イスラーム地域研究5班
研究会報告

5 班全体集会報告

 「イスラーム地域研究」研究班 5 「イスラームの歴史と文化」では、a グループ「芸術と学問の展開」が主催して、下記のとおりに全体集会を行った。カイロより建築史家オケイン氏を招き、建築関係をテーマに 4 人によって発表が行われた。

日時: 2000 年 1 月 23 日(日)13:00〜18:00
場所: 東京大学東洋文化研究所・ 3 階大会議室

発表者
  1. 陣内秀信(法政大学工学部建築学科)
    「アマルフィーとアルコス―地中海都市の空間構造」

  2. 及川清明(東京大学大学院新領域創成科学研究科)
    「要塞集落の居住形態―イエメンとモロッコの伝統的住居」

  3. 泉田英雄(豊橋技術科学大学工学部建設工学系)
    「イスラーム受容とジャワ都市:ラサムを事例に」

  4. バーナード・オケイン(カイロ・アメリカ大学人文社会科学学部アラビア学科)
    「アフガニスタンのウズベク建築」

コメンテーター
  1. 羽田正(東京大学東洋文化研究所、イスラーム地域研究第 5 班代表)


[ (1) 陣内発表 ]

 陣内氏はスライドを多用し、地中海世界におけるヨーロッパ側の都市の中でも、イスラームの都市との共通性をもつ二つ の都市を取り上げ、フィールド調査の成果をふまえ、それらの空間構造の特徴について発表した。
 先ず、海洋都市として中世の早い時期から発達したアマルフィを論じた。直接イスラーム支配を受けることはなかったが、交易を結ぶなかから、文化的な大きな影響を受け、建築の様式、あるいは空間の形式の一部にアラブ・イスラームの影響を見せている。都市構造の次元でも、商業空間のつくり方、プライバシーを重視する住まいの在り方などに、アラブ世界と共通する特徴が見出される。
 次に、アンダルシアのアルコス・デ・ラ・フロンテーラについて論じた。イスラーム支配下で都市の骨格を形成し、大モスクの跡に中心の教会が、アラブの城の跡にアルコス公の館ができた。さらに、一般の住宅の大半はパティオをもつ形式を中世から受け継いできたが、そのパティオの形式は、アラブ都市のそれとは異なり、キリスト教社会の中で、半分街路に開く形式を取った。また一般住宅が、アラブの大家族で住む形式から、多数の非血縁の家族が一緒に住む集合住宅に転じてきたことを論じた。異文化が混淆したアルコスの建築と都市を読む方法を提示してみた。
 発表の後、1 階に窓を設けず 2 階に張り出し開口部を用いた事例について、眺望だけではなく安全性からの考慮があったのではないか、迷路状の町がなぜ発展したのか、アマルフィーのハンマーム跡についての希少性などの質問がなされた。陣内氏からは、地中海世界に共通する事象として、公的空間(商業地)と私的空間(住宅地)を分離する点が説明され、フォンダコ(隊商宿)を例にイスラーム政権下に入らなかったイタリア諸都市においてもイスラームへの文化的興味があったことが説かれた。

[ (2) 泉田発表]

 東南アジアでは 13 世紀末からイスラームに改宗する現地権力が現れるが、それが都市史にどのような役割を果たしたかについての考察は乏しい。本発表では、プシシールと呼ばれるジャワ島北海岸地域の都市、ラサムをケーススタディに取り上げ、ヒンドゥ王国時代からイスラーム王国時代までの都市形態と都市施設の変化を議論する。
 この地域では、16 世紀に入るとまずデマック王国、続いてラサム、グリシック、スラバラ、バンテン、そしてチレボンとイスラーム王国が成立し、それぞれ王都を建設した。成立過程を比較検討すると、ラサムはヒンドゥ王国時代の都市の骨格をイスラーム時代においても維持した。すなわち、ヒンドゥ王都のオリエンテーションとゾーニングを基本し、広場の西側にモスクを配置した。これは後のパジャン王国やマタラム王国の王都に大きな影響を与えたと考えられ、今後の調査が待たれる。
 発表の後、ジャワにおけるイスラーム王国時代の集中的商業区域の存在、インドネシアにおけるピラミッド形モスクの形態の特殊性とその起源について質問が発せられた。泉田氏からは第 1 の点についてはジャワにおいては古い商業区域が街区として見出せないこと、第 2 の点についてはヒンドゥーの集会施設からの影響が強い点が指摘された。

