イスラーム地域研究5班
調査報告

bグループ「地域間交流史の諸相」台湾・沖縄調査報告

・調査期間 2001年3月14日〜22日
・調査地域 台湾、沖縄
・参加者 私市正年(上智大学)、栗山保之(日本学術振興会特別研究員)、羽田正(東京大学)、真栄平房昭(神戸女学院大学)、松井洋子(東京大学)、川端直子(慶應義塾大学大学院)、澤井一彰(慶應義塾大学大学院)
・日程
 3月14日:東京―台北、淡水(紅毛城および港湾施設調査)
   15日:台北(台北市内調査および故宮博物院院長との会談)
   16日:台北―台中、鹿港(港湾施設調査)
   17日:台中―台南(市内および港湾施設調査)
   18日:高雄(少数民族調査)
   19日:高雄―台北、基隆
   20日:基隆―沖縄(クルーズフェリー飛龍)
   21日: 同
   22日:沖縄(那覇、浦添、勝連調査)―東京
・調査目的
 bグループの研究対象である「地域間の交流(人、モノ、カネ、情報)が行われる「場」の研究」および「異なった地域を結ぶ人、社会集団の研究」の一環として、前回の鹿児島調査に引き続き、今回は調査地域を東シナ海に移し、台湾と沖縄の港湾施設とそこに生きる人々の海についての意識や文化についての調査を行う。

・報告
 一行は3月14日に台北入りした後、まず台北郊外の淡水(Dan-zui)に向かった。淡水は淡水河に面した港町であり、この河を遡行すると台北に至る。この淡水が一般に知られるようになるのはスペイン人がここを拠点としてからである。スペイン人が、台湾進出に先行するオランダに対抗し、現在の淡水にあたる滬尾に達したのは1629年であった。スペイン人は淡水にサント・ドミンゴSanto Domingo城を築くなどしたが、まもなく1642年にオランダによって駆逐された。このサント・ドミンゴ城は数度の支配者の交代にもかかわらず現存しており、現在は紅毛城(An-mou syan)[写真1]と呼ばれている。我々は紅毛城を訪れたが、大規模な改修が行われた後にイギリス領事館として使用されたためもあり、この城塞が建設された17世紀当時の面影を偲ぶことは困難であった。淡水はオランダ人の支配の後、1661年から1683年までの鄭氏政権の支配を経て清朝の統治するところとなった。19世紀に至り、アロー戦争に敗北した清朝が1858年に結んだ天津条約によって1860年に開港され、これ以後、淡水は対外貿易港として大いに発展することとなった。しかし、日清戦争後の日本統治下において、淡水河上流域の山林伐採の結果として、大量の土砂が流入し、淡水河の川底が上昇したのみならず淡水港内にも土砂が堆積したため、淡水港は次第に大型船の停泊に困難をきたすようになった。加えて、台北の外港として基隆港が整備されるに及び、淡水は対外貿易港としての役割を終えた。今回の調査においても、淡水港に大型船の姿は全く見られず、また港湾施設も極めて小規模なものであった。現在の淡水は、対外貿易港と言うよりは、むしろ台北から気軽に行くことができる行楽地であり、わずかに古い市街地に点在する海にゆかりの深い多数の廟が、かつての港湾都市の名残を留めていた。
 翌15日は、台北市内の迪化街(Du-fwa kue)を調査した。かつての迪化街は淡水河に面した一大商業地区であり、19世紀後半には外港の淡水とともに繁栄を誇っており、淡水から淡水河に入った商船は、台北のこの地区に停泊し取引を行っていた。しかし、淡水河の水深が浅くなるに従って大型商船の停泊が不可能となり、淡水が外港としての役割を終えたように、迪化街もまた台北における商業拠点としての機能を失った。現在の迪化街は、問屋街として活況を呈しており、南から繊維、香辛料および薬種、乾物類、雑貨と各種道具、穀類の順に業種ごとに固まって商店が立ち並ぶ様[写真2]は、かつての同業者組合を髣髴とさせる。