「現代イスラーム世界の動態的研究」グル‐プ5a 第3回研究会
1997.08.05
ダルガーをめぐるミクロポリティクス
―インド・ラージャスターン州メーワール地方の事例から―
三尾稔
(東洋英和女学院大学)
1.はじめに
・聖者廟への関心の契機
- 憑依神信仰への関心の延長
- ヒンドゥー・ムスリム間の紛争(一般にインドではコミュナル扮争と言う)に関する人類学的研究の1つの手がかり
・インドの聖者廟とコミュナル関係に関する言説(van
der Veer 1994による)
- 1947年以前ヒンドゥーのの参拝を拒まないスーフィー信仰は特にムスリム改革派から糾弾される
- 1947年以降ジャーナリズムや(国民会議派系)政治家ばその「シンクレティック」な性格を強調し、草の根レベルでのヒンドゥー・ムスリムの共存関係の象徴と捉える傾向が顕著(例えばNancy
1990など)
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・Veer 1994の問題提起
- シンクレティズムが存在したとしてもそれが即平和的共存につながるかどうかは必ずしも明らかではないし、シンクレティズムの内容そのものも不明確なまま。
実際、ヒンドゥーのイスラーム聖者廟信仰への参加は報告が散見されるが、このことのヒンドゥーにとっての意義はほとんど明らかにされてこなかった。信仰の内容の吟味を経ずに草の根レペルの共存を言うのはあまりに安易。
・本日の発表で取り上げる事例
- ヒンドゥーがムスリム聖者の第一の弟子と目されたのみならず、つい最近まで聖者廟儀礼の中心的役割を演じ、また廟堂の建設・管理運営を担ってきた。イスラーム聖者廟の中核的役割をヒンドゥーが担うというきわめて特異な事例
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- これを根拠に、これこそメーワール地方におけるハーモニアスなコミュナル関係の象徴という言説は同地方にも存在してきたし、聖者の弟子たちの子孫の中にもそのようなものとしてこの聖者廟を捉えようとする者もいる。しかし、現在この廟はムスリム化しており、80年代半ばの管理運営権その他のヒンドゥーからムスリムへの転換に際しては、複雑な駆け引きが見られ、争いそのものは完全には解決していない。このような抗争を背景にすると「ハーモニー」言説は違った意味合いを帯びてくる。
そこで、本日の発表の狙いは以下のようにまとめられる。
- イスラーム聖者廟における信仰のあり方、とりわけヒンドゥーにとっての意義に中心をおいた民族誌的記述
- 廟の建設と継承における、信仰の中核的信者たちの抗争の過程をできるだけ詳しく追う
- これらの抗争を通して、信者たちのアィデンティティやコミュナリズムをめぐる言説がどのように立ち現れてくるのかを検討する
2.メーワール地方の聖者廟(Dargah)の現在
1)3つの聖者廟が存在→本日取り上げるのはカパーサンの廟
2)カパーサンの聖者廟について
Baba Diwana Shah(生年不詳〜1844)の墓廟で規模は30ビガー(約22ha)程
アジメールの聖者廟とは直接関係はない
堂内施設・・
Babaの墓の他、モスク、マダルサ訪問者の宿泊施設、参詣者の休息施設、ランガルのための釜、
巨大な門などがあり、1958年以降現在も建設が続いている
現在は、ワクフ(waqf)委員会が管理運営にあたる
Babaには後継者となる聖者がおらず、ワクフ委員会が宗教施設の管理運営にとどまらず信仰に関
わる活動の中心的地位を占めている
廟の財政(廟には13,000kgの銀が蓄えられているともいう)
収益・・基本的には全て寄付金(寄付金の9割はヒンドゥーからともいわれる)
通常1ヶ月で10万ルピー程度
他に'urs(年祭)時に臨時に大量の寄付金が集まる
物品の形で寄付がされることも多い
その他 宿泊施設の賃料やチャッダルチャラーナーのための貸出料等
支出・・ワクフポードヘの上納金(年の収入の6%)
廟の使用人への給金(ワクフ委員じたいは無給の名誉職)
'ursの際の炊き出しや飾り付け費用
ムスリムの貧者への施し(1996年から検討中)
