イスラーム地域研究5班
研究会報告

比較史研究会

第1回研究会「所有をめぐる比較の試み」報告

日時・場所 1999年6月26日(土) 東京大学東洋文化研究所大会議室

参加者 43名


  1. 趣旨説明 (代表幹事 三浦徹 お茶の水女子大学)
  2. 「所有をめぐる歴史的もつれあい:アジア・太平洋地域における土地所有を中心に」 (レジュメ..........PDF ファイル)
    杉島敬志 (国立民族学博物館)
  3. 「イスラーム私法における所有権概念:占有、所有、庇護関係」 (レジュメ..........PDF ファイル)
    柳橋博之 (東京大学人文社会系研究科)
  4. 「土地を売ること、人を売ること:中国における「所有」の観念」 (レジュメ..........PDF ファイル)
    岸本美緒 (東京大学人文社会系研究科)
  5. 総括質疑
  6. 論点の整理と展開
  7. コメント

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1.趣旨説明(代表幹事 三浦徹 お茶の水女子大学)

 比較の方法を一つに限る必要はない。方法論はあとまわしで、むしろおもしろい問題がみつかってから、「泥縄」で議論してもよい。

1-1 原理的レヴェルでの比較
 この研究会では、「原理的レヴェルでの比較」を目指す(岸本美緒さんの所有研究会趣意書を参照)。地域に内在的な論理(固有の論理)や、法・所有・交換など文化にまつわる原理に立ち戻ることによって、地域をこえた座標軸を発見していきたい。

1-2 地域の固有性をかならずしも前提としない。
 研究会では、中国・東南アジア・中東イスラームの3地域を柱としていくが、とりあげる地域はテーマに応じてフレキシブルに考えており、むしろ地域設定そのものを組み替えていくことをめざす。

1-3 イスラーム的要因
 イスラーム地域研究プロジェクトの研究会ではあるが、「イスラーム」にこだわらずにやっていく。つまり、イスラーム的要因とはなにかという定義から始めないで、イスラーム的要因が存在しない地域や対象をもとりあげ(日本やヨーロッパなど)、イスラーム的要因と思われるものを、より普遍的なレヴェルで読みかえるように努力したい。そのような作業から、イスラームが「あぶりだし」になればよい、と考える。

1-4 歴史性
 比較「史」と名づけているが、歴史事象や時間軸上での比較という謂いではなく、現代を含む、時間・空間を限定しない自由な比較を楽しみたいと考えている。文化本質主義的 essentialism な立場ではなく、文化の「歴史的もつれあい」(杉島報告参照)を重視する立場の表明である、と理解していただきたい。

 各報告の概要と討論の要旨は以下の通りです(質疑討論は研究会幹事の責任でまとめ、敬称は略しました)。各報告については、レジュメを PDF ファイルの形で掲載してありますので、プリントアウトもできます。

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2.杉島敬志 (国立民族学博物館)
「所有をめぐる歴史的もつれあい:アジア・太平洋地域における土地所有を中心に」
(レジュメを参照..........
PDF ファイル「Pf_sugishima.pdf」

 杉島報告では、近代的な所有概念は、自己の身体と労働およびその成果を本源的な所有物とみなし、それは資本主義の基底にある商品交換の不可欠な前提条件となっていることを指摘するとともに、このような近代的な所有概念に当てはまらない土地と人間の関係を「土地制度」とよび、両者を明確に区別する必要があると論じた。そのうえで、重層的・共同体的・儀礼的な土地制度を市場関係に転換する土地政策の遂行過程を、「歴史的もつれあい」として理解することを提起した。