午後は、台北郊外の山麓に立つ故宮博物院を訪問した。青銅器、甲骨、陶磁器、書跡、絵画、刺繍、琺瑯、玉器、図書、彫刻、漆器などに分類されている膨大な量の展示品を観覧した後、故宮博物院長および副院長との会談を行った。この会談の中で、羽田教授と私市教授から、イスラーム世界との交流を示すような収蔵物の有無やその数についての質問がなされた。調査の結果、直接的にイスラーム世界との交流を示すような文物はほとんど見られないものの、アラビア文字やウイグル文字が記された陶磁器の存在が確認され、会談後に該当する陶磁器の写真と解説が記された図録のコピーを入手することができた[写真34]。これらの陶磁器が中国のムスリムの需要に応えたものであったのか、あるいはトプカプ宮殿に残る類似の陶磁器と同様に中東イスラーム世界への輸出用に製作されたものであったのかについてはあきらかではない。しかし、これらの陶磁器の存在自体が、中国とイスラーム世界との活発な交流を証明していることは間違いなかろう。
 16日は早朝から電車で台中に移動し、そこから自動車に乗り換えて台湾西岸の鹿港(Ro-gan)に向かった。鹿港はかつて清朝時代に「一府二鹿もうこう(「舟」へんに「孟」・「舟」へんに「甲」)」と呼ばれたほど、台湾でも最も繁栄した港町の一つであった。ちなみに、一府とは当時の行政の中心地であった台南府、二鹿とは鹿港、もうこうは当時の台北の中心地であった萬華を指す。しかし、ここ鹿港もまた土砂の堆積によって港としての機能を失うこととなった。かつて商船が往来した河は現在、水もほとんど流れない小川[写真5]となっており、代わって近代的な改修が施された員林大排水[写真6]が市内を流れている。現在は民族文物館となっている豪商の邸宅や古市街とよばれる旧市街、あるいは台湾最古の媽祖廟とされる市内の天后宮などにかつて栄えた港湾都市としての面影を偲ぶのみである。鹿港の天后宮[写真78]は1683(康煕22)年の創建とされ、台湾の対岸にある、媽祖信仰発祥の地であるび(「さんずい」に眉)洲島から媽祖像を迎えたといわれている。ただし、この点については「開台媽祖」を自称する嘉義県北西部の新港奉天宮との間に論争がある。
 そもそも、媽祖は北宋のはじめ、現在の福建省ほ(「くさかんむり」に甫)田県び(「さんずい」に眉)洲島に生まれ、漁村で活躍した林性の巫女が、死後に神として祀られたものとされる。南宋期から文献史料に現れ始め、時代を経るごとにその信仰は拡大発展し、明代に至って信仰の基礎が固まったとされる。それによると、媽祖は960年に生まれ様々な奇跡を起こした後、987年に28歳で昇天したとされ、今でも媽祖の生誕日とされる旧暦3月23日には盛大な祝祭が行われる。現在では、様々なご利益を求めて多くの人々が参拝に訪れるが、本来、媽祖は海を司る航海安全の神であった。媽祖と海との関わりは、媽祖が神格化される過程で付加された多くの伝説に由来する。媽祖は今回の報告においても重要な位置を占めるため、以下、明末清初に成立した『天妃顕聖録』に拠って、媽祖について若干詳しく述べてみたい。前述のように、宋代はじめにび洲島で生まれた林という娘は13歳の時に老いた通賢道士に出会い、「玄微秘法」を授けられた。さらに、井戸から現れた神仙から銅製の御札を授かり、それによって神仙の呪術が日増しに進歩したという。ある日、父が海で遭難した時、機織りの最中であった媽祖は突如失神し、霊魂を浮遊させて怒涛の中から父を救いだした。また、商人が遭難した際には、数本の草を海に投げ、それを太い丸太に変化させて海難救助を行ったという。23歳の時にび洲島の北西で危害を加えていた「千里眼」と「順風耳」という二妖怪を退治して部下とした。