イスラーム地域研究5班
「地域間交流史の諸相」第1回研究会報告
日時:1999年6月27日(日)13:30-18:30
場所:東京大学東洋文化研究所・3階大会議室
休日でかつ悪天候だったにもかかわらず、30数名の出席者をえ、真摯な発表と活発で充実した議論が繰り広げられた。以下その論点を簡単に報告する。
目次
羽田正「「地域間交流史の諸相」研究会のめざすもの」
藤井真理「18世紀セネガルのフランス人居留地−黒人奴隷取引のための河川交通を中心に
−」
黒木英充「ナポレオンのエジプト遠征期のアレッポ−オスマン・フランス資料が 語る地域間交流・摩擦の断面−」
「イスラーム地域研究」プロジェクトの中での5班の位置、及び3年計画で行われる予定のこの研究会の趣旨と目標が説明された。
(1)発表者がこの研究会の前提として考える条件は次の3つである。
- 領域国家、国民国家などの「政治的地域」だけではなく、言語、宗教、民族、技術などの様々な文化的ものさしを用いて、「文化的地域」を設定し、それぞれの地域が互いにどのように接触し、交流してきたのか、その具体的様相を明らかにする。また、地域間交流を可能にした主体的要因は何なのか、についても考察する。
- 面的な広がりを持った地域(「ヨコの地域」)だけではなく、ある一つの地域の中の重層性(「タテの地域」)に注目する。一つの地域は決して単純な一枚岩ではないということに留意する。また、地域を空間的に閉じた存在とは考えない。
- 過去における地域間交流が、現代世界のあり方にどのような影響を与えているのかに注意を払う。
(2)具体的な研究対象としては、次の2つを考える。
- 地域間の交流(人、モノ、カネ、情報)が行われる「場」の研究。港町、宿駅、市場、道路など。3年という限られた期間の研究会なので、これらのうちでも特に「港町」を重視したい(他を排除するわけではない)。マルセイユ、ジェノヴァ、イズミール、ベイルート、バンダレ・アッバース、スーラト、マラッカ、寧波、長崎などを素材として取り上げ、様々な角度からアプローチを試みる。例えば、港町の形態、そこで働く人々、商取引のあり方、土地所有、関税、使用される言語、「租界」、宣教・布教活動、異民族間の結婚、娼婦、政治権力との関係など。異なった地域に存在する港町の物質的、社会的、文化的要素を研究し、その成果を比較すれば、港町としての共通性とともに、各地域の地域的特性も明らかにできるのではないか。
- 異なった地域を結ぶ人、社会集団の研究。商人ネットワーク(例えば、アルメニア人、インド系、イラン系の人々など)。船乗り社会、海賊、山賊、隊商、巡礼、宣教師など。「移動する人々」に注目すれば、地域間交流の具体像が見えてくるのではないか。
(3)研究会の目標は次の4つである。
- 3年目に国際ワークショップを開いてその成果をIAS叢書として刊行し、この分野に関する学問的貢献を果たす。
- ヨーロッパ、中東、インドなどいう従来の地域区分の見直しを考える。
- 東洋史、西洋史、日本史という従来の学問区分、境界を解消させる。
- 幅広い視野を持った若い研究者の育成に努力する。
<深沢克己氏による補足的コメント>
(1)港湾の立地環境と地域ネットワーク
- 沿海岸港/河口内港(大西洋・北海型)と沿海岸港という二つの類型。
- 港湾複合体と都市・港湾複合体という二つの類型。それぞれについて、イスラーム世界はどちらのタイプになるのか、または異なったタイプであるのか。
(2)港湾の交易活動と海上ネットワーク
- 能動貿易(商人、船舶の海外進出)と受動貿易(海外から商人、船舶が来航)
- 前者のネットワークに見える求心性と遠心性、後者のそれに見える反発力と親和力
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(1)はじめに
- フランス人居留地(ヨーロッパ世界)と西アフリカ世界との接触や交流のあり様を商業・貿易の観点から照射する、という点で、この研究は5−bの研究目的と合致する。
- 1930年代からはじまったフランス黒人奴隷貿易研究は、現在、ヨーロッパ史家とアフリカ研究者が合同で学際的な研究を行うようになってきている。
- 居留地文書、内陸探検記を使って、人、モノ、情報の移動伝達経路を実証的に追跡したい。それによって、港町の形態や機能を理解でき、社会集団の技術や接触の現場を再現できるのではないか。
