出張報告(パリ、ライデン、カイロ、1997年9月)

 

新プロ第5a班  大稔哲也(九州大学)

新プロ第5a班(『生活の中のイスラーム』研究班)より派遣され、去る9月にパリ、ライデン、カイロを前半駆け足で回る機会を得た。その際、ある特定の一テーマを追及して結論に導くという形を取らず、研究班のテーマに関連して筆者が手がけている諸テーマを並行して進めるという方式を取った。それらは大別して、1. カイロという都市の影の部分を構成し支えるインフォーマル・セクター、及びそれの集中する庶民街の研究、 2.中東、特にエジプトにおける宗教・民衆運動の歴史的考察 、にまとめ得る。さらに実際の調査に即して詳述すると、1.に関しては、オールド・カイロ地区のゴミ回収と養豚・屠殺・肉臓物市場・革鞣し・(革端切れ等による)窯業・石灰粉作り等の調査。それと比較したコプト(キリスト教徒)地区マンシヤット・ナーセルのゴミ回収と養豚・リサイクルの調査。オールド・カイロ庶民街の生活全般に亙る長期観察。2.に関連しては、広大な墓地区(死者の街、カラーファ)におけるムスリムの参詣活動に関する写本を中心とした文献調査、コプトの参詣形態調査、及びムスリムとの比較。さらに、墓地区自体の踏査と聞き取りなどが挙げられる。これらは、行動の形態から言えば、1) フィールドワークに出る、人と会って聞き取り・情報を得る、2) 研究者と会って共同研究の打ち合わせをする、情報・意見交換する、3) 写本・文書館に通う、4) 書店を巡り文献を集める、等という手続きを取った。


では以下、出張経過の時間軸に沿って、研究テーマに関連する調査報告を織り込む形でまとめてみたい。

1. パリ、ライデン編

パリにおける究極の目的はBIBLIOTHEQUE INTERUNIVERSITAIRE DES LANGUES ORIENTALES所蔵の明らかな、17世紀のカイロ死者の街に関する『参詣の書』孤写本の閲覧にあった。これは、この未校訂著作の世界唯一の写本であり、他に閲覧可能性のある場はない。予めの書簡のやりとりでは打開のメドが立たなかったため、直接の訪問とした。しかし、誠に残念ながら、当該写本は「見つからない」(あるいは「紛失中」)という返事であった。他の館員、研究者らの証言も総合すると、数年前まで閲覧(持ち出しすら)自由であったものの、盗難が激しく、また、その防止に応対する館員数にも限りがあり、館長の交替に伴って事実上閲覧出来ないよう未整理のままになっているという。この写本を以前、実際に使用した研究者のことを伝えても、「その研究者が盗んだかも知れないので、連絡先を教えてくれ」と言う有様である。数日のやりとりに加え、他の筋から頼んでも、同様の結果であった。一刻も早く、アラビア語写本の閲覧公開(マイクロフィルムででも)が再開されること(あるいは他の研究機関への移管)が望まれる。これでは、現在、所蔵・閲覧状況の改善のみられる現地エジプトではなくフランスに所蔵されていることの意義は、限りなく少ない(現況では、研究上の障害以外の何物でもない)。しかし、この研究所も中東研究書古典をかなり広範に有しており、後日、2点ほどマイクロに収めた。なお、本図書館所蔵アラビア語写本の手書きリスト(未刊行。2巻)は閲覧できる。ここでは、Florence Carneiro図書館員(アラブ写本担当)と、Mounem Rashida 図書館補助員(アラビア語)に特に御世話になった。