3)聖者廟での現在の信仰のあり方
日常的には ・ワクフ委員会が様々なイスラームの祭礼を組織し、執り行う
・モスクでの拝礼、ナマーズ等も
- Babaの墓のもつ呪力により様々な願い事をかなえてもらいに、ヒンドゥー・ムスリムを問わず多数の参拝者が来る
とりわけ悪霊の憑き物を落とすのに効験あらたか
木曜日、チャンドラダルシャンの夜、'urs期間中は効力が大きいとされる
'ursの開催 ・Babaの昇天(=神との永遠の合一)日を記念する年祭
- カパーサンではイスラーム暦サファル月の8日目 この日早朝にグスル・キ・ラスミの非議がワクフ委員の中心メンバーにより行われる
- 秘儀を挟んで8日間の祭礼ではコーランの朗誦、カッワーリーの演奏、炊き出しの振舞い等が行われ、夜店が多数出る
・願掛け等のために、多数のムスリム、ヒンドゥーが遠方からも参集
- アジメールのチシュティー廟においては、'ursはカッワーリーを中心とするようであるが(Currie
1989など)、カパーサンでは参拝者の集まり方や注目のされ方を見てもグスル・キ・ラスミが中心であるという意識が強い。従って、カッワーリーの主催者ではなくグスル・キ・ラスミの執行者こそが廟信仰の最高権威と見なされることになり、この執行権をめぐる争いが問題となってくる。
現在の形でワクフ委員会が昨日するようになり、同委員会が祭礼を執行するようになったのは1994年からである。それ以前は、廟の管理運営・祭札の執行は基本的にはヒンドゥーの高弟たちが中心となって行っていた。
3.カパーサン聖者廟の歴史
1)Babaの生存中
1875頃?
- Baba誕生 グジャラート州ディサ出身 生家はKasai(肉加工業)
- 結婚し、1男をもうける
1900頃?
- 家庭生活を放棄し、修行のための流浪生活にはいる
- マルワール地方やハリドワール等各地をめぐる
1920年代
- ナトゥドワラでKadak Ali ShahというRafai教団の聖者の弟子となり修行 バカーの境地を得、自らも聖者となる
30年代
- Kadak Ali Shahの命により、カパーサンに住み弟子を集める
- 最初のかつもっとも熱心な弟子(しかしMuridにはならない)
- Hari Ram Kurnawat
- Mangi Lal Vyas, Hira Lal Vyas兄弟
- Devi Lal Ojha等
- ムスリムの弟子(Muridとなった)
- Isak Chipaの一家
- Rajan Bai(パンジャブのブラーマンの娘)
- Mahumud Chipa等
- 他に、Sirohiのマハラジャ等富裕で社会的地位の高いヒンドゥーが多く彼の下に集まったらしい
- 教えの内容は曖昧だが、神と人との合一を目指した修行などはあまり目立たず、精神的安心を与える存在であったようだ。ヒンドゥーのBabaを慕う感情には、他のヒンドゥー聖者信仰との類似性があるように思われる。ムスリムにとってはBabaは人と神との橋渡しと捉えられていたようである。
1940頃
- 現在の廟の土地を将来の廟建設のため購入
- メーワールのマハラナの寄進申し出を拒否。Mangi
Lalの名義で購入。将来はMangi Lalがこの土地をBabaの息子の娘に寄進、ムスリムのmurid達がトラストをつくって廟を建設し管理運営する形態をBabaが指示。(証文も残っている)
1944.2.6
- Baba Diwana Shah昇天 その後ハリーファやサッジャーダナシーンがおかれるようなことはなかった
2)Babaの死後
- Mangi LalはBabaの孫娘への寄進を拒否 最も信仰の篤かったのはヒンドゥーの弟子達であり、財産の世襲は認められないと主張
- 財の所有権をめぐる紛糾中に、インド独立。この混乱のなかでトラストを構成すべきmuridがあちこちに散り、トラストは雲散霧消
1948
- ウダイプールのコレクターらの裁定により、この土地の所有権はMangi
Lalに認められる。彼はHari ramと私的なトラストを作り土地を管理。Hari
Ramはここに住み出す。Babaのマジャール作りが始まる。'ursも開始。'ursの組織はBabaの指示によりIsakの息子が行う。秘儀はHari
