ地方やサハラ砂漠の南縁部まで広がる砂漠・ステップ地帯に張り巡らされて,長距離間の交通は飛躍的に発達し,人的交流,貿易と情報伝達を容易にして,イスラム世界の形成と統合を支える基幹となったといえる。キャラヴァンの組織と運営のうえで遊牧系の諸部族,とくにアラブの大征服以後,各地に分散移住したアラブ系遊牧民たちが重要な役割を果たした。キャラヴァンの安全運営には,通過する地域を支配領域とした地方勢力,とくに広い地域を牧畜・移動する遊牧系の諸部族との通行安全と保護・護衛のための契約関係(ジワール,ヒファーラあるいはヒマーヤ)が成立していることが不可欠であった。また運輸のための役畜の貸与,道案内,護衛,水場の探知と供給,停泊地の選定,人および積荷の保護・管理や情報提供などは遊牧民たちの職務であった。キャラヴァンの1日の行動距離は,その編成の目的・規模や道中の地形,季節などの条件によって違ったが,1日6〜10時間に及ぶ移動距離(20〜24km)に合わせて,水場,停泊地,#キャラヴァンサライ#が設置された。イエメン地方やペルシア湾岸に位置したインド洋貿易の港市とシリア・エジプト地方とを結ぶキャラヴァンは,「季節の大キャラヴァン」と呼ばれて,1000〜5000頭に及ぶラクダの大編成が組織され,そのキャラヴァンの通過に伴って内陸部の中継都市では大市が開かれた。また#巡礼#の月(ズー・アルヒッジャ月)に合わせてメッカ・メディナにはエジプト,シリア,イラク,イエメンから大編成のキャラヴァンが到着した。巡礼キャラヴァンは巡礼者のほか,#商人#,#職人#,学者や移住者たちを運び,イスラム世界の交流と融合を支える重要な役割を担っていた。,(家島彦一) 25400,ギルド,ギルド,,,前近代の#イスラム都市#において#商人#・手工業者は,#タリーカ#,ターイファ,ヒルファ,サンア,シンフ,アスナーフなどと呼ばれる同職組合をつくっていた。しかし,これらの組織は中世ヨーロッパにみられる自治権をもつ典型的なギルドとまったく同じものではなく,政府によって統制されるという面を強くもっていた。
 7〜9世紀においてギルドに類する組織はイスラム都市には存在しなかった。#アッバース朝#の中央集権体制が崩れる10世紀以降,ようやくギルドの存在をうかがわせる断片的な記事が出てくる。エジプト,シリアでみられるウラファー・アルアスワーク(市場の長)がそれである。しかし,これがギルドの長を意味するのか,#ムフタシブ#(市場監督官)の代理人として任命される政府の役人であったのかはっきりせず,ギルドの存在を立証する決め手にはなっていない。ライース・アルアティッバー(内科医の長)についても同様で,内科医の同職組織の長であったのか,政府の任命する役人であったのか確たる証拠はない。結局,10〜12世紀のイスラム世界ではギルドの存在を暗示する名辞があるだけで,組織については何もわかっていない。
 13〜14世紀,アナトリアにアヒーヤ・アルフィトヤーン(青年同胞団)という組織が現れる。これは手工業者の子弟をメンバーにし,友愛と互助精神を理想の倫理規範とする宗教結社的な組織で,#フトゥーワ#とも呼ばれた。これに属する団員は指導者(アヒー)を選び,#スーフィー#教団の会堂に集まって会食し,歌ったり踊ったりした。入会にあたって独特の加入儀礼があり,宗教教育もここで行われた。
 フトゥーワは業種ごとに編成されることが多かったが,純然たる手工業者のギルドとみなすことはできない。手工業者の子弟に倫理規範を教える若衆組,ないしは青年団としての性格が強かった。各フトゥーワは共通の守護#聖者#を信仰していたので,宗教結社でもあった。エジプトではサルマーン・アルファーリシーを守護聖者の頂点に置き,各フトゥーワの守護聖者がこれとなんらかの関係を有して世系をつくっていた。こうして各フトゥーワを擬制的な親族関係の中に位置づけ,フトゥーワの連合組織をつくっていた。17世紀になるとフトゥーワの世俗化が始まり,職業ギルドに転換していったといわれる。しかし,#オスマン帝国#の場合,なめし皮業者のギルドの長はアヒー・ババと呼ばれ,依然としてフトゥーワ的伝統を残していた。彼はギルドの加入儀礼において入会者に帯を結ぶことを役目としていた。
 18世紀以降,ギルドの国家への従属が強まる。オスマン帝国は,手工業者を確実に掌握するために,ムフタシブの権限を強化した。ギルドは長老会議をもち,自主的に組織を運営できる仕組みをもつが,指導者であるケトヒュダーを選挙した後,必ず#カーディー#の承認を得なければならなかった。オスマン帝国のギルドは,営業許可権,裁判権,軽犯罪の処罰権,商品価格と品質管理,相互扶助など,自治的色彩の濃い機能をもっていた。しかし,ギルドは本質的に政府の行・財政の末端機関として位置づけられており,軍事遠征の際に兵員を出し,課税・徴税の単位と考えられていた。政府のほうもギルドを政策的に特権化することによって統制を強めようとした。すなわち,ギルドの成員資格に制限を加え,店舗の賃借権にゲディクという排他的な株を設定したのである。
 19世紀になるとギルドの比重は低下する。エジプトのカイロの場合,1869年に198の業種別ギルドがあり,平均320人のメンバー数であったが,人口30万のうち,ギルドに組織される者は1/5にしかすぎなかった。80年代には,カイロのギルドは次々とその機能を奪われ衰退していった。行政の中央集権化によって,ギルドを監督するムフタールが任命されるようになった。81年職業税がギルド税に代わって導入され,課税は個人単位になり,ギルドはもはや徴税単位ではなくなっていく。ギルドの人数制限,特権化のもとであったゲディク制は,87年独占権の禁止によって廃止された。労役提供も1919年にギルドの義務ではなくなった。総じてイスラム世界におけるギルドは,19世紀末から20世紀の初めにかけて衰退し,その歴史的役割を終えたといえる。エジプトでは#ムハンマド・アリー#の官営工業政策によって伝統産業とギルドは影響を受けたが,1869年のスエズ運河開通は,それまでの交易体系と貿易構造を根本的に変え,ギルドに決定的な打撃を与えた。オスマン帝国では,1910年イスタンブルでギルド廃止令が出されたのを嚆矢として,順次廃止されていった。しかし,エジプト,トルコに比べて旧来の経済構造を残すイランでは,第2次世界大戦後までギルドの力はなお強かった。→市,職人,フトゥーワ,(坂本勉) 26200,クーファ,クーファ,al-K<印7CF3>fa,,イラク共和国のカルバラー州にある古都。アラビア語で「円い砂丘」を意味するが,正しくはナバタイ語で「赤い砂」を意味する。バスラに次ぐイスラム第2の軍営都市(#ミスル#)で,639年ウマル1世の命で#サード・ブン・アビー・ワッカース#が現在のクーファに近いユーフラテス川西岸に建設した。正統#カリフ#・#ウマイヤ朝#時代は,イラク北部やアゼルバイジャンなど北方地域の征服の基地として発展し,またイラクの政治・文化的中心としても,バスラとしのぎを削った。第4代カリフ,#アリー#の首都であったため,元来#シーア派#的傾向をもち,反ウマイヤ朝運動の牙城でもあった。#アッバース朝#の創建時,バグダードが建設されるまで,同朝の首都の一つでもあったが,しだいに衰退した。しかし,バスラとともにアラビア語文法学,コーラン学,伝承学,法学,史学などの学問の町として,古典イスラム文化の形成に貢献した。アラビア文字のクーフィー体は当市に由来する。,(花田宇秋) 26900,クルド,クルド,Kurd,,トルコ南東部,イラク北部,イラン西部,シリア北部にまたがる地域に住む民族。その居住地は彼らの言葉でクルディスタン(クルド人の土地)と呼ばれる。面積は約50万<印5263>,日本の約1.5倍に当たる広さをもつ。険しい山岳地帯が多くを占め遊牧・牧畜が盛んだが,ティグリス,ユーフラテス両川の源流に位置し,水に恵まれているので農業で暮しを立てている人たちも多い。人口は十分な調査資料を欠くため正確なところは不明。しかし,世紀末の1990年代においてクルディスタン全体で2500万〜3000万と推定され,これにザカフカスのアルメニアとアゼルバイジャンに住む40万,難民・出稼ぎ者としてヨーロッパに移住している70万程度の人口が加えられる。クルドの形質人類学的な原型は,紀元前2000〜紀元前1000年ころに侵入してきたイラン系のメディア人と土着のグティ人とが混血することによってできた。その後,アルメニア,アッシリア,アラブ,トルコ,モンゴルなどの民族の侵入を受け,今日のクルドの特徴ができあがってくる。クルドという名称が固定するのはイスラム期になってからで,それ以前はクルティエ(前7世紀),カルダカイ(前5世紀)と呼ばれた。10世紀後半,#アッバース朝#体制が崩壊するとクルドはハサンワイフ朝(ca.960),マルワーン朝(983)という地方王朝を建て自立した。1169年,クルド出身の#サラーフ・アッディーン#はエジプト・シリアに#アイユーブ朝#を建国したが,この王朝は一部のクルド系軍人が権力を握るにすぎず,純粋なクルド系国家とはいえない。
 16世紀,クルドの住地は#オスマン帝国#と#サファヴィー朝#の戦場になる。1639年のエルズルム和議によって両朝の国境線が画定され,クルドの民族的分断はこの時から始まる。その後,両朝の領土内にいくつかの小侯国ができ,一定の自治を認められていたが,1837〜52年の間に,いずれも取りつぶされた。この反動として,80年にシェイフ・オベイドッラーの反乱が起こされたが,この事件は20世紀に入ってから繰り返される自治権や独立国家をつくろうとする民族主義運動の先駆けをなすものであった。クルドは,しばしば国家なき民族と称される。こうした状況に立ちいたっているのには,いくつかの要因が考えられる。第一は言語の多様性である。クルド語という統一的な民族語は存在せず,イラン語系の北西グループに属するクルマンジー,ソラニ,ザザ,グラニの4方言が分立し,意志の疎通を十分にはかれないという状況がある。第二に宗教のモザイク性があげられる。ほとんどがイスラム教徒であるが,このうちの75%がスンナ派,残りが十二イマーム・シーア派,そしてシーア派の異端に数えられるアレヴィー(アラウィー)派となっていて相互の反目はきわめて強い。第三は部族意識が今なお色濃く残る社会構造の後進性である。こうしたことが重なり民族意識と国家形成の動きにアラブ,トルコ,イランの諸民族と比べ遅れることになってしまったのである。
 このように民族としての主体性の弱さをかかえるためクルドの国家形成へ向けての運動は,彼らが住む地域の地政学的状況とも相まって常に中東の周辺諸国家,さらには石油戦略の観点からこの地域に重大な関心をよせる欧米諸国,旧ソ連がつくりだすパワー・ポリティクスに翻弄されながら近現代史を画する転換期に山をつくるように起こされてきたという特徴をもつ。第1次世界大戦に敗れたオスマン帝国が1920年に結んだセーブル条約には,民族自決の原則に従ってクルド自治領の構想が盛りこまれていたが,トルコ共和国が建設されていく過程ではかない夢に終わった。第2次世界大戦期にイギリスとソ連の進駐を受けたイランでは,パフラヴィー朝の権力空白をついて45年,クルディスタン人民共和国が樹立された。しかし,このクルド史上最初の国家もソ連軍の撤退とともにあっけなく崩壊した。,(坂本勉) 27100,刑罰,ケイバツ,,,古代のアラビアでは,犯罪を一種の汚れた行為とみ,この汚れを清めるのが刑罰だと考えていた。したがって,服刑が清浄化を意味したといえる。イスラム法(#シャリーア#)では,刑罰をハック・アッラー(神の権利)とハック・アーダミー(人間の権利)とに大別し,神の命にそむいた犯罪に刑罰を科するのは神の権利であり,被害者またはその親族の要求があって刑罰を科するのは人間の権利であるとみなした。イスラム法上,刑罰はキサース,#ハッド#,タージールの三つに大別される。
 キサースとは報復の意。イスラム以前には,報復(#復讐#)も無制限に行われていたが,イスラム時代には,コーランの規定(2章73節)に基づいて同害報復に改められた。同害報復の一つは,ある者が他の者を故意かつ不当に殺した場合,加害者を殺す権利が被害者の相続人に与えられる。もう一つは,ある者が他の者に故意かつ不当に傷害を加えた場合,被害者は自分が受けたと同程度の傷害を仕返す権利が与えられる。もっとも,この報復は,加害者が成年者で,十分知能の備わっている者であり,かつ一説によれば加害者と被害者とが同等の者でなければならない。同害報復を行う代りに,血の代償つまり一種の賠償金の支払をもって和解することも認められている。ある者が故意かつ不当に殺され,被害者の相続人が報復権を放棄すると,重い血の代償を,また,ある者が偶然に殺されると,軽い血の代償を支払わなければならないが,その支払は家畜(ラクダを原則とする)か現金による。しかも支払額は,性別,宗教,身分により異なり,たとえば,女が殺されると男の半額である。また,人を殺すと,報復を受けるか血の代償を支払うほかに,1人のムスリム奴隷を解放するか,2ヵ月間の断食をしなくてはならない。被傷害者が同害報復の権利を放棄し,血の代償を請求すると,加害者はそれに応じなければならない。傷害に対する血の代償は,傷害の箇所により異なる。被害程度は調査され判決が下されるので,それに従わなければならない。
 ハッドは,法が主として#コーラン#において定めた刑罰である。ハッドの科刑は強行規定であり,加減は許されない。そして,姦通,姦通についての中傷,飲酒,窃盗,追剥の諸罪に適用される。姦通罪(ジナー)には石打ちの刑と鞭打ちの刑とがあり,完全な精神能力をもつ自由人で,合法的な#婚姻#内で性交を行ったことのある者がこの罪を犯せば石打ちの刑に処せられる。石打ち刑が適用されるのがムスリムに限られるか否かについては見解が対立している。完全な精神能力をもつ者が石打ち刑に処せられない場合は,鞭打ちの刑に服する。中傷罪と飲酒罪には鞭打ちの刑,窃盗罪には手足の交互切断,すなわち初犯は右手,再犯は左足,3犯は左手,4犯は右足が切り落とされる。もっとも,窃盗罪は盗品が一定の価格をもち,適当に保管されていた場合に成立する。犯人が,未成年者や精神病者であれば本刑は科せられない。追剥は,コーランにあるとおり(5章33,38節),死刑,はりつけ,手足の交互切断,国外追放の刑に処せられる。窃盗と同時に殺害を行うと死刑に処せられたうえ,死体は一定期間公衆の前にさらされる。
 タージールとは懲戒,矯正の意。コーランに明文をもって規定されず,裁判官(#カーディー#)が諸般の事情から客観的に判断し,最も適当と思われる刑罰に処しうるものである。文書偽造,詐欺,偽証,恐喝などがタージールの対象となる。タージールをどの程度にするかは,裁判官の裁量に任されているので,譴責,財産の没収,追放,投獄,鞭打ちなどの諸刑罰に処しうる。タージールの本来の目的は,矯正することであり,そのため,刑量には個人差があってよいとする。法学者の中には,処罰の対象となる人間を階級や身分によって分ける者や,イスラムに対する態度,生活様式および個人の内面的な価値のほうを,より重視する者がいた。ところが,裁判官の気ままともいえるタージールを賄賂で免れようとした者たちがいた。それで,支配者たちの世俗的立法によって犯罪行為に対して明確な刑罰を決定することにより,裁判官の自由裁量に任される判決を統制し,調整した。
