「立憲君主制後期(1944-1952)エジプトの「貧困」対策をめぐる議論」
池田 美佐子(光陵女子短期大学)
<発表内容>
エジプトでは1940年代半ば頃から、農村の「貧困」問題がクローズアップされる
ようになった。それは、農地所有における不平等という厳然たる事実を前に、折から
のインフレや疫病、また30年代からつづいていた社会問題への関心のたかまり、な
どが背景となって生じたことであった。あらゆる層、あらゆる政治的傾向の都市知識
人が「社会公正」に関わるこの問題を論じた。
政府は「貧困」対策を行ったが、国有農地の分配や地主・小作人関係の規定など、支
配層の既得権益に抵触する性質を持った政策は骨抜きにされる傾向にあった。
そのような中、さまざまな論客が「貧困」対策について自説を主張したが、それらは
、(1)大土地所有制限と土地分配を志向するもの、(2)経済自体の発展を図れば
富は自然と農村に還流すると考えるもの、(3)そもそも「貧困」問題など存在しな
いと主張するもの、に分類可能である。
このうち農地所有の制限をめぐる議論の議会内外での展開を検討してみる。この議論
の中心になるのは、議会に農地所有制限の法案を提出したハッターブである。その案
はかなり穏健なものであったが、それでも議会では長期間の真審議のあと否決された
。この間、議会外ではハッターブと、農村を救うのは無料食堂であるとするワフバと
の論争など、さまざまな議論が戦わせられた。この間の状況をつぶさに検討してみる
と、Gabriel Baerが、当時の政党は一致して土地分配に反対し、改革を支持したのは
少数の知識人だけであったと述べているのが事実を反映していないことがわかる。議
会内にも体制を守ろうとする見地からとはいえ賛成派が存在したし、この問題が社会
的に広い関心を集めていたことを示す証拠もあるからである。ハッターブの法案は多
くの議論を生み出し、その過程で政府の対策の無効性が明らかになるにつれ、多くの
人々が農地所有制限を支持するようになったのである。
このような検討はまた、自由将校団による革命後の農地改革が、革命以前の議論を踏
襲していたことを明るみに出す。革命前後の連続性を評価する必要があろう。
<討論>
時代背景に関する質問・指摘:当該の時期が都市への移住のピーク期であるとの指摘
があった。農村からの流入民の存在もこの時期に「貧困」対策議論が湧き起こった一
因と考えられるのではないか、とするとこれらの論者の頭にあったのは実は都市近郊
の農村なのではないかということ。また、当該時期のエジプト経済に関し、当時の経
済の好調を指摘し、したがって、経済がよくなったのに貧富の格差の問題が解決され
なかったということもこのような議論が生じた背景に考えられるのではないかとの指
摘があった。
「社会公正」といった概念について:イスラームの伝統的な「社会公正」が、これら の議論の中で、たとえばアズハル勢力などによって称揚されたり、逆に諸論者によっ て攻撃されたような例はないか、「社会公正」観の断絶は意識されていたのだろうか 、という質問が出た。それに対しては、アズハルがすでに無力化していたことなどが 指摘された。また、近代以前から土地の均分といった考え方を持ち、実際に農地分配 を行った中国の例に照らして、そもそも農地制限という発想の淵源を近代以前にまで 求めることが可能かといった質問も出た。それに対しては別の参加者から、エジプト において農地分配や大土地所有の制限が今に至るまで成功していないのは、やはりエ ジプト社会の特性を示していると考えてよいのではないかとのコメントも見られた。
<総括>
どのような傾向を持った論者がどのような論陣を張ったかを中心に概観した発表だっ
たのに(「ので」?)、発表者には、「なぜ」「どうして」といった質問が多く寄せ
られることとなり大変だったと思う。しかし、そもそも「貧困」対策の議論自体、真
に切実なものとして行われていたのか、実は部分的にせよ「ためにする」ものだった
のか、といった疑問も含めて、参加者の質問には、「議論と社会」の連接に対する鋭
い感覚を感じさせるものがあった。有用な議論ができたと考えている。
(文責:森本 一夫)