Ram中心。
1958
- Babaが夢でHari Ramに廟堂の建設を指示したとして、ダルガーの建設を始める。建設はHari
Ramが中心となって進め、Mangi Lalらが寄付を集める。寄付のほとんどはブラーマンから仰いだ。
1963
- Isakの息子Daud死去 その子Moor Mohammadが跡を継ぐ。
1968
- 廟堂の門が完成。この頃から一般の信者が多数参拝に訪れるようになる。
- 'ursの秘儀執行権をムスリムがとろうとするがHari Ramが拒否。次第にヒンドゥーの高弟とその子孫達はHari
Ramを師とするカルト的団結をするようになる。Hari Ram自身の呪力を求めて参集するヒンドゥー達も現れる。
1986
- Mangi Lal死去。土地と廟の所有権争いが再燃。Mangi Lalの息子somPrabhakarは正統な所有権者は自分であると主張。カパーサンやウダイプールのムスリム達はダルガーがイスラームの宗教施設である以上、これはワクフボード並びにワクフ委員会の所有管理下にあると主張。州政府の裁定でヒンドゥー・ムスリム半々のトラストを作る。
1987
- Hari Ram死去。後には年老いた妻のみ残り、子孫はいない。
- Noorの甥Nisarが1940年代の証文を持ち出し、本来の所有権はBabaの孫娘にあり、管理運営はトラスト構成者の子孫たる自分たちであると主張。州政府の再裁定。トラストをムスリムのみの構成(chipaのみの私的トラスト)に改める。
1994
- Shaikh, Pathansら他のムスリムが州の中央ワクフボードに私的トラストは財産を不正に運用していると訴え、ワクフボードの指示で全く新しいワクフ委員が指名される。同時にダルガーの財産はこの委員会の管理下にあることが確認される。
現在
- Som Prabhakarは地方裁判所に所有権を認定の訴えを準備中。
- Isakの子孫達も自分たちの正当性を裁判所に訴える準備中。
- またBabaの孫娘も最近姿を現し、独自に所有権を訴えている。
*一方Som PrabhakarらはHari
Ramの墓を作り、ヒンドゥーのみのトラストを作って年祭を行っている。しかし、この墓がサマディーなのかマジャールなのか、また年祭はイスラーム暦で行うかヒンドゥー暦で行うか、秘儀をなんと呼ぶか等についてはトラストメンバー間で必ずしも見解が一致していない。
4.廟の管理運営権を争う4つのグループ
廟堂の歴史はその管理運営権をめぐる争いにいろどられている。管理運営権はまた、秘儀であるグスル・キ・ラスミの執行権(つまりはこの廟の信仰における権威)の争いにも直結している。インドの代表的な他のダルガーにおいては、サッジャーダナシーン、ムタワッリーなどの職能分化が見られこれは一応「世俗的な権カ」と「宗教的権威」の分担と捉えられている(Mann
1992など)。カパーサンの廟においてはこれが一体化しているために、管理運営権をめぐる争いがそれだけ激しくなっていると考えられる。
ここで、争いの当事者たちの自らを正当化する根拠を整理し、それぞれの信仰やアイデンティティの特質を捉えておきたい。
1)ヒンドゥーの高弟とその子孫
- 信仰の深さ、グルとの「愛」の関係の深さこそが廟の管理権の主張の根拠。
- グルの超人的なカを実感し、グルに献身的に奉仕し、そのカの恩寵を受けることが信仰の核心にあった。廟の建設もこの宗教的熱情の表現であったと考えられる。
- 廟堂建設の過程で、逆説的な結果として、超人的努カを続けるHari
Ram自身に自身にカを認め、彼をグルとするような人々も現われてくる。この人々にとっては信仰の対象は何か抽象的なものではなく、力を体現する具体的な人なのである。彼らはイスラーム的形式をとどめつつ、折衷的な信仰集団を形成しつつあったと言える。
- 彼らは現在は、廟堂がもともとコミュナルな対立を超える信仰の象徴であったのだと主張し、ヒンドゥー対ムスリムという対立を持ぢ込んだchipa及び現ワクフ委員会を非難している。
2)Chipaの家族
- Hari Ramの発言カの強かった生前は彼に従ったが、彼をグルとは認めない。
