イスラーム地域研究5班
研究会報告

aグループ第12回サライ・アルバム研究会報告

日時: 2002年1月12日(土) 13:00〜18:00
会場: 東京大学東洋文化研究所・3階大会議室

(1)「スィヤー・カレムの絵画に認められるシャーマニスティックな要素」
    発表者:松本菜穂子(御茶の水大学)
 発表者は、従来指摘されてきた「スィヤー・カレムの絵画に認められるシャーマニスティックな要素」を芸術学(舞踏)の立場から検討を試み た。まず、呪術的機能を持つ身体動作(旋回、踏む、布をフル)という動作を再考し、「サライ・アルバム」の画中に認められる呪術的要素につい ても、「ナンバ、反閇、足拍子」等の動作、また神霊の依代となる布、結び目といった要素、体鳴楽器(太鼓・シンバル)などから、シャーマニズ ムとの関連を詳細に検討し、さらにはスーフィズムとの差異を明確にした。この発表を補足する形で、小柴はるみ氏(東海大学)がシャーマニズム に関するドキュメンタリービデオを映写した。

(2)「ムラッカアの序文について」(3):アミール・ゲイブ・ベイクのムラッカアの序文
    発表者:関喜房(東海大学)
 発表者は、サライ・アルバムの調査において「序文によって提示される諸問題とその研究」テーマとしており、今回はその3回目の経過発表がな された。サファヴィー朝のシャー・タフマースプの為に製作されたムラッカアには、ゴトゥブッディーン・モハンマド・ゲッセホーンの序文が記載 されている(A.H.964年)。サファヴィー朝初期に完成したこの序文は、その後のムラッカアの序文の手本になったとされている。今回の発表で は、それが実証される結果となった。発表者は、今回ゲッセホーンの序文の内容および構成とセイイェド・アフマド・マシュハディーによる「ア ミール・ゲイブ・ベイクのムラッカア」の序文のそれとの詳細な比較をし、相違点を明らかした。さらには、その原因追及にまで研究を進めた。

(文責:小林 一枝)

(3)「シナの玉座の周辺」
    発表者:村野浩(東海大学)
 発表者は、過去の研究発表において、中国の玉座像について、従来の中国人研究者による「中国家具史」に依ることなく、遺例と図像を中心とした 独自の再考を行ってきた。
 本発表においては、中国から朝鮮半島、さらにはインド、中央アジアに至る広範な地域の図像を例に取りあげながら、中国における「玉座」あるい は「椅子」の起源について考察を行った。
 最初に、中国において、室内における靴履きと家具の高低の関連について注目し、室内に靴を履いて入ることにより、家具が高くなり、その型に も変化が生じたことを指摘した。その時期は、おそらく戦国時代、東周の後半ぐらいからであろうと推測さ れ、その変化は、戦乱時代において、西方あるいは北方からの異民族の侵入によって、外からの風習や座高の高い椅子などがもたらされた結果であ ろうと考えられる。5世紀頃の高句麗には、中国からの亡命者を描いたとされる古墳壁画があり、「床」の上に平座している貴人の前に脱いだ長靴 が描かれている。この図は、室内に靴を履いたまま入っていたことを示している。
 また、イル・ハーン朝期に描かれたペルシア絵画には、椅子の背もたれの両端から、龍などの動物の頭が左右に伸びている図が多く存在する。こ の起源としては、中国では、古くは殷や周の時代に見られるが、秦・漢の時代には廃れ、五代・宋の時代に再び用いられるようになる。ところが、 類例はインドの仏教美術に見ることができ、紀元前300年ぐらいのマウリア朝から紀元後3世紀ぐらいまでの仏座には、背もたれの両脇から、魚 やマカラ、あるいは象の頭などが張り出したものが存在する。しかし、4世紀から5世紀頃の、バーミアン、キジルから敦煌にいたる地域に見られ る仏座になると、背もたれに三角形の布をかけた椅子の図像が主流になり、動物の頭部は消滅する。しかしながら中国においては、これらの仏座の 造形が、「玉座」に直接取り入れられた例はなく、また、イスラーム以前のペルシアの図像にも、類例はないことから、サライ・アルバムに見るイ ル・ハーン朝以降の玉座の独特の造形の起源に関しては、今後の更なる研究が求められる。

(4)「サライ・アルバムにおける図案画の研究」(1):馬具装飾(1) 
    発表者:ヤマンラール水野美奈子(東亜大学)
 サライ・アルバムに収められた絵画の中には、装飾的性格の強い図案画が数多く存在し、そのなかでも半円形の枠内に描かれた図は、従来「雲 肩」という、衣服の襟元を装飾する部分の下絵として用いられたと考えられてきた。本発表では、それら半円形の図案画は、馬具装飾である膝当て の下絵として用いられたという仮説を提示した。
中国の宋や元時代の、狩りの場面を描いた絵画には、装飾が施された膝当てを描いたものがあるが、遺例は残されていない。また、サライ・アル バムの図案画のサイズは、35.6センチから49センチと小ぶりのものであり、絵画に見る宋や元の膝当てと比較するとかなり小さい。
 しかしながら、サライ・アルバムに収められた、イル・ハーン朝以降の狩りの図、あるいは騎馬図には、膝当ての部分に龍などが描かれたものが 数多く存在し、大きさも、中国のものと比べ、より小さく描かれている。また、図案画の主題の多くは、龍 や戦闘場面が多いことからも、膝当ての下絵としては適当であると考えられる。
 また、これら半円形の図案画の多くは、中央に折り目がつき、また線描の上からステンシル、つまり針穴が空けられ、用途の頻度の高いものに、 実際に使われた形跡が残されている。その観点からも、馬具の中でも消耗品である膝当て装飾の下絵に用いられた可能性は高いと見るべきである。

(文責:阿部 克彦)


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