[ (3) 及川発表]

 及川氏はパソコン画面をプロジェクターで写して発表を行い、写真ばかりでなく GIS による都市解析画像をも提示した。
 モロッコやイエメンの伝統的集落には、閉鎖的で屹立した建築形態をもち、要塞然としたものが多い。今回の発表では、そのような要塞集落の調査事例を紹介しながら、集落の居住形態にみられる空間特性について解説された。
 モロッコのアトラス山脈南部における集落の典型はカスバである。カスバはベルベル人特有の居住形式であるクサールやティグレムトが起源とされるが、いずれの住居も外部に対して開口部が少なく、高い塀をその周囲に巡らせ、監視塔を設けているものもある。基本的には中庭型住居で構成される。
 これに対して、イエメンの集落は塔状住居で代表される。首都サナアの旧市街、サナア周辺の山岳集落、また、砂漠の摩天楼と呼ばれるシバームの街には、高いもので 7 階にも及ぶ塔状住居が凝集し、それぞれ独特な景観を呈している。
 要塞集落として防御すべき対象には三つの E、すなわち、Enemies、Elements、Eyes があげられる。それぞれ,襲来してくる外敵、日射や熱風、砂塵などの過酷な気候条件、そして、特にイスラームの女性が回避すべき外部からの視線を意味する、集落内部は高密度で複雑な居住空間が形成されているが、外部に対しては閉じつつも、採光や通風、プライバシーなどの居住条件を確保するために、人々は巧妙な空間装置を用意し、環境条件に見事に対応している。
 発表の後、視線への防御についてユダヤ化したベルベル族を例にイスラームという宗教性に起因するのかそれとも民族性に起因するのか、塔状建築に対する特別な呼称およびその屋根構法、近年における衛生施設の変容、村落と都市との区別について質問が発せられた。

[ (4) オケイン発表]