 近代にいたり,イスラムの刑罰は,同害報復や身体刑をはじめ,西欧の影響により改革の必要が主張され,1858年の#オスマン帝国#の刑法典の制定など,ヨーロッパの刑法にならって近代化の傾向をたどった。しかし,1970年代以降,シャリーアの実施をあらためて主張する動きが強く生じると,フドゥード(ハッドの複数形)の施行意義がことに強調される傾向が注目されるようになった。→ハラーム,(遠峰四郎) 27200,ケマル・アタテュルク,ケマル・アタテュルク,Mustafa Kemal Atat<印7EF3>rk,1881〜1938,第1次世界大戦後におけるトルコの祖国解放運動の指導者。トルコ共和国初代大統領(1923〜38)。テッサロニキの下級官吏の家に生まれる。1896年テッサロニキの陸軍中等学校,99年マナストゥルの陸軍高等学校,1905年イスタンブルの陸軍大学卒業。ダマスクス駐屯の第5軍に派遣され,06年同地で#アブデュルハミト2世#に対する反専制運動を目的とする秘密結社「祖国と自由」を設立した。07年テッサロニキに移り「統一と進歩委員会」に参加,08年の「#青年トルコ#」革命後,革命首脳部と相いれず,軍務に専心した。13年ソフィア駐在武官となり,第1次世界大戦中,ゲリボル半島に上陸したイギリス軍を撃退して国際的にその名を知られ(1915),16年准将(#パシャ#)に昇進した。大戦後,トルコ分割をもくろむ連合国に抗して祖国解放運動を組織し,20年4月,アンカラにトルコ大国民議会政府を樹立して,連合国側にくみする#オスマン朝#スルタン政府(イスタンブル)に対し反乱を起こした。22年9月,西アナトリアのギリシア軍を追放して祖国解放運動に勝利すると,同年11月に#スルタン#制を廃止してオスマン朝を滅亡させ,23年7月に連合国との間にローザンヌ条約を締結してトルコの独立を確保,同年10月アンカラを首都にトルコ共和国を宣言し,その初代大統領となった。24年以降#カリフ#制の廃止をはじめとする一連の改革を実施しトルコ共和国の基礎を築いた。
 彼は,いわゆる青年将校出身の革命家タイプで,早くからイスラム教徒である両親と別れ,テッサロニキやイスタンブルの国際都市で青年時代を過ごし,フランス語に堪能な西欧型の知識人であった。一方では妥協を許さぬ強い性格の民族主義者であったが,終生のライバル,#エンヴェル・パシャ#とは違って徹底した現実主義者であった。アナトリア在住のトルコ人とともに闘った祖国解放運動の勝利と共和国期の世俗主義的な改革の成功とは,彼のこうした個性によるところが多い。その反面,独裁者として権力を掌握するために,多くの有能な軍人・政治家を失脚させ,彼の死後における#トルコ革命#後退の原因をつくった。34年には大国民議会よりアタテュルク(父なるトルコ人)の姓を与えられ,その権威は今なお絶大なものがある。,(永田雄三) 27300,ケル・メフメトの乱,ケル・メフメトノラン,Kel Mehmet,,1829年9月に西アナトリアのアイドゥン州を中心に起こったゼイベキによる反乱。ゼイベキとは,同地方の#キャラヴァン#・ルートの道案内や護衛をすることによって生計をたてる人々である。#オスマン帝国#のマフムト2世が改革政治の一環として彼らの生業を禁止したことから,羊飼出身のゼイベキ,ケル・メフメトを指導者とする反乱が起こり,30年初頭にはアイドゥン州を制圧して,自治政府を樹立した。反乱は同年6月,同地方のアーヤーン,カラオスマンオウル家の軍勢に鎮圧された。,(永田雄三) 30900,サドラザム,サドラザム,sadrazam,,#オスマン帝国#の大宰相職。帝国の主権者である#スルタン#の印璽を預かり,世俗・軍事の全権を委任された代理人として,トプカプ宮殿内の御前会議(ディーヴァーヌ・ヒュマユーン)を主宰し,すべての文官・武官の任免権を有した。戦時,スルタン親征以外の場合は,帝国軍総司令官を務めた。ただし,宗教的事柄に関しては,シェイヒュル・イスラム(シャイフ・アルイスラーム)が最終的決定権を有し,裁判官(#カーディー#)の任免についてはカザスケル(大法官)が権限を行使した。15世紀以後,#デヴシルメ#制が発展すると,非トルコ系諸民族出身者が主としてこの職に任命された。18世紀以後,帝国における政治の中枢がトプカプ宮殿からサドラザムの公邸(バーブ・アーリー)に移行すると,その権限は拡大し,バーブ・アーリー(「高き門」,ヨーロッパではSublime Porte)は,オスマン朝政府そのものを意味するようになった。1830年代に,#マフムト2世#は改革政策の一端として,大宰相府から内務・外務・財務の三つの職務を独立させてサドラザムの権限を縮小し,後の内閣制度の基礎を築いた。,(永田雄三) 32300,サライエヴォ,サライエヴォ,Sarajevo,,ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の首都。標高約537mの盆地にあり,人口約38万(1993)。町名の語源はトルコ語で「サライ・オヴァス」(宮殿のある平野の意)。もともとは,ヴルフボスナと呼ばれた小さな砦であったが,15世紀中葉に#オスマン帝国#によって征服され,16世紀に#デヴシルメ#出身のボスニア州知事ガージー・ヒュスレヴ・ベグ(1541没)の時代以来,アドリア海とバルカン内陸部を結ぶ商業都市として,また近隣の山岳部から産出される銅・鉄などを原料とした手工業都市として発展した。征服前,東方教会に属していた住民の多くが征服後イスラムに改宗したために,この町はバルカン有数のイスラム文化の中心ともなった。1908年にオーストリア・ハンガリー帝国に併合されたが,住民の約33%はムスリムであり,#モスク#やバーザールなどが数多く残り,イスラム都市の特徴を保っている。しかし,92年以後のボスニア紛争によって,これらの文化遺産の多くが破壊された。,(永田雄三) 37400,じゅうたん,ジュウタン,q<印78E6>l<印77F5>,,羊毛を主たる材料としたパイル織(立毛式)の敷物。その起源は先史時代にさかのぼり,羊毛の供給源である羊を飼い,テント内の敷物が必需品であった遊牧生活にある。しかしじゅうたんは,後に農村や都市でも生産されるようになり,芸術性が高まった。染め,デザイン,織りに長い経験を積んだ優秀な#職人#たちの手により,都市の工房で織られたじゅうたんは,宮殿・一般家屋の床に敷かれ,祭礼の時には敷物・垂れ幕として使用されるほか,#モスク#内の礼拝室にも,ムスリムによって寄進された大小さまざまなじゅうたんが敷かれている。パイル織じゅうたんの最古の例は,アルタイ山脈東部のパジリク出土(紀元前5〜前3世紀)のペルシアないし中央アジア産と考えられるもので,パイル織の技術がすでに高い水準にあったことを示す。16世紀#サファヴィー朝#以前のイスラムじゅうたんについては残存例が少なく,15世紀ペルシアのミニアチュール,あるいは同時代のイタリアやフランドルの絵画に見られるじゅうたんの克明な描写が参考になっている。素材としては,羊毛のほか,絹や木綿が用いられることもある。織機には,地組織の経糸を水平に張る水平機と,垂直に張る竪機があり,前者は主として移動を常とする遊牧民が用いた。パイル織の特色は,平織と異なり,デザインに従って経糸2本に色糸を絡め,色糸の末端を小刀で切った後にはさみでパイルを切りそろえることにある。色糸の結び方には,ペルシア(センネ)結び,トルコ(ギョルデス)結びなどがある。じゅうたんは,形,寸法,生産地,文様によって分類されるが,イスラム世界においては,イラン(ペルシア),トルコ,カフカス,トゥルクメンが主要な産地である。また,じゅうたんは装飾文様により庭園文,狩猟文,動物文,メダイヨン,幾何文,聖樹文,花文,パルメット文などに分類される。中でも,イスラムじゅうたん独特の文様として#ミフラーブ#文があげられる。このミフラーブを図案化したアーチ形の文様のあるじゅうたんは,サッジャーダ(アラビア語),あるいはジャーイナマーズ(ペルシア語),ナマズルク(トルコ語)と呼ばれ,主として,ムスリムが#礼拝#を行う場合に床または地面に敷いて用いる。また,庭園文や草花文は,イスラムの楽園思想を反映していると考えられている。,(杉村棟) 37600,シュウービーヤ運動,シュウービーヤウンドウ,Shu<印78FE><印7CF3>b<印77F5>ya,,#アッバース朝#初期の8世紀から9世紀にかけ,アラブと非アラブとの平等を主張したイスラムの文化運動。その担い手は,大部分がイラン系の新改宗者からなる#カーティブ#(書記)で,彼らはイスラム教徒の平等を説いたコーラン49章13節を拠り所とし,そこに記されたシュウーブ(民族,単数形はシャーブ)を自らの呼び名とした。彼らは#アダブ#文学作品の著者でもあり,それを武器としてアラブ文化に対する伝統的イラン文化の優越を主張した。H.ギブはこの運動の本質を,当時のカーティブがイスラム帝国の政治・社会制度と価値観とを,彼らの理想としたササン朝のそれに置き換えようとしたものとみる。したがってイスラム文化への重大な挑戦であったが,#ジャーヒズ#らの努力により,アラブの民族的伝統とイスラムの価値観とを結びつけるアダブ文学作品が多く著され,人々がアラブ人文主義の真価を再発見するようになると,この運動はしだいに下火となった。,(嶋田襄平) 38600,職人,ショクニン,,,厳格な身分制をもたないイスラム社会では,遊牧民,農民,#商人#,職人は必ずしも固定した階層観念としてとらえられてこなかった。しかし,高度な手工業生産の技術は,#都市#の職人に固有なものであるという考えはあり,それから職人に高い評価が与えられ,職人のほうでも強い自意識をもつということはしばしばみられた。たとえば,#イブン・ハルドゥーン#は農民・遊牧民の住む「田舎の社会」には生活必需品をつくる貧しい技術しかなく,それに対して都市には奢侈品を生み出す豊かな文化があるといっているが,彼が都市に住む職人を高く評価していたことがうかがえる。職人が独特の集団意識をもつことがあった例としては,カイロのそれをあげることができる。ここに昔から住む生粋の市民は19世紀になると,イブン・アルバラド(町の子)という意識を強烈にもつようになった。これは,都市に流入する農民(ファッラーフ)と自己を対置させて出てきた観念である。しかし,それは必ずしも農民への敵視から生まれたものではなく,むしろ伝統経済の没落によって自己の存在基盤を侵されるようになったという危機感が,彼らを駆り立て,理想的なあるべき都市民,職人としての倫理観念の追求に向かわせたのである。
 7〜9世紀のイスラム初期における職人の特徴は,奴隷的に支配者に従属するでもなく,また反対に自治的な組織をつくるというのでもなかった。彼らは,都市のバーザール地区で同業者ごとに店舗・仕事場を構え,政府のゆるい統制下に置かれていた。
 13〜16世紀に職人は,#フトゥーワ#という特定の守護聖者への信仰を核に集まる一種の宗教組織をつくるようになる。フトゥーワは同業者で組織され,加入儀礼があるばかりでなく,徒弟→職人→親方という順に昇進していく際に試験と通過儀礼を施した。各フトゥーワの間には,社会的評価に高低があり,低いものは古い時代の守護#聖者#と関係をもっていなかった。通過儀礼にも差があった。エジプトの茶こし職人のフトゥーワは低くみられていたが,職人試験の時に行われるシャッド儀礼は,腰に締める帯の結び目が三つで,普通より少なかったといわれる。これに対して社会的評価が高い医者,床屋,本屋,商人のフトゥーワは著名な守護聖者をもち,商人の場合,それは預言者ムハンマドとされた。
 17世紀以降,フトゥーワが世俗化し,職人#ギルド#となっていく。#オスマン帝国#のもとで,職人は行政・徴税の単位としてのギルドに編成され,同時に特権化していった。成員資格に制限が加えられ,店舗・仕事場の賃借権に株(ゲディク)を設定して排他性を強めた。これによって職人世界に世襲の風が広まり,技量の優劣に関係なく,親方の子弟はギルドの成員権を独占することができるようになったのである。
 19世紀になると職人のヒエラルヒーは崩れ,通過儀礼も実施されなくなっていく。エジプトの場合,弟子入りの儀礼,見習期間後の誓約儀礼,職人試験に相当するシャッド儀礼は,いずれも行われなくなった。親方になる資格審査と,それに伴う儀礼は残っていたが,実際には親方の地位は家族内で世襲されるのが普通で,有名無実化していた。しかしギルドに対する貴賤の観念は残っており,農民やヌビア人がつくったギルド,たとえば料理人のそれなどは低く評価されていた。
 職人による伝統的な手工業生産は,19世紀後半には衰退する。エジプトの場合,#ムハンマド・アリー#が行った官営工業化政策によって,軍事・印刷・織物の近代工業が興され,全体に占める比率は30%ほどに落ち込んだ。トルコ,イランでは,イギリスのマンチェスター産の綿布輸入などによって綿製品関係の手工業とそれに携わる職人は打撃を受けた。→市,ギルド,フトゥーワ,(坂本勉) 39600,スカンデルベグ,スカンデルベグ,Gjergi Kastoriot Sk<印73E5>nderbeg,ca.1404〜68,中世アルバニアの民族的英雄。北アルバニアの豪族ギオン・カストリオトの第4子として生まれ,1430年ごろ,父が#オスマン帝国#の宗主権を受け入れたため,当時の慣習にのっとって兄たちとともにオスマン宮廷に人質として預けられ,そこでイスラムに改宗し,侍従として仕えた。勇気があり武勇に優れていたところから,アレクサンドロス大王の名にちなんで,スカンデルの名を与えられ,軍司令官(ベグ)として従軍した。37年ごろ,父の領地にティマール(軍事封土)を与えられ,シパーヒー(騎士)として故郷に戻った。43年,オスマン帝国軍がハンガリーの民族的英雄フニャディ・ヤーノシュとの抗争に忙殺されている間をついて民族独立を求めて反乱を起こし,キリスト教徒に再改宗して北アルバニアを統一した。以後25年の間,ナポリ王国,ローマ教皇,ヴェネツィアなどの援助も得て,オスマン帝国軍から国土を守った。68年に彼が病没すると,アルバニアは再びオスマン帝国に併合されたが,彼の抵抗は民衆の間に語り伝えられた。19世紀以後,オスマン帝国からの独立を求めて民族思想が高まると,スカンデルベグはアルバニアの民族的英雄として叙事詩や伝記の主人公となった。とくにアルバニア国民文学の創始者といわれるナイム・フラシャリの《スカンデルベグ物語》(1896)やファン・ノリの《スカンデルベグの歴史》(1921)は#アルバニア人#の統合に大きな役割を果たした。,(永田雄三) 40500,スルタン,スルタン,sul<印73F3><印78E6>n, sultan,,11世紀以後,主として#スンナ派#イスラム王朝の君主が用いた称号。古代シリア語のシュルターナー(権力,権力者)に由来する。コーランではこの語は精神的・呪術的な権威を表すものとして用いられた。その後#ハディース#やアラビア語文献史料で政治的権威を示す語として使われ始め,11世紀以後になって王朝の支配者の称号として使用されるようになった。しかし,イスラム世界(#ウンマ#)には,その長として#カリフ#が存在する。このため#セルジューク朝#,#ルーム・セルジューク朝#,#マムルーク朝#など「スルタン」の称号を用いた支配者の多くは,カリフからこの称号を授けられる形式をとった。つまり,イスラム世界の精神的な長であるカリフから,特定地域(王朝の支配領域)における世俗的な政治権力を委任されるという手続をふんだのである。イスラム諸王朝には,主権者を表す語として,このほかに#アミール#などの称号が存在したが,スンナ派イスラムの最大の軍事的・政治的擁護者としての「スルタン」の権威をイスラム世界に広く認めさせたのは,#オスマン帝国#(1299〜1922)である。これに対してイランにおけるシーア派の#サファヴィー朝#では,君主の称号に「#シャー#」を使用した。