<近代的な所有概念とそれ以外の土地と人間の関係(「土地制度」)>

大塚和夫:「近代的所有」以外の所有に対して「所有」という用語を用いることを否定するのか?そうであるとすれば、「歴史的もつれあい」とは、近現代史に限定されるのか?
A:認めない。所有という概念を定義せずに、メタファーとして理解するのであえば、とめどもなく議論がずれていくことになる。
石川登: マレーシアやインドネシアでは、イスラーム法のミルクやハック(私的所有権)という用語が用いられている。これは、歴史的には自生的なシステム(土地制度)と近代的所有という二分法の間に位置するのではないか。
A:ミルクの周囲にどのような規則がつくられているのかを検討する必要がある。
水島司 :所有のなかで、土地所有だけ切り出すのはなぜか。
春日直樹:近代的な所有概念を導入する植民者側にも、さまざまな思惑があり、ロック的所有概念vs多様な土地制度、いう単純な対立ではない。
宮嶋博史:土地そのものは、人間の労働によって生産しえないのであり、中核(欧米)諸国においても、所有概念は一義的に整理されていない。にもかかわらず、植民地政策として外に出ていくときに、近代的所有概念の論理を押しつけるところに問題が生じている。また、労働自体も商品化しにくい。
深沢克巳:フランスにおいても、重層的な所有や共同体的な所有があり、それらと近代的な所有とのもつれあいは存在した。
白川部達夫:日本中世では、無所有(網野善彦氏の「無縁」のような)という概念があるが、これは土地制度としてはどのように位置づけられるか。

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3.柳橋博之(東京大学人文社会系研究科)
「イスラーム私法における所有権概念:占有、所有、庇護関係」
(レジュメを参照..........
PDF ファイル「Pf_yanagihashi.pdf」

 柳橋報告では、イスラーム法における所有権概念の基本を、上記の3つのトピックから示す形をとった。イスラーム法では、1それ以前の占有による所有権の取得の慣行を否認したこと、2所有権は、物自体(アイン)とその使用価値(マンファア)の二つの部分にわけて、それぞれ別個に所有権が成立するとし、とりわけ征服地においては、土地の物自体の所有権はムスリム共同体全体に属するために実際には空虚な概念となり、使用価値(用益権)が所有権の実質をなすこととなったこと、と説明。また、ミルクとは、物自体だけではなく、物の果実(労働による果実を含む)をそのものに帰属させる機能を含んでおり、所有物であると同時に所有権でもある、ことに注意を喚起した。

<近代法との異同>

柳橋氏が、このようなイスラーム法の所有権概念が、きわめて近代法的である、と述べたように、近代ヨーロッパ法との異同に質疑が集まった。

春日:種がそれ自体として拡大再生産する「資本」のような概念があるのか、貨幣は使用価値をもつのか?
A:労働は使用価値と考えられ、才能によって稼ぎが違うと考えられている(労働資本は拡大再生産するということか)。貨幣は物自体として捉えられ、使用価値を認めず、使うと対価がくるだけである。
三浦:土地を占有しているものに権利を認めない、という原則は、日本中世の「地起し」のような、土地の開発者の原所有権が売買によっても失われないという観念と比べると、きわめて、近代的にみえる。また、土地と人間の「自然な」結びつきを認めない考え方は、土地に対する執着や生産意欲を失わせることにならないか?
A:利潤(リブフ)は物を安く買って高く売ることによって生じると考えており、イスラーム法では、物の価値は流通に主眼が置かれている。従って、物の流通を妨げるような権利は排除されることになる。
大河原知樹:自由な土地取引を制限する「先買権」はなぜ認められるのか。
A:共同相続者から、財産が外にでていくことを防ぐための規定であるが、先買権の行使をふせぐための形式論理(潜脱、ヒヤル)がハナフィー派によって開発されている。
大塚:ワクフは神の所有権に帰すというが、神は所有権者たりうるのか。ワラー(庇護関係)の継承原則が通常の相続とことなるのは何故か?
A:神の所有とは比喩として用いられ、厳密にはムスリム共同体の所有。ワラーは地位の継承なので、相続とは異なる。

<法理論と実態について>

佐藤次高:所有権の二重構造は、征服地の徴税政策のための理論装置として生み出されてと説明したが、歴史的過程は逆ではないか(徴税政策ののちに、所有権理論が確立された)。
清水和裕:イスラーム時代の土地が、用益の概念で使用されているのは確かだが、地租(ハラージュ)の税率も実際には様々であり、法学上の理論とは異なることも多い。

<目にみえないものの所有>

小島毅:「自由人は自らを所有する」というのは、神の所有から自由という意味なのか(ロックの労働所有説も、同様の神の所有の切断という意味をもつのではないか)。魂の所有権は問題になるか(とくに奴隷の場合)。形を持たないものの所有権(著作権)はあるか。
A:他人は、自由人を所有できない、という意味である。魂の問題はでてこない。イスラーム法は目にみえる物質的なもののみを対象としており(例えば、傷が癒えると賠償義務はなくなる)、精神的財産は所有権の対象とはならない。
伊原弘:官職や身分によって、所有権の範囲が異なることはないか。
A:一般的には、ムスリムであれば平等であるが、非ムスリムでは宗派によって婚資が異なるというようなことがある。