次いで、著名な中東史家Yusuf Ragib氏を訪問することにした。当初その現所属は不明であったが、様々な所で聞き回った結果、コレージュ・ド・フランスの研究員(専任)であると判り、約束を取りつけて面談することが出来た。氏は元々、エジプトのいわゆる「死者の街」研究の代表的創始者であり、本格的文献研究の礎は彼によって造られたものと言える。その後、初期イスラーム期のエジプト史研究・パピルス文書研究の方に力点を移し、膨大な成果を挙げている。元来はエジプト育ち(カイロ・ザマーレク生まれと今回知った)であるが、碩学C・カーエンの薫陶を受けており、その晩年の共同による研究・校訂作業もつとに知られるところである。「死者の街」研究に水を向けると、初期イスラーム期からファーティマ朝期までの死者の街研究をすでにパソコン入力済みであるが、フランスの南フスタート発掘隊の結果次第で大きく結論が異なってしまうため、現在その結果報告を待っているという。これは恐らく、同氏の博士論文(1970年頃提出か。未見)を補訂したものとなろう。氏の初期イスラーム期のエジプト史(パピルス文書)研究がカイロのフランス研究所から続々と刊行されているほか、最新論文LA PAROLE, LE GESTE ET L'イRIT DANS L'ACTE DE VENTE(ARABICA 44,1997)では、イスラームにおける売却の際の語り、身振り等にまで筆が及んでおり、社会史全般に造詣が深い。未だ来日経験はなく、森本公誠氏以外に日本の研究者も知らないとのことであり、本プロジェクトで是非とも招聘したい一人である。懇談と研究上の意見交換ののち、幾つか史料上のアドヴァイスもいただいた。

このほか衆知のことであろうから詳細は略すが、空き時間をみつけて国立図書館にも通い、若干のアラビア語写本を閲覧すると共に、かねてよりずっと探索中の、今日知られるムスリム世界最古の参詣書(Ibn Qawlawayh著Kamil fi al-Ziayarat, Najaf, 1946年,リトグラフ版)を徹底的に探したが、当所には存在しないことを確認し得た。また、アラブ世界研究所で若干の研究書を閲覧。その向かいのIbn Sina, al-Mashriq(Librairie de l'Orient)両書店の繁栄拡大は7年前に訪れた際になかった光景であり、欧米出版のアラブ関連図書、及びベイルート系の文学書などを入手するには便利である。

正味四日ばかりのパリ滞在を終え、早く住み慣れた中東に還りたいという想いを抑えつつ、列車で5時間以上を要してライデンに向かった(経費節約を考慮)。ここでライデン大学図書館所蔵アラビア語写本が目的であることは、言うまでもあるまい。しかし、アラビア語校訂本中の記述からからその存在を措定していた写本は存在しないということが判明した。代わりに他のテーマの写本を2点マイクロ複写依頼したほか、前世紀の校訂本などを閲覧・複写した。ここでも、数百年前の写本をじかに手に取って閲覧することが出来、普段から写本研究に携わっている者にとっては、震えの走る瞬間であった。閲覧手続きは実に簡単であり、前世紀後半から今世紀にかけての欧米語研究書、同アラビア語校訂史料(特にベイルート刊本など)も多く所蔵されており、さらにじっくり腰を落ち着けて研究したい思いに駆られた。しかし、正味三日ほどの滞在で、予定に従ってカイロへと発った。また、ブリル書店の旧古書部門の独立したHet Oosters Antiquarium /Smitskamp Oriental Antiquariumの階上倉庫も覗いたことは、御推察の通りであるが、現在カタログ掲載分以上の典籍はここにはほぼ存在しない。

 

2.【カイロ編】

 アタバ(実際はヱズベキーヤ公園真下)まで通ったばかりの地下鉄とそのエスカレーターに乗ってみて驚嘆し、カイロ大学図書館(目録室)や国立図書館(ダール・アル・クトゥブ)写本室(館員専用。写本が登録されており、調べてくれすらする)にコンピューターが導入されているのに目を見張り、筆者の留学時代との隔日の感を深める一方、かつて住んでいた庶民街オールド・カイロの人々は依然貧しく、近所2箇所のモスクもスピーカーによるアザーン(礼拝呼び掛け)禁止と当局の厳しい監視下に置かれ、上エジプトでは教会内に乱入したムスリム武闘派が礼拝者を乱射殺したり、警察襲撃など「アルジェリア化」という言葉をしばしば耳にする両極(双方は必ずしも恒に対立するわけではない)が感じられた。事実、滞在中に白昼、市の中心部(カイロ博物館前)で爆弾テロがあり、死者10名を数えた。加えて、内相自身の不正への庶民の眼はみな厳しく、欧米化の行き過ぎへの懸念もこれまで以上に耳にした。