 オスマン朝におけるスルタン位は,1396年の#ニコポリスの戦#の後,バヤジト1世がカイロにいたアッバース朝カリフの末裔からスルタン位を授けられたことに始まり,オスマン王家によって世襲された。その方法にとくに規則は存在しなかったが,事実上,16世紀末までは親から子,17世紀以後は一族の年長者によって相続が行われた。また,王位継承争いを防止するために,#メフメト2世#は,即位後に「兄弟殺し」を合法化させた。17世紀初頭にアフメト1世は,王子が地方行政官として派遣されて支配者としての経験を積む方式を廃止して彼らをトプカプ宮殿内の一室(#ハレム#)に隔離・教育した。このことはスルタンの行政能力の低下,軍人・官僚・ハレムなどの側近による執権政治への移行をもたらした。1517年にエジプトを征服してアラブ世界を支配下に収めて以来,オスマン朝のスルタンは,事実上スンナ派イスラム世界の盟主としての地位を獲得した。その威光は遠く中央アジア,インド,東南アジアにまで及んだ。ただし,オスマン朝の年代記など文献史料では,スルタンよりも「パーディシャー」「ヒュンキャール」がよく用いられた。しかし,勅令など公式文書では「スルタンたちのスルタン」を号した。18世紀末以後,オスマン朝がヨーロッパ諸列強の軍事的・政治的圧迫にさらされると,スルタンが同時にカリフを兼ねるという主張が現れた。しかし,この主張はトルコ革命によって逆手にとられ,1922年にスルタン位とカリフ位とが分離されて前者が廃止されることによってオスマン朝を滅亡に導いた。
 また,この称号は西アジア以外でも,東南アジアやアフリカのイスラム系王朝・首長国などでも,支配者の称号としてしばしば用いられただけでなく,さらに一般的にイスラム諸国の王家の一員,高官,学者,詩人,名士,神秘主義諸教団の長老などの固有名詞の前に尊号として付けられた。オスマン朝でもオスマン王家の女性たちの名に冠せられた。現代中東ではオマーンの君主がスルタンの称号を用いている。,(永田雄三) 40800,スレイマン〔1世〕,スレイマン,S<印7EF3>leyman,1494〜1566,#オスマン帝国#第10代のスルタン。トルコでは立法者(カーヌーニー),欧米では「壮麗者」とも呼ばれる。在位1520〜66。彼の時代に帝国は最盛期を謳歌し,その領土はアジア,アフリカ,ヨーロッパ3大陸にまたがり,東地中海一帯を覆う大帝国となった。在位中,13回の親征を行ったが,とりわけ1529年のウィーン包囲攻撃はヨーロッパ諸国の心胆を寒からしめた。地中海においては1522年にロードス島の聖ヨハネ騎士団を放逐して地中海の制海権を掌握し,インド洋ではポルトガルと覇権を争った。また,フランスのフランソワ1世や神聖ローマ帝国のカール5世らとともに当時のヨーロッパ政局に大きな発言力をもった。国内では帝国の中心部に位置するアナトリアとバルカンにおいて検地を行って国有地原則に基づく小農民的土地保有を柱とする#ティマール制#を確立し,また,法制・行政機構・軍制の各制度や公共事業を充実させ,トルコ・イスラム文化を領内に広めた。晩年は妃#ヒュッレム・スルタン#の政治介入を許して,宮廷・官僚機構の腐敗の原因をつくり,王位継承争いによって王子たちの多くを死に追いやった。,(永田雄三) 41800,セリム〔1世〕,セリム,Selim,1467〜1520,#オスマン帝国#第9代スルタン。冷酷者とあだ名された。在位1512〜20。父はバヤジト2世,母はアイシェ・ハトン。アナトリアのアマシアで生まれた。皇子時代トラブゾン知事となる。そのころ#クリム・ハーン国#と結んで着々と地盤を固めた。#イエニチェリ#の信望甚だ厚く,彼らに擁立されて1512年父帝を退位させてスルタンに即位した。8年間の短い治世におけるおもな事績は,イラン・アラブ地域への征服事業であり,1514年に行われたイランの#サファヴィー朝##イスマーイール1世#に対する遠征では,チャルドラン近くで勝利を収めた。16〜17年に行われたエジプトの#ブルジー・マムルーク朝#のスルタン,ガウリーに対する遠征では,アレッポの北マルジュ・ダービクで勝利を収め,シリアからエジプトにいたる地域を属領化した。あわせてマムルーク朝の保護下にあったメッカ・メディナの両聖都を支配下におき,「イスラムの盟主」の地位をえた。ロードス島攻略を準備中に没した。彼は詩人としての側面もあり,学術にも関心をもち,史書を愛好した。,(三橋冨治男) 42100,千夜一夜物語,センヤイチヤモノガタリ,,,原名はアルフ・ライラ・ワ・ライラ。《アラビアン・ナイト》としても知られる。ササン朝時代にパフラヴィー語で書かれた《千物語》(ハザール・アフサーナ)はインド説話の影響の強いもので,一つの枠物語の中に多数の説話を入れたものであった。8世紀後半ころ,バグダードでアラビア語に訳され《アルフ・フラーファート》(千物語)と呼ばれた。やがてイスラム思想に染め上げられて《アルフ・ライラ》(千物語)と呼ばれるようになった。現存する最古の写本の断片は,879年を最下限とするものである。12世紀ころ《アルフ・ライラ・ワ・ライラ》(千夜一夜)という名となったらしく,初めはバグダードを中心に多くの物語を取り入れ,1258年にバグダードが兵火にかかった後は,カイロでさらに多くの物語を加えた。1517年#マムルーク朝#が滅亡したころは現在の形を整えていたものと推察される。18世紀初め,フランスのA.ガランが初めてヨーロッパに紹介して以来,世界文学の名作の一つとなった。メルヘン,ロマンス,逸話,旅行談,教訓談,寓話などさまざまのジャンルの物語数百を含み,千数百の詩も入っている。多数の作者の手を経たらしいが,いくつかの詩のほかは,原作者の名は不明である。日本では,明治8年(1875),永峯秀樹が《開巻驚奇・暴夜(アラビア)物語》と題して英訳から重訳したのが最初で,E.W.レーン,R.F.バートン,J.C.マルドリュスらの英訳または仏訳からの重訳が行われてきた。平凡社東洋文庫版《アラビアン・ナイト》は,カルカッタ第2版,ブーラーク版などに拠る,日本で最初の原典からの全訳である。,(前嶋信次) 44000,タバータバーイー,タバータバーイー,<印75E7>ab<印78E6><印73F3>ab<印78E6>'<印77F5>,1843〜1921,#イラン立憲革命#期(1905〜11)のテヘランにおける指導的立憲派#ウラマー#の一人。代々続いた#ムジュタヒド#の家柄に生まれた。シェイフ・ハーディー・ナジョムアーバーディー,ミールザー・ハサン・シーラージーらに師事し影響を受けた。イスラム復興のために啓蒙教化活動の必要を説き,自ら新方式のイスラミーエ学院を開設。第1議会(1906〜08)にはアルメニア人を代表して議席を占めた。,(八尾師誠) 45500,ダール・アルフヌーン,ダール・アルフヌーン,d<印78E6>r al-fun<印7CF3>n,,「学芸の館」を意味するアラビア語で,一般には,近代的な高等学術技芸機関にあたるものを指す。#オスマン帝国#ではイスタンブル大学の前身にあたる。1870年創立。自然科学,外国語,医学,近代法学などを教科目とする総合的なもので,帝国有数の学者のほか,フランス,ドイツなどから多数のお雇い外国人が招かれた。宗教教育を中心とした#マドラサ#出身者とは異なる近代的学者・官僚を多数輩出し,トルコの「近代化」に大きな役割を果たした。,(永田雄三) 45600,ターレガーニー,ターレガーニー,<印75E7><印78E6>leq<印78E6>n<印77F5>,1910〜79,イランのターレガーンの出身。聖都コムのラザヴィーエ,フェイジーエ両学院で学んだ後,セパフサーラール学院で教鞭をとった。第2次世界大戦ころから公然と反政府活動を行い,逮捕・投獄・追放を繰り返した。この間,1961年には#バーザルガーン#らと「イラン自由運動」を組織。#イラン革命#に際してはテヘランの#ウラマー#のリーダーとして指導的役割を果たした。,(八尾師誠) 45900,タンジマート,タンジマート,Tanzimat,,#オスマン帝国#史上,1839〜76年における一連の西欧化改革運動およびその諸成果をいう。恩恵的改革を意味するタンジマーティ・ハイリエの略。18世紀末以後,オスマン帝国は,地方勢力の伸張,被支配諸民族の独立運動,ヨーロッパ諸国の軍事的・政治的圧迫などの結果,帝国解体の危機に直面していた。1839年11月,スルタンのアブデュルメジト(在位1839〜61)は,外相ムスタファ・レシト・パシャに起草させた「ギュルハネの勅書」を発布して,帝国の危機を救い,#スレイマン1世#(在位1520〜66)時代の繁栄を取り戻すべく,広範な改革政治を実施することを宣言した。勅書では,イスラム教徒・非イスラム教徒を問わず帝国内全臣民の法の前における平等,全臣民の生命・名誉・財産の保証,裁判の公開,徴税請負制(イルティザーム)の廃止,徴兵制の改善などが約束された。以後この勅書の主旨に沿って一連の改革が行われ,その結果,帝国の中央および地方行政,教育,法律など各分野における諸制度は大幅に西欧化され,帝国は神権的なイスラム国家から法治主義的な近代国家へとその国家レベルの機構を一新した。ただし,これらの改革も地方では徹底されず,とくにバルカンでは不満が増大して民族運動が激化し,このためヨーロッパ諸国の干渉を誘発して,53年クリミア戦争を勃発させることになった。一方,1838年のイギリス・トルコ通商条約以後,ヨーロッパ工業製品の中東への流入は激増し,土着の産業は大きな打撃を受けた。54年以後のたび重なる外債は75年になって帝国財政を破産させた。タンジマートは,結局,国家的諸制度の「近代化」を促進したが,その成果は同時にヨーロッパ諸国の帝国に対する経済的進出,すなわち帝国の経済的植民地化を促進するものともなった。このため,1860年代末以後改革はしだいに後退し,70年代に入ると,スルタンのアブデュルアジーズ(在位1861〜76)は専制化した。これに対して#ナムク・ケマル#,#ミドハト・パシャ#ら「新オスマン人」による批判が強まり,76年に「ミドハト憲法」が発布されてオスマン帝国は第1次立憲制を迎え,タンジマートは終息した。,(永田雄三) 47500,デヴシルメ,デヴシルメ,Dev<印7DE3>irme,,#オスマン帝国#が支配下のキリスト教徒,具体的にはアルバニア,ギリシア,ブルガリア,セルビア,ボスニア,ヘルツェゴヴィナ,さらにはハンガリー方面のキリスト教徒農民の男童・少年を対象として,「カヌーヌ・デヴシルメ」と称する特定の法規に基づき,所定の手続をふんで,不定期に必要数の徴用を行う制度。徴用目的は将来オスマン王家に専従・奉仕する宮廷使用人や,吏僚ないし#イエニチェリ#軍団の要員を補充するための必要措置であった。デヴシルメは頻度の差こそあれ15世紀以後,約2世紀半継続実施された。やがて徐々にではあるが,アナトリア方面のキリスト教徒従属民も対象範囲に入ったようである。徴用条件には一定の基準年限があり,概略7〜8歳から10歳,時に14〜15歳,まれに17〜18歳くらいまでの男童・少年が対象となった。徴用は40戸のうちから1戸の割合で,身体強健,眉目秀麗,頭脳明晰と思われる者を対象に行われた。家族構成が多数の場合は息子の一人が,二人息子の場合にはそのうちのより優れた一人が徴用された。資格基準として,背丈は高からず低からず,中肉中背の者が標準とされた。ただし,孤児・片親・既婚者,世間ずれした者,ないし#ユダヤ教#徒の息子などは除外された。被徴用者はクズル・アパと呼ばれる赤い特定の道中衣装をまとい,先端の尖った円錐帽を着用し,まとめて首都イスタンブルに護送された。護送に要する経費と道中衣装費は,男童の所属する村落負担であり,首都までの途中滞在費は各地地元民の現物負担でまかなわれた。首都に到着すると,徴用男童はイスラムに強制#改宗#のうえ,それぞれの適性に応じて知的ないし身体的訓練を受けて各種の役務に使用された。たとえば,眉目秀麗・容姿端整で知的活動に適すると判断された者は,宮廷用務に服させるために選抜されて他の者から分離され,イチ・オーラン(近侍童の意)と呼ばれた。イチ・オーランには,将来宮廷吏僚の地位が約束されていた。後に残った身体屈強な者はトルコ語習得と身体鍛練のため一時身柄をトルコ人の村落農戸に預けられ,その後,必要に応じてアジェミー軍団などに引き取られた。この中からイエニチェリが生まれた。しかし,16世紀末ごろから17世紀にかけて,この制度の運営方式は崩れ始め,1703年の徴用令を最後に完全に放棄された。,(三橋冨治男) 47700,手形,テガタ,,,スフタジャ(#為替#手形),ルクア(約束手形),チェックまたはサック(小切手)など各種信用証券の総称。貨幣と他種の貨幣をその場で交換する単純な#両替#と異なり,現実に受け取った貨幣またはその対価物と交換に証券を与え,これを媒介として支払をするのが手形決済である。ルクアは証券の振出人が自ら証券記載の金額を支払うことを約束した信用に基づく借金証書である。バラートは指定地域の税金を担保とし,徴税官を支払責任者に指名した「持参人払いの指図式約束手形」で,政府振出しの借用証書(公債)である。スフタジャは振出人が第三者を支払人に指定し,他地にある受取人あてに送る送金手形である。ペルシア語のチェック,アラビア語のサックは,金融業者(ジャフバズ)に財物を寄託した預金者が振り出して預託金を引き出す「支払指図書」のことで,現今ヨーロッパ諸語で小切手を表す語は,イスラム商業用語チェックにさかのぼることができる。,(佐藤圭四郎) 49300,トルコ学,トルコガク,,,トルコ系諸族の言語・歴史・文化を扱う学問。欧米におけるトルコ学は,古代以来,西アジアや中央アジアを訪れた旅行家・地理学者・外交使節がトルコ諸族の特異な風俗・習慣をヨーロッパ世界に紹介することに始まった。13世紀末のマルコ・ポーロの《東方見聞録》などがその代表である。15〜16世紀以後,オスマン帝国とヨーロッパ諸国との外交・貿易関係が緊密になると,旅行家・外交使節による報告もしだいに学問的・体系的になり,風俗・習慣ばかりでなく,#オスマン帝国#の宮廷制度,国家機構,法制度および社会・経済機構全般に及ぶようになった。16世紀のO.G.de ビュズベク,17世紀のP.リコー,18世紀のI.M.ドーソンらの報告・研究があげられる。しかし,トルコ学を近代的学問の基礎の上に築いたのは,オーストリアの外交官・東洋学者#ハンマー・プルクシュタル#であった。彼が年代記や古文書のトルコ語史料を駆使して書き上げた《オスマン帝国史》は,今日なお利用価値をいささかも失っていないばかりか,このほかに,《キプチャク・ハーン国史》《イル・ハーン国史》《クリム・ハーン国史》などをも著し,トルコ学・モンゴル学の創始者となった。19世紀末になると,帝政ロシアの中央アジアへの拡大政策,イギリス,フランス,ドイツをはじめとするヨーロッパ諸国の中東への進出が著しくなり,植民地研究の一環としてトルコ学研究は飛躍的に発展した。ロシアのV.V.バルトリド,フランスのR.グルッセなどを代表とする東洋学の勃興とともに,A.バーンベーリ,A.スタイン,P.ペリオらによって西アジアや,とくに中央アジアの探検が行われ,トルコ学の基礎的材料である碑文・文書・文献などの調査・収集がなされ,また民族学的調査が行われ,東洋学関係の研究所や講座がつくられた。しかし,このころ,オスマン帝国内のキリスト教徒諸民族が民族独立運動を組織的に展開し,オスマン帝国がこれを弾圧したために,19世紀末のヨーロッパでは,反トルコ・反東洋的気運がみなぎり,オスマン帝国の建国・発展を,ビザンティン文明の影響およびキリスト教徒の子弟から徴集された#デヴシルメ#官僚の功績に帰する非科学的な研究がみられた。1916年に公刊されたH.A.ギボンスの《オスマン帝国の創建》はそうした世論を代表し,国際的に大きな論議をよんだ。これがきっかけとなって,オスマン帝国起源論争が起こり,ひきつづき第1次世界大戦後には,ドイツを中心に,写本の校訂を中心とする文献学・古文書学・言語学が発展し,封建制度論をはじめとする個別研究が進展した。オスマン帝国起源論争は,また,トルコ人自身の手によるトルコ学研究の発達を促した。
