イスラーム地域研究5班
研究会報告

cグループ「比較史の可能性」第5回研究会
国際ワークショップ「所有、契約、市場」報告
International Workshop of Comparative Study
"Ownership, Contracts, and Markets"

日時   : 2000年9月24日(日)12:30〜18:00
場所   : 東京大学東洋文化研究所・3階大会議室
参加人数 : 35名


 第5回比較史研究会は、昨年の研究会でとりあげた「所有、契約、市場」をテーマに、海外から3名の研究者を招聘して、国際ワークショップの形で開催した。当日は、交流史グループのワークショップの報告者として来日したR.Klein氏(チュービンゲン大学)や総括班招聘の B.Fragner氏(バンベルク大学)も参加し、にぎやかな会となった。
 幹事を代表して三浦徹の趣旨説明(ここをクリック)ののち、3つの報告とそれについてのコメントと質疑、および総合討論の形で進めた。3氏のペーパーはあらかじめ配布され、当日は、主要な論点や交差する問題を論じる形で報告が行われた。報告者の最終的なペーパーは、12月にホームページに掲載し、コメントや観戦記とあわせて、IAS Proceedings Series 第3号として刊行する。ここでは、報告、コメント、質疑の要点をまとめた。(文責 三浦 徹)



1.幹事挨拶(英文)    三浦 徹



2.第一報告:Barbara Watson Andaya (University of Hawai'i)
"Orality, Contracts, Kinship and the Market in Pre-Colonial Southeast Asia"

<報告要旨>
 アンダヤ氏は、前植民地時代の東南アジア(とくに島嶼部)における契約を主題とし、文書契約と口頭契約の使用には、地域、階層、目的による差があることを示した。在地社会では、血縁(擬制的血縁を含む)を基礎に信頼関係が築かれ、そこでは口頭の契約や信頼関係が柱となっていた。しかし、長距離交易では、親族関係に頼ることはできず、文書契約や信用取引の仕組みがインドやイスラーム世界から持ち込まれたが、島嶼部においては、依然として、誓約や口頭契約が決定的であった。文書契約の範囲が長距離交易の範囲に限られていたことは、親族構造とリテラシーの低さに関係し、また法廷の力も弱かった。しかし口頭契約と文書契約は、対立的に捉えるべきではなく、地域と状況によって、使いわけられ、連結していた。また、一時妻temporary wifeがブローカーの役割を果たしたり、文書契約がマジカルな力を持つものと意識されたように、親族関係も文書契約も、その機能は固定的ではなく、相補的な役割を果たしていた。

<コメント> 弘末 雅士(立教大学) (英文)
 東南アジアの港市における交易では、内陸部の産地と海外からの貿易商人との仲介者が重要な役割を果たしていたこと、仲介者のあり方によって、口頭と文書契約、貿易と密輸の違いが生じてくるのではないかと提起した。

<質疑> 主として、口頭と文書契約の使い分けに関して議論が交わされた。



3.第二報告:R. Bin Wong (University of California, Irvine)
"Comparative Perspectives on Chinese Dynamics of Economic and Political Change"

<報告要旨>
ウォン氏は、中国とヨーロッパの16-19世紀の経済発展の差異について、マクロな視点から議論を展開した。比較研究のあり方に対して、注文もだされた。

<コメント> 青木 敦(岡山大学) (英文)
主として、比較研究における方法論上の問題点および経済学の適用可能性の問題を指摘した。

(答 基本条件は同じだと考えているが、LandesとFrankeのスタンスの違いは対照的な例になるだろう。私はLandesの議論とは異なる。また「制度が重要」といっても、法制だけでなく、様々なものがある。契約や取引費用の観点だけでは、経済発展は説明できないと考える。宋代経済について、例えば明清よりも労働生産性が高かったと具体的に証明するのは難しい。ご指摘のD.Littleについては、確かに立場の変化が見られる。)

<質疑>



4.第三報告:James Reilly (University of Toronto)
"Local and Regional Markets in Ottoman Bilad al-Sham (Syria) during the 18th and 19th Centuries"

<報告要旨>
 レイリー氏は、シリアの3つの地域(ハマー、ダマスクス、シドン)を取りあげ、地域的市場圏の形成、それを連結する制度(契約やネットワーク)、19世紀における国際市場への対応の3つの点から論じた。

<コメント> 加藤博(一橋大学) (英文)
大塚史学の農村の局地的市場圏から国民経済への発展理論を紹介し、

  (答 マクロな比較研究の場合は、オスマン帝国というような単位となるが、今日のペーパーでは、ダマスクスやハマーのよう複合的な市場経済complex market economyを基礎単位として議論した)

<質疑>



5.総合討論



6.観戦記(英文)  池田 美佐子(光陵女子短期大学)



7.雑 感
「比較研究の方向」 三 浦 徹(お茶の水女子大学)