さて、カイロ到着より連続四日、M・ナギーブ講師(カイロ大学文学部史学科専任)と共同研究の打ち合わせに入り、その後も延べ2日作業した。また慣例通り、カイロ大学文学部史学科を訪問し、ハサネイン・ラビーウ教授(カイロ大学副学長)、R・アッバース教授(現在、文学部副学部長〔大学院〕)らとも対談するなどした。他に、M・ラマダーン助手(カイロ大、アルトゥク朝史専攻)、R・ムーサー講師(オスマン朝期エジプト建築史専攻、ジュヌーブ・アル・ワーディー大)、M・アフィーフィー助教授(カイロ大文学部、オスマン期エジプト史専攻)、ムハンマド・マフムード氏(エジプト歴史学協会専従)等と、再会もしくは懇談した。特に、アフィーフィー氏とは本プロジェクトも関わる来年1月の国際シンポジウム(於民博)で共に発表することとなっており、そのことや共同研究の可能性をも含め延べ2日、歓談した。

以下、フィールドワークと並行して、研究者との交流や史料館における文献探索に出かけていたが、フィールドを中心にまとめて述べることにする。

筆者の狙いの一つは、イスラーム期の「中世」エジプトにおいて大流行した「死者の街」参詣の背景について考える上で不可欠と思われるムカッタム山の在り方を歴史的に探究することにあった。同山は死者の街の背景を形づくる求心的磁場としてあったと考えられるためである。ところが、ムスリム側の史料を手繰たぐってゆく過程で、この山がイスラーム期以前のエジプト人やイスラーム化して後のズィンミー、特にコプト(キリスト教徒)にとって象徴的にかつ現実的に重要な意味を担っていたことを確信するに至った。

そこで、今回は特に、5世紀から16世紀にかけて栄え、盛時にはムカッタム山南腹(トラー)に六千人の修道者を抱えていたというクサイル修道院跡を訪ねる予定でいた。しかし、様々の障害から目標を変更し、そこから程近いマアサラ地区の旧シャフラーン修道院(現聖バルスーム・アル・ウルヤーン教会)を訪問した。この修道院の建立も5世紀初めと旧く、ファーティマ朝カリフ・ハーキムの時代に再建され、他の(ムスリムの)カリフもしばしば訪問している。元来は聖マルクリウスの名を冠した修道院・教会であったが、後に逗留したバルスームの名を冠して称されるようになった。往時には300人の修道者を擁し、財物が豊富に分配されたという。この聖バルスームは通称“裸のバルスーム”として知られ、ヘビを従えた奇蹟は著名である。1257年にカイロに生まれ、1318年に没したことのはっきりしている、同時期としては希少なコプトの聖人である。同修道院は1300〜1363年にかけて、第80、81、84代のコプト総主教を輩出する繁栄ぶりであり、このことも無縁ではないように思われる。  

筆者の訪問した9月18日はバルスームのイード(聖人生誕祭)が9月27日に迫っており、昼間から敷地内に場所取りし、夜間の賑わいに備える者をすでに100名以上数えることが出来た。一部には八月の下旬、もしくは上旬から待機している者もいると言う。筆者はこれまでにミート・ダムシースなど10以上コプトのイードに参加してきたが、その中でこのイードはカイロ圏内の中規模なものといえよう。参加者にはオールド・カイロ、ダール・アッサラーム、マンシヤット・ナーセル、ヘルワーンなど庶民(下層)地区の者が多かった。廟内にあるバルスームの遺体(墓廟)は病い治しなどの奇蹟を起こすため、ムスリムの参詣者もいるとされる。また、ここはヘルワーン及びマアサラ地区のオスコフ(最上層聖職者)アンバー・バサンティーの居所であり、教会一帯には、病院も付設されている。詳細は別の機会に報告したいが、帰国して、たまたま卓上にあった著作SAINTS ORIENTAUXを手に取り、このバルスームに関するB.Voileの論文があるのには驚いた。

次いで、オールド・カイロ地区のインフォーマル・セクター等に関連して、調査の概要のみ略述する。エジプトにおいても、4・5年前から急激に「環境」という語の氾濫を目にするようになったが、このオールド・カイロの問題はゴミ処理とリサイクル、環境、開発、貧困などの諸課題を包摂していると言えよう。