 トルコ人によるトルコ学研究は,その起源を11世紀のカーシュガリーによる《テュルク語語彙集》にまでさかのぼることができるが,19世紀末の民族主義思想の発展とともに,その担い手である#ジヤ・ギョカルプ#らによって確立された。1908年の「#青年トルコ#」革命後発行された《母国トルコ》誌を通じて活動したユスフ・アクチュラ,アフメト・アーオウルら,中央アジアから亡命したトルコ人の役割が大きかった。歴史学の分野では,ギボンスに代表されるヨーロッパ歴史学界におけるオスマン帝国の「ネオ・ビザンティン帝国」説に対する反論を通じて,ファト・キョプリュリュや#トガン#らによってトルコにおける近代歴史学の基礎がつくられた。23年にトルコ共和国が成立すると,その初代大統領#ケマル・アタテュルク#の主唱でトルコ歴史学協会(1931),トルコ言語学協会(1932)がつくられるなど,トルコ学の組織化が進んだ。第2次世界大戦後,トルコ学の国際化が進み,47年にイスタンブルに国際東方研究協会が設立されて,機関誌《オリヤンス》が発行されるようになり,また,51年にイスタンブルで開催された第21回国際東洋学者会議の決定によって《トルコ学総覧》が出版された。戦後のトルコ学研究の特徴は,戦前のイギリス,フランス,ドイツを中心とした言語学・文献学・歴史学的研究に加えて,中東政策に力を入れるアメリカの研究者(ただしその多くは中東・バルカン・ヨーロッパ出身者)の台頭が著しく,政治学,社会学,人類学,経済学など多様なアプローチがなされるようになったことである。また,トルコ学のあらゆる分野においてトルコ人研究者が主導権を握るようになった。
 日本におけるトルコ学研究は,中国研究の一環として始まり,漢文文献を利用したことから,イスラム化以前の中央アジア古代トルコ民族研究を主体とする。日露戦争以後,日本の大陸進出政策が展開されると,中国西北,旧満州(現,中国東北),モンゴリア方面におけるトルコ系民族の民族学的調査が行われるとともに,#トルコ革命#の影響もあって西アジア・トルコ学が進展し,大久保幸次の回教圏研究所がその中心となった。しかし,これらの研究および研究機関は政府や軍部の大陸政策と密接に結びついていたため,敗戦後トルコ学研究は一時中断した。,(永田雄三) 49400,トルコ革命,トルコカクメイ,,,第1次世界大戦後のトルコ人による祖国解放運動,およびその結果成立したトルコ共和国における一連の改革。ただし,後者のみを指す場合もある。#オスマン帝国#が第1次世界大戦に敗北すると,アナトリアはイギリス,フランス,イタリアおよびギリシアの占領下に置かれ,民族的独立を脅かされた。トルコ人は各地にパルチザン運動を組織してこれに対する抵抗を開始。やがて#ケマル・アタテュルク#が,1920年4月23日にアンカラに「トルコ大国民議会」政府を樹立してこれらの運動を統合し,連合国の側に回ったオスマン帝国のスルタン政府に対して,公然と反乱。連合国は同年8月10日,スルタン政府との間にセーブル条約を締結してトルコ分割案を具体化した。ここにいたってトルコ国民は,「トルコ大国民議会」政府の側に結集し,スルタン政府軍(カリフ擁護軍)を破り,北東アナトリアのダシナク派#アルメニア#人勢力を壊滅させ,南東アナトリアのフランス占領軍を圧迫し,22年9月9日には,西アナトリアを占領していたギリシア軍をアナトリアから追放することに成功した。これによって祖国解放運動が勝利すると,アンカラ政府は,同年11月1日にオスマン朝のスルタン政府を#スルタン#制と#カリフ#制とに分離して前者を廃止した。その結果,オスマン朝のスルタンは国外に亡命し,ここにオスマン朝は滅亡した。ただし,カリフにはオスマン王家の一員が「トルコ大国民議会」によって選出された。23年7月23日,アンカラ政府は連合国との間にローザンヌ条約を締結し,セーブル条約を廃棄させてトルコの独立を国際的に承認させ,あわせて関税自主権の回復,治外法権の撤廃,オスマン債務管理局およびフランス系タバコ専売公社の廃止など,19世紀以来の経済的植民地体制を清算することに成功した。同年10月29日,アンカラを新首都としてトルコ共和国が宣言され,ケマル・アタテュルクがその初代大統領に選出された。
 これに対してイスタンブルでは保守勢力がカリフを国家元首とすべきことを主張して,ケマル・アタテュルクの独裁を批判した。「トルコ大国民議会」は,24年3月3日にカリフ制の廃止,オスマン王家の全成員の国外追放,#シャリーア#および#ワクフ#省の廃止,#マドラサ#の閉鎖による世俗的学校教育への一本化を含む法案を可決し,4月1日にはシャリーアに基づく宗教法廷をも廃止した。25年初頭に,カリフ制およびシャリーアの復活を要求して東部アナトリアにクルド族の反乱(#シェイフ・サイトの乱#)が起こると,政府は治安維持法を制定してこれを鎮圧し,さらに同法の有効期間を29年3月まで延長して,この間に,神秘主義諸教団(#タリーカ#)の修道場(テッケ)・廟の閉鎖,トルコ帽の着用禁止,一夫多妻制の禁止などを含む新市民法の制定,#ヒジュラ暦#の廃止とグレゴリオ暦の採用,#アラビア文字#の廃棄と新トルコ文字の採用(#文字改革#)など一連の#世俗化#政策を実施し,28年4月には#憲法#における「イスラムを国教とする」条文を削除した。経済面では,当初,トルコ人の民族資本による私営企業の振興に努めたが成功せず,29年以来の世界恐慌を契機として,国家資本による国民経済の創出政策に転じ,外国系特権企業・鉄道の買収と新たな国営企業・鉄道・道路・港湾施設の建設とに努め,そのための金融組織をつくり出すためにトルコ中央銀行(1930年6月)をはじめとする各種の国立銀行を設立した。これらの政治・経済諸改革によって,30年代のトルコは,自立的な国民経済をもつ世俗的なトルコ民族国家となり,トルコ革命は一応その目的を達成した。
 革命を導いたイデオロギーは,オスマン帝国時代の#オスマン主義#,#パン・イスラム主義#,#トゥラン主義#を清算してアナトリアに住むトルコ人の救済を目的とした,地縁的なトルコ民族主義に求められた。しかし革命に参加した人々の多くは,これをイスラムの宗教運動としてとらえていたために,解放達成後,保守的な#ウラマー#,知識人,軍人が,ケマル・アタテュルクを党首とする人民党(1923年9月創立,24年11月共和人民党と改称)と対立してカリフ制擁護を主張すると,人民党による改革はいっそう非宗教的傾向を強めた。祖国解放運動の軍事的側面は青年将校・職業軍人が指導したが,運動の経済的・社会的組織化には,ウラマー,地主,民族資本家が大きな役割を果たした。このうち,ウラマー層は共和国初期の世俗化改革によって経済的・社会的基盤を根こそぎにされて力を失った。その結果,1920〜30年代を通じて,地主,民族資本家の立場が強化された。また,ソヴィエト・ロシア政府が早くからトルコの祖国解放運動支持を表明していたこともあって,一時期革命派内部に共産主義運動が高揚し,「緑軍」と呼ばれるイスラム共産主義組織も結成されたが,1920年代末以後,革命指導部は共産主義運動弾圧の方向に転じた。革命はケマル・アタテュルクの強力な指導と共和人民党の独裁のもとに,主として都市のエリート層によって遂行された。第2次世界大戦後,複数政党制に移行すると,宗教政策・国家資本主義などをめぐって保守的知識人,地主,企業家などによる共和人民党に対する批判が強まり,民主党が政権をとると,革命は後退した。,(永田雄三) 49600,トルコ族,トルコゾク,T<印7EF3>rk,,現在,中央アジア,シベリア,西アジア,ヨーロッパの一部に住み,アルタイ語系の#トルコ語#(テュルク語)を主要言語とする民族。その起源については明らかではないが,紀元前3世紀ごろに「丁零」(テュルク)の名でバイカル湖の南方に現れ匈奴に服属していた。その後,高車・鉄勒・勅勒などの名で中国の史書に現れた。6世紀の中ごろに勃興した突厥は,アルタイ山脈を中心にモンゴリアから中央アジア北部の草原地帯にかけて遊牧帝国を築いた。このころのトルコ族の基本的信仰形態は,シャーマニズムであった。9世紀の中ごろ,モンゴリアの東突厥の支配下にあった#ウイグル#が,同じトルコ系でさらに北方にいたキルギスに圧迫されて南下し,また一部は西方へ移って中央アジアのオアシス地帯へ移住して定住生活に入った。これを契機として,中央アジアの先住民であったアーリア系諸民族はトルコ化され,以後中央アジアは「トルキスタン」(トルコ人の地)と呼ばれるようになった。これと同時にウイグルは,当時中央アジアに影響を及ぼしつつあったイスラムを受け入れ,10世紀半ばにはトルコ族による最初のイスラム王朝#カラ・ハーン朝#を立てた。これによって中央アジアのトルコ化・イスラム化が決定的となった。一方,これとは別に,中央アジアのシル・ダリヤ北方でまだ遊牧生活を送っていたオグズと呼ばれるトルコ族の一派が南下してホラーサーンに入り,#セルジューク朝#を建国し,さらに1055年には,バグダードを攻略して#シーア派#イラン系の#ブワイフ朝#を放逐し,西アジア・イスラム世界に#スンナ派#の信仰を回復し,同時に中東におけるトルコ族の政治的支配権を確立した。11世紀以後,オグズ族はさらにアナトリア,#バルカン#に進出し,#オスマン帝国#を築き,現在はアナトリアを中心にトルコ共和国をつくっている。中央アジアでは17世紀以後,ヒバ,ブハーラー,ホーカンドの3ハーン国をつくった#ウズベク#のほか,カザーフ,キルギス,#トゥルクマーン#,アゼリーなどのトルコ諸族がロシアで共和国を構成しており,また,中国の新疆ウイグル自治区の住民の大多数もトルコ族である。
 9世紀以後の中央アジアにおいて,トルコ族の多くは,西アジアから訪れたムスリム商人との取引や日常的つき合いを通じてイスラムに#改宗#したが,それとともにこれらムスリム商人によって#奴隷#として購入された後,#アッバース朝#の傭兵となることによって西アジアに入りイスラム化した者たちも多かった。彼らは中央アジアの草原地帯の遊牧騎馬民として優れた戦闘能力をもっていたため,身分的には奴隷出身とはいえ,やがて軍閥化して独立の王朝を開く者が続出した。アフガニスタンの#ガズナ朝#や西北インドの奴隷王朝がその例である。またセルジューク朝やオスマン朝のように,比較的遅くまで遊牧生活を続けていた者が王朝を開いた場合にも,その優れた軍事力によって,イスラム世界の国境拡大に大きな役割を果たした。とくにオスマン朝はアナトリアからバルカン,東ヨーロッパの一部をイスラム化し,ビザンティン的世界の消滅と東方キリスト教に対するイスラムの勝利とを実現し,その中心地であるコンスタンティノープル(#イスタンブル#)をイスラム世界に獲得させた。トルコ族の軍事力はイスラム世界の拡大ばかりでなく,イスラム圏内における軍人支配の伝統をつくり出した。それはセルジューク朝における軍事#イクター#制やオスマン朝の#ティマール(軍事封土)制#に典型的にうかがわれる。つまり,トルコ族はその卓越した軍事力をもって西アジア・イスラム世界の政権を握り,オスマン帝国の出現を待って,8世紀以来失われていた西アジア・イスラム世界に政治的統一をもたらし,さらにこれを東地中海世界全体に拡大したのである。一方,トルコ族のイスラム受容は,イスラムの信仰形態や社会組織に多様性をもたらした。この点で重要なのは,トルコ系の遊牧民や農民がイスラムに改宗する場合に,法学者たちの説く教義的に整った厳格なイスラムを通してではなく,#スーフィー#たちが説く直観的で感情的な#神秘主義#にひかれて改宗したことである。このことは彼らが本来信仰していたシャーマニズム―すなわちシャーマンと最高神・諸精霊との忘我的合一を特徴とする―の習俗や儀礼を維持したまま,イスラムに改宗することを可能にした。その結果,トルコ族の改宗が進んだ12世紀以後のイスラム世界では,中央アジア,ホラーサーンを中心に神秘主義諸教団(#タリーカ#)が相次いで成立し,その儀礼や修行の中にはトルコ族およびモンゴル族のシャーマニズムが流れ込んだ。しかも,そのようにして発達した神秘主義は,トルコやモンゴルの習俗のみならず,西アジア各地の土着の信仰や儀礼をも取り込んだため,本来きわめて厳格な一神教であり,#偶像#崇拝を断固として拒絶するイスラムの中に,預言者ムハンマドの神格化や#聖者#崇拝をもちこむことになり,非イスラム的・土着的民間信仰との習合が進んだ。アラビア半島の#ワッハーブ#運動はこれに対する抗議である。また,中央アジアに遊牧的・トルコ的文化を生み出したトルコ族が西アジアへ移住してセルジューク朝やオスマン帝国を築いたことにより,西アジア,北アフリカ,東南ヨーロッパにそうした文化を伝播させ,これらの地域に,一つの文化的共通性を与えることにもなった。→トゥラン主義,(永田雄三) 51500,ニコポリスの戦,ニコポリスノタタカイ,Nicopolis,,ニコポリスはブルガリア北部,ドナウ川沿岸の町ニコポルの旧名で,629年にビザンティン帝国によって建設された。1396年,この地で#オスマン朝#の軍隊と,これに対するハンガリー王ジギスムントの率いるフランス・イギリス・ドイツ・イタリア・ポーランドの騎士たちの「ニコポリス十字軍」との間で戦闘が行われた。これに勝利を得たオスマン朝は,その#バルカン#支配を確実なものとし,君主バヤジト1世は,カイロのアッバース家末裔の#カリフ#から#スルタン#の称号を与えられ,王朝発展の基礎を築いた。,(永田雄三) 52400,ヌルジュ,ヌルジュ,Nurcu,,第2次世界大戦後のトルコにおけるイスラム復興運動の一つ。東部アナトリア出身のセイディ・ヌルシーを指導者として,特定の教団(#タリーカ#)に基礎を置かず,全世界のイスラム教徒を組織化の対象とする。ヌルジュとはヌルシーの著作集《光明(ヌール)の書》の学習者・信奉者を意味する。運動の当面の目標はトルコ共和国の世俗化・西欧化された現体制を全面的に否定し,コーランと#シャリーア#とに基づくイスラム国家を樹立することにあるが,アラブ諸国,パキスタン,ドイツなどにも支部をもち,「イスラム世界国家」設立プランをもつともいわれる。1950年代後半以後のトルコ政局に大きな影響を与えたが,71年3月の軍部の政治介入以降は,地下活動を行っている。,(永田雄三) 54700,ハジ・ウマル,ハジ・ウマル,al-<印7CE9><印78E6>jj <印78FE>Umar,1797?〜1864,西アフリカ,セネガル川上流,フータ・トロ地方に生まれたイスラム改革指導者で,1848年から97年まで続いたトゥクロール帝国の建設者。#ティジャーニー教団#の厳格なイスラム教義を学び,23歳の時にメッカ#巡礼#に旅立ち,現ナイジェリア北西部のソコト・カリフ国のムハンマド・ベロ王の娘を嫁にもらい,メッカでは,ティジャーニー教団からブラック・アフリカの#カリフ#として指名された。帰途数年間ソコト・カリフ国のソコトで義父から政治的訓練を受けた後,1840年にフータ・トロに帰り,黙想,自己否定,教主への盲目的従順こそが神に近づく道であると説き,支持者を増やした。54年3月に聖戦(#ジハード#)宣言を発し,バンバラ族を征服して,イスラムに強制的に改宗させ,#カーディリー教団#のイスラム教徒であるフラニ族のマシーナ王国にも攻撃をかけて征服した。63年にはトンブクトゥをも占領したが,トゥアレグ族,フラニ族から攻撃を受けて,ハムダラヒに退却した。64年2月12日,避難中の洞穴が火薬で爆破されて死亡した。,(中村弘光) 55000,パシャ,パシャ,pa<印7DE3>a,,トルコおよびエジプトなど#オスマン帝国#の支配下に置かれた地域で使われた称号。語源については,ペルシア語の「パーディシャー」(支配者),トルコ語の「バシュ・アガ」(兄)などに由来するという説があるが定説はない。13世紀前半ごろから使われ始め,#ルーム・セルジューク朝#やトルコ系諸侯国で,軍事的・宗教的指導者の称号として与えられた。オスマン朝では,主として,ベイレルベイ(州軍政官),首都の#ワジール#(大臣)その他の少数の高官に与えられた称号であったが,時代が下るにつれてこの称号が与えられる範囲は拡大した。オスマン帝国の消滅とともにこの称号は失われたが,共和国時代に将軍クラスの高級軍人に対して1934年までこの称号が許され,以後全廃された。現在,トルコ人民衆の口語として,食堂のボーイや職人に対する呼びかけの言葉としてしばしば使われている。