 オケイン氏の発表は、アフガニスタンのバルフとマザーリ・シャリフに建立された 5 つの建築について、従来のティムール朝建築説を否定し、史料および様式によってシャイバーニー朝時代の建築であることを指摘し、20 世紀初頭の写真および 1970 年代の写真を用いてアフガニスタンにおけるシャイバーニー朝の建築様式を解説した。
 マザーリ・シャリフの祠堂の南に 1930 年代まで存在した 2 つの墓廟のうち、西は 1526 年から 1544 年までバルフを統治したキスタン・カラ・ソルタンの墓で、東は不明ながらも同家の家族墓であると思われる。今はなき 2 つの建築の特色として、1. 8 つの窓を持つ円形のドラム、2. 十字形の墓室平面、3. スクインチ・ネットの架構法、4. ドラムのタイル細工のクーフィー書体があげられる。
 バルフの街の中心に建てられたハージャ・アブー・ナスル・パルサ廟は、1582 年から同地を統治したアブド・アル・ムミンが再建したもので、同家の家族墓として建立されたものであろう。1 面に大イーワーンを開口させた現状は未完の状況を現し、本来は 4 面にイーワーンを持ち、その間を 2 層の小部屋でつなぐ集中式の建物であったと考える。この形態に関しては、フマユーン廟、タージ・マハルへとつながるムガル朝墓廟建築との関係性が指摘できる。ティムール建築と異なる特色は、1. タイル細工の限定された色彩、2. タイルモザイクの一片の大きさ、3. 入口の建立インスクリプション、4. ミフラーブのナスターリク書体、5. 腰壁の比率、6. 複雑なスクインチ・ネットの.曲面架構、7. 壁面の多弁形アーチを用いた彩色、8. 仕上げ面を本体から浮かせる構法にある。
 バルフの旧市街北東隅にあるハージャ・アッカシャ廟もアブド・アル・ムミンが再建したものである。この建築におけるシャイバーニー朝建築の特色は、1. スクインチ・ネットのドーム移行部、2. ドラムのタイル細工にある。崩壊がはなはだしく復元が難しいながらも、本来大きなドーム室に十字形の墓室を接続させる平面計画を有していたが、設計変更により大ドーム室が中庭となり墓室への入口イーワーンもトンネル・ヴォ―ルとに改変されたと解釈する。
 バルフのソブハン・ゴリ・ハーン・マドラサは、街の中心広場に向かってハージャ・アブー・ナスル・パルサ廟と相対する位置にあり、入口部分のみが現存する。ソブハン・ゴリは 1651 年から 81 年までバルフを統治した人物で、ワクフ文書によれば相当大規模なマドラサであったことと推察され、街の中心部においてアブー・ナスル・パルサ廟の修理ともに対を成す建築として計画されたと思われる。
 発表の後、再建時におけるタイルの改変について、ティムール建築とウズベク建築におけるデザインに対する創立者の意図の相違、ティムール朝建築であると説かれた既往の研究とその根拠、モザイクタイルの色彩に関してなぜ限られた色が用いられたのか、サファヴィー朝建築とウズベク建築の関連性などの質問があがった。

[ (5) 羽田コメント]

 4 つの発表の後、コメンテーターの羽田氏より、多彩な研究ながらも日本人発表者の工学部的視点と、オケイン氏の史料を交えた研究との違いが説かれ、学問のあり方による日本における建築史学の偏在が指摘された。
 日本人発表者に関しては陣内氏、及川氏の説く、景観 (panorama)、眺望 (view) に関しては、通常のイスラーム世界においては、他人の生活を眺めることは禁じられており、中世の文書にもカイロのムカッタムの丘やアレッポの城砦を見晴台に使った記述は現れない。このようにイスラーム世界における特殊な側面に二人の研究者が注目していることは興味深い。イスラーム世界における眺望の実例としては、ティムール朝期に庭園建築(バーグ)がヘラート郊外に作られ、そこからヘラート市街の景観を楽しむ例があげられる。及川氏の指摘する、要塞都市、他者の視線がなぜイスラーム性なのか、ひいては建築や都市におけるイスラーム性への疑問が提示された。
 オケイン氏に関しては、イスラームの祠堂を扱った研究で完全なる結論に到達しイスラーム性を論ずる必要はない。今後は、日本においても史料研究と調査研究を融和させ、互いを保管しあう研究を進めることが重要であろう。
 コメントに関する発表者よりの意見を以下にまとめる。オケイン氏からは建築史には従来ヨーロッパ研究を中心とした学問体系があり、イスラーム建築を学ぶことの難しさが説かれた。陣内氏からは、「眺望に関しては街の立地による地理的要因が大きい。地中海都市とイスラーム都市との共通性に関しては、地中海世界の基層文化としての街がローマの街よりもむしろアラブの街に似ているのでは。」という仮説が提示された。及川氏からは世界に一つとして同じ町はなく経済、社会、宗教的な状況によって多様なタイプを設定することができよう。泉田氏は、「東南アジア研究の側面からみると地中海、中近東の都市形態がイスラーム的と捕らえられるのではないか。」と指摘した。
 今回の研究会では、同じ建築分野とはいえ、様々な地域を異なる関心領域から扱っていたため、個々の発表からは学ぶことが多かったが、議論がややかみ合わずに終わったことが残念である。

(文責:深見 奈緒子)


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