ここでの今回の調査の主眼は以下の点にあった。すなわち、筆者の従来の仮説によれば、歴史的・社会的経緯からオールド・カイロに展開してきた屠殺・肉市場・革鞣し・革端切れなどを利用した窯業・石灰粉作り・ゴミ回収と養豚業らは、互いに原材料や燃料、廃棄物等をめぐって繋がり合うサイクルを形成し、人的ネットワークを重ねつつ言わば有機的に共存共栄してきたのであった。今回は、このサイクルの核の一つである屠殺場が移転してしまったことによって、サイクルの全体と他要素はいかなる影響を被ったのか、崩壊しつつあるのか、あるいは全く影響無く健在なのか、これらの点を念頭に置きつつ調査に当たったのである。そして結論から言うと、当局は公営である屠殺場の移転には成功したものの、私営の他部門を動かせずにおり、現時点では肉臓物市場の一部が機能移転している他は、従来のままで何とか凌いでいる。ただし、今後この情況が長期化すれば、屠殺人達の居住区域は移るであろうし、それに人的にも材料的にも依存する他産業も櫛の歯が欠けるように移転してゆく可能性が高い。また、ゴミ回収・養豚に関しては、当局が強権発動して強制撤去に踏み切るときがいずれ来るであろう。

ではまず、その旧屠殺場(マズバフ)であるが、昨年後半に総取り壊し・撤去が行われた。これは恐らく20年以上懸案となっていたものであるが、親方(マアッリム)衆を中心とした数千人に及ぶ屠殺人達の猛反対に遭って、頓挫していたのである。彼らは言わば一大武装集団の如くであり、日常使用する刃物類に加え、銃器も豊富に保持していた。このため、かねてから当局も屠殺場内の案件に関しては、口出しできない状態が続いてきた。しかし、徒党を組んでの派閥抗争と、有力一族間の伝統的な復讐(タール)劇は止むことがなく、また旧来の設備の老朽化、一部自動化を実現した新屠殺場の整備完了も相俟って、今回の取り壊しに至ったのである。

筆者は1988年〜1991年にかけてこのオールド・カイロ庶民街に居住していたこともあって、ここを度々訪ねていた。そして縁あって、12歳から屠殺一筋50数年のアッバース親方と約8年来の親交を結び、ライフ・ヒストリーの聞き取りを継続してきた。その親方も昨年、終生愛した旧屠殺場の閉鎖・撤去とほぼ時を同じくして世を去った。今回、屠殺場跡のがらんどうとなった皿地を目の当たりにすると、特に感慨深い。

現在、旧屠殺場の屠殺人も皆、その集住地区であるガイヤーラ、マダービグ、ハサン・アル・アンワル等から、やむなくタクシー、マイクロ・バスで30分以上かけて新屠殺場まで通っている。ちなみにこれら屠殺人・革鞣し業者などが集住する地区は92年の地震(震度約3、死者370人以上)の被害を特に大きく受けた地区の一つであり、アッバース親方の自宅も倒壊の危険のため取り壊された。ただし、併設の肉臓物市場は細々とながら持続している。

今回、その肉臓物市場の取材の中で、ちょうど牛足(カワーリヤ)を売っていたアリー親方と新たに親交を結び、調査の端緒を拓くことが出来た。一端のみ要約すると、親方は1961年から屠殺を続け、現在53才である。al-'Ayyati一族の出で、ギザ出身。一族にはギザ県とオールド・カイロの屠殺場の双方で働く者がいるが、親方は「女を追ってこっちへ来た」と言う。四人の子供がいるが、喧嘩が多いため、屠殺人を継がせてはいない。ここにはアッバース親方と全く同じ語りが再現されている。また、ここでもそうであったが、親方達に自由に話してもらうと、その語りは自然と喧嘩の話へ収斂する。オールド・カイロ最新の喧嘩は5〜6ヶ月前で、旧屠殺場南側の大通りを挟んで若者の集団が劇薬酸類の入ったビンを投げ合う騒ぎになったという。例によって、一方が他方に属する女性にちょっかいを出したことに端を発して、大喧嘩になったのである。幸い負傷者のみで死者が出なかったというから、ここでは小競り合いの部類で終わったことになる。もちろん、警察は関知せず新聞にも出ないが、筆者も南オールド・カイロに居て、この喧嘩の噂を耳にしていた。

