プリシラ・スーチェク(ニューヨーク大学美術研究所)“Monumentalizing Piety:
Religious Practices and Mamluk Architecture”
マムルーク軍は十字軍を駆逐した後、モンゴル人をアイン・ジャールートで敗り、
「新アッバース朝」、つまり、モンゴルに滅ぼされたアッバース朝に代わるイスラー
ムの擁護者としてカイロに君臨した。実質上の最初のマムルーク朝君主サーリフ・ア
イユーブは1243年にサーリフ・ナジュム・アル=ディーン・マドラサをカイロに建
て、ファーティマ朝時代の建築技術・様式を継続しながらも、マドラサという新しい
宗教建築概念をカイロに紹介した。以後、マムルーク君主は宗教建築のパトロンとし
て自らを確立し、これらの宗教建築は新しくムスリムとなったマムルーク達がイス
ラームに対する敬虔さを示す場所であると同時に、共同体の支持を得るための手立
て、自らの子孫の経済的安定の方策となった。この施設は妻シャジャル・アッ=
ドゥッル(現実の最初のマムルーク君主)によって付け加えられた創建者の墓も含
み、マムルーク達に彼らの君主への忠誠を思い起こさせるものとなった。
サーリフ・ナジュム・アル=ディーン・マドラサに始まる初期のマムルーク建築
は、十字軍への勝利という軍事的誇りを体現したもので、マムルーク建築の「英雄時
代」と位置付けることができる。1284-5年のカラーウーン・コンプレックスでは十字
軍の要塞クラック・ド・シュヴァリエのファサードを手本とし、エルサレムの岩の
ドームを彷佛とさせる平面図を取り入れ、ダマスクスのウマイヤ朝モスクのミフラー
ブを再現するなど、その傾向が顕著に窺われる。1303年のナースィル・ムハンマド・
マドラサ、1310年のバイバルス・ハーンカーはいずれも「英雄時代」に属するが、次
の段階の特徴である「個人的」要素の萌芽が見られる。
14世紀半ば以降は、伝染病の流行や経済的破綻の結果、個人的な救済を求めるよう
になり、宗教への関心、クルアーンとスーフィズムの重視が進んだ。その結果、マド
ラサは住居的性格を多く持つようになり、小さな個室の数が増え、装飾化が進み、屋
内の中庭が作られるようになった。1386年のバルクーク・ハーンカー=マドラサは夥
しいクルアーン銘文で装飾されている。その他の装飾も多様で、クルアーン写本の彩
飾ページとの文様の類似も指摘できる。住居部分は3階建てとなり、高い階に私的な
空間が設けられ、大きな部屋は創建者の家族に充てられた。宗教的性格よりも住宅的
性格が強くなってきたのである。1472-74年のカーイトベイ・コンプレックスでは更
に宗教建築と住宅建築が溶け合い、細密な装飾が施された。総合して言えば、マム
ルーク朝建築にはパトロン自身の宗教的立場が如実に反映されているのである。
(文責:桝屋 友子)