東海大学 村野浩
イスラム美術専門の研究会から、平素主に仏教美術をやっている私などに声をかけていただいて下さったのは、私が或る偶然の事から約30年前に此のアルバムと接する機会があり、時にその中で一般に考えるイスラム絵画の全く埒外で、まさに草原遊牧民達のダストの臭立ちこめる異様な作品−スィヤフ・カレム又はその系列に属すると思われる作者による風俗図、鬼形図−それはシャーマニズムとの関連に於て説明されたりする−の中に東方との或る関連が想われ、それ等の中に例え隔世にしろ共通の遺伝子でも見付けられないだろうかと、興味を持って来たためであろうか。恐らく15世紀に、西トルキスタンから黒海周辺までの何処かで制作されたであろう此等の作品が、ただ何となく似ていると云う文に留まらず、もとの一部でもをそれなりの根拠を持って説明できたとすれば、ユーラシア大陸における文化の伝播、交流史上面白いのであるが。 また、日本やシナの美術上殆どの場合脇役の域を出ず、見過ごされてきた鬼達の素性−鬼の本来の意味が「おぼろげなるもの」なのであるが−も、もう少しはっきりしたものになるのかもしれない。以上、思いつきのままをいくつかの例を挙げて雑然並べて御覧に入れるまでである。大方の御批判、御助言を期待したい。
中部大学 堀内 勝
早稲田大学 小林一枝
アラビア・ペルシア語圏において「カルカッダン」は、現在「犀」を意味するが、『千夜一夜物語』「海のシンドバードの冒険」譚にも記載されているように、当時のイスラーム世界の人々にとって、カルカッダンは未知なる野獣であり、その図像は通常、翼を有する一角獣として描かれた。洋の東西を問わず、犀と一角獣の図像に関しては、多くの先人たちが論じてきた。イスラームの一角獣に関しても、エッティングハウゼンの大著がある。しかし、それらの著作は東洋の一角獣について、文献もしくは文学上の軌跡を紹介する程度にとどまっている。図像に関しては、青銅器時代(インド)・漢代(中国・中央アジア)から、16世紀半ば頃まで空白のまま残されている。さらに、イスラーム時代に至るまで、ペルシアに犀の図像はなかったとされている。本発表では、伝承としてのカルカッダンがイスラーム美術の図像としていかに定着していったか、先学の知見をふまえ、東洋美術の枠組みの中で、再度検証してみたいと思う。
国立民族学博物館 桝屋友子
中国に源を発する鳳凰の図像がイスラーム美術に取り入れられたことはよく知られている。しかしその受容・普及の過程は複雑であり、時代や地域ごとの考察が必要である。本発表では、中国の図像が直接導入されたことが明らかな13〜14世紀のイールハーン朝イランに考察の対象を絞って論じる。
唯一現存するイールハーン朝宮殿の遺跡タフテ・ソレイマーン(1270年代)では、完全に中国の図像を模倣した龍と鳳凰がイラン固有の陶器技術であるラスター彩等によって対として壁タイルに描かれていた。中国では漢代以後対で皇帝の象徴として皇族の衣装、生活用品、建築装飾に用いられていた龍鳳が、元朝の皇族であるイールハーン朝にも同じ意味をもって意図的に導入されたと考えられる。しかし、こうしてイランにもたらされた鳳凰の図像は、同世紀末からイラン神話の霊鳥スィーモルグの図像に徐々に転用されるようになり、やがて完全に定着した。
東亜大学 ヤマンラール・水野美奈子
イスラーム世界において龍の表現形態や象徴性は多様であり、また龍の名称も民族によって異なる。
ティンニーンと呼ばれたアラブ系の龍や、アジュダ(ル)ハーと呼ばれたイラン系の龍は悪を象徴することが多かった。一方、リュ、ネク、エヴレン、エジュデルハーなど様々な名称を与えられたトルコ系の龍は、天・宇宙、偽惑星・星座、英雄・支配者、再生・生命力などを象徴し、中国の龍の影響を強く受けて君主などを象徴するモンゴル系の龍と共に善龍のイメージが強い。
美術に表現された龍の形態は、トルコ系とモンゴル系に大別できる。
トルコ系の龍の特色は、頭部や肢体などに狼や馬など四つ足獣の痕跡を強く留めていること、また長い蛇状の体が結び目を作ったり、ループ状になっていることである。これに対しモンゴル系の龍は、大きな角を付けた大きなワニのような形を取り、中国の龍の影響を明白に残している。
この発表では、セルジューク朝とイル・ハーン朝の龍の表現様式を取りあげ、それらの形態的起源と展開および象徴性について述べたい。