現在、バサーティーンの新屠殺場にカイロ県の全屠殺機能が移されたため、屠殺と食肉の流通サイクルに若干の変化が生じている。すなわち、ギザなどからオールド・カイロ他のマウキフ(停獣場)他に運ばれた屠獣は屠殺人や肉屋等が買いつけてバサーティーンへ運び、屠殺・解体後、その場でも売買され、アタバ市場(カイロ最大の肉市場を誇る)の商人連(ガマイーヤ)や一般の食肉屋などは買いつけた後、各々販売する。あるいは新屠殺場および、オールド・カイロ旧屠殺場の併設市場(販売所wikala)へもたらされ、やはり商人や食肉屋、一般に販売される、という形への変貌を遂げたのである。

そこで、今回はバサーティーンの新屠殺場も採訪してみた。1983年に開設され、その敷地面積はかつての屠殺場に比べかなり広くゆったりと取ってあり、今後の建て増しがまだまだ可能である。旧屠殺場に比べナイル川から内陸に入り込んでいるため、大量である排水処理の困難が予想されるが、近辺で処理後、農業用水に使用している。今回は特に、ラクダ、ブタ、子牛の棟を重点的に回ったが、以前に比べ使用水量は激減したものの、新しく風通しも良く、血と糞尿の腐敗臭はかなり改善されている。それでも、久しぶりに筆者も、屠獣からほとばしる血飛沫しぶきで衣服を汚すことに変わりはなかった。ラクダはかつてのエンバーバ地区のラクダ市が閉鎖されてバルアーシュ(ギザ)に移され、そこから買い付けられてきて、先のサイクルに乗る。屠る際は、首を刺して上へ血を吹かせるのが最良であるが、牛のように屠る(喉笛を横に裂く)こともある。巨大なため第5棟の機械で二つに裂かれることが多く、その後はラクダ専用棟へ運ばれ解体される。オート・メカと聞いて行ったが、何のことはない、その後の手作業は基本的に以前と同じであった。この棟では一日平均100頭を解体処理するという。一方、ブタは専用の一回り小さい棟で処理される。屠殺時には電気を通した専用の囲いなど、他の動物にはない専用機器を使用していた。屠殺法は心臓を一突きである。

基本的に屠殺場を構成しているのも公務員である獣医(食肉検査官)と屠殺人達であることに変わりないが、獣医の増員と当局派遣の監督官の存在もあって徒党の緩化・解体へと向かい、喧嘩は激減したという。私は、旧屠殺場に比べ、何か淡白で褪色し、無味乾燥な印象を受けた。しかも、衛生状態が改善されたとは思われないし、屠殺人達の勤務地へのアクセスは極度に悪化した。しかし、ここでカイロ県の全食肉が賄われているのだ。筆者はさらに、屠殺場門前で臓物を売る女親方マアッリマと識り合い、今後の調査の端緒を創っておいたが、これについては略す。

さて、他日、筆者は豚肉の流通経路の再確認のため、アタバの肉専門市場へ赴いた。ここでは、新屠殺場で解体された後の豚肉の取引き形態、一般の他の肉に並んで売買されているのか、あるいは、その売買の担い手の宗教の確認などに主たる関心があった。そして、膨大な肉・魚の山と、売り手・買い手の犇ひしめき合う喧噪の中で、ある小径の一角に豚肉最王手のM肉屋の支店を見つけた。しかも、そこは市場の他の在り方と違って、普通の店構えのまま、市場の一角に組み込まれていたのであった。中では、同肉屋の他店舗同様、豚肉とその加工食品が売買されていた。ムルタディッラ(ランチョン)などが特に人気である。筆者が同肉屋S・T支店でも見た、お馴染みの襟巻きした愛嬌あるブタの写真も掛かっている。M肉屋ということで想定されるように、店員は全てコプトであった(上エジプト出身)。スーク全体から見れば、すぐその外へ逃れられるどちらかと言えば周縁部に位置しているとはいえ、周囲のムスリム達が肉を山と積んでいるまさにその脇で、その禁忌に触れ嫌悪される豚肉が販売されている構図は、エジプトにおける共存の実態を現しているようでもあり、また当局のかなり上層にまで食い込んでいる可能性も脳裏をよぎった(ただし、周囲ムスリムのM肉屋への態度は厳しい)。このように、新屠殺場で屠殺された豚は一手にアタバ・スークに集積されて、その後、各肉屋に買い付けられて市中に出回るのではなく、屠殺後、直接市内のそれぞれの食肉店へと流通して行き、その肉屋の一つがアタバ・スーク内に位置を占めているに過ぎないと考えられた。

