イスラーム地域研究5班

5b「史料学の可能性」研究会の報告

上記の研究会を、1998年12月19日(土) 午後2時-5時半、京都北郊にある羽田記念館(京都大学文学部)で開催した。年末の多忙な時期にもかかわらず、当日は5b班の班長である羽田正氏をはじめ、東京、広島など遠方からの参加者を含め14名の出席者があり、各種の史料(文学、歴史、聖者伝、文書)に関連する、新鮮な研究発表と熱心な質疑が行われた。以下に当日の発表の要旨を掲載する(文責 間野英二)。

「史料学の可能性」研究会発表要旨

森高久美子 「歴史と文学の間に――wazirをめぐる試論――」

報告者は、中世イスラーム帝国の君臣論をテーマに研究を進めているが、本発表ではwazirをめぐって、歴史と文学という2つの側面からの分析の試みを提示した。まずサーサーン朝ペルシャから取り入れられたwazir(大臣)という語を、アラビア語での語源並びにコーランにみられる用法との比較を通じて検討し、ついでイブン・ティクタカーの「アルファフリー」を中心とするアラビア語史料にみられる最初のwazirの記述について述べた。また、「千一夜物語」にみられるwazirについて、アフマド・ムハンマド・アッシャッハーズの近著「千一夜物語にみる政治的様相」に見られる分析の視角を紹介し、また「千一夜物語」中に語られる史実と説話的巧緻さという2つの側面を合せ持つ物語について紹介した。残された課題としては、歴史上の実際のwazirの姿と、例えばイブン・アルムカッファの「大アダブの書」にみられるような、そのあるべき姿を比較することによって、wazirという役職、あるいはその役職者に対する当時の人々の意識を導き出すことが必要であると考えている。

岩武昭男「モンゴル期・ポスト=モンゴル期ペルシア語史書観望」

ペルシア語による史書(歴史書:歴史叙述を目的として執筆された作品)に関しては、モンゴル期以降その執筆が隆盛となり、多くの作品が生み出されるに至った。この状況を反映して、ペルシア語史書の研究と紹介、文学史や史学史の通史としての提示に関しては、特にモンゴル期・ポスト=モンゴル期に研究が集中して、これまでに優れた多くの成果が上げられてきている。しかし、近年、イランをはじめ欧米および我が国における史料状況も大きく変化しており、新しい見解の提出も可能となってきている。

本発表では、表題の時期に関連するペルシア語史書を取り上げ、それらのうちに、これまであまり留意されてこなかった一つの史料類型が誕生していることに注意を喚起したい。この類型を、ここでは「イラン=イスラーム世界普遍史」と呼ぶことにする。

フレグに率いられイランに侵攻したモンゴルによる政権、イルハン朝の治下では、フレグ政権の発足時よりその中枢にいたジュワイニーによって『世界征服者の歴史(ターリーヘ・ジャハーングシャー)』が執筆され、この作品は、『集史(ジャーミ・アッタワーリーフ)』第1部の重要な典拠となると同時に、『ワッサーフ史(ターリーヘ・ワッサーフ)』という直接の続編をも生み出している。

これとは別に、第2代イルハン、アバカの時代にシャーフィイー派の代表的な学者、バイダウィーによって『諸史の秩序(ニザーム・アッタワーリーフ)』という歴史書が著されている。これは、第1部にアーダムからはじめてイスラエルの予言者の歴史をおき、第2部で古代ペルシアの王統史、第3部でムハンマドおよびカリフ史を扱って、第4部をサッファール朝から始まるイランの諸王朝史に当てて、その最後にモンゴル史をおくという構成をとっている。この構成からすれば、この著作を「イラン=イスラーム世界普遍史」とも呼びうる。そしてこのような性格を持つこの著作は、ジュージャーニーの『ナースィル史話(タバカーテ・ナースィリー)』にその形態の萌芽がみられるものの、モンゴルをイランの正当な統治者として捉え、モンゴルの統治時代をイラン=イスラーム世界史の中に組み込むはじめての作品であったと評価することができる。

この「イラン=イスラーム世界普遍史」の構成は、『集史』第2部にも引き継がれていることが確認できる。さらにハムドゥッラー・ムスタウフィーの『選史(ターリーヘ・ゴズィーデ)』をはじめとして、シャバーンカーライーの『系譜総覧(マジャマ・アルアンサーブ)』、アハリーの『シャイフ・ウヴァイス史(ターリーヘ・シャイフ・ウワイス)』、アーモリーの百科事典『学芸の高貴(ナファーイス・アルフヌーン)』の「歴史学」の項目、アラー・カズヴィーニーの『適正者の学識における探求者の方法(マーナーヒジュ・アッターリビーン・フィ・マアーリフ・アッサーリヒーン)』といった後期イルハン朝期の史書群、ポスト=モンゴル期の史書群もまた同様の構成をとっていることを知ることができる。一つの史料類型として、この「イラン=イスラーム世界普遍史」を設定することができよう。

もちろんこの時期には、カーシャーニーの『オルジェイトゥ史(ターリーヘ・ウールジャーイトゥー)』や地方政権を中心に扱う別系統の史書群の存在も認められるが、上記の一連の「イラン=イスラーム世界普遍史」の存在は注目に値する。これらの史書群からは、『諸史の秩序』以降でのイランのモンゴル受容のあり方を見ることができ、また献呈史書としての『集史』第2部や『シャイフ・ウヴァイス史』の存在からは、モンゴル支配層のイスラーム化を見ることができる。さらに、いわゆる「イーラーン・ザミーン」のアイデンティティの確立を確認することもできる。また、例えば、これらの史書群の大半は正統カリフについてハサンを入れた5人の構成で記述する共通点を持っており、現在の一般のイスラーム理解とは異なった、当該時期のイラン=イスラーム世界におけるイスラームの捉え方を知ることもできるのである。