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4.岸本美緒 (東京大学人文社会系研究科)
「土地を売ること、人を売ること:中国における「所有」の観念」
(レジュメを参照..........
PDF ファイル「Pf_kishimoto.pdf」

 岸本報告は、(1)土地所有における「王土」という全体論的な原理と、現実における民間の土地所有(業主権、その売買、賃貸借)の放任という二面性、(2)奴隷は人の所有ではなく主人との尊卑・上下関係として捉えられること、を指摘し、西欧近代とは異なる中国の所有権概念を抽出した。と同時に、実態(勢)では、個と共同性の葛藤・調整という普遍的かつ実践的な課題を内部にはらんで展開していることを指摘。

<中国史を通観する所有の原理>

水島:個と共同性という2極にわけているが、中間の社会単位はないのか。そのような中間団体を含む多元的な権力関係はないのか。華僑のようなの強い家族の結びつきは、中間団体にならないか。
A:社会は中間団体を礎として構成されていない。団体もまた、個人の結集にすぎない。
岡元司:公正さやバランス感覚の由来はなにか。均分相続もそのような概念に基づくものか。
A:中国では家概念はなく、均分相続は、家族に同じ「気」が流れている、という思想に基づく。
伊原:神に対する売買(墓地)や神と中人とする売買をどう考えるか。

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5.総括質疑

杉島:所有をめぐる共通点と相違点が明確になっていない。近代的所有権にかぎらず、特定の概念が生じる歴史的文脈をきちんと把握することが有益である。

大塚:人類学者が歴史的断絶を強調し、歴史研究者が連続面を強調したことが意外。岸本報告は、中国を主語として説明し、essentialism にもみえるが、とすれば、文化を正面から論じる必要がある。

立本成文:主体と対象の違いによって、所有のあり方もちがってくる。

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6.論点の整理と展開

 中国の「王土」の原理と実態における業(用益権)の流通は、イスラーム法の国家的土地所有理論(ファイ)と使用価値(マンファア)の二重性と、類似した構造をもっているといえないか。また、イスラーム法が、使用価値に独立した所有権を認める理由が、利潤は交換によって生じるという考えに基づくのであれば、それはまさに、近代的所有権の概念と、発生史的にみても共通ではないか。とすれば、杉島報告がいう、重層的・共同体的・儀礼的な土地制度と近代的土地所有権に二分されるのではなく、第三の類型として、全体的な所有概念を基礎とした私的所有権の流通が存在することになる。
 しかし、中国の所有とイスラーム法の所有の構造が果たして、「同じ」ものといえるかどうかは、つぎのような検討が必要であろう。(1)私的所有権の強さや流通の原理(たとえば、活売=原所有権をのこした売買は、イスラーム法には該当するものがないように思われる)。(2)全体的利益と私的利益を調整する原理や方法。(3)イスラーム法では、抽象的な法人を認めていないことが近代ヨーロッパ法との大きな違いであり、資本蓄積の問題に影響するとの指摘(後藤明)。また、(4)目に見えないものの所有権のあり方(官職、文化物、名誉など)、あるいは(5)人間以外のもの(神を含む)が所有の主体たりうるか、どうかといった所有の範囲を広げることで、多角的に検討していくことができる。とりわけ、(1)と(2)の課題は、今年度の契約研究会、市場研究会に引き継がれる。

(朝日新聞文化欄(99/7/28夕刊)鷲田清一「所有のきしみ」では、所有概念が、経済システムの転換や臓器移植や売春など今日的問題に大きく関わっていることを述べている。)

(以上文責 三浦徹)

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7.コメント

 論点を豊富化するために、参加者から研究会後にいただいたコメントを掲載します。

7-1 日本中世史から  山本 幸司(神奈川大学)

(1. 杉島=人類学の報告)

