【序 章】より
豊子愷(ほうしがい、一八九八-一九七五)という名前を聞いて、多くの人が直ちに連想するのは「子愷漫画」と称される独自の挿絵であり、『縁縁堂随筆』に代表される散文であろう。豊子愷はまた、晩清から民国初期の中国文芸界で活躍し、一九一八年に出家した高僧、弘一法師(俗名李叔同)の芸術および仏教両面における高弟としても知られているが、その「ある種、仏教哲理に基づいた観点で生活を観察し、世俗の事象に事理を見出し、些細な事物について読者を飽きさせることなく見事に語る」散文や、「極めて日常的でありながら、(中略)質朴さの中に深遠で果てしない趣を含む」漫画は、上海など都市部の新興知識階級を中心に絶大な人気を博した。豊子愷はそのほかにも芸術教育に関する著述や翻訳を多数発表し、『源氏物語』や夏目漱石『草枕』などの翻訳を手がけ、また立達学園や開明書店の創設にかかわるなど、多方面で活躍した。中華人民共和国の成立後、毛沢東の「文芸講話」路線が文学や芸術全般における国家全体の指導指針として確立する中、豊子愷は活動の中心を漫画や散文の創作からロシア語や日本語の翻訳へと移行させた。しかし一方で、中国美術家協会常務理事や中国対外文化協会上海分会副会長などの要職に任じられ、本人の意思とは裏腹に体制に組み込まれていく。
本著では豊子愷の思想的特質を分析し、また民国期における豊の多彩な活動との影響関係について論じる。それによって、一九三〇年代上海に〝海派〟文壇や左翼文壇のほか〝京派〟文壇と同様に、「国民党の専制体制を憎悪するいっぽうで、中国共産党主導の革命に不安を抱」き、啓蒙による国民の創生と国家建設を目指した「開明同人」の文壇が存在し、都市の新興知識階級を中心に、少なからぬ影響を及ぼしていたという点についても考察したいと思う。
序 章 | |
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第一章 自己確立のための模索 | |
第一節 | 浙江省立第一師範学校 |
第二節 | 民国初期の教育思潮と蔡元培 |
第三節 | 経亨頤の「人格主義」と李叔同 |
第四節 | 全体主義への嫌悪と個人主義の萌芽 |
第二章 李叔同と「西洋芸術・文化の種」 | |
第一節 | 南洋公学と蔡元培 |
第二節 | 滬学会と西洋音楽 |
第三節 | 日本での活動(一九〇五―-一九一一) |
第四節 | 帰国後(一九一一-一九一二) |
第五節 | 浙江省立第一師範学校(一九一二-一九一八) |
第三章 漫画家「豊子愷」の誕生と時代の潮流 | |
第一節 | 李叔同の出家 |
第二節 | 浙江省立第一師範学校と五四新文化運動 |
第三節 | 西洋美術への憧憬と絶望 |
第四節 | 竹久夢二との出会い |
第五節 | 大正期新興芸術運動と豊子愷 |
第四章 愛国的「啓蒙主義」の試みと挫折 | |
第一節 | 白馬湖春暉中学 |
第二節 | 立達学会 |
第三節 | 立達学園 |
第四節 | 開明書店 |
第五章 初期仏教観――仏教帰依から無常観の克服まで | |
第一節 | 上海モダンライフから仏教へ |
第二節 | 『護生画集』第一集(一九二五年)と新興知識階級 |
第三節 | 「無常の火宅」と馬一浮 |
第六章 思想的円熟――「生活の芸術」論の形成 | |
第一節 | 抗戦期の豊子愷とその思想――仁者無敵 |
第二節 | 豊子愷の芸術観 |
第三節 | 芸術と宗教による煩悩からの解脱 |
第四節 | 生活の芸術化――モリスおよびラスキンの影響 |
第七章 童心説と「護心思想」 | |
第一節 | 豊子愷の求めた理想――童心における芸術と宗教 |
第二節 | 『護生画集』第二集(一九三九年)――日本侵略下のヒューマニズム |
第三節 | 『護生画集』第三集(一九四九年)――国共内戦下での護生思想の成熟 |
終 章 | |
年表・参考文献目録・あとがき |
大野 公賀 著
『中華民国期の豊子愷』
汲古書院, 360ページ
2013年2月