今回調査を行った数々の媽祖廟においても媽祖像の左右には必ず千里眼と順風耳が控えており、その姿形も定型化したものであった。すなわち千里眼は遠くを見つめる姿勢をとり、また順風耳は耳に手を当てて風の音を聞く姿をしている。いうまでもなく、見張りや風向きの判断はどちらも操船に深く関わる動作である。媽祖はこの後も様々な奇跡を起こし、28歳になった年の9月9日に家族に別れを告げ、び洲島の最高峰から昇天したとされている。台湾においては、清代以降に多くの媽祖廟が建設され、また皇帝からは、しばしば封号や扁額を下賜された。それまで、「天妃」であった媽祖は、1684(康煕23)年の台湾統一に際して神助があったとして「天后」の封号を下賜され、神称も「護国庇民妙霊昭応弘仁普済天后」となった。台湾の媽祖廟の幾つかが天后宮というのはこのためである。その後も、十数回にわたって封号が贈られ、1857(咸豊7)年にはその神称は「護国庇民妙霊昭応弘仁普済福佑群生誠感咸孚顕神讃順垂慈篤裕安瀾利運沢覃海宇恬波宣恵導流衍慶靖洋錫祉恩周徳溥漕衛保泰振武綏疆天后之神」と計64字に上った。このため1872(同治11)年には、あまりに封号の字数が多すぎるとかえって鄭重さを欠くとして礼部の審議が行われたが、結局この時にも「嘉佑」の二字が新たに加封された。今回の調査においても、「護国庇民」のように、上記の長い神称の一部が大書された額をほとんどの媽祖廟において確認することができた。
 このように海の守護聖人として大変興味深い特徴を有する媽祖であるが、イスラーム世界においても、媽祖と同様に海とかかわりの深い聖人として崇められるものとしてヒズル・イルヤースKhidr Ilyas(トルコ語ではフズル・イルヤスHizir Ilyas)が存在する。ヒズルとイルヤースは元来、別々の聖人であったが、ともに水にゆかりが深かったため、いつしかひとつの守護聖人のように見なされるようになった。トルコではさらにつづまってフドレレズHidrellezとも呼ばれる。ヒズル・イルヤース信仰は港町を中心に広くイスラーム世界の各地に拡大しており、北はスィノプやアゾフなどの黒海沿岸から南はマレー半島に至る広大な地域にヒズル・イルヤースを祀る廟を確認することができるという。今回の調査対象地域である東シナ海沿岸においても多数のムスリムが居住している。台湾にも台北や高雄などにムスリムが集住する街区が形成されているという。今回は残念ながら訪れることができなかったが、それらの地区にヒズル・イルヤースの廟が存在するのかどうかという点は大変興味深い問題である。媽祖とヒズル・イルヤースという異なる文化を背景にもつ海の守護聖人が同一の海域に共存している可能性は、古くからムスリムとの共生がおこなわれてきた東シナ海地域や華人の多く住む東南アジア地域において、十分に残されていると考えられる。これらについてのさらに詳しい調査は、本グループの研究目的である「領域国家、国民国家などの「政治的地域」だけではなく、言語、宗教、民族、技術などの様々な文化的ものさしを用いて、「文化的地域」を設定し、それぞれの地域が互いにどのように接触し、交流してきたのか、その具体的様相を明らかにする」上でも極めて重要な今後の課題であろう。