,(永田雄三) 56500,パトロナ・ハリルの乱,パトロナ・ハリルノラン,Patrona Halil,,1718年以後「#チューリップ時代#」と呼ばれたトルコ・イスラム文化の爛熟期を謳歌した#オスマン帝国#治下のイスタンブルにおいて,インフレに悩まされた小商工民・下層民が,パトロナ・ハリルの先導のもとに社会改革を求めて30年に起こした暴動。反乱者側は大宰相イブラヒム・パシャを処刑させ,#スルタン#を退位させて,一時期イスタンブルを支配したが,改革のための具体的プランをもたなかったために,ハリルらの指導者がオスマン宮廷の奸計によって殺害されると,反乱は短期間で終息した。,(永田雄三) 58200,バルカン,バルカン,Balkan,,ヨーロッパ南東部に突出し,黒海,マルマラ海,エーゲ海,イオニア海,アドリア海に囲まれた半島。現在,ブルガリア,ギリシア,アルバニア,旧ユーゴスラヴィア,ルーマニアおよびトルコの一部が存在する。バルカンとはトルコ語で「山」を意味する。この半島は大陸部との交通が容易であるために,古代から数多くの民族・文化の征服や浸透を受けてきた。14世紀半ば以後,#オスマン朝#の侵入が始まった時,バルカン諸民族は政治的・社会的統一性に欠け,オスマン朝に対して一致団結して抵抗することができず,#コソヴォ#(1389),#ニコポリス#(1396),ヴァルナ(1444)などの戦にことごとく敗北して,15世紀末までにバルカンの全土がオスマン帝国に征服された。以後19世紀末にいたるまで500年近くの間バルカン諸民族は同帝国の支配下に置かれた。同帝国支配は,19世紀に入ってバルカン諸民族の独立運動が展開される時期までは,一般に比較的に寛容であった。この長い時期にトルコ・イスラム文化が浸透したが,ギリシア北部,ブルガリア,旧ユーゴスラヴィア南部のようにトルコ人が直接移住した地域と,南部アルバニアや旧ユーゴスラヴィアのコソヴォ地方,ボスニア・ヘルツェゴヴィナ地方のように現地民の#改宗#がみられた地域とではその内容は異なる。前者の場合,ギリシア人,ブルガリア人,セルビア人らはイスラムに改宗することなく,トルコ人の移住した都市や平野部を逃れて山間部に移住した。したがって19世紀末以後これらの地域からトルコ人が退去するとイスラム文化の影響は薄れた。後者の場合,トルコ人の移住は主要都市に限られ,イスラム文化の担い手は,現地の人々であった。このため,トルコ人退去後もイスラム文化は衰えることなく今日にいたっている。オスマン帝国のバルカン支配は,全体として,バルカン諸民族・諸地域の宗教的・民族的・社会的諸共同体(#ミッレト#)の存在を認める政策を原則としたため,バルカン諸民族の間の中世以来の民族的・宗教的多様性が近代に持ち越された。帝国のバルカン征服にはイスラム神秘主義教団(#タリーカ#)の指導者たちの役割が大きかったため,#ナクシュバンディー教団#など中央アジアに起源をもつトルコ的な民衆イスラムがバルカンに根を下ろした。,(永田雄三) 58300,バルバロス・ハイレッディン・パシャ,バルバロス・ハイレッディン・パシャ,Barbaros Hayreddin Pa<印7DE3>a,?〜1546,16世紀の#オスマン帝国#海軍の提督。バルバロスはあだ名で「赤髯」を意味し,本名はフズル・レイスという。エーゲ海中のミディルリ島に生まれ,父ヤクーブはオスマン朝のシパーヒー(封建騎士)であった。若年のころ,兄弟とともにコルサン(海洋冒険者・海賊)を志し,根拠地はチュニジアの東部にあるガベス湾内のジェルバ島であった。チュニジア,アルジェリア沿岸の諸城市を攻略して勢威盛んであったが,スルタン,#スレイマン1世#の招聘を受けて帰順した。スルタンは彼をカプダン・パシャ(オスマン海軍提督)兼アルジェリア総督に任命し,#プレヴェザの戦#で勝利を収めた。,(三橋冨治男) 59400,バンテン農民反乱,バンテンノウミンハンラン,Banten,,1888年7月9日,ジャワ島西端バンテン地方の第2の行政中心地チレゴンで,副理事官書記(ヨーロッパ人)の家を住民の一隊が襲撃したことに端を発し,武装した農民が各地でオランダ人やインドネシア人の官吏を殺害し,租税などに関する公文書を焼き,囚人を解放する行動を続けた事件。植民地政府の対抗措置のために,目指すバンテンの中心地セランを攻撃するまでにいたらず,7月30日には完全に鎮圧されてしまう短命のものであった。この一連の反乱行動は,16世紀以来のバンテン王国の伝統社会がオランダ支配の強化によって崩壊していく中で,税や労役の重い負担を負わせられ生活の困苦を強いられた大多数の農民の経済的不満と,イスラム教徒としての異教徒(#カーフィル#)支配への宗教的反感とが結合して,ことにハジ(メッカ巡礼者)を頂点とする師弟関係およびタレカット(#タリーカ#)に基づく兄弟関係よりなる,イスラム集団の組織力に依拠する形で噴出したもので,20世紀の民族独立運動へ連続していくものを確かに内包していたといえよう。,(森弘之) 60500,ピーリー・レイス,ピーリー・レイス,P<印77F5>r<印77F5> Reis,?〜1553/4,16世紀#オスマン帝国#の提督。ダーダネルス海峡入口に近いゲリボルの生れ。直接・間接に海洋や沿海陸地の探索にあたり,実地に役立つ著名な海洋案内書《海事の書》を作成した。とりわけ新大陸の海洋・陸地・島々に関する最古の地図作成者として知られる。アメリカに関する地図は時のスルタン,#スレイマン1世#に献上されたもので,長らく所在不明であったが,1929年偶然トプカプ宮殿の一室で発見された。,(三橋冨治男) 62400,フェダーイヤーネ・イスラーム,フェダーイヤーネ・イスラーム,Fed<印78E6>yy<印78E6>n-e Isl<印78E6>m,,第2次世界大戦中,セイエド・モジタバー・ミールラウヒー(後にノッヴァーベ・サファヴィーと呼ばれる)が中心となり,テヘランに組織されたイスラム・ファンダメンタリストの小グループ。#シャリーア#の厳格な実施,非イスラム性の根絶を目的とし,テロを常套手段とした。既存の#シーア派#イスラムへの批判を強めていた#カスラヴィー#(1946),宮内大臣アブドル・ホセイネ・ハジール(1949),首相アリー・ラズマーラー(1951)らを相次いで暗殺し,#モサッデク#政権にも少なからず脅威を与えた。当時の有力宗教指導者アーヤトッラー,#カーシャーニー#の庇護を受けたが,モサッデク政権崩壊後は活動が下火となった。1955年,ホセイネ・アラー首相の暗殺を契機に,サファヴィー,タフマースビー,ヴァーヘディーらグループの有力メンバーが逮捕・処刑され,事実上,組織としての活動も終息した。,(八尾師誠) 65200,ヘディーウ,ヘディーウ,khid<印77F5>w,,#オスマン帝国#の宗主権下に事実上の独立を達成したエジプトの#ムハンマド・アリー朝#の支配者に与えられた称号。副王などとも訳される。トルコ語ではヘディヴhediv。ペルシア語で「支配者」を意味し,古くから若干のイスラム系王朝で君主の称号として用いられていた。オスマン帝国では,1841年以来エジプトのワーリー(総督)職を#ムハンマド・アリー#の一族が世襲することを認めていたが,67年にスルタン,アブデュルアジーズは,ムハンマド・アリーの孫のイスマーイール・パシャに新たにヘディーウの称号を与えた。ヘディーウは,宮廷儀礼のうえでは,オスマン帝国の#サドラザム#(大宰相)やシェイヒュル・イスラム(#シャイフ・アルイスラーム#)と同格とみなされていたが,3者が同席した場合には,この2人の次に席を占めた。1914年12月にエジプトがイギリスの保護国となると,ヘディーウ職は廃止され,代わって#スルタン#の称号が用いられた。ただし,トルコ側ではローザンヌ条約調印時までヘディーウ職が持続しているものとみなした。,(永田雄三) 65800,ベルベル,ベルベル,Berber,,北アフリカからサハラ砂漠にかけて広く10ヵ国以上に分散して生活する,ベルベル語(アフリカ・西アジア語)を話す人々の総称。ベルベルという呼称は,ラテン語のバルバルス(ローマ世界の外に住む文明化されていない人間を指す)に由来するとされる。彼ら自身は,アマジグ(複数イマジーゲン。高貴な人,自由人)などと自称。人種的にはコーカソイド(白色人種群)に属するが,変異の幅が大きく,四つの亜人種型に分けられ,南のほうでは黒色人種との混血もみられる。言語の上では,マスムーダ系,サンハージャ系,ザナータ系の3方言群に大別される。現在の正確な人口は不明だが,モロッコの人口の約40%,アルジェリアでは約20%,チュニジアでは1〜2%などで全体では2000万人近いと推定される。北アフリカの先住民であり,古代のヌミディア人はベルベルだが,有史以来,フェニキア,ローマ,ヴァンダル,アラブ,スペイン,トルコ,フランスなど,さまざまな異民族の侵略や征服を受け,ベルベルの歴史は被支配の歴史といわれるにもかかわらず,彼らが,言語のみならず,固有の文化的諸特性を保持してきたことでもよく知られる。主として山岳地帯や砂漠のオアシスなどに住み,主要な民族集団としては,モロッコのリーフ,シルハ,アルジェリアのカビール,ムザブ,サハラおよびその南のトゥアレグなどがある。
 7世紀と11世紀の2波にわたるアラブの侵入と征服以後,ベルベルのイスラム化とアラブ化が進み,#マグリブ#諸国では,アラブとしての自覚をもつ者が多数派を占めるようになった。このようにイスラムと#アラビア語#が浸透した理由としては,征服者たるアラブが,イスラムに改宗したベルベルを比較的対等に扱い,ベルベル女性との間にも通婚が行われたことなどにもよるが,とくに11世紀のヒラール族の侵入によって,イスラムとアラビア語が,沿岸の都市や平野部のみならず内陸部にも浸透したことや,さらに11〜12世紀のベルベル王国(#ムラービト朝#と#ムワッヒド朝#)のもとで,神秘主義や聖者崇拝と結びついたイスラムの大衆化と土着化が進んだことなどがあげられよう。北アフリカのイスラムは,#スンナ派#が大勢を占めるが,アルジェリアのオアシスのベルベル人,ムザブは,#イバード派#ムスリムとして知られる。また,アラブの#アンダルス#(イベリア半島)征服の過程では,イスラムに改宗したベルベルが征服の一翼を担った。
 フランスの植民地時代には,アラブとベルベルを意図的に区別しようとする分割統治策(たとえばモロッコの#ベルベル勅令#など)がとられたが,両者のムスリムとしての一致した反発が,民族主義運動の大きな原動力になった。独立後のマグリブ諸国においては,国の政策としてのアラブ化が強力に推進される中で,歴史的な背景からみても決して周辺的な存在ではないベルベルが,少数派として被抑圧者意識を抱き,自らの言語と文化の独自性を主張し始めた。1995年の国連の先住民年の9月にモロッコのラバトで世界アマジグ会議が開催され,最近ではインターネットを通した世界のアマジグの連帯や広報活動も盛んである。,(宮治美江子) 68000,マシュミ党,マシュミトウ,Masyumi,,インドネシアのイスラムを代表した主要な政党。日本軍政下の1943年11月,イスラム諸勢力を結集したインドネシア・イスラム協議会(マシュミはこの協議会の略称)として設立され,独立後の45年11月,ジョクジャカルタにおいてイスラム系の政党として結成された。この政党は,イスラム近代派(植民地時代のイスラム系の諸政党やイスラム系社会団体ムハンマディーヤの系列)と,東ジャワを中心とする伝統的イスラム派の双方を含んでいたが,52年に後者は分裂して#ナフダトゥル・ウラマ#を結成した。マシュミ党は,西ジャワ,スマトラ,スラウェシに勢力をもち,55年の第1回総選挙では国民党に次ぐ得票数を獲得したが,60年9月,スマトラ反乱に荷担したかどで大統領命令により解散させられた。,(土屋健治) 69300,マフムト〔2世〕,マフムト,Mahmut,1784〜1839,#オスマン帝国#末期の啓蒙的専制君主,第30代スルタン。在位1808〜39。中央行政機構の機能的分権化による大宰相の権力削減,#イエニチェリ#軍団の全廃(1826)と西欧式軍隊の編制,地方名士(#アーヤーン#)層の討伐,世俗的教育・郵便・検疫各制度の導入など一連の改革によって,18世紀以来失われていた#スルタン#の中央集権支配力を回復し,西欧化によるオスマン帝国改革運動の基礎を固めた。しかし,政治的には多難で,民族的独立を要求するバルカン諸民族の相次ぐ蜂起(1829年,ギリシア独立,セルビア自治権獲得)と,これに対するロシアの干渉とに苦しんだ。また,彼の強引な中央集権化政策は,アナトリアの民衆の不満を増大させ,この地方に対する#ムハンマド・アリー#のエジプト軍の進駐を容易にした(1833年,キュタヒヤ条約)。1838年に彼がイギリスとの間に締結した通商条約は,オスマン帝国の関税自主権を喪失させ,経済的植民地化への道を開いた。,(永田雄三) 70000,マラッカ王国,マラッカオウコク,Melaka,,マラッカは14世紀の初めまで小さな漁村にすぎなかった。この漁村にマラッカ王国が建設されたのは1390年代のことと考えられる。王国の建設者パラメシュワラは,マジャパイトによってパレンバンを追われ,トゥマセク(シンガポール)に移ったが,数年にしてシャムの攻撃を受けマレー半島西岸に逃れ,マラッカ王国を建設した。明の永楽帝が派遣した内官尹慶がこの新しい王国を訪れたのは1403年,永楽帝がパラメシュワラをマラッカ国王に封じ印誥を与えたのは05年のことである。中国の勢力を背景にマラッカは東南アジアにおける海上貿易の中心に発展していく。14年,パラメシュワラを継いだムガット・イスカンダル・シャーは,その名からイスラム教徒であったことは明らかであるが,#スルタン#の称号をもった最初の王は5代目スルタン,ムザッファル・シャー(在位1445〜59)である。
 ポルトガルの記録はマラッカの王と,スマトラのイスラム王国パサイの王女との結婚およびマラッカの王の#改宗#という話を伝えているが,東南アジアには国王の改宗が一般民衆の改宗を導くというパターンがあり,マラッカもその例外ではない。また,当時海上貿易に主要な役割を果たしていたのはイスラム教徒の#商人#であったから,マラッカが貿易港として制度・設備が整備されているという条件とともに,その国王および官吏がイスラム教徒であるということは,これらイスラム教徒の商人を引きつける重要な要因となったはずである。マラッカの繁栄を支えたのは,このように世界中から集まるコスモポリタンな商人たちがつくる多民族社会の存在であった。
 マラッカ王国はイスラム教徒の王によって統治されたが,ブンダハラを中心とする中央の政治組織には,イスラム国家としての性格は希薄である。それは,マラッカのイスラム受容が海上貿易商人を通して行われたこと,そして,他のイスラム国家による政治的な介入もなかったことと関連がある。マラッカ王国の宮廷が東南アジアにおけるイスラム文化の発展に寄与したことはいうまでもない。《スジャラ・ムラユ》が書かれ,東南アジアにおいて最も早く,イスラム法を含む法典《ウンダン・ウンダン・ムラカ》等の編纂が行われたのはマラッカ王国の時代である。
 1511年のポルトガルによるマラッカ王国の崩壊により,マラッカは東南アジアにおける海上貿易およびイスラムの中心としての地位を失ったが,マラッカの崩壊はその後マレー半島全域に独立政権の発達を促した。マラッカの王統はその後ジョホール王国に引き継がれた。,(中原道子) 71800,ミナレット,ミナレット,man<印78E6>ra,,ムスリムに礼拝への参加を呼びかけるアーザーンを朗唱するために用いられる#モスク#の塔。アラビア語のマナーラから転訛した英語の呼称。「光または火をともす所」を意味する。日本では「光塔」と訳されることもある。その起源は,#ウマイヤ朝#下のシリアの教会の鐘楼にあるとする説もあるが,おそらく海岸沿いでは灯台,内陸では通商路沿いに#商人#や#巡礼#者など旅人のために建てられた物見台や烽火台が直接の起源であろう。また,それはとくにイスラム初期において,イスラムの権威を誇示する象徴的な役割も果たしていたと考えられる。