以上を確認した上で、やはりオールド・カイロの窯業、漆喰作り、およびザッバーリーン(ゴミ回収・処理人)の集落方面へ向かった。ザッバーリーン集落への途中に展開する諸産業、すなわち、革端切れやさとうきび搾りかす、木屑を燃料とする窯業、およびモカッタム山から運ばれた石灰岩塊を粉状にする作業は以前と変化なく続けられている。一方、ザッバーリーンの方であるが、こちらには本年1月と比較しても若干の変化が認められた。まず、これまではブタを囲っているザリーバ(囲い)内には、生ゴミを中心としたゴミがほぼ回収後のまま山と放置され、一部は常に燃やされつつ、その煙の中でロバや犬とともにブタがゴミを共に食み、その中に座して女性らが仕分け作業を行うのが典型的光景であったが、今回、屋根を架けた小屋の増加が見られた。これは背後の丘上に下層のムスリムを中心とする人々が大量に住み着きはじめ、その視線を避けるためと推定されよう。そして、養豚小屋上に屋根が架けられ、側面にも覆いが増すと、以前のようにゴミを燃やしたままのスタイルは変更を余儀なくされることになる。小屋内に煙がこもりすぎてはブタを衰弱させるためである。このことは、回収後のゴミをそのまま囲い内へ入れる以前に、選別作業の徹底化を促すことにつながると考えられる。

第2に、今回もザッバーリーンらの自宅へ案内されて、以前との変化に驚いたのは、その家具や内装の整い方である。明らかに、資本の蓄積が窺えた。オールド・カイロ地区のザッバーリーンは、コプトが大々的に展開するマンシヤット・ナーセルなどに比べ、これまでリサイクル・販売のシステムに充分に乗っておらず、そのため細々とした経営展開を強いられてきた。その住居も、一夜建てのような簡易小屋が往々にしてみられたのである。しかし、今回、一部のムスリム・ザッバーリーンは、高級住宅街であるM地区などに直営に近い形で店舗を構えており、そこへ直接卸して中間業者を介入させないことにより増益を得ていた。これはマンシヤにこそあったものの、この地区にはなかった形態である(マンシヤのザッバーリーンに関しては「カイロのザッバーリーン(ゴミ回収・処理人)研究へ向けて」を『MUSEUM KYUSYU』次号、1997に掲載予定である)。

また先述のように、この地区ですら周囲の住地化は進んでおり、さらに政府はゴミ処理後の巨山を撤去し、集合住宅を付近に建設しつつある(なお、これは、イスラーム期の遺構を破壊する形で進行している)。さらに、裏の丘へ登る階段が新設され、丘上には南方のダール・アッ・サラームへ向かう幹線道路が敷設された。このように見ると、かねてより予告されてきたこのゴミ回収集落の強制移動・撤去の時期も、迫ってきたように思われる。

私がかつて住んでいた庶民街、南オールド・カイロ地区そのものも、大きな変容を被っていた。前出の幹線道路につながる形で、ナイル川に並走するコロニィーシュ大通りから地下鉄線(実際には地上を走る)を跨ぐ高架橋コーブリーが架けられたのである。これによって、これまで車社会からは比較的孤絶してきた地区が、ダイレクトに外部と接続されることになった。加えて、この旧い庶民地区は1992年の震度3の地震で大打撃を受けていたが、そのための取り壊し作業が、ようやく完了しつつあった。ただし、その後の再建作業は、ようやくその緒についたばかりである。ここでも、聞き取り調査などを継続した(略)。

