イスラーム地域研究5班
研究会報告

b グループ第6回研究会

(東京外国語大学AA研共同研究プロジェクト・「イスラーム圏における国際関係の歴史的展開−オスマン帝国を中心に−」1999年度第3回研究会)

日時:1999年10月30日(土)午後2時から6時
場所:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・大会議室


研究報告
1) 野坂潤子(AA研共同研究員・東京都立大学大学院)
「帝政ロシア支配下のカフカス社会
――1910年〜11年のN.M.レインケ調査報告にみる法と裁判――」

2) 佐原徹哉(AA研共同研究員・東京都立大学人文学部・助手)
「タンズィマート期のバルカンにおける都市行政評議会」

 野坂潤子氏は、まず10世紀にまでさかのぼるカフカス・ロシア間の交渉史を概観し、18世紀後半から漸次進行したロシアのカフカス支配に関する研究史を総括した。そしてカフカス内部の社会構成の地域的多様性や、19世紀後半におけるロシア中央部の諸改革法のカフカスをはじめとした「辺境」への導入の実態、といった問題を論じた研究が未だに少ないままであるとの問題意識を説明した。そのうえで、19世紀後半の司法改革諸法が、カフカス内でも大カフカス山脈の南部の外カフカスには導入されたものの、その北部の北カフカスには導入されなかったとの二重状況を指摘した。検討の対象とされたレインケによる調査報告は、北カフカスにも外カフカスと同様の司法制度を適用するための政策的要請に基づいたものであり、その予備的な、しかし極めて詳細な現地調査の報告である。外カフカスには中央ロシアに連続する一種の三審制的な司法管区制度が形成されたが、北カフカスには、山岳民裁判所という内部自足的な制度が存在するままであった。ここでは「現地慣習法」という名目で、イスラーム法を含めた諸々の非帝政法が混在したものが裁定の根拠とされていたが、当然ながら混乱が生じていた。一方、外カフカス地域においても、都市とその周辺地域など、様々なレベルにおいて言語・民族構成の多様性に差があったが、その中から黒海沿岸に近いクタイシ地方裁判所管轄区が取り上げられ、その地域民族構成と、裁判機構職員の民族構成について比較検討がなされた。住民はグルジア人やイメレチア人をはじめとして11の民族によって構成されていたが、地方裁判所職員はロシア人やイメレチア人が多数を占め、最も主要なグルジア人は存在しなかったことなどが指摘された。そして、こうした司法制度の導入が、カフカス地域における民族の集団的境界の顕在化や分断化を促進したことを指摘した。報告の後、司法改革とその他の制度改革の関連や、山岳民裁判所の「現地慣習法」と、イスラーム法/法廷制度の関係、などについて活発な議論がなされた。

 佐原徹哉氏は、19世紀後半の近代化諸改革(タンズィマート)の時期、バルカン諸地域で都市行政評議会(ベレディエ・メジュリスィ)がいかに形成され、運営されていたかを論じた。まず、トルコの歴史研究界が、首都イスタンブル以外の地域ではこの制度が存在しなかった、あるいはほとんど実質的な行政機構とはならなかった、としてきたことを述べたうえで、これを、地方資料の実態調査を怠ってきた結果であると批判した。一方、バルカンなかんずくブルガリアの歴史学界においても、オスマン政府の行政改革がほとんど実効性をもたず、この都市行政評議会が定着しなかった、と論じられてきたが、実際には様々な資料の中でその存在を示す情報が散在し、マケドニアのスコピエについては3万点にものぼる歴史文書が存在することを指摘した。こうした齟齬は、地方資料が中央でなかなか見出されないことや、バルカンの民族主義に彩られた歴史学が、都市行政評議会を宗教別のコミュニティ機構と混同してとらえてきた事情に由来すると指摘した。そのうえで『オスマン年報』(サールナーメ)の1867年から10年間にわたる地方州行政機構の記述部分を分析し、バルカンの州・県レベルで存在する都市行政評議会の構成員などをデータベース化した調査結果を示した。その結果、ボスニア以外の州において評議会の存在が十分に確認されることや、地方差はあるものの、総体として構成員のムスリムと非ムスリムのバランスが配慮されていたこと、などが指摘された。こうした制度は、トルコおよびバルカン諸国双方の歴史学界において軽視されてきたものの、近代的システムの中で多民族社会がいかに機能するかを実験的に示すものであるとして、その重要性が再度強調された。報告の後、トルコの歴史学界の研究動向に対する評価の問題や、都市行政評議会の財政基盤・規模、その具体的機能、タンズィマートにおける非ムスリム保護の原則と評議会の関連などについて、多角的な議論がなされた。

(文責:黒木 英充)


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