  • 商品交換と不可分の所有という規定は、一義的な規定としては分かりやすいが、日本の前近代史(あるいは近代史まで入るか)とりわけ土地所有を見た場合、この規定からはみ出すような現象がたくさんある――徳政令、地起し、仏陀法、悔い返し等々。そうした現象を「土地制度」と規定して、「土地所有」と分けることは、発生的に土地所有あるいは所有そのものについて考える際に、歴史的連続性が切断されることになりはしないか。
  • 近代的土地所有と「土地制度」とのもつれ合いというなら、日本の場合、明治維新の際の地租賦課や皇室御料林の設定、入会地の法的扱いなど、近代化の過程での諸問題がそれに当たる。またもつれ合いを拡大解釈すると、古代律令国家における班田制などの土地制度の規定も、中核=中国vs.辺境=日本というもつれ合いに当たるか。
  • (2. 柳橋=イスラーム法の報告)
  • 「侵奪」と「占有」の区別は、実力行使を伴うか否かにあるらしいが、日本の中世法では、そうした区別があったかどうか。訴訟事件などに出てくる「占有」は、実力による占拠がほとんどで、少なくとも法的取り扱いの上での区別はなかったと思う。
  • 世代全体の交代と財産の継承が結びついている点は、日本では全く見られない。日本の年齢階梯制とは別の原理によるのだろうか。
  • イスラームでは建前上は神の前の平等ということで、身分・階層による法的扱いが異なることはないらしいが、日本では第一次耕作者の上に、数層の上級所有権者が存在し、それぞれの所有によって、紛争の種類も法的扱いも異なるので、複雑な規定となる。
  • 物自体と使用価値という区別や取得時効の問題など、日本の中世法は概念的にも体系的にも粗放だから、イスラームの精緻な体系は座標軸として有効だろう。
  • (3. 岸本=中国史の報告)
  • 文書社会という共通性は感じるが、土地所有の始原問題の歴史的説明とか、土地所有政策を巡る華麗な修辞などは、日本では見られない。
  • 漢字が中国起源である以上、共通する語がいくつもあって不思議はないが、古代律令国家段階はともかく、それ以後では同じ語でも内容は要検討である。厳密に比較するには、日本の側ももっと研究を重ねなければならないが、例えば所有という語も、仏教語としての(一切、すべて)あるいは(あるもの、存在するもの)という意味の「所有(しょう)」のほうが先行して、法律用語特に土地の所有に関して使われるのは後代のように思う。
  • 土地取引慣行に見える、なかなか完結しないような曖昧な取引形態は、日本の年季売、質入、書入などと共通性があるようだ。
  • 仏や神のような超自然的存在が所有と関係する側面は、日本でもまだそれほど研究されているわけではないが、中国との比較ができれば面白そう。
  • 7-2 第一回比較史研究会に参加した感想  春日 直樹(大阪大学)

     文化人類学を勉強してきた人間として、本研究会への参加によって二つの重要な論題をあらためて認識させてもらいました。いずれも杉島さんの発表と、あとのお二人--柳橋さん、岸本さん--の発表との違いをつうじてあらわれたものです。
     一つ目は、杉島さんの発表が200年弱の時間の幅を語ったのに対し、柳橋さんと岸本さんは1000年を悠に越える時間を対象に据えたという点に発します。しかも前者がその短い幅の中での変化の性格に焦点を当てたのに対し、後者は長期にわたる不変のものを呈示してくれました。当然にして「事件史」対「構造」という対比を想起せざるを得ません。私としては、人類学に取り扱い可能な「短期」の歴史の中に、どのように「長期持続」を読み込めるのかという課題を与えられました。
     二つ目は、杉島さんと岸本さんとの対比です。杉島さんが「もつれ合い」という文化構成主義的な用語にこだわったのに対し、岸本さんは「『中国』とは」という文化本質主義的な語り方をなさいました。文化構成主義の隆盛に食傷気味の私にとっては、逆に文化本質主義的な語りが新鮮に響いたのですが、この二つの立場や接近法をどう接合させるのかという難題を突きつけられた気がします。
     以上の二つはいずれも私なりに気にとめてきた問題ですが、この研究会によってずっと刺激的で豊かなものとなりました。研究会には今後は論題や視角の絞り込みが必要だ、との意見が最後に出ました。それはそれでよいとして、私としては時間と空間をさまざまなスケールでトリップする自由闊達さこそが、研究会を「生産的」にする一大要素であると信じております。

    7-3 「所有」研究会に参加して  江川 ひかり(立命館大学)