- 彼らの管理権の主張の根拠はムリッドであったこと及びBabaの遺言である。Babaとの人格的関係が強調されるが、Babaはあくまで神との仲介者でありグルの力に信仰の対象をおくヒンドゥーとは微妙なずれがある。
3)Babaの孫娘
- 管理権の主張の根拠はBabaとの血縁関係。信仰の内容などは不明。
4)現ワクフ委員会
- Babaとの人格的つながりはなく、外面的なアイデンティティこそが管理権主張の根拠。外的行為により、イスラームのものかヒンドゥーのものかという判断を先行させ、これで機械的にアイデンティティを判断しようとする姿勢。現代ラージャスターン州政府の姿勢に近い。
5.まとめ
・同一の聖者(廟)に関する信仰であっても、信仰集団に参加する人々の意味づけは微妙に異なっており、ここに「シンクレティズム」という実体を想定することは困難。信仰に関わる者たちの中核部分に行けば行くほどこの傾向は顕著。
・また、この廟の歴史は、所有権=秘儀執行権の争いで彩られており、「ハーモニー」はここでは見いだし難い。同時に争いの当事者間の関係は複雑な3つ巴、4つ巴となっており、ヒンドゥー・ムスリムの対立という図式だけでも捉えきれない。
・ヒンドゥー・ムスリムの分裂線は、廟堂信仰集団内の争いを所有権争いに還元し、所有権の帰属を信仰の外的行為から機械的に判断しようとする現代ラージャスタ一ン州欧府の裁定に最も色濃く現れており、その点ではコミュナル対立は「外部」から2次的に持ち込まれているという解釈が成り立つように見える。今のところ、この廟においてはこの現代州政府の言説が優勢になっており、これを最も色濃く担う新ワクフ委員会が管理運営権を握っている。しかし、繰り返すが、最初に実体としてハーモニアスな信仰集団があってそこに対立が外から持ち込まれるということではないことを確認しておきたい。
・同時に現在はコミュナルな言説は、対立であれ融和であれ、廟堂信仰集団内の紛争の当事者に主体化されており、それぞれの立場の正当性を主張する根拠となっている。当事者たちはあり合わぜの言説を取り込み、主体的に操作しながら自己の利益を獲得しようとしているのであり、コミュナルな言説は紛争当事者間の争いという状況の中で解釈するぺきものであることがあらためて確認される。
参考文献
- Currie, P.M., The Shrine and Cult of Mu'in Al-din Chishti
of Ajmer, Delhi: Oxford University Press, 1989.
- Mann, E.A., "Religion, Money and Status: Competition
for resources at the Shrines of Shaf Jamal, Aligarh," in
Christian W.Troll (ed.), Muslim Shrines in India, Delhi:
Oxford University Press, 1992, . pp.145-171.
- Nandy, Ashis, "The Politics of Secularism and the Recovery
of Religious tolerance," in Veena Das (ed.) Mirrors of
Violence: Communities, Riots and Survivors of South Asia,
Delhi: Oxford University Press, 1990, pp.69-93.
- van der Veer, Peter, Religious Nationalism: Hindus and
Muslims in India, Berkeley: California University Press, 1994
[イスラーム地域研究ホームページ]
[研究班5ホームページ]
97.9.2
E-mail:5jimu@culture.ioc.u-tokyo.ac.jp
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