 17日は台中から台南へと移動し、台南市内および台南郊外の港町である安平の調査を行った。台南では、まず赤嵌楼(Cha-kan-rao)を訪れた。17世紀にオランダ人が建設したこの城は、かつてプロヴィンシアProvincia城と呼ばれ、安平のゼーランディア城とともにオランダの台湾支配の中枢を担っていた。1661年に鄭成功がオランダを駆逐した後、1862年に台南を襲った地震によって楼閣は倒壊し煉瓦壁だけが残った。跡地には、1879(光緒5)年に文昌閣と海神廟が建てられ、これらは改修を経ながらも現存している。続いて訪れた大天后宮は前述の媽祖を祀った台南最古の媽祖廟である。媽祖廟の隣には関帝廟があり、これらは共に明朝最後の王族であった靖寧王の王府の跡地に清代になって建築されたものである。この日は、さらに孔子廟、鄭成功を祀った延平郡王祠、鄭氏が清朝に降伏する際に自害した靖寧王の妃たちを祀った五妃廟などを訪れた。延平郡王祠は日本統治下に神社とされたが、光復後に再び鄭成功を祀る廟に戻されたという経緯がある。日本統治下の台南を知る史料としては、近頃出版された前嶋信次著作選の第3巻がある。『<華麗島>台湾からの眺望』と題されたこの本には、前嶋信次が台湾で過ごした経験を著した小論が多く収録されている。なかでも「台南の古廟」および「媽祖祭」の2論文からは今回の調査に有益な数多くの情報を得ることができた。
 台南調査を終えた後、台南郊外の安平へと移動し、港湾施設を中心に引き続き調査を行った。安平の目玉は何といっても安平古堡(An-pin ko-bo)である。我々にはむしろゼーランディア城という名の方が馴染みのあるこの城は、1624年に起工され10年の建設期間を経て1634年に完成した。当初はオレンジOrange城と名づけられたが、1627年にゼーランディアZeelandia城と改称され、総督が居住する城となった。1661年に鄭成功がオランダ人を駆逐すると、故郷の泉州安平里に因んで安平鎮と名づけた。これが現在の安平の起源である。この間の事情については、『大航海時代叢書第U期11巻オランダ東インド会社と東南アジア』所収の「閑却されたるフォルモサ」に詳しい。その後、この城は1873年のイギリス軍艦の砲撃によって火薬庫もろとも吹き飛ばされ、現在は修復された城が建つものの、当時の遺構は一隅の城壁を残すのみとなっている[写真9]。古地図で確認する限り、建設当初は安平の港を囲む砂州の先端にあって、湾口を守る役割を果たしていたと考えられるが、現在は湾全体が完全に埋まっているため、水際からはかなり離れた陸の真中に位置している。安平は特に土砂の堆積が甚だしいところであったようで、その様子は前述の『<華麗島>台湾からの眺望』からも窺い知ることができる。それによると、前嶋信次が台湾で過ごした時代はもとより、清朝の乾隆年間には既に湾は半ば泥に埋もれた状態であったという。次に訪れた安平開台天后宮は既に述べた多くの天后宮と同様に媽祖を祀った廟である。鄭成功が台湾に渡った際に建設されたもので、清朝治下においては偽廟とされ、媽祖廟としての機能は前述の台南にある大天后宮に移された。1874年に廟の地位を回復したものの、日本統治下に再び廃され、中華民国時代に再建された。我々がここを訪れた時には、媽祖の生誕日とされる旧暦3月23日を控えて装飾が施されていた。安平開台天后宮には数え切れないほどの媽祖像が祀られていたが、これは希望があれば船などに貸し出すためであるという。その後、海岸に近くの億載金城(Ie-zai Kim-sya)に向かった。この城塞は1874年の日本による台湾出兵に対抗して清朝が1875(光緒元)年に築いたものである。日清戦争後に清朝が台湾の割譲を約束した際には、守将であった劉永福はこの城に立てこもって抗戦した。その後、この城塞は放置されていたが、近年修復が加えられて見学が可能となった。また、安平においては船による港湾調査も行った。しかし、港湾施設は近代的なものに整備されつつあり、港口にかつてフランス軍が築いた砲台跡や110年前の灯台が残るのみであった。水深は約7mであり、牡蠣の養殖に加えて、鯛や鰈などの沿海漁業を行う小船の他に、遠洋漁業に従事する船10数隻がドックに確認された。