 ミナレットは,一般に#ミフラーブ#を主軸とした線上に設けられることが少なくないが,時には中庭の片隅,門の両側などに1基ないし数基設けられる。ミナレットのタイプとしては,角柱状(シリア,北アフリカ),円柱状(イラク,イラン,トルコ)などに大別されるが,折衷形として直方体の基台の上に8角柱と円柱が載り,中間にギャラリーを設けたタイプ(エジプト)も知られている。,(杉村棟) 71900,ミナンカバウ,ミナンカバウ,Minangkabau,,インドネシアの#スマトラ#島中部西海岸に住むオーストロネシア系民族。商業が得意でインドネシアやマレー半島各地にも移住している。推定総人口約400万。社会の中心はナガリと呼ばれる村で,伝統的家屋は母系の親族集団に基づいて建てられる。これらはいずれもイスラム化以前からの慣習であるが,イスラムはこの社会に深く浸透し,すべてのミナンカバウ族はイスラム教徒と言ってよい。しかし,19世紀初頭,イスラムの戒律を重んじる改革派(パドリ派とも呼ばれる)と慣習を尊ぶ村落の支配層(アダット派と呼ばれる)との間に起こった争いは20年ほど続き,後にオランダ東インド政庁の軍事介入により,#パドリ戦争#に発展した。20世紀に入ると近代化への強い意欲を示し,教育の普及が全インドネシア中でも最も早かった地域の一つで,民族主義指導者#アグス・サリム#,モハマッド・ハッタ,#タン・マラカ#はこの民族出身である。,(永積昭) 72000,ミフラーブ,ミフラーブ,mi<印7EE5>r<印78E6>b,,#モスク#の礼拝室の四壁の中で,とくに聖地メッカに面する側の内壁中央に設けられるアーチ形の壁龕。多くの場合,モスクの主軸となる側廊と接する地点の#キブラ#壁にある。ムスリムの礼拝はメッカの方角(キブラ)に向かって行われるが,ミフラーブは,その表象である。ミフラーブは,モスクの種類を問わず,必ず1基ないし数基設けられる。ミフラーブには,漆喰,石,木などが素材として用いられ,時にはタイルやガラス・モザイクによる美しい装飾が施されることもある。起源としては,教会の後陣(アプス)の模倣,預言者ムハンマドが教えを説いた場所を記念するものなどの説がある。また,ミフラーブには信心深いムスリムに約束された天国への門でもあるとする考え方がある。ミフラーブの優れた作例としては,コルドバのメスキータ(10世紀,漆喰とガラス・モザイク),カイロのスルタン・ハサン・モスク(14世紀,大理石),カイラワーンのモスク(9世紀,大理石とタイル)などにあるミフラーブがよく知られている。,(杉村棟) 72200,ミンバル,ミンバル,minbar,,狭義での説教壇で,金曜日の集団礼拝が行われる#モスク#に欠かすことができない。通常#ミフラーブ#の右側に置かれる。時には布告や公文書の通達がここから行われることもあった。ミンバルは一般に木製で,浮彫や象牙・真珠母貝の象嵌(幾何文やアラベスク文様)が施されるが,中には大理石や煉瓦づくりのものもある。規模の大きいものになると,ちょうど建物のような形をとり,入口には扉がつき,10段ほどの階段を登った所には,丸屋根を載せたパビリオン風の玉座が設けられている。玉座は預言者ムハンマドのためのものとされ,だれも使わない。実際には第2段目が説教やコーランの朗唱を行う#イマーム#によって占められる。ミンバルの起源は,預言者が用いた粗末な台にあると伝えられ,一般には8世紀ころから普及したと推測されている。最古の例はカイラワーンの大モスクに現存するバグダード製と伝えられている木製のミンバルである。これには天蓋も扉もなく,17の階段がついた簡素な作りになっている。よく知られた例としては,ロンドンのビクトリア・アルバート美術館が所蔵するカイロのカーイト・ベイ・モスク(15世紀)のミンバルをあげることができる。,(杉村棟) 75100,ムフタールの乱,ムフタールノラン,Mukht<印78E6>r,,#イブン・アッズバイル#のカリフ位僭称中,過激#シーア派#のカイサーン派のムフタールがクーファで起こした反乱。彼は,ハニーファ族の女が生んだ#アリー#の息子ムハンマド・ブン・アルハナフィーヤを#イマーム#にして#マフディー#,自らをその#ワジール#(代理)と称した。#フサイン#の血の復讐を求め,685年10月,ウマイヤ朝の総督を追放しクーファに政権を樹立し,一時はバスラを除くイラクの南半分とペルシア南西部を支配した。フサイン殺害に関係した者を処刑する一方,勢力拡大のためこれまでアラブの特権であった#アター#(俸給)受給の権利を#マワーリー#にも及ぼし,彼らを兵力として利用した。これがクーファの貴族層アシュラーフの反感・離反を招き,イブン・アッズバイルの弟ムスアブの率いる討伐軍に敗れ戦死した。この反乱の意義は,イスラムに初めてイマームとマフディーの観念が生じたことと,アラブの党派的争いに初めてマワーリーが参加したことにある。,(花田宇秋) 76600,文字改革,モジカイカク,,,ここでは1928年のトルコ共和国における#アラビア文字#の廃止とラテン字母に基づく新トルコ文字の採用を中心に述べる。トルコ族は,イスラムを受容した後,中央アジアでも西アジアでも,その言語を記述するためにアラビア文字を用いた。このうちアナトリアに移住して#オスマン朝#を築いたトルコ人たちは,アラビア文字のみならず,アラビア語・ペルシア語から数多くの語彙・慣用句を借用して,きわめて難解な「オスマン・トルコ語」を発展させた。19世紀末以後,トルコ民族主義思想が高揚すると,トルコ人大衆から遊離したオスマン・トルコ語を改良し,これを民衆口語に近づける運動が起こった。しかし長母音以外の母音を表記しないアラビア文字で,母音調和が決定的に重要である#トルコ語#を記述すること自体が,本来不都合であった。1928年の共和国政府による新トルコ文字採用の決定は,トルコにおける識字率の向上と教育の普及とに大きな役割を果たした。なお中央アジアのトルコ系諸族も現在,アラビア文字を廃し,ラテン文字やロシア文字を使用している。,(永田雄三) 76700,モジャーヘディーネ・ハルク,モジャーヘディーネ・ハルク,Moj<印78E6>hed<印77F5>n-e Khalq,,正式にはイラン人民聖戦士機構と呼ばれる。「イラン自由運動」から分かれたサイード・モフセン,モハンマド・ハニーフネジヤードら6名により1965年に結成された。71年から武装都市ゲリラ活動に入るが,75年にマルクス・レーニン主義派とイスラム原則派に事実上分裂した。#イラン革命#(1979)においては,フェダーイヤーネ・ハルクと並んで武装闘争の重要部分を担った。81年にはバニー・サドルと協力して反イスラム共和党,反#ホメイニー#勢力の中心に立ったが,現在は活動の拠点を国外(イラクなど)に移している。,(八尾師誠) 76800,モスク,モスク,masjid、 j<印78E6>mi<印78FE>,,イスラム教徒の礼拝所,礼拝堂。アラビア語でマスジドといい,#礼拝#の最も重要な部分とみなされる平伏(スジュード)を行う場所を意味する。コーランでは,メッカの#カーバ#を囲む聖所が,マスジド・アルハラーム(聖モスク)と呼ばれ,現在もその名で呼ばれる。ムハンマドは#ヒジュラ#後,直ちにメディナで住宅を建てたが,その中庭がイスラム最初のモスクとされた。現在の預言者の#モスク#の起源である。ムハンマドはそこで礼拝を指揮し,神の啓示を伝え,信者同士の争いを裁き,行政上の問題に指示を与えた。まさに,その後におけるモスクの原型である。ムハンマド没後の大征服に際しては,バスラ,クーファ,フスタートなどの軍営都市(#ミスル#)の建設に当たり,まず中心に#アミール#官舎とモスクが建てられた。ダマスクスでは洗礼者聖ヨハネ教会の東半分を接収してモスクとしたが,705年,ワリード1世が西半分をも買収してモスクを拡張した。これが#ウマイヤ・モスク#である。モスクの建設と管理の最終的責任は#カリフ#にあり,彼は首都のモスクにおいて#イマーム#として礼拝を指揮し#フトバ#(説教)を述べた。ミスルにあっては,それはアミールの職務であった。
 モスクは最初各都市に一つ設けられたが,人口の増加と都市の拡大に伴い,大都市には複数のモスクが設けられ,やがて農村にも及んだ。このころになると,カリフのほかにその一族,#スルタン#,アミール,高官,富裕な#商人#は競ってモスクを建設し,その維持のために#ワクフ#を寄進した。都市の#ハーラ#や農村のモスクは,多くその住民によって建てられ運営された。毎金曜日正午の集団礼拝は各都市の中心のモスクで行われるのが原則で,このようなモスクをマスジド・アルジャーミー,略してジャーミーという。そこでは政府の布告がなされ,#カーディー#の法廷も開かれ,信者にとっては宗教教育を含む学問の場,子弟に対する教育の場(#クッターブ#)で,さらに情報交換と社交の場でもあった。もっとも,女性は集団礼拝の時以外はモスクを訪れることなく,裁判所や#マドラサ#(学院)は後にモスクから独立した。大都市ではジャーミーも複数で(バグダードでは9世紀に2,11世紀に6,12世紀に11),その場合にはとくに重要とされたものは大ジャーミーと呼ばれた。モスクの財政は普通ワクフの収益によって賄われ,ワクフの管理者ナージルがモスクの財政責任者である。モスクの勤務者としてはイマーム,ハティーブ(説教師),#カーッス#(説教者)またはカーリー(複数形は#クッラー#),ムアッジン(#アザーン#を唱える者)のほかに召使いがあり,ワクフの収益から俸給を受ける。モスクは必ずしも建造物に限られない。#イード#の際のように,地域住民全体が礼拝を行う#ミフラーブ#壁の設けられた広場(ムサッラーまたはイードガー)や,1枚の礼拝用#じゅうたん#も,それが聖なる礼拝の場である以上モスクである。,(嶋田襄平), モスクにはメッカの方向(#キブラ#)を示す壁龕ミフラーブが必ず設けられるほか,信徒に対して祈りの呼びかけアザーンが行われる#ミナレット#,中庭(サフン)に設けられる洗浄(ウドゥー)のための泉亭または水槽などがある。モスク内には,祭壇・聖画・聖像の類はいっさいなく,典礼用具ともいうべき調度品としては,説教壇#ミンバル#,コーラン用の木製小型の折畳み式書見台ラヒール,クルシー・スーラ(朗詠者がコーランを朗詠するための台座),吊りランプ,燭台,じゅうたんなどがあるにすぎない。このほか,王侯貴族のための柵付特別席マクスーラ,礼拝を先導するイマームやその朗唱に対して答唱をする人々のための高壇などが,いずれも任意に設置されている。
 モスクの装飾は,ミフラーブに集中する傾向が強いが,これも任意に行われるものであり,教会や寺院における装飾のように宗教上の機能・目的と結びつくことはなく,図像表現もアラビア語の銘文がこれに代わっている。装飾意匠には,人物・動物はまったく含まれず,もっぱらアラベスクや幾何学文に終始し,イスラムの造形美術に対する考え方の一端がここにも如実に示されている。
 メディナの預言者のモスクの単純素朴な構成,すなわち矩形の中庭とキブラを示すミフラーブ軸を強調した陸屋根の多柱式礼拝ホールとからなる構成は,後世においても長く踏襲されたが,各地方の環境や伝統に応じて多様なスタイルが発達した。イスラム初期の多柱式モスク(ダマスクスのウマイヤ・モスク,コルドバのメスキータ)に対して,イランでは主軸上にイーワーン(トンネル式ボールトをかけたホールで,一方のみが外部すなわち中庭に向かって開放されている)を配置したタイプが発達し(イスファハーンのマスジデ・ジョムエ),一方,寒冷なアナトリア高原においては,中庭にあたる部分がドームをかけたホールに変化する。オスマン朝時代には,中央の大ドームの周囲に小ドームや半ドームをめぐらせて内部空間を統一した様式が発達した(イスタンブルのスルタン・アフメト・モスク)。他方,インドにおいては,イラン様式が発展するとともに,独自の伝統と混交した折衷様式が生まれた。たとえば,中庭に面する礼拝堂のファサードがミフラーブを拡大・展開させた形となり,中庭そのものが礼拝の場となった例(パキスタンのラホールにあるバードシャーヒー・モスク)がある。,(杉村棟) 78800,預言者のモスク,ヨゲンシャノモスク,Masjid al-Nab<印77F5>,,メッカの聖モスクに次いで歴史的・宗教的に重要な#モスク#。622年,預言者ムハンマド自身によりメディナの住居に接して建造されたが,預言者は死後ここに埋葬されたために,メッカに次ぐ重要な巡礼地となる。以後,現在にいたるまで増改築を重ね,現在のモスクは,#マムルーク朝#のスルタン,カーイト・ベイの時(1483)に再建され,オスマン朝時代に修復されたものである。最初は,荒石,日乾煉瓦,ナツメヤシの幹や葉などでつくられた単純なプランでミフラーブもなく,木製のミンバルを置いた素朴な礼拝堂にすぎなかった。しかし,後代のモスクのモデルとなった点で看過できない重要さをもっている。,(杉村棟) 80200,利子,リシ,rib<印78E6>,,アラビア語ではリバー。動詞ラバー(増殖する)より派生し,「増殖」を原義とするが,転じて「(資本主の)不当増殖」「高利」「利子」を指す語である。ただし,イスラム法における利子の概念は西洋のそれよりも広い意味内容をもち,有償契約の当事者間での,給付に対する正当な反対給付ではなく,不労所得として得られる利益のすべてに適用される。コーラン2章275節,30章39節にみえるように,イスラム法における利子禁止法は,売買とは異なって,自ら労せず他人の労苦の結晶である財富をむさぼるためにこれを禁止している。イスラム最初期のリバーは,金銭にせよ食料品にせよ,要するに貸付けに対する利子という意味で用いられていた。イスラム法におけるリバーの禁止は,#ウマイヤ朝#期の通貨政策や,ナツメヤシなどの果樹栽培にかかわる特殊な契約に対する制限などに由来するさまざまな規定がむりやり一つの準則としてまとめられたものである。イスラムではスコラ学派と同じく,貸付けからの剰余利得(利子)と投下資本からの利得(資本利潤)とを厳密に弁別し,前者を厳しく非難するが,後者はまったく容認している。当事者の一方が他方の損失を前提として利益を得る利子(リバー)は拒否するが,資本を委託して得られる商業による利潤(ムガーバナ)は許容している。こうしてイスラム世界において特異の発達をみた持分資本(キラード),すなわち商業資本の貸主と借主が利潤の一定割り前を持分として取得する協業形態が生まれた。しかし利子禁止の経済倫理は,会社財産に対する否定的な見解となって現れる。出資者と稼働者の間に所得と労働の不平等が生じることを恐れるためである。このことがイスラム世界における商事会社の発達を阻害する要因となった。,(佐藤圭四郎), 19世紀になると利子の禁止は抵当権の観念および施行と衝突した。擬制的たてまえとして所有権移転や買戻しを前提としていた質権の概念は,すでに不動産質の諸形態の展開の中でほとんど抵当に近接する形式をさえ生み出してはいたが,ヨーロッパの法典に基づく混合裁判所はいとも簡単に#シャリーア#のリバー禁止の規定を乗り越え,抵当権の思想を確立してしまった。#ムハンマド・アブドゥフ#は近代の現実に直面するその#ファトワー#において,ムスリムも利子や配当を受け取ることができる場合について認定した。現代の「イスラム経済」論において,利子の問題は,私的所有権や#ザカート#と並んで最も重要な争点の一つである。それは銀行の利子生み活動をいかに是正するかといった金融業改革の実践を生み出している。そこでは,銀行と融資を受けた事業主とが開発プロジェクトのパートナー同士として利益を配分する方式(ムシャーラカ)や協同経営を行う方式(ムダーラバ)などが工夫されている。さらにザカートによる無利子の共済銀行なども現れ,もろもろのイスラム銀行の活動が開発されつつある。,(板垣雄三) 80600,両替,リョウガエ,<印7CE3>arf,,金銀地金,金銀貨幣,その他,異種の通貨またはその代用物を交換すること。#アッバース朝#時代以降,商業経済の発達につれて盛んになった。10〜11世紀のイラクにおける金銀比価はおおむね次のようである。法定通貨である#ディーナール#金貨と#ディルハム#銀貨の公定比価は15:1である。市場比価は金銀絶対量の増減などにより15〜20:1の間を変動したが,時代が下るにつれディーナール金貨の価値が相対的に大きくなる傾向が見られた。秤量貨幣である標準重量の純金地金と純銀地金の公定比価は132/3:1である。市場比価も同様である。標準重量をもつ純金地金と法定ディルハム銀貨の比価は17:1である。しかし日常の取引決済には,各種の重量・金位をもつ法定・偽造の金銀貨幣,ならびに鋳込み地金・砕銀・粒銀が多く使用されている。したがって,それらを試金・計量して実質価値を評定し,手数料を徴収して両替に従事する両替商(サッラーフ)の存在が必要であった。10〜11世紀,バグダードのアウン街はこれらの両替商が軒を並べる金融街であった。11世紀前半のイスファハーンにおいては,これらの金融業者が約200軒集まって囲壁により封鎖され,特定の門から出入する特別の区域をなしていた。バスラその他の都市にあってもほぼ同様であった。