 3人の報告は、いずれも、比較研究のやり方のモデルを提示するものであった。ウォンさんは、16−19世紀の中国とヨーロッパの経済発展のダイナミズムを比較する、という形で、時間のスケールでも地域のスケールでもマクロな視野をとることで、比較の対象も目的もきわめてはっきりしていた。
 アンダヤさんは、契約を主題にすえ、東南アジアという地域のなかでの、地域や人間集団による契約のあり方の差異を描き、その差が、社会構造や社会関係と連関していることを示唆した。ウォンさんのが、時間軸にそった比較の整理であるとすれば、アンダヤさんのは、空間軸に現象を配置した比較ということができる。いずれも、巨視的な視野をもつことで、議論を説得的しているが、それは、豊富な材料に裏付けられている。インドやムスリム世界から商業・法律用語が導入されてもなお、janji(約束)、utang(借り)、sumpa(誓い)などの現地語が引きつづき用いられたという事実は、印象に残った。
 レイリーさんは、シリアという地域に対象を限定し、その内部での3つの地域の経済の構造や変化の差異に注目していた。その点では、ミクロな対象群の比較といえる。しかし、そこから、ウォンさんやアンダヤさんとは異なった問題群を抽出する。契約が口頭か文書かは、対象(動産か不動産か、日常のルーティンか恒久的か)の違いによって使い分けられたこと、また、シリアの市場の内在的な統合力に経済発展の原動力をみる。
 3人のコメントは、3つの報告の特性をさらに浮かび上がらせるものとなった。青木さんが、経済学の方法の比較研究への有効性を、弘末さんは仲介者、つまり交点での交わりのあり方を、加藤さんは地域モデルを設定する際の地理的・社会的な切り取り方を問題とした。
 今後の研究会のテーマやアプローチを考えるうえで、ウォンさんの注文が印象に残っている。彼は、所有や契約というテーマは「名詞」であり、これらをつなぐ「文法」が必要であると指摘した。たしかに、私的所有権が保証されていたか、契約行為が保証されていたか、と問うだけでは、中東・イスラム地域も、中国も、「市場社会」「契約社会」であるという以上の答えはでてこない。第4回の研究会で、テーマを「市場の関係論的秩序」と設定したことは、私たちの言い方でいえば、ゲームのルールを、ウォンさんの言い方でいえば、文法を問題にしようという意図であった。 ウォンさんの報告は、ヨーロッパと中国の「経済発展」の差異という座標軸を設定することによって、所有権、契約、市場と国家の関係、つまりは文法を問題にする方向を示した。AからBへの変化を座標軸とすることは、単なる異同の発見におわったり、その差異を社会の本質的な違いに還元させたりせずに、ダイナミズムを問題とするには、賢明な方向であろう。ウォンさんの比較のパラダイムを図式的に示せば、つぎのようになる。A地域がX→Yへと変化したのに対し、B地域のX→Zに変化した(もしくはXのまま)とすれば、その差が生じた原因は、X自体(ここでは所有権、市場、契約)にはないことになり、ウォンさんは、A地域とB地域の政治経済体制の差異にひとつの原因を求めた。
 しかし、ウォンさんの議論で気になるのは、経済「発展」という座標があらかじめ設定されていることである。発展したかどうか、あるいは発展の度合いを計る基準はなにか?仮に生産力や人口で経済発展を計ることができても、社会発展とパラレルにはならない。同じような疑問は、第4回研究会で原洋之介さんがとりあげたA.Griefの論文にも感じた。Greifは、マグリブ商人の集団的制裁やジェノヴァ商人のポデスタ制を取りあげ、経済の「成長や発展」にこれらの「非市場的制度」が寄与したことをもって、経済発展をもたらす制度が歴史的に多様であり、その比較を行おうとする。全体の趣旨には賛成であるが、ここでも、経済発展や成長が、暗黙の前提になっているのである。
 そもそも、歴史学はそのような変化の原因を探る学問であった。今日の歴史学にとって厄介なのは、比較研究の座標となるような定型的な変化=発展の図式が描けないことにある。ブルジョワ革命や産業革命が必然的な歴史の発展を示すものであるとすれば、その進路や形態をめぐって、マクロな地域間比較が可能となる。このイスラーム地域研究プロジェクトのなかでも、市民社会といったテーマでの比較研究が行われている。しかし、ここでいう市民社会は、ひろく民衆の社会活動や政治活動が展開される場の意味で、西欧近代の市民社会を歴史のゴールとする議論とは一線を画している。
 本研究会のねらいは、マクロな理論をつくることではなく、むしろ、地域社会の社会秩序を明らかにする共通の座標軸の発見にあるが、今回のワークショップの報告は、時間軸のうえでも空間軸のうえでも、視野を広くとることが、論点を明確にし、これを掘り下げるうえで有効であることがわかった。しかし、謂うは易く、行うは難い。巨視的な視野で議論することは、材料集めだけでも躓きかねない。その意味で、「所有、契約、市場」の比較研究にチャレンジしてくださった報告者に改めてお礼を申し上げたいし、なにより私自身もこのような挑戦をしたくなるような刺激をうけた。


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