 18日は、高雄の東50kmほどにある瑪家郷にある台湾山地文化園区において、先住民の文化や海とのかかわりについての調査を行った[写真10]。台湾の先住民は俗に「高砂族」や「高山族」と呼ばれ、山地に居住するイメージが強い。しかし、9つを数える部族のうち最大の人口を有するアミ族などは、台湾の東海岸一帯と海岸山脈沿いに生活し漁業なども行っている。さらに、ヤミ族に至っては台湾の東に浮かぶ蘭嶼島に住むため、タタラ舟というカヌーをもちいて3月から8月までトビウオ漁を盛んに行う。主食は芋であるが、おかずは専ら魚であり、とくに冬場の食料としてトビウオの干物は不可欠なものである。この調査は、台湾の先住民が山岳民族のみで形成されているという認識を覆したという点で意義のあるものであったと思う。
 19日は、高雄において船による港湾施設調査を行った。高雄港は世界でも五指に入るといわれる大規模な港湾施設を有する近代的な港である。水深も深く、巨大なコンテナ船や貨物船を中心とした大型船舶の他、軍艦も10数隻確認することができた。港口は2ヶ所あり2つの長い防波堤が港口を取り囲んでいる。かつて砂州であったところは、舗装が施され多くの店舗や住宅が立ち並ぶ地区となっていた。港湾施設としては、多数のコンテナ積み出し用クレーンやセメント積み出し施設の他、湾の奥には石油コンビナートを見ることができた。港内には多くの大型船舶を視認することができたが、その国籍は確認しただけでもパナマ、リベリア(モンロヴィア)の他、韓国(釜山)、カンボジア(プノンペン)マレーシアなどのアジア諸国に加えて、スペイン(バルセロナ)、トルコ(イスタンブル)などの地中海沿岸諸国、さらにはドイツ(ハンブルク)、ノルウェー(ベルゲン)などの北ヨーロッパ諸国に至るまで実に様々であった。まさに高雄は世界中からの海上ネットワークの東アジアにおける一大結節点であるといえよう。午後には高雄から飛行機で台北へと移動し、さらに車で台湾北部の港湾都市である基隆へ向かって、この日の行程を終えた。
翌20日の夜、基隆港において出国手続きおよび乗船手続きをすませた後、沖縄に向かうクルーズフェリー飛龍に乗船して台湾を後にした。夜間の航行ということもあって、島影はほとんど確認することができなかったが、天候が安定していたこともあり船は順調に航海を続けて、21日の正午過ぎに那覇港に到着した。この日は首里の沖縄県立博物館や那覇の壺屋焼の窯跡などを訪れた。
 最終日である22日は那覇の港湾施設と各地に点在する城(ぐすく)の調査を行った。まず訪れた三重城は、かつては堤防の突端にあって那覇湾口を守る役割を果たしていた。現在は埋め立てが進み、堤防が陸地と一体化したため往時の面影はない。この城は1609年に薩摩藩が来襲した際に、対岸の城との間に巨大な鎖を張って那覇港を封鎖し、敵の軍船の侵入を防いだ。あたかも、1453年のオスマン朝によるコンスタンティノープル攻囲の際のビザンツ帝国による金角湾封鎖を想起させる情景である。さらに、那覇港内には16世紀頃まで海上貿易の積荷を保管する場所であった浮島の御物城(おものぐすく)が現在も残されていた。那覇港近くには薩摩藩在番奉行所跡があり、ここは1630年ごろから琉球貿易に力を注ぎはじめた薩摩藩が1628年に出先機関として設置したものである。1872年に琉球藩が設置されるまでの間、沖縄における薩摩藩の拠点となった。続いて、琉球国中山の最初の都が置かれたとされる浦添市に移動して、浦添城と浦添ようどれを訪れた。浦添ようどれは浦添城の西側の断崖にある琉球国中山王陵である。これらの遺跡は共に沖縄戦で大部分が破壊されたが、最近発掘と修復が進められている。その後、車で勝連町に移動し勝連城(かつれんぐすく)を訪れた[写真11]。ここは首里の琉球王国に対抗する阿麻和利(あまわり)の居城と知られている。