矢島洋一「ペルシャ語聖者伝文献概観」

聖者伝文献はイスラーム世界の歴史研究においてしばしば用いられる史料類型であるが、その定義は曖昧である。仮に「聖者を扱う伝記」と定義しても、「聖者」という対象と「伝記」という様式の捉え方によってその示す範囲は異なってくる。また、聖者伝はしばしば既存の聖者伝の記述を引用しており、聖者伝を歴史研究の史料として扱う際には、その記述の典拠を確認することが必要な予備作業となる。もちろん聖者伝の著者自身の見聞によって次々と新たな聖者伝が創出されてゆくし、利用した典拠がある場合も、それは聖者伝のみに限るわけではない。

しかし、聖者伝はある程度独自の参照関係の系譜を持っている。例えば初期のスーフィーたちを扱うアンサーリーやアッタールの聖者列伝は初期スーフィズムの理論書やアラビア語聖者伝文献を参照し、後のジャーミーの聖者列伝はアンサーリーの聖者列伝をベースにしつつ、以後のスーフィーたちについては個別のスーフィーを扱った聖者伝などの記述を参照して成立している。また、そのような典拠を確認する際、既存の聖者伝の記述を取捨選択して引用する際に介入する意図も考察の対象としうる。

今回の発表では、ペルシャ語で書かれたいくつかの聖者伝文献を、列伝、イラン、中央アジア、インドに分けて簡単な解題を呈示すると共に、記述の参照関係の一例を示した。

高松洋一「梗概(hulasa)考――18世紀後半のオスマン朝の文書行政」

梗概(hulasa)は、オスマン古文書学の分野で完全に黙殺されてきた文書の一様式である。これは地方からオスマン朝の中央政府に送られた文書の要約であるが、文書処理の結果は原文書ではなく、梗概に痕跡をとどめている点で重要である。

梗概には大別して、複数の動名詞句からなりたつ箇条書のタイプと、文書の一項目(あるいは数項目)だけを要約したタイプとがあり、それぞれを「包括型梗概」「項目型梗概」と呼ぶことにする。包括型は、文末表現から明らかなように、一度に到着した複数の文書を一枚の料紙に箇条書に要約したものである。一方、項目型は包括型の箇条を別の料紙に書き写したものである。

包括型は大宰相から君主に提出されたものであり、項目型は大宰相府と財務長官府の関連部局で回覧、処理されるためのものであった。項目型梗概の処理は、最終的に勅令の発布という形をとった。結局、地方からインプットされた情報は、勅令という形でアウトプットされたが、その間をつなぐ役割を果たしたのが、二つのタイプの梗概であった。

梗概の作成において、原文書をいかに要約し、註釈するかにより、中央政府の政策を左右することもありえた。このような梗概の作成は、地方からの文書の接受を任務とする、大宰相府のサダーレト・ケトヒュダース(sadaret kethudasi)の部局の職掌であった。サダーレト・ケトヒュダースは19世紀の内閣制の導入で内務大臣となるが、梗概の分析から結論すれば、大宰相府の情報処理の要として、「大宰相府長官」と呼ぶにふさわしい職務を果していたことが知られるのである。

清水保尚 「16世紀末ムカーターの請負契約に関するハレブ財務組織作成の文書について」 

ムカーター制は、オスマン朝によって広く用いられた徴税制度であった。その制度に関わる、中央財務組織作成の文書の紹介、分析、ムカーターの監理・運営にカーディー組織も密接に関与にしていたことを指摘する研究は少ないながらも存在している。ただ、永田雄三氏の研究のごとく、時期を設定し、特定のムカーターを対象に行われた研究、またL.T.Darlingのように、財政文書を用いて制度面からムカーターの監理過程を捉えようとした研究は少数であり、このような研究を推進することが、オスマン朝期徴税制度研究の発展のためには、重要であると考えられる。

本発表では、今まで取り上げられることのなかった、地方財務組織作成の文書を分析の対象とし、地方レベルでも中央を擬した文書行政が存在したこと実例によって提示したい。具体的に述べれば、ハレブ財務組織が作成した文書の中から、ムカーターの請負契約に関し記された二種類の文書を考察して、その機能、流通経路を明らかにしていく。

上記の考察のため用いる史料は、ハレブ財務組織作成のムカーター台帳とアインターブのカーディーが管理する法廷記録簿である。

上述の史料を利用して、分析をおこなった結果、請負契約に関して作成された、テズケレと呼ばれる文書は、請負契約時ハレブ財務組織がムカーターとかかわる現地のカーディーに宛て請負契約条件を通知する目的で作成されたことが明らかになった。カーディーはその文書を法廷記録簿に書き留めた。もうひとつの文書、「請負契約書の写し」は、請負契約時同財務組織がカーディーに宛て請負契約条件を通知し、その契約条件の確認・証明を求める目的で作成されたものであることが確認された。カーディーはその契約条件の確認後その文書を法廷記録簿に記載した。その写しがカーディーにより作成され、ハレブ財務組織に送られた。ハレブ財務組織は、カーディーの確認・証明を経た文書の到着をもって請負契約の成立とし、ムカーター台帳に請負契約条件を記載したのである。

両文書の流通経路は、地方レベルでもムカーターの監理が財務組織とカーディー達の組織網によって実施されていたことを例証している。    

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