 公経済にあっては,地方州県から各種貨幣・手形で送られてくる税金などの公金を,純金・純銀を価値基準として算定し現金化する業務を行う金融御用商(ジャフバズ)があり,手数料にあたるリブフ(利子)を加算して有利な換算を行う両替の利得は莫大であった。粒銀はハッバ(大麦2粒の重量)を標準衡量として計算され,砕銀,鋳込み銀地金はディルハムを単位として計量された。嚢袋(サッラ)は「封印された金銀嚢袋」のことで,たとえば,フスタートの両替商店舗「アルマートの家」の嚢袋のように,封印した両替商の信用によって,これらの嚢袋は現金と同様に両替商間で流通し,端数は粒銀・砕銀によって決済された。,(佐藤圭四郎) 82000,ヒュッレム・スルタン,ヒュッレム・スルタン,H<印7EF3>rrem Sultan,1500?〜58,#オスマン帝国#の盛世期,#スレイマン1世#の妃。セリム2世の母。別名ロクセラーヌRoxelane。捕虜となってイスタンブルのトプカプ宮殿入りしたスラヴ系女性。美貌で音楽に堪能,人心をとらえるのが巧みで,#スルタン#の寵をほしいままにし,#ハレム#勢力の中心人物となった。性格は狡猾,気性の激しい神経質な女性といわれ,スルタン位後継をめぐって政治に介入,オスマン朝衰退の遠因をつくったと非難される。墓はイスタンブルのスレイマニエ・モスク境内にある。,(三橋冨治男) 02100,アゼルバイジャン,アゼルバイジャン,<印78EA>zharb<印78E6>'<印77F5>j<印78E6>n,,カスピ海南西に位置する地域。アゼルバイジャン共和国とイラン領アゼルバイジャンに分かれる。住民の大部分はアゼルバイジャン語(アザリー・トルコ語)を日常語とするシーア派イスラム教徒であるが,他にスンナ派イスラム教徒であるクルド人や,アルメニア人(おもにアルメニア正教徒),アッシリア人(ネストリウス派とカルディア派)などが若干見られる。古代にはメディア王国の一部であり,アケメネス朝にも服属した。当地方の別称であるアトルパトカンは,アレクサンドロス大王時代の総督で,紀元前328年に独立を宣言したアトルパトにちなむといわれる。7世紀にはアラブの侵攻を受け,11世紀のトルコ人の進出以降は,徐々にトルコ化(トルコ語化)が進行した。その後も土着の王朝の興亡,外民族の侵入が繰り返され,サファヴィー朝期にシーア派イスラムの支配的地位が確立された。19世紀初頭のイラン・ロシア戦争の結果締結されたトルコマンチャーイ条約(1828)によって,アラス川を境とするほぼ現在の国境線が画定された。同川以北の地は元々アッラーンと呼ばれたが,1918年に自立したムサヴァト党政権が自らの共和国の名称としてアゼルバイジャンを名のった。その後ソヴィエト政権が成立し(1920),36年にはソ連邦を構成する社会主義共和国となり,ソ連崩壊後は主権国家として独立したが,いずれもこの名称を継承している。一方,イラン領アゼルバイジャンは,カージャール朝期には王位継承者が総督を務める政治上の要地であると同時に,対露,対欧貿易のルートとして重要な位置を占めた。#イラン立憲革命#に際しては,立憲派の重要拠点となった。また,1920年にはヒヤーバーニーを指導者とするアーザーディスターン共和国が,45年にはピーシェヴァリーを首班とするアゼルバイジャン国民政府が樹立されるなど,反中央政府の動きが相次いだ。,(八尾師誠) 08400,アルメニア教会,アルメニアキョウカイ,Armenia,,#モノフィジート#に属する#アルメニア#人の教会。アルメニア正教会ともいう。4世紀初めアルメニアの王と人民を教化したとされる聖グレゴリにちなんで,グレゴリ派ともいう。5世紀に聖職者たちの努力でアルメニア文字が考案され,聖書のアルメニア語訳も進められた。ササン朝ペルシアの支配下でその最高聖職者(カトリコス)の殉教なども起こったが,しだいにモノフィジートの立場を明確にしていった。イスラム支配のもとでは#ジンミー#として扱われ,9世紀末には#アッバース朝#下で政治的自立を強めたが,11世紀#セルジューク朝#に征服されると,同教会の信徒のアナトリアへの逃亡・移動の波が生じ,そのため13世紀末からカトリコスはエチミアジン(アルメニア)とシース(アナトリア南東部)とに分立・競合するにいたった。これに加え,コンスタンティノープルとエルサレムの両総主教座が存在する。1920年以降,シースのカトリコス座はレバノンのアンティルヤースに移り,#オスマン帝国#末期以来世界に離散したアルメニア人はこれへの結びつきが強い。なお,これからユニアット(カトリックとの合同)によりアルメニア・カトリック教会が分離しているが,その総大司教座はレバノンのブズンマールにある。,(板垣雄三) 16000,イラン立憲革命,イランリッケンカクメイ,,,1905〜11年カージャール朝下イランにおける一連の政治変動。対外的従属を深める同王朝権力に対する大衆的抗議運動・蜂起を通じて,イラン史上初の国民議会が開設され,憲法が制定された。この意味でイラン近代史上の重要な画期とされる。革命の基本的目標として掲げられたのは専制の打倒と外国支配の排除であったが,とくに後者を巡ってはイギリス,ロシア両国の露骨な干渉に遭遇し,議会体制自体の終息という結果を招いた。1905年12月,砂糖価格の急騰を理由にテヘランの砂糖商人が逮捕され処罰を受けたことを不満としてテヘランのバーザールが一斉休業(バスト)に突入した。商人層によるこうした反王朝政府の動きは#ウラマー#層の積極的参加を得て,都市住民の各層を取り込みながら,全国主要都市に波及していった。テヘランでは,#タバータバーイー#,#ベフバハーニー#らの有力ウラマーの指導のもと,大規模な聖域抗議集会(バスト)が繰り返され,運動は専制批判から住民の権利擁護機関としての「正義の館」の設立,さらには国民議会の開設を要求するにいたった。06年6〜7月にかけてテヘランのイギリス公使館で行われた一万数千名に及ぶ住民の抗議集会の圧力に屈したモザッファロッ・ディーン・シャーは,8月5日に憲法と議会に関する詔勅を発し,10月7日には史上初の議会の開設を見た。階層別に選出された代表からなる第1議会は,外国への利権譲渡の阻止,イギリス・ロシアからの借款の拒否,外国人官吏の追放などの基本路線を打ち出し,一方で,国民銀行の設立,王族に支給される年金の削減,トゥユール制の廃止に関する法案を次々と可決するなど,19世紀以来従属化の道を歩んできたイラン経済の再建と政治的自立に向けて積極的な活動を行った。また,ベルギー憲法に範をとった憲法(第一部:1906年,第二部:1907年)を制定し,国民国家イランの基本的枠組みを明らかにした。しかし,07年8月,イギリスとロシアがイラン議会の意向を無視して,イランを各々の勢力圏に分割する協定(英露協商)に調印したことをきっかけに,国内の反立憲派勢力の巻返しがにわかに活発化した。08年6月23日には,カージャール朝唯一の西欧式部隊であるカザーク(コサック)旅団を擁したモハンマド・アリー・シャーのクーデタが成功し,議会は解散させられ,立憲派は一時的後退を余儀なくされた(小専制期)。これに対して,立憲制擁護・回復の闘いが都市を拠点として全国各地で展開された。第一議会のもと,全国の主要都市には選挙管理委員会として発足したアンジョマンが,立憲派の拠点組織として成長していたが,そのうち最も強力なアンジョマンを有していたタブリーズでは,いち早く王党派勢力に対する徹底した武装闘争が組織された。その主たる担い手は商人,職人,中・下級ウラマー,街区ごとの任<印3C40>・無頼集団(ルーティー)など,幅広い住民層からなる義勇的武装闘争集団(モジャーヘダーン)であった。その結果,立憲体制は回復されるものの,第2議会内部では急進派(デモクラート)と穏健派(エテダーリユーン)との政争が激化し,第1議会が可決した諸法案もほとんど実行に移されることなく終わった。立憲革命が実質的社会変革をほとんど伴わなかったと指摘される所以となっている。第2議会は,財政改革の切札として招聘したアメリカ人財政顧問M.シャスターとロシア政府との確執が深刻化し,その結果引き起こされたロシアの直接的軍事介入(1911年末)によって崩壊した。,(八尾師誠) 21000,ガスプラル,ガスプラル,Gaspral<印79F5> <印75F9>sma<印78FE>il,1851〜1914,クリミア・タタール人の貴族出身のイスラム改革主義者。モスクワの陸軍士官学校卒業後,フランス(1871〜75)とトルコ(1875〜77)に留学し,フランス自由主義と#青年トルコ#党のイデオロギーの影響を受けた。帰国後,クリミアのバフチェサライの市長となり(1877〜82),いわゆる「新方式」に基づく#マドラサ#を創立した。これはロシアだけでなく,トルコなどムスリム諸国のイスラム学校の新しいモデルとなった。また1883年に《翻訳者》紙を刊行し,「ボスポラスから中国国境まで」理解が可能な,共通#トルコ語#の普及に努め,ロシア・ムスリム最初のパン・トルコ主義思想家となった。1905〜06年の3回にわたる全ロシア・ムスリム大会でも指導的な役割を果たし,ロシア人リベラル派と協調しながら,トルコ系諸民族の「言語・思想・行動における統一」を図ろうとした。,(山内昌之) 26800,グルジア人,グルジアジン,Gruziya,,自称はカルトヴェリ。大カフカス山脈南西斜面と黒海に挟まれる地方に住む民族。人口は414万人(1998推計)。西洋古典にみえるコルキス人,イベリア人の子孫で,言語は南カフカス語族カルトヴェリ語派に属し,人種は地中海型・アルメノイド型特質を示す。北方遊牧民,ギリシア,ローマ,イラン等の中間にあったので複雑な文化的影響を受けた。4世紀にキリスト教化したが,国土は7世紀以後しばしばムスリムの侵入を被り,16世紀からロシア併合まではトルコとイランによって東西に分割された。そのため東グルジアでは,文学・美術等にイラン文化の影響が強く,イラン内地で軍人として活躍する者も少なくなかったが,イスラムへの改宗はさほど進まなかった。一方,西南グルジアのアジャリアなどでは#オスマン帝国#治下にイスラム化が進行し,西北部は19世紀までカイロやイスタンブルに対する奴隷の主要供給源であった。現在のトルコ共和国領にも少なからぬグルジア系住民を数える。,(北川誠一) 38300,巡礼,ジュンレイ,<印7EE5>ajj,,アラビア語でハッジュと呼ばれ,イスラムの五柱(#六信五行#)の第5にあげられるが,各個人にではなく,総体としてのイスラム教徒に課せられた義務で,コーラン3章97節にも「そこに旅する余裕あるかぎり」とある。ハッジュはズー・アルヒッジャ(巡礼月,12月)の8日から10日までの間に,定められた順序・方法で必ず集団で行わなければならない。任意の時に個人で行いうる#カーバ#参詣は,ウムラといってハッジュと区別される。ハッジュを果たした者は,ハーッジュ(ペルシア語では多くハージー)と称することを許される。
 ムハンマドは624年の#バドルの戦#の後,#メッカ#巡礼をイスラム教徒の義務としたが,コーランにはその方法や儀礼について特別の定めはなく,彼が632年の別離の巡礼で行ったことが前例となり,現在までほぼそのまま踏襲されている。巡礼者は縫目のない2枚の白布イフラームをまとい,イスラム法の定める清浄な状態になって,巡礼月7日までにメッカに到着し,その日はカーバを7回まわり(タワーフ),サファーとマルワの間を7回駆足で往復する(サーイ)。その夜または翌朝,ミナーとムズダリファを経てアラファートにいたり,9日にラフマ山に集まってウクーフを行う。ウクーフはメッカの#カーディー#の説教(#フトバ#)やコーランの読誦を聞きながらラッバイカ(われ御前にあり)に始まる掛声を叫び続けることで,ウクーフのないハッジュは無効とされる。日没とともにムズダリファに急ぎ,そこで小石を拾ってミナーに行き,その東西と中央に三つあるジャムラという塔の一つに投げつける(タジュミール)。その後#イード#・アルアドハーの犠牲をほふり,イフラームを解く(10日)。その後イード・アルアドハーの続く13日までは,自由行動の日で,ある者はミナーにとどまって残り二つのジャムラに小石を投げつけ,またはムハンマドの聖蹟を訪れ,メッカを去ることも許されるが,メッカを去る前に必ずタワーフとサーイを行わなければならない。18世紀の末ごろまで,この3日間にミナーとメッカの#市#が最も繁盛した。
 ハッジュは他の宗教の巡礼のように各地の聖蹟や霊場を経巡るのではなく,ただメッカのカーバと,その東方の聖地だけを対象とする。また後世の聖職者の呼びかけや,自然発生的な信者の宗教的情熱によって始められたのではなく,ムハンマド自身が信者の義務と定め,その方法と儀礼とを自ら示した。巡礼はイスラム以前の多神教時代から行われていたが,カーバへの巡礼とアラファートへのそれとは別個のものだったようである。当時アラビア半島では,毎月どこかで定期市が開かれ,カーバとアラファートへの巡礼も半島全体の定期市周期の一環をなし,人々はアラファートの後カーバを訪れていた。イスラムの巡礼はカーバに始まってアラファートにいたり,最後はまたカーバに戻ってくるが,それはアッラーの館としてのカーバが他の聖地に優越することを明らかにするためのムハンマドの意図的変更であった。そのことを除き,ムハンマドは多神教時代の巡礼儀礼をほとんどそのまま採用したので,当時行われていた#アニミズム#的な儀礼がイスラムの巡礼儀礼に取り入れられたのである。巡礼は信者の義務であると同時に社会的・共同体的行事でもある。世界の各地から集まった巡礼の群れは,タワーフ,サーイ,ウクーフの雑踏の中に我が身を置いて初めて,人種・民族・言語・国籍を超えた聖なる共同体の一員としての自己を自覚する。
 イスラム法の定める巡礼はハッジュとウムラだけであるが,#墓#への参詣を意味する#ジヤーラ#も一般には巡礼と訳され,その宗教社会学・宗教心理学的意義は,ハッジュとほとんど変わらない。,(嶋田襄平) 38700,女性,ジョセイ,,,イスラム世界の女性は,これまで,さまざまなイメージをもって語られてきた。とりわけ女性隔離,#ヴェール#,一夫多妻の風習によって,女性の地位は極端に低いとされてきた。だがそれらの風習は,イスラムに固有のものではなく,基本的に男女は平等であるとする思想が流れている。イスラムの興った7世紀ころのアラビアでは,自由活発に生きた女性の姿が信頼できる史料(ムハンマドの伝記など)に数多く記録されている。預言者ムハンマドの最初の妻#ハディージャ#は,彼よりも15歳年上の大実業家であり,彼女の経済的・精神的援助のもとにイスラムが興ったといってもよい。その当時は,戦場にも出かけていった女性たちの姿もみられ,名医として,あるいは詩人として,名高かった女性たちなどの記録も残っている。このような女性たちが存在した社会が,全体としてどのようなものであったかについては,まだ解明されていない部分も多いが,おそらく母系的傾向が強い社会であったと考えられる。母方居住が一般的であったことは,かなり確かであったようで,財産の所有の仕方も,母方の共同体のものであった。父系制が確立している現在のアラブ世界でも,そのような傾向を残している地域もみられる。現在でも住居の所有権が女性にある例も多い。