阿麻和利は、1458年に琉球王国の重臣であった護佐丸(ごさまる)を滅ぼし、さらには首里に進軍しようとしたが大敗し、逆に勝連城を攻められて滅亡したとされる。この勝連はまた、イスラーム世界とのかかわりにおいても重要な場所である。陶磁史研究の第一人者である三上次男の研究によると、ここから出土した陶磁器片と非常に類似したものがイスタンブルのトプカプ宮殿博物館に保管されているという。イスタンブルと沖縄という遠く離れた2地点に同一の陶磁器が存在したという可能性は、中国陶磁器の世界的な拡大を実感させると共に、今回の調査目的である「地域間の交流(人、モノ、カネ、情報)が行われる「場」の研究」の上でも極めて重要な事例であると思われる。
 冒頭にも記したように、今回の調査は、東シナ海沿岸の地域間交流の諸相をあきらかにするために台湾と沖縄に対象を限定して行われたものである。当初は、中東イスラーム世界から遠く離れたこの地域に、はたして中東イスラーム世界との交流を跡づけるものがあるだろうかとの不安もあった。しかし、実際に調査を行うとそれは杞憂であり、上記のように報告するべき多くの結果を得ることができた。また、それだけではなく、今回調査した東シナ海地域と東南アジア世界やインド洋世界と地域間交流の諸相をあきらかにすることなど、今後の課題として残された点も多い。これらの課題は、今後の行われるであろう調査によって順次あきらかにされていくことを期待して本報告の締め括りとしたい。

 今回の調査は、立教大学の荒野泰典教授のプロジェクト(参加者、敬称略:荒野泰典(立教大学)、蔵持重裕(立教大学)、深津行徳(立教大学)、村井章介(東京大学))との合同で行われた。今回の調査全体のコーディネーターとして、立教大学の深津行徳助教授には大変お世話になった。深津助教授の献身的な努力なくしては本調査自体が成立しえなかったように思われる。加えて、台南、高雄の調査に際しては大葉大学応用日本学科の葉漢鰲教授、同大学の蒲池なおみ氏、台湾宏森貿工有限公司の田中聡氏に、沖縄調査においては琉球大学の豊見山和行助教授および浦添市教育委員会の安里進文化課長にお世話になった。ここに記して謝意を表したい。
(文責:澤井 一彰)

参考文献一覧
浦添市教育委員会編『蘇る琉球国中山王陵浦添ようどれ』浦添市教育委員会、2000年 沖縄県立博物館編『琉球王国:大交易時代とグスク:復帰20周年記念特別展』沖縄県立博物館友の会、1992年
喜安幸夫『台湾の歴史』原書房、1997年
朱天順『媽祖と中国の民間信仰』平河出版社、1996年
張臨生、楊新編;西村康彦、田川純三監訳『故宮の至宝 台北故宮博物院・北京故宮博物院』日本放送出版協会、1993年
古家信平『台湾漢人社会における民間信仰の研究』東京堂出版、1999年
フレデリク・コイエット(生田滋訳)「閑却されたるフォルモサ」『大航海時代叢書第U期
第11巻 オランダ東インド会社と東南アジア』岩波書店、1988年
前嶋信次(杉田英明編)『前嶋信次著作選3<華麗島>台湾からの眺望』平凡社、2000年
三上次男「沖縄県勝連城跡出土の元染付片とその歴史的性格」『考古学雑誌』第63巻4号1978年
家島彦一「ムスリム海民による航海安全の信仰―とくにIbn Battutanの記録にみるヒズルとイリヤースの信仰―」『アジアアフリカ言語文化研究』No.42、1991年
李献璋『媽祖信仰の研究』泰山文物社、1979年
P.N.Boratav, "Khidrailyas", The Encyclopaedia of Islam CD-ROM Edition v.1.0, 1999.


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