さて、冒頭にも述べたように、筆者は写本を中心とした文字史料をもとに民衆運動や社会史の掘り起こしを行ってきたが、その一環として、カイロのいわゆる「死者の街」のフィールドワーク(聞き取りを含む)も継続している。今回はまず、ナスル門外に展開する墓地区を一つの焦点として回ってみた。その理由は、ファーティマ朝期より始まったこの墓区が、マムルーク朝後期からオスマン朝期の墓地区について新史料を基に調べてゆく過程で、再度墓地として拡大・稠密化し、さらに外縁部のサフラー地区につながって行ったことを知ったためである。またここは、すでに他の日本人研究者も入っていることから、調査を後回しにしていたためでもある。その結果分かったのは、マムルーク朝末期までの聖者を中心とする著名人の墓はあまり現存せず、同じ場所にオスマン朝期以降の比較的新しい墓が再建されていることであった。また、一例を挙げるとサアディーヤ教団のようにスーフィー教団がかなり入り込んでおり、他教団もこの地区に幾つかの小拠点を抱えているものと思われた。ただし、全体として、付近を取り囲む住宅街が間近に迫っており、他の墓地区である旧カラーファやサフラー地区(共に死者の街を構成)に比べ元々狭域な上に、縮小化が進行しつつある。

一方、カラーファの端、モカッタム山の肩に位置するジュユーシー廟は、現存するファーティマ朝期の聖廟として最も重要なものと言えよう。筆者はこれまで軍基地に妨げられてきたが、今回コース取りを変更して訪問することが出来た。しかし、同じシーア派のよしみでバハレーン(インドとの別説あり)が修復再建を完了し、真白に塗り立ててしまったため、興趣がそがれてしまった。他に、ふもとのルウルウ聖廟(小カラーファ)も同じくファーティマ朝の遺構ということで選ばれ、悪改修されている。

さらに、大カラーファの南限に位置するアーサール・アン・ナビーは、近所に住んでいたにもかかわらず訪問せずにいたが、今回ようやくそれを果たした。ここは、元来ナイル川増水期にハバシュ湖に面する位置に建てられていたコプト修道院脇にマムルーク朝スルターンが建立し、預言者ムハンマドの聖遺物を買い集めて奉納したものであった。同時期には多くの参詣者を集めて栄えたが、その後、聖遺物を移されてさびれた。現在は地元の人以外ほとんど訪れることもない、小モスクに過ぎない。遺物自体はその後、各所を転々とし、現在、街中のホセイン・モスクに納められていることは衆知の通りである。今回は、唯一遺された「預言者ムハンマドの足跡」と付近の遺構を調べ、ムハンマド・アリー期の史料の記述とも対比も行った。当日、あいにくの砂嵐と修復工事中で、天井からレンガや石が降るなどしたが、予定通り図像資料を取ることができた。

以上、とりとめなくなってしまったが、今後、この調査結果も踏まえた上で、より巨視的視点から議論を構築してゆきたいと考える。

最後に、訪問した他の研究機関の関連情報を列記して報告を終えることにしたい。ダール・アル・クトゥブ(国立図書館)やアラブ連盟大学写本研究所では、以前通りたやすくマイクロ・フィルムを閲覧できた。前述のように、前者の写本室には館員の操作によるコンピューターが導入されている。エジプト歴史学協会はこのところ改修工事が続き一般の使用はできなかったが、(アッラーの思し召しがあれば)10月初めから再開されているはずである(筆者が利用した9/24時点では、内部塗装中であった)。カイロ大学図書館にも部分的にコンピューターが導入されていたことは先述の通りである。カイロ・アメリカン大学図書館のVisitor利用に関して言うと、八〜九月(夏期休暇)中は全くできなかった(現在利用可能)。そのうえ利用料金も急騰し、使用しにくい方向へ加速しつつある。

なお、事実誤認の指摘や情報を加えて下さる方は、以下へお願いします。

 

5jimu@culture.ioc.u-tokyo.ac.jp

東洋文化研究所・西アジア研究部門内、新プロ5a班事務