 イスラム以前の社会で,女児の間引きがあった事実を根拠に,イスラム以前は,女性の地位が極端に低く,それをイスラムが改善したのだと主張する護教論もあるが,女児殺しの背景には,少なくとも三つの事実があったことを考え合わせねばならない。(1)当時,恒常的に女性人口の過剰があった。砂漠の厳しい環境の中で,生物学的に弱い男児は,死産や夭逝によって,その人口が過少状況にあった。(2)遊牧社会は農耕社会と異なり,常に人口の調節がなされる必要があった。(3)アラブの伝統には,男は命をかけて女を守るという名誉と義務があった。守るべき対象者が過剰になることは避けなければならなかった。現代の人口調節が,子供の地位の低さを意味するのではなく,子供を少なく産んで大事に育てるということであるのと同様,女性の地位が低いゆえの女児殺しでは,けっしてなかった。コーランに一夫四妻が規定されたのは,イスラム布教戦争で増加した未亡人やその子供達を救済するためであったといわれる。アッバース朝時代にも,国政に影響力を行使したハイズラーンなど多くの女性の存在がみられる。カリフ,#ハールーン・アッラシード#の時代においては,彼の妻ズバイダが,メッカ巡礼者のために,井戸や貯水池を建設したことで有名である。しかし,イスラム法が整備され,法が人々を縛り始める11世紀ころから,社会的に活躍する女性の姿は影をひそめ始め,その後の女性の様子を語る史料は,ほとんどない。
 西欧をはじめほかの社会と同様,イスラム社会にも「女性問題」は存在し,19世紀以来,インドネシアのカルティニ,エジプトのアーイシャ・タイムールなどを中心とした運動が起こり,女性に不利な制度の廃止,教育や参政権の獲得が各地でなされた。19世紀末から20世紀初頭にかけては,エジプトを中心に女性解放運動が起こった。最初の女性運動家であったアーイシャ・タイムールやマラク・ヒフニー・ナーシフ(バーヒカト・アルバーディヤの名で有名な詩人)たちは,大地主階級の出身であり限界はあったが,女性のための教育の機会の開放を主張し,イスラム改革運動にも影響を及ぼした。大ムフティーであった#ムハンマド・アブドゥフ#もイスラムを新時代に適応させるべく,重婚の禁止などを提唱した。彼の弟子である#カーシム・アミーン#は,1899年に《婦人解放論》を著し,西欧の侵略を許したイスラム社会を立て直すには有能な女性を育成せねばならないと説いた。女性が男性と同様の高等教育を受けるということには賛成していないが,女性も自活能力がなければならないとし,イスラム法も女性の自活の権利を認めていると主張した。第1次世界大戦後は,列強の植民地主義からの民族解放運動とともに女性の解放も進んだ。1919年のエジプト独立運動では,フダー・アッシャラーウィーの率いる,いわゆる「ヴェールのデモ」が行われた。
 女の#相続#は男の1/2と規定するイスラム法や,地域や階級による格差など多くの問題を抱えながらも,20世紀には女性の法的・経済的地位の改善の要求は各地で行われ,女子の中・高等教育や参政権の獲得などが進んだ。現在では女性隔離が逆に女性の社会進出を促す結果にもなっている。たとえば,女医,女教師の多数輩出や77年以降は支店長以下女性で経営する女性専用銀行などもみられる。ヴェールは,砂や日ざしをよける効果もあるほか,女性の容姿が商品化されるのを防ぐ意味もあり,イスラム的アイデンティティを主張して,近年,エジプトやトルコなどでもインテリ女性のヴェール着用が急増している。女性の識字率や中等教育以上の就学率がまだ低いところも多いが,それも20世紀末近くには改善されてきている。都市では出生率も著しく低下し,人々の意識は大きく変化している。女性の就業率も年々増加し,管理職の女性や,企業家としての経済活動はもちろん,医者や弁護士,大学などの教員として活躍する女性も多く,1950年代末にはエジプト女性ヒクマト・アブー・ザイードが厚生労働大臣に就任し,その後マラヤ大学の総長,アラブ首長国連邦やバハレーンの博物館長,クウェートの石油次官,チュニス大学の医学部長,2001年にはサウディ・アラビアの女性で政府派遣留学生第1号であるソラヤ・オベイドが国連人口基金事務局長に就任した。パキスタンのベナジール・ブットー首相やトルコのチルレル首相らに代表されるように,女性の大臣や国会議員も少なくない。他方,国全体の経済的状況から,子沢山の上に,夫の横暴に耐え,苛酷な労働を強いられている女性も存在する。だがそれらはイスラム地域に限らぬ地球全体の貧困地域の問題であり,その点でイスラム社会でも近年各地でみられる多様な階層の女性を巻き込むNGOの活発化と連帯の動きは注目される。,(片倉もとこ) 40600,スルタン・ガリエフ,スルタン・ガリエフ,Mirsaet Soltangaliev,1892〜1940,ボルガ・タタール出身の民族共産主義者。ロシアの二月革命後,1917年7月にカザン・ムスリム社会主義者委員会に加入し,同年11月,ロシア共産党(ボリシェビキ)に入党した。スターリンに抜擢されて,中央ムスリム軍事参与会議長,民族人民委員部参与会員,《民族生活》紙編集長,タタールスタン共和国中央執行委員などの要職を歴任した。彼はイスラム東方世界における社会主義の特殊な性格を強調し,階級闘争とプロレタリア独裁に関するマルクス主義の古典理論を修正することにより,「第三世界」の独自性に着目した最初の社会主義者である。23年5月に反革命容疑でスターリンの命により逮捕され,「民族主義的偏向」として党から除名された。いったん釈放されたが,その後も逮捕と釈放を繰り返し,ソロフキ収容所に服役した。40年に処刑された。主要著作《ムスリムに対する反宗教宣伝の方法について》(1922)。,(山内昌之) 43900,タバコ・ボイコット運動,タバコ・ボイコットウンドウ,,,イギリス国籍の投機業者タルボットがカージャール朝政府より獲得したタバコ独占利権に反対して,1891〜92年#ウラマー#,商人層を中心に展開された大衆的抗議運動。イランのウラマーの最高権威ミールザー・ハサン・シーラージーが発したタバコ禁忌の#ファトワー#によって運動は頂点に達し,同利権の完全破棄に持ち込むことに成功した。一般にイラン・ナショナリズム運動の嚆矢と位置づけられているが,一方ではその賠償金の支払のためにイギリスから借款を受けるなど,イランの経済的従属を深める結果となった。,(八尾師誠) 44700,タブリーズ,タブリーズ,Tabr<印77F5>z,,イラン北西部#アゼルバイジャン#地方の州都。人口119万(1996/97)。行政・経済の中心であるばかりでなく,交通の要衝を占め,ここからバクー方面(北東),カフカスのトビリシ方面(北),トルコのエルズルム方面(西)に道が通じている。642年,アラブのアゼルバイジャン征服の時タブリーズはまだ寒村にすぎなかった。イブン・ハウカルによると,10世紀後半にアゼルバイジャンの首邑となった。#セルジューク朝#の支配によるトルコ化の進行とともに本格的に発展した。#イル・ハーン国#第2代のアバカ・ハーンは,ここに都を置いた。モンゴル以後,カラコユンル,アクコユンル両王朝の時代にも首都であった。#サファヴィー朝#時代,1514,34,85,1635年の4度にわたり,#オスマン帝国#によって占領された。19世紀,#カージャール朝#はここを皇太子の居所とし副都的性格を与えた。ロシア領カフカスに近く,ヨーロッパ先進文化を吸収する中心であり続けた。1908〜11年,#イラン立憲革命#を守る最先鋭都市として蜂起の拠点となった。,(坂本勉) 49000,トガン,トガン,Ahmet Zeki Velidi Togan,1890〜1970,ロシアのバシュコルト人出身のトルコ民族運動指導者,歴史学者。カザン大学卒業後,《トルコ・タタール史》(1912)を出版すると同時に,中央アジアでの研究調査旅行に従事,トルコ民族史研究者としての地位を確立した。ロシア二月革命後,1917年5月の第1回全ロシア・ムスリム大会に参加,バシュコルト民族主義運動の指導者となり,同革命委員会議長や軍事人民委員を歴任した。20年6月にソヴィエト政権と決別してトルキスタンに逃れ,同地で#バスマチ運動#に参加した。22年にアフガニスタン,次いでトルコに亡命し,トルコでは反政府活動に連座してドイツに逃れ,#ケマル・アタテュルク#死後に帰国した。晩年はイスタンブル大学文学部教授として研究生活に専念。主要著作は《現在のトルキスタンと近代史》(1939),《トルコ全史入門》(1946),《自伝》(1969)。,(山内昌之) 65300,ベドウィン,ベドウィン,badw,,「町でない所に住む人々」を意味するアラビア語バドウ(男性単数形バダウィー,女性単数形バダウィーヤ)から転じた西欧なまりの呼称。一般に,#羊#,ヤギ,牛,ロバ,#ラクダ#,#馬#,水牛などを飼育しながら移動生活をする#アラブ#系遊牧民のことをいう。住居は家畜の毛で織られ,通気性,防水・保温効果に優れている。食生活はナツメヤシと乳製品が中心で,ナツメヤシ,小麦,米,コーヒーなどは購入し,乳製品や肉は自給する。
 ベドウィンは,「生まれつきの民主主義者だ」といわれることもあるように,イスラムの基本理念にも通ずる平等主義,民主主義をもっている面もあるが,一方,イスラムが否定した部族主義的傾向も保持している。ベドウィンを意味するヘブライ語からアラブという語が出てきたのだという学説もあり,ベドウィンが,古くからアラブと呼ばれていたことは多くの碑文や史料に明らかである。コーランの中に出てくる「アラブ」も,ベドウィンのことを指している。「ベドウィンの言葉をコーランの言葉としても,町の住人の言葉としても用いられるものとする」と記されている。このことは,#アラビア語#の最も純粋な形はベドウィンのものであるという学説の一つの根拠にもなっている。イスラム以前のアラブ社会は,ベドウィンの部族社会と関連して,血縁関係を第一とする社会であった。そういった部族主義を排除して唯一神アッラーによるつながりを第一とする共同体,#ウンマ#を目指すのがイスラムであった。その理念は,今日においても変わらないが,ベドウィン社会における部族主義,血縁主義が一掃されてしまったわけではない。先に述べた平等主義などとともに併存しているのが実情である。
 近年,中央政府の定住化政策,近代的交通機関の導入,土地制度の変化,定住的労働の増加により,ベドウィンの生活は急速に変化しつつある。運転手や石油産業労働者となる者,子供たちに高等教育を受けさせるため定住する者がふえている。移動生活を続けるベドウィンもラクダを車にかえ,近代的商品を用いるなど,生活様式は大幅に変化してきている。,(片倉もとこ) 78200,やもめ,ヤモメ,,,一般に父系社会では,夫を失った女性は,亡夫の兄弟と結婚することが多いといわれるが,イスラム社会は,たてまえは父系制であっても,実際にはかなり母系的要素をもっており,兄弟が一人の女性を引き継ぐという例は,イランやアフガニスタンにおける多少の例を除いては,全体からするときわめて少ない。イスラムにおいて,#婚姻#は,花婿と花嫁が証人のもとでそれぞれ署名して成立する,一つの契約であるとされているから,契約者の一方がいなくなることによって,その契約は自動的に解消される。つまり,夫に死なれた女性は,結婚契約から解かれる。したがって,やもめになった場合,夫方の家に閉じこもり,夫側の親族から面倒をみてもらうということは,全体からすれば少ない。元来,家同士の結婚という観念はない。女性は結婚しても,未婚の時と同じ姓名であり,実家から精神的にも物質的にも援助を受けるのが普通である。経済的・身体的に世話の必要な場合は,血のつながりの最も近い者のうち,世話をする力のある者が当然の義務として引き受ける。こういう条件の備わっている者がその義務を怠る時には,社会的に非難されるので,こうした制度は,イスラム社会における一つの社会保障制度になっている。
 夫を失った女性は,法の定めるイッダ期間中,すなわち夫の死後4ヵ月と10日(コーラン2章234節)は,白衣(地域によっては黒衣)をまとい,化粧は禁じられ,近親者以外の者を訪問してはならないとされる。イッダには,妊娠の有無を明らかにすることと,もし妊娠していれば,その子供の父親を明確にする意味がある。しかし,妊娠の可能性のない老齢者の場合でも,慣習的に守られている。イッダ期間が過ぎれば再婚も許される。むしろ奨励されており,実際すぐに再婚する女性も多い。,(片倉もとこ) 82300,ワクフ,ワクフ,waqf,,「停止」を意味するアラビア語(複数形アウカーフ)。イスラム法の用語として所有権移転の永久停止を意味し,#ファイ#理論において,征服地の土地は分配・譲渡を許されないという意味でワクフ(より正確にはファイ・マウクーフ)とされる。しかし一般には,ある物件の所有者がその用益権を放棄し,それからの収益が最初に設定された目的に使用されているかぎり,その処分権をも放棄することを意味する。それには,(1)個人が#モスク#,#マドラサ#,病院,孤児院などに,その維持のため土地などを寄進する慈善ワクフ(ハイリー)と,(2)個人が子孫のために私財を信託する家族ワクフ(アフリー)に二分されるが,実際上はその混合形態が多い。寄進された物件をマウクーフ(北アフリカではマフブースまたはハビース),寄進(信託)者をワーキフというが,一般的には寄進財そのものをもワクフ(北アフリカではハブス)という。
 ワーキフの所有権については議論が分かれ,#アブー・ハニーファ#と#マーリク派#は,所有権は保有するが,その行使は許されないとし,#アブー・ユースフ#以後の#ハナフィー派#と#シャーフィイー派#は,所有権は神に帰したとする。ワクフにはナージルまたはムタワッリーという有給の管理者を置かねばならず,初代のナージルは普通ワーキフが任命し,しかもワーキフその人であることが多い(マーリク派はこれを禁止)。ワクフ設定文書に規定がない場合は,#カーディー#がナージルを任命し監督する。イスラムの利益に沿わないワクフは無効とされるが,実際にはキリスト教の教会へのワクフ寄進の例もある。またワクフとされる物件は永久性を要請され,したがって土地・建物等の不動産が望ましいとされるが,書物などの動産もワクフとすることができた。
 法学者は,イスラムのワクフ制度はムハンマドに始まるとし,いくつかの例をあげるが,それは土地の無償提供(ムハンマドの住宅用地)であったり,土地ではなく収益の分配(ハイバル)であったりする。イスラムのワクフ制度は実際には#ウマイヤ朝#時代にビザンティンの制度にならって始められ,#アッバース朝#時代に一般化し,#マムルーク朝#時代に最も発達した。家族ワクフは,#シャーフィイー#がフスタートの彼の屋敷を子孫のためにワクフとしたのに始まるとされるが,均分相続による遺産の細分化を防ぐ手段として一般化し,ワクフ制度普及の牽引力となった。エジプトなどでは19世紀以降,地主経営拡大の過程でワクフ地は大いに拡大した。ワクフ地の増大とともに,これを規制する動きが各国で始まり,#オスマン帝国#は1826年,エジプトは1918年,イラクは24年にワクフ省を設けて管理の強化を図った。さらに46年のエジプトのワクフ関係立法に始まり,各国でワクフを制限する方向に進み,エジプトでは52年に家族ワクフを廃止し,翌年慈善ワクフを国家の管理下に置き,他方レバノン,シリアでもワクフの新設が禁止された。,(嶋田襄平)