イスラーム地域研究5班
研究会報告

「国際商業史研究会」第 9 回例会報告

日時 : 2000 年 6 月 3 日(土)13:30-17:30
場所 : 東京大学文学部・法文 1 号館 316 番教室
参加者数: 20 名


プログラム
 はじめに新入会員の紹介と参加者全員による文献情報の交換をおこなったあとで、森永貴子・根本聰両氏による報告がなされた。各報告につづいて質疑応答がおこなわれ、森永報告については旧ソ連の歴史記述のありかたとシベリア定期市(年市)の評価とのかかわり、中国史の側からのキャフタ貿易史研究、毛皮など取引商品にかかわる技術的知識、シベリア内陸の交通手段など、また根本報告についてはストックホルム周辺の地理的環境、メーラレン湖の水上交通上の役割などをめぐる議論がなされた。今回も直接イスラーム世界をあつかう報告ではなかったが、イスラーム研究者からも熱心な質問が出され、学問上の「地域間交流」は着実に進展した。


森永貴子氏の報告要旨

「イルクーツク定期市とシベリア商業網―18 世紀末から 19 世紀前半を中心に」

 1767 年以降東シベリアのイルクーツク市で開催された定期市は、ロシアと清の 国境取引であるキャフタ貿易の利益に基づく様々な商業活動を統制するため、政府 の命令で始まった。イルクーツクでの商取引についてはヨーロッパ・ロシア商人、 他の身分の商業従事者といった商売上の競争相手に対してイルクーツク商人の根 強い反発があり、こうした状況の中でイルクーツク定期市は帝国内のあらゆる地方 と階層の者が自由に商品を取引出来る「場」となった。
 同じ時期キャフタ貿易の主力商品であった毛皮を求める商人の活動はアメリカ 北東岸にまで達し、彼らはシベリアの水路網を利用して商品の搬送を行った。シベ リア各地の定期市とヨーロッパ・ロシアを結ぶ商業網の確立はイルクーツクを東シ ベリア流通の中心へと成長させ、イルクーツク定期市に流入した商品品目はキャフ タ貿易の取引を反映して国際色豊かなものとなった。中でも大部分を占めたのはシ ベリアの毛皮、中国の布製品であったが、19 世紀半ばにはシベリアの農産物、中国 の茶へと比重が変化してくる。またヨーロッパ・ロシアを通じて西ヨーロッパ、中 近東の商品も流入し、イルクーツク定期市は単なる周辺地域への商品供給拠点とし てだけでなく、ヨーロッパとアジアを結ぶ流通の結節点として機能した。


根本聰氏の報告要旨

「中・近世バルト海商業をめぐる諸問題―スウェーデンからみたバルト海の役割」

 バルト海には、ヴァイキング時代以来、西方からの前哨地ユラン半島基幹部のヘー ゼビューからゴットランド島を中継地とし、スウェーデン中央部のメーラレン湖地方 に至る交通幹線が定着していた。さらにこの海をフィンランド湾方面に進むならば、 ロシア、黒海、カスピ海へと、大河川を利用した商業網が開けていた。かかる略奪・ 交易の舞台として東西交通を繋ぐバルト海は、キリスト教化とドイツ人の拡張ととも に国際商業の形成をみる。その決定的転換点は 13 世紀中葉のメーラレン湖の出入口 におけるストックホルムの建設である。以後、この湖は施錠化され、湖内からの穀物 ・鉄・銅の物流は一局に集中し、湖内への船舶進入も遮断された。かくしてストック ホルムはハンザの積換地として急速に成長する。これはスウェーデンの国家形成とそ の対内・対外商業のステープル化を促進し、ハンザ商人側もこの事態に順応していっ た。当都市のさらなる発展要因としてボスニア・フィンランド海域産物(魚類と毛皮 等)の輸入規制策、いわゆる平民的交易活動(農民航行)の摂取を狙った「ボスニア 海域商業強制」の意義も見逃せない。しかし、北方・東方植民に伴って新興交易地が 創出されると、それ自体が対抗勢力となり、在来の農民航行にも足場を与え、規制に 綻びが生じた。他方で、以上の伝統的な北方・東方(特にロシア市場)への志向性と 商業利害関心は、近世スウェーデンの拡張主義の種を宿すことになる。

(文責:深澤 克己)


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