     まずはじめに、質疑応答の最後に杉島氏がおっしゃった「皆さん、ためになりまし たか」という問いに、「よく勉強させていただきました」とお答えいたします。
     筆者は、19世紀オスマン帝国における地方社会の変容を研究テーマにしており、「所有」という視点に関していえば、土地をめぐる「所有」についていくつかの論文をまとめてきた。いわゆる「近代化」時代の1858年に発布されたオスマン帝国の土地法は、原則的には「国家的土地所有原則」を再確認するものであった。実際には、この1858年土地法の編纂・改正過程において、農民の手中にある用益権は限りなく所有権に接近していき、「国家的土地所有原則」は形骸化していった。しかし、「国家的土地所有原則」は原則的にはオスマン帝国が崩壊するまで有効でありつづけた。
     このようなオスマン帝国における土地法編纂・改正過程と「国家的土地所有原則」の残存とのあいだに現れる諸現象は、岸本氏が指摘したように、「国家的土地所有」か「私的土地所有」の対抗でも、あるいは「上級所有権」と「下級所有権」の二重性でもなく、まさに「放任と引き締め」とを繰り返す、全体のバランスを考える中央政府の試行錯誤の過程として見てとれる。
     同時に1858年土地法の編纂・改正過程には、杉島氏が指摘した土地をめぐる「歴史的もつれあい」が確認される。一例を挙げれば、1858年土地法そのものが、杉島氏の定義する「土地所有制度」と「土地制度」が混在する、いわばもつれあいの産物であった。さらに、オスマン帝国においては1847年に、現代でいうところの土地登記所が創設されたが、ここで管理されてきた1847年以降の土地台帳および個人の土地証文の閲覧は、(行政による所有権の確定がなされるまで)今日のトルコ共和国の法律によって禁止されているのである。パレスチナやボスニアなどの地域も含み、旧オスマン帝国領土では今なお土地の係争が発生し、その際の正当性の証として自らの手中にあるオスマン帝国時代の土地証文と、行政当局が管理していた土地台帳と照合する作業が担当官によって公正に行われることが必要だからである。このような点に注目すれば、オスマン帝国における土地をめぐる「歴史的もつれあい」は、今日の中東・バルカン地域においてもいぜんとして「もつれあって」いると考えられる。
     以上、ことば足らずですが感想を述べさせていただきました。この研究会で提起された論点をオスマン帝国の土地問題にあてはめて改めて考えてみたいと思います。

    7-4 法史学から  松原 健太郎(東京大学)

     日本の法学教育を受けたものにとって「所有」の語は先ず、複数種類存在する「物権」の中でも特殊な、ローマ法の dominium / proprietas に連なる「所有権」制度に関わる、一定の具体的な財産保有の在り方を指示するものとして現れます。そして:ローマそのものにおける「所有権」の成立状況の分析;また一方でローマ法が継受されつつ、他方で時代・地域に特殊な歴史的・文化的諸条件が作用する、或る歴史的社会の中でこの「所有」が与えられた位置づけについての概念史的な検討、等が、広義の法史学において一定の研究領域を形成している、と言ってもよいかと思います。こうした状況を前提とすると、例えば伝統中国について ―より中立的な概念・用語が使用可能である以上―、「所有」の語を少なくとも分析概念としては一切使用しない、という方針にも一定の正当性が存すると観念され得ます。

     言うまでもなく、以上は特定の議論の文脈において得られる一つの帰結に過ぎず、これと違った議論の文脈の中で異なる「所有」概念が有効に機能することを何ら妨げないと思われます。その意味で今回の「所有をめぐる比較の試み」研究会は、異なる 分野の研究者が「所有」の語に如何なるイメージをもち、如何にそれを各々の問題関心の追究において有効性をもつ(各々異なる)概念として鋳造しているか、観察する機会となりました。
     一方でここには、財産保有と広義の社会構造に関わる問題複合の多面性の一端が現れたように見て取れました。が、他方で一定の対話の可能性も示唆されたと思われます。例えば中国史研究の立場から見れば、岸本先生の提示された様々な事例の理解 に向けて、杉島先生の提示された「アジア・太平洋地域における土地制度」の理解を試みる言葉が、如何なる意味を持ちうるか。また柳橋先生の紹介されたイスラーム法学における概念操作とその背後に見え隠れする社会状況との間の緊張関係の分析が可 能であるとして、それが実定的な私法体系が成立しなかった伝統中国社会について如何なる特色を示唆するか。雑ぱくな文章になってしまいましたが、此度の研究会は上記の様に幾つかの意味で、私にとっては有益な勉強の機会となったと思われます。

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