(2)居留地
- 17世紀半ば以降、セネガル川河口のサン=ルイ、上流のサン=ジョゼフ、サン=ルイ南方海岸のゴレに居留地が築かれる。1734年にセネガル高等経営評議会がサン=ルイに置かれ、運営組織の整備が進む。
- 1659年のサン=ルイ商館完成後、貢納金、商品通過税を支払うことによって、周辺の黒人勢力との関係を良好に保つように努力がなされた。
- 6月から10月頃、25トン程度の輸送船が2,3隻サン=ルイ商館からサン=ジョゼフ商館に遡航し、サン=ジョゼフで一隻あたり80-120人程度の奴隷を積んでサン=ルイに戻った。そこであらためて、奴隷は300トンクラスの大型船に積み替えられた。
(3)内陸商業網との接触−サ=ジョゼフ商館周辺における商取引−
- ソニンケと呼ばれる西アフリカの商人集団が隊商(サアテ)を編成し、600から800人程度の奴隷を連行。
- サン=ジョゼフ商館では、周辺の交易市場を治める者に貢納金、奴隷取引特別税を支払い、隊商長にも貢納金を支払う。
- 通訳がまずフランス側の商品内容と交換比率を提示し、これに対して隊商長が持ってきた商品の内容と交換比率を提示した。契約が成立すると、フランス人外科医による身体検査の後、正式に奴隷がフランス側に引き渡される。
(4)おわりに
- 「港町」:西アフリカの自然状況に適応した現地の技術を活用。黒人王国内に制度に対応。
- 「社会集団」:隊商・隊商長、交易市場支配者。秩序立てた商取引。
- 居留地における商取引の実態を、長期的視点から考察できる可能性を持つ発表者未見の史料の存在。
<主な質疑>
(1)奴隷に対するキリスト教伝道の有無、(2)ヨーロッパ各国の奴隷貿易の実態とフランスの権益、(3)西アフリカ域内での奴隷使用の有無、(4)フランスが扱った黒人奴隷の実数、(5)当時のフランス人の対黒人イメージ
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(1)はじめに
- 国家間交流の枠組みからはみでるような、あるいはそれをさらに深いレヴェルで支えているような、より原初的な交流を明らかにしてみたい。
- ナポレオンのエジプト遠征期におけるアレッポでのミクロ・レヴェルでの人間の動きの中で、摩擦も含めた地域間交流の実態を観察する。
(2)収監・財産没収・釈放
- 1798年7月1日のナポレオンによるエジプト侵攻のニュースがアレッポのフランス領事に伝わったのは、8月14日。
- 同年9月、全フランス居留民(36人)の自宅軟禁、ついで、ハーン・アル・ギュムリュク、さらにアレッポ城塞への連行、監禁。
- 同月、フランス人と庇護民全員の財産没収と記録を命じる勅令が、アレッポのイスラーム法廷で記録される。
- 1799年1月、フランス人に対する拷問、財産の競売開始。同年11月、10万ピアストルの保釈金と引き換えに、収監中のフランス人の身柄をイギリス領事の下に移すべし、との勅令。
- 1800年1月、フランス人釈放。
- 1802年9月、フランス人居留民の財産権保全を命じる勅令。
(3)都市におけるフランス人の滞在場所
(4)領事通訳のアイデンティティー問題
- 6人のアレッポ在住通訳(キリスト教徒)と使用人12人が、失っていたオスマン臣籍を急遽取り戻そうとする。
(5)フランス人の商業活動の具体例
- もっとも裕福な商人が被った被害は、オスマン側によると、約33万ピアストル、自己申告によると約46万ピアストル。
- この商人は、北米、中米からインドまでをカバーする広域商業圏を持っていた。
(6)おわりに
- 「被保護者」ではなくなったフランス人の立場と行動。
- アレッポのオスマン政府や民衆の穏健な対応。
- フランス人に対する和平後の補償について。
<主な質疑>
(1)資料の読み方の問題、(2)アレッポ在住フランス人や他のヨーロッパ人の数の増減、(3)境域に生きた商人集団としてのプロテジェ(庇護民)研究の重要性、(4)原初的な交流の枠組みの確